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末次利光さんの妻について、どんな女性なのか、名前や人物像は公表されているのかを知りたいと感じている方は多いのではないでしょうか。
結論から言うと、妻に関する情報は名前も年齢も一切公表されていません。
末次利光さんは王貞治さんと長嶋茂雄さんの後を打つ5番打者として巨人のV9を支え、1971年には日本シリーズMVPにも輝いた外野手です。
孫の末次佑行さんは佐久長聖高校で1番打者を務めるまでに成長し、本人も球界OBとして現在まで歩みを続けています。
この記事では、妻の情報が出てこない理由から天皇陛下が少年時代に大ファンだった逸話まで、公開情報をもとにあなたが納得できる形で整理します。
記事のポイント
①:妻の名前や人物像は一切非公表
②:孫の末次佑行は佐久長聖で1番打者
③:天皇陛下が少年時代の大ファン
④:1971年の日本シリーズMVPを獲得
末次利光の妻は非公表|家族構成と現在
- 【結論】妻の名前は非公表のまま
- 孫・末次佑行は佐久長聖の1番
- 息子に関する情報と家族構成
- 現在の姿|長嶋茂雄への追悼
- 引退後に歩んだ指導者の道
【結論】妻の名前は非公表のまま
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末次利光さん(元巨人)によるオンラインサイン会、まもなく開始です😊#OBクラブ #日本プロ野球OBクラブ
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ここでは末次利光さんの妻について、公開されている情報だけを使って現状をはっきり整理します。
先に答えをお伝えすると、妻の名前も顔写真も公表されていないため、人物像を断定できる材料は存在しません。
ただ、情報が出てこない背景には時代的な理由があるので、その理由と本人のプロフィールをセットで追うと納得できるはずですよ。
妻に関する公開情報はゼロ
結論から言うと、末次利光さんの妻については名前も年齢も出身地も、公の場で一度も明かされていません。
日本野球機構が公開しているNPB.jpの個人年度別成績に載っているのは、生年月日と身長体重、それに経歴だけです。
週刊ベースボールONLINEの選手データにも、プロフィール欄に配偶者を示す項目は用意されていないんです。
つまり、野球界の一次情報に近い資料をいくら突き合わせても、妻の名前にたどり着く経路が存在しないというのが実情なんですよね。
末次利光さんは1942年3月2日生まれで、読売ジャイアンツに入団したのは1965年のことでした。
現役を引退したのは1977年なので、インターネットもSNSも存在していない時代に選手生活を終えています。
当時のプロ野球は選手個人の家庭を前面に出す取材スタイルが一般的ではなく、スポーツ紙の紙面も試合結果が中心でした。
そのため、妻の情報が残っていないのは本人が隠しているからではなく、記録として残る仕組みそのものがなかったという事情が大きいんです。
家族について本人が語った記録として残っているのは、後述する孫の高校野球に関する取材だけというのが現状です。
ここ、気になるポイントだと思うので、名前を断定している情報を見かけたときは根拠が示されているかどうかを必ず確認してみてくださいね。
末次利光の基本プロフィール
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妻の人物像が不明である以上、まずは夫である末次利光さん本人の輪郭をつかんでおくのが近道になります。
下記の表は、末次利光さんについて判明している基本情報をまとめたものです。
| 項目 | 判明している内容 |
|---|---|
| 名前 | 末次利光(すえつぐ としみつ) |
| 旧登録名 | 末次民夫(1973年まで) |
| 生年月日 | 1942年3月2日 |
| 2026年10月20日現在の年齢 | 84歳 |
| 出身地 | 熊本県 |
| 身長/体重 | 176cm/77kg |
| 投打 | 右投右打 |
| 経歴 | 熊本・鎮西高 – 中央大 – 巨人(1965年〜1977年) |
| 主な実績 | 1971年の日本シリーズMVP |
| 通算成績 | 1214試合・895安打・107本塁打・456打点・打率.269 |
| 妻 | 非公表 |
| 家族 | 孫に末次佑行(佐久長聖高で野球部) |
熊本県出身で、鎮西高から中央大を経て1965年に巨人へ入団した右投げ右打ちの外野手です。
身長176cm、体重77kgという体格は、当時の日本人の野手としては標準的なサイズでした。
注目してほしいのは、1973年まで「末次民夫」という登録名で出場していた点ですね。
そのため、古い記録や当時の新聞を調べると、同じ選手なのに別人のように見えてしまうことがあります。
プロフィールを押さえておくと、妻の情報を探すときに参照すべき資料の種類も見えてきますよ。
情報が出てこない三つの理由
では、なぜここまで徹底して家庭の情報が出てこないのでしょうか。
理由は大きく三つに整理できます。
①引退が1977年でインターネット以前の時代だった
②報道量が王貞治さんと長嶋茂雄さんに集中していた
③本人が家族を公の場で語るタイプの選手ではなかった
一つ目の時代の問題は、同世代の選手すべてに共通する事情です。
結婚や交際を伝えるスポーツ紙の記事がデジタル化されて蓄積され始めたのは、1990年代後半以降のことになります。
二つ目は、スターぞろいの巨人軍では5番打者の家庭まで取材が回らなかったという現実的な背景ですね。
サンデー毎日の連載でも、末次利光さんは「スターぞろいの巨人軍にあっては地味な存在」と評されていました。
三つ目については、本人が語った家族の話題が孫の高校野球に限られているという点が根拠になります。
この三つが重なった結果、妻の情報が一切表に出てこない状態が半世紀近く続いているわけです。
逆に言えば、情報がないこと自体が当時の球界の取材文化をそのまま映しているとも言えます。
同じV9戦士でも、王貞治さんや長嶋茂雄さんの家庭環境は数え切れないほど報じられてきました。
その差が、そのまま検索結果に出てくる情報量の差として表れているのだと思います。
旧登録名の末次民夫という事実
ここで押さえておきたいのが、1973年まで使われていた「末次民夫」という登録名です。
サンデー毎日の連載「社会学的皇室ウォッチング!」でも、末次利光選手は1973年までは民夫だったと明記されています。
つまり、V9の前半を戦っていた時期の新聞記事では「末次民夫」という表記になっているわけですね。
この改名は、妻の情報を探すうえでも意外に重要なポイントになります。
古い資料で家族の記述を探すのであれば、「末次民夫」という名前でも調べる必要があるからです。
また、改名の時期がV9達成の直後だったことで、同じ選手なのに記録が二つに分かれて見えてしまう場合もあります。
NPB.jpの個人年度別成績では1965年から1977年までが一つの表にまとまっているので、そこで照合するのが確実ですよ。
読み方は「すえつぐ としみつ」で、現役時代は「スエ」という愛称で呼ばれていました。
長嶋茂雄さんも、打席に向かう末次利光さんに「スエ、行けよぉ」と声をかけて鼓舞していたそうです。
こうした細かい事実の積み上げが、信頼できる情報とそうでない情報を見分ける材料になってくれます。
妻の名前を名乗る情報が出てきた場合も、まずは一次資料に当たる習慣を持っておくと安心ですね。
