竹之内雅史の名前や顔写真は非公表?死別の時期と家族構成

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あなたは、竹之内雅史さんの妻がどんな人物だったのかを知りたいと感じているのではないでしょうか。

竹之内雅史さんは通算216本塁打を放った西鉄と阪神の主砲として知られ、歴代2位の166死球を受けた鉄人でもあります。

ところが妻について調べても名前や顔写真が出てこず、もやもやした気持ちになった方も多いはずですよ。

この記事では妻との死別に触れた唯一の記録を手がかりに、結婚や家族に関する公表情報を一つずつ確認します。

妻に関する記録はごくわずかですが、確認できる事実だけを丁寧に拾っていきます。

読み終えたときに、あなたの疑問がすっきり整理されていれば嬉しいです。

記事のポイント

①:妻に先立たれたと元広報が記録

②:妻の名前や顔写真は非公表

③:通算216本塁打と166死球の強打者

④:引退後は学習塾経営や台湾でも指導

竹之内雅史の妻は死別か|結婚と家族の真相

  • 竹之内雅史の妻に関する結論
  • 妻との死別が語られた唯一の記録
  • 結婚時期や子供の情報がない理由
  • 妻と過ごした現役引退後の歩み
  • 竹之内雅史の現在と野球への情熱

竹之内雅史の妻に関する結論

ここでは、妻についてどこまで公表されているのかを最初に整理します。

結論を先に押さえておくと、このあとの話もすっと頭に入ってきますよ。

奥さんに先立たれたという記述

結論から言うと、竹之内雅史さんの妻は名前も顔写真も公表されていません。

ただし、妻の存在に触れた記録がたった一つだけ残されています。

それが阪神タイガースの球団発行誌である月刊タイガースに連載されていた本間勝交遊録です。

2012年9月号に掲載された第37回で、竹之内雅史さんが主役として取り上げられました。

筆者の本間勝さんは元新聞記者で、のちに阪神の広報を担当していた人物ですよ。

その文章の終盤に気の毒に奥さんに先立たれたらしいという一文が記されています。

つまり妻はすでに他界していると読み取れる記述が、公の媒体にはっきり残っているわけです。

ただしらしいという伝聞の形で書かれている点は押さえておきたいところ。

球団が公式に発表した訃報ではなく、ばったり再会したときの印象として触れられた形になっています。

妻の名前や出会った時期、入籍した年については一行も書かれていません。

ここ、いちばん気になるところですよね。

検索しても妻の情報がほとんど出てこないのは、そもそも語られる場が用意されていなかったからです。

この前提を知っているだけで、ネット上の断片的な見え方に惑わされずに済みますよ。

この記事では分かっている部分と分からない部分をきっちり切り分けてお伝えします。

プロフィールで確認する基本情報

まず、竹之内雅史さんご本人の基本情報を確認してみましょう。

下記の表は公開されている選手データをもとに、プロフィールをまとめたものです。

項目 内容
名前 竹之内雅史(たけのうち まさし)
生年月日 1945年3月15日
2026年10月20日現在の年齢 81歳
出身地 神奈川県
身長・体重 175cm・90kg
投打 右投右打
出身校 鎌倉学園高等学校
社会人経歴 日本通運浦和
ドラフト 1967年ドラフト3位・西鉄
所属球団 西鉄・太平洋・クラウン/阪神
通算成績 1371試合1085安打216本塁打・打率.249
妻・子供 公表情報なし

神奈川県で生まれ、地元の鎌倉学園高校から社会人の日本通運浦和へ進んだ経歴の持ち主です。

身長175cmで体重90kgという体格は、当時のパ・リーグでも屈指のがっちりした体つきでした。

1967年のドラフト3位で西鉄ライオンズに指名され、翌1968年からプロの世界に身を投じています。

西鉄が太平洋クラブ、クラウンライターへと名前を変えていくなかでも主軸を打ち続けました。

1979年からは阪神タイガースに移り、1982年限りで15年間の現役生活にピリオドを打ちます。

この表で分かるように、公開プロフィールには妻や子供を記載する欄そのものがありません。

選手データベースの項目は成績と経歴が中心で、家族構成を載せる設計になっていないんですよね。

球団が発行していた選手名鑑にも家族欄はなく、当時は家族を紹介する発想自体が薄かったと考えられます。

妻の情報が出てこないのは隠しているからではなく、記録として残す場がなかったという事情が見えてきます。

公表情報と実際の見え方

次に、ネット上の見え方と確認できる事実を並べて整理してみます。

検索結果に何が出てくるのかを知っておくと、情報の取り違えをしっかり防げますよ。

情報項目 ネット上の見え方 確認できる事実
妻の名前 検索候補に名前が挙がらない 公表資料に記載なし
妻の顔写真 画像検索では本人の写真のみ 妻の写真は未公開
結婚の時期 入籍日を伝える記事がない 発表された記録は確認できない
死別の有無 妻に先立たれたと読める記述 月刊タイガースの連載に一文
子供・孫 息子や娘の名前が出てこない 家族構成の公表なし
離婚や再婚 そうした話題自体が存在しない 報じられた事実はない

