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玉造陽二さんの会社について、現役を引退したあとに何の仕事をしているのかを知りたいと感じている方は多いです。
玉造陽二さんは西鉄ライオンズの日本シリーズ3連覇を支えた俊足巧打の外野手で、黄金期の打線を動かした切り込み隊長として知られる名脇役ですよ。
その玉造陽二さんは31歳という若さでユニフォームを脱ぎ、引退後は工業用ゴム製品を扱う有限会社玉造ゴムの代表者という立場で実業家の道を歩んでいます。
プロ野球の世界から完全に離れた選択にも、本人なりの事情がありました。
この記事では会社の事業内容や所在地、実業家へ転じた経緯から13年の現役生活までを、公開情報だけをもとに整理していきます。
記事のポイント
①:現在の会社は有限会社玉造ゴム
②:事業は工業用ゴム製品の卸商
③:31歳で西鉄を自主退団し転身
④:所在地は東京都目黒区碑文谷
玉造陽二の会社は有限会社玉造ゴム|事業と所在地
- 有限会社玉造ゴムの会社概要
- 工業用ゴム製品卸という事業内容
- 31歳での引退と実業家転身の経緯
- 事務所の壁に残る西武のカレンダー
- 拠点は目黒区碑文谷|現在の姿
有限会社玉造ゴムの会社概要
まず、玉造陽二さんの会社について分かっている事実を、公開されている資料から順番に確認していきましょう。
玉造陽二のプロフィール
結論から言うと、玉造陽二さんは西鉄ライオンズ一筋で13年プレーした外野手で、引退後はゴム製品を扱う会社の代表者になった人物です。
読み方は「たまつくり ようじ」で、茨城県水戸市の出身ですよ。
下記の表は玉造陽二さんの基本的なプロフィールをまとめたものです。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 氏名 | 玉造陽二(たまつくり ようじ) |
| 生年月日 | 1936年8月17日 |
| 2026年11月02日現在の年齢 | 90歳 |
| 出身地 | 茨城県水戸市 |
| 身長・体重 | 174cm・75kg |
| 投打 | 左投左打 |
| ポジション | 外野手 |
| 出身校 | 茨城県立水戸第一高等学校 |
| 所属球団 | 西鉄ライオンズ(1955〜1967年) |
| 背番号 | 54→22→17 |
| 通算成績 | 1645試合・1282安打・39本塁打・367打点・打率.263 |
| 引退後の立場 | 有限会社玉造ゴムの代表者 |
注目したいのは、所属球団の欄が西鉄ライオンズだけで埋まっている点です。
1955年の入団から1967年の引退まで、他球団のユニフォームを着たことが一度もない生え抜きなんですよ。
現役時代は俊足巧打の外野手として切り込み隊長と呼ばれた選手でした。
この経歴を持つ人が、引退後はまったく別の業界で会社の代表者になっているわけですね。
身長174cm、体重75kgという体格は、当時のプロ野球選手としては標準よりやや大きいほうでした。
背番号は入団時の54から22を経て、1960年以降は17を背負い続けています。
有限会社玉造ゴムの会社データ
玉造陽二さんが代表者を務める会社は、有限会社玉造ゴムという名前です。
工業用ゴム製品を扱う卸商の業界団体の名簿に社名が載っており、そこに代表者として玉造陽二さんの名前が記載されていますよ。
以下の表で会社の基本データを整理してみます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 会社名 | 有限会社玉造ゴム |
| 代表者 | 玉造陽二 |
| 所在地 | 東京都目黒区碑文谷 |
| 郵便番号 | 〒152-0003 |
| 業種 | 工業用ゴム製品の卸商 |
| 加盟団体 | 東部工業用ゴム製品卸商業組合 |
| 所属支部 | 中央支部 |
会社の形態は株式会社ではなく有限会社です。
有限会社という制度は2006年の会社法施行によって新規設立ができなくなったため、いま残っているのはそれ以前に設立された会社になります。
つまり玉造ゴムは、少なくとも2006年より前から存在している会社ということですね。
玉造陽二さんが現役を引退したのは1967年のオフですから、会社としての歩みはかなり長いと考えられます。
所在地の目黒区碑文谷は、東急東横線の学芸大学駅や都立大学駅からアクセスできるエリアです。
西日本スポーツの取材記事でも玉造陽二さんの居住地は東京都目黒区と紹介されており、会社の所在地と同じ区内で一致していますよ。
組合の名簿では社名と代表者名、所在地、連絡先がセットで掲載される形式になっています。
玉造ゴムの欄も同じ形式で載っており、特別な注記は付いていません。
つまり業界内では、ごく普通に活動している1社として扱われているということですね。
社名に本人の姓が入っている意味
ここで気になるのが、会社名に玉造という姓がそのまま使われている点ですよね。
業界団体の名簿を見ると、ゴム関連の会社には創業者の姓を冠した社名が少なくありません。
玉造ゴムの場合も、代表者の欄に玉造陽二さんの名前が入っているため、本人と社名が直結している形になります。
名簿に並ぶ他社では、朝日ゴム工業や東京十川ゴムのように地名や既存ブランドを冠した社名も見られます。
そのなかで姓を社名にしているケースは、個人の信用を前面に出した同族経営の会社によくあるパターンですよ。
プロ野球選手として全国に名前が知られていた人が、その姓をそのまま会社名に使ったという見方もできます。
ただし創業の経緯そのものについては、本人が公の場で語った記録は確認できませんでした。
社名の由来を本人の言葉で裏づける資料はないため、ここは推測の域を出ない部分として押さえておきたいところです。
少なくとも代表者名と社名が一致している事実は、名簿上で確認できる客観的な情報になります。
玉造という姓自体は全国的に数が多い姓ではなく、同姓の別会社と混同する心配は小さいと言えますね。
野球ファンの間では、玉造ゴムという社名が玉造陽二さんの会社として知られている面もあります。
選手名鑑の情報を追う人たちが、引退後の肩書きとして社名を紹介しているケースがあるんですよ。
社名と人物が結びついて語られるのは、姓を冠した会社ならではの現象ですね。
会社の存在が確認できる公開資料
玉造陽二さんの会社を調べるうえで手がかりになるのは、大きく2種類の公開資料です。
1つ目が業界団体である東部工業用ゴム製品卸商業組合の組合員一覧で、ここに社名と代表者名が並んで掲載されています。
2つ目が西日本スポーツの連載記事で、引退後の仕事について本人の談話を交えて触れられていますよ。
この2つを突き合わせると、ゴム製品を扱う会社の代表者という線で情報が一致します。
一方で、会社の売上や従業員数、設立年といった細かい経営情報は公開されていません。
資本金や取引先についても、確認できる公的な発表は見つかりませんでした。
そのため玉造ゴムについて断定できるのは、社名と代表者名、所在地、業種という範囲までになります。
ネット上には年商や規模に関する数字を挙げる書き込みもありますが、裏づけとなる一次情報が示されていません。
ここでは根拠が確認できる情報だけに絞って整理していきますね。
会社の規模を知りたい人にとっては物足りないかもしれませんが、確かな情報を押さえるほうが結果的に役に立つはずです。
非公開の情報を推測で埋めてしまうと、記事そのものの信頼性が落ちてしまいますからね。
逆に言えば、社名と代表者名と所在地が公開資料で一致している点はかなり確度の高い情報です。
業界団体の名簿に出ているという形は、第三者が確認できる客観的な記録になります。
この土台があるからこそ、西日本スポーツの取材記事の内容とも照合できるわけですよ。
工業用ゴム製品卸という事業内容
ここでは玉造ゴムが属している工業用ゴム製品の卸という事業について、業界の仕組みから分かりやすく整理します。
工業用ゴム製品とは何を指すのか
結論から言うと、工業用ゴム製品は機械や設備の内部で使われる、表には出てこない部品の総称です。