孫・末次佑行は佐久長聖の1番
家族の中で唯一、名前と素顔が公になっているのが孫の末次佑行さんです。
2024年7月21日の朝日新聞長野県版に「巨人V9戦士の孫、最後の夏」という記事が掲載され、祖父との関係が詳しく紹介されました。
ここでは、その取材から判明した孫の人物像を順番に見ていきますが、読み終えたときには末次家の雰囲気まで伝わるはずですよ。
孫の末次佑行のプロフィール
孫の名前は末次佑行さんで、読みは「ゆうき」です。
下記の表は、朝日新聞の報道から判明している末次佑行さんの情報をまとめたものです。
| 項目 | 判明している内容 |
|---|---|
| 名前 | 末次佑行(すえつぐ ゆうき) |
| 祖父 | 末次利光(巨人のV9戦士) |
| 高校 | 佐久長聖高校(長野県佐久市) |
| 学年 | 2024年夏に3年生 |
| 打順 | 1番打者 |
| 打席 | 両打ち(祖父は右打ち) |
| 最後の夏 | 2024年の長野大会準々決勝で敗退 |
| 野球を始めた理由 | 祖父・末次利光の影響 |
通っていた佐久長聖高校は、長野県内では夏の甲子園に何度も出場している強豪校です。
その強豪でリードオフマンを任されていたという事実だけでも、相当な実力の持ち主だったとわかります。
朝日新聞の記事では「強豪のリードオフマンに成長を果たした」と表現されていました。
祖父が巨人で5番を打っていた一方、孫は1番という対照的な役割を担っていたことになりますね。
野球を始めたきっかけも、記事には「もちろん祖父だった」と記されています。
祖父の背中を見て同じ道に進んだという、わかりやすい形の継承だったわけです。
祖父が巨人で背負っていた背番号は38で、孫が佐久長聖で着けていた番号は公表されていません。
名字が同じで打撃フォームまで受け継いでいるため、スタンドからは一目で親族だとわかる存在だったと思います。
長野県の高校に通っていたことから、息子の世代が信州に生活の拠点を置いている可能性もうかがえますね。
両打ちに転向した理由
末次佑行さんの大きな特徴は、祖父と違って両打ちだった点にあります。
右投げ右打ちだった末次利光さんに対して、孫はスイッチヒッターとして試合に出ていました。
これも、祖父からのアドバイスがきっかけだったと本人が明かしています。
「両打ちをできるようにした方がいいよ、と言われて、左打ちの練習をしました」というのが本人のコメントです。
祖父自身は右打ちで通算107本塁打を放った打者ですから、助言の内容は少し意外に感じられますよね。
ただ、1番打者として出塁率を高めることを考えれば、左打席を使える方が有利になる場面は確実に増えます。
一塁までの距離が近くなり、右投手との対戦でもボールの見やすさが変わってくるからです。
孫の適性を見極めて、自分と同じ形を押し付けなかったところに指導者としての引き出しの広さが表れていると感じます。
実際に末次利光さんは現役引退後、巨人の二軍監督として若手を育てる立場も経験しています。
プロの指導現場を知っている祖父のアドバイスだからこそ、孫も素直に受け入れられたのかもしれません。
両打ちへの挑戦は、利き腕とは逆の打席で一からスイングを作り直す作業になります。
高校の三年間でそれを形にして1番に定着したのですから、本人の努力量も相当だったはずですよ。
2024年夏の長野大会の結果
2024年7月21日、末次佑行さんにとって最後の夏が終わりを迎えました。
全国高校野球選手権長野大会の準々決勝で、佐久長聖は長野俊英に1対4で敗れています。
会場はセキスイハイム松本で、10回目の夏の甲子園出場を狙った挑戦はここで幕を閉じました。
この試合、1番打者の末次佑行さんは2本の安打を放って気を吐いています。
チームが得点を奪えない苦しい展開の中で、自分の仕事はきちんと果たしたことになりますね。
佐久長聖は2012年以降、偶数年ごとに長野大会を制してきた流れがありました。
2020年の独自大会も含めて続いていた「伝統」が、この敗戦で途切れたと朝日新聞は報じています。
それだけ期待の大きかったチームで、主軸として最後の夏を戦ったわけです。
試合後の末次佑行さんは「これから感謝を伝えたい」と話し、その表情はすっきりとしていたと記事に書かれていました。
負けた直後に感謝という言葉が出てくるところに、家族に支えられてきた選手らしさがにじんでいます。
準々決勝という舞台は、甲子園まであと三つという位置ですから悔しさも大きかったでしょう。
それでも2安打という結果を残したことで、祖父に見せられる最後の打席を作れたのではないでしょうか。
この取材をまとめたのは朝日新聞スポーツ部の記者で、記事は2024年7月21日21時10分に配信されています。
祖父の教えとどっしり構える形
末次佑行さんが最後の夏まで守り続けたのが、祖父から授けられた打撃の教えでした。
「良いバッターはどっしり構えるんだ」という言葉が、その中心にあります。
準々決勝の日も、この教え通りのフォームで2安打を記録しました。
どっしり構えるという表現は抽象的に聞こえますが、プロの打者にとっては極めて具体的な技術の話です。
上体が突っ込まず、下半身で支えた状態を保てれば、変化球にも対応しやすくなるからですね。
末次利光さんは王貞治さんと長嶋茂雄さんの後ろで5番を打ち、通算895安打を積み上げた打者です。
その経験から出てきた一言が、半世紀後に孫のフォームとして形になっていたことになります。
祖父にとっても、自分の教えが長野の球場で生きている光景は格別だったはずです。
「祖父で、プロ野球・巨人のV9戦士・末次利光さん」と朝日新聞が紹介したとき、当時の年齢は82歳と記されていました。
孫の最後の夏を見守る立場になっても、打撃の助言を求められる存在であり続けたんですね。
末次家の野球が二世代をまたいで続いている事実は、妻や家庭の情報が乏しい中でも家族の濃さを伝えてくれます。
祖父から孫へ受け渡された技術の話は、そのまま末次家の空気を知る手がかりにもなっていますね。
息子に関する情報と家族構成
妻と並んで検索されているのが「末次利光 息子」というキーワードです。
ここ、かなり気になるところですよね。
結論から整理すると、息子に関する情報も公表されていませんが、孫の存在から家族構成はある程度までたどれます。
息子の情報は公表されていない
まず、末次利光さんの息子について公にされている情報は確認できません。
名前も職業も年齢も、スポーツ紙や雑誌の記事には一度も登場していないんです。
ただ、孫の末次佑行さんが存在する以上、子供がいることは確実です。
孫が生まれるには子供の世代が必要ですから、ここは推測ではなく論理的に言える部分ですね。
その子供が息子なのか娘なのかについては、公開情報だけでは断定できません。
孫の名字が「末次」である点を踏まえると、息子の家庭である可能性は高いと考えられます。
娘の子供であれば、結婚によって名字が変わっているケースが多いためです。
もちろん例外もあるので、ここは可能性の話として受け取ってくださいね。
朝日新聞の記事でも「祖父で、プロ野球・巨人のV9戦士」という紹介にとどまり、両親についての記述はありません。
高校野球の取材では選手と家族のエピソードが語られることも多いのですが、今回は祖父との関係に焦点が当たっていました。
それだけ、末次利光さんという存在が孫にとって大きかったという裏返しでもあります。
プロ野球選手の子供が同じ道に進んだ場合は、二世選手として大きく報じられるのが通例です。
末次利光さんの場合はそうした報道が見つからないため、息子の世代は野球を職業にしなかったと推測できます。