表を見ると、噂が飛び交っているわけではなく情報そのものが存在しない状態だと分かります。

よくあるゴシップのように、妻が誰々ではないかという推測記事すら見当たりません。

唯一の手がかりが月刊タイガースの一文で、そこから死別という結論が読み取れる形です。

検索窓に名前を入れると、関連ワードとして出てくるのは現在やフォーム、デッドボールばかりでした。

つまり世間の関心は妻よりも独特の打撃フォームと死球数に向いていたということですね。

その関心の偏りが、結果として家庭の情報が流通しなかった理由にもつながっています。

名前と顔写真が出てこない事情

ここでは、なぜ名前や顔写真にたどり着けないのかを具体的に見ていきます。

仕組みが分かれば、これ以上あてもなく検索し続ける必要がなくなりますよ。

いちばん大きな理由は、竹之内雅史さんの現役時代が1968年から1982年までだという点です。

テレビのワイドショーが選手の私生活を追いかける文化は、まだ根づいていませんでした。

とくに所属していた西鉄や太平洋クラブ、クラウンライターは九州を本拠にしたパ・リーグ球団です。

当時のパ・リーグは観客動員にも苦しんでおり、全国メディアの取材量そのものが限られていました。

阪神に移ってからは注目度が上がったものの、報じられたのは打棒とフォームの話題が中心でした。

1979年に25本塁打を放った活躍ぶりと、毎年変わる構えの謎に記者の関心が集まっていたのです。

妻を取材するような企画は組まれず、結果として名前を知る機会が訪れなかったわけですね。

引退後も学習塾の経営や台湾での指導、大学野球の現場という裏方寄りの活動が続きました。

表舞台で家族について語る場面がほとんどなかったことも、情報が残らなかった一因でしょう。

妻に関する情報がないことは、不仲や離婚を示すものではありません。

単純に語られる機会がなかっただけという可能性が高く、憶測で話を広げるのは避けたいところです。

分からないことは分からないまま置いておくのが、この人物に対する誠実な向き合い方だと思います。

妻との死別が語られた唯一の記録

ここでは、妻に関する唯一の記録を一次情報に近い形で掘り下げます。

どんな場面で語られた言葉なのかを知ると、情報の重みが変わって見えてきますよ。

月刊タイガース連載に残る一文

妻について触れているのは、月刊タイガースの本間勝交遊録という連載だけです。

この連載は阪神にゆかりのある人物を一人ずつ取り上げる企画で、竹之内雅史さんは37人目でした。

掲載は2012年9月号で、見出しには独特のフォームがトレードマークという言葉が添えられています。

筆者の本間勝さんは、竹之内雅史さんが西鉄に入団したのと入れ替わりでユニフォームを脱いだ人物です。

その後は新聞記者として球場に通い、さらに阪神の広報担当へと立場を変えていきました。

つまり同じ球団に在籍した関係者であり、外部のライターよりも距離が近い書き手なんですよね。

その本間勝さんが文章の終盤で、再会した日の様子をこう書き残しています。

気の毒に、奥さんに先立たれたらしいが、相変わらず元気だったという一文です。

妻という単語ではなく奥さんという呼び方が使われているのも、距離の近さを感じさせます。

この一文から読み取れるのは、再会した時点で妻がすでに亡くなっていたという事実関係です。

名前や亡くなった日付、病名といった具体的な情報は一切書かれていません。

それでも妻が確かに存在し、夫婦として歳月を重ねていたことは確認できます。

公開情報が少ないなかで、ここまで具体的な記述が残っているのは貴重だと思いますよ。

アウトレットモールでの再会

その一文が書かれた場面は、意外なほど日常的なものでした。

本間勝さんが記しているのは、あるアウトレットモールでばったり再会したという状況です。

球場や取材現場ではなく、買い物客が行き交う商業施設での偶然の出会いだったわけですね。

二人が顔を合わせたのは、1987年に阪神のコーチを離れた日以来だったと読み取れます。

再会した竹之内雅史さんの様子については、相変わらず元気だったと書かれていました。

多少歳はとって見えたが当然のことという表現も続いており、気負いのない再会だったようです。

そのやりとりのなかで、妻に先立たれたという話題が自然に出てきたのだと考えられます。

公式の場で発表されたものではなく、旧知の間柄だから共有された情報という性格が強いですよね。

だからこそ名前や時期といった詳細は、記事に書き起こされないまま終わっています。

本間勝さんは同じ段落で、まだ某大学で野球を教えているから元気そのものとも記しました。

妻を失ったあとも野球の現場に立ち続けていた姿が、この一文から浮かび上がってきます。

やっぱり野球大好き人間という言葉で、本間勝さんは竹之内雅史さんを評しています。

ここ、人物像がぐっと立体的になるポイントだと思いますよ。

一昨年という表現が指す時期

気になるのは、妻に先立たれたのがいつごろなのかという点ですよね。

本間勝さんは再会の時期について、一昨年だったと思うという書き方をしています。

この連載が載ったのは2012年9月号ですから、一昨年は2010年ごろを指すことになります。

つまり2010年ごろの再会時点で、妻はすでに亡くなっていたと読み取れるわけです。

下記の表は本間勝さんの文章から読み取れる出来事を、時系列で整理したものです。

時期 出来事 記録上の記述
1968年 西鉄ライオンズに入団 本間勝と入れ替わりでの入団
1979年 阪神へ移籍 同じチームの一員になる
1987年 阪神のコーチを離脱 甲子園でロッカーを片付ける
2010年ごろ アウトレットモールで再会 奥さんに先立たれたらしい
2012年9月 月刊タイガースに掲載 本間勝交遊録の37人目

