高橋善正の現在は窪川高校の進路アドバイザー|完全試合投手の今

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高橋善正さんの現在について、プロ野球のユニホームを脱いだあとどんな日々を送っているのか気になっている方は多いのではないでしょうか。

東映フライヤーズと読売ジャイアンツで投げた右のサイドスローで、1971年8月21日に史上12人目の完全試合を達成した投手ですよ。

その高橋善正さんは2026年10月18日現在も野球の現場に立ち続け、故郷の高知県四万十町にある窪川高校野球部の進路アドバイザーに就任しました。

日刊ゲンダイでの野球評論や日本プロ野球OBクラブへの登録も続いています。

この記事では現在の活動から完全試合の裏側、引退後の指導者歴まで整理していきますね。

記事のポイント

①:窪川高校野球部の進路アドバイザーに就任

②:日刊ゲンダイで野球評論家として活動中

③:1971年に史上12人目の完全試合を達成

④:引退後は中央大監督で澤村拓一らを指導

高橋善正の現在|進路アドバイザーと評論家活動

  • 窪川高校野球部の進路アドバイザー就任
  • 現在の年齢と投手としての基本データ
  • 野球評論家として続ける発信活動
  • 張本勲の訃報に寄せた追悼コメント
  • 糖尿病対策で赤ワインに変えた習慣
  • 混同されやすい高橋姓の野球人たち

窪川高校野球部の進路アドバイザー就任

まず、あなたが一番知りたい結論から整理していきますね。

高橋善正さんは2026年10月18日現在、生まれ故郷である高知県四万十町の窪川高校で野球部の進路アドバイザーを務めています。

ここでは就任の日付と経緯、受け入れた窪川高校野球部がどんな状況にあるのかを、信頼性の高い情報をもとにあなたが納得できる形で整理します。

就任が発表された2026年10月の動き

高知新聞の報道によると、高橋善正さんは2026年10月6日に窪川高校野球部の進路アドバイザーへ就任しました。

記事では四万十町出身の元プロ野球選手として紹介され、住まいも同じ四万十町作屋とされています。

つまり、遠方から通う外部指導者ではなく、地元に根を下ろした先輩が母校のある町の高校を支える形ですね。

進路アドバイザーという肩書きは、技術指導を担うコーチとは役割が異なります。

プロ野球と大学野球の両方で指導経験を積んだ人物が、高校生の進路相談に乗る立場だと考えると分かりやすいかなと思います。

下記の表は、報じられた就任の概要をまとめたものです。

項目 内容
就任日 2026年10月6日
就任先 高知県立窪川高等学校 野球部
役職 進路アドバイザー
本人の居住地 高知県高岡郡四万十町作屋
報じた媒体 高知新聞
野球部の状況 2026年春に復活したばかり