その代わりに孫の世代で再び野球が受け継がれたという流れになりますね。
家族構成で判明していること
では、公開情報から確実に言える家族構成を表で整理してみます。
下記の表は、報道で確認できる範囲の家族関係をまとめたものです。
| 続柄 | 人物 | 判明している内容 |
|---|---|---|
| 本人 | 末次利光 | 1942年3月2日生まれの元巨人外野手 |
| 妻 | 非公表 | 名前も年齢も一切不明 |
| 子供 | 非公表 | 孫がいるため存在は確実 |
| 孫 | 末次佑行 | 佐久長聖高校で1番打者 |
表にしてみると、公表されているのが本人と孫の二人だけだとはっきりわかります。
V9戦士として知名度の高い選手でありながら、ここまで家庭の情報が出ていないのは珍しいケースです。
同じ時代の巨人の主力でも、王貞治さんや長嶋茂雄さんは家族の話題が繰り返し報じられてきました。
その違いが、末次利光さんの人柄や取材への向き合い方を映していると考えることもできます。
孫の取材でも祖父の言葉は打撃論に限られ、家庭の話には踏み込んでいません。
家族を大事にしながらも、表に出すことはしないという一貫した姿勢がうかがえますね。
こうした距離感は、昭和のプロ野球選手らしい感覚だとも言えるでしょう。
選手名鑑に家族欄が設けられていなかった時代ですから、記録に残らないのも自然な流れでした。
結婚した時期についても、入団前なのか現役中なのかを示す資料は見当たりません。
息子が検索される理由
検索エンジンでは「末次利光 息子」「末次利光 孫」という組み合わせが実際に調べられています。
Yahoo!の関連キーワードにも、この二つが並んで表示されていました。
理由として大きいのは、やはり2024年の朝日新聞の報道でしょう。
孫の末次佑行さんが取り上げられたことで、では息子はどうなのかという関心が生まれる流れです。
もう一つは、プロ野球ファンの間に二世選手を探す習慣が根付いていることが挙げられます。
V9を支えた選手の子供がどんな道を歩んだのかは、ファンにとって気になるテーマですよね。
さらに「末次利光 妻 現在」という検索の中にも、家族の現状を知りたいという気持ちが含まれています。
妻、息子、孫という三つのキーワードは、結局のところ同じ関心から派生しているわけです。
ただ、公開情報が孫に集中しているという事実は変わりません。
そのため現時点では、息子の情報を期待するよりも、孫の活躍を通じて家族像を知るのが現実的な方法になります。
検索候補の中には、他球団の選手の奥さんに関する質問が混ざって表示されることもあります。
そうした候補をたどると別人の情報に行き着いてしまうので、名前の一致だけで判断しないのが大切ですよ。
孫の存在から見える家族像
最後に、公開されている情報から見える末次家の雰囲気を整理しておきます。
孫の末次佑行さんが野球を始めたきっかけは祖父であり、打撃フォームも祖父の教えが土台になっていました。
両打ちへの転向も祖父の助言があってこそで、日常的に野球の会話がある関係だったとわかります。
プロ野球の世界で13年間プレーした祖父が、孫の練習に付き合っていた光景が想像できますよね。
しかも助言の内容は、自分と同じ右打ちで勝負しろというものではありませんでした。
孫の将来を考えて両打ちを勧める選択は、親族としての欲ではなく指導者としての判断です。
こうした距離感の取り方は、二軍監督として若手を見てきた経験とも重なります。
そして孫は、最後の夏に敗れた直後に「これから感謝を伝えたい」と語りました。
支えてくれた家族への思いが自然に出てくる環境だったことが、この一言から読み取れます。
妻の名前は分からないままですが、三世代にわたって野球でつながる家庭だったことは間違いなさそうです。
家族の情報が少ないからといって、家庭が希薄だったわけではないという点は押さえておきたいですね。
妻や息子の名前を知るよりも、孫に受け継がれた打撃論を追う方が末次家の実像に近づけると感じます。
現在の姿|長嶋茂雄への追悼
きょうの野球教室にいらした巨人V9戦士の末次利光さん!星飛雄馬4年くらいチームメイトだったというレジェンドっぷりにビビる #セノン #守りの名手 #全国少年少女野球教室 #巨人 https://t.co/S8ItqSLHef
— GG佐藤 (@ggsato_travers) May 29, 2022
2025年6月3日、末次利光さんが久しぶりに公の場でコメントを残しました。
巨人軍終身名誉監督だった長嶋茂雄さんが89歳で亡くなり、その追悼の言葉を日刊スポーツに語ったのです。
ここでは、この取材から見えてくる末次利光さんの現在を、信頼できる情報だけで丁寧に追っていきます。
2025年6月の追悼コメント
結論から言うと、末次利光さんの現在を知るもっとも新しい手がかりがこの追悼コメントです。
日刊スポーツは2025年6月3日、巨人V9時代の5番打者として本人の談話を掲載しました。
紹介された言葉が「長嶋さんの後の打席に立てたこと、一緒に野球をやってこられたことに感謝しています」というものです。
続けて「今は力が抜けてしまって…。寂しいです」と、声を震わせたと伝えられています。
この短いコメントから、自分の言葉でしっかり受け答えできる状態であることがわかります。
長嶋茂雄さんは2004年に脳梗塞で倒れ、その後は車いすでの生活を続けていました。
末次利光さんは「頑張られている姿をテレビで見て勇気をもらっていました」とも語っています。
さらに「大変なリハビリを乗り越えた精神力がすごい」と、闘病に挑んだ姿勢を称えました。
「野球人としても人としても素晴らしい方だった。心からご冥福をお祈りします」という言葉で談話は締めくくられています。
V9を一緒に戦った選手として、最後まで敬意を持ち続けていたことが伝わる内容ですね。
記事の見出しにも「力が抜けてしまって…。寂しい」という言葉がそのまま使われました。
それだけ、取材した記者にも感情の揺れが伝わる話し方だったのだと思います。
最後に会ったファンフェスタ
追悼の取材では、長嶋茂雄さんと最後に会った場面についても語られています。
その舞台は2024年11月のジャイアンツ・ファンフェスタでした。
歴代のOBが大集結したイベントで、末次利光さんは真っ先に長嶋茂雄さんへあいさつに向かったそうです。
「『お久しぶりです』と声をかけたら『おうっ』と」というやり取りが紹介されています。
続けて「元気そうだったので、良かったと思っていました」と振り返りました。
この話から、OBイベントに自分の足で参加していることが確認できます。
ジャイアンツ・ファンフェスタは、シーズン終了後に開催される巨人の恒例行事です。
現役選手だけでなく、歴代のOBが顔をそろえる場として知られています。
そこに足を運べているということは、体調面でも大きな問題がないと考えられますね。
長嶋茂雄さんが脳梗塞で倒れてからは、ほとんど会う機会がなかったとも語っていました。
だからこそ、あのファンフェスタでの短いやり取りが最後の会話になったわけです。
声をかけた相手が「おうっ」と応じてくれた記憶は、これからも大切に残っていくはずです。
長嶋茂雄さんが亡くなる約半年前の出会いだったことを考えると、本当に貴重な時間だったと言えますよね。
長嶋茂雄と過ごしたV9の日々
追悼コメントの中で、末次利光さんは現役時代の思い出を数え切れないと表現しました。
その中でも特に鮮明なのが、1976年6月8日の阪神戦だったそうです。
2点を追う9回裏、2死満塁の場面で逆転サヨナラ満塁本塁打を放った試合ですね。