表に整理すると、死別の時期は遅くとも2010年ごろまでという範囲まで絞り込めます。

ただし一昨年だったと思うという表現自体が、書き手の記憶に頼ったものだという点も見逃せません。

2009年や2011年の出来事だった可能性も残り、年単位の誤差は想定しておくべきでしょう。

亡くなった正確な日付を特定できる資料は見つかっていません。

この記事でも、おおよその時期という形でお伝えするのが限界だと考えています。

新しい情報が出てきたときには、きちんと更新していきたいと思っていますよ。

元広報が感じた寂しさの正体

本間勝さんの文章には、妻の話題とは別にもう一つの寂しさがにじんでいます。

それは1987年に阪神のコーチを離れた竹之内雅史さんを見送ったときの感情です。

当時のチームは極度の不振にあえぎ、ダントツの最下位に低迷していた時期でした。

札幌遠征の初戦でヤクルトに2対9と完敗し、打の軸だった掛布雅之さんは登録を抹消されています。

試合後に吉田義男監督と直接話し合ったものの、竹之内雅史さんの策は聞き入れられませんでした。

翌日のゲームでチームの中に竹之内コーチの姿はなく、一人で帰途についたと記されています。

帰阪後に甲子園球場へ立ち寄り、自分のロッカーを片付けていたところで本間勝さんと鉢合わせました。

そのとき差し出された言葉が、お世話になりました、帰ってきてしまいましたというものです。

まだ先のことなど考える余裕はありませんと続け、ニガ笑いしながら握手を求めてきたそうです。

本間勝さんが取材対応について助言すると、何にも喋りませんから大丈夫ですと答えています。

チームを守るために口を閉ざす判断ができる人物であり、心得た男だったと評されました。

こういう人材が出ていくのは、やはり寂しいという一文がその場の空気を伝えています。

妻との死別も含めて、寂しさという感情を軸に書かれた回だったのかもしれませんね。

結婚時期や子供の情報がない理由

ここでは、結婚や子供についての情報がどこまで追えるのかを整理します。

探しても見つからない理由がはっきりすると、検索の手間を減らせるはずですよ。

入籍を伝える記録がない現実

結論から言うと、入籍した年月を伝える記録はどこにも残っていません。

選手名鑑や百科事典的な経歴資料に当たっても、記載されているのは成績と所属球団だけです。

結婚式の様子を伝える記事や、婚約を報じた記録も確認できませんでした。

現役時代の主な話題は、12年連続で2桁本塁打を放った打棒と166死球という記録でした。

1979年に阪神へ移籍した際も、報じられたのはトレードの中身と打線の構想ばかりです。

こうした報道の傾向を見ると、結婚という私的な出来事が記事になる余地はなかったと分かります。

では、いつごろ結婚したと考えるのが自然なのでしょうか。

本間勝さんの文章から読み取れるのは、2010年ごろまでに死別していたという事実だけです。

そこから逆算して結婚時期を推定することは、根拠のない作業になってしまいます。

この記事では、あえて推測せずに分からないという結論でとどめておきますね。

情報がないことを正直に書くほうが、あなたの判断材料として誠実だと考えています。

ネット上に入籍日を断定する記述を見つけたら、出どころを確かめてみてください。

一次情報にたどり着けない話は、どこかで誰かが推測した内容である可能性が高いですよ。

この記事では確認できた記述だけを根拠に、結論をお伝えしています。

子供や孫の記述も見つからない

子供についても、公表された情報はまったく確認できませんでした。

息子や娘の名前が挙がることもなく、何人いるのかという基本的な数字すら不明です。

野球選手の子供が同じ道に進んだ場合は、二世選手として名前が知られるケースも多いですよね。

しかし竹之内という姓でプロ野球に進んだ親族は、記録のうえで確認できません。

阪神やダイエーでコーチを務め、台湾でも指導した経歴から見ても、親子での話題は出ていません。

羽衣国際大学で硬式野球部の総監督を務めていた時期も、取り上げられたのは指導論が中心でした。

孫についても同じで、家族を紹介する記事が一本も見つからない状況です。

これは子供がいないことの証明ではなく、公表されていないという状態を意味します。

子供の有無そのものが未確認であり、断定できる材料はありません。

家族構成を知りたい気持ちは分かりますが、ここは推測を重ねないほうが安全ですよ。

唯一確かなのは、妻と呼べる存在が確かにいたという一点だけです。

その一点を手がかりに、残された記録を丁寧に読み解いていくしかないのが現状です。

二世選手や親族の活躍があれば、球界の資料に名前が残るのが普通ですよね。

その痕跡がないという事実も、一つの情報として受け止めておきたいところです。

検索上位を占める名簿PDFの正体

妻について検索しても情報に行き着けない原因は、検索結果の中身にもあります。

実際に調べてみると、上位に並ぶのは竹之内という姓が載った名簿形式のPDFばかりでした。

下記の表は検索上位のページと、本人との関係を整理したものです。

検索順位 ページの内容 本人との関係
1位 医療機関の一覧表のPDF 同姓の別人が掲載
3位 大学支援基金の寄附者芳名 同姓の寄附者が掲載
4位 兵庫県の建設業許可業者名簿 同姓の事業者が掲載
7位 書道展の入賞入選者一覧 同姓の出品者が掲載
8位 駅伝大会の記録表 同姓の出場者が掲載
9位 月刊タイガースの連載記事 本人を扱った唯一の記録