タイヤや長靴のような消費者向けの製品とは、流通の形がまったく違いますよ。
代表的なものとしては、ホースやベルト、パッキン、Oリング、防振ゴム、ゴムシートなどが挙げられます。
どれも工場の生産ラインや建設機械、車両、空調設備といった現場で消耗品として使われる部材です。
種類とサイズの組み合わせが膨大にあるため、必要な品番をすぐ出せる業者の存在が欠かせません。
下記の表は工業用ゴム製品の主なカテゴリーと、使われる場面をまとめたものです。
| 製品カテゴリー | 主な用途 | 特徴 |
|---|---|---|
| ゴムホース | 油圧機械・給排水設備 | 耐圧と耐油の性能が問われる |
| 伝動ベルト | 工場の搬送ライン | 止まると生産が止まる消耗品 |
| パッキン・Oリング | 配管や機器の密閉部 | 寸法違いが多く在庫点数が膨大 |
| 防振ゴム | 機械の据え付け・建築 | 振動や騒音を抑える役割 |
| ゴムシート | 養生・緩衝・敷き込み | 切り売りの需要が大きい |
このように工業用ゴム製品は産業の土台を支える地味な部材が中心です。
華やかさはありませんが、止まったら困る現場が全国にあるという意味で需要が安定している分野ですよ。
ゴムという素材は、耐油や耐熱、耐薬品といった性能ごとに配合が細かく分かれています。
そのため同じ形の部品でも、使う場所によって選ぶべき材質が変わってくるんですよ。
この複雑さが、専門の卸商が必要とされる理由につながっています。
卸商という立場が担う役割
卸商は、ゴムメーカーがつくった製品を仕入れて、工場や工事会社などの使う側へ届ける中間の立場です。
単に荷物を右から左に流すだけの仕事ではありません。
現場からは「この機械の古いパッキンと同じものが欲しい」といった曖昧な相談が入ってきます。
そこで寸法や材質を聞き取り、代替品まで含めて提案できるかどうかが卸商の腕の見せどころになりますよ。
在庫を自社で持ち、必要なときにすぐ出せる体制が信用に直結する商売です。
取引先は中小の町工場から大手メーカーの工場まで幅広く、長い付き合いになるケースが多い業界でもあります。
いくら製品が規格品でも、誰から買うかは担当者同士の信頼で決まる面が大きいんですよね。
だからこそ、代表者の人柄や顔の広さがそのまま会社の力になりやすい業種だと言えます。
プロ野球選手として全国に名前が知られていた経歴は、少なくとも初対面の場では話のきっかけになったはずです。
もちろん名前だけで取引が続くわけではないので、実務での積み重ねがあって現在まで会社が続いているのでしょう。
急な設備トラブルで部品が必要になったとき、頼れる先があるかどうかは工場にとって大問題です。
だから卸商は、メーカーの代理ではなく現場の相談役という性格が強い商売になりますよ。
扱う品目が地味なだけに、価格よりも対応の速さと確実さで選ばれる面があります。
景気の波に左右されにくく、取引が長く続きやすいという特徴もあるんですよね。
東部工業用ゴム製品卸商業組合とは
玉造ゴムが加盟している東部工業用ゴム製品卸商業組合は、工業用ゴム製品の卸商が集まる業界団体です。
組合員一覧は支部ごとに分かれており、中央、神田港、京浜、墨東、京北、北関東、新潟、茨城といった区分が置かれています。
この区分を見ると、東京都内を細かく分けながら関東一帯から新潟までをカバーしている団体だと分かりますね。
玉造ゴムが名を連ねているのはこのうち中央支部です。
中央支部には足立区や新宿区、目黒区など都内各所の会社が並んでおり、規模の大小を問わず多くの事業者が登録されています。
組合に加盟する利点としては、業界内の情報共有や共同事業への参加が挙げられます。
取引先から見れば、組合員であること自体が一定の安心材料になる面もありますよ。
名簿に長く掲載され続けているという事実は、会社が継続して事業を行っていることの裏づけにもなります。
玉造ゴムは代表者名を玉造陽二さんとして掲載されており、名義上も本人が会社を率いている形です。
ここ、気になるポイントだと思うので、新しい情報があれば今後もアップデートしていきます。
組合の名簿には朝日ゴム工業や東京十川ゴムといった社名も並んでいます。
足立区や新宿区に本拠を置く会社も掲載されており、顔ぶれは多様ですよ。
それぞれの会社が代表者名と所在地、連絡先を公開する形で名を連ねています。
こうした名簿が公開されていることで、取引先が業者を探す手がかりにもなっています。
製造販売と卸商という2つの記載
調べていくと、玉造ゴムの事業内容について少し表現の違う記載が見つかります。
西日本スポーツの記事では「ゴム製品を製造販売する会社経営者」と紹介されているんですよ。
一方で業界団体の名簿では、卸商の組合に加盟する会社として掲載されています。
以下の表で情報源ごとの記載内容を整理してみます。
| 情報源 | 会社に関する記載 | 読み取れること |
|---|---|---|
| 西日本スポーツの連載記事 | ゴム製品を製造販売する会社経営者 | 本人への取材に基づく紹介 |
| 東部工業用ゴム製品卸商業組合 | 有限会社玉造ゴム・代表者は玉造陽二 | 卸商の団体に加盟している |
| 野球ファンによる選手紹介 | 有限会社玉造ゴムの代表者 | 社名が一般にも知られている |
結論として、どの情報源でもゴム製品を扱う会社の代表者という点は一致しています。
製造販売と卸商という言葉の違いは、取材時の表現と業界団体の区分の違いと考えるのが自然ですよ。
卸商が自社ブランドの加工品を扱うケースもあり、両方の性格を持つ会社は珍しくありません。
いずれにしても、玉造陽二さんがゴム製品の分野で長く商売を続けてきたことは間違いなさそうです。
取材記事の表現は、読者に伝わりやすい言い方が選ばれるケースがあります。
ゴム製品の会社という説明に製造販売という言葉を当てるのは、ごく自然な書き方ですよね。
一方で業界団体の区分は、卸商か製造業かで組合そのものが分かれています。
この違いを押さえておけば、両方の記載が矛盾ではないと理解できますよ。
31歳での引退と実業家転身の経緯
では、レギュラーだった選手がなぜ31歳で現役を終え、会社経営の道を選んだのでしょうか。
1967年オフの自主退団という決断
玉造陽二さんが現役最後のシーズンを過ごしたのは1967年です。
この年は117試合に出場して3本塁打、打率2割4分7厘という成績を残しました。
数字だけ見れば「まだやれる」と思わせる内容で、世間を驚かせる引退でしたよ。
年齢も31歳ですから、当時の感覚でも早すぎる退団と受け取られたはずです。
本人は西日本スポーツの取材で「豊田さんを始め主力がトレードされたり、自分をよく知る球団幹部がやめたりしましたからね」と語っています。
この言葉のあと、玉造陽二さんは言葉少なになったと記事には書かれています。
さらに本人のもとにはトレードの話も浮上していたことが明かされていますよ。
球団の経費節減策に反発しての自主退団という形だったわけです。
13年間を西鉄ひと筋で過ごした選手が、他球団のユニフォームを着る未来を選ばなかったという話でもあります。
この決断があったからこそ、玉造陽二さんの経歴は西鉄ライオンズだけで完結しているんですよね。
玉造陽二さんの通算成績を見ると、最終年も70安打を放っています。
前年の1966年が打率2割2分5厘でしたから、むしろ数字は戻していた形ですよ。
この状態で辞めるというのは、成績ではなく環境が理由だったことを示しています。
西鉄以外のユニフォームを着ない選択が、結果として実業家への道を早めました。
31歳からの第二の人生のほうが、現役生活よりはるかに長くなっているわけですね。
西鉄が置かれていた厳しい状況
背景を知ると、この引退が個人的な事情だけではないことが見えてきます。
当時の西鉄は、本拠地である平和台球場の観客動員が低迷していました。
親会社の西日本鉄道は球団の経費節減に動き、高額年俸の選手を次々と手放していきます。
その象徴が、水戸の先輩であり玉造陽二さんが最も頼りにしていた豊田泰光さんのトレードでした。
