永淵洋三の妻・正江と焼き鳥店あぶさんを支えた38年の二人三脚

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あなたは、永淵洋三さんの妻がどんな人物なのかを知りたいと感じているのではないでしょうか。

漫画あぶさんのモデルとして知られる永淵洋三さんは、1969年にパ・リーグ首位打者に輝いた左の強打者です。

その永淵洋三さんを長年そばで支えてきたのが、妻の正江さんなのですよ。

現役引退の翌年から、夫婦ふたりで佐賀市の焼き鳥店あぶさんを38年間も切り盛りしてきました。

この記事では妻の正江さんの人物像と夫婦で歩んだ店の歴史、3人の子供についても公表情報から整理します。

読み終えたときに、あなたの疑問がすっきり片づいていればうれしいです。

記事のポイント

①:妻の名前は正江で店を共に支えた

②:1980年12月開店の焼き鳥店あぶさん

③:子供は長男の義規ら3人で孫もいる

④:夫は1969年にパ首位打者を獲得

永淵洋三の妻・正江|焼き鳥店あぶさんの38年

  • 妻・正江はどんな人物なのか
  • 1980年12月開店のやきとりあぶさん
  • 夫婦二人三脚で歩んだ38年の店
  • 店名あぶさん|水島新司の了承と由来
  • 閉店を決めた理由と妻・正江の言葉

妻・正江はどんな人物なのか

まず、永淵洋三さんの妻について判明している事実から押さえていきましょう。

妻の名前は正江|判明している情報

結論から言うと、永淵洋三さんの妻の名前は正江さんです。

この名前は1976年に日本ハムへ移籍した当時の選手紹介資料にも記載されており、家族構成とあわせて「妻=正江、長男=義規、二男=仁、長女=香」と明記されています。

選手名鑑の家族欄に妻の名前が載るのは当時としてはよくある形式でしたが、おかげで半世紀後の現在でも名前を確認できるわけですね。

さらに2014年には佐賀新聞が、永淵洋三さんの評伝が刊行されたことを伝える記事の中で夫婦の写真を掲載しました。

その写真には「評伝を手にする永渕さんと妻の正江さん=佐賀市の焼き鳥店あぶさん」というキャプションが添えられています。

つまり妻の正江さんは店に立つ姿を地元紙に写真付きで紹介されたことがある人物、ということになります。

ここ、かなり大事なポイントだと思うのですよ。

元プロ野球選手の妻というと表に出てこないケースが大半ですが、正江さんの場合は夫と並んで新聞に載っているわけです。

ただし生年月日や出身地、旧姓といった細かいプロフィールは公表されていません。

あくまで「焼き鳥店あぶさんを夫と一緒に営んできた妻」として記録が残っている、という整理になりますね。

名前の読みはまさえさんだと考えられますが、ふりがなを添えた報道は確認できません。

そのため本記事では、資料に残る正江という漢字表記で統一してお伝えしていきます。

夫・永淵洋三のプロフィール

ここで、妻の正江さんが支えてきた夫・永淵洋三さんの基本情報も確認しておきましょう。

下記の表は日本野球機構の個人年度別成績ページなどの公開情報をまとめたものです。

項目 内容
名前 永淵洋三(ながぶち ようぞう)
生年月日 1942年5月4日
2026年11月02日現在の年齢 84歳
出身地 佐賀県
身長/体重 168cm/65kg
投打 左投左打
出身校 佐賀高(現・佐賀西高)
社会人 東芝(7年間)
プロ入り ドラフト2位で近鉄入団
所属球団 近鉄/日本ハム
主なタイトル 1969年 パ・リーグ首位打者
家族 妻・正江、長男・義規、二男・仁、長女・香

身長168センチという体格は、当時のプロ野球選手としても明らかに小柄な部類でした。

それでも通算109本塁打を放った長距離砲でもあり、1969年には打率3割3分3厘でパ・リーグの首位打者に輝いています。

現役を12年間で退いたあとは、佐賀市で焼き鳥店を開いて第二の人生を歩みました。

そして、その第二の人生を文字どおり半分背負ったのが妻の正江さんだったわけですね。

小柄な体を大きくひねる豪快なフォームは、当時のホームラン写真でもひと目で分かる特徴でした。

選手時代は鋭い眼光で知られましたが、引退後は眼鏡をかけた穏やかな風貌になっています。

馴れ初めや結婚時期は公表されているのか

では、ふたりの馴れ初めや結婚した年は分かっているのでしょうか。

先に結論をお伝えすると、出会いの経緯や結婚した年月日は公表されていません。

永淵洋三さんは数多くのインタビューで現役時代を振り返っていますが、話題の中心はいつも野球と酒の逸話です。

妻との出会いや結婚に至るまでのエピソードは、確認できる取材記事の中には出てきません。

以下の表で、妻に関して分かっていることと分かっていないことを整理してみます。

情報項目 判明状況 根拠となる情報
名前 判明 1976年の選手紹介資料に正江と記載
顔写真 公開あり 2014年の佐賀新聞に夫婦の写真
職業 判明 焼き鳥店あぶさんを夫と共に経営
生年月日 非公表 年齢を伝える報道は確認できない
出身地・旧姓 非公表 本人発言・報道ともに言及なし
馴れ初め 非公表 出会いを語った記事は見当たらない
結婚した年 非公表 入籍時期の報道は確認できない