プロ野球の第一線を離れてからも、こうして現場との接点を持ち続けているわけですね。

高知新聞は地元の話題を丁寧に扱う媒体なので、就任が記事として扱われたこと自体が地域での注目度を示しています。

元プロ野球選手が地元の高校に関わる例はありますが、肩書きまで明記された形での就任発表はそれほど多くありません。

今春復活した窪川高校野球部という舞台

就任の背景を理解するうえで外せないのが、窪川高校野球部そのものの事情です。

高知新聞は窪川高校野球部を「今春復活した」と表現しており、長く活動が途絶えていたチームが動き出した直後だと分かります。

復活したばかりの部は、部員集めから練習環境の整備、そして卒業後の進路づくりまで、課題が山積みになりがちですよね。

そこに通算384試合登板の元プロ野球選手が加わる意味は、想像以上に大きいと思います。

高橋善正さんは中央大学の監督として大学野球の現場も知っていますし、プロ4球団で投手コーチを務めた経験もあります。

高校から大学、そしてプロへと進む道筋を具体的に語れる人材は、地方の公立高校にとって決して多くありません。

人口規模の大きくない四万十町で、復活した野球部がどう育っていくのか、ここは追いかける価値のあるテーマだと思いますよ。

公立高校の部活動は部員数の確保が最大の壁になりやすく、復活した直後はとくに外部からの支援が必要になります。

そこへプロと大学の両方を知る指導経験者が入ることで、生徒が将来像を描きやすくなるはずですよね。

進路の選択肢が見える環境かどうかは、入部を迷う中学生にとっても大きな判断材料になります。

盛り上げたいという言葉の背景

就任を伝える記事の見出しには、野球部を「盛り上げたい」という言葉が掲げられていました。

短い一言ですが、ここに高橋善正さんの立ち位置がよく表れているかなと思います。

勝利や甲子園という結果ではなく、まず部の空気をつくるところから始めるという姿勢ですよね。

復活直後のチームにとって必要なのは、強化よりも前にある「続けられる環境」なのかもしれません。

高橋善正さん自身、高知商業高校時代に甲子園の土を踏み、中央大学を経てプロ入りした高知県出身者です。

地元の高校生に対して、自分が通った道をそのまま語れる数少ない指導者だといえます。

ここ、気になるポイントだと思うので、新しい情報があれば今後もアップデートしていきますね。

プロで新人王と完全試合を経験した人物が、まず盛り上げたいと語るのは意外に感じるかもしれません。

ただ、復活直後のチームにとっては部の雰囲気づくりが何よりの土台になります。

人数が少ない環境でも前向きに続けられるかどうかで、数年後の姿は大きく変わりますよね。

高知県から球界へ進んだ先輩の言葉だからこそ、生徒にも届きやすいのだろうと思います。

地元に元プロ野球選手が住んでいるという事実そのものが、部員にとっては励みになるはずですよね。

現在の年齢と投手としての基本データ

次に、高橋善正さんの基本的なプロフィールを押さえておきましょう。

生年月日や出身地、通算成績といった数字を整理しておくと、現在の活動の重みがぐっと分かりやすくなりますよ。

ここでは公式のOB登録や選手データベースで確認できる情報を中心に、表でまとめていきます。

生年月日と現在の年齢を確認

高橋善正さんは1944年5月5日に高知県高岡郡で生まれました。

生まれた場所は当時の高岡郡窪川町で、現在の四万十町にあたります。

名前の読みは「たかはし よしまさ」で、2026年10月18日現在の年齢は82歳です。

太平洋戦争が終わる前年に生まれた世代ということになりますね。

日刊ゲンダイのインタビューでは、幼少期に山へ登り川で泳いで過ごしたことが語られていました。

大自然の中で遊ぶうちに強靱な肉体がつくられたという振り返りです。

下記の表は、日本プロ野球OBクラブの登録情報や選手データベースをもとにしたプロフィールです。

項目 内容
名前 高橋善正(たかはし よしまさ)
生年月日 1944年5月5日
2026年10月18日現在の年齢 82歳
出身地 高知県高岡郡(現・四万十町)
身長体重 175cm・75kg
投打 右投右打(サイドスロー)
ポジション 投手
出身校 高知商業高校-中央大学
プロ入り 1966年 第2次ドラフト1位・東映
所属歴 東映(1967〜1972年)/巨人(1973〜1977年)
主な記録 新人王・完全試合

同じ1944年生まれの世代には、戦後のプロ野球を支えた選手が何人も名を連ねています。

その中で現在も野球の現場に関わり続けている人は、数えるほどしかいません。

生年月日が5月5日という覚えやすい日付なのも、ファンの記憶に残りやすい要素かなと思います。

投手としての通算成績の全体像

続いて、現役11年間で残した数字を見ていきます。

週刊ベースボールONLINEの選手紹介では「1年目から先発に定着して新人王」と記されています。

通算では384試合に登板し、60勝81敗7セーブ、防御率3.34という成績を残しました。

投球回は1324回3分の2で、奪三振は625個、完投32回、完封8回を記録しています。

与四球が255個にとどまっている点は、制御力を評価されていた投手らしい数字ですね。

1324回を投げて255四球ですから、9回あたりの与四球は2個を下回る計算になります。

下記の表は通算成績を整理したものです。

項目 通算成績
登板 384試合
勝敗 60勝81敗
セーブ 7セーブ
防御率 3.34
投球回 1324回3分の2
奪三振 625
与四球 255
完投・完封 32完投・8完封