黄金期を支えた主力が抜けていく流れのなかで、チームの雰囲気も変わっていったと考えられます。
下記の表は引退前後の流れを時系列で整理したものです。
| 時期 | チームと本人の動き | 背景 |
|---|---|---|
| 1963年 | 西鉄最後のリーグ優勝に貢献 | 自己最高の23盗塁を記録 |
| 1964年 | 通算1000安打を達成 | 打率.284で自己最高の11位 |
| 1966年 | 打撃成績が下降し出場が減る | 西脇興司や三好守に定位置を譲る |
| 1967年 | 117試合に出場して現役引退 | 主力の放出に反発し自主退団 |
| 引退後 | 実業家としてゴム製品の会社へ | プロ野球から完全に離れる |
この流れを見ると、1963年の優勝から数年で球団の環境が大きく変わったことが分かりますね。
玉造陽二さんの引退は、西鉄ライオンズというチームの黄金期が終わっていく過程と重なっています。
黄金期を築いた西鉄は、1963年の優勝を最後にリーグ制覇から遠ざかります。
その後は球団の身売りが続き、太平洋クラブやクラウンライターと名前を変えていきました。
玉造陽二さんの引退は、その変化が始まる入口にあたる時期でした。
プロ野球から完全に離れた理由
引退した選手の多くは、コーチやスカウト、解説者として野球界に残ります。
ところが玉造陽二さんは、そうした道をいっさい選びませんでした。
西日本スポーツの記事にも「プロ野球からは完全に離れてしまった」と書かれていますよ。
ここは少し意外に感じる部分ですよね。
通算1645試合に出場し、1000試合出場と1000安打を達成した選手であれば、指導者としての声がかかっても不思議ではありません。
本人が離れた理由をはっきり語った記録は見つかりませんでした。
ただ退団の経緯を踏まえると、球団との関係が円満とは言いがたい形だったことは読み取れます。
自分をよく知る球団幹部がやめたという言葉は、球団内に頼れる人がいなくなったという意味にも取れますね。
31歳という年齢なら、まったく別の世界で一から積み上げる時間も十分にありました。
結果として会社経営という道を選び、その後の人生のほうがはるかに長くなっているわけです。
当時のプロ野球選手の収入は、いまほど引退後の生活を保証するものではありませんでした。
そのため早い段階で別の仕事を始める選択は、現実的な判断でもあったはずです。
31歳なら、まだ商売の世界で一から信用を積み上げる体力も残っていますよね。
結果として、野球関係の肩書きに頼らない人生を選んだことになります。
この潔さが、玉造陽二さんという人の性格を表しているように見えます。
水戸から福岡そして東京への移動
玉造陽二さんの住まいの変化を追うと、会社の所在地にたどり着く流れが見えてきます。
生まれは茨城県水戸市で、高校までを地元で過ごしました。
1955年に西鉄へ入団すると、水戸から単身で福岡へ移ります。
福岡では1軍の大圓寺寮に入り、豊田泰光さんと水戸一高の同級生である橋本政雄さんと3人同部屋だったそうですよ。
右も左も分からない土地での生活を、先輩の豊田泰光さんが支えてくれたと本人は振り返っています。
引退後は福岡を離れ、現在の拠点である東京都目黒区に移っています。
会社の所在地が目黒区碑文谷であり、西日本スポーツの記事でも居住地が目黒区と紹介されている点は一致していますね。
水戸、福岡、東京と移りながら、最後に腰を落ち着けたのが目黒区というわけです。
文春オンラインの記事では、高校の同窓会名簿に名前と住所、電話番号が載っていたという話も出てきます。
同窓会との縁を保ったまま、東京で会社を営んできた姿がうかがえますよ。
福岡での13年は、玉造陽二さんの野球人生そのものと重なる期間です。
本人が語る思い出も、平和台球場や大圓寺寮といった福岡の場所が中心になっています。
一方で引退後の拠点は東京で、ゴム製品の商売を続けてきました。
目黒区という都心に近い場所を選んだのは、取引先を回りやすい事情もあったかもしれません。
水戸で生まれ、福岡で名を挙げ、東京で商売を営むという3つの土地をまたいだ人生ですね。
事務所の壁に残る西武のカレンダー
野球と縁を切ったように見える玉造陽二さんですが、会社の事務所には意外なものが掛けられていました。
事務所で見つかった1枚のカレンダー
西日本スポーツの記者が玉造陽二さんの会社を訪ねたとき、事務所の壁に埼玉西武ライオンズのカレンダーが掛けられていたと記事に書かれています。
プロ野球から完全に離れたと紹介された直後に、この描写が置かれているんですよ。
玉造陽二さんはそのことについて「OBの1人として応援していますよ」と語っています。
短い一言ですが、含みのある言葉だと感じませんか。
球団の経費節減策に反発して自ら退団した人が、半世紀以上たってもライオンズのカレンダーを飾っているわけです。
西鉄ライオンズは太平洋クラブ、クラウンライター、西武と名前と本拠地を変えてきました。
福岡の平和台から埼玉の所沢へ移っても、ライオンズという名前は残り続けています。
その系譜を今も気にしているという事実が、カレンダー1枚から伝わってきますね。
ここ、かなり印象的なエピソードだと思います。
会社の事務所という私的な空間に置かれているからこそ、本音に近いものが見える場面ですよ。
記者が事務所を訪ねたのは、連載の取材でシーズン開幕を控えた時期でした。
記事の最後は「後輩たちが躍動するシーズン開幕は、もう間もなくだ」という一文で締められています。
仕事場にライオンズのカレンダーを掛けておくという行動は、言葉よりも雄弁ですよね。
西鉄ライオンズ研究会というNPO法人が存在し、当時の写真を提供していることも記事から分かります。
球団の名前が受け継がれていく過程を、OBとして静かに見つめているわけです。
OBの1人という距離感
玉造陽二さんの言葉で特徴的なのは、自分を「OBの1人」と表現している点です。
西鉄黄金期の主力だった選手なら、もっと強い言い方をしてもおかしくありません。
ところが本人は、あくまで数いるOBの中の1人という距離を保っています。
この控えめな姿勢は、現役時代の人物像とも重なる部分がありますよ。
通算成績を振り返った取材でも「全部がライオンズでしたからね」という短い言葉で語っています。
記事には、この口調がどこか誇らしげだったと書かれていますね。
自慢するわけではないけれど、西鉄ひと筋で過ごした13年に対する静かな自負は感じられます。
球団との関係が円満でなかった過去と、OBとして応援する現在の気持ちが同時に存在しているわけです。
人の感情は単純ではないという、当たり前のことを思い出させる話でもあります。
会社を訪ねた記者だけが見られた光景として、記録に残ったのは貴重ですね。
通算1645試合という数字は、球団記録として27年間も破られませんでした。
それだけの実績がある人が、自分を特別扱いしない姿勢を保っているんですよ。
OBの1人として応援していますという一言に、玉造陽二さんの人柄が凝縮されています。
現役時代に貴公子と呼ばれた人物像とも、どこか重なる控えめさですね。
この距離感があるからこそ、取材を受けても話が過剰にならないのでしょう。
映画出演という珍しい経歴
野球と離れた話のついでに、現役時代の珍しい経歴も触れておきます。
1959年に公開された映画「鉄腕投手 稲尾物語」に、玉造陽二さんはチームメイトの1人として出演しています。
主役は同僚の稲尾和久さんで、玉造陽二さんは共演という形で画面に登場しました。
当時のプロ野球は娯楽の中心にあり、人気選手が映画に出ることも珍しくなかったんですよ。
また文春オンラインの記事では、雑誌の表紙を飾った写真が紹介されています。
博多の人々から「貴公子」と呼ばれたルックスが、こうした場に呼ばれる理由になったのでしょう。
野武士軍団と呼ばれた豪傑ぞろいのチームにあって、玉造陽二さんの存在感は少し違う方向を向いていました。
このあたりの話は、引退後にビジネスの世界でやっていけた背景とも無関係ではないかもしれません。
