※本サイトのコンテンツには、商品プロモーションが含まれています。
樋口正蔵さんの会社について、どんな事業をしている企業なのかを知りたいと感じている方は多いです。
元南海ホークスの俊足巧打の外野手として活躍し、1963年に内野安打55本というNPBシーズン最多記録を打ち立てた人物ですよね。
現役を引退した1971年、樋口さんは32歳で大阪の家業を継ぎ、合名会社樋口鐵工所の社長に就任しました。
この会社は新幹線の車輪に使われる特殊なネジを手がける技術集団として知られています。
この記事では会社の事業内容から社長就任の経緯、馬主としてのもう一つの顔まで、公開情報をもとに整理していきます。
記事のポイント
①:会社は合名会社樋口鐵工所で大阪市福島区
②:主力は新幹線の車輪に使う特殊ネジの加工
③:32歳で社長就任し父の家業と馬主業を継承
④:冠名バンブトンで重賞7勝の名馬を所有
樋口正蔵の会社は樋口鐵工所|特殊ネジの技術集団
- 【結論】会社は樋口鐵工所|大阪市福島区
- 新幹線の車輪を支える特殊ネジの技術
- 会社を継ぐために引退した経緯
- 父親・樋口正一から継いだ二つの事業
- 冠名バンブトンの馬主としての顔
- 会社の年収と同名企業の噂を整理
【結論】会社は樋口鐵工所|大阪市福島区
結論から言うと、樋口正蔵さんが社長を務めた会社は、大阪市福島区にある合名会社樋口鐵工所です。
プロ野球の世界から実業家へ転身した人物として、まずは会社と本人の基本情報を押さえておきましょう。
ここでは公開されている資料だけを使って、あなたが知りたい会社の輪郭をはっきりさせていきますね。
会社名は合名会社樋口鐵工所
樋口正蔵さんが率いた会社の正式名称は、合名会社樋口鐵工所です。
所在地は大阪市福島区で、樋口さんの地元である大阪に根を張った企業ですね。
事業の柱は金属加工のなかでも難易度が高い特殊螺子(ねじ)の加工で、ネジの製造と卸売を手がけてきました。
いわゆる町工場という響きからは想像しづらいかもしれませんが、扱っているのは一般的な規格品ではありません。
下記の表は公開情報から確認できる会社の概要をまとめたものです。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 会社名 | 合名会社樋口鐵工所 |
| 所在地 | 大阪府大阪市福島区 |
| 事業内容 | 特殊螺子(ネジ)の加工・製造・卸売 |
| 主な納入分野 | 新幹線の車輪に使われる特殊ネジ |
| 先代経営者 | 父親・樋口正一 |
| 樋口正蔵の社長就任 | 1971年の現役引退後(32歳) |
会社名に鐵という旧字体が残っているところにも、創業からの歴史の長さがうかがえます。
先代である父親の樋口正一さんが経営していた家業を、樋口さんが受け継いだ形です。
ネジという製品は普段ほとんど意識されませんが、鉄道車両や産業機械の安全を支える重要な部品ですよね。
そうした部品を長年にわたって供給してきた点が、この会社の存在価値そのものだと言えます。
同じ大阪の金属加工業の中でも、特殊螺子という狭い領域に資源を集中させてきたのが樋口鐵工所の特徴ですよ。
樋口正蔵のプロフィールと経歴
会社の話に入る前に、社長である樋口正蔵さんがどんな人物なのかを確認しておきたいところですよね。
樋口さんは1939年9月26日に大阪府大阪市で生まれた、元プロ野球選手で実業家です。
現役時代は南海ホークスの外野手と一塁手を務め、左投左打で俊足巧打を武器にしていました。
下記の表は樋口さんの基本情報を整理したものです。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 樋口正蔵(ひぐち しょうぞう) |
| 生年月日 | 1939年9月26日 |
| 2026年11月03日現在の年齢 | 87歳 |
| 出身地 | 大阪府大阪市 |
| 身長・体重 | 176cm・73kg |
| 投球・打席 | 左投左打 |
| ポジション | 外野手・一塁手 |
| 出身校 | 浪華商業高等学校・法政大学 |
| 所属球団 | 南海ホークス(1962年〜1971年) |
| 背番号 | 3 |
| 現役通算 | 1036試合・800安打・打率.281 |
| 引退後の肩書 | 合名会社樋口鐵工所 社長/馬主 |
プロ野球選手としてのキャリアは10年で、通算1036試合に出場しています。
そのうえで引退後は実業家、さらに馬主という三つの顔を持つ人物として知られていますよ。
浪華商業高等学校は現在の大阪体育大学浪商高等学校で、大阪の野球名門校として有名ですね。
法政大学では東京六大学野球リーグで主力の外野手として活躍し、在学中に4度の優勝を経験しました。
こうしたアマチュア球界の王道を歩んだ経歴が、後の実業家としての信用にもつながっていきます。
合名会社という形態が示すもの
会社名の冒頭にある合名会社という表記に、少し引っかかった方もいるのではないでしょうか。
合名会社は出資者全員が無限責任を負う会社形態で、日本では非常に数が少ない形式です。
株式会社と違って株式の発行がなく、経営と所有が完全に一体になっているのが大きな特徴ですね。
社員同士の信頼関係が前提になる形態なので、家業として代々受け継ぐ企業と相性がよいとされています。
樋口鐵工所が父親の樋口正一さんから樋口正蔵さんへと引き継がれたのも、この形態と無縁ではありません。
外部から資本を入れて規模を追うのではなく、技術と信用を積み上げて生き残る道を選んだわけです。
のちに紹介する「資本を投入するよりもノウハウを蓄積し、顧客の信頼を高めることが大事」という言葉も、この会社形態と見事に重なりますよね。
つまり会社の形そのものが、樋口さんの経営哲学を映し出しているとも言えます。
会社の規模や売上が大きく報じられてこなかった理由も、ここにあると考えられます。
情報開示の義務がある上場企業とは、そもそも土俵が違うということですね。