ただ、手がかりがまったくないわけではないのですよ。

1976年の家族欄にすでに3人の子供の名前が並んでいることから、結婚は近鉄時代の1960年代後半から1970年代前半と考えるのが自然です。

3人の子を育てながら、1980年には夫と一緒に店の暖簾を上げているわけですから、相当な行動力の持ち主だったはずですね。

情報が出てこないことを不安に感じる必要はありません。

表に出さないという選択そのものが、家庭を守るための夫婦の方針だったと考えられます。

1980年12月開店のやきとりあぶさん

ここでは、夫婦の歩みの舞台になった焼き鳥店あぶさんについて、信頼できる情報をもとに整理します。

開店は1980年12月|場所は佐賀市柳町

永淵洋三さんが店を開いたのは、現役引退の翌年にあたる1980年12月でした。

場所は佐賀県佐賀市柳町で、JR佐賀駅から南へバスで4分ほどの旧市街にあたります。

日刊ゲンダイの取材によると、周辺は明治時代の建物が並ぶ風情のある一角だったそうです。

店の造りは細長いカウンターが中心で、奥に座敷席があるこぢんまりとした構えでした。

永淵洋三さん本人も「オープンしたのが80年12月だから、早いもので足掛け39年。女房と2人、のんびりやってますよ」と語っています。

この一言に、店が夫婦ふたりだけで回されてきたことがはっきり表れていますよね。

そして店舗には家屋が隣接していて、永淵洋三さん一家はそこで暮らしていました。

取材で訪ねた記者を、永淵洋三さんは店舗に隣接した家屋の前で出迎えたという記録も残っています。

つまり住まいと店が一体になった職住一致の生活を、夫婦は何十年も続けてきたわけです。

通勤時間ゼロという意味では効率的ですが、逆に言えば仕事とプライベートの境目がないということでもあります。

そんな環境で38年を走り切った正江さんのタフさは、やっぱり相当なものだったと思いますよ。

店の造りからも、大人数の宴会ではなく常連がふらりと立ち寄る形を想定していたことが分かります。

夫婦2人で回すには、このこぢんまりとしたサイズがちょうどよかったのでしょうね。

名物は炭火で焼く焼き鳥と串焼き

あぶさんの看板メニューは、炭火で焼き上げる焼き鳥と串焼きでした。

価格について永淵洋三さんは「ピーマン、ナスが1本80円、一番高いエビでも250円」と明かしています。

さらに「ほとんどが100円、130円だから、ウチのお客さんの多くは仕事帰りのサラリーマン」とも語りました。

元プロ野球選手が開いた店と聞くと高級店を想像しがちですが、実際は徹底した庶民価格だったのですね。

この価格設定には、地元で長く続ける店にしたいという夫婦の覚悟が透けて見えます。

永淵洋三さんは当時の客層について「女の子だけってのは来ないなあ。アハハハ」と笑いながら話していました。

その言葉どおり、店は佐賀の野球関係者や常連のサラリーマンに愛される大衆的な場所でした。

白髪交じりの丸刈り頭に銀縁メガネ、紺色の作務衣という永淵洋三さんの立ち姿も、取材記事で印象的に紹介されています。

そのカウンターの向こう側で、妻の正江さんは仕込みから接客までを一緒に担っていたわけです。

1本80円の串を数えながら38年という時間を積み上げたと考えると、気が遠くなる話ですよね。

野菜串からエビまでそろえていた点を見ると、酒の肴として選びやすい構成だったことが分かります。

仕込みの量も相当だったはずで、ここは妻の正江さんの働きが効いた部分だと思いますよ。

店に野球のものを飾らない理由

興味深いのは、店内に野球に関するものが一切飾られていなかったという点です。

佐賀新聞の取材に対し、永淵洋三さんは「プロ野球中継は見ない」とまで語っていました。

首位打者という輝かしい実績を持ちながら、店には優勝写真もトロフィーも一切置かなかったのです。

これは「輝かしい野球人生に区切りをつける」という本人の明確な意思によるものだと報じられています。

華々しい栄光を鼻にかけることなく店に立つ姿勢が、常連客を引きつけた一番の理由でもあったようですね。

とはいえ、遠方から訪ねてくる野球ファンがいなくなるわけではありません。

永淵洋三さんは「初めの頃は、ビデオテープのように現役の頃の話を何度もしていたなあ」と振り返っています。

自分からは野球の話をしないけれど、聞かれれば何度でも同じ話をする、という距離感だったのでしょう。

妻の正江さんにとっても、店は夫の過去ではなく夫婦の今を積み上げる場所だったのだと思います。

この割り切りの良さは、長く商売を続けるうえで大きな強みになったはずですよ。

店の壁は長年にわたって煙が染み付き、年季の入った色合いになっていたと報じられています。

飾りの代わりに、過ぎた時間そのものが内装になっていたという言い方もできますね。

このあたりの潔さは、夫婦でひとつの商売をやり切った人の空気だと感じます。

夫婦二人三脚で歩んだ38年の店

続いて、妻の正江さんが店でどんな役割を担ってきたのかを具体的に見ていきます。

妻と2人でのんびりやってますよ

永淵洋三さんが店を語るとき、必ず出てくるのが「女房と2人」という言葉です。

佐賀新聞も閉店を伝える記事の中で、1980年から夫婦2人で切り盛りしてきた店だと明記しました。

従業員を雇って規模を広げるのではなく、あくまで夫婦の手の届く範囲で営み続けたわけですね。

焼き鳥店の仕事は、仕込みから炭の管理、接客、洗い物まで終わりがありません。

それを2人で、しかも38年という長さで続けたという事実の重みは相当なものです。

永淵洋三さんは現役時代、酒豪として球界の伝説になるほど飲み歩いた人物でした。