人前に立つことや、初対面の相手と向き合うことへの慣れは商売の場でも生きますよね。
選手としての記録だけでは見えてこない一面です。
鉄腕投手稲尾物語は、稲尾和久さんの活躍を題材にした作品です。
1958年の奇跡の日本一の翌年という公開時期を考えると、人気の絶頂期に作られた映画ですよね。
玉造陽二さんはその現場に、実際のチームメイトとして参加しています。
当時のプロ野球が社会的な注目を集めていたことが分かるエピソードですよ。
こうした場に呼ばれた経験も、引退後に人と向き合う仕事で無駄にはならなかったはずです。
80代後半での取材対応と情報発信
玉造陽二さんの近年の動きとして注目したいのが、取材への対応ぶりです。
西日本スポーツの連載「語り継ごう西鉄伝説」では、全5回にわたって本人の談話が掲載されました。
担当した記者は塩田芳久さんで、黄金期の逸話を一つずつ本人に確認していく内容になっていますよ。
ボールが焦げた匂いの話や、遊撃手の頭を越えた打球がスタンドに入った話など、伝説の真偽を語っています。
80代後半という年齢で、半世紀以上前の試合を具体的に語れること自体が驚きですよね。
文春オンラインの記事では、手紙でのやりとりに応じた経緯が明かされています。
水戸一高の後輩から届いた質問状に、鉛筆で直筆のコメントを書いて返送したそうです。
「ああ、手紙を読んだけど、何か質問があるなら紙で送ってくれる?」という電話の一言も記録されています。
この律義さと、ややぶっきらぼうな口調の組み合わせが玉造陽二さんらしさなのかもしれません。
会社経営のかたわら、こうして後世に話を残す役目も果たしているわけですね。
連載では盗塁や打撃の場面を、年号や相手投手の名前まで挙げて語っています。
記憶の細かさは、記録と照らし合わせてもずれが少ないんですよ。
文春オンラインの記事は文春野球学校の受講生が書いた原稿として掲載されました。
手紙のやりとりだけで成立した仮想インタビューという、珍しい形の記事になっています。
拠点は目黒区碑文谷|現在の姿
会社の所在地である目黒区碑文谷というエリアと、玉造陽二さんの現在の立場について整理します。
目黒区碑文谷というエリアの特徴
有限会社玉造ゴムの所在地は東京都目黒区碑文谷で、郵便番号は152-0003です。
碑文谷は目黒区の南西部に位置し、東急東横線の学芸大学駅と都立大学駅のあいだに広がる住宅地ですよ。
読み方は「ひもんや」で、地名の由来となった碑文谷八幡宮や碑文谷公園があるエリアでもあります。
目黒通りや環七通りが通っており、都心へのアクセスと住環境のバランスが取れた場所として知られています。
下記の表は碑文谷という立地の特徴をまとめたものです。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 所在する区 | 東京都目黒区 |
| 郵便番号 | 〒152-0003 |
| 最寄り路線 | 東急東横線の学芸大学駅・都立大学駅 |
| 主な幹線道路 | 目黒通り・環七通り |
| 地域の性格 | 都心に近い落ち着いた住宅地 |
| 近隣の施設 | 碑文谷八幡宮・碑文谷公園 |
工業用ゴム製品の卸商としては、都内の取引先を回りやすい立地だと言えます。
組合の中央支部に名を連ねているのも、この都内立地と関係していると考えられますね。
碑文谷は1丁目から6丁目まであり、住宅と小規模な事業所が混在するエリアです。
学芸大学駅の周辺は商店街が活発で、生活利便性の高い街として人気がありますよ。
目黒通り沿いには家具やインテリアの店が集まる区間もあります。
都心部に近いながら、落ち着いた空気のある場所という評価が定着しています。
会社の郵便番号152-0003は碑文谷を示す番号で、所在地と一致していますよ。
現在の立場は代表者のまま
業界団体の組合員一覧では、玉造ゴムの代表者として玉造陽二さんの名前が掲載されています。
代表者の交代を示す情報は確認できませんでした。
生年月日が1936年8月17日ですから、2026年11月02日現在の年齢は90歳になります。
この年齢で会社の代表者として名前が残っているのは、それ自体が珍しいことですよね。
西日本スポーツの連載が掲載された時点でも、会社経営者として活躍を続けると紹介されていました。
記者が会社の事務所を訪ねて取材できていることからも、実際に業務の場があることが分かります。
一方で、日々の実務をどこまで本人が担っているのかは公開されていません。
家族や従業員が支えている可能性もありますが、そこを裏づける情報は見つかりませんでした。
名義上の代表者という事実までが確認できる範囲になります。
断定を避けつつ、分かっている事実を押さえておくのが安全ですね。
有限会社は会社法の施行後も特例有限会社として存続が認められています。
そのため商号を変えずに事業を続けている会社が、いまも全国に多く残っていますよ。
玉造ゴムもその1社で、名簿上は従来どおりの表記で掲載されています。
代表者の欄が変わっていないという点は、会社の継続性を示す手がかりになります。
ただし登記上の役員構成までは確認できないため、断定は避けておきますね。
家族や後継者に関する情報
会社の話になると、家族や後継者について知りたくなる人も多いはずです。
結論から言うと、玉造陽二さんの家族構成に関する情報は公開されていません。
配偶者や子どもの有無、会社を継ぐ人がいるかどうかについても、確認できる発表はありませんでした。
西日本スポーツや文春オンラインの記事も、野球の話題を中心に構成されています。
家族に触れた記述は見当たらないため、本人が私生活を公にしていない姿勢がうかがえますよ。
現役時代の話題でも、語られるのはチームメイトや試合の場面が中心です。
豊田泰光さんや橋本政雄さんといった野球関係の人物については具体的に名前を挙げています。
この対比を見ると、公私をはっきり分けている人物像が浮かんできますね。
会社の後継についても、本人の口から語られた記録はありません。
新しい情報が出てくれば分かる部分も増えるので、今後もアップデートしていきます。
文春オンラインの記事では、本人が質問状に鉛筆で直筆の回答を書いて返送したとあります。
そこで語られているのも進路や入団時の心境で、家庭に関する話は出てきません。
西日本スポーツの連載も、試合やチームメイトの話題が中心に据えられていますよ。
本人が自ら発信する場を持っていないため、私生活の情報はほとんど表に出ていません。
この点については、無理に推測せず分からないままにしておくのが誠実な扱い方だと思います。
会社について断定できる範囲の整理
ここまでの内容を踏まえて、会社について何が言えて何が言えないのかを整理しておきます。
確認できる事実は、社名が有限会社玉造ゴムであること、代表者が玉造陽二さんであることの2点です。
加えて所在地が東京都目黒区碑文谷であり、工業用ゴム製品の卸商として組合に加盟していることも分かっています。
一方で設立年、資本金、従業員数、売上規模はいずれも非公開です。
取引先や主力商品についても、公開された資料では確認できませんでした。
玉造陽二さんの個人資産や役員報酬に関する情報も、公的な発表はありません。
ネット上で見かける年収や資産の数字は、根拠が示されていない推測と考えたほうがいいですよ。
この記事では、裏づけが取れる情報だけを扱う方針で整理しました。
玉造陽二さんの会社について少しイメージが湧きやすくなれば嬉しいです。
気になる人も多いはずなので、新情報があれば更新していきますね。
野球の記録については一次資料が豊富にあり、数字まで細かく追えます。
一方で会社の情報は、業界団体の名簿と取材記事の2つに限られているんですよ。
この情報量の差を意識しておくと、どこまでが事実かを見分けやすくなります。
玉造陽二が会社経営に転じた西鉄13年の軌跡
- 水戸一高から西鉄入団までの道
- 2年目に掴んだ切り込み隊長の座
- 日本シリーズ3連覇を支えた働き
- 通算13年の成績と球団記録
- 貴公子と呼ばれた人物像と打撃