だからこそ、取引先との長い付き合いのなかで評価されてきた会社だと言えます。
派手さはありませんが、こうした企業こそ日本の製造業を支えてきた存在なのだと思います。
新幹線の車輪を支える特殊ネジの技術
では、樋口鐵工所は具体的にどんな製品をつくっている会社なのでしょうか。
ここでは事業の中身と、競合の中で生き残った経営判断について、信頼性の高い情報をもとに整理します。
読み進めてもらえれば、町工場という言葉では片づけられない技術力の正体が見えてきますよ。
新幹線の車輪に使われる特殊ネジ
樋口鐵工所の技術力を象徴するのが、新幹線の車輪などに使われる特殊なネジです。
デイリースポーツの取材では、同社が特殊なネジをつくる技術集団として紹介されています。
新幹線の車輪まわりに使われる部品は、わずかな緩みや破断も許されない世界ですよね。
時速200kmを超える速度で走り続ける車両を支えるため、材質も精度も一般的なネジとはまったく別次元になります。
こうした部品は少量多品種になりやすく、大量生産を前提とした設備では対応しきれません。
つまり規模で勝負する分野ではなく、加工の腕と知見で勝負する分野だということです。
樋口鐵工所が特殊螺子の加工を得意とすると紹介されてきたのは、まさにこの領域に強みがあるからですね。
ネジは製品価格に占める割合が小さい部品ですが、壊れたときの影響は計り知れません。
だからこそ発注側は価格よりも、確実に仕様を満たしてくれる相手を選びます。
そこで選ばれ続けてきたという事実が、この会社の実力を何より物語っていますよ。
ニコニコ大百科でもネジの製造と卸売を手がける会社として紹介されており、製造だけでなく流通も担っていたことがわかります。
つくる力と届ける力の両方を持っていた点も、取引先の信頼を集めた理由のひとつでしょう。
資本よりノウハウという経営方針
樋口正蔵さんの経営を語るうえで外せないのが、本人が口にした一つの方針です。
樋口さんは「資本を投入するよりもノウハウを蓄積し、顧客の信頼を高めることが大事」と語っています。
設備投資を先に行って生産能力を増やすのではなく、技術と信頼を先に積むという順番ですね。
これは短期的な売上を追う経営とは正反対の考え方だと言えます。
ネジの加工は機械を入れれば誰でもできる仕事ではなく、材料の癖や熱処理の勘所といった蓄積が物を言う世界です。
その蓄積は決算書には現れませんが、取引先から見れば何よりの保証になりますよね。
結果として樋口鐵工所は、価格競争ではなく信頼で選ばれる会社になっていきました。
プロ野球の世界で10年かけて技術を磨いた経験が、この考え方の土台にあるようにも見えます。
1年目から結果を出しながらも、規定打席に到達したのは2度だけという選手人生でした。
それでも毎年100試合前後に出続けたのは、使い続けたいと思わせる確かな技術があったからですね。
会社経営に移ってからも、同じ姿勢を貫いたということでしょう。
派手な拡大戦略を取らずに本業を深めるという選択は、当時としてもかなり勇気のいる判断だったはずです。
ここ、経営の考え方として素直にすごいなと思える部分ですよね。
競合3社から唯一の存在になった理由
この方針の成果は、競合との生き残り競争という形ではっきり表れました。
デイリースポーツの取材によれば、樋口鐵工所は競合3社のなかで勝ち残り、唯一の存在になったとされています。
同じ領域で商売をしていた会社が姿を消し、結果として一社だけが残ったわけです。
需要そのものが小さい分野では、価格を下げて数を取る戦い方は体力を削るだけで終わりがちですよね。
逆に技術の深さで差をつければ、代替できない存在として指名され続けます。
下記の表は、樋口鐵工所が選んだ戦い方と一般的な拡大路線の違いを整理したものです。
| 比較項目 | 樋口鐵工所の方針 | 一般的な拡大路線 |
|---|---|---|
| 優先する投資 | ノウハウの蓄積 | 設備と資本の投入 |
| 勝負する軸 | 加工技術と顧客の信頼 | 生産量と価格 |
| 狙う市場 | 特殊螺子という狭い領域 | 汎用品の広い市場 |
| 結果 | 競合3社のうち唯一生き残る | 価格競争で体力を消耗 |
表にしてみると、樋口さんの判断がいかに一貫していたかがよくわかりますね。
結果として会社は長く続き、樋口さん自身は馬主業も並行できるほどの余力を持ちました。
経営者としての手腕は、現役時代の実績に負けないくらい評価されていいはずです。
狭い市場のなかで一社だけが残るという結果は、技術で選ばれ続けた会社の証明そのものですよね。
会社を継ぐために引退した経緯
プロ野球選手として十分に戦力だった樋口正蔵さんが、なぜ32歳で現役を去ったのか気になりますよね。
答えは明快で、会社を継ぐためでした。
ここでは当時の報道をもとに、引退の決断がどう進んでいったのかを時系列で追っていきます。
シーズン終了後の引退申し入れ
1971年の当時の新聞報道が、引退の瞬間をかなり細かく伝えています。
報道によると樋口さんはシーズン終了後の8日午後2時半に、大阪・浪速区の球団事務所で球団社長と会っています。
そこで家庭の事情を理由に引退を申し入れたとされています。
球団社長は野村監督と会って検討し、川勝オーナーと相談して決めることにしたと報じられました。
ただし記事の段階で引退は決定的と書かれており、翻意の余地はほぼなかったようです。
下記の表は1971年の動きを時系列で整理したものです。
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 1971年7月3日 | 通算1000試合出場を達成(史上151人目) |
| 1971年8月ごろ | 家業を手伝う必要が生じ引退を決意 |
| 1971年シーズン終了後 | 野村監督に引退の意向を伝える |
| 1971年の秋 | 8日午後2時半に球団事務所で引退を申し入れ |
| 1971年の成績 | 72試合出場・打率.259で現役最終年 |
| 引退後 | 合名会社樋口鐵工所の社長に就任 |