その夫が引退後は毎日カウンターに立って串を焼き続けたのですから、生活は180度変わったことになります。

そばで見てきた正江さんにとっては、夫の変化を誰より実感していた立場だったでしょう。

日刊ゲンダイの取材で永淵洋三さんが口にした「のんびりやってますよ」という言葉には、照れも混じっていたはずです。

実際の現場は、のんびりという言葉では片づかない働きぶりだったと想像できますよ。

評論や指導の道へ進む元選手も多い中で、永淵洋三さんは完全に商売人の道を選びました。

その選択に妻の正江さんが並走したからこそ、38年という年数が成立したわけですね。

夫婦のどちらかが途中で降りていれば、店はもっと早く閉まっていたはずです。

全国から訪れた野球ファンたち

あぶさんには、佐賀の常連だけでなく全国から客が訪れました。

佐賀新聞は全国から野球ファンらが訪れる店だったと伝えています。

JR佐賀駅のタクシー運転手が、あぶさんという店名も永淵洋三さんのことも心得ていたという話も残っています。

取材に訪れたライターが佐賀駅からタクシーに乗ると、5分も走らないうちに店の前に横付けされたそうです。

地元では店の場所を説明する必要がないほど知られていた、ということですね。

来店するのは野球ファンばかりではなく、佐賀の野球関係者の集まりの場としても使われていました。

高校時代のチームメートで開店時から通い続けた金子一彦さんは、閉店の際に心境を語っています。

「高校時代の友人や野球部の集まりはいつもここだった。生活の一部で人生の半分はお世話になった」という言葉です。

見知らぬ野球ファンから同級生までを同じカウンターで迎えるという店の空気は、夫婦2人だからこそ作れたものでしょう。

実直な人柄と温かさに引かれる客が多かったと報じられていますが、その温かさは明らかに夫婦セットのものだったと思いますよ。

2013年9月にはライターの高橋安幸さんが取材に訪れ、座敷席で長いインタビューに応じています。

このときのやり取りが、のちに昭和プロ野球の仕事人という連載記事になりました。

店は商売の場だけでなく、取材の舞台としても機能していたということですね。

評伝あぶさんになった男と夫婦

2014年、永淵洋三さんの野球人生をたどった評伝が刊行されました。

書名は『「あぶさん」になった男』で、野球を題材にした作品が多いノンフィクション作家の澤宮優さんが書いています。

下記の表は、その評伝の基本情報をまとめたものです。

項目 内容
書名 『「あぶさん」になった男』
著者 澤宮優(ノンフィクション作家)
出版社 KADOKAWA
価格 税別1500円
刊行時期 2014年
構成 佐賀高時代から焼き鳥店開業までの7章

内容は佐賀高校時代の投手生活から東芝、近鉄、日本ハムでのプロ時代、そして焼き鳥店開業までを7章に分けて描いたものです。

この評伝の刊行を伝えた佐賀新聞の記事に、永淵洋三さんと正江さんが並んで写った写真が掲載されました。

撮影場所は佐賀市の焼き鳥店あぶさんの店内で、夫婦が公の場に並んで登場した貴重な記録になっています。

本人は評伝について「一冊の本になるほどの選手ではなかった」と謙遜していました。

その一方で「酒にまつわる話ばかりでなく、繊細なプロの時代を書いてくれた」と喜びも口にしています。

夫の半生が一冊の本になる瞬間に、妻が隣にいたという構図はなんだかぐっときますよね。

本の中では酩酊状態で本塁打を放ったという逸話まで紹介され、読み物として一気に読める内容です。

その本を手にした夫婦の写真が残っているのは、ファンにとってもありがたい記録ですよ。

店名あぶさん|水島新司の了承と由来

夫婦の店の看板には、漫画の世界と現実が交わる面白い経緯があります。

水島新司から得た店名の了承

永淵洋三さんは引退後、故郷の佐賀で焼き鳥店を開くことを選びました。

そのとき店名として選んだのが、自身がモデルになった漫画のタイトルそのものでした。

佐賀新聞によると、作者の水島新司さんの了承を得て店名をあぶさんに決めたという経緯があります。

日刊ゲンダイの取材でも、永淵洋三さんは「店名は漫画からいただきました」と率直に語っていました。

漫画の題名を実店舗の屋号に使うわけですから、きちんと筋を通したうえでの命名だったのですね。

ここで押さえておきたいのは、永淵洋三さんがモデルの「ひとり」だという点です。

主人公のキャラクター設定にあたって、水島新司さんは複数の実在選手から着想を得たとされています。

その中で永淵洋三さんの数々の酒豪伝説が、主人公像の大きなヒントになったと伝えられています。

つまり永淵洋三さんは主人公そのものではなく原型のひとりという立ち位置になります。

この距離感を本人が理解していたからこそ、店名についても作者に許しを得るという形を取ったのでしょうね。

漫画の連載は1973年に始まり、2014年の最終回まで40年以上も続きました。

その長い連載期間のほとんどが、佐賀の店が営業していた期間と重なっています。

漫画の主人公と、その原型になった人物の店が同時に走り続けていたわけですね。

主人公・景浦安武はどんな人物か

では、店名の元になった漫画の主人公はどんなキャラクターだったのでしょうか。

以下の表で、主人公の設定を整理してみます。

設定項目 内容
主人公名 景浦安武(かげうら やすたけ)
背番号 90
入団形式 南海ホークスにドラフト外で入団
連載開始 1973年/ビッグコミックオリジナル
作中の引退 2009年度限り(62歳・37年間)
連載終了 2014年/通算976回
単行本 94巻(野球漫画最長寿の大河作品)