水戸一高から西鉄入団までの道
会社経営の前にあった13年の現役生活について、まずは出発点となる高校時代から確認していきましょう。
茨城県立水戸第一高校での3年間
玉造陽二さんは1952年に茨城県立水戸第一高等学校へ入学し、野球部に入部しました。
水戸一高は1878年に創立された伝統校で、毎年東大合格者を10名以上輩出する進学校として知られていますよ。
野球部は「学生野球の父」と呼ばれる飛田穂洲を生んだ名門でもあります。
飛田穂洲は「一球入魂」という言葉を残した人物で、早稲田大学野球部の初代監督を務めました。
玉造陽二さんは左投左打の外野手として、中堅手のポジションで活躍します。
3年生になった1954年には、エースの橋本政雄さんとともに夏の甲子園に出場しました。
下記の表は高校時代から入団までの流れをまとめたものです。
| 年 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 1952年 | 茨城県立水戸第一高校へ入学 | 野球部に入部し中堅手に |
| 1954年 | 夏の甲子園に出場 | エースは橋本政雄 |
| 1954年 | 1回戦で中京商に完封負け | 中京商はこの大会の優勝校 |
| 1954年秋 | 西鉄のスカウト宇高勲が接触 | 慶大進学の希望から進路変更 |
| 1955年 | 西鉄ライオンズへ入団 | 橋本政雄とともに入団 |
この甲子園出場以降、水戸一高は春夏ともに甲子園の舞台から遠ざかっています。
つまり玉造陽二さんは、母校にとって最後の甲子園メンバーの1人なんですよ。
水戸一高の野球部は、最近になって公立では珍しい野球推薦の制度を導入しました。
2024年の選抜大会では21世紀枠の候補にも挙げられるまでになっていますよ。
そうした歴史のなかで、プロで活躍した卒業生としては数少ない例になります。
甲子園1回戦で完封負けした相手
1954年夏の甲子園で水戸一高が1回戦で当たったのは、愛知県代表の中京商でした。
結果は中京商のエース中山俊丈投手に完封され、初戦敗退に終わっています。
ただし相手の中京商は、この大会でそのまま全国制覇を果たした優勝校です。
組み合わせの不運という言い方もできますよね。
進学校である水戸一高が全国の舞台に立ったこと自体が、当時としては大きな出来事でした。
玉造陽二さんはこの試合を経て、プロのスカウトの目に留まることになります。
声をかけたのは西鉄ライオンズの名物スカウトとして知られる宇高勲さんです。
宇高勲さんは数多くの選手を西鉄へ導いた人物で、球団の黄金期を支えた裏方の1人でした。
甲子園での1試合が、その後の13年と会社経営へ続く人生の入口になったわけですね。
1回戦敗退という結果だけでは測れない意味を持った試合でした。
水戸一高は進学校として知られ、毎年東大合格者を10名以上送り出しています。
その学校が全国大会に出るというのは、それ自体が話題になる出来事でした。
チームのエースだった橋本政雄さんは、玉造陽二さんと一緒に西鉄へ入団します。
高校の同級生2人が同じ球団でプロのスタートを切ったわけですね。
福岡の寮では豊田泰光さんを含めた3人で同部屋になり、心強い環境でした。
甲子園での敗戦が、結果的に大きな縁をつないだ試合だったことになります。
慶応義塾大学への進学を断念した事情
意外なことに、玉造陽二さんは当初プロ入りを目指していませんでした。
本人が文春オンライン向けの質問状に書いた回答では「慶応義塾大学への進学を目指しておりましたが事情があり、プロの道へと進みました」とあります。
水戸一高は飛田穂洲の影響で早稲田大学野球部との縁が強い学校です。
そのなかで慶大志望だったという点は、少し変わった進路希望でしたよ。
結果として大学進学ではなく、高校卒業と同時に福岡へ渡る道を選びます。
家族や親戚、知人からは祝福されたものの、将来の不安もささやかれたと本人は振り返っています。
玉造陽二さんの入団直前にあたる1954年、西鉄は球団創設初のリーグ優勝を達成していました。
監督は三原脩さん、コーチには石本秀一さんという球界の重鎮が並ぶチームです。
本人も「不安の方がいっぱいで果たしてやっていけるのかどうか全く自信はありませんでした」と記しています。
野武士軍団と呼ばれた集団に高卒で飛び込んだのですから、当然の心境ですよね。
進学を諦めた具体的な事情については、本人は事情がありとしか記していません。
そのため家庭の状況なのか別の理由なのかは分からないままです。
結果としてプロ入りを選び、高校卒業と同時に福岡での生活が始まりました。
大学へ進んでいれば、まったく違う野球人生になっていたかもしれませんね。
高卒1年目は守備固めからの出発
1955年、玉造陽二さんは開幕からベンチ入りを果たします。
本拠地の平和台球場で行われた開幕戦のトンボユニオンズ戦では、代打として初出場しました。
1年目の起用法は、代打と右翼の大下弘さんの守備固めが中心でした。
年度別成績では71試合に出場し、71打数16安打で打率2割2分5厘という内容です。
注目したいのは、89打席のうち四球が16個もあるという数字ですよ。
打率は2割2分5厘ながら、出塁率は3割6分8厘まで上がっています。
この四球の多さは、のちに1番打者として評価される選球眼の表れでした。
盗塁も6個を記録しており、俊足を生かした起用がされていたことが分かります。
1年目から1軍で経験を積めたことが、翌年のレギュラー獲りにつながっていきます。
打率は低くても四球で出塁できる打者として、首脳陣の目に留まっていたのでしょう。
守備固めで起用された相手の大下弘さんは、球界を代表する打者として知られた選手です。
その後ろを守るという役割は、新人にとって責任の重い仕事でした。
1955年の西鉄には、三原脩監督のもとで優勝を経験した選手が揃っていました。
そのなかで高卒ルーキーが71試合に出られたのは、十分な評価だったと言えますよ。
本人も将来への不安を口にしていたぶん、この1年が自信につながったはずです。
翌年にレギュラーを掴む土台は、この1年目にできていたわけですね。
2年目に掴んだ切り込み隊長の座
ここでは玉造陽二さんのキャリアを決定づけた2年目のシーズンについて、具体的な数字と一緒に見ていきます。
1956年5月6日に初めての1番打者
1956年、玉造陽二さんは開幕当初も前年と同じ守備固めと代走の要員でした。
そこから先発メンバーに名を連ねるようになり、フル出場の機会も増えていきます。
転機になったのが5月6日の近鉄戦で初めて1番打者を務めた試合です。
この試合で2安打1打点1盗塁という結果を出し、以降は1番に定着していきました。
そしてこの試合を機に「切り込み隊長」という呼び名が代名詞になっていきますよ。
本人は「球数を投げさせ、2番以降の打者にピッチャーの球筋を見せる1番打者の役割と、球をじっくり見極める自分の打撃が合っていたのかもしれません」と語っています。
続けて「出塁すれば豊田さん、中西さんたちが返してくれますから」とも振り返っています。
1番抜てきの理由は選球眼だけではありませんでした。
それまで1番を打っていた仰木彬さん、塚本悦郎さん、河野昭修さんは全員右打者だったんですよ。
一塁に近くスムーズに走り出せる左の好打者という点に、三原脩監督が着目したと考えられています。
玉造陽二さんの打席での特徴は、ボールをじっくり見極める姿勢にありました。
この年は44四球を選んでおり、出塁率は3割7分に達しています。
1番打者が球数を投げさせれば、後ろに控える強打者が球筋を把握しやすくなります。
流線型打線と呼ばれた西鉄の攻撃は、この入口があって機能していたわけですよ。
規定打数に10打数足りなかった悲運
1956年の玉造陽二さんは136試合に出場し、390打数116安打、打率2割9分7厘を記録しました。
33打点、1本塁打、18盗塁という数字も残しています。
二塁打17本と三塁打7本という内訳が、長打力より走力で稼ぐタイプを物語っていますね。
ところがこの好成績は、打撃ランキングに反映されませんでした。