通算1000試合という節目を達成した年に身を引いたのは、偶然ではなかったのかもしれません。
節目まで走り切ってから家業に戻るという、きれいな区切りの付け方ですよね。
当時の報道では、体力的にはまだやれる自信があったようだとも書かれています。
つまり衰えによる引退ではなく、完全に家庭と会社の事情による決断だったわけです。
家庭の事情の正体は家業の継承
報道で使われた家庭の事情という言葉の中身は、のちの本人の証言ではっきりします。
樋口さんは「月給も良かったからプロでやりたかったが、家の事情で後を継ぐことになったんですよ」と振り返っています。
当時の報道でも家業である樋口鉄工所を手伝わなくてはならなくなったと明記されていました。
決意した時期は8月ごろで、シーズン終了後に野村監督へ意向を伝えたとされています。
シーズン中に心を決めながら、最後までグラウンドに立ち続けたということですね。
当時の南海は野村克也監督が選手兼任で指揮を執り、若返りを進めている時期でした。
その流れのなかで控えに回り、代打要員として起用されていたと報じられています。
とはいえ本人の口ぶりからは、野球を続けたい気持ちがはっきり伝わってきますよね。
プロの月給が良かったという言葉には、迷いの跡がにじんでいるように感じます。
それでも家業を選んだのは、家を継ぐ者としての責任感があったからでしょう。
この決断があって、のちの実業家としての成功につながっていきました。
野球と家業のどちらを選ぶかという問いは、現代の選手にもまだ残るテーマかもしれません。
ここ、読んでいて少し胸が熱くなる部分ですよね。
もともとプロ入りも迷っていた
実は樋口さんは、プロ入りそのものに前向きではなかったと明かしています。
本人は「家業を継ぐつもりだったので、ほんまはプロに行くつもりはなかったんですよ」と語っています。
この一言を知ると、10年で区切りをつけた理由がすっと腑に落ちますよね。
そもそも南海を選んだ理由も、家業との両立を意識したものでした。
樋口さんは「当時のパ・リーグは大阪に3球団。移動が少なくて済むし、家から通えるのもいい」と振り返っています。
実家から通える球団を選ぶという判断は、最初から家業を視野に入れていた証拠です。
プロ野球選手というと故郷を離れて勝負する姿を思い浮かべがちですよね。
樋口さんの場合は、大阪という土地と家業に軸足を置いたまま10年を戦い抜いた形になります。
結果として南海では1964年から3年連続のリーグ優勝を経験し、1964年には日本一にも貢献しました。
家業を優先しながらこれだけの実績を残したというのは、なかなかできることではありません。
プロと家業を天秤にかけ続けた10年だったのだと思うと、記録の見え方も変わってきます。
引退の決断が早かったのではなく、最初から決まっていた道を歩き切ったということですね。
家業と野球のどちらにも全力を注いだ10年だったと言えるのではないでしょうか。
父親・樋口正一から継いだ二つの事業
樋口正蔵さんが受け継いだのは、会社だけではありませんでした。
父親の樋口正一さんは実業家でありながら、競馬界でも大きな存在として知られた人物です。
ここでは父親の人物像と、会社と馬主業がセットで引き継がれた背景を整理していきますね。
父親・樋口正一の人物像
樋口正蔵さんの父親は、合名会社樋口鐵工所を経営していた樋口正一さんです。
正一さんは経営者としてだけでなく、日本馬主協会連合会の第二代会長を務めた人物として記録されています。
資料によっては西日本の馬主協会の会長を務めたとも記されており、関西競馬界の重鎮だったことがうかがえます。
下記の表は父親・樋口正一さんについて確認できる情報をまとめたものです。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 樋口正一 |
| 続柄 | 樋口正蔵の父親 |
| 経営していた会社 | 合名会社樋口鐵工所 |
| 競馬界での役職 | 日本馬主協会連合会 第二代会長 |
| 馬主としての活動 | 先代オーナーとして所有馬を保有 |
| 息子への継承 | 1971年に会社と馬主業を正蔵へ |
生年や学歴といった細かな情報は公開されていません。
ただ馬主協会の全国組織で会長を務めたという事実だけでも、立場の大きさは伝わってきますよね。
町工場の社長という肩書だけでは語り切れない人物だったわけです。
会社経営で得た基盤を背景に、競馬という世界でも存在感を示していたのでしょう。
息子の正蔵さんが野球で名を上げたあとも、家業と馬主業という二つの土台はしっかり守られていました。
その土台をそのまま受け取ったのが、1971年の樋口正蔵さんだったということですね。
会社と馬主業をセットで受け継いだ
1971年の引退後、樋口正蔵さんは32歳で樋口鐵工所の社長に就任しました。
注目したいのは、同時に先代から引き継いで馬主にもなったという点です。
つまり会社と馬主業という二つの事業を、一度にまとめて背負ったことになります。
普通に考えればどちらか一方でも大仕事ですが、樋口さんは両方を長く続けました。
下記の表は父親から樋口正蔵さんへ受け継がれたものを整理したものです。
| 継承したもの | 内容 | 継承の時期 |
|---|---|---|
| 会社 | 合名会社樋口鐵工所の経営 | 1971年の現役引退後 |
| 馬主の立場 | 先代からの所有馬と馬主登録 | 社長就任と同時期 |
| 冠名 | バンブトンの名を引き継ぐ | 1970年代から本格化 |
| 人的ネットワーク | 関西競馬界と取引先との関係 | 継承とともに受け取る |
会社の経営が安定していたからこそ、馬主業を続ける余力もあったと考えられます。
逆に馬主としての交流が、商売の人脈につながった面もあったでしょう。
二つの顔が互いを支え合う形になっていたわけですね。
野球で培った知名度も、経営と馬主業の両面で追い風になったはずです。
