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須藤豊さんの現在について、あの独特なダミ声の解説をいまも聞けるのか気になっている方は多いのではないでしょうか。
毎日オリオンズと読売ジャイアンツで13年プレーし、大洋ホエールズの監督としてチームを7年ぶりのAクラスへ導いた人物ですよ。
その須藤豊さんは2026年10月20日現在、ラジオ日本の解説者としてジャイアンツナイターに出演を続けています。
夕刊フジでの専属評論家は2025年1月31日までで、高知ファイティングドッグスの助言役からはすでに退任しました。
この記事では現在の活動から鬼軍曹と呼ばれた指導者時代の歩みまで、順番に整理していきますね。
記事のポイント
①:ラジオ日本の解説者として現在も出演
②:夕刊フジの専属評論家は2025年1月まで
③:大洋監督で7年ぶりAクラスに導いた実績
④:巨人二軍監督でイースタン4連覇を達成
須藤豊の現在|ラジオ日本解説と評論活動
- ラジオ日本で続ける解説者の仕事
- 現在の年齢と基本プロフィール
- 夕刊フジ評論家を2025年に終えるまで
- 高知ファイティングドッグスでの役割
- テレビ出演歴と須藤節という持ち味
- 同名の別人と混同される検索事情
ラジオ日本で続ける解説者の仕事
【 #DeNA 】三浦ルーキー時代監督の須藤豊氏「立派なチームの顔になった」 https://t.co/nGuQFGregb #野球 #スポーツ新聞 https://t.co/uo2NSdXBgn
— スポーツ報知 (@SportsHochi) September 21, 2016
まず、あなたが一番知りたい結論からお伝えしますね。
須藤豊さんは2005年からラジオ日本の解説者を務め、プロ野球中継の現場に立ち続けています。
ここでは担当番組と公式サイトでの扱いを、信頼性の高い情報をもとにあなたが納得できる形で整理します。
2005年から続くジャイアンツナイター
結論から言うと、須藤豊さんの現在のおもな肩書きはラジオ日本の野球解説者です。
ラジオ日本の公式サイトのパーソナリティ一覧には、須藤豊さんの名前がきちんと掲載されています。
担当番組として記載されているのは、ラジオ日本の看板であるジャイアンツナイターです。
この番組への出演は2005年から始まっていて、すでに20年を超える長さになりました。
2004年9月13日に読売ジャイアンツのヘッドコーチを退団した翌年から、マイク前の仕事に軸足を移した形ですね。
ユニホームを着る立場からは離れましたが、巨人戦の中継という場では変わらず野球と向き合っています。
ラジオ日本は東京を拠点とするAM1422kHzの局で、FM92.4MHzでも同時放送されていますよ。
テレビ中継が減った今、ラジオでプロ野球を追う人にとって須藤豊さんの声はおなじみの存在かなと思います。
解説の相手が若手選手であっても、二軍監督時代の指導経験を踏まえた目線で語れるのが強みです。
実際に巨人の二軍監督としてイースタン・リーグを4連覇させた人物ですから、育成の視点は折り紙つきですね。
ここ、気になるポイントだと思うので、新しい情報があれば今後もアップデートしていきます。
ラジオ日本の公式パーソナリティ欄
ラジオ日本の公式サイトには、パーソナリティ情報として須藤豊さんの経歴が丁寧に紹介されています。
そこでは1937年4月21日生まれ、高知県安芸市の出身という基本データが明記されていますよ。
旧表記の安芸郡安芸町という地名まで添えられているので、かなり詳しいプロフィールと言えます。
1956年に高知商業から毎日オリオンズへ入団した経緯から、1968年の現役引退までが順を追って書かれています。
その後の二軍守備コーチ、一軍守備コーチ、サラリーマン生活という流れも省略されていません。
1980年に別当薫さんの要請で大洋ホエールズの二軍監督になった話も、きちんと触れられています。
1990年の大洋一軍監督就任と7年ぶりのAクラス入りは、紹介文のなかでも大きく扱われている実績ですね。
1993年の読売ジャイアンツヘッドコーチ、1997年の西武ライオンズ一軍ヘッドコーチも並んでいます。
そして2004年の読売ジャイアンツヘッドコーチ就任までを紹介したうえで、球界の名伯楽と評されています。
紹介文の締めくくりには、「経験豊な人生から生まれる愛ある中にも歯に衣着せぬ『須藤節』は健在」と書かれていますよ。
局が公式にこう記しているのですから、解説者としての語り口はいまも衰えていないと受け取れます。
解説者としての歩みと持ち味
実は須藤豊さんの解説者歴は、現在のラジオ日本からさかのぼること30年近く前に始まっています。
最初のマイク仕事は、1978年から1979年にかけてのニッポン放送ショウアップナイターでした。
当時はプロ野球の現場を離れてサラリーマンをしていた時期で、休日だけ解説の仕事を受けていたそうです。
1982年には大洋二軍監督を退いたあと、日本テレビの解説者として1年間活動しています。
1996年には日本テレビとNHK BS1の解説者を兼ね、翌年から西武のヘッドコーチへ戻りました。
1999年に西武を退任したあとは、2000年からCS放送の解説を担当しています。
テレビ側では日本テレビのプロ野球中継にも出演し、現在のタイトルはDramatic Game 1844です。
こうして現場と放送席を行き来した経歴は、プロ野球界でもかなり珍しいキャリアですよ。
下記の表は須藤豊さんの解説者としての歩みをまとめたものです。
| 時期 | 放送局・番組 |
|---|---|
| 1978〜1979年 | ニッポン放送ショウアップナイター |
| 1982年 | 日本テレビ解説者 |
| 1996年 | 日本テレビ・NHK BS1解説者 |
| 2000〜2003年 | CS放送解説者 |
| 2005年〜 | ラジオ日本ジャイアンツナイター |
表にすると、現場の仕事が途切れた時期にちょうど解説の仕事が入っていることが見えてきますね。
現在の年齢と基本プロフィール
では、須藤豊さんはいま何歳になっているのでしょうか。
生年月日から出身地、体格まで、基本となるデータをここでまとめて確認していきますね。
数字を押さえておくと、このあとの経歴の話がぐっと理解しやすくなるはずです。
生年月日と現在の年齢
須藤豊さんの生年月日は1937年4月21日で、読み方は「すどう ゆたか」です。
2026年10月20日現在の年齢は89歳になります。
プロ野球界の指導者としては最年長クラスで、戦前生まれの野球人としても数少ない現役解説者ですよ。
日本プロ野球機構の公式記録でも、身長173cm、体重74kgの右投右打と登録されています。
ポジションは二塁手で、プロ入りは1956年、初出場は同年3月21日と記録されています。
最終出場は1968年10月10日ですから、13年にわたって一軍の舞台に立ち続けたことになります。
下記の表は須藤豊さんの基本プロフィールをまとめたものです。
| プロフィール項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 須藤豊(すどう ゆたか) |
| 生年月日 | 1937年4月21日 |
| 2026年10月20日現在の年齢 | 89歳 |
| 出身地 | 高知県安芸郡安芸町(現・安芸市) |
| 身長体重 | 173cm・74kg |
| 投打 | 右投右打 |
| ポジション | 二塁手 |
| 出身校 | 高知市立高知商業高等学校 |
| プロ入り | 1956年・毎日オリオンズ |
| 初出場 | 1956年3月21日 |
| 最終出場 | 1968年10月10日 |
| 主な実績 | 大洋監督・イースタン4連覇 |
こうして並べると、高校卒業からプロ入りまでが一直線だったことがよく分かりますね。
通算成績の欄にある大洋監督とイースタン4連覇は、指導者としての代表的な実績です。
選手としての数字より指導者としての記録が語られるタイプの野球人だと言えますよ。
高知県安芸市という出身地
須藤豊さんが生まれたのは、高知県安芸郡安芸町という土地です。
現在は市制が施行されて安芸市となっていて、高知県の東部に位置する街ですよ。