当時の打撃ランキングは現在の規定打席ではなく、規定打数で計算されていたんですよ。
パ・リーグの規定打数は400で、玉造陽二さんは390打数でした。
四球44個を選んだぶん打数が伸びず、わずか10打数足りずにランクインを逃したわけです。
本人は「この年の成績上位者は豊田さん、中西さん、毎日の山内さん、南海の杉山さんで、3割超えもこの4人だけ。悔しかったことは覚えています」と語っています。
この件については三原脩監督が連盟に抗議しました。
その結果、翌年から規定打席で計算する方式に変わったと言われていますよ。
この出来事は、ルールそのものを変えるきっかけになった点で球史に残っています。
規定打数から規定打席への変更は、四球の多い打者が不利にならないための改正でした。
つまり玉造陽二さんの不運が、後の選手たちを救う形になったわけですね。
本人にとっては悔しい記憶でも、制度の歴史には残る一件になりました。
打率2割9分7厘というキャリアハイが、ランキングに載らなかったのは惜しい話ですよね。
三原脩監督が語った打撃の評価
玉造陽二さんの打撃について、三原脩監督が残した評価が記録に残っています。
「カーンという当たりではない。バシャッと冴えない当たりだが、ちゃんとヒットになっている」という言葉です。
この評価が、玉造陽二さんの打撃の本質をよく表しています。
本人は打球の方向について「単にインコースが苦手だったんですよ」と明かしています。
続けて「だからアウトコースを狙って、左中間、あるいはレフト線を意識して打ちました」と説明していますよ。
左打者が左方向へ打ち返すこの打法は、通称「おがみ打ち」と呼ばれます。
体はライト側を向いているのに、打球はなぜかレフト側へ飛んでいく不思議な打ち方です。
流し打ちに定評があったという評価は、この技術を指しています。
苦手を認めたうえで、打てる方向を徹底して磨くという考え方ですよね。
この割り切りの良さは、のちの会社経営にも通じる現実的な発想に見えます。
玉造陽二さんの通算二塁打は192本、三塁打は47本という内訳です。
本塁打39本に対して三塁打が47本というのは、俊足型の打者らしい数字ですよ。
ミートが上手く、俊足を生かした三塁打が多かったという評価も残されています。
おがみ打ちという独特の打法は、苦手を補うために身につけた技術でした。
派手さはないけれど結果を出すという評価は、現役13年を通して変わりませんでした。
2代目切り込み隊長への復帰
1957年、玉造陽二さんは成績を落としてしまいます。
打率2割3分6厘、安打数59本と前年の半分程度にとどまりました。
1番打者としての先発出場は減り、切り込み隊長の称号は高倉照幸さんへ移っていきます。
本人は「少し怠けていたというか、熱心さが足りなかったんですよ」と当時を振り返っています。
ただしこの年の4月7日の阪急戦では、パ・リーグ初のサヨナラランニング本塁打を放っていますよ。
俊足を象徴する一打で、ただ沈んでいただけのシーズンではありませんでした。
その後は1960年に初めて規定打席に到達し、打率2割6分3厘でリーグ19位に入ります。
1962年には13補殺を記録し、強肩を生かした守備でも貢献しました。
そして1965年ごろから再び1番に座り、2代目切り込み隊長を襲名しています。
一度譲ったポジションを取り戻すというのは、簡単なことではありませんよね。
1962年には打率2割8分1厘と20盗塁を記録し、安定した働きを見せています。
1964年には149試合で164安打を放ち、打率2割8分4厘でリーグ11位に入りました。
この年はオールスターゲームにも出場しており、キャリアで唯一の球宴出場になります。
通算1000安打もこの年に達成しており、キャリアの頂点と言える1年でしたよ。
一度は譲った1番の座を取り戻したうえで、自己最高の成績まで伸ばしたわけですね。
日本シリーズ3連覇を支えた働き
玉造陽二さんの名前が今も語られる最大の理由は、1956年から3年続いた日本シリーズでの働きにあります。
1956年第3戦の1試合3盗塁
1956年の日本シリーズ、相手は水原茂監督率いる巨人でした。
玉造陽二さんは全7試合に1番・中堅手として先発出場し、20打数8安打1打点を記録します。
打率4割という数字で、MVP級の活躍ですよ。
特に重要だったのが1勝1敗で迎えた第3戦です。
舞台は平和台球場で、西鉄は2回に広岡達朗さんへの3ランなどで4点を先制されてしまいます。
反撃は6回、先頭の玉造陽二さんがこの日3本目のヒットをレフト前に放ちました。
すかさず二盗を決めて無死二塁とチャンスを広げ、これがこの日3つ目の盗塁になります。
この1試合3盗塁は日本シリーズ記録として残りました。
玉造陽二さんは4番中西太さんの右犠飛で生還し、1点を返しています。
ここで巨人は好投していた先発の堀内庄さんを別所毅彦さんに代え、西鉄は8回に逆転して5対4で勝利しました。
この第3戦の逆転勝利が、シリーズ全体の流れを引き寄せました。
西鉄は第4戦と第6戦にも勝ち、4勝2敗で初の日本一を手にしています。
最優秀選手賞は打率4割5分8厘を記録した豊田泰光さんが受賞しました。
本人は「優秀なチームメイトに引っ張られたからやれたってことです」と謙そんしていますよ。
うれしかったこととして挙げたのが、後楽園のスコアボードの選手名板でした。
シーズン中は手書き文字だった名板が、日本シリーズでようやく同じ書体になったそうです。
1957年第2戦の代打内野安打
1957年の日本シリーズも巨人との対戦になりました。
この年の玉造陽二さんは8打数1安打という成績に終わっています。
ところがこの1本が、シリーズの趨勢を決める一打になったんですよ。
第2戦は河村久文さんと堀内庄さんの投手戦となり、8回まで0対0の展開でした。
9回表に巨人の宮本敏雄さんがソロ本塁打を放ち、均衡が破られます。
その裏、玉造陽二さんは先頭打者の高倉照幸さんの代打として登場しました。
マウンドにはこの回から藤田元司さんが上がっていました。
本人は「前年から苦手にしていた堀内さんは、この日も打てそうになかった。その堀内さんが交代して、ベンチの雰囲気は変わりました」と語っています。
結果は二塁内野安打で出塁し、続く豊田泰光さんの送りバントを藤田元司さんが悪送球してチャンスが拡大しました。
最後は河野昭修さんが右前にサヨナラ打を放ち、西鉄が4勝1分でシリーズ2連覇を達成しています。
この年のシリーズは、全試合が1点差という緊迫した展開でした。
西鉄の4勝1分という結果だけでは伝わらない、紙一重の勝負だったわけですよ。
もし第2戦を落としていれば、日本一の行方は分からなくなっていた可能性があります。
玉造陽二さんの1本が、その分岐点に置かれていたことになります。
シリーズの流れを引き寄せる男という評価は、この働きから生まれました。
1958年の奇跡の日本一と三原マジック
1958年の日本シリーズは、3連敗から4連勝した「奇跡の日本一」として知られています。
西鉄は初戦から2対9、3対7、0対1と3連敗を喫し、がけっぷちに立たされました。
玉造陽二さんは「さすがに今年は駄目かな、という雰囲気にベンチはなっていました」と振り返っています。
転機は第4戦前夜の雨でした。
本人の証言では「4戦目の朝、三原さんが選手を集め『どうする』と聞いたんです。みんな『できるなら延ばしましょうよ』となって、中止に」という流れだったそうです。
さらにシャワーを浴びていた玉造陽二さんに、三原脩監督が「ここまで来たらどうしようもないから、みんなで一杯飲んで来いよ」と声をかけたと明かしています。
そして第6戦では、玉造陽二さん自身が三原マジックの種になりました。
前日に2番ライトで先発予告されていたのに、三原脩監督は試合前のメンバー表交換で2番ライトに花井悠さんと書いて提出したんですよ。
水原茂監督は受け取りを拒否し、試合開始が40分遅れる事態になりました。
本人は「前の試合で与那嶺さんの飛球を捕ったとき、フェンスの金網に指をはさんで負傷してしまい、本当に先発出場は難しかったんです」と説明しています。
1963年の最後の優勝と日本シリーズ