元プロ野球選手で社長で馬主という組み合わせは、当時としてはかなり珍しい存在でした。
その珍しさが、いまも検索されている理由のひとつなのだと思います。
厩舎に通った少年時代の記憶
馬主業をすんなり受け継げた背景には、子どものころの経験がありました。
樋口さんは「厩舎には子どものころからよう遊びに行ってました」と振り返っています。
さらに「晩ごはんがおいしくてねぇ。馬主になるのは自然な流れだった」とも語っています。
厩舎の空気を幼いころから吸っていたからこそ、継承に違和感がなかったわけですね。
馬主の家に生まれ育ったという環境は、ほかの元プロ野球選手にはない強みでした。
のちに佐々木主浩さんや三浦大輔さんが馬主になり話題を集めますが、樋口さんはそのはるか先を歩いていた人物です。
競馬を投資やステータスとして始めたのではなく、家族の延長として受け取った形になります。
この距離感の近さが、半世紀以上にわたって馬主を続けられた理由でしょう。
所有馬の血統が長く受け継がれている点も、その姿勢をよく表していますよ。
父親から子へ、そして馬の血統へと、二重の継承が重なっている物語ですね。
会社の継承と馬主業の継承が同じ年に起きたのも、こうした育ちがあったからだと思います。
少年時代の晩ごはんの記憶が、のちの重賞制覇につながっているというのは面白い話ですよね。
生まれ育った環境がそのまま仕事になるというのは、とても幸せな形だと思いますよ。
冠名バンブトンの馬主としての顔
会社の話と並んで、樋口正蔵さんを語るうえで欠かせないのが馬主としての活動です。
競馬ファンの間では、冠名バンブトンのオーナーとして名前が知られていますよね。
ここでは冠名の由来から代表馬の実績まで、会社経営と並走したもう一つの顔を整理します。
冠名バンブトンの由来
樋口さんの所有馬には、バンブトンという冠名が付けられています。
この名前の由来は、1950年代にニュージーランドから輸入された牝馬ミスバンブトンです。
ミスバンブトンは14勝を挙げた快足の牝馬として知られていました。
つまり冠名は、一頭の輸入馬への敬意から始まっているわけですね。
勝負服は水色に赤一本輪、そして赤袖という配色です。
競馬場でこの勝負服を見かけたら、樋口さんの所有馬だとわかる仕組みになっています。
冠名を使わない馬もいるため、すべての所有馬にバンブトンが付くわけではありません。
とはいえバンブトンという響きは関西競馬のオールドファンに強く刻まれている名前です。
ミスバンブトンの血統は半世紀を超えて受け継がれ、いまも活躍馬を送り出していると伝えられています。
一頭の輸入牝馬から始まったファミリーが、これだけ長く続くのは珍しいことですよね。
会社の技術を代々積み上げる姿勢と、血統を長く育てる姿勢はよく似ていると感じます。
どちらも短期の結果ではなく、時間をかけて価値を積む発想に支えられていますね。
その一貫性こそが、樋口さんという人物のおもしろさだと思います。
冠名の由来を知ると、所有馬の名前がぐっと身近に感じられますよ。
主な所有馬と重賞の実績
次に気になるのは、どんな馬を所有してきたのかという点ですよね。
代表的な所有馬としては、菊花賞2着のバンブトンオールや重賞7勝のバンブトンコートが挙げられます。
下記の表は確認できる主な所有馬と、その実績を整理したものです。
| 馬名 | 主な実績 |
|---|---|
| バンブトンオール | 菊花賞2着・弥生賞2着 |
| バンブトンコート | 阪神3歳ステークス・神戸新聞杯・マイラーズカップなど重賞7勝 |
| バンブトンシェード | シンザン記念 |
| バンブトンハーレー | 阪急杯 |
| バンブトンリッチ | 洛陽ステークス |
| バンブトンプロ | 新潟12Rを制し5年半ぶりの勝利をもたらす |
バンブトンオールは、名馬キタノカチドキと熱戦を重ねた一頭として記憶されています。
バンブトンコートは1978年5月14日に東京競馬場のオープン競走を快勝し、日本ダービーで1番人気に支持されました。
結果はサクラショウリの4着で、翌年の宝塚記念でも同馬の2着に敗れています。
引退後は種牡馬となり、様似町の修栄牧場で余生を送っていました。
1988年にはファンの男性からの譲渡の申し出を受け、宮城県の牧場で種牡馬に復帰しています。
所有馬がここまでファンに愛されるというのも、なかなかない話ですよね。
冠名バンブトンの馬たちが、長く競馬ファンの記憶に残っているのがよくわかりますね。
元プロ野球選手馬主のパイオニア
樋口さんの馬主歴を語るときに必ず出てくるのが、パイオニアという評価です。
デイリースポーツは樋口さんを元プロ野球選手馬主のパイオニアと紹介しています。
のちに馬主として有名になった佐々木主浩さんや三浦大輔さんよりも、ずっと先に活動を始めていました。
1970年代から所有馬が重賞戦線で活躍していたのですから、たしかに先駆けと呼ぶのがふさわしいですね。
その後は京都馬主協会の相談役を務め、バンブトンハート1頭を所有していると伝えられています。
取材では「競馬場に毎週通うのがいいリフレッシュになってます」と語っていました。
さらに「野球もたまに観に行きますよ」とも話しており、野球との縁も切れていません。
会社を経営しながら競馬場に通い、ときどき球場にも足を運ぶ暮らしぶりが伝わってきますよね。
記者に対して「では、馬券買うてきますわ」と言って去っていったという描写も残っています。
肩書の重さとは裏腹に、気負いのない人柄がにじむ場面です。
こうした距離感の近さが、長く愛されてきた理由なのだと思います。
会社の社長であり馬主でもある生活が、半世紀を超えて続いているというのは素直にすごい話ですよ。
新しい情報が出てきたら、また追いかけたくなるテーマですね。
会社の年収と同名企業の噂を整理
会社について調べていると、年収や資産、そして別会社の情報が混ざって出てくることがあります。
ここでは確認できる事実と、そうでない情報をきっちり線引きしておきますね。