景浦安武は酒豪の強打者として描かれ、バットに酒を吹きかけて打席に立つ場面まであったキャラクターです。

作品は実際のプロ野球シーズンと同時進行で描かれ、現役選手も実名で登場する独特のスタイルを取っていました。

2009年に作中で現役引退した際には、第873話「さようなら90番」でファンへの挨拶が描かれています。

背番号90については、福岡ソフトバンクが実在の選手やコーチに付けさせない配慮をしていたほどでした。

これだけの長寿作品の原型のひとりになったという事実は、やはりとんでもないことですよね。

作中では3年連続の打撃三冠王に輝くなど、現実では考えにくい大記録も積み上げました。

永淵洋三さんの実像とは当然違いますが、酒と打撃という芯の部分は確かに重なっています。

ここを混同しないよう、漫画の設定と実在の記録は分けて押さえておくと安心ですよ。

あぶさんという名前の由来

あぶさんという呼び名そのものにも、きちんとした由来があります。

通説として伝えられているのは、主人公の本名である安武の音読みが由来だという説明です。

安武をそのまま音で読むと「あんぶ」となり、そこから「あぶさん」という愛称が生まれたという流れですね。

さらにアルコール度数の非常に高いリキュールのアブサンにも掛けられているとされています。

酒豪の打者という設定と名前が二重に重なっているわけで、ネーミングとしては見事な仕掛けです。

永淵洋三さん自身も酒にまつわる逸話が山ほどある人物でした。

酩酊状態で本塁打を放った話や、二日酔いで3安打を放ったという逸話は今も語られています。

代打で本塁打を打った後にリリーフ投手を務め、さらに外野も守るという一人三役の記録もありました。

こうした現実のエピソードがあったからこそ、漫画の主人公像に説得力が生まれたのだと思います。

そして妻の正江さんは、その酒豪伝説の時代から店を閉じる日まで、ずっと同じ人のそばにいたことになりますね。

店の屋号を聞いただけで漫画の主人公を思い出す人は、今でも少なくないはずです。

永淵洋三さん自身は、自分をモデルにした漫画を一度も読んだことがないと明かしています。

モデルになった本人が作品を読まないという距離感も、なんとも味がありますよね。

閉店を決めた理由と妻・正江の言葉

ここでは38年の歴史に幕を下ろした経緯と、そのときに語られた夫婦の本音を整理します。

2018年10月に38年の歴史に幕

結論から言うと、焼き鳥店あぶさんは2018年10月に38年の歴史に幕を下ろしました。

佐賀新聞は閉店を伝える記事で、体力的な問題もあって閉店を決めたと報じています。

1980年12月の開店からの38年ですから、永淵洋三さんの現役生活12年の3倍を超える長さになります。

閉店にあたって、永淵洋三さんは最後の1カ月を一人で切り盛りする予定だと語っていました。

品数を減らし、カウンター席のみで営業するという縮小営業の形です。

閉店日については、取材時点ではまだ決めていないという状態でした。

ここで注目したいのは、最後の1カ月は夫が一人で店に立つ形になったという点ですね。

裏を返せば、それまでの37年以上は常に妻の正江さんが一緒に立っていたということになります。

夫婦でやってきた店の最終章を、夫が一人で引き受けたという構図とも読めます。

どんな事情があったのかは語られていませんが、長年働き詰めだった妻への配慮もあったのかもしれませんね。

日刊ゲンダイの取材が入った2018年2月の時点では、本人は足掛け39年という言い方をしていました。

開店からの年数を数えるか、営業しきった年数を数えるかで表現が変わるわけですね。

いずれにしても、閉店を伝える地元紙の記事では38年という数字が使われています。

妻は長かったと言うけど|夫の実感

閉店を報じる佐賀新聞の記事には、永淵洋三さんの印象的な言葉が残されています。

「さびしいねえ。うちの(妻・正江さん)は長かったと言うけど、あっという間だったね」というコメントです。

この一文は、夫婦で同じ38年を過ごしても体感がまったく違ったことを示しています。

妻の正江さんは「長かった」と感じ、夫の永淵洋三さんは「あっという間」と感じたわけですね。

どちらが正しいという話ではなく、背負ってきた重さの違いがそのまま出ている言葉だと思います。

この記事は妻の正江さんの心情が報道で引用された唯一の場面でもあります。

直接のインタビューではなく夫の口を通した形ですが、だからこそ生々しさがありますよね。

毎日の仕込みと接客を38年続けた側からすれば、長かったという感想はごく自然です。

逆に夫は、プロ野球という非日常を12年で終えたあとに手に入れた日常を、短く感じたのかもしれません。

ここ、夫婦の38年を考えるうえで一番味わい深い部分だと思いますよ。

報道の中で妻の名前がかっこ書きで補われている点も、取材現場の空気を感じさせます。

記者が永淵洋三さんの言葉をそのまま書き起こしたからこそ、こういう形になったのでしょう。

夫婦の会話がそのまま紙面に残ったようなもので、読み返すたびに味が出る一文です。

あなたも身近な誰かと、同じ時間の感じ方が違った経験はありませんか。

親の役目も果たせたという言葉

閉店時の永淵洋三さんは、38年を振り返ってもうひとつ大事なことを語っています。

「最初は何年持つか…と思っていたが、子どもも独立して、親の役目も果たせた」という言葉です。

開店当初は店が何年続くのか自信がなかった、という率直な告白でもありますね。

結果として店は3人の子供を独立させるまでの長さを走り切りました。

つまり焼き鳥店あぶさんは一家の生活を支えきった店だったということになります。

永淵洋三さんはさらに「孫が焼き鳥を食べにくるのはうれしかった」とも話していました。

子供が独立し、その子供たちが孫を連れて店に来るという循環まで店の中で起きていたわけです。

作中の主人公が62歳まで37年間現役を続けた設定に対し、永淵洋三さんは38年の現役生活を店で全うしました。

本人も閉店の際に、主人公を超える38年の現役生活だったと振り返っています。

この38年を半分背負ったのが妻の正江さんだと考えると、記録としての価値はさらに大きくなりますよね。

永淵洋三の妻が支えた野球人生|子供と現在

  • 借金30万円から始まったプロ入り
  • 元祖二刀流|三原脩が変えた起用
  • 1969年の首位打者と張本勲
  • 長男・義規の投手時代と3人の子供
  • 永淵洋三の現在|妻と過ごす佐賀