このとき長嶋茂雄さんは、ホームベースより5〜6メートルも前に出て両手を上げて出迎えてくれたといいます。
「あの光景は今でも忘れられない」と、半世紀近く経ってから語っているのが印象的です。
1976年の長嶋茂雄さんは巨人の監督を務めていたので、ベンチから飛び出してきたことになります。
監督が本塁の前まで出てきて迎えるというのは、よほど劇的な一打だったという証拠でしょう。
現役時代は、長嶋茂雄さんの後の打席という計り知れないプレッシャーの中で戦っていました。
その支えになったのが「スエ、行けよぉ」という声掛けだったと明かしています。
「V9時代は結束力がすごかった」という言葉も、当時のチームの空気を伝えてくれますね。
4番の後ろを打つ5番という打順は、歩かされた走者を還す役割を背負う場所です。
その重圧を9年間引き受け続けた事実が、追悼コメントの重みにつながっています。
敬遠された王貞治さんの後に回ってくる打席ほど、観客の視線が集まる場面はなかったはずです。
現在のOBとしての立ち位置
ここまでの情報を整理すると、末次利光さんの現在像がはっきり見えてきます。
下記の表は、近年の動きを時系列でまとめたものです。
| 時期 | 出来事 | 内容 |
|---|---|---|
| 2024年7月 | 孫の最後の夏 | 朝日新聞の取材で祖父として紹介 |
| 2024年11月 | ファンフェスタ | 長嶋茂雄と最後の会話を交わす |
| 2025年6月 | 長嶋茂雄の死去 | 日刊スポーツに追悼コメントを掲載 |
2024年から2025年にかけて、二度にわたってメディアに登場していることになります。
一度目は孫の高校野球を通じて、二度目は長嶋茂雄さんの追悼を通じてでした。
いずれも自ら情報を発信したわけではなく、取材を受けて答えた形ですね。
この姿勢は現役時代から一貫していて、自分から前に出るタイプではないことがうかがえます。
それでも、巨人のOBとして必要な場面ではきちんと言葉を残しています。
V9戦士の人数は年々減っていて、当時を語れる存在そのものが貴重になってきました。
王貞治さんや柴田勲さんら同じ時代を戦った面々も、それぞれの形で球界と関わり続けています。
今後も巨人のOBイベントや節目の取材で、その声が届けられることを期待したいところです。
新しい情報が出てきたときには、こちらでも追いかけていきますね。
引退後に歩んだ指導者の道
公開情報をたどると、末次利光さんは引退後も野球界に深く関わり続けていたことがわかります。
特に知られているのが、巨人の二軍監督としての仕事ぶりです。
ここでは、元プロ野球選手の第二の人生を描いた書籍に残された証言から、その人柄を見ていきますね。
巨人の二軍監督を務めた時期
末次利光さんは現役引退後、巨人の二軍監督を務めた経歴を持っています。
この事実は、Number Webに掲載された書籍の抜粋記事から確認できます。
記事に登場するのは、昭和最後のドラフトで巨人に2位指名された松谷竜二郎さんです。
松谷さんは文中で「巨人の二軍時代に監督だった末次利光(元巨人)」と紹介しています。
つまり、若手を預かって育てる立場を経験していたことになりますね。
1977年に現役を引退してから、ユニフォームを着て指導する道に進んだわけです。
巨人の二軍監督は、一軍に送り出す選手を見極める重要なポジションになります。
V9時代に5番を打った打者ですから、打撃指導への期待も大きかったはずです。
孫に両打ちを勧めた助言も、この指導者経験があってこそ出てきた発想だと考えられます。
選手としての実績だけでなく、人を育てる側の経験も積み重ねてきた野球人なんです。
二軍監督は結果が数字で評価されにくく、選手の人生を預かる重さのある仕事でもあります。
その立場で接した選手たちから、引退後も頼られていた点は見逃せません。
巨人の二軍は一軍と同じ重圧の中で結果を求められる環境なので、選手との向き合い方が問われる場所でもあります。
松谷竜二郎への就職支援
二軍監督時代の関係は、松谷竜二郎さんが戦力外になったあとも続いていました。
近鉄をクビになり横浜のテストにも落ちた松谷さんは、藁にもすがる思いで末次利光さんに電話をかけます。
「スカウトかスコアラーといったフロントのお仕事を紹介していただけないでしょうか」という内容でした。
これに対して末次利光さんは「わかった、ちょっと待っとけ。また連絡する」とだけ答えて電話を切ったそうです。
そして年末のクリスマス前に、本当に電話がかかってきます。
指定された新宿プリンスホテル内の中華料理店には、台湾統一ライオンズの渉外担当が同席していました。
「おまえ、来年早々、台湾に行ってテスト受けに行って来い」という単刀直入な言葉だったといいます。
肩が痛くて投げられないと訴える松谷さんには「大丈夫や。ちょちょっと行って放ってくればいいから」と返したそうです。
強引に見えて実は選択肢を用意しているというのが、末次利光さんの支援の形でした。
台湾でのテストが実らず帰国した松谷さんは、すぐに報告の電話を入れています。
そのときも末次利光さんは余計なことを言わずに電話を切ったと書かれていました。
結果が出なかった教え子を責めないという姿勢が、この短い描写からも伝わってきますよね。
市ケ谷で紹介された建設会社
話はここで終わりません。
3月に入ったある日、末次利光さんから再び「明日、市ケ谷へ来い!」という電話が入ります。
指定されたレストランにいたのは、威厳のある品の良い中年男性でした。
その人物は、末次利光さんが懇意にしていた建設会社の社長だったのです。
記事によると、この社長はWCBF(世界少年野球推進財団)を手伝うなど野球界に精通した人物でした。
さらに会社の専務理事には、元巨人監督の藤田元司さんが名を連ねていたと書かれています。
「どうだ、世話になってみないか!?」と、末次利光さんは躊躇なく勧めたそうです。
迷う松谷さんに対して、社長は「これから新しい会社を作るので、いずれキミを社長として迎え入れたい」と語りかけました。
この言葉で迷いが吹っ飛び、松谷さんはその会社で世話になることを決めます。
のちに年商160億円の会社を率いることになった松谷さんの人生は、この面会から始まったわけですね。
教え子の第二の人生をここまで面倒を見るのは、面倒見の良さが本物だった証拠だと思います。
台湾のテストから建設業界への橋渡しまで、わずか数か月の間に二つの道を用意していたことになります。
野球の実力ではなく人としての縁で次の人生が決まった例として、球界でも語り継がれているエピソードですね。
建設会社との関わりの噂
検索の関連キーワードを見ると、建設会社の役員について調べる動きがあることもわかります。
「笹島建設 役員」という組み合わせが、末次利光さんの検索候補として表示されるんです。
下記の表は、この件について噂と事実を整理したものです。
| 情報項目 | 内容 | 公開情報での裏付け |
|---|---|---|
| 建設会社の社長と親交 | 市ケ谷で松谷竜二郎に紹介 | Number Web掲載の書籍抜粋で判明 |
| その会社は野球界に精通 | WCBFを手伝い藤田元司が専務理事 | 同じ記事に記載あり |
| 特定の建設会社の役員だった | 検索候補に社名が挙がる | 裏付けとなる発表はなし |
| 引退後の肩書き | 巨人の二軍監督は確認できる | 書籍抜粋の記述で確認 |
整理すると、建設会社の経営者と親しかったことは事実として確認できます。
一方で、末次利光さん自身が特定の建設会社の役員を務めたという発表は見つかりません。