玉造陽二さんは1963年にも日本シリーズの舞台に立っています。
この年は自己最高の23盗塁を決め、西鉄にとって最後となるリーグ優勝に貢献しました。
巨人との日本シリーズでは全7試合に左翼手として先発し、29打数9安打を記録しています。
打率は3割1分という好成績でしたが、チームは3勝4敗で敗れました。
本人も「3勝4敗で巨人に苦杯をなめた」という結果を今も覚えています。
この年は5月14日に通算1000試合出場を達成した年でもありますよ。
史上79人目の記録で、20代のうちに到達していますよ。
4度の日本シリーズ出場という経験は、西鉄黄金期の証そのものです。
1956年から1958年の3連覇と、1963年の最後の優勝をすべて経験しているわけですね。
この舞台での働きがあったからこそ、半世紀以上たっても取材が続いているのでしょう。
1963年は146試合に出場し、594打席で137安打を放っています。
四球60個という数字も自己最多で、1番打者としての役割を果たしていました。
日本シリーズでは左翼手として全試合に先発し、29打数9安打と結果を出しています。
この打率3割1分という数字は、4度のシリーズで最も安定した内容でした。
チームが敗れたため語られる機会は少ないものの、十分な働きでしたよ。
そして翌1964年には、通算1000安打という節目にも到達しています。
通算13年の成績と球団記録
ここでは玉造陽二さんが13年間で積み上げた数字を、球団史のなかでの位置づけとあわせて整理します。
通算13年の打撃成績の全体像
玉造陽二さんの通算成績は1645試合出場、1282安打、打率2割6分3厘です。
本塁打は39本と少ないものの、二塁打192本と三塁打47本を記録していますよ。
出塁率3割2分7厘、長打率3割4分6厘、OPSは6割7分2厘という内容です。
下記の表は主なシーズンの成績を抜き出したものです。
| 年度 | 試合 | 安打 | 打率 | 盗塁 |
|---|---|---|---|---|
| 1955年 | 71 | 16 | .225 | 6 |
| 1956年 | 136 | 116 | .297 | 18 |
| 1960年 | 134 | 117 | .263 | 16 |
| 1962年 | 128 | 117 | .281 | 20 |
| 1963年 | 146 | 137 | .262 | 23 |
| 1964年 | 149 | 164 | .284 | 10 |
| 1967年 | 117 | 70 | .247 | 6 |
| 通算13年 | 1645 | 1282 | .263 | 158 |
注目したいのは、2年目にレギュラーを掴んで以降は毎年110試合以上に出場している点です。
二軍に落ちることが一度もなかったという点も記録されていますよ。
1964年の164安打が最多で、同じ年に通算1000安打も達成しています。
打席数は5434で、そのうち四球が442個を占めています。
三振は664個で、打席数に対する割合はそれほど高くありません。
死球18個、犠打77個という数字も、1番打者としての役割を物語っていますよ。
通算の併殺打は44個にとどまり、走力の高さが数字に表れています。
派手な数字は少ないものの、13年を通して安定した出場を続けた選手でした。
1645試合という球団記録
玉造陽二さんの通算1645試合という数字には、特別な意味があります。
この出場試合数は、1994年に石毛宏典さんに抜かれるまでライオンズ史上トップでした。
つまり27年にわたって球団記録として残り続けたわけですよ。
現在はライオンズの歴代5位という位置にあります。
通算1282安打はチーム歴代10位で、同郷の先輩である豊田泰光さんをわずかに上回る数字です。
盗塁158個については源田壮亮さんに抜かれましたが、チーム歴代11位に入っています。
以下の表で球団史のなかでの位置づけを整理してみます。
| 記録項目 | 玉造陽二の数字 | 球団内での位置 |
|---|---|---|
| 通算出場試合 | 1645試合 | 1994年まで球団1位・現在5位 |
| 通算安打 | 1282安打 | 球団歴代10位 |
| 通算盗塁 | 158盗塁 | 球団歴代11位 |
| 通算本塁打 | 39本塁打 | 長打より出塁で貢献 |
| 節目の記録 | 1000試合出場と1000安打 | 生え抜きでは4人目の1000安打 |
1964年の1000安打達成は、生え抜き選手では中西太さんらに続く4人目の到達でした。
本人も「全部がライオンズでしたからね」と誇らしげに語っていますよ。
石毛宏典さんは西武の黄金期を支えた内野手で、1994年にこの記録を更新しました。
玉造陽二さんの引退から27年という歳月がかかったことになります。
源田壮亮さんが盗塁数を上回ったのも近年の出来事ですよ。
球団の歴史が長く続くなかで、いまも上位に残っている事実が実力を示しています。
連続打席無併殺打786の記録
玉造陽二さんの記録でもっとも個性的なのが、連続打席無併殺打です。
1955年4月3日から1957年10月8日までの786打席で、一度も併殺打を打たなかったという記録ですよ。
当時のパ・リーグ記録で、のちに東映の毒島章一さんが900打席で更新しました。
本人は「デビューした1打席目からの記録ですからね。左打者の特権でしょう」と笑いながら語っています。
この記録の価値は、数字以上に実戦的な意味にあります。
投手が併殺で切り抜けたと思っても、一塁に残って攻撃を途絶えさせないわけです。
記事ではこれが「くせ者」玉造陽二さんの真骨頂だと表現されていますよ。
通算の併殺打が13年で44個しかないという数字も、この傾向を裏づけています。
1試合3盗塁の日本シリーズ記録とあわせて、走塁に関する記録が多い選手でした。
派手な本塁打ではなく、こうした地味な数字で貢献するタイプだったんですよね。
記録は1955年のデビュー打席から始まり、1957年10月8日まで続きました。
約3シーズンにわたって併殺打がゼロだったわけですよ。
更新した毒島章一さんの900打席は1961年から1962年にかけての記録です。
この記録はパ・リーグの公式サイトでも個人打撃の連続記録として扱われています。
左打者で足が速いという条件が揃っていたことも、記録を支えた要素でした。
平和台球場での通算安打4位
面白いのが、本拠地だった平和台球場に限った通算安打のランキングです。
この球場で最も多くヒットを打ったのは高倉照幸さんの643本でした。
続いて豊田泰光さんが587本、中西太さんが537本と並びます。
そして4位に入るのが玉造陽二さんの527本ですよ。
本人は「ホームグラウンドですからね、やりやすかったのは確かです」と語っています。
ただし声援が大きい代わりに、不調時の野次も辛らつだったと明かしています。
そのうえで「でも関西の球場の方がすごかった」と続けていますよ。
印象的なのが大阪での野次のエピソードです。
大阪環状線に玉造という駅があるため、大阪球場で活躍すると「電車に乗って帰れ」と連呼されたそうです。
名前が駅名と同じという偶然が、こんな形で野次に使われていたんですね。
平和台球場は福岡市にあった西鉄ライオンズの本拠地です。
上位に並ぶ高倉照幸さん、豊田泰光さん、中西太さんはいずれも黄金期の主力でした。
そのなかに527本で入っている事実が、玉造陽二さんの出場数の多さを示しています。
本人は全部がライオンズでしたからねと、13年を1つの球団で過ごした誇りを語っています。
本拠地でこれだけ打てたのは、毎年110試合以上に出続けた継続性の結果ですよ。
記録を見るたびに、平和台という球場の記憶も一緒に残っていくわけですね。
貴公子と呼ばれた人物像と打撃
最後に、玉造陽二さんがどんな人物として見られていたのかを、周囲の証言から整理していきます。
博多っ子が付けた貴公子の呼び名
西鉄ライオンズは「野武士軍団」と呼ばれた豪傑ぞろいのチームでした。
大下弘さん、中西太さん、豊田泰光さん、仰木彬さん、関口清治さん、高倉照幸さんといった面々が並びます。