借金30万円から始まったプロ入り

ここからは、妻の正江さんが支えることになった夫の野球人生をたどっていきます。

月給3万円時代に抱えた借金の正体

永淵洋三さんのプロ入りには、にわかには信じられない事情がありました。

結論から言うと、飲み代として職場の金を使い込んだ借金を返すためのプロ転職だったのです。

永淵洋三さんは佐賀高を卒業後、社会人野球の東芝で7年間プレーしました。

当時の勤務先は厚生課という部署で、本人の言葉では「金を扱う仕事」でした。

月給は3万円で、川崎球場の近くにあったスナックに毎晩のように通い詰めていたそうです。

本人は通った理由を「そこに、かわいこちゃんがおってね。その娘目当てに毎晩、通いましたよ」と明かしています。

そして部署にストックされていた金を「ちょこちょこつまみ食いして」飲み代に充てていました。

本社への送金が年に一度でよかったため、期限までは自由になる金があったという構造です。

その結果、1年で30万円もの使い込みを抱えてしまったといいます。

現在の貨幣価値に換算すると200万円を超えているかもしれない金額です。

本人は「借金、いつかはバレますからね、返さないといけない。でも、知り合いも誰も金貸してくれなかった」と振り返っています。

本人は「それでとうとう、あの娘とは何もなかった。今思えば馬鹿みたいだけど」とも振り返っています。

使い込みの告白をここまで率直に語れるのは、年月を経たからこその潔さでしょうね。

この一件がなければ、プロ野球選手としての永淵洋三さんは存在しなかった可能性もあります。

西鉄の入団テストに落ちた過去

借金の件より前に、永淵洋三さんは一度プロの門を叩いて跳ね返されていました。

身長168センチではプロの対象にならないと考え、当初はプロ志望ではなかったそうです。

考えが変わったきっかけは、川崎球場で長嶋茂雄さんと王貞治さんの人気絶頂期を目にしたことでした。

さらに1963年、同じ社会人野球の黒江透修さんから大きな刺激を受けます。

黒江透修さんは身長165センチでしたが、翌年に巨人へ入団したのです。

自分と同じように小柄な選手がプロに入ったことで「俺もできるんじゃないか」という気持ちになったといいます。

そこで入社5年目、西鉄の入団テストを受けることにしました。

佐賀高の先輩で東芝入社時の監督だった伊丹安広さんが、西鉄コーチの深見安博さんへの紹介状を書いてくれました。

ところが当時の中西太監督は練習を見てもおらず最初から獲る気がなかったと本人は語っています。

結果は不合格で、本人は「不合格でショックじゃないけど、その後、毎晩のように酒を飲む生活になったんです」と振り返りました。

つまり伝説の酒豪ぶりの原点は、いわばヤケ酒だったということになりますね。

紹介状を書いた伊丹安広さんは、戦時下の学生野球の存続に尽くした功績でも知られる人物です。

そこまでの大物の紹介でも通らなかったという点に、当時のプロの壁の高さが表れていますね。

伊丹安広の紹介と契約金300万円

借金を返す道としてプロ入りを決めた永淵洋三さんは、再び伊丹安広さんを頼りました。

借金の事情は伏せたまま、どうしてもプロでやりたいと訴えたそうです。

ここで効いたのが、近鉄の球団社長だった芥田武夫さんが伊丹安広さんにとって早稲田大の先輩だったという縁でした。

下記の表は、このとき決まった入団条件をまとめたものです。

項目 内容
入団球団 近鉄バファローズ
指名順位 ドラフト2位
契約金 300万円(東芝の給料の100倍)
月給 10万円
東芝時代の月給 3万円
仲介者 伊丹安広(佐賀高の先輩・東芝元監督)

永淵洋三さんは「契約金は東芝の給料の100倍でしたから、それで借金をすぐ返して、プロ野球へ入ったんです」と語っています。

縁故採用的な入団だったと本人は謙遜しますが、実力面の評価もきちんとありました。

社会人時代には、のちに大洋のエースとなる日本石油の平松政次さんと投げ合い、延長10回まで無失点に抑えた試合もあります。

当時の近鉄は左投手が鈴木啓示さんしかいないような状態で、左腕のニーズとも合致していました。

仲介者の伊丹安広さんは早稲田大の名捕手で、1977年の逝去後に野球殿堂入りしている野球人です。

本人も「人との出会いが人生を左右する、というのはありますね」としみじみ語っていました。

元祖二刀流|三原脩が変えた起用

プロ1年目の起用法は、のちに大谷翔平さんと比較されるほど特異なものでした。

投手として入団した1年目の記録

永淵洋三さんは投手として近鉄に入団しましたが、1年目から打者としても試合に出ています。

以下の表は、1968年の投打両方の成績をまとめたものです。

区分 1968年の成績
投手・登板 12試合
投手・投球回 19回1/3
投手・防御率 2.84
投手・奪三振 9
打者・試合 109試合
打者・打率 .274(74安打)
打者・本塁打/打点 5本/30打点
打者・盗塁 11