阪神タイガースの春季キャンプ地として知られている土地でもあり、野球とは縁の深い地域です。
この安芸の地で、須藤豊さんは5人兄弟の末っ子として育ちました。
野球を始めたきっかけは兄の影響だったと伝わっていて、幼いころからボールを追っていたそうです。
末っ子という立場で年長者に混じって野球を覚えたことが、負けん気の強さにつながったのかもしれません。
地元の方言では、頑固で気骨のある男を「いごっそう」と呼びます。
須藤豊さんはまさにこの土佐のいごっそうと評され、生涯その気質を貫いた人物として語られていますよ。
後年の連載タイトルにもいごっそうという言葉が使われたほど、出身地の気風が人物像と結びついています。
出身地のことを知っておくと、歯に衣着せぬ解説の背景も少し見えてくるかなと思います。
安芸市は太平洋に面した温暖な土地で、県東部の中心的な街として知られています。
野球どころの高知県にあって、少年時代から球を追う環境には恵まれていたはずですね。
関連項目として高知県出身の人物一覧にも、須藤豊さんの名前が挙げられています。
背番号と二塁手としての歩み
須藤豊さんが背負ってきた背番号は、所属や役職が変わるたびに移り変わってきました。
毎日オリオンズと大毎オリオンズ時代の1956年から1961年までは31番です。
読売ジャイアンツへ移籍した1962年から現役最終年の1968年までは30番を着けていました。
引退後にコーチとなった1969年から1975年までは79番という若手コーチらしい番号ですね。
大洋ホエールズの二軍監督を務めた1980年から1981年は72番でした。
巨人に復帰した1983年から1995年、そして2004年までは78番を長く背負っています。
西武ライオンズのヘッドコーチ時代である1997年から1999年は77番でした。
この78番という番号は、大洋の一軍監督を務めた1990年から1992年にも使われています。
下記の表は背番号の変遷をまとめたものです。
| 背番号 | 在籍期間と立場 |
|---|---|
| 31 | 1956〜1961年・毎日大毎の選手 |
| 30 | 1962〜1968年・巨人の選手 |
| 79 | 1969〜1975年・巨人のコーチ |
| 72 | 1980〜1981年・大洋二軍監督 |
| 78 | 1983〜1995年と2004年・巨人と大洋 |
| 77 | 1997〜1999年・西武ヘッドコーチ |
番号の変化をたどるだけでも、50年近く球界に関わり続けた足跡が浮かび上がってきますね。
須藤豊さんは1956年の入団から2004年の退団まで、半世紀近く球界の現場に身を置きました。
選手としての13年に加え、コーチと監督として25年以上を過ごした計算になります。
夕刊フジ評論家を2025年に終えるまで
現在の活動を語るうえで欠かせないのが、新聞紙面での評論活動です。
須藤豊さんは長く夕刊フジの専属評論家として、独自の視点で球界を論じ続けてきました。
ここではその活動がいつまで続き、どんな内容だったのかを具体的に見ていきますね。
2025年1月31日までの専属評論家
結論から言うと、須藤豊さんは2025年1月31日まで夕刊フジの専属評論家として活動していました。
つまり紙面での評論活動には、はっきりとした区切りの日付が存在するわけですね。
夕刊フジは産業経済新聞社が発行する夕刊紙で、プロ野球の評論には定評がある媒体です。
専属評論家という立場は、特定の紙面でのみ論評を書く契約形態を指します。
複数の媒体に顔を出すのではなく、ひとつの紙面に腰を据えて語るスタイルだったわけです。
この活動を終えたあとも、ラジオ日本での解説という仕事は続いていますよ。
つまり紙からマイクへと発信の場をしぼった、という整理のしかたが近いかなと思います。
戦前生まれの野球人が2020年代まで新聞評論を続けていた事実は、それだけでも貴重な記録です。
解説と評論を掛け持ちしていた時期の長さを考えると、休みの少ない日々だったはずですね。
ここ、気になる人も多いはずなので、新しい情報があれば今後も追いかけていきます。
評論の対象は巨人だけでなく、セ・パ両リーグの戦いぶりに広く向けられていました。
二軍監督として育成に携わった経験から、若手の起用法に関する指摘が多かったのも特徴です。
紙面での論評は、放送では言い切りにくい内容まで踏み込めるのが強みですよね。
連載いごっそうが斬るの中身
夕刊フジでの連載には、須藤豊のいごっそうが斬るというタイトルが付けられていました。
いごっそうという土佐の方言をそのまま冠したところに、本人の気質がよく表れていますね。
この連載では現役時代の思い出から現在の球界への提言まで、幅広いテーマが扱われています。
たとえば巨人退団後のサラリーマン生活を振り返った回は、複数ページにわたる長い記事でした。
その記事の見出しは「失意の退団から4年間のサラリーマン生活…選手と接する意識が変わった」です。
野球の技術論だけでなく、社会人としての経験を語れるのが須藤豊さんの持ち味なんですよ。
鉄のメーカーで営業を経験した人物が、プロ野球の育成論を書くというのは実に珍しい組み合わせです。
選手に対して野球を辞めた後の人生まで見通した助言ができたのも、この経験があったからですね。
連載を通じて語られたのは、野球技術の良し悪しよりも人の育て方だったと言えます。
スポーツニッポンの連載でも職業野球人という企画の第2回に取り上げられ、半生が詳しく記録されました。
そこでは運命の電報、満塁本塁打で賞金1万円、再起動といった小見出しで章立てされています。
連載の最終回には「そして潮時」という小見出しが付けられ、球界を離れる心境が語られました。
こうした記録が残っているおかげで、半生の細部まで追いかけられるわけですね。
土佐のいごっそうと呼ばれた気性
いごっそうという呼び名は、ただのニックネームではありません。
現役時代に監督へ食ってかかった逸話が、この呼び名を決定づけました。
1961年7月25日、駒沢球場での東映戦で須藤豊さんは代打の準備をしていました。
主将格の田宮謙次郎さんから「スー、出番来るから体動かしとけ」と声をかけられ、気合いを入れていたそうです。
ところが宇野光雄監督から、残っているのが須藤豊さんだけだという扱いの言葉を受けます。
これに激怒した須藤豊さんは「監督なら、誰が残っているかくらいしっかり覚えときや!」と大声で怒鳴りました。
自軍ベンチだけでなく、8000人の観衆にまで聞こえるほどの声だったと記録されています。
結果として頭に血が上り、初球を打って三塁への平凡なゴロに終わってしまいました。
チームは逆転勝ちしたものの怒りは収まらず、翌日には二軍行きを命じられています。
そしてこの確執が、同年11月の読売ジャイアンツへのトレードにつながりました。
スポーツニッポンの連載でも、この一件は土佐のいごっそう、監督を怒鳴るという小見出しで紹介されていますよ。
言うべきことは相手が誰であっても言う姿勢は、この時期から変わっていません。
この気性は指導者になってからも変わらず、球団フロントに対しても意見を通しています。
いごっそうという言葉は、須藤豊さんを語るうえで欠かせないキーワードなんですよ。
高知ファイティングドッグスでの役割
公開情報を総合すると、須藤豊さんは独立リーグにも関わっていた時期があります。
ただし、こちらの肩書きについては現在の状況が少し異なります。
ここでは就任した時期と役割、そして最新の状況までを順番に整理しますね。
四国アイランドリーグとの関わり
須藤豊さんは2005年に、四国アイランドリーグの高知ファイティングドッグスへ加わりました。
四国アイランドリーグは2005年に開幕した日本初の独立リーグです。
香川、徳島、愛媛、高知の4県にそれぞれ球団が置かれ、プロを目指す若手の受け皿になりました。
高知ファイティングドッグスはその高知県を本拠地とする球団ですね。
須藤豊さんの出身地である安芸市も、この高知県の東部にあります。
つまり生まれ故郷の球団に、ベテラン野球人として知恵を貸す形だったわけです。
ラジオ日本の解説者就任と同じ2005年という点も見逃せません。
読売ジャイアンツのヘッドコーチを退いた翌年に、放送席と故郷の球団という2つの場を得ています。