検索候補に社名が出てくるのは、同姓の別人物や関連企業の情報が混ざっている可能性も考えられます。
そのため、役員就任を断定する情報には注意が必要です。
プロ野球のOBが引退後に企業の顧問や役員に就くケースは珍しくありません。
ただ、確認できない話を事実として扱うのは避けたいところですよね。
現時点で確かなのは、二軍監督として指導にあたり、教え子の再就職まで世話をした野球人だったという事実です。
新しい情報が出てきた場合は、発表元を確認したうえで判断するのがおすすめですよ。
末次利光の現役記録|妻と現在の注目点
- 鎮西高から中央大への歩み
- V9を支えた5番打者の実力
- 通算成績と年度別の推移
- 天皇陛下が大ファンだった逸話
- 1977年の引退と目の負傷
鎮西高から中央大への歩み
妻や家族の情報が少ない分、本人の歩みを追うことが人物像を知る一番の近道になります。
末次利光さんのキャリアは、熊本県の高校野球から始まっていました。
ここでは入団前の経歴から定位置をつかむまでを整理するので、どんな下積みを経た選手なのかが見えてきますよ。
熊本の鎮西高で甲子園へ
末次利光さんの野球人生は、熊本県の鎮西高校から始まりました。
NPB.jpの経歴欄にも「熊本・鎮西高 – 中央大」と記載されています。
鎮西高校は熊本市にある私立校で、野球部は県内の強豪として知られてきました。
週刊ベースボールONLINEの選手データでは、経歴が「鎮西高(甲) – 中大 – 巨人65年〜77年」と表記されています。
この「(甲)」という記号は、甲子園出場を経験したことを示すものです。
つまり高校時代から全国の舞台を踏んでいた選手だったわけですね。
1942年3月2日生まれなので、高校時代は1950年代の後半ということになります。
当時の熊本は九州の高校野球が盛り上がっていた地域で、レベルの高い環境でプレーしていました。
のちに王貞治さんと長嶋茂雄さんの後を打つ打者が、この時期に基礎を固めたことになります。
孫の末次佑行さんが長野の強豪校でプレーしたことを考えると、二世代とも高校野球で揉まれた形ですね。
出身地の熊本から東京の大学へ進んだ点も、当時としては大きな決断だったはずです。
鎮西高校からは後年もプロ野球選手が育っていて、九州の高校野球を語るときに欠かせない学校になっています。
末次利光さんはその流れの先頭に立った一人で、熊本出身のV9戦士として名前を残しました。
中央大学で力をつけた時代
鎮西高校を卒業した末次利光さんが進学したのは、中央大学でした。
中央大学の野球部は、東都大学野球連盟の中でも伝統校として知られています。
プロ野球に多くの選手を送り出してきた環境で、大学時代を過ごしたことになります。
大学時代の詳しい成績については公開資料に残っていないため、ここでは断定を避けておきますね。
ただ、卒業後にそのまま巨人へ入団している事実が実力の証明になっています。
当時の巨人は川上哲治監督が指揮を執り、王貞治さんと長嶋茂雄さんが中軸を務めるチームでした。
その中に食い込んでいく難しさは、現在のドラフト制度で入団する選手以上だったかもしれません。
大学で結果を残していなければ、声がかかることはなかったはずです。
熊本の鎮西高から中央大を経て巨人へという道のりは、当時の王道ルートの一つでした。
地方の高校生が東京の大学で力をつけ、プロへ進むという流れですね。
この経歴が、のちに二軍監督として若手を見る視点にもつながったのだと思います。
東都大学野球連盟は入れ替え戦の厳しさで知られるリーグで、1部と2部の入れ替えが毎年行われます。
その環境で大学4年間を戦い抜いたことが、プロでの下積みにも耐えられる土台になったのかなと思います。
1965年に巨人へ入団
1965年、末次利光さんは読売ジャイアンツのユニフォームを着ます。
この年は、巨人がV9の第1年目を迎えたシーズンでもありました。
つまり、9連覇のすべてを同じチームで戦った選手ということになります。
入団1年目の成績は11試合の出場で、16打数2安打、打率.125でした。
ルーキーイヤーから主力というわけではなく、まずは一軍の空気を知る一年だったわけです。
2年目の1966年には76試合に出場し、39安打3本塁打18打点、打率.235を記録します。
週刊ベースボールONLINEの選手紹介にも「2年目頃から徐々に試合出場を増やし」と書かれていました。
3年目の1967年は77試合で31安打5本塁打、打率.244という内容です。
4年目の1968年になると111試合に出場し、61安打5本塁打21打点まで数字を伸ばしました。
この段階で、外野の一角を争う存在になっていたことがわかりますね。
派手な新人ではなく、少しずつ信頼を積み上げていくタイプの選手でした。
当時の巨人の外野陣は競争が激しく、定位置をつかむまでに5年近くを要しています。
それでも一軍に残り続けられたのは、守備や代打でも使える器用さがあったからでしょう。
入団から定位置までの歩み
下記の表は、入団から定位置をつかむまでの歩みをまとめたものです。
| 年度 | 試合 | 安打 | 打率 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 1965年 | 11 | 2 | .125 | 入団1年目 |
| 1966年 | 76 | 39 | .235 | 出場機会が増える |
| 1967年 | 77 | 31 | .244 | 本塁打5本を記録 |
| 1968年 | 111 | 61 | .247 | 100試合超に出場 |
| 1969年 | 118 | 78 | .257 | 40打点を記録 |
| 1970年 | 124 | 93 | .249 | 初の規定打席到達 |
表を見てわかるのは、出場試合数が毎年着実に増えている点です。
1965年の11試合から、5年後の1970年には124試合まで到達しています。
1970年に初めて規定打席に達したことは、週刊ベースボールONLINEの選手紹介にも記されていました。
この年は12本塁打43打点で、長距離砲としての資質も見せ始めます。
そして翌1971年に、日本シリーズMVPという大きな勲章を手にすることになります。
下積みの期間がしっかりあったからこそ、重要な場面で力を出せたのかなと思います。
この6年間の積み上げが、V9の中盤から後半を支える土台になりました。
1969年には40打点を記録しており、この時点で勝負強さの片鱗を見せていました。
翌年に規定打席へ到達した流れを見ると、着実な成長曲線を描いていたことがわかりますね。
V9を支えた5番打者の実力
結論から言うと、末次利光さんの野球人生を象徴しているのは5番という打順です。
王貞治さんと長嶋茂雄さんという二人の後を打ち続けた打者は、そう多くありません。
ここでは、その重圧と成果を具体的な数字と証言から整理していきますね。
王と長嶋の後を打つ重圧
巨人のV9時代、打線の中心にいたのは4番の王貞治さんと3番の長嶋茂雄さんでした。
この二人を指すONという言葉は、今でもプロ野球の象徴として語られています。
末次利光さんが任されたのは、その後ろを打つ5番という打順です。
日刊スポーツも「ONの後の5番打者としてクリーンアップを形成した」と紹介していました。
5番打者の役割は、前を打つ強打者が歩かされた後に走者を還すことです。
相手投手は王貞治さんとの勝負を避けて、5番との対戦を選ぶ場面が多くなります。
つまり、敬遠された走者を背負って打席に入る回数が極端に多かったわけですね。
本人も「長嶋さんの後の打席という計り知れないプレッシャー」と表現しています。