負け数が勝ち数を上回っていますが、これは弱体期の東映で先発を背負った事情も関係しています。

完投32回という数字も、分業制が定着した現在とは前提がまるで違う時代の記録です。

先発として長いイニングを任され、キャリア後半は中継ぎとして登板数を伸ばした両面を持つ投手でした。

通算成績だけを見ると地味ですが、役割の変化を踏まえると評価は変わってきますよね。

背番号18と11という2つの数字

関連キーワードで「背番号」が上位に来る理由も見ておきましょう。

高橋善正さんの背番号は東映時代が18、巨人時代が11でした。

18は球団のエース番号として扱われることが多い数字で、入団1年目から背負っています。

1967年から1972年までの6シーズンを、この18番で投げ切りました。

1973年に巨人へ移った際には11番へ変わり、引退する1977年までこの番号を着けています。

さらに1975年からは登録名が高橋良昌へと変更されました。

読みは同じ「よしまさ」のままで、漢字表記だけを変えた形ですね。

そのため古い記録を調べると、同じ選手が高橋善正と高橋良昌の2通りで表記されています。

ここは検索でつまずきやすい部分なので、頭に入れておくと調べ物がぐっと楽になりますよ。

東映時代の18番は、1年目から6年間ずっと変わらなかった番号です。

巨人移籍後の11番は、中継ぎとして役割を変えてからの5年間を共にしました。

球団の経営譲渡に伴って巨人へ移ったという見方も紹介されており、時代の変わり目での移籍だったことが分かります。

番号と登録名の両方が変わっているため、記録を追う側にとっては少し手間のかかる選手だといえますね。

野球評論家として続ける発信活動

では、現在の高橋善正さんはどんな形で野球と関わっているのでしょうか。

結論から言うと、進路アドバイザーの仕事と並行して、野球評論家としての発信も続けています。

ここでは評論家としての立ち位置とOBクラブへの登録状況を整理し、現在の肩書きを一覧にしてみます。

日刊ゲンダイで続ける評論活動

高橋善正さんは日刊ゲンダイで野球評論家を務めています。

現役を引退したのは1977年ですから、評論活動のキャリアはすでに40年を超える長さです。

コーチ業の合間を縫う形で解説者・評論家としての仕事を始め、指導の現場を離れてからも発信を続けてきました。

現役時代の実体験に裏打ちされた視点が、評論の説得力につながっています。

完全試合を達成した投手であり、2年続けて大きく負け越した時期も経験した投手でもあります。

好不調の両方を知っている人の言葉だから響く、という部分はありますよね。

スポーツ紙やウェブメディアに登場する際も、プロ野球OBとしてのコメントが求められる立場です。

2026年9月に張本勲さんが亡くなった際も、後輩としてのコメントが紙面に掲載されました。

評論の仕事は体力的な負担が比較的少なく、長く続けられる形でもあります。

その一方で、現役選手やOBの動向を追い続ける情報収集が欠かせません。

80代になっても評論を続けているという事実が、野球への関心の深さを物語っていますよね。

進路アドバイザーという新しい役割も、こうした情報の蓄積があってこそ引き受けられる仕事だと思います。

紙面に名前が載り続けるかぎり、現役時代を知らない世代にも存在が伝わっていきます。

日本プロ野球OBクラブへの登録

もう一つの窓口が、日本プロ野球OBクラブへの登録です。

OBクラブの選手検索ページには、高橋善正さんのプロフィールが投手として掲載されています。

生年月日は1944年5月5日、在籍チームは1967年から1972年の東映、1973年から1977年の巨人という記載です。

このページには仕事の依頼フォームが用意されており、講演や野球教室などの相談を受け付ける形になっています。

OBクラブは900人以上のOBが所属する組織で、野球教室やファンイベントを各地で開いています。