読み終えたときに、どこまでが確かな話なのかがはっきりわかる状態を目指します。
年収や資産は公表されていない
結論から言うと、樋口正蔵さんの年収や資産額を示す公式な発表はありません。
合名会社樋口鐵工所は上場企業ではないため、売上や利益を公開する義務がありません。
そのため、ネット上で見かける具体的な金額はいずれも推測の域を出ないものです。
確認できるのは、現役時代の契約金が1000万円だったという本人の証言くらいです。
樋口さんは契約金について「大阪市内に土地付きの家が買えた」と語っています。
1962年当時の1000万円の価値を考えると、かなりの好条件だったことがわかりますよね。
さらに「月給も良かったからプロでやりたかった」という言葉も残っています。
ただしこれらは現役時代の待遇であって、会社経営による収入とは別の話です。
会社の規模についても、従業員数や売上高を示す公開資料は見つかっていません。
新幹線の車輪用の特殊ネジを手がける技術集団という紹介から、規模より質で勝負する企業像が読み取れる程度ですね。
金額を知りたい気持ちはわかりますが、ここは推測で埋めずに事実だけを押さえておくのが安全です。
非上場の家族経営企業では、こうした情報が表に出ないのは当たり前のことでもあります。
確かな情報が出てきたら、そのときに改めて整理したいところです。
同名の樋口商会とは別会社
検索していると、樋口という名前の別会社が出てくる点にも注意が必要です。
東京都港区に本社を置く樋口商会、英語表記のHiguchi Incは1927年創業の輸入商社です。
医薬品の添加剤や化粧品原料、食品添加物、石油化学関連、工業用光源などを扱っています。
アメリカのテキサス州や中国の大連にも現地法人を持ち、ISO 9001の認証も取得している企業です。
この会社は樋口正蔵さんの樋口鐵工所とはまったく関係がありません。
下記の表は二つの会社の違いを整理したものです。
| 比較項目 | 合名会社樋口鐵工所 | 樋口商会(Higuchi Inc) |
|---|---|---|
| 所在地 | 大阪市福島区 | 東京都港区港南(大阪支店あり) |
| 創業・沿革 | 樋口正一が経営していた家業 | 1927年に輸入商社として創業 |
| 事業内容 | 特殊螺子の加工・製造・卸売 | 医薬品原料・化粧品原料・食品添加物など |
| 海外拠点 | 公開情報なし | アメリカ・中国に現地法人 |
| 樋口正蔵との関係 | 本人が社長を務めた会社 | 関係はない |
社名の読みが同じため、検索結果で並んでしまうのが混同の原因ですね。
事業内容を見れば、ネジの加工会社と輸入商社でまったく別物だとわかります。
調べるときは本社の所在地を確認するだけでも、取り違えをしっかり防げますよ。
混同が起きやすい理由を整理
では、なぜここまで情報が混ざりやすいのでしょうか。
理由は大きく三つあります。
①社名に同じ樋口という姓が使われている点、②どちらも大阪に拠点を持っている点、③会社の公開情報が少ない点です。
特に三つ目が大きく、樋口鐵工所は自社サイトでの情報発信が確認できません。
そのため検索エンジンは、同名でより情報量の多い企業を上位に出してしまいます。
下記の表は噂として語られがちな話と、確認できる事実を対比したものです。
| よく見かける話 | 確認できる事実 |
|---|---|
| 樋口正蔵の会社は大手商社である | 実際は特殊螺子を扱う樋口鐵工所 |
| 会社の年収や売上が公開されている | 非上場のため公開資料はない |
| 東京に本社がある会社である | 所在地は大阪市福島区 |
| 引退理由は成績の衰えだった | 家業を継ぐための決断と報じられた |
| 馬主業は引退後に趣味で始めた | 先代から引き継いだ事業である |
こうして並べると、どこで情報が入れ替わっているのかがよく見えますよね。
樋口正蔵さんの会社について調べるときは、特殊螺子と大阪市福島区という二つの言葉を手がかりにするのが確実です。
この二つがそろっていれば、別会社の情報を拾ってしまう心配はほぼありません。
気になるポイントだと思うので、新しい情報が出てきたら今後もアップデートしていきます。
樋口正蔵が会社を継ぐ前の経歴|南海での10年
- 浪華商業から法政大学への道
- 4球団競合で南海入団|契約金1000万円
- 内野安打55本の日本記録の裏側
- 通算1000試合と年度別打撃成績
浪華商業から法政大学への道
ここからは、樋口正蔵さんが会社を継ぐ前に歩んだ野球人生を追っていきます。
アマチュア時代から名門を渡り歩いた経歴は、実業家としての信用の土台にもなっています。
まずは高校と大学での実績を、具体的な数字とともに確認していきましょう。
1956年夏の甲子園でベスト8
樋口さんが進んだのは、大阪の名門である浪華商業高等学校です。
現在の大阪体育大学浪商高等学校で、数多くのプロ野球選手を輩出してきた学校ですね。
樋口さんは2年生だった1956年夏に中堅手として甲子園に出場しています。
チームは準々決勝まで勝ち進み、ベスト8という結果を残しました。
敗れた相手はこの大会で優勝した平安高で、現在の龍谷大平安です。
優勝校に当たってしまったわけですから、実力は十分だったと言えますよね。
この浪華商業時代の後輩に、のちの大打者である張本勲さんがいます。
張本さんは樋口さんの1学年後輩で、同じグラウンドで汗を流した間柄です。
日刊スポーツの写真ニュースでは、樋口さんが当時の雑誌を手に後輩を語る姿が紹介されました。
何十年たっても高校時代の話ができる関係というのは、うらやましいものですね。
当時の浪商は野球もケンカも強いと語られるほど、独特の存在感を放つ学校でした。
その環境で2年生からレギュラーをつかんだのですから、早い段階から評価されていたことがわかります。
家業を継ぐ前提で進んだ高校生活のなかでも、野球では確実に結果を出していたわけですね。
この甲子園出場が、法政大学への進学につながっていきます。