年齢的にユニホームを着ることからは遠ざかった時期でしたが、野球からは離れなかったんですよ。
独立リーグがまだ手探りだった時期に、球界の名伯楽が加わった意味は大きかったはずです。
高知ファイティングドッグスは、球団名の由来となった土佐闘犬で知られる土地のチームです。
NPBを目指す選手が所属するため、プロの基準を知る指導者の存在が欠かせません。
須藤豊さんが加わった2005年は、まさにリーグの初年度にあたる節目の年でした。
アドバイサリースタッフという立場
須藤豊さんの肩書きは、アドバイサリースタッフというものでした。
これは技術を直接教えるコーチとは異なり、助言役として球団を支える立場を指します。
二軍監督として多くの若手を一軍へ送り出した経験が、まさに活きるポジションですね。
巨人では村田真一さん、川相昌弘さん、緒方耕一さんといった選手を育てた実績があります。
大洋では高木豊さん、屋鋪要さん、市川和正さんの育成に携わりました。
こうした経験を独立リーグの選手に伝える役割だったと考えると分かりやすいかなと思います。
ただし、このアドバイサリースタッフの職はすでに退任しています。
つまり独立リーグでの肩書きは、現在は持っていないという整理になります。
下記の表は現在の活動状況を整理したものです。
| 活動・肩書き | 現在の状況 |
|---|---|
| ラジオ日本解説者 | 継続中・2005年から |
| ジャイアンツナイター出演 | 継続中 |
| 夕刊フジ専属評論家 | 2025年1月31日まで |
| 高知ファイティングドッグス助言役 | 退任 |
| ズームイン!!サタデー出演 | 2009年3月28日に卒業 |
| プロ野球の監督・コーチ | 2004年9月13日に退団 |
表にしてみると、現在も続いている活動はラジオ日本の解説にしぼられていることが分かりますね。
助言役という立場は常勤ではないため、退任の時期が大きく報じられることはありませんでした。
そのため現在も就任中だと誤解されやすいのですが、すでに肩書きは外れていますよ。
人作り道場という発信の場
四国アイランドリーグ時代には、須藤豊さんの名を冠した企画も存在しました。
独立リーグの公式情報サイトであるIL-NETに、須藤豊人作り道場というページが置かれていたんですよ。
タイトルにある人作りという言葉が、須藤豊さんの指導哲学をそのまま示しています。
技術ではなく人を作る、という発想が肩書きにまで表れているわけですね。
この考え方は二軍監督時代から一貫していました。
巨人の二軍監督だった時代には、チームの勝利と育成の両立という方針を掲げています。
勝敗は二の次という当時のファームにありがちな空気を、須藤豊さんは一掃したと伝えられています。
ファームは一軍の貯水池というモットーも、大洋の二軍監督時代から掲げていた言葉です。
人を作るという発想は、4年間のサラリーマン生活で培われた部分も大きいでしょう。
野球を辞めたあとの人生のほうが長いという現実を、自分の体で知っていた指導者なんですよ。
この視点はいまの独立リーグや育成現場でも、そのまま通じる考え方かなと思います。
須藤豊さんは二軍監督時代から「チームの勝利と育成の両立」を掲げ続けてきました。
勝つことと育てることは両立できるという信念が、人作りという言葉に凝縮されています。
テレビ出演歴と須藤節という持ち味
ラジオだけでなく、須藤豊さんはテレビの世界でも長く顔を出してきました。
とくに朝の情報番組でのコメンテーターぶりは、野球ファン以外にも知られていますよ。
ここでは出演番組と、須藤節と呼ばれる語り口の中身を整理していきますね。
ズームインシリーズのレギュラー
須藤豊さんは日本テレビのズームインシリーズに、長年レギュラーコメンテーターとして出演していました。
最初は前身番組のズームイン!!朝!の時代からの出演です。
その後の後継番組であるズームイン!!SUPERでも、変わらずコメンテーターを務めています。
さらにズームイン!!サタデーにも、コーチ時代を除いて継続して出演していました。
土曜版では6時台のみ、しかも隔週という形で顔を出していたのが特徴です。
朝の情報番組でプロ野球の話題を語る役は、分かりやすさと歯切れの良さが求められます。
須藤豊さんの解説は熱く歯切れが良く、暖かみとユーモアに満ちていると評されてきました。
この評価があったからこそ、朝の顔として長く起用されたのでしょうね。
現場の指導者であり続けながら、放送でも需要があった野球人は決して多くありません。
二軍監督として選手に接する言葉と、視聴者に向ける言葉を切り替えられる人だったのだと思います。
ズームインシリーズは日本テレビの朝の情報番組として、長く高い視聴率を保った枠です。
野球コーナーのコメンテーターは、その日の試合を手短に総括する役割を担います。
短い時間で核心を突く話し方が求められる場で、須藤豊さんは重宝されたわけですね。
2009年に迎えた卒業のとき
ズームイン!!サタデーへの出演は、2009年3月28日の放送分をもって卒業となりました。
つまり朝の情報番組のレギュラーという立場には、はっきりとした終わりの日付があります。
ラジオ日本の解説を始めた2005年から数えて、4年ほど両方を掛け持ちしていたことになりますね。
この卒業をもって、テレビの朝番組での定期出演には区切りが付きました。
以降の発信の場は、ラジオ日本の中継と夕刊フジの紙面に集約されていきます。
日本テレビのプロ野球中継には引き続き関わり、現在のタイトルはDramatic Game 1844です。
ちなみに須藤豊さんは、フジテレビの「さらば、愛しきプロ野球…。」にも出演しています。
そこでは長く在籍した巨人時代を振り返り、長嶋茂雄さんと王貞治さんについて語りました。
「長嶋・王は、ともに選手を悪く言わなかったが、他人の言うことに耳を貸さない頑固な指導者だった」という内容です。
球界の大スターに対しても率直に評する姿が、ここでも表れていますね。
こうした物言いこそ、須藤節と呼ばれる語り口の正体なのかなと思います。
長嶋茂雄さんと王貞治さんの両方の下で働いた人物だからこそ言える評価でもあります。
巨人という組織に長く身を置きながら、組織の論理に飲み込まれなかった点が興味深いですね。
帽子を叩きつけた抗議の名場面
監督とコーチの時代、須藤豊さんの抗議は球場の名物でもありました。
審判に抗議する際、帽子を叩きつけて顔を紅潮させるという一種のパフォーマンスを行っていたんですよ。
この様子は元審判員である平光清さんの著書でも触れられています。
審判側の記録に残るほど印象的だったわけですから、相当な迫力だったのでしょうね。
ただし、これは感情を抑えられなかったという話ばかりではありません。
ベンチのナインに闘争心を見せるための、計算された振る舞いという面もありました。
大洋の監督に就任した際には、手始めに何かと巨人へ噛みつくことで自ら気迫を示しています。
選手に気迫を求める前に、監督自身が気迫を見せるという順番だったんですよ。
鬼軍曹という呼び名も、こうした振る舞いの積み重ねから生まれたものです。
二軍時代には斎藤雅樹さんが須藤豊さんに殴られたことがあると伝えられています。
現在の基準では考えられない指導法ですが、当時の球界の空気を物語る逸話ですね。
ちなみに殴られた斎藤雅樹さんは、後に巨人のエースとして最多勝を何度も獲得しました。
1990年には大洋の監督となった須藤豊さんが、その斎藤雅樹さんを敵として迎える立場になります。
指導した選手と対戦相手として向き合うのも、長く球界にいた人ならではの巡り合わせですよね。
焼酎での語らいという趣味欄
監督とコーチの時代、プロ野球名鑑の趣味欄には変わった記載がありました。
そこに書かれていたのは、しょうちゅうでの語らいという一文です。
ゴルフや釣りが並ぶ趣味欄のなかで、この書き方はかなり異色ですよね。
酒を飲むことではなく、語らうことを趣味として挙げている点が面白いところです。
実際に須藤豊さんは、現役時代から王貞治さんと2人きりで酒を酌み交わす関係でした。
コーチになってからは、相手とよく話し知ることから指導を始めたと語っています。