表を見ると、上位8件のうち7件は野球とまったく関係のない名簿だと分かります。

検索エンジンが竹之内という姓の並びを拾い、名簿PDFを上位に押し上げている状態ですね。

妻という単語に対応する情報が存在しないため、姓の一致だけで順位が決まってしまうわけです。

これらのPDFには本人の家族情報は含まれていません。

名簿の中に竹之内という名字を見つけても、親族だと判断するのは早すぎますよ。

同姓の人物を家族として紹介してしまう誤情報は、こうした仕組みから生まれます。

検索しても見つからないのはあなたの探し方のせいではなく、情報自体がない構造だったのです。

報道が家庭を追わなかった時代

前述の通り、現役時代が1968年から1982年までという古さが情報の少なさに直結しています。

ここではもう一歩踏み込んで、当時の報道環境を具体的に見ていきましょう。

所属していた西鉄ライオンズは九州を本拠にした球団で、球団名も次々に変わりました。

太平洋クラブライオンズ、クラウンライターライオンズと看板が替わる激動期を過ごしています。

球団経営そのものが不安定な時期であり、選手の家庭を取材する余裕はありませんでした。

当時のスポーツ報道は試合結果と技術論が主役で、家庭をのぞく企画はほとんど存在しません。

阪神に移ってからは人気球団の一員になりましたが、注目されたのは打棒とフォームでした。

星野仙一さんからやる気ないのかと怒鳴られた逸話も、あくまで打撃フォームの話題です。

週刊ポスト2016年9月16日・23日号のインタビューでも、語られたのはバッティングの試行錯誤だけでした。

家族について質問された様子は記事に残っておらず、妻をうかがわせる発言も掲載されていません。

つまり本人が語らなかったのではなく、聞かれる機会がなかったという構図なんですよね。

公表されていないという事実そのものが、この時代を生きた選手の答えなのかもしれません。

情報が出てこない背景が分かると、無理に探さなくてもいいかなと思えてきますよね。

妻と過ごした現役引退後の歩み

ここでは、妻と暮らしていたはずの引退後の歩みを時系列で追いかけます。

どんな仕事で家庭を支えてきたのかが見えると、人物像がぐっと近づいてきますよ。

1982年引退からコーチ転身まで

竹之内雅史さんは1982年のシーズン限りで現役を引退しました。

最終年の出場はわずか14試合で、打席数は18という寂しい数字でした。

1979年に25本塁打を放った主砲が、3年で第一線を去ることになったわけですね。

引退後は球界に残り、阪神でコーチとして指導者の道を歩み始めます。

月刊タイガースの連載では、1987年の時点でもうコーチになっていたと記されていました。

当時の阪神は1985年に日本一を達成した二年後という、落差の大きい時期を迎えていました。

打の軸だった掛布雅之さんが前の年に死球で手首を骨折し、故障がちの体になっていたのです。

連続試合出場が途切れてからは戦列を離れることが多くなったと本間勝さんは書いています。

チームは極度の不振に陥り、ダントツの最下位という苦しい戦いを続けていました。

不振を立て直す立場にいたコーチとして、竹之内雅史さんも打開策を模索したのでしょう。

その結果として吉田義男監督と直接話し合い、意見が通らずにチームを離れる決断に至ります。

いかにも行動派の竹之内氏らしいところという表現が、本間勝さんの文章に残されています。

この離脱が、第二の人生へ踏み出すきっかけになったとも言えますよね。

学習塾を開いた第二の人生

阪神を離れたあとの歩みは、プロ野球の世界から大きく外れたものでした。

本間勝さんは、以降は学習塾をしていたこともありという形で近況を記しています。

ユニフォームを脱いだ元プロ野球選手が、子どもたちに勉強を教える立場に回ったわけです。

球界に残ってコーチを続ける道もあったはずですが、あえて別の分野に飛び込みました。

この選択には、家庭を支えるための現実的な判断も含まれていたと考えられます。

1987年のチーム離脱はシーズン途中の出来事で、次の職が決まっていたわけではありません。

まだ先のことなど考える余裕はありませんという本人の言葉が、その状況をよく表しています。

退団を覚悟したうえで帰ってきたと本間勝さんは見抜いていました。

そこから学習塾という新しい仕事を立ち上げたのですから、相当な行動力ですよね。

野球の指導ではなく学習指導という点も、意外な一面として印象に残ります。

球界の変わり者と見られがちだった人物が、教える仕事では真面目さを発揮したのでしょう。

野球に取り組む姿勢は実に真面目という評価は、そのまま塾の運営にも当てはまりそうです。

この時期に家族がどう支えたのかは記録に残っていませんが、転機だったことは間違いありません。

台湾と有馬温泉で過ごした日々

学習塾のあとに訪れたのは、海を越えた指導者生活でした。

本間勝さんの文章には、台湾でコーチもしていたという一文が記されています。

一方で列伝のプロフィール欄には、台湾プロ野球でも監督を務めたと書かれていました。

コーチと監督という二つの記述があるため、現地で立場が変わった可能性も考えられます。

台湾プロ野球は1990年に開幕した比較的新しいリーグで、日本人指導者が多く渡っています。

日本語と中国語が入り混じる環境で、打撃指導にあたっていたことになりますね。

帰国してからの職場は、兵庫県の有馬温泉にある宿泊施設でした。

本間勝さんは、帰国してから有馬温泉の某宿泊施設に勤務していたと書いています。

プロ野球の主砲から学習塾、台湾の指導者を経て、旅館業へと渡り歩いた経歴です。

これだけ職種が変わっても野球の現場に戻ってきたのですから、相当な執着ですよね。

有馬温泉で働いていた時期も野球との縁は切れていなかったようです。

そして再会したときには、某大学で野球を教えているという状況に戻っていました。

妻と過ごした年月のなかで、これだけの変化を乗り越えてきたことになります。

職場が変わるたびに生活の拠点も動いたはずで、家族の負担も小さくなかったでしょう。

それでも最後は野球に戻る選択を続けたのですから、相当な情熱ですよね。

経歴の流れを整理した一覧表

ここまでの歩みを整理してみます。

下記の表は引退後の経歴を、確認できる記述にもとづいて並べたものです。

時期 立場 内容
1982年 現役引退 15年間の選手生活を終える
1987年まで 阪神のコーチ コーチの一員として指導にあたる
1987年 阪神コーチを離脱 シーズン途中にチームを離れる
離脱後 学習塾の経営 野球を離れて教える仕事に就く
時期不明 ダイエーのコーチ 球界に復帰して指導を続ける
その後 台湾プロ野球で指導 コーチと監督の記述が残る
帰国後 有馬温泉の宿泊施設 野球以外の仕事に就いていた
2010年代 大学野球の総監督 硬式野球部で学生を指導

表にすると、球界と球界の外を行き来してきた経歴だとよく分かります。

ダイエーでのコーチ就任時期については、資料に年が記されていませんでした。

ダイエーホークスが誕生したのは1989年なので、それ以降の話だと推測できます。

学習塾や台湾、有馬温泉という期間との前後関係も、はっきりとは確認できません。

確実に言えるのは、どの時期も最後は野球に戻ってきたという一点です。

妻を亡くしたあとも現場に立ち続けた理由が、この経歴から伝わってくる気がします。

表に並べた8つの立場のうち、半分以上が野球の現場に関わるものでした。

職業が変わっても軸がぶれていない点が、この人物の面白さだと思いますよ。

竹之内雅史の現在と野球への情熱

ここでは、公開情報から確認できる最新の姿を整理します。

妻を亡くしたあとどんな日々を送っているのか、気になるところですよね。

羽衣国際大学の総監督として

公開情報で確認できる最後の肩書きは、大学野球の総監督です。

月刊タイガースの列伝欄には、羽衣国際大学公式野球部総監督と記されていました。

この大学は大阪府にあり、硬式野球部は関西の学生リーグで戦っています。

NEWSポストセブンが2016年9月に公開した記事でも、同じ肩書きが紹介されていました。

記事の冒頭には、現在は羽衣国際大学硬式野球部総監督の竹之内雅史氏という説明が添えられています。

つまり2012年の連載から2016年の取材まで、同じポジションにいたことが分かりますね。

プロで216本塁打を放った打者が、学生に打撃を教える立場に回ったわけです。

毎年フォームを変え続けた経験は、形にはまらない指導として生きたのではないでしょうか。

自分に合った形を探し続けた試行錯誤こそが、指導者としての財産だったはずです。

本間勝さんは再会したときの印象を、まだ某大学で野球を教えているから元気そのものと表現しました。

妻を亡くしたあとも、グラウンドが生活の中心にあったということですね。

その後の動向を伝える記事は見つかっておらず、最新の状況は確認できていません。

新しい情報が出てきたら、きちんと追いかけていきたいところです。

やる気なし打法を語った近況

本人の言葉がまとまった形で残っているのは、2016年のインタビュー記事です。

週刊ポスト2016年9月16日・23日号に掲載され、竹之内打法について本人が語りました。

冒頭から、私のバッティングフォームの形と聞かれると答えに困るよと切り出しています。

毎日のようにフォームが変わっていたからねという説明が、そのまま理由になっていますね。

最初は普通に構えていたのに、ど真ん中のボールを打っても内野フライになってしまったそうです。

上手くミートする方法を探してバットを寝かせたら、ボールに一直線でバットが出るようになりました。

それが変形してバットを担ぐようになり、また打てなくなると猫背でベースに被ってみたとのこと。

投げる側としては、過去の対戦データが関係ないから困っただろうねとも語っています。

そしてバットを担いで構えたとき、星野仙一さんがマウンドからやる気ないのかと怒鳴ってきたそうです。

コーチからはフォームはそんなに変えるものじゃない、自分のフォームを作れと言われ続けました。

それでも216本の本塁打を打ったのだから、プロは成績を残せば勝ちなんですよという結論です。

この言い切りに、70代になっても変わらない芯の強さがにじんでいますよね。

妻を亡くしたあとのインタビューでも、語り口は明るいままでした。

周囲が語る人柄と評価

周囲の評価を知ると、現在の姿もより立体的に見えてきます。

本間勝さんは最初、球界の変わり者で異質な存在なのかと注目したと書いています。

ところが実際に取材してみると、とんでもないという感想に変わったそうです。

野球に取り組む姿勢は実に真面目で、そのギャップに驚くばかりだったと記されました。

フォームを変えるのも好い加減な気持ちではなく、本人はいたって真面目だったと評しています。

自分に合った形をと試行錯誤しながら、懸命に取り組んだ結果だったわけですね。

1987年にチームを離れる場面でも、何にも喋りませんからと口を閉ざす判断をしました。

この問題が尾を引くことはなかったと本間勝さんは振り返り、感謝の言葉を残しています。

なかなかできた人間だったという評価は、球団を守った行動への敬意でしょう。

一本気な男だ、心得た男だったという表現も繰り返し使われていました。

こういう人材が出ていくのは、やはり寂しいという一文が全てを語っています。

妻に先立たれた話題が同じ段落に置かれているのも、その寂しさと重なるからだと思います。

人柄が伝わる記述が残っているのは、ファンとしてありがたいところですよね。

成績や記録だけでは分からない部分を、同じ球団にいた人物が書き残してくれました。

野球から離れられない男の素顔

本間勝さんが文章を締めくくった言葉が、人物像をいちばん端的に表しています。

やっぱり野球大好き人間で、野球から全く離れて暮らすことのできない男だという一文です。

学習塾を開き、台湾に渡り、有馬温泉の宿泊施設に勤めても、最後は野球に戻ってきました。

ユニフォームを脱いだ期間があっても、グラウンドとの縁は切れなかったわけですね。

再会した日の様子は、多少歳はとって見えたが当然のことと書かれていました。

それでも大学で野球を教えているから元気そのものという評価が続いています。

妻を失ったあとも現場に立ち続けた姿が、この表現からはっきり伝わってきます。

家族を語る記録がほとんど残っていないぶん、野球への向き合い方が人物像の中心になります。

毎年構えを変え、166個の死球を受け止め、それでも打席に立ち続けた15年間でした。

その生き方は引退後の職業の変転にも、そのまま重なって見えますよね。

妻との死別を乗り越えて野球を続けた姿こそが、この人物の答えだと感じます。

公式SNSや大学の発表に新しい動きがあれば、チェックしてみるのがおすすめですよ。

気になる人も多いはずなので、新情報があればこの記事も更新していきます。

竹之内雅史の野球人生15年|妻と過ごした時代

  • 鎌倉学園から日通浦和への道
  • 西鉄入団と12年連続2桁本塁打
  • 166死球が語る体を張った打撃
  • 田淵幸一との大型トレードで阪神へ
  • 毎年変わった竹之内打法の正体