法政大学で4度のリーグ優勝
高校卒業後、樋口さんは法政大学へ進学します。
東京六大学野球リーグでは、在学中に4度の優勝を経験しました。
そのうちレギュラー外野手として貢献したのが、1960年春季と1961年秋季の2度の優勝です。
樋口さんは「3年春の優勝が24シーズンぶり。あそこから法政が強なった。われわれが、そのトップバッターですな」と振り返っています。
法政の黄金期の入口に立っていたという自負が、言葉からにじんでいますよね。
さらに1960年の全日本大学野球選手権大会でも優勝を飾っています。
決勝では同志社大のエース山尾孝雄さんの好投に苦しみ、延長14回という熱戦になりました。
下記の表は法政大学時代のリーグ通算成績をまとめたものです。
| 項目 | 数字 |
|---|---|
| リーグ通算試合 | 30試合 |
| 打数 | 105打数 |
| 安打 | 33安打 |
| 打率 | .314 |
| 本塁打 | 0本塁打 |
| 打点 | 11打点 |
打率.314という数字は、六大学のレベルを考えればかなりの好成績ですね。
本塁打が0本という点にも、樋口さんらしさがはっきり出ています。
長打に頼らず、安打を積み重ねるタイプの打者だったことがわかりますよ。
この打撃スタイルが、のちの日本記録につながっていきます。
大学時代に身につけた確実性の高い打撃が、プロでの日本記録を支えることになります。
同期と後輩に並ぶ有名選手
樋口さんの周囲には、のちにプロで活躍した選手が並んでいます。
法政大学の同期には新山彰忠さん、小川博さん、室山皓之助さんがいました。
新山さんは南海へ、室山さんは阪神へ進んでおり、同期からプロ入りが続いた世代です。
高校の1学年後輩には張本勲さんがいて、プロ野球史に残る安打記録を残しました。
下記の表は樋口さんと関わりの深い選手を整理したものです。
| 人物 | 樋口正蔵との関係 | 備考 |
|---|---|---|
| 張本勲 | 浪華商業の1学年後輩 | プロ通算3085安打の日本記録保持者 |
| 新山彰忠 | 法政大学の同期 | 南海ホークスへ進む |
| 室山皓之助 | 法政大学の同期 | 阪神タイガースへ進む |
| 小川博 | 法政大学の同期 | 同時期の主力として在籍 |
| 山尾孝雄 | 大学選手権決勝の対戦相手 | 同志社大のエース |
こうして並べると、樋口さんが歩んだ道のレベルの高さが伝わってきますよね。
アマチュア球界の王道を歩んだという評価も、決して大げさではありません。
その実績があったからこそ、プロ入りの際に4球団が競合する事態になりました。
家業を継ぐつもりだった選手が、これだけの注目を集めていたというのも面白いところです。
野球を続けるかどうか迷っていた時期に、プロからの評価が一気に高まったわけですね。
名門の浪商と法政で磨かれた実力が、そのまま評価につながったということですね。
4球団競合で南海入団|契約金1000万円
1962年、樋口正蔵さんはついにプロの世界へ足を踏み入れます。
ただし、その入団には家業を見据えた現実的な判断が働いていました。
ここでは4球団競合という争奪戦と、契約金1000万円の意味を具体的に見ていきますね。
4球団による自由競争の争奪戦
樋口さんのプロ入りは、ドラフト制度が導入される前の自由競争時代でした。
資料によると、4球団による自由競争の末に南海ホークスへ入団しています。
六大学で4度の優勝を経験した外野手ですから、当然の争奪戦ですよね。
そのなかで樋口さんが南海を選んだ理由は、極めて現実的なものでした。
樋口さんは「当時のパ・リーグは大阪に3球団。移動が少なくて済むし、家から通えるのもいい」と語っています。
当時のパ・リーグは大阪圏に複数の球団が集まり、移動の負担が小さい環境でした。
移動が少なければ身体への負担も減り、家業の様子を見ることもできますよね。
家から通える球団を選ぶという発想は、家業を継ぐ前提があったからこそ生まれたものです。
条件の良さだけで球団を選ばなかったという点に、樋口さんの人柄が表れています。
結果としてこの選択は、10年間の充実したキャリアにつながりました。
南海は当時の常勝チームで、優勝争いの中心に身を置けたのも大きな財産でしょう。
背番号は3を与えられ、1962年から1971年までこの番号を背負い続けました。
一桁の背番号を10年間使い続けたこと自体が、球団からの評価を物語っていますね。
家業のために入団した選手が、結果として球団の顔のひとりになったわけです。
契約金1000万円の価値
では、入団時の待遇はどうだったのでしょうか。
樋口さんによれば、契約金は1000万円でした。
この金額について樋口さんは「大阪市内に土地付きの家が買えた」と振り返っています。
1962年当時の1000万円ですから、いまの感覚とはまったく違う重みがありますよね。
大阪市内に土地付きの家が買えるという表現が、価値をいちばんわかりやすく伝えています。
さらに「月給も良かったからプロでやりたかった」という言葉も残しています。
家業を継ぐ前提があっても、プロの待遇に魅力を感じていたことがわかりますね。
下記の表は入団時の条件を整理したものです。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 入団年 | 1962年 |
| 入団球団 | 南海ホークス |
| 入団の経緯 | 4球団による自由競争の末に入団 |
| 契約金 | 1000万円 |
| 本人の表現 | 大阪市内に土地付きの家が買えた |
| 背番号 | 3(1962年〜1971年) |
こうして条件を並べると、樋口さんがいかに高く評価されていたかがはっきりします。
この契約金が、のちに家業を継ぐ際の余裕にもつながったのかもしれません。
お金の話を率直に語るところも、樋口さんらしい正直さだと思いますよ。
プロで稼いだうえで家業に戻るという流れは、当時としては理想的な形だったでしょう。