投手として12試合、打者として109試合という内訳は、まさに二刀流と呼ぶべき数字です。

しかも社会人時代の最終年も、本人の言葉では投打両方をこなしていたといいます。

「ノンプロで最後のとき、ピッチャー足らんということでね」と本人は当時を振り返っています。

毎日バッティングピッチャーを務めていたことで肩と体力がついていたそうです。

この経験が、プロでも投打両方を任される元祖二刀流の土台になったわけですね。

大谷翔平さんが二刀流ルーキーとして話題になった2013年には、永淵洋三さんへの取材が相次ぎました。

本人は「開幕の頃はしょっちゅう取材受けましたよ。大谷のことでね」と笑って語っています。

投手としての防御率2.84という数字は、救援として十分に通用していた証拠です。

それでも2年目以降は投手としての登板がなくなり、打者一本に絞られていきました。

結果的に二刀流はプロ1年目だけの挑戦で終わった、という整理になりますね。

紅白戦の代打が人生を変えた

永淵洋三さんの運命を変えたのは、明石キャンプでの紅白戦でのひと言でした。

当時の近鉄を率いていたのは、魔術師と呼ばれた名将の三原脩さんです。

その三原脩さんが突然、投手登録の新人に対して代打で行けと指示を出したのです。

本人は「全然バッティングやってなかったから、何言ってんのかな、このおっさんは、と思った」と振り返っています。

それでも監督命令だからと打席に入り、たまたま1球目をセンター前へ運んだというのです。

永淵洋三さんはこの1打席について「僕の使われ方が変わって、人生も変わったんですね」と語っています。

三原脩さんはのちに「ピンチヒッターでいって、1球目を振って、芯に当てる。これはいいものを持ってる」と評しました。

当時の近鉄は左投手が4人と少なく、左打者も全野手のうちわずか3人という台所事情でした。

投打とも左が不足していたチーム状況が、投手専任にしておく手はないという発想につながったのです。

入団発表のとき、球団部長が「ショート・リリーフ、代打、代走。いろんな場面に使える三原監督好みの選手」と紹介していた記録も残っています。

つまり二刀流起用は、ある程度あらかじめ構想にあった可能性もあるわけですね。

1968年4月16日の一人三役

プロ1年目の4月、永淵洋三さんは1試合ごとに役割を変えながら実戦を積みました。

下記の表はデビュー月の起用の流れをまとめたものです。

日付 相手・球場 起用と結果
4月6日 西鉄/平和台 代打でプロ初出場し三振
4月7日 第1戦 西鉄/平和台 途中出場でレフトを守る
4月7日 第2戦 西鉄/平和台 7回にプロ初登板し三者凡退
4月12日 阪急 三番手で3回を投げ降板後にライト
4月14日 阪急 再び救援として登板
4月16日 東映/日生球場 一人三役をこなして大活躍

4月12日の阪急戦では3打数2安打を記録しましたが、負け試合だったため大きな話題にはなりませんでした。

むしろ「高校野球じゃあるまいし」とあざ笑う声もあったといいます。

評価が一変したのが4月16日、日生球場での東映戦でした。

この試合で永淵洋三さんは、二刀流というより一人三役と呼ぶべき働きを見せたのです。

代打で本塁打を放ったあとにリリーフ投手を務め、さらに外野も守るという内容でした。

この一人三役は、のちに評伝でも代表的な逸話として紹介されています。

妻の正江さんにとっても、夫がどこで何をするのか分からない1年目だったはずですよね。

デビュー月だけで代打、外野、投手という3つの役割をすべて経験しているわけです。

現代の起用法に慣れた目で見ると、かなり荒っぽくも思える使い方ですよね。

1969年の首位打者と張本勲

ここでは、永淵洋三さんのキャリア最大の勲章となったタイトルについて整理します。

打率3割3分3厘で分け合った栄冠

結論から言うと、永淵洋三さんはプロ2年目の1969年にパ・リーグ首位打者に輝きました。

このときの打率は3割3分3厘で、127試合に出場して162安打を放っています。

本塁打も20本、打点は74、盗塁は23という攻守走そろった数字でした。

投手として入団した選手が2年目に首位打者を獲るという展開は、今でも異例としか言えません。

しかもこの打率は、東映の張本勲さんとまったく同じ数字でした。

つまりタイトルは張本勲さんと分け合う形の首位打者だったわけです。

張本勲さんはプロ野球史上初の3000安打を達成した安打製造機です。

その張本勲さんと並んだという事実は、永淵洋三さんの打撃技術の高さを証明しています。

永淵洋三さんの打撃哲学は徹底して合理的でした。

一番打ちやすい初球を狙う、アウトの確率が高い投手ゴロでは一塁まで走らないという考え方まで公言しています。

酒豪の豪快な打者という印象とは裏腹に、職人的な計算の持ち主だったのですね。

この年の出塁率は3割8分3厘、長打率は5割2分7厘という数字も残しています。

打率3割3分3厘で20本塁打、23盗塁という組み合わせは、現代でも貴重なタイプです。

小柄な体でこの数字を残したのですから、技術の高さは疑いようがありませんね。

妻の正江さんにとっても、夫が球界の主役になった特別な1年だったはずです。

張本勲が語った三拍子そろった選手

張本勲さんは生前、永淵洋三さんについてこう評していました。

「永淵!一緒に首位打者分けたやつ。ああ、いい選手だ。足早くて、強肩でね。ピッチャーでも、ワンポイントでも切れのいい球投げたからね」という言葉です。

そして「三拍子そろった選手だよ」と締めくくっています。

互いに認め合う関係だったことが、この言葉からはっきり伝わってきますよね。

張本勲さんが亡くなった際、永淵洋三さんは地元テレビの取材で追悼の言葉を語りました。

タイトルの表彰式で並んだ写真を手にしながら「張本さんが29歳、俺が27歳」と当時を振り返っています。

張本勲さんについては「それはすごかった、戦績の通り安打製造機と言われたからね」と評価しました。

さらに「ホームランの方はあまり報道されないけどホームランの数もすごい」とも付け加えています。

最後に会ったのは15年前のプロ野球OB会で、「ブチ、俺の番組出てこいよ」と声をかけられたそうです。

その言葉が最後になったと明かし、「ゆっくり休んでください」と締めくくりました。

この追悼コメントは、永淵洋三さんが野球界とつながり続けていることの証しでもありますね。

張本勲さんは永淵洋三さんを呼ぶとき、ブチという愛称を使っていました。

ライバルでありながら、こうした呼び方が残っているのは関係の近さの表れですね。

通算1150試合と100号本塁打

永淵洋三さんは1975年まで近鉄でプレーし、1976年に日本ハムへ移籍しました。

日本ハムでは、1974年と1975年に張本勲さんが背負った背番号10を受け継いでいます。

移籍当時の選手紹介では、アル・カポネというニックネームとともに紹介されていました。

下記の表は、12年間の通算成績をまとめたものです。

項目 通算記録
試合 1150試合
安打 962安打
本塁打 109本
打点 409打点
盗塁 134盗塁
打率 .278
長打率 .423
最高の年 1969年 打率.333で首位打者