鎌倉学園から日通浦和への道

ここでは、プロ入りまでの道のりを順を追って整理します。

どんな土地で育ちどんな経路でプロに入ったのかが分かると、人物像の土台がつかめますよ。

神奈川県で生まれた1945年

竹之内雅史さんが生まれたのは1945年3月15日です。

出身地は神奈川県で、終戦を迎える年の春に産声を上げたことになります。

この時期の日本はまだ戦時下にあり、生活そのものが厳しい状況に置かれていました。

そんな時代に生まれた世代が、のちの高度経済成長期にプロ野球を支えていきます。

同じ1945年生まれの選手には、球界を引っ張った名前がいくつも並びますよね。

体格は身長175cm、体重90kgというがっちりした体つきに育ちました。

現在の基準でも重量級に入る体重で、当時としては相当な恵まれた体でした。

投打はいずれも右で、ポジションは外野と内野を兼ねる形で起用されています。

本間勝さんは強靭な体の持ち主で、ケガにも強かった男だったと書き残していますよ。

のちに166個もの死球を受けながら打席に立ち続けられたのは、この体があったからでしょう。

家族については、両親の職業も兄弟の有無も公表されていません。

生い立ちに関する記録もほとんど残っていないのが実情です。

幼少期にどんな野球環境で育ったのかを伝える資料も見つかりませんでした。

分かっているのは生年月日と出身地、そして恵まれた体格という3点だけです。

ここでは確認できる事実だけを、順番に積み上げていきますね。

鎌倉学園で甲子園の土を踏む

進学先は神奈川県鎌倉市にある鎌倉学園高校です。

建長寺を母体とする仏教系の学校で、現在は進学校として知られています。

週刊ベースボールONLINEの経歴欄には、鎌倉学園高に甲という記号が添えられていました。

これは甲子園への出場経験を示す表記で、高校時代に全国の舞台を踏んだことが分かります。

神奈川は全国屈指の激戦区ですから、県を勝ち抜いた実力は相当なものだったはずです。

ただし出場した年や成績、当時の打順については記録が確認できませんでした。

高校時代のエピソードを伝える記事も見つからず、この時期の情報は限られています。

それでも甲子園経験者として社会人野球に進んだ点は押さえておきたいところです。

高校卒業時にプロから直接声がかからなかったのは、当時としては珍しくありません。

1960年代は社会人野球で力をつけてからプロに入るルートが主流だったのです。

結果としてこの遠回りが、プロで通用する体と技術を育てることになりました。

鎌倉という土地で野球を始めた少年が、九州の球団で主砲になるわけですから面白いですよね。

鎌倉学園の硬式野球部は現在も神奈川県の大会で戦い続けています。

プロ野球で216本塁打を放ったOBがいることも、学校の歴史として残っていますよ。

ここ、経歴を追うほど味わいが出てくる部分だと思います。

日本通運浦和で磨いた打棒

高校卒業後に進んだのは、社会人野球の日本通運浦和です。

資料によって表記が揺れており、日通浦和や日本通運と書かれる場合もあります。

月刊タイガースの連載では日通浦和、週刊ベースボールONLINEでは日本通運浦和という表記でした。

NPBの選手データでは、経歴欄が鎌倉学園高から日本通運と記されています。

いずれも同じ埼玉県の企業チームを指しており、別のチームというわけではありません。

社会人野球の名門で打棒を磨き、プロのスカウトの目に留まることになります。

この時期に身につけたのが、体の強さを生かした長打力でした。

木製バットで外野へ運ぶ力は、高校時代よりも一段上がったと考えられます。

社会人時代の成績や打順についても、詳しい記録は残っていませんでした。

ただ本間勝さんは、大きな夢を抱いたマジメ人間という言葉でこの時期を表現しています。

1968年に鎌倉学園から日通浦和を経てのプロ入りという記述が残されています。

遠回りに見えるこのルートが、結果として15年の現役生活を支える土台になりました。

社会人を経ているからこそ、入団1年目から一軍で53試合に出られたのでしょうね。

日本通運は現在も社会人野球の強豪として知られるチームです。

浦和を拠点にしたチームで実戦を積んだ経験が、プロでの土台になりました。

1967年ドラフト3位で西鉄へ

プロ入りが決まったのは1967年のドラフト会議です。

指名したのは当時のパ・リーグの名門、西鉄ライオンズでした。

順位は3位で、上位指名とは言えないものの期待のかかる位置づけでした。

この入団にはちょっとした縁があり、本間勝さんが入れ替わりでチームを去っています。

私と入れ替わりで西鉄ライオンズに入団したという一文が、連載に記されていました。

そのため二人は同じユニフォームを着てプレーしたことがありません。

残念ながら一緒に、同じユニホームを着てプレーしたことはないという表現が使われています。

代わりに本間勝さんは新聞記者として、球場で何度も取材を重ねました。

新聞記者に成り立てのホヤホヤという立場で、若手時代を見続けたわけですね。

その関係が、のちに阪神で同じチームになる縁へとつながっていきます。

西鉄ライオンズは福岡を本拠にした球団で、現在の埼玉西武ライオンズの前身です。

神奈川出身の選手が九州の球団で主砲に育っていくという流れになりました。

社会人出身の3位指名という条件は、即戦力として期待された位置づけです。

その期待に応えて1年目から一軍に定着したのですから、評価は妥当でしたね。

西鉄ライオンズは1950年代に黄金期を築いた球団で、伝統の重みがありました。

この入団が15年にわたる現役生活の出発点になったわけです。

西鉄入団と12年連続2桁本塁打

ここでは、プロでの成績を数字で追いながら打者としての実像を確認します。

数字で裏づけを取っておくと、ネット上の評価に惑わされずに済みますよ。

1968年の新人シーズン

プロ1年目は1968年で、西鉄ライオンズの一員として53試合に出場しました。

打席数は156、打数は142で、33安打を放って打率は2割3分2厘でした。

本塁打は6本、打点は17という数字で、新人としては合格点に近い内容です。

社会人を経ているとはいえ、1年目から一軍で起用されたのは評価の高さを示しています。

注目したいのは、この年すでに5死球を受けているという点です。

142打数で5死球というペースは、のちの166死球を予感させる数字ですよね。

長打率は4割2分3厘で、安打数のわりに塁打を稼ぐタイプだと分かります。

翌1969年は103試合に出場し、打率は2割0分5厘まで落ち込みました。

それでも本塁打は10本に伸び、ここから連続記録が始まります。

打率が下がっても長打を打てる打者として、起用され続けたわけですね。

この2年目に受けた死球は11個で、2桁の死球も同時にスタートしました。

打率より本塁打、安全より前進という打撃スタイルが早くから固まっていたのでしょう。

1年目の三振は27個で、極端に当たらない打者ではなかったことも分かります。

2年目は43三振に増えており、長打を狙う姿勢が強まったと読み取れますね。

ここ、打者としての個性がはっきり出ている部分だと思います。

2年目から続いた連続記録

竹之内雅史さんを語るうえで欠かせないのが、2桁本塁打の連続記録です。

週刊ベースボールONLINEの選手紹介には、2年目から12年連続2ケタ本塁打をマークと記されています。