この重圧の中で、通算456打点という数字を積み上げました。
チャンスで回ってくる打順だからこそ、打点の数が評価の軸になる立場でもあります。
華やかさでは二人に及ばなくても、勝敗に直結する役割を担っていたんです。
王貞治さんは通算868本塁打、長嶋茂雄さんは通算444本塁打を放った打者でした。
その二人の直後に打席が回ってくるのですから、相手投手の集中力も自然と上がります。
5番という打順は、守る側から見れば攻略の糸口を探したい場所でもあったわけですね。
1971年の日本シリーズMVP
末次利光さんのキャリアで最大の勲章が、1971年の日本シリーズMVPです。
相手は阪急ブレーブスで、巨人はこのシリーズも制しています。
シリーズ中の活躍については、サンデー毎日の連載に詳しい描写が残っていました。
10月16日の第4戦、0対0で迎えた3回裏2死一・三塁の場面です。
阪急はアンダースローの足立光宏さんを立て、4番の王貞治さんを敬遠して満塁にします。
続く5番の末次利光さんは、初球のカーブをレフトスタンドへ運ぶ満塁本塁打を放ちました。
さらに7回裏、再び王貞治さんが敬遠された後の打席でライト前適時打を記録します。
一試合で二度、敬遠の後に結果を出したことになりますね。
この働きが評価され、シリーズの最優秀選手に選ばれました。
レギュラーシーズンは92試合の出場で打率.311、4本塁打29打点という数字でした。
試合数が少ない中で短期決戦に合わせてきた点に、勝負強さが表れています。
浩宮だった天皇陛下は、この第4戦を友人と一緒に後楽園球場で観戦していました。
満塁本塁打の瞬間は飛び上がって喜び、手が腫れるほど拍手をしたと伝えられています。
日本シリーズのMVPが、のちに皇室との縁として語られることになったわけですね。
スエ行けよぉという声掛け
重圧の中で戦い続けられた理由について、本人は長嶋茂雄さんの存在を挙げています。
日刊スポーツの追悼コメントで語られたのが「『スエ、行けよぉ』と鼓舞してくれた」という一言です。
打席に向かう後輩に声をかけるというのは、監督やコーチではなく打順の前を打つ選手の行動になります。
自分が歩かされた後に回ってくる打者を、長嶋茂雄さんは励ましていたわけですね。
末次利光さんは「V9時代は結束力がすごかった」とも振り返っています。
9年連続で日本一になるチームには、こうした空気があったということでしょう。
スエという愛称で呼ばれていた点も、チーム内の距離の近さを物語っています。
浩宮だった天皇陛下が後楽園球場で「スエツグーー」と声を張り上げたという逸話も残っていました。
球場のファンからも、呼びやすい名前として親しまれていたのだと思います。
長嶋茂雄さんが亡くなったときに力が抜けてしまったと語った背景には、この関係性がありました。
50年以上たっても声掛けの記憶が残っているのは、それだけ支えになっていた証拠ですよね。
長嶋茂雄さんは脳梗塞から復帰した後も東京ドームに足を運び、選手に助言を続けていました。
そうした姿を末次利光さんがテレビで追っていたという話も、追悼の取材で明かされています。
地味な仕事人という評価
末次利光さんを語るとき、たびたび使われるのが地味という表現です。
サンデー毎日の連載では「スターぞろいの巨人軍にあっては地味な存在だ」と書かれていました。
同時に「長嶋、王のあとにきっちり役割を果たす仕事人ぶり」とも評価されています。
この二つの評価は、矛盾しているわけではありません。
派手さはないけれど、やるべき仕事を確実にこなす打者だったという意味ですね。
通算1214試合に出場して895安打107本塁打456打点という成績が、それを裏付けています。
13シーズンのうち100試合以上に出場したシーズンが8回もありました。
長期間にわたって一軍の戦力であり続けたことがわかります。
こうした選手は、優勝を続けるチームに必ず一人はいる存在です。
そして地味と言われながらも天皇陛下に愛されたという点が、この選手の面白さだと思います。
守備ではライトを守ることが多く、外野の一角として長く計算されていました。
打つだけの選手ではなく、守備位置を任せられる点も起用され続けた理由の一つです。
仕事人という評価は、打席の内容と守備の両面から出てきた言葉だと考えられます。
次の見出しでは、通算成績をさらに細かく見ていきますね。
通算成績と年度別の推移
公開されている数字を見ていくと、末次利光さんがどんな打者だったのかが立体的に見えてきます。
日本野球機構のNPB.jpには、1965年から1977年までの全成績が残っています。
ここでは通算成績と年度別の推移を整理するので、読み終えたときには打者としての特徴まで掴めるはずですよ。
通算1214試合895安打の記録
まず、13年間の通算成績を確認しておきます。
下記の表は、NPB.jpに掲載されている通算成績をまとめたものです。
| 項目 | 通算成績 |
|---|---|
| 試合 | 1214試合 |
| 打席/打数 | 3639打席/3324打数 |
| 安打 | 895安打 |
| 本塁打 | 107本塁打 |
| 打点 | 456打点 |
| 得点 | 378得点 |
| 二塁打/三塁打 | 136本/17本 |
| 四球/三振 | 228/373 |
| 打率/長打率 | .269/.417 |
1214試合という出場数は、13シーズンで平均すると年間93試合になります。
通算895安打は、あと105本で1000安打に届く位置でした。
1977年に目のけがで引退していなければ、記録が伸びていた可能性は高いですよね。
通算107本塁打という数字は、5番打者としての長打力を示しています。
打率.269に対して長打率.417という開きも、一発を期待された打者だった証拠です。
二塁打136本と三塁打17本を本塁打に加えると、長打は合計260本になります。
456打点という数字も、チャンスで回ってくる打順を任され続けた結果ですね。
四球228に対して三振373という比率も、極端に大振りではなかったことを示しています。
378得点を挙げている点からは、走者としても堅実に塁を進めていた姿が浮かびますよね。
最高成績を残した1974年
年度別で見ると、もっとも成績が良かったのは1974年です。
129試合に出場して139安打・打率.316・77打点を記録しました。
安打数も打点も打率も、この年がキャリアハイになっています。
二塁打25本、三塁打4本、本塁打13本で、長打率は.480まで上がりました。
489打席という数字は13年間で最多で、シーズンを通して主軸を張っていたことになります。
1974年は長嶋茂雄さんが現役最後のシーズンを戦った年でもありました。
10月14日の引退試合で「我が巨人軍は永久に不滅です」という言葉が残された年ですね。
その最後のシーズンに、後ろを打つ末次利光さんが自己最高の成績を残したことになります。
巨人はこの年、10連覇を逃して2位に終わっています。
チームとしては悔しい年でも、個人としては打率3割を超えた充実のシーズンでした。
30代に入ってから自己最高を記録するというのは、息の長い選手の証ですよね。
440打数で139安打という内容は、3打数に1本近いペースで安打を重ねた計算になります。
77打点はチームの得点力に直結する数字で、クリーンアップの一角として機能していました。
長嶋茂雄さんが去った後の打線を支える立場にもなっていたわけです。
21本塁打を放った1972年
本塁打に注目すると、最多は1972年の21本です。
115試合で113安打63打点、打率.283という成績でした。