家業を背負う立場だからこそ、お金の価値を冷静に見ていたのかもしれません。
1年目から一軍に定着
入団1年目の1962年から、樋口さんはしっかり一軍に定着します。
この年は70試合に出場し打率.250、プロ初本塁打も記録しました。
主な役割は代打で、外野手と一塁手の守備固めや代走でも起用されています。
新人がいきなり多様な役割を任されるのは、首脳陣の信頼があったからですよね。
当時の南海を率いていたのは鶴岡一人監督で、樋口さんは監督好みの選手だったと評されています。
堅実な守備と確実な打撃という持ち味が、チームの方針に合っていたのでしょう。
一方で、外野のポジション争いはかなり激しいものでした。
穴吹義雄さん、大沢啓二さん、広瀬叔功さん、堀米基明さんといった選手と定位置を争っています。
そのため規定打席に達したのは、10年間で2度だけでした。
それでも毎年コンスタントに出場機会を得ていたのは、使い勝手の良さがあったからですね。
性格は明るく、チームのムードメーカー的な存在だったとも伝えられています。
実力と人柄の両方で、チームに必要とされた選手だったわけです。
この1年目の働きぶりが、翌1963年の大ブレイクにつながっていきます。
そしてその年に、いまも残る日本記録が生まれることになります。
控えからのスタートだったからこそ、翌年の飛躍がより鮮やかに映りますよね。
内野安打55本の日本記録の裏側
樋口正蔵さんの名前が野球史に刻まれた理由は、1963年の一つの記録にあります。
それがシーズン内野安打55本という、いまだ破られていない日本記録です。
ここでは記録が生まれた背景と、その武器になった技術を具体的に掘り下げていきますね。
1963年に打率.313でベストテン3位
1963年、樋口さんは一気にレギュラーの座を固めます。
不振だった穴吹義雄さんに替わり、レギュラー右翼手として起用されたのがきっかけです。
この年は400フィート打線の一番打者として135試合に出場しました。
成績は打率.313で、パ・リーグの打撃ベストテン3位という好内容です。
上位にいたのはジャック・ブルームさんと榎本喜八さんという強打者たちでした。
下記の表は1963年の主な成績をまとめたものです。
| 項目 | 1963年の成績 |
|---|---|
| 試合 | 135試合 |
| 打数 | 464打数 |
| 安打 | 145安打 |
| 打率 | .313(パ・リーグ3位) |
| 本塁打 | 3本塁打 |
| 打点 | 33打点 |
| 三塁打 | 9三塁打(パ・リーグ最多) |
| 犠打 | 17犠打 |
| 内野安打 | 55本(NPBシーズン最多記録) |
三塁打がリーグ最多という点に、俊足ぶりがよく表れていますよね。
さらに強肩を活かして11補殺を記録しており、守備でも貢献していました。
打って走って守れる外野手として、南海の上位打線を支えたシーズンです。
本塁打が3本という数字を見ると、長打に頼らない打者像がはっきりしますね。
そのスタイルを極めた先に、日本記録が待っていました。
打率も三塁打も補殺も残したこのシーズンが、樋口さんのキャリアにおける頂点だったと言える内容です。
ドラッグバントで量産した内野安打
内野安打55本という数字は、偶然では生まれません。
樋口さんの武器になったのは、ドラッグバントという技術でした。
これは南海コーチだったカールトン半田さんから伝授されたものだとされています。
一部の資料では、名手の木塚忠助さんの教えを受けたとも記されています。
いずれにしても、専門家から直接学んだ技術だったという点は共通していますね。
ドラッグバントは走りながらバットを引いて転がす打法で、左打者の俊足と相性が抜群です。
樋口さんは左投左打で、俊足巧打が持ち味の打者でした。
この武器がはまり、55本の内野安打のうち25本がバントヒットという内訳になります。
半分近くがバントによる安打というのは、ちょっと信じがたい数字ですよね。
当時としては長身だったものの非力で、流し打ちが多かったとも評されています。
自分の体格と足を正確に理解し、勝てる戦い方を選んだということでしょう。
会社経営で語った資本よりノウハウという発想と、どこか重なって見えませんか。
持っているものを最大限に活かすという姿勢が、野球でも商売でも貫かれていたわけです。
17犠打という数字も、チームのために小技を使い続けた証拠ですね。
個人記録と犠打の両立という点でも、かなり珍しいタイプの打者でした。
イチローにも破られていない記録
この55本という内野安打の記録は、どれくらいすごいのでしょうか。
樋口さんは「イチローにも破られていない」と語っています。
安打製造機として知られるイチローさんでさえ届かなかった数字だということですね。
記録はシーズン最多内野安打として、1963年に打ち立てられたまま残っています。
60年以上破られていない記録というのは、そうそうあるものではありません。
下記の表は樋口さんが残した主な記録を整理したものです。
| 記録 | 内容 | 達成時期 |
|---|---|---|
| シーズン最多内野安打 | 55本(うちバントヒット25本) | 1963年 |
| パ・リーグ打撃ベストテン | 3位・打率.313 | 1963年 |
| パ・リーグ最多三塁打 | 9三塁打 | 1963年 |
| 通算1000試合出場 | 史上151人目 | 1971年7月3日 |
派手な本塁打記録ではないからこそ、この記録の価値は語り継がれるべきだと思います。
バットコントロールと足だけで積み上げた数字ですから、再現するのは本当に難しいですよね。
いまの野球は長打重視に寄っているため、今後も破られる可能性は低いと考えられます。
樋口正蔵さんという名前が検索され続ける理由のひとつが、この記録の特異さにありますよ。
会社経営者としての顔と並んで、ぜひ覚えておきたい実績です。
通算1000試合と年度別打撃成績
最後に、樋口正蔵さんの10年間のキャリア全体を数字で振り返っておきましょう。