選手と色々な話をして一緒に食事をした結果、練習の意味が理解されるようになったそうです。
つまり語らいは趣味というより、指導の土台そのものだったわけですね。
大洋の監督時代には、斉藤明夫さんに「俺はわからんことだらけだから教えてくれ」と助言を求めています。
鬼軍曹と呼ばれた人物が、選手に頭を下げて教えを請う場面もあったんですよ。
厳しさと語らいの両輪があったからこそ、多くの若手が伸びたのだろうなと思います。
コーチ専任になった須藤豊さんは、ゴロの捕り方といった基本中の基本から指導を始めました。
最初は選手から何でこんな練習をするのかという顔をされたそうです。
それでも色々な話をして一緒に食事をした結果、練習の意味が伝わっていったと語っています。
同名の別人と混同される検索事情
須藤豊という名前で検索すると、実は元プロ野球選手以外の情報も出てきます。
ここは誤解しやすいポイントなので、はっきり区別しておきたいところです。
この見出しでは混同されやすい同名の人物を挙げ、見分け方まで整理しますね。
Netflixドラマに登場する同名人物
2026年4月27日、Netflixでドラマ『地獄に堕ちるわよ』が配信されました。
占い師の細木数子さんの半生をもとにした創作ドラマで、主演は戸田恵梨香さんです。
この作品のなかに、不動産会社社長の須藤豊という登場人物が出てきます。
演じているのは俳優の中島歩さんですよ。
このドラマの須藤豊は架空の登場人物であり、元プロ野球選手の須藤豊さんとはまったく無関係の別人です。
作品内では主人公をだます男として描かれ、反社会的組織とのつながりまで設定されています。
劇中では主人公が彼と過ごした1964年ごろが最も幸せだったと語る場面もあるそうです。
この配信をきっかけに、須藤豊という名前の検索数が一気に増えました。
そのため細木数子、不動産、地獄に堕ちるわよといった語句が関連キーワードに並んでいます。
これらはすべてドラマの登場人物に関する検索で、元プロ野球選手とは結びつきません。
検索結果を見るときは、野球の経歴が書かれているかどうかで判断するのが確実ですね。
作品自体は細木数子さんの死後5年を経て制作された、半生をもとにした創作ドラマです。
登場人物の名前が実在の野球人と重なっただけで、両者には一切の関係がありません。
下妻市長の須藤豊次とも別人
もう一人、混同されやすい人物がいます。
茨城県下妻市の市長を務めた須藤豊次さんです。
豊と豊次で一文字違うのですが、検索では同じ結果に混ざって表示されやすいんですよ。
須藤豊次さんは下妻市の行政を担った政治家で、野球界とは関係がありません。
須藤豊 息子という検索語では、この市長の家族構成を扱った記事が上位に出てきます。
そのため元プロ野球選手の家族の話として読んでしまうと、事実と違ってしまいます。
下妻市の公式サイトには市長就任の挨拶も掲載されていて、まったく別の経歴が確認できます。
名前が似ているだけの別人物なので、情報を取り違えないよう注意したいところですね。
こうした同姓同名の混在は、著名人の検索ではよくある落とし穴です。
ここ、気になりますよね。
検索する側が区別の軸を持っておくと、間違った情報をつかまずに済みますよ。
下妻市は茨城県西部の市で、プロ野球とは直接の関わりがない自治体です。
市長を務めた人物の家族構成を扱った記事が、名前の近さだけで混ざってしまうわけですね。
元プロ野球選手の須藤豊さんの家族では、就職時に一緒に頭を下げた妻の存在が知られています。
公表されていない事柄を別人の情報で埋めてしまわないよう、注意したいところです。
元プロ野球選手を見分ける方法
では、どうすれば目的の須藤豊さんの情報だと確認できるのでしょうか。
いちばん確実なのは、生年月日と出身地を照合することです。
元プロ野球選手の須藤豊さんは1937年4月21日生まれ、高知県安芸郡安芸町の出身です。
所属歴に毎日オリオンズ、大毎オリオンズ、読売ジャイアンツが並んでいれば本人の情報ですね。
監督歴として横浜大洋ホエールズ、コーチ歴として西武ライオンズがあるのも目印になります。
日本野球機構の公式サイトには個人年度別成績のページがあり、ここが最も信頼できる確認先です。
下記の表は同名の人物を区別するための対比表です。
| 人物 | 肩書きと識別ポイント |
|---|---|
| 須藤豊 | 元プロ野球選手・1937年4月21日生まれ・高知県安芸市出身 |
| 須藤豊(ドラマ) | Netflix『地獄に堕ちるわよ』の登場人物・演者は中島歩 |
| 須藤豊次 | 茨城県下妻市の市長を務めた政治家 |
表にして並べてみると、三者がまったく違う人物であることが一目で分かりますね。
検索するときは須藤豊に巨人や大洋といった球団名を足すのがおすすめですよ。
そうすれば野球人としての須藤豊さんの情報だけを拾いやすくなります。
公式記録での表記は「須藤 豊」で、読みは「すどう・ゆたか」と記載されていますよ。
須藤豊の現在に至る経歴|鬼軍曹の指導歴
- 高知商業で春夏甲子園に出た原点
- 毎日オリオンズ時代と運命の電報
- 巨人移籍とV9初期の名脇役
- 4年間のサラリーマン生活という転機
- 鬼軍曹と呼ばれた二軍監督時代
- 大洋監督と3球団のヘッドコーチ歴
高知商業で春夏甲子園に出た原点
万年Bクラスから浮上。1990年、序盤快進撃の横浜大洋に何が起こっていたのか?【プロ野球回顧録】
https://t.co/iG5lgdc6YH1990年、巨人大独走のセ・リーグで序盤だけだが、首位戦線に絡んだのが、万年Bクラスの大洋だった。果たして何が起こっていたのか。
【選手データ】須藤豊 プロフィール・… https://t.co/hMiEQBFdzC
— ドラペイ (@Dorapeinet) May 16, 2022
1954年、高知商業の遊撃手として須藤豊さんは全国の舞台に立ちました。
現在の解説に説得力があるのは、この高校時代から一流の勝負を経験してきたからです。
ここでは甲子園での戦績と、プロ入りに至る流れを年月日を押さえながら整理しますね。
5人兄弟の末っ子が野球を始めるまで
須藤豊さんは高知県安芸郡に、5人兄弟の末っ子として生まれました。
野球を始めたきっかけは、兄の影響だったと伝えられています。
進学先に選んだのは、高知市立高知商業高等学校です。
当時の高知商業はすでに甲子園で全国準優勝を飾るほどの名門校になっていました。
県内の有望選手が集まる環境で、須藤豊さんはガッツあふれる遊撃手としてレギュラーを奪います。
全国準優勝を経験した強豪校で定位置をつかむのは、簡単なことではありません。
末っ子として年長者に混じって野球を覚えたことが、ここで活きたのかもしれませんね。
当時のチームには片田謙二さんと小谷信雄さんという強力なバッテリーがいました。
中堅手には門田良三さんが入り、この3人はいずれも卒業後に広島へ入団しています。
プロへ進む選手が複数いるチームで内野を任されていたわけですから、相当な評価ですよ。
名門の厳しさを高校時代に体で覚えたことが、のちの鬼軍曹としての指導につながっていきます。
当時の高知商業を率いていたのは、後にプロ入りを勧めることになる松田昇監督です。
高知県は戦後まもなくから高校野球が盛んな土地で、県内の競争も相当なものでした。
その環境で遊撃手を任されたのですから、守備力はすでに高く評価されていたのでしょうね。
1954年センバツと夏の準決勝
2年次の1954年、須藤豊さんは春夏連続で甲子園の土を踏みました。
春の第26回選抜大会では、遊撃手として準々決勝まで勝ち上がっています。
準々決勝の相手は、この大会で優勝した飯田長姫高でした。
「小さな大投手」と呼ばれた光沢毅さんに抑えられ、惜敗という結果に終わっています。
夏の第36回選手権大会では、さらに一つ上の準決勝まで進みました。
準々決勝では榎本喜八さんらがいた早稲田実を接戦で降す大きな白星を挙げています。
のちにプロで名を残す打者がいたチームを破ったのですから、価値ある勝利ですね。
しかし準決勝では、松浦三千男さんと興津達男さんのいた静岡商に逆転負けを喫しました。
結果として春はベスト8、夏はベスト4という成績で、伝統校の名に恥じない戦いを見せています。