一方で月刊タイガースの列伝欄には、10年連続二桁本塁打を記録と書かれていました。

この食い違いが気になったので、NPB公式の年度別成績で確認してみます。

1969年に10本、1970年に19本、1971年に10本、1972年に15本と積み上げています。

続いて1973年と1974年が22本、1975年が19本、1976年が16本という数字でした。

さらに1977年が26本、1978年が14本、阪神移籍後の1979年が25本と続きます。

そして1980年の12本までで途切れており、1969年から1980年までの12年連続となります。

つまり週刊ベースボールONLINEの12年連続という記述が、公式データと一致する形ですね。

月刊タイガースの10年連続という表記は、西鉄系の球団にいた期間を数えたものと考えられます。

どちらにしても、10年を超えて2桁本塁打を続けた打者は多くありません。

所属球団が3度も名前を変えるなかで記録を伸ばしたのですから、立派な数字ですよね。

この安定感が、主軸として起用され続けた最大の理由でした。

太平洋とクラウンでの主軸時代

西鉄ライオンズは1973年から太平洋クラブライオンズへと名前を変えます。

さらに1977年にはクラウンライターライオンズへと、わずか数年で二度も看板が替わりました。

球団経営が揺れるなかでも、竹之内雅史さんの打棒は安定していました。

太平洋時代の1973年は110試合で22本塁打、70打点を記録しています。

翌1974年は119試合で22本塁打、73打点とキャリアハイの打点をマークしました。

1975年は打率2割6分7厘まで上げ、122試合に出場して55打点を挙げました。

クラウンライター時代の1977年には、自己最多となる26本塁打を放ちました。

この年は119試合で58得点を挙げ、長打率も4割9分2厘という高さでした。

当時の監督は、のちに球界の業師と呼ばれた故・根本陸夫さんです。

本間勝さんも連載の次回でこの人物を取り上げると書き、野球の見方を伝授してくれた人と評していました。

根本陸夫さんのもとで主軸を任され、最も本塁打を打った年を迎えたわけですね。

球団名が変わっても4番から外れなかった存在感が数字に表れています。

1976年も112試合で16本塁打を放ち、安定した数字を残しています。

ここ、パ・リーグの歴史を知るうえでも面白いポイントだと思いますよ。

年度別成績で見る打棒の推移

ここでは西鉄系3球団での11年間を、数字で振り返ります。

下記の表はNPB公式の年度別成績をもとに、主な項目を抜き出したものです。

年度 球団 試合 本塁打 打点 打率
1968年 西鉄 53 6 17 .232
1969年 西鉄 103 10 26 .205
1970年 西鉄 117 19 40 .231
1971年 西鉄 54 10 24 .247
1972年 西鉄 95 15 46 .238
1973年 太平洋 110 22 70 .251
1974年 太平洋 119 22 73 .258
1975年 太平洋 122 19 55 .267
1976年 太平洋 112 16 43 .250
1977年 クラウン 119 26 51 .263
1978年 クラウン 117 14 44 .267

表を見ると、1973年以降は毎年110試合前後に出場し続けていると分かります。

1971年だけ54試合と少ないのは、故障などで出場機会が減ったためと考えられます。

打率は2割0分5厘から2割6分7厘の幅で推移し、長打力で貢献するタイプでした。

打点は1974年の73が最多で、1973年の70と並んで打線の中心を担っています。

この11年間の本塁打を合計すると179本という数字になります。

阪神での37本を加えて通算216本塁打という記録が完成しました。

数字を並べると、派手さよりも継続性で評価された打者だと見えてきますよね。

166死球が語る体を張った打撃

ここでは、竹之内雅史さんを象徴する死球の記録を掘り下げます。

数字の意味が分かると、打席での姿がありありと想像できるようになりますよ。

歴代2位の通算166死球

結論から言うと、通算166死球は日本プロ野球の歴代2位という記録です。

1位は清原和博さんの196死球で、その差は30個となっています。

注目したいのは、両者の出場試合数がまったく違うという点です。

清原和博さんは2338試合に出場して196死球を記録しました。

一方で竹之内雅史さんは1371試合で166死球という密度の高さです。

1試合あたりに換算すると、清原和博さんを大きく上回るペースになります。

通算打席数は4873で、そのうち166回が死球だったことになりますね。

割合にすると3.4パーセント程度で、30打席に1回は体に当てられていた計算です。

現役時代は15年しかないため、短い期間に集中して受けていたことが分かります。

実働期間は1968年から1982年までで、ランキング上位では最も短い年数です。

これだけ体に当てられながら、12年連続で2桁本塁打を放っていたわけですよね。

ケガにも強かった男という本間勝さんの評価が、この数字を裏づけています。

通算四球は310個で、死球と合わせると476回も出塁のきっかけを得ています。

四球より死球が多いシーズンもあり、選球眼より踏み込みで勝負する打者でした。

痛みを抱えたまま打席に立ち続けた15年間だったのでしょう。

リーグ最多7回という異常値

もう一つ押さえておきたいのが、死球王に立った回数です。

週刊ベースボールONLINEの選手紹介には、リーグ最多7回という記述があります。

つまり15年の現役生活のうち、ほぼ半分のシーズンでリーグ最多の死球を受けていました。

年度別に死球数を見ると、その偏りがはっきり分かります。

1969年に11個、1970年に15個、1971年に14個と早い段階から2桁を記録しました。

1973年は16個、1975年は17個、1978年も16個という数字が並んでいます。

最も多かったのは1975年の17個で、122試合でこの数は相当なものです。

阪神に移った1979年も12個を受けており、球団が変わっても傾向は変わりませんでした。

1981年はわずか52打数で3死球を受けており、打席数に対する割合はさらに上がります。

これは偶然ではなく、構えそのものが投手に当たりやすい形だったためです。

ホームベースに覆いかぶさるような構えを取っていた時期もあったと記録されています。

本間勝さんは、よく見るとホームベースに覆いかぶさっているではないかと驚いています。

これだけ内側に踏み込めば、内角球が体に当たるのは避けられませんよね。

投手にとっても、当てたくないのに当たってしまう厄介な相手だったはずです。

清原和博と衣笠祥雄との比較

歴代ランキングのなかでの位置づけも確認しておきましょう。

下記の表は通算死球の歴代上位5人を、実働期間とあわせて整理したものです。

順位 選手 死球 実働期間 試合
1位 清原和博 196 1986〜2008年 2338
2位 竹之内雅史 166 1968〜1982年 1371
3位 衣笠祥雄 161 1965〜1987年 2677
4位 阿部慎之助 152 2001〜2019年 2282
5位 村田修一 150 2003〜2017年 1953