長打率は.483で、これも13年間で最も高い数字になっています。
400打数で21本塁打ですから、19打数に1本のペースで本塁打を打っていた計算です。
1972年は巨人が8年連続で優勝を果たしたシーズンでもあります。
この年の末次利光さんは、5番打者として打線に長打力を供給する役割を果たしました。
二塁打17本を加えると、長打は38本に達します。
52得点63打点という数字も、クリーンアップらしい内容ですね。
翌1973年はV9の最終年で、126試合に出場して111安打13本塁打59打点を記録しています。
この1973年を最後に、登録名を民夫から利光へ変えたことになります。
9連覇を果たした年に名前を変えるという流れは、どこか節目を感じさせますよね。
1972年の21本塁打は、王貞治さんや長嶋茂雄さんに次ぐ数字として打線に厚みを加えました。
426打席で63打点ですから、走者がいる場面での集中力が高かったことも読み取れます。
この年から1975年まで4年連続で2桁本塁打を記録し、長打力が安定した時期に入ります。
年度別成績から見える特徴
下記の表は、主なシーズンの成績を並べたものです。
| 年度 | 試合 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 打率 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1971年 | 92 | 61 | 4 | 29 | .311 |
| 1972年 | 115 | 113 | 21 | 63 | .283 |
| 1973年 | 126 | 111 | 13 | 59 | .262 |
| 1974年 | 129 | 139 | 13 | 77 | .316 |
| 1975年 | 113 | 80 | 13 | 46 | .252 |
| 1976年 | 119 | 85 | 9 | 47 | .281 |
表から読み取れるのは、打率の上下が比較的大きいという点です。
.311から.252まで振れ幅がありますが、打点は毎年40点以上を記録しています。
つまり、打率が落ちた年でも仕事はしていたという見方ができますね。
100試合以上に出場したシーズンは、13年間で8回ありました。
2桁本塁打を記録したのは1970年と、1972年から1975年までの5シーズンです。
三振は通算373個で、3639打席に対して1割程度に収まっています。
大振りをせず、確実に前へ飛ばす打撃だったことがうかがえます。
1971年は92試合の出場で打率.311を記録しており、出場数が少なくても内容は濃い一年でした。
1976年は打率.281で47打点と復調しており、引退の前年まで主力として戦っていたことがわかります。
こうした数字の積み上げが、V9の打線を下支えしていたんです。
天皇陛下が大ファンだった逸話
ここからは、末次利光さんを語るうえで欠かせない逸話を紹介します。
現在の天皇陛下が、少年時代に末次利光さんの大ファンだったという事実です。
成城大学の森暢平教授がサンデー毎日の連載で詳しく書いているので、その内容をもとに整理していきますね。
背番号38をつけた誕生日の写真
結論から言うと、浩宮時代の天皇陛下は末次利光さんの背番号を着けていました。
サンデー毎日の連載「社会学的皇室ウォッチング!」の第68回で紹介されたエピソードです。
浩宮は東宮御所で野球を楽しむとき、巨人軍のユニフォームを着ていたといいます。
それまで付けていた背番号は、長嶋茂雄さんの「3」でした。
ところが、1971年2月23日の11歳の誕生日に公表された写真では背番号が「38」に変わっていたんです。
この38番は末次利光さんの背番号でした。
長嶋茂雄さんの3番から末次利光さんの38番へ変えるというのは、相当な思い入れがなければできません。
当時の巨人には王貞治さんの1番もあり、人気の背番号は他にもたくさんありました。
その中であえて5番打者の番号を選んだという事実が、ファンの度合いを物語っています。
森暢平教授も「少年時代、巨人の末次選手の大ファンだった天皇陛下」と記していました。
記事に添えられた写真は1971年2月に東宮御所で撮影されたもので、宮内庁が撮影を担当しています。
背番号の変更がそのまま写真で残っているため、後から確認できる形の逸話になっているわけですね。
野球好きの皇室という話題は昔から語られてきましたが、ここまで具体的に選手名が残る例は珍しいと思います。
きっかけは1970年の三塁打
では、ファンになった直接のきっかけは何だったのでしょうか。
サンデー毎日の連載によると、1970年10月31日の日本シリーズだとされています。
東京球場で行われた巨人対ロッテの第3戦を、浩宮が観戦していました。
その試合の7回表、末次利光さんが放った左中間への三塁打がきっかけだったというのです。
本塁打でもサヨナラ打でもなく、三塁打が心を動かしたという点が面白いですよね。
三塁打は、打球を飛ばす力と走る速さの両方が必要になる記録です。
末次利光さんの通算三塁打は17本という数字ですが、短期決戦でもこの形の一打を放っていたわけです。
1970年の末次利光さんは、初めて規定打席に到達したシーズンを戦っていました。
124試合で93安打12本塁打43打点という成績で、レギュラーとして定着した年です。
その年の日本シリーズで印象的な一打を放ち、少年の記憶に刻まれたことになります。
この1970年の日本シリーズは、巨人がロッテを下して6年連続の日本一を達成した舞台でもありました。
華やかな結末の中で、5番打者の三塁打に目を留めたという視点が独特ですね。
東京球場はロッテが本拠地として使っていた球場で、現在はすでに姿を消しています。
そこで生まれたファン心が、翌年の背番号変更という形で表に出てきたことになります。
1971年の満塁本塁打に歓喜
ファンになった翌年、浩宮は再び日本シリーズの舞台で末次利光さんを目撃します。
1971年10月16日、6年生だった浩宮は友人と一緒に後楽園球場へ足を運びました。
巨人対阪急の第4戦で、0対0のまま試合は3回裏を迎えます。
2死一・三塁で4番の王貞治さんという場面で、阪急は足立光宏さんを使って敬遠を選択しました。
満塁になって打席に入ったのが、5番の末次利光さんです。
そして初球のカーブを、レフトスタンドへ運ぶ満塁本塁打にしました。
浩宮は飛び上がって喜んだと、サンデー毎日の連載に書かれています。
ファウルボールを自分で捕ろうと、左手にはグラブをはめていたそうです。
ところが満塁本塁打を見た瞬間、そのグラブを外して手が腫れるほど拍手をしたといいます。
応援していた選手が最高の形で結果を出したのですから、興奮も当然ですよね。
この一打が、末次利光さんの日本シリーズMVPにつながっていきます。
球場で見た一発が一生の記憶になるという意味では、野球の面白さが詰まった場面でもあります。
足立光宏さんは阪急の主戦投手として知られたアンダースローの投手でした。
その投手から初球を仕留めたという点も、末次利光さんの決断の早さを示しています。
スエツグーと叫んだ声援
この試合には、もう一つ印象的な場面があります。
阪急が反撃して1点差に追い上げた7回裏、2死三塁の場面でした。
阪急は再び4番の王貞治さんを敬遠し、2死一・三塁として末次利光さんとの勝負を選びます。
すると末次利光さんはライト前へ適時打を放ち、阪急を突き放しました。
この打席で浩宮は、友達と「1、2、3」の合図を合わせたそうです。
そして「スエツグーー」と声を張り上げたと記録されています。