当時は1県1代表制ではなかったため、出場校は現在よりも少ない大会でした。
それでも全国の強豪を相手に勝ち進んだ経験は、間違いなく財産になったはずです。
春の準々決勝で当たった飯田長姫高は、長野県代表としてこの大会を制した伏兵でした。
夏の準々決勝で破った早稲田実の榎本喜八さんは、後に毎日オリオンズで主軸を打つ打者です。
つまり須藤豊さんは高校時代に、将来のチームメイトを相手に白星を挙げていたわけですね。
北海道国体での全国制覇
1954年の須藤豊さんには、もう一つ大きなタイトルがあります。
同年に開かれた北海道国体で、高知商業は全国制覇を果たしました。
決勝の相手は新宮高で、前岡勤也さんという投手を擁していたチームです。
この試合では高知商業の片田謙二さんが投げ勝ち、見事に優勝を飾りました。
甲子園では準決勝で涙をのんだチームが、秋には全国の頂点に立ったわけですね。
春はベスト8、夏はベスト4、そして秋は優勝という流れは、相当な完成度のチームです。
遊撃手としてその中心にいた須藤豊さんの評価も、当然高まっていきました。
この優勝が、後のプロ入りを決める一つの要因になったと考えられます。
下記の表は高校時代の主な戦績をまとめたものです。
| 年・大会 | 結果と対戦相手 |
|---|---|
| 1954年 第26回選抜 | 準々決勝敗退・飯田長姫高の光沢毅に惜敗 |
| 1954年 第36回選手権 | 準決勝敗退・静岡商に逆転負け |
| 1954年 北海道国体 | 優勝・決勝で新宮高を破る |
| 1955年 南四国大会 | 決勝で城東高に敗れ甲子園を逸する |
表で見ると、2年次の1年間に全国大会を3度も経験していたことが分かりますね。
当時の国体は高校野球の全国大会の一つとして扱われ、価値の高いタイトルでした。
甲子園の悔しさを秋に晴らした形で、チームの地力の高さがうかがえます。
甲子園を逃した最終学年
3年次の1955年夏、須藤豊さんは最後の甲子園を目指しました。
しかし南四国大会の決勝で城東高に敗れ、甲子園出場を逸してしまいます。
あと一歩のところで、最終学年の全国大会が消えたわけです。
この夏の大会が終わったあと、須藤豊さんの進路が大きく動きました。
当初は大学進学を考えていたという話も伝わっています。
ところが松田昇監督らの勧めで、毎日オリオンズへ入団することが決まりました。
指導者の鶴の一声で、一転してプロ野球界に入ることになったわけですね。
当時は高校から直接プロへ進む選手が、今ほど多くはない時代でした。
それでも名門校の遊撃手として全国で戦った実績が、プロの目に留まったのでしょう。
この決断が、13年のプロ生活と半世紀にわたる球界人生の出発点になります。
進路の分かれ道というのは、本人の意思だけで決まるものではないのだなと感じますね。
同期のチームメイトである片田謙二さんと小谷信雄さんは、そろって広島へ入団しました。
中堅手の門田良三さんも広島入りしており、1学年から3人がプロへ進んだことになります。
須藤豊さんだけが毎日オリオンズという別の進路を選んだわけですね。
結果としてこの選択が、別当薫さんという恩師との出会いを生むことになります。
毎日オリオンズ時代と運命の電報
公開情報やインタビュー記事を総合すると、プロ1年目の須藤豊さんには劇的な逸話があります。
それは2通の電報に振り回された、入団直後の数日間の出来事です。
ここでは毎日オリオンズ時代の歩みを、エピソードとともに追いかけていきますね。
2通の電報が招いた小倉の夜
1956年、須藤豊さんは毎日オリオンズの春季キャンプに途中まで参加しました。
その後は卒業試験のため、いったん高知へ帰郷しています。
ところが球団から電報が届き、急遽チームへ合流することになりました。
須藤豊さんは大急ぎで、一軍がオープン戦で滞在していた九州へ向かいます。
しかし球団はその直後、高校出の選手は二軍で鍛えたほうがいいと思い直したんですよ。
そして行き先変更の電報を打ったのですが、移動中の須藤豊さんには届きませんでした。
小倉の旅館に到着してから事情を聞かされ、須藤豊さんは途方に暮れてしまいます。
せっかく駆けつけたのに、行き先が二軍に変わっていたわけですから無理もありません。
この一件は、スポーツニッポンの連載でも運命の電報という小見出しで紹介されています。
プロ入り直後にいきなり振り回された経験は、強く記憶に残ったのでしょうね。
ここから須藤豊さんの持ち前の押しの強さが発揮されることになります。
当時は携帯電話もなく、連絡手段が電報と固定電話しかなかった時代です。
移動中に行き先が変わっても、本人が知るすべはなかったわけですね。
二軍行きを告げられた新人がそこで引き下がれば、プロ生活の出発点は違っていたはずです。
別当薫の一言で開いた一軍の道
旅館で困り果てていた須藤豊さんに、偶然のチャンスが訪れます。
旅館の二階からたまたま降りてきたのが、別当薫監督だったんですよ。
須藤豊さんが事情を説明すると、別当薫監督は「せっかく来たんだから、上がれ」と声をかけました。
この一言で、オープン戦に出場してから二軍へ行くという話に変わります。
そして下関での大洋戦に代打で起用され、神田昌男さんから安打を放ちました。
すると今度は「お前、セカンドできるか」と聞かれます。
二塁手は未経験だったにもかかわらず、須藤豊さんは「大丈夫です。やったことあります」と返事しました。
実際に2月26日の広島戦で二塁手としてスタメン起用され、高校の同僚だった片田謙二さんから安打を打ちます。
3月には甲子園で大阪との定期戦があったものの、卒業式と日程が重なってしまいました。
別当薫監督から「帰らなかったら、大阪との定期戦に使うんだけどなぁ」と言われ、須藤豊さんは即答で残ることを選びます。
高知の母親に電話をして、結局は母親が高校の卒業式に出席し卒業証書を受け取りました。
その後マネジャーから、東京の本郷にある一軍の合宿所に荷物を送れと指示されます。
二軍行きだったはずの新人が、一軍の合宿所に入ることが決まった瞬間ですね。
開幕カードでの2打数2安打
1956年3月21日、須藤豊さんはプロでの初舞台を迎えます。
駒沢球場での開幕カード東映戦はダブルヘッダーでした。
第1試合では島田恒幸さんに代わって途中出場しています。
そして第2試合では8番二塁でスタメンに名を連ね、2打数2安打を記録しました。
チームは11対5で大勝し、須藤豊さんは別当薫監督の起用に応えたわけですね。
プロ初安打はプロ2打席目で、米川泰夫さんから左中間へのライナーでした。
2本目の安打は、同級生である富永格郎さんから打っています。
8月23日の阪急戦では、延長12回裏無死一塁で梶本隆夫さんから左中間を破る二塁打を放ちました。
一塁走者の沼澤康一郎さんが生還し、これがサヨナラ打になっています。
9月30日の高橋戦では、中野隆夫さんからプロ入り初本塁打を記録しました。
この一発は6回裏二死満塁からの満塁本塁打で、生涯唯一の満塁弾となりました。
カウント1ボール1ストライクからの3球目、内角直球を左翼席へ運んだ一打です。
通算8本塁打のうちの1本が満塁弾というのは、なかなか珍しい記録ですよね。
スポーツニッポンの連載では、この一打に賞金1万円が出たことも紹介されています。
当時の1万円は新人選手にとって、かなりの臨時収入だったはずですよね。
正二塁手の座を失った経緯
プロ1年目の1956年、須藤豊さんは133試合に出場して打率.242を記録しています。
続く1957年には規定打席にも到達し、打率.278でリーグ11位に入りました。
2番打者としての起用も多く、正二塁手の座を完全に手中にしたかに見えました。
ところが3年目の1958年、状況が大きく変わります。
大映との球団合併によって、チーム名が大毎オリオンズとなりました。
この合併に伴い、大映の正二塁手だった佐々木信也さんが加入してきたんですよ。
ポジションを奪われた須藤豊さんは、以後は守備固めでの出場が多くなります。
二塁には小森光生さんや八田正さんも起用され、出場機会はさらに減りました。
1960年のリーグ優勝時も出場は56試合にとどまり、大洋との日本シリーズでは1打席のみでした。
そして1961年に宇野光雄監督との確執が生じ、同年11月に土居章助さんとの交換で巨人へ移籍します。