表を見ると、上位5人のなかで試合数が1371と突出して少ないことが分かります。

3位の衣笠祥雄さんは2677試合、鉄人と呼ばれた連続出場記録の持ち主です。

その衣笠祥雄さんより少ない試合数で、より多くの死球を受けているわけですね。

1試合あたりの死球数を計算すると、竹之内雅史さんは0.12個という数字になります。

清原和博さんは0.084個、衣笠祥雄さんは0.060個ですから、際立った数字です。

現役では楽天の鈴木大地さんが147死球で歴代6位につけています。

その鈴木大地さんも1800試合を要しており、やはり試合数の差は大きいままです。

歴代上位には長く主力を張った打者が並びますが、実働15年は最も短い部類です。

この比較だけでも、どれだけ体を張った打撃だったのかが伝わってきますよね。

死球を恐れない構えの代償

では、なぜそこまで体に当てられる構えを続けたのでしょうか。

理由はシンプルで、打つための最適な位置を探り続けた結果でした。

本人は週刊ポストのインタビューで、上手くミートする方法がないかと探したと語っています。

バットを寝かせたらボールに一直線でバットが出るようになったという発見がありました。

その感覚を追いかけるうちに、構えがどんどん内側へ寄っていったのでしょう。

内角を厳しく攻められれば当たりますが、踏み込めば外角も打てるようになります。

長打を増やすために、痛みを引き受けるという選択をしていたわけですね。

その代償として、166個の死球が記録に刻まれることになりました。

ただ本間勝さんは、強靭な体の持ち主でケガにも強かった男だったと書いています。

体が頑丈だったからこそ、このスタイルを15年続けられたのだと思います。

1981年と1982年は出場機会が激減し、最後の2年は本塁打が1本も出ませんでした。

蓄積したダメージが終盤の成績に影を落とした可能性も考えられます。

1980年までは12本塁打を放っていたので、衰えは急激に訪れたことになります。

この落差を見ると、死球の蓄積という見方にも説明力がありますよね。

体を張った打撃が記録と引き換えだったとすれば、なんとも重い数字ですよね。

田淵幸一との大型トレードで阪神へ

ここでは、キャリアの転機となった移籍を整理します。

この移籍があったからこそ、阪神ファンの記憶に残る打者になりました。

1978年オフの大型トレード

1978年のオフ、球界を揺るがす大型トレードが成立しました。

阪神が田淵幸一さんと古沢憲司さんを放出し、ライオンズ側から3人以上を受け入れる形です。

下記の表はこのトレードで動いた主な選手を、移動方向別に整理したものです。

移動方向 選手 当時の立場
阪神へ 竹之内雅史 クラウンで主軸を打った打者
阪神へ 真弓明信 のちに通算292本塁打を記録
阪神へ 若菜嘉晴 ライオンズの捕手
ライオンズへ 田淵幸一 阪神の本物の四番打者
ライオンズへ 古沢憲司 阪神の投手

表で分かるように、阪神は看板打者を手放す決断をしています。

田淵幸一さんは阪神の四番を長く務め、通算128死球を記録した強打の捕手でした。

その田淵幸一さんを出してまで、打線の若返りと層の厚みを求めたわけですね。

月刊タイガースの列伝欄には、真弓選手と若菜選手とともに阪神へと記されています。

この3人がのちの阪神を支える存在になったのですから、球団の判断は当たりました。

真弓明信さんは通算292本塁打を放ち、1985年の日本一にも貢献しています。

30代半ばを迎えた竹之内雅史さんにとっては大きな環境変化でもありました。

九州と関西を本拠にする球団を渡ったわけで、生活の場も移っています。

この移籍が妻にとっても転機だったはずですが、当時の様子は記録に残っていません。

移籍1年目に放った25本塁打

環境が変わった1年目、竹之内雅史さんは見事に結果を出しました。

1979年は112試合に出場し、25本塁打という数字を残しています。

これは自己最多の26本に次ぐ、キャリア2位の本塁打数でした。

打点は66で、打率は自己最高の2割8分2厘という高さです。

長打率も5割2分4厘まで伸び、唯一5割を超えたシーズンになりました。

月刊タイガースの列伝欄にも、タイガースでも翌シーズン25本の本塁打を記録したと書かれています。

移籍組が1年目から主軸として機能したのですから、トレードは大成功ですよね。

甲子園という広い球場で25本を打ったことも、評価を高めた要因でした。

この年の四球は32、死球は12で、相手投手から警戒されていたことが分かります。

113安打のうち18本が二塁打、2本が三塁打という内訳も長打力を示しています。

セ・リーグの投手は過去の対戦データを持っていなかったはずです。

投げる側としては過去の対戦データが関係ないから困っただろうねという本人の言葉が効いてきます。

得点は55を記録し、走者としての働きも見せています。

移籍1年目にこれだけ打てば、ファンの記憶に残るのも当然ですよね。

移籍とフォーム変更が、思わぬ相乗効果を生んだのかもしれませんね。

阪神での4年間の成績推移

阪神での4年間はどう推移したのでしょうか。

下記の表は移籍後の成績を、年度ごとに並べたものです。

年度 試合 本塁打 打点 打率 長打率
1979年 112 25 66 .282 .524
1980年 91 12 47 .233 .411
1981年 33 0 3 .173 .212
1982年 14 0 1 .125 .188