皇室の少年が球場で選手の名前を叫ぶという光景は、なかなか想像できないものですよね。
試合後の感想は、なんで阪急は二つの場面で王を敬遠してしまったのかというものだったといいます。
応援していた選手の力を信じていたからこそ出てくる言葉です。
森暢平教授は「長嶋、王のあとにきっちり役割を果たす仕事人ぶりが、浩宮好みだったのだろうか」と書いていました。
この逸話は、末次利光さんという選手の個性を伝える一番の材料になっていますね。
妻や家族の情報が少なくても、これだけ語り継がれる逸話を持つ選手なんです。
この連載は2023年3月28日発売のサンデー毎日に掲載され、ウェブ版でも読めるようになっています。
皇室とスポーツの関係を研究してきた立場から書かれているため、記述の裏付けもしっかりしていますよ。
1977年の引退と目の負傷
13年間のプロ生活は、思いがけない形で終わりを迎えました。
原因は成績の低下ではなく、練習中の事故でした。
ここでは引退の経緯と、現役最後の時期に残した名場面を整理しておきますね。
練習中に目へ打球を受けた
結論から言うと、末次利光さんの引退理由は目のけがです。
週刊ベースボールONLINEの選手紹介には「77年に練習中に目に打球を受け」と明記されています。
続けて「その後遺症により同年で現役を引退」と書かれていました。
つまり、練習中の事故が直接の引退理由だったことになります。
1977年の出場記録は3試合のみで、11打数2安打という数字でした。
前年の1976年は119試合に出場して85安打9本塁打47打点を記録しています。
打率.281という内容でしたから、成績面では十分に戦力だったわけです。
それが翌年わずか3試合で終わってしまったという落差は、かなり衝撃的ですよね。
打者にとって目は、投球を見極めるためのもっとも大切な器官です。
その機能に後遺症が残れば、プロのレベルで打席に立つのは難しくなります。
30代半ばでの引退は、当時としても早すぎる区切りでした。
本人が引退について語った記録は多くありませんが、無念さは相当だったはずです。
当時はまだ防具や医療の環境も整っておらず、目のけがは選手生命に直結する事故でした。
V9を全て経験した外野手が、9連覇の終了から4年後にユニフォームを脱いだことになります。
野球人生の終わり方としては、本人にとって受け入れがたいものだったでしょう。
後遺症による引退の決断
1977年のシーズンは、末次利光さんにとって最後の一年になりました。
下記の表は、現役最後の3年間の成績をまとめたものです。
| 年度 | 試合 | 安打 | 打点 | 打率 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1975年 | 113 | 80 | 46 | .252 | 13本塁打を記録 |
| 1976年 | 119 | 85 | 47 | .281 | サヨナラ満塁本塁打 |
| 1977年 | 3 | 2 | 0 | .182 | 目の負傷で引退 |
表を見ると、1976年までは主力として働いていたことが一目でわかります。
1977年の3試合という数字が、いかに異常な落ち込みかも伝わりますよね。
通算895安打という記録は、1000安打の大台まであと105本の位置でした。
けががなければ、翌年以降に到達していた可能性は十分にあります。
ただ、本人はその後も野球界に残り、二軍監督として若手の育成に携わりました。
選手として届かなかった記録の分を、指導者として返していったとも言えますね。
けがで終わったキャリアを引きずらなかった点に、この人の強さを感じます。
孫に打撃を教える立場になっても、野球から離れなかった姿勢は変わっていません。
1977年の3試合も、復帰を目指した末での出場だった可能性が高いと考えられます。
13年間を一つの球団で過ごした選手として、最後まで巨人のユニフォームを着て終えました。
ヘルメット守備のエピソード
現役時代の逸話として、もう一つ知られているのが守備中の話です。
週刊ベースボールONLINEの選手紹介に、少し驚くようなエピソードが残っています。
ライトを守っていた際、相手チームのファンが何かを投げ込んできたことがあったそうです。
そこで末次利光さんは、頭を守るためにヘルメットをつけて守備につきました。
ところが、それまでは遠いところに落ちていた石や瓶が、体のすぐそばにビュンビュン飛んでくるようになったといいます。
結果として、ヘルメットをつけるのはすぐにやめたそうです。
守る方が防具をつけると、投げる側がむしろ本気になってしまったという話ですね。
今では考えられない光景ですが、当時の球場の空気を伝える貴重な証言になっています。
こうした環境の中でライトを守り続けたというのも、相当な胆力です。
目に打球を受けて引退した選手が、現役時代は物を投げ込まれる中でプレーしていたわけです。
昭和のプロ野球の荒っぽさが、そのまま詰まった逸話だと思います。
外野手は観客席にもっとも近い位置で守るため、こうした被害を受けやすい立場でもあります。
それでも守備位置を外されなかったのは、ライトを任せられる技術があったからですね。
引退直前に放ったサヨナラ弾
引退の前年、末次利光さんは生涯でもっとも劇的な一打を放ちます。
1976年6月8日の阪神戦で記録した、逆転サヨナラ満塁本塁打です。
2点を追う9回裏、2死満塁という場面での一発でした。
当時監督だった長嶋茂雄さんは、ホームベースより5〜6メートルも前に出て両手を上げて出迎えます。
「あの光景は今でも忘れられない」と、本人は2025年の取材で語っていました。
1976年の末次利光さんは9本塁打を記録していますが、その中でも別格の一本です。
1971年の日本シリーズの満塁本塁打と並んで、キャリアを象徴する打席になりました。
どちらも満塁の場面で結果を出している点が共通しています。
走者を還す役割を背負い続けた5番打者らしい記録の残り方ですよね。
この一打の翌年に目のけがで引退することを、本人も想像していなかったはずです。
だからこそ、半世紀近くたっても鮮明に語られる場面になっているのだと思います。
妻や家族の情報は表に出てこない選手ですが、残した打席の記憶は今も球界に残っています。
1976年の巨人は長嶋茂雄さんが監督として指揮を執り、リーグ優勝を果たしたシーズンでした。
その優勝争いの中で生まれたサヨナラ満塁本塁打ですから、価値はさらに大きかったはずです。
末次利光の妻と現在に関する総まとめ
- 末次利光の妻は名前も年齢も一切公表されていない状況
- 結婚の時期や子供の人数を伝える報道は現在も見つからない
- 情報が乏しいのは1977年引退という時代背景が理由
- 1973年までの登録名は末次民夫だった点に注意が必要
- 孫の末次佑行は長野の佐久長聖高校で1番打者を務めた
- 孫は祖父の助言で両打ちに挑戦し強豪校で1番を打った
- 良いバッターはどっしり構えるが祖父から授かった教え
- 孫は2024年夏の準々決勝でも2安打を放ち敗退した
- 現在も巨人のOBとして自分の言葉で取材に応じている
- 2024年11月のファンフェスタで長嶋茂雄と会話した
- 2025年6月に長嶋茂雄への追悼コメントを公に残した
- 引退後は巨人の二軍監督として若手選手の育成に携わる
- 1971年の日本シリーズMVPで満塁本塁打を放った
- 1977年の目の負傷で通算895安打のまま現役引退
- 現在の天皇陛下が背番号38をつけるほどの大ファンだった
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