節目となる通算100号本塁打は、日本ハム時代の1977年8月26日に記録されました。

場所は後楽園球場で、相手はロッテ、打った投手は三井雅晴さんでした。

この一発は35歳3カ月、1022試合目での史上94人目の到達という記録になっています。

そして1979年を最後に、12年間の現役生活に区切りをつけました。

翌年に妻と始めた焼き鳥店が、その後38年続くことになるわけですね。

移籍1年目の1976年は81試合で打率2割6分0厘、5本塁打という成績でした。

翌1977年には10本塁打、41打点と持ち直し、節目の100号もこの年に記録しています。

最終年の1979年は26試合の出場にとどまり、静かに現役生活を終えました。

通算134盗塁という数字からも、足を使える選手だったことが分かりますよ。

長男・義規の投手時代と3人の子供

ここでは、妻の正江さんが育てた3人の子供について公表情報を整理します。

子供は3人|長男と二男と長女

結論から言うと、永淵洋三さんと正江さんの子供は長男・義規さん、二男・仁さん、長女・香さんの3人です。

この3人の名前は、1976年の日本ハム移籍時の選手紹介資料に家族として明記されています。

下記の表は、家族構成をまとめたものです。

続柄 名前 判明している情報
本人 永淵洋三 元近鉄・日本ハムの外野手
妻 正江 焼き鳥店あぶさんを夫と経営
長男 義規 佐賀西高の投手として活躍
二男 仁 公表情報は名前のみ
長女 香 公表情報は名前のみ
孫 非公表 店に焼き鳥を食べに来ていた