球団合併という自分では動かせない事情で立場が変わる厳しさを、ここで味わったわけですね。
1958年は103試合に出場したものの打率.190と苦しみ、翌1959年は42試合に減っています。
一度つかんだ定位置を失う怖さを、プロ3年目で身をもって学んだことになります。
巨人移籍とV9初期の名脇役
1962年からの読売ジャイアンツ時代は、須藤豊さんにとって7年にわたる後半戦でした。
ここでの立ち位置は、スター選手ではなく貴重なバイプレーヤーです。
ここでは成績の推移とチーム内での役割を、具体的な数字とともに整理しますね。
二塁の定位置をめぐる競争
巨人に移った1962年、須藤豊さんは藤本伸さんと塩原明さんと定位置を争いました。
結果として二塁手ではチーム最多となる84試合に出場しています。
移籍1年目にチーム最多出場を果たしたのは、それだけ守備力が評価されたということですね。
ただし翌1963年には船田和英さんが台頭し、打率.159と打撃が不振に陥ります。
出場機会は73試合に減り、厳しいシーズンとなりました。
当時の巨人は川上哲治監督の下で常勝を求められ、競争が極端に激しい環境でした。
一度ポジションを失えば、取り返すのは容易ではありません。
それでも須藤豊さんは、翌年に見事な復活を遂げることになります。
1965年からは土井正三さんが入団し、再び控えに回る時間が増えていきました。
土井正三さんは立教大学から入団した有望な内野手で、のちにV9の正二塁手となる選手です。
世代交代の波に何度もさらされながら、13年を戦い抜いたキャリアなんですよ。
1966年は70試合、1967年は37試合と、出場機会は年々減っていきました。
それでも毎年ベンチに名を連ね続けたのは、守備と犠打という武器があったからです。
通算51犠打という数字が、脇役としての役割をよく物語っていますね。
1964年の打率.280という復活
では、須藤豊さんの最も充実したシーズンはいつだったのでしょうか。
巨人時代で言えば、1964年が明確なピークでした。
この年は57試合に先発出場し、うち23試合で2番打者として起用されています。
規定打席には届かなかったものの、打率.280という好記録を残して二塁の定位置を奪い返しました。
前年の打率.159からの回復ですから、数字の上でも劇的な復活です。
84試合に出場し、24打点を記録して9盗塁も決めています。
1965年には開幕から先発で起用され、南海との日本シリーズでは第1戦から第3戦まで先発出場しました。
日本シリーズの大舞台で3試合続けてスタメンに入ったことは、信頼の証ですよね。
下記の表は年度別の打撃成績をまとめたものです。
| 年度・球団 | 試合 | 安打 | 打点 | 打率 |
|---|---|---|---|---|
| 1956年 毎日 | 133 | 90 | 22 | .242 |
| 1957年 毎日 | 110 | 103 | 34 | .278 |
| 1960年 大毎 | 56 | 20 | 2 | .238 |
| 1962年 巨人 | 92 | 41 | 6 | .202 |
| 1964年 巨人 | 84 | 63 | 24 | .280 |
| 1965年 巨人 | 98 | 45 | 19 | .231 |
| 通算13年 | 959 | 495 | 143 | .230 |
通算では959試合で495安打、8本塁打、143打点、42盗塁、打率.230という成績です。
出塁率.277、長打率.291という数字からも、巧打と守備で生きた選手像が浮かびますよ。
野次将軍と呼ばれたムードメーカー
数字以上に須藤豊さんが評価されたのは、ベンチでの存在感でした。
V9前の初期の巨人において、須藤豊さんはチームのムードメーカーだったんですよ。
ベンチでの野次将軍ぶりは、他球団にまで有名だったと伝えられています。
試合前には川上哲治監督の目の前を通りながら、わざと大声で独り言を言ったそうです。
「きょうの須藤は調子がいいなあ」と自分で言い歩くと、川上哲治監督が吹き出してスタメンで使ったこともありました。
こんな自己アピールの仕方をする選手は、そう多くありませんよね。
王貞治さんや長嶋茂雄さんといった同年代のスター選手に対しても、言うべきことは言う姿勢で臨みました。
意見が食い違うこともありましたが、自分の思うところは堂々と主張したと記録されています。
とりわけ王貞治さんとの仲は、2人きりで酒を酌み交わすまでになりました。
一方で主力選手がスランプになると、専門の打撃投手がいない時代に自ら打撃投手を買って出ています。
打ちやすいボールを投げて調整に協力を惜しまない姿に、後の名コーチの片鱗が表れていますね。
当時の巨人には専門の打撃投手がおらず、選手同士で支え合うしかありませんでした。
自分の出場機会が減っていく時期に、主力の調整を手伝う選択ができる人だったわけです。
兼任コーチとして迎えた引退
1968年、須藤豊さんは二軍コーチ兼任という立場でシーズンを迎えました。
この年の一軍出場はわずか1試合で、同年限りで現役を引退しています。
最終出場は1968年10月10日と記録されていますよ。
兼任コーチとしての須藤豊さんは、すでに鬼軍曹の顔を見せていました。
独特のダミ声を張り上げ、選手が倒れるまでノックバットを握りしめたと伝えられています。
この年に二軍でくすぶっていた上田武司さんらを一軍へ上げる実績を残しました。
一方でプロ13年目のベテランとして、イースタン・リーグの試合に出て若手に見本を見せることもありました。
選手としての立場と指導者としての立場を、同時にこなしていたわけですね。
引退後も巨人に残り、1969年から1973年まで二軍守備コーチを務めます。
その後1974年から1975年は一軍守備コーチへ昇格しました。
現役からコーチへの移行が自然だったのは、兼任時代の実績があったからだと思いますよ。
二軍守備コーチとしての5年間で、須藤豊さんは守備指導の型を固めていきます。
誰でも捕れるような緩いゴロを正面に転がすところから始める、という手法が基本でした。
基本を徹底する指導方針は、後の二軍監督時代にそのまま引き継がれていきますね。
4年間のサラリーマン生活という転機
須藤豊さんの経歴で最もユニークなのが、プロ野球を離れていた4年間です。
この時期に埼玉県川口市の工場で働いた経験が、のちの指導哲学を決定づけました。
ここでは退団の経緯から営業職での苦労まで、読み物として追いかけていきますね。
1975年の最下位と巨人退団
1975年、読売ジャイアンツは球団創設以来はじめて最下位に転落しました。
長嶋茂雄監督の1年目という、記憶に残るシーズンでもあります。
一軍守備コーチだった須藤豊さんは、この責任を取る形で退団することになりました。
加えて長嶋茂雄監督との対立もあり、6月の時点でユニホームを脱ぐことを決めていたそうです。
在任中の須藤豊さんは、河埜和正さんの指導に力を注いでいました。
河埜和正さんは中学時代はバレーボールの選手で、野球はほとんど素人だったんですよ。
リードを取っても頭を前に出して自信なさげな様子で、カメというあだ名が付いたほどでした。
それでも須藤豊さんは天性の強肩と、バレーで鍛えた足腰のバネに注目しています。
低い球を投げることを口すっぱく教え、三遊間の深い位置からの送球を磨かせました。
この指導が後の名遊撃手を生んだわけですから、見る目は確かだったんですよね。
それだけの仕事をしながら退団させられたのですから、納得できない思いは強かったはずです。
河埜和正さんはその後、巨人の正遊撃手として長く活躍する選手になりました。
素人同然だった選手を一軍の守りの中心に育てた手腕は、周囲も認めるところでした。
それだけに退団という結末は、本人にとって相当に重い出来事だったと思います。
川口市の向山工場で始めた日々
巨人退団にあたって、須藤豊さんには複数の誘いが届いていました。
日本ハムの大沢啓二監督とロッテの金田正一監督から、守備コーチで来てくれと声がかかったんですよ。
しかし須藤豊さんはプロ野球はもういいと思うほど打ちのめされ、すべて断っています。
そして選んだ道が、埼玉県川口市にある鉄建用の丸棒メーカーである向山工場での勤務でした。