日本シリーズでの活躍や、門田博光さんの入団後に見せた底力も見逃せません。
年度別の成績を並べると、安定して戦力であり続けた姿がはっきり見えてきますよ。
1964年日本シリーズでの日本一貢献
キャリアのハイライトのひとつが、1964年の日本シリーズです。
この年の樋口さんは、阪急から戻った杉山光平さんとの併用で右翼を守りました。
打率.296という好成績を残しましたが、夏場の欠場が響いて規定打席には届きませんでした。
それでも阪神タイガースとの日本シリーズでは、全7試合に先発出場し27打数9安打という結果を残します。
打率に換算すると.333という高い数字で、チームの日本一に大きく貢献しました。
短期決戦でこれだけ打てる選手は、やはり勝負強さがあるのでしょうね。
翌1965年は杉山さんの不振もあり、主に二番打者として110試合に出場しています。
南海は1964年から3年連続でリーグ優勝を果たしており、樋口さんはその中心にいました。
1965年と1966年のリーグ優勝にも大きな役割を果たしたと評されています。
1967年には2度目の規定打席到達を達成し、打率.256でリーグ19位に入りました。
1968年は打率.288、5本塁打、32打点とキャリアハイの長打力を見せています。
毎年のように役割が変わりながら、きちんと結果を出し続けたのが樋口さんの強さですね。
一番でも二番でも代打でも計算できる選手というのは、監督にとって本当にありがたい存在です。
門田博光の入団後も打率.325
キャリア終盤には、球史に残る大打者がチームに加わります。
1970年、のちに本塁打王を争う門田博光さんが南海に入団しました。
樋口さんは開幕から右翼手の定位置を譲ることになります。
ところが、ここからの反発が見事でした。
打撃が好調を維持したためシーズン中盤にはポジションを奪回し、打率.325という好成績を残しています。
キャリア9年目にして自己最高の打率を記録するというのは、簡単なことではありませんよね。
この年は80試合の出場で17二塁打を放ち、長打率.429とOPS.799もキャリアで最も高い数字でした。
若手に押されても実力で押し返すという、プロらしい意地を感じます。
翌1971年は72試合に出場し、打率.259という成績でした。
7月3日には通算1000試合出場を達成し、史上151人目という節目に名を連ねます。
そしてこの年限りで、会社を継ぐために現役を引退しました。
最後の年に節目の記録を達成してから去るという流れは、きれいすぎるほどの区切りですよね。
門田さんというスター選手の登場と入れ替わるように、樋口さんは実業家の道へ進みます。
世代交代の象徴的な場面でもあったわけです。
その後の南海と、樋口さんの会社の歩みがそれぞれ続いていくことになります。
年度別打撃成績の推移
では、10年間の成績を一覧で確認してみましょう。
下記の表は年度別の主な打撃成績をまとめたものです。
| 年度 | 試合 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 打率 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1962年 | 70 | 20 | 1 | 8 | .250 |
| 1963年 | 135 | 145 | 3 | 33 | .313 |
| 1964年 | 135 | 96 | 1 | 28 | .296 |
| 1965年 | 110 | 73 | 1 | 15 | .261 |
| 1966年 | 102 | 71 | 1 | 17 | .265 |
| 1967年 | 121 | 105 | 0 | 24 | .256 |
| 1968年 | 116 | 92 | 5 | 32 | .288 |
| 1969年 | 95 | 78 | 0 | 14 | .261 |
| 1970年 | 80 | 78 | 2 | 28 | .325 |
| 1971年 | 72 | 42 | 1 | 13 | .259 |
| 通算10年 | 1036 | 800 | 15 | 212 | .281 |
10年間で一度も50試合を下回らなかった点に、信頼の厚さが表れていますよね。
通算では1036試合に出場し、800安打と打率.281を記録しました。
盗塁は41、犠打は70で、俊足と小技を活かしたスタイルがそのまま数字に出ています。
出塁率.313、長打率.342という内訳も、安打で勝負する打者らしい形ですね。
規定打席到達が2度だけで通算800安打というのは、起用され続けた証拠でもあります。
この成績を残したうえで家業に戻ったのですから、思い切りの良さには驚かされます。
プロ野球選手としても実業家としても結果を出した人物は、そう多くありません。
樋口正蔵の会社と実業家人生の総まとめ
- 樋口正蔵が社長を務めた会社は合名会社樋口鐵工所である
- 会社の所在地は大阪市福島区で創業者は父親の樋口正一
- 主力事業は特殊螺子の加工で新幹線の車輪用ネジも手がける
- 経営方針は資本よりノウハウの蓄積で顧客の信頼を重視する
- 特殊螺子の競合3社のなかで勝ち残り唯一の存在になった
- 社長就任は現役引退直後の1971年で当時32歳だった
- 引退理由は家庭の事情で家業を継ぐためだったと報じられた
- 1971年の秋に球団事務所で引退を正式に申し入れた
- 父親の樋口正一は日本馬主協会連合会の第二代会長を務めた
- 会社の経営と同時に先代から馬主としての活動も継承した
- 冠名バンブトンの由来は輸入牝馬ミスバンブトンである
- 代表馬バンブトンコートは重賞7勝を挙げた名馬である
- バンブトンオールは菊花賞2着で弥生賞も2着に入った
- 元プロ野球選手の馬主としては先駆け的な存在とされる
- 現役通算は1036試合800安打で打率.281を記録した
▶️他のアスリートの学歴・経歴・職業を知りたい|カテゴリー・記事一覧