1976年の時点で3人の名前が並んでいるため、子供たちは近鉄時代に生まれたと考えられます。

二男の仁さんと長女の香さんについては、名前以外の情報は公表されていません。

生年や職業、現在の住まいを伝える報道も確認できません。

ただ3人とも独立したことは本人の発言から確認できます。

閉店時に「子どもも独立して、親の役目も果たせた」と語っているからですね。

読み方についても、義規さん以外は公的な資料でふりがなを確認できません。

そのため本記事では、資料に残る漢字表記のままご紹介しています。

選手名鑑の家族欄という形式のおかげで、半世紀前の家族構成が記録として残ったわけですね。

子供たちは一般の方として生活していると考えられます。

そのため職業や住まいを詮索するような情報は、あえて扱わない方針です。

佐賀西高のエースだった長男

3人の子供のうち、長男の義規さんだけは具体的な活躍の記録が残っています。

義規さんは父と同じ佐賀西高、つまり永淵洋三さんが通った佐賀高の後身となる高校で投手を務めました。

1987年夏の甲子園予選、佐賀県大会の3回戦が義規さんの名前が語り継がれる試合です。

相手は本格派右腕の江口孝義さんを擁する佐賀工でした。

この試合は息詰まる投手戦となり、義規さんは6回まで1人の走者も出さない完璧な投球を見せます。

結果は0対1のサヨナラ負けで、惜しくも勝利には届きませんでした。

ただ相手の江口孝義さんは、このあと甲子園に出場して大会ナンバーワン右腕と評された投手です。

その江口孝義さんと互角に投げ合ったわけですから、評価は一気に高まりました。

スタンドのファンからは「さすがあぶさんの息子」という声が上がったと記録されています。

投げ方や球質までは分かりませんが、投手として佐賀の舞台に立った点は父子で見事に重なっていますね。

妻の正江さんにとっても、息子がマウンドで投げる姿は忘れられない夏だったはずです。

父の永淵洋三さんも佐賀高時代は左腕のエースで、同じ学校の系譜に名を連ねています。

佐賀高は現在の佐賀西高ですから、親子は同じ学校の校名の変遷をまたいで投げたことになります。

地元で父子が同じポジションを務めたという事実は、それ自体が立派な記録ですよね。

孫が焼き鳥を食べに来た日々

永淵洋三さんと正江さんには孫もいます。

閉店時の佐賀新聞の取材で、永淵洋三さんは「孫が焼き鳥を食べにくるのはうれしかった」と語りました。

この一言から、孫が店に通える距離に暮らしていたことが読み取れます。

孫の人数や年齢、名前については一切公表されていません。

それでも夫婦の店が三世代の集まる場所になっていたことは確かですね。

焼き鳥を焼く祖父と、接客する祖母、そして串をかじる孫という風景が浮かんできます。

子供を育てるために始めた店が、孫をもてなす場所にまで育ったわけです。

38年という歳月の重みは、こういう具体的な場面にこそ表れるのだと思います。

最初は何年持つか分からなかったという店が、結果的に一族の記憶の中心になったのですから見事な着地ですよね。

永淵洋三さんは閉店の際、最初は何年持つかと思っていたと率直に明かしました。

その不安を抱えたまま始めた店が、孫の世代まで届いたということになります。

孫がカウンターに座る光景は、夫婦にとって何よりの成績表だったのではないでしょうか。

現役時代に受けた表彰よりも、この日常の方が誇らしかったかもしれません。

店に野球のものを飾らなかった理由も、こうした価値観とつながって見えてきますよね。

ここは気になるポイントだと思うので、新しい情報が出たら追いかけていきます。

永淵洋三の現在|妻と過ごす佐賀

最後に、閉店後の永淵洋三さんと妻の正江さんの様子について整理します。

閉店後も佐賀市で暮らす現在

永淵洋三さんは閉店後も、変わらず佐賀市で暮らしています。

1942年5月4日生まれですので、2026年11月02日時点で84歳になります。

2025年に長嶋茂雄さんが亡くなった際、佐賀新聞は佐賀市在住の永淵洋三さんとして追悼コメントを掲載しました。

この記事では身長167センチと小柄ながら近鉄で首位打者に輝いた選手として紹介されています。

身長表記は資料によって167センチと168センチの揺れがありますが、どちらも小柄という点では同じです。

店を閉じてからも地元メディアが取材に訪れる存在であり続けている、ということですね。

妻の正江さんの近況については、閉店後の報道では触れられていません。

ただ夫婦の住まいは店に隣接した家屋だったため、生活の拠点が大きく変わったとは考えにくいところです。

38年の仕込みと接客から解放された日々を、ようやくゆっくり過ごしているのではないでしょうか。

ここ、ファンとしては一番気になるところだと思うのですよ。

閉店を報じた2018年の記事でも、永淵洋三さんは変わらず佐賀市在住とされていました。

地元に根を張ったまま第二の人生を走り切ったという意味では、きれいな着地だと思います。

野球を離れた土地で暮らす元選手も多い中で、この一貫性は印象的ですね。

長嶋茂雄への追悼で語った言葉

2025年の佐賀新聞の記事で、永淵洋三さんは長嶋茂雄さんについて熱く語っています。

「期待された場面で必ず打ち、誰よりも球場を盛り上げていた」という評価です。

さらに「何を着ても格好よく、とにかく華のあるスター」と続けました。

そして「同じプロ野球選手から見ても雲の上の存在だった」と締めくくっています。

永淵洋三さんはパ・リーグ、長嶋茂雄さんはセ・リーグですから対戦機会はほとんどありませんでした。

それでも1969年のオールスター戦に合わせて長嶋茂雄さんと対談した経験があります。

会場は後楽園球場近くの中華料理店で、長嶋茂雄さんが先に到着していたそうです。

本人は「ふすまを開けたら長嶋さんがまっすぐ座っていて、驚いた」と当時を懐かしみました。

首位打者を獲った年にスーパースターと向き合った記憶が、半世紀を越えて語られているわけですね。

同じ記事では、佐賀西高出身で阪神やヤクルトで活躍した永尾泰憲さんも長嶋茂雄さんを偲んでいます。

永尾泰憲さんは太良町在住で、太良高校野球部の監督を務めています。

佐賀県出身の元プロ野球選手が同じ記事に並んだという点も、地元紙らしい構成ですね。

こうして名前が挙がることからも、永淵洋三さんが今も取材対象であり続けていると分かります。

野球から距離を置いたと言いながら、大事な場面ではきちんと言葉を残すのですよ。

永淵と永渕|表記ゆれの理由

調べていて混乱しやすいのが、名字の表記が2種類あるという点です。

日本野球機構の個人成績ページでは永淵洋三という表記が選手登録名として使われています。

一方で佐賀新聞や日刊ゲンダイの記事では、永渕洋三という表記が採用されてきました。

淵と渕はどちらも同じ読みの異体字で、戸籍や新聞の表記基準によって使い分けが生じる漢字です。

そのため検索するときは、どちらの表記でも同じ人物の記事がヒットします。

この記事では野球機構の登録名にあわせて永淵洋三という表記を使っています。

なお同じ佐賀出身の元プロ野球選手には永尾泰憲さんもいますが、こちらは別人です。

名前が似ているため混同されやすいので、ここは押さえておくと安心ですよ。

妻の正江さんについても、新聞では永渕洋三さんの妻の正江さんという形で紹介されてきました。

どちらの表記で検索しても、夫婦の歩みをたどる情報にたどり着けるはずです。

日刊スポーツは背番号10を振り返る記事の中で、張本勲さんとあわせて永渕という表記を用いました。

同じ選手を扱っていても媒体ごとに表記が変わるため、検索結果が分かれてしまうのですね。

もし情報が見つかりにくいと感じたら、もう一方の表記で調べ直すのがおすすめですよ。

表記の違いを押さえておけば、古い記事まで一気にたどれるようになります。

永淵洋三の妻・正江に関する総まとめ

  • 永淵洋三の妻の名前は正江で焼き鳥店を夫と共に支えた
  • 夫婦は1980年12月に佐賀市で焼き鳥店あぶさんを開いた
  • 焼き鳥店は2018年10月に38年の歴史に幕を下ろした
  • 妻は38年を長かったと感じ夫はあっという間と語った
  • ふたりの馴れ初めや結婚した年月は現在も公表されていない
  • 店名は作者の水島新司の了承を得て漫画から正式に拝借
  • 永淵洋三は漫画の主人公の景浦安武のモデルのひとりだった
  • 店内には野球のものを飾らずプロ野球中継も見なかった
  • 永淵洋三の子供は長男の義規と二男の仁と長女の香の3人
  • 長男の義規は佐賀西高の投手として1987年夏に活躍
  • 孫も店に焼き鳥を食べに来ており三世代が集う場だった
  • 東芝時代の借金30万円を返すためプロ入りを決断した
  • 夫は1969年に打率.333でパ・リーグ首位打者となった
  • 投手として入団し三原脩監督の起用で元祖二刀流になった
  • 通算1150試合で962安打109本塁打を記録し引退した

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