表を見ると、1979年と1980年までは主軸として働いていたと分かります。

1980年も91試合で12本塁打、47打点を挙げて連続記録を12年に伸ばしました。

ところが1981年は33試合で52打数と、出場機会が一気に減っています。

打率1割7分3厘、本塁打0という数字で、主軸から外れたことが読み取れます。

最終年の1982年はわずか14試合、16打数で2安打という結果でした。

この2年間の落差を見ると、体の限界が来ていたことがうかがえます。

166個の死球を受け続けた体への負担も無関係ではないでしょう。

打点も4年間で117を積み上げ、通算606打点という数字につなげています。

1981年と1982年の2年間は合計47試合で、ベンチで過ごす時間が長くなりました。

それでも阪神のユニフォームを着て残した記録は、しっかり刻まれていますよ。

それでも阪神での4年間で37本塁打を加え、通算216本塁打に到達しました。

1982年に迎えた現役引退

現役最後のシーズンとなったのが1982年です。

出場は14試合、打席数は18という数字で、実質的に戦力構想から外れていました。

15年間の現役生活を終え、通算成績は1371試合1085安打216本塁打となりました。

打点は606、盗塁は63、打率は2割4分9厘という最終的な数字です。

月刊タイガースの列伝欄にも、1982年に引退と明記されています。

引退の理由や会見の様子を伝える記録は、残念ながら確認できませんでした。

華やかな引退セレモニーがあったかどうかも、資料からは分かりません。

そのまま阪神に残り、コーチとして第二の人生を歩み始めることになります。

選手としてのキャリアは、西鉄系11年と阪神4年という内訳でした。

球団名は西鉄、太平洋クラブ、クラウンライター、阪神と4つを経験しています。

これだけ環境が変わりながら2桁本塁打を続けたのは、立派な実績ですよね。

派手なタイトルはなくても記録に名前が刻まれた15年間でした。

通算の四球は310、死球は166、三振は599という数字も残されています。

二塁打157本と三塁打10本を加えれば、通算塁打は1910に達します。

派手な打率ではないものの、塁を稼ぐ力は確かに備えていた打者でした。

妻とともに歩んだ現役時代は、ここで一区切りを迎えます。

毎年変わった竹之内打法の正体

ここでは、竹之内雅史さんの代名詞となった打撃フォームを整理します。

なぜ毎年変わったのかが分かると、この人物の芯の部分が見えてきますよ。

毎年構えが変わった15年間

竹之内雅史さんの最大の特徴は、毎年のように構えが変わったことです。

本間勝さんは、毎年のようにバッティングフォームの構えがかわると書いています。

前の年にバットを立てて構えていたかと思えば、今度は寝かせているという変化ぶりでした。

もう落ち着いたかと思うと、次年度は極端なオープンスタンスになっていたそうです。

そして、また年があけるとスタンスがクロスになっているという具合です。

下記の表は本人の説明から読み取れるフォームの変遷を整理したものです。

段階 構えの特徴 変えた理由
最初 普通に構える 入団当初の基本形
次の段階 バットを寝かせる ど真ん中が内野フライになった
その後 バットを担ぐ 一直線にバットが出る感覚を得た
さらに 猫背でベースに被る また打てなくなったため
別の年 極端なオープンスタンス 自分に合う形を探し続けた
翌年 クロスのスタンス 試行錯誤を続けていた

表にすると、変化の幅がどれほど大きかったかがよく分かります。

本間勝さんはビックリしたこともあったと振り返り、驚きを隠していません。

ホームベースに覆いかぶさっている構えを見たときの衝撃も記されていました。

よくもまあ、これだけころころかえられるものだと感心したそうです。

そして新しい年になるたびに、構えを見るのを楽しみにしている自分がいたと書いています。

投手側から見た竹之内打法

投手の立場に立つと、この打者はかなり厄介だったはずです。

本人も、投げる側としては過去の対戦データが関係ないから困っただろうねと語っています。

毎年構えが変わるため、前年の配球メモがまったく役に立たないわけですね。

前述の通り、バットを担いで構えたときには星野仙一さんから声が飛びました。

マウンドからやる気ないのかと怒鳴ってきたこともあったと、本人が明かしています。

力の抜けた構えが、相手投手には手抜きに見えてしまったということでしょう。

この逸話は、竹之内打法がどれだけ異質に映っていたかを示す証拠でもあります。

一方で内角に踏み込む構えは、投手に厳しい攻めを強いる形でもありました。

166死球という数字は、投手が内角を避けきれなかった結果とも読めます。

当てても構わないという覚悟が相手に伝わっていた可能性もありますよね。

データが通用せず、内角も攻めにくいというのは投手にとって嫌な相手です。

パ・リーグ時代の11年間も、相手投手は毎年対策を練り直す必要がありました。

同じ打者なのに去年の攻め方が通じないのですから、厄介さは相当だったはずです。

結果として四球310と死球166を積み上げ、投手を困らせ続けたわけですね。

セ・リーグ移籍1年目に25本塁打を放てたのも、この読みにくさが効いたのでしょう。

指導者との衝突と本人の信念

当然ながら、周囲からは何度も止められていました。

本人はコーチからの言葉として、フォームはそんなに変えるものじゃないと明かしています。

さらに自分のフォームを作れと言われたことも、インタビューで語られていました。

指導者の立場からすれば、毎年変える打者は扱いにくかったはずです。

それでも竹之内雅史さんは、自分の感覚を信じて変え続けました。

本間勝さんは、球界の変わり者で異質な存在なのかと注目したと書いています。

ところが実際は、野球に取り組む姿勢は実に真面目だったという評価です。

そのギャップに驚くばかりだったという一文が、人物像をよく表しています。

フォームを変えるのは好い加減な気持ちでやっていたわけではないと本間勝さんは断言しました。

自分に合った形をと試行錯誤しながら、懸命に取り組んだ結果だったのです。

阪神で同じチームになったとき、本間勝さんがその話題を出すと、さあという返事でした。

二人で顔を見合わせて大笑いしたという場面も記録されています。

何度フォームを変えたのか、本人も数えていなかったということですよね。

実働15年のあいだに、新フォームへの挑戦が何度あったのかは誰にも分かりません。

果たして何度挑戦したことかという本間勝さんの問いかけが、そのまま残っています。

216本塁打が示した結論

結論から言うと、竹之内打法は結果で正しさを証明しました。

本人がインタビューで最後に語ったのが、プロは成績を残せば勝ちなんですよという言葉です。

コーチに止められながらも216本の本塁打を打ったという事実が、その根拠になっています。

通算216本塁打は、1371試合という出場数を考えれば高い生産性です。

打率は2割4分9厘ですが、長打率は4割3分8厘まで到達しました。

1085安打のうち216本が本塁打という割合は、約2割に相当します。

5本に1本がスタンドまで運ばれていたわけで、立派な長距離打者ですよね。

12年連続2桁本塁打という継続性も、フォーム変更が失敗でなかった証拠です。

毎年変えながら結果を出し続けたのですから、方法論として間違っていなかったのでしょう。

実働15年という短さのなかで、死球と本塁打の両方で記録に名を残しました。

自分の形を探し続けた15年が216本塁打という答えを出したわけです。

この生き方は、引退後に職業を変えながら野球に戻ってきた歩みとも重なります。

通算606打点と63盗塁という数字も、ただの長距離砲ではなかった証拠です。

記録を残した打者として、これからも語り継がれていくはずですよね。

妻とともに過ごした年月が、その試行錯誤を支えていたのだと思いますよ。

竹之内雅史の妻と野球人生の総まとめ

  • 竹之内雅史の妻は名前も顔写真も公表されていない状態
  • 月刊タイガースの連載で妻に先立たれたと記されている
  • 死別の時期は2010年ごろまでと推定できる記述だった
  • 妻の名前と入籍した年を伝える一次情報は見つからない
  • 子供や孫に関する家族構成の情報も公開されないままだ
  • 1945年3月15日に神奈川県で生まれた右投右打の強打者
  • 鎌倉学園高から日本通運浦和を経て1968年に西鉄入団
  • 2年目から12年連続で2桁本塁打を記録した主軸打者
  • 通算166死球は清原和博に次ぐ歴代2位の記録である
  • 1978年オフに田淵幸一との交換トレードで阪神へ移った
  • 阪神移籍1年目に25本塁打を放ちキャリアハイを記録
  • 毎年フォームを変える竹之内打法は球界の名物となった
  • 星野仙一からやる気がないのかと怒鳴られた逸話も残る
  • 引退後は阪神やダイエーのコーチを歴任し台湾でも指導
  • 大阪の羽衣国際大学で硬式野球部の総監督を務めていた

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