そのなかで玉造陽二さんは、博多っ子たちから「貴公子」と呼ばれていたそうですよ。
理由はそのルックスでした。
野武士のイメージとはかけ離れた呼び名が付いたという点が面白いですよね。
実際に雑誌の表紙を飾った写真も残されています。
1959年の映画「鉄腕投手 稲尾物語」に出演したのも、こうした見た目の良さと関係がありそうです。
ただし本人のプレースタイルは、見た目の優雅さとは別物でした。
選球眼を生かした出塁、盗塁、流し打ちという、泥臭い仕事を積み重ねるタイプです。
見た目と中身のギャップが、玉造陽二さんの個性だったと言えますね。
野武士軍団という呼び名は、荒々しいプレースタイルから付いたものです。
中西太さんの打球は弾丸ライナーと呼ばれ、スイングスピードは飛び抜けていたと言われます。
そうした顔ぶれのなかでは、玉造陽二さんの打撃は確かに異質でした。
三原脩監督のバシャッと冴えない当たりという評価が、その違いを言い表していますよ。
貴公子という呼び名は、見た目と打撃の両面を指していたのかもしれません。
チームの色に染まらない個性があったからこそ、記憶に残る選手になったのでしょう。
三原監督の役満を蹴った逸話
玉造陽二さんの度胸を物語る逸話として、麻雀の話が伝わっています。
本人は麻雀が強く、三原脩監督と一緒に卓を囲むこともあったそうです。
そこで三原監督の役満を安い和了で蹴ってしまったという話が残っていますよ。
監督が大役を狙っているところへ、新人が安手で上がってしまったわけです。
入団時の不安を口にしていた人物とは思えない大胆さですよね。
この逸話は、グラウンド外でも物怖じしない性格を伝えています。
打席での姿にも同じ気質が表れていました。
0ストライク2ストライクからでも平気な顔をして見逃す、ポーカーフェイスが特徴だったそうです。
あまりにも堂々としているため、球審がつられて「ボール」と宣告することもあったと言われています。
この図太さが、ここぞという場面で単独スチールを決める度胸につながっていたのでしょう。
麻雀の役満は、成立すれば最高点が入る大きな手です。
それを安い手で先に上がってしまうというのは、場の空気を読まない行動にも見えます。
相手が自分を福岡へ連れてきた監督ですから、なおさら度胸が必要ですよね。
この話が逸話として残っていること自体、周囲が驚いた証拠だと思います。
本人は入団時に全く自信はありませんでしたと語っていた人物です。
その落差が、玉造陽二さんという人の面白さになっていますよ。
水戸の先輩・豊田泰光との絆
玉造陽二さんが戦友を語るとき、真っ先に挙げるのが豊田泰光さんです。
豊田泰光さんは同じ茨城県水戸市の出身で、玉造陽二さんの先輩にあたります。
本人は「右も左も分からない福岡で、プレーに打ち込めたのは豊田さんのおかげ」と今も感謝を忘れていません。
豊田泰光さんはなじみの飲食店の人たちを紹介し、異郷で暮らす玉造陽二さんを家庭的な雰囲気で包むよう働きかけたそうです。
本人も「何をするにも豊田さんの後にひっついて行きました」と振り返っています。
1軍の大圓寺寮では、水戸一高のチームメイトである橋本政雄さんと3人同部屋だったと明かしていますよ。
豊田泰光さんは自伝「風雲録」で「遠く離れた九州でオレも同郷の選手が来てホッとした」と書いています。
その風雲録には玉造陽二さんの走塁についての記述もあります。
「タマのスライディングは滑り込むんじゃなくて相手の方を蹴飛ばしてしまうんだ」という一文ですよ。
その豊田泰光さんのトレードが引退の引き金になったという事実は、2人の関係を考えると重く響きます。
豊田泰光さんは1956年に首位打者を獲得した、西鉄打線の中心選手でした。
その先輩が後輩の生活面まで気を配っていた話は、当時のチームの空気を伝えています。
昭和のプロ野球では、先輩が後輩の面倒を見る文化が各球団にありました。
玉造陽二さんの通算1282安打が豊田泰光さんをわずかに上回る点も、縁の深さを感じさせます。
守備職人としての評価と記録
玉造陽二さんの評価は打撃だけではありません。
守備範囲が広く、フェンスを恐れなかったため後方への打球の処理にも強かったと記録されています。
本人も「後ろの打球に強かった」と語っていますよ。
当時のパ・リーグ記録として、502回連続守備機会無失策という数字も残しています。
1962年には13補殺を記録し、強肩を生かした送球でも貢献しました。
守備に関する証言のなかで興味深いのが、稲尾和久さんについての話です。
本人は「コントロールがいいから、打球が飛んで来るコースが予想できて守備の準備がしやすい」と説明しています。
続けて「新人の時の防御率が1・06と飛び抜けていたのも、守りやすい投球の結果でしょう」とも語っていますよ。
外野から投手の制球を読んで守備位置を決めていたという話は、野球脳の高さを物語っています。
この観察力は、引退後に別の業界で商売を始めるうえでも役に立ったはずです。
外野手で502回連続無失策というのは、集中力の高さを示す数字です。
守備範囲の広さと強肩を兼ね備えた外野手は、当時でも貴重な存在でした。
2年目にレギュラーを掴んで以降、二軍に落ちたことが一度もない記録も残っています。
打撃の成績が落ちた年でも守備で使われ続けたのは、この信頼があったからですよ。
稲尾和久さんの投球を読んで守るという発想は、観察と準備の積み重ねでした。
3連覇メンバーで唯一の存命者
2023年5月11日、西鉄ライオンズ一筋でプレーした中西太さんが亡くなりました。
これによって、1950年代の日本シリーズ3連覇の主力メンバーで存命なのは玉造陽二さんだけになっています。
稲尾和久さん、大下弘さん、仰木彬さん、豊田泰光さん、関口清治さん、高倉照幸さんはすでに鬼籍に入られました。
この事実が、玉造陽二さんへの取材が続いている理由でもありますよ。
西日本スポーツの連載「語り継ごう西鉄伝説」は、全5回にわたって本人の証言で構成されています。
文春オンラインでも、水戸一高の後輩による手紙でのやりとりが記事になりました。
伝説として語られてきた話の真偽を、当事者が直接答えられる最後の機会という意味があります。
時事ドットコムの「夢のベストナイン特集」では、茨城県代表の一塁手として選出されていますよ。
会社経営を続けながら、こうして球史の証人としての役割も担っているわけですね。
今後も新しい証言が公開される可能性があるので、分かり次第まとめていきます。
中西太さんは引退後に多くの球団でコーチや監督を務めた名伯楽でもありました。
その中西太さんが亡くなったことで、当時を語れる人がさらに減ってしまいました。
玉造陽二さんの証言が貴重なのは、伝説の真偽を本人の目で確かめられるからですよ。
ボールが焦げた匂いの話にも「すべての選手がファウルチップした時、必ず焦げた匂いがしたかどうか」と慎重に答えています。
玉造陽二の会社と野球人生の総まとめ
- 元西鉄の玉造陽二が代表を務める会社は有限会社玉造ゴム
- 玉造ゴムの事業区分は工業用ゴム製品を扱う卸商である
- 東部工業用ゴム製品卸商業組合の中央支部に加盟している
- 会社の所在地は東京都目黒区碑文谷で郵便番号は152-0003
- 有限会社のため2006年より前に設立された会社である
- 西日本スポーツはゴム製品を製造販売する会社と紹介した
- 31歳の若さで1967年オフに西鉄を自主退団している
- 自主退団の背景は球団の経費節減策と主力の相次ぐ放出
- 会社の事務所には西武ライオンズのカレンダーが掛かる
- 1936年8月17日に茨城県水戸市で生まれた左投左打
- 水戸一高では1954年夏の甲子園に中堅手で出場した
- 1956年に打率.297を記録し切り込み隊長と呼ばれた
- 1956年の日本シリーズ第3戦で1試合3盗塁の記録を残す
- 連続打席無併殺打786は当時のパ・リーグ記録だった
- 通算1645試合と1282安打は球団史に残る数字である
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