向山工場は社長が一代で築いた会社で、須藤豊さん自身が以前から付き合いがあった相手です。
この人の下で働いてみたいと思っていたそうですが、社長からは何度も断られました。
「プロ野球でスポットライトを浴びた人が勤まるところじゃない」と言われたと記録されています。
それでも妻と一緒に頭を下げ、なんとか雇ってもらえることになりました。
年が明けて1月5日が初出勤でしたが、ろくに電車に乗ったことがなかったんですよ。
そのため前もって通勤の練習をし、恵比寿駅から2度乗り換えて川口駅からバスで20分かけて通いました。
朝5時半に起きて8時過ぎに職場へ着くという生活が、ここから始まります。
プロ野球の遠征では切符の手配をマネジャーが行い、移動はほとんど車の時代でした。
切符の買い方も名刺交換も知らないまま社会に出た、というのが当時の実情なんですよ。
月給19万5000円という現実
初出勤の日、須藤豊さんは営業に配属されると思っていたそうです。
ところが手渡されたのは作業着と安全靴、そして黄色いヘルメットでした。
まず工場でデリバリー担当を命じられたのは、社長の親心からです。
どうやって鉄ができるかを理解して売らないとダメだ、という考え方だったんですよ。
鉄の製造とスクラップをしている工場は、とにかく暑い職場でした。
塩を舐めながら作業をしないと体がもたず、ものすごい騒音が耳に響いたと語っています。
工員と一緒に風呂に入り、毎日午後8時に帰宅する生活でプロ野球は一切見なかったそうです。
初任給は同僚らと同じ月給19万5000円で、1日の小遣いは1000円になりました。
球界で指導者を務めた人物が、同僚と同じ給与で現場に立っていたわけですね。
この体験が、選手を見る目をどう変えたのかは想像がつきます。
野球を離れてからの人生のほうが長いという現実を、自分の体で知った4年間でした。
この時期は休日だけニッポン放送のショウアップナイターで解説を務めていました。
平日は工場、休日は放送席という生活で、野球との細い糸はつながっていたわけですね。
家族を支えながら異業種で働いた経験は、選手の第二の人生を語る際の説得力になりました。
営業職で学んだ鉄と商売
2年目の1977年から、須藤豊さんは営業へ回りました。
どこの商社に行っても皆が野球好きで顔は覚えてくれたそうです。
しかし顔を覚えてもらうことと、商売になることは別の話でした。
担当したのは商社相手の輸出部門で、英語の契約書を読まなければなりません。
鉄の知識も必要であり、毎日が勉強の日々だったと振り返っています。
しかも第2次オイルショックで鉄も売れない時期という、厳しい環境でした。
夜遅くまで食事や麻雀に付き合い、また朝早く出掛けるという工場勤務とは違った辛さも経験します。
よく値切られたものの、工員から自社製品の素晴らしさを聞いていたため値引きせずに売れたそうです。
自信と誇りを持って商品を売るという姿勢は、まさに営業の本質ですよね。
仕事に慣れて売り上げがよくなる一方で、野球を見ると再び血が騒ぐのを感じたと語っています。
下記の表はサラリーマン時代の流れをまとめたものです。
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 1975年 | 巨人が球団初の最下位・一軍守備コーチを退団 |
| 1976年1月5日 | 向山工場に初出勤・工場のデリバリー担当 |
| 1976年 | 月給19万5000円・小遣いは1日1000円 |
| 1977年 | 営業へ異動・商社相手の輸出部門を担当 |
| 1978〜1979年 | 休日にニッポン放送ショウアップナイター解説 |
| 1979年 | 社長の了解を得て大洋二軍監督就任が決まる |
営業3年目の1979年、須藤豊さんは土曜の昼に社長から呼び出されました。
肩書き入りの名刺を作る話を切り出されたため、別当薫さんからの誘いを打ち明けたそうです。
すると社長は「それはチャンスだ。おまえはいつか、帰ると思っていた。好きにしなさい」と快く送り出しました。
鬼軍曹と呼ばれた二軍監督時代
須藤豊さんの指導者としての評価を決定づけたのは、二軍監督としての仕事です。
鬼軍曹という呼び名も、この時期の熱血指導から生まれました。
ここでは大洋と巨人の二軍で残した実績を、具体的な逸話とともに整理しますね。
1980年の大洋二軍監督就任
1980年、須藤豊さんは大洋ホエールズの二軍監督に就任しました。
声をかけたのは、毎日オリオンズ時代の恩師であり球団取締役を務めていた別当薫さんです。
当時の大洋は若手の体力不足が深刻で、ドラフト1位の選手がダッシュで二軍監督に負けることもありました。
そのため食べて練習することを選手に教え込み、体づくりから作り直したんですよ。
ここで育ったのが高木豊さん、屋鋪要さん、市川和正さんといった後の主力選手です。
チーム成績は1年目が5位、2年目の1981年が6位と思ったような結果ではありませんでした。
それでも須藤豊さんは陣頭指揮に立ち、選手を奮い立たせ続けました。
当時は球場も出来たばかりで、コーチらとリヤカーで砂を入れたり土をならしたりしていたそうです。
大久保弘司さんがスライディングをした際には、土の中から針金が出てきて足を怪我しました。
休むと翌日のメンバーが足りなくなるため、医者に頼んで出場できるようにしたという逸話もあります。
1981年オフに長嶋茂雄さんの一軍監督招致話が出ると、首脳陣が刷新され須藤豊さんも退団しました。
一度は契約をさらに3年延長する打診もあったそうですが、状況が一変してしまいます。
現役時代に対立した相手の名前が出たことで、立場が揺らいだ形ですね。
ファームは一軍の貯水池
大洋の二軍監督として須藤豊さんが掲げたモットーがあります。
それがファームは一軍の貯水池という言葉です。
二軍は勝つための場所ではなく、一軍へ水を送るための場所という考え方ですね。
その実現のために、時には鉄拳制裁も辞さなかったと記録されています。
覇気のない投手については、試合途中にもかかわらず荷物をまとめさせました。
そして遠征先の秋田から横浜へ強制送還したという、強烈な逸話も残っています。
巨人戦で石橋貢さんが4死球を受けると、バットを持って古巣のベンチへ殴り込みに行きました。
チームにアグレッシブな姿勢を植え付けることに、心血を注いでいたわけです。
一方でサラリーマン時代の経験を生かした工夫も導入しています。
ファーム月間優秀賞を設けて若手に目標を持たせ、賞品にはラジカセを用意しました。
厳しさだけでなくアイディアでチームを引っ張るところが、会社勤めを経験した指導者らしいですよね。
平松政次さんが故障のリハビリで二軍に落ちた際には、色違いのストッキングの件で口論にもなりました。
当時は二軍の負傷者に色違いのストッキングを履かせる習慣があったそうです。
ベテランにも方針を曲げない姿勢が、鬼軍曹という呼び名を定着させていきました。
巨人二軍でイースタン4連覇
1983年、須藤豊さんは藤田元司監督の要請を受けて巨人へ復帰します。
二軍守備走塁コーチを2年、一軍守備走塁コーチを1年務めた後の1986年、二軍監督に就任しました。
ヘッドコーチへ昇格した国松彰さんの後任という形です。
在任中に掲げたのは、チームの勝利と育成の両立という方針でした。
勝敗は二の次といったファームにはびこる悪癖を、須藤豊さんは一掃したと評価されています。
その熱い指導の下でイースタン・リーグ4連覇とジュニア日本選手権3連覇を達成しました。
1989年には平塚でオリックスを倒して3連覇を成し遂げ、須藤豊さんは6度も宙に舞っています。
一軍の優勝のために選手を次々と供給し、故障者続出で控え投手が内野を守る状況での優勝でした。
その苦労を思うと、涙が流れていたのも納得できますよね。
村田真一さんには試合経験を積ませて味のある女房役に育て上げました。
川相昌弘さんには非力でも守備と犠打で一軍で通用するようにマンツーマン指導を施しています。
その川相昌弘さんは後に世界記録となる通算犠打数を積み上げる選手になりました。
村田真一さんも巨人の正捕手として長く務め、引退後はコーチを歴任しています。
二軍で基礎を叩き込まれた選手が、そのまま一軍の主力になっていったわけですね。