つまり高橋善正さんは、公式に「仕事を受けられるOB」として名前が出ている状態なんですよ。

完全に引退して表舞台から消えた人物とは、まったく立場が違いますよね。

下記の表は、現在確認できる肩書きを整理したものです。

立場 内容 確認できる情報源
進路アドバイザー 窪川高校野球部(2026年10月就任) 高知新聞
野球評論家 日刊ゲンダイで評論を担当 日刊ゲンダイ
OB登録 日本プロ野球OBクラブに投手として登録 OBクラブ公式
居住地 高知県四万十町作屋 高知新聞

公式ページの記載は在籍チームと生年月日が並ぶだけの簡潔なものですが、現役OBとしての窓口がある点が重要です。

講演や野球教室の依頼を受けられる状態が続いているわけですね。

舌鋒鋭いと評された語り口

評論家としての高橋善正さんは、どんなタイプなのかも気になるところですよね。

web Sportivaの連載では、引退後に「舌鋒鋭い野球評論家」となった人物として紹介されています。

遠慮なく踏み込む語り口が、評論家としての個性になっているわけですね。

指導者としても選手を厳しく叱咤激励するタイプだったと伝えられており、言葉の強さは一貫しています。

同じ連載では「石で鳥を落とす」とまで言われた制御力の持ち主として語られていました。

昭和のプロ野球を当事者として語れる証言者という点に、現在の価値があります。

東映フライヤーズという球団は現在の日本ハムファイターズにつながる系譜で、当時を知る人は年々少なくなっています。

その時代の空気を一次情報として語れる人が残っているのは、野球史にとって大きいことだと思いますよ。

東映という球団は選手の個性が強く、現在のような情報管理も緩やかな時代でした。

その中で過ごした経験が、遠慮のない語り口につながっているのかもしれません。

辛口の評論は好き嫌いが分かれますが、当事者しか知らない事実が含まれる点に価値があります。

厳しい言葉の裏に投手としての実体験があるという点が、読者の信頼につながっています。

張本勲の訃報に寄せた追悼コメント

現在の発信活動を象徴する出来事が、2026年9月にありました。

東映と巨人で一緒にプレーした張本勲さんが亡くなり、高橋善正さんが後輩として追悼の言葉を寄せたのです。

ここでは、そのコメントの中身を追いながら、2人の関係が分かる具体的な証言を整理していきますね。

名球会の発表と追悼の言葉

プロ野球名球会は2026年9月10日、張本勲さんが前日に都内の病院で亡くなったことを発表しました。

通算3085安打というNPB記録を持つ大打者の訃報は、各メディアで大きく扱われました。

高橋善正さんは東映と巨人の両方で張本勲さんと同じユニホームを着た、4学年後輩にあたります。

日刊ゲンダイは、その高橋善正さんの証言をもとに追悼記事を掲載しました。

単なる定型的な悼み方ではなく、同じ球団で過ごした日々の具体的な場面が語られている点が特徴です。

現在も訃報の際に真っ先にコメントを求められる存在だと分かる出来事ですね。

長い年月をかけて積み上げてきた人間関係が、こうした場面で表に出てくるわけです。

ここ、気になりますよね。

張本勲さんは1940年に広島で生まれ、1959年に東映フライヤーズへ入団した選手です。

1975年オフに巨人へ移り、ロッテ移籍後の1980年に前人未到の3000安打を達成しました。

通算2752試合で打率.319、504本塁打、1676打点という数字を残しています。

首位打者7回、最高出塁率9回というタイトル歴も、同時代を知る人の記憶に刻まれていますよね。

下記の表は、張本勲さんが残した主な記録を整理したものです。

項目 記録
生年と出身 1940年・広島生まれ
東映入団 1959年
通算安打 3085安打でNPB記録
通算打率 .319(2752試合出場)
本塁打と打点 504本塁打・1676打点
通算盗塁 319盗塁
主なタイトル 首位打者7回・最高出塁率9回
3000安打達成 1980年・ロッテ時代