一軍監督になれない現実
二軍で優勝を重ねても、当時は一軍監督になれないのが球界の常識でした。
このことについて、須藤豊さんは後年スポーツジャーナリストの二宮清純さんに語っています。
巨人時代、9月になると教育リーグに参加するため選手たちを米国へ連れて行ったそうです。
すると必ず今年のチームはどうだったかと聞かれ、今年も優勝したと答えていました。
そこで返ってくるのが、なぜあなたは一軍の監督になれないのかという質問だったんですよ。
須藤豊さんは「日本は元スター選手じゃないと監督になれないんだ」と説明したそうです。
すると米国の関係者は皆、驚いたような顔をしていたと振り返っています。
選手としての能力と指導者としての能力は違うだろうという思いが、この言葉には込められていますね。
盗塁王となった緒方耕一さんは、須藤豊さんから積極的に次の塁を奪う姿勢を学びました。
井上真二さんはファームの試合で三振の山を築きながらも我慢して使い続けられ、一軍昇格後に実力を発揮します。
1989年には吉村禎章さんの一軍昇格を巡って藤田元司監督との確執があり、須藤豊さんは退団しました。
二軍の成績を優先するか一軍の都合を優先するかという、指導者同士の対立ですね。
結果としてこの退団が、翌年の大洋一軍監督就任につながっていきます。
大洋監督と3球団のヘッドコーチ歴
1990年、ついに須藤豊さんに一軍監督の座が巡ってきました。
この3年間と、その後のヘッドコーチ時代が現在の評論活動の土台になっています。
ここでは監督としての成績と参謀役としての足跡を、年ごとに追いかけますね。
1990年に掲げたAFT野球
1990年、須藤豊さんは大洋ホエールズの一軍監督に就任しました。
フロントが二軍監督時代の非礼を詫びたことで、着任が実現したと伝えられています。
コーチ陣にはヘッドコーチの江尻亮さん、投手コーチの小谷正勝さんらが並びました。
守備走塁コーチには米田慶三郎さん、バッテリーコーチには佐野元国さんが入っています。
サラリーマン生活のなかで須藤豊さんは、明るく楽しく夢を持てという信念を持つに至りました。
これを気迫と基本と技術に置き換え、頭文字を取ったAFT野球の浸透に全力を注ぎます。
アグレッシブ、ファンダメンタル、テクニックという3語の頭文字ですね。
キャンプ終盤には自分たちの応援スタイルを作ろうと宣言し、採用者には監督賞を出すとしました。
選考の末に清水義之さんが考案したもういっちょ音頭が採用され、ベンチに声が響き渡りました。
佐々木主浩さんの卒業試験を気にかけるなど、選手との対話も重視しています。
石井琢朗さんの野手コンバートも、この須藤豊さんの時代に行われたものですよ。
石井琢朗さんは投手として入団した選手で、後に2000安打を達成する野手になりました。
谷繁元信さんには西武から移ってきた捕手をライバルとしてぶつけ、競争心を植え付けています。
7年ぶりAクラスと特別功労賞
前年まで6年連続Bクラスと低迷していたチームが、1990年に大きく動きます。
ベテランの加藤博一さんや、一度は引退を決意した田代富雄さんが代打で活躍しました。
遠藤一彦さんは抑え転向で見事にカムバック賞を獲得しています。
高知商の後輩である中山裕章さんはエースの期待をかけられ、開幕投手に抜擢されました。
6月5日には14連敗を喫していた巨人の斎藤雅樹さんから、9回に高木豊さんが逆転2ランを放ちます。
セ・リーグの台風の目となり、最終的に64勝66敗3分で3位に入りました。
これが7年ぶりのAクラス入りで、リーグを盛り上げた須藤豊さんには特別功労賞が贈られました。
野村弘樹さんが11勝を挙げて頭角を現し、ジム・パチョレックさんは首位打者を獲得しています。
なお大洋ホエールズとしてのAクラス入りは、この1990年が最後になりました。
下記の表は監督としての成績をまとめたものです。
| 年度 | 順位 | 勝敗 | 勝率 |
|---|---|---|---|
| 1990年 大洋 | 3位 | 64勝66敗3分 | .492 |
| 1991年 大洋 | 5位 | 64勝66敗1分 | .492 |
| 1992年 大洋 | 5位 | 61勝69敗1分 | .469 |
| 通算3年 | Aクラス1回 | 138勝147敗4分 | .488 |
通算成績には1997年に西武で務めた監督代行3試合の3勝0敗が含まれています。
中山裕章の退団と5月の辞任
1991年、チームは現役メジャーリーガーのレイノルズさんを獲得して打線強化を図りました。
しかし故障者続出もあり、順位は5位に転落しています。
それでも勝ち星は前年と同じ64勝で、首位から5位までのゲーム差は10しかありませんでした。
野村弘樹さんがローテを守ってチームトップの15勝、岡本透さんも11勝を挙げています。
リリーフでは2年目の佐々木主浩さんが守護神となり、中継ぎでは盛田幸妃さんが台頭しました。
ところがオフに中山裕章さんがスキャンダルを起こして逮捕され、球界に衝撃が走ります。
中山裕章さんを育てることでチームを伸ばそうと考えていた須藤豊さんは、大きく落ち込みました。
1992年はシーツさんを獲得して打線の強化を図りましたが、序盤から低迷します。
そして5月3日に休養し、休養前の5月2日までの成績は7勝15敗でした。
後任にはヘッドコーチの江尻亮さんが就任し、同年オフに須藤豊さんは退団しています。
翌年からホエールズは歴史を閉じ、横浜ベイスターズとして生まれ変わりました。
大野雄次さんとはソリが合わず、1991年オフに巨人へのトレードが成立しています。
選手との相性まで含めて、監督という仕事の難しさが表れた3年間だったと言えますね。
巨人と西武で務めた参謀役
1992年10月26日、巨人の監督に復帰したばかりの長嶋茂雄さんから要請が届きます。
須藤豊さんは巨人のヘッドコーチとして、2度目の復帰を果たしました。
若手育成に定評があったため、長嶋茂雄さんに強く説得される形での就任だったそうです。
前年入団したスーパールーキーの松井秀喜さんらに、鬼軍曹として指導を施しています。
1994年には参謀役としてチームのリーグ優勝と日本一に貢献しました。
国民的行事と謳われた10.8決戦を制したのも、この年です。
しかしFA戦士をかき集めるチーム方針に納得できず、1995年限りで退団しました。
1997年からは東尾修監督の下で、西武ライオンズのヘッドコーチに就任します。
東尾修さんは「監督経験があるので作戦面に明るいだけではなくバッターの気持ちやプライドを理解できるコーチだった」と評しました。
松井稼頭央さんや大友進さん、高木大成さんの成長を支え、2年連続リーグ優勝に貢献しています。
長年のノックのやり過ぎから股関節を痛め、1999年に西武を退任しました。
その後2003年10月10日には堀内恒夫監督の参謀役として巨人へ復帰しますが、2004年9月13日に退団しています。
この退団をもって、須藤豊さんがユニホームを着る仕事は終わりを迎えました。
以降は解説者と評論家として、放送と紙面から球界を見続ける立場になっています。
須藤豊の現在に関するまとめ
- 須藤豊は1937年4月21日生まれの元プロ野球選手
- 出身は高知県安芸市で5人兄弟の末っ子として生まれている
- 現在もラジオ日本の解説者として野球中継に出演している
- 担当はジャイアンツナイターで2005年から続いている
- 夕刊フジ専属評論家は2025年1月31日まで務めた
- 夕刊フジでの連載名は須藤豊のいごっそうが斬るだった
- 高知ファイティングドッグスの助言役は現在は退任している
- 愛称は鬼軍曹で二軍監督として多くの若手を鍛え上げた
- 巨人の二軍監督ではイースタン4連覇を成し遂げている
- 1990年の大洋監督初年度に7年ぶりAクラスへ導いた
- 大洋時代はAFT野球を掲げて選手の気迫を引き出した
- 1994年は巨人ヘッドコーチとして日本一に貢献した
- 西武時代は松井稼頭央らを育て2年連続優勝に貢献した
- 通算打撃成績は959試合で495安打・打率.230だった
- Netflixドラマの同名の須藤豊は無関係の別人物
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