同じ時代を戦った選手の訃報が続く中で、証言できる人の言葉はますます貴重になっています。

日本でナンバーワンの打者という評価

追悼記事で高橋善正さんは、張本勲さんを「日本でナンバーワンの打者だった」と振り返っています。

評価の根拠として挙げたのが、長打を狙わなくても年間30本塁打を打てる打撃でした。

本人は「俺はホームランバッターじゃない」と話していたという証言も添えられています。

さらに足も速く、シングルヒットのときはノーサインで盗塁して必ず成功させていたと語りました。

通算319盗塁という数字を挙げ、狙えば本塁打王も盗塁王も獲れたのではないかという見立てを示しています。

一方で、幼少期に負ったやけどの影響で右手が不自由だったことにも触れました。

肩も弱く外野守備はイマイチだった、という率直な評価まで語っているんですよ。

美化せずに長所と弱点の両方を語るあたりが、評論家としての姿勢そのものだと思います。

通算3085安打というNPB記録は、現在も破られていません。

当時はタイトルの対象外だった最多安打も、3回マークしていました。

そうした記録を同じ打線で見ていた投手の証言なので、説得力の種類が違いますよね。

長打力と走力を兼ね備えた打者は、当時のパ・リーグでも限られていました。

その希少性を間近で見ていたからこその評価だと受け取れますよね。

完全試合を救った左翼の守備

この追悼コメントで最も注目されたのが、自身の完全試合にまつわる証言です。

東映の投手には「なるべくハリさんの守る左翼には打たれないようにしよう」という意識があったと明かしています。

ただし、その守備の弱さが逆に自分を救った場面があったというのです。

1971年8月21日の西鉄戦、最後の打者が左翼へ痛烈な当たりを放ちました。

これは抜かれると思った打球でしたが、張本勲さんは自分でも守備が苦手だと分かっていたため、常に左翼の後方を守っていたそうです。

結果としてフェンス直撃という当たりをあっさりと捕球し、完全試合が成立しました。

「ハリさんに助けられました」という言葉が、記事の見出しにもなっています。

守備が苦手だという自己認識が、結果的に球史に残る記録を守ったわけですね。

完全試合は27人を1人も出塁させない記録なので、最後の1アウトまで何が起きるか分かりません。

打球が左翼へ飛んだ瞬間、マウンド上では記録が消えたと思ったわけです。

守備位置の取り方という準備が、結果として投手の記録を救ったことになります。

こうした細部まで語れるのは、当事者しか知らない場面だからですね。

記録を達成した本人が守備の助けを公言するあたりに、人柄もにじんでいると思います。

酒席と素振りに見えた素顔

記事の後半では、チームメイトとして見た素顔も語られています。

豪快で酒好きのイメージが強い張本勲さんですが、実際は「それほど強くはなかったようです」という証言でした。

年上の土橋正幸さんや西園寺昭夫さんと飲みに行くことが多く、先に酔いつぶれて2人に担がれて宿舎に帰ってきたそうです。

キャンプでは練習後も宿舎の自室で素振りをしていた点は、王貞治さんや長嶋茂雄さんと同じでした。

ただし張本勲さんは必ず同室の選手を「入ってくるなよ」と閉め出してから振っていたといいます。

人前でも気にせずバットを振っていた王さんや長嶋さんとは、ここが対照的だったわけです。

当時は「人気のセ、実力のパ」と言われた時代で、パ・リーグには個性的な選手が多かったとも語っています。

同僚にすら技術を盗まれたくなかったのだろう、という解釈まで添えているのが面白いところですね。

土橋正幸さんは東映のエースとして知られた投手で、西園寺昭夫さんも同時期の主力選手です。

そうした先輩たちと飲み歩く日常が、当時のチームの距離感を伝えてくれます。

人物像を美化しないまま伝えるのが、高橋善正さんの語り方なのだろうと思います。

宿舎での過ごし方まで覚えているのは、同じ時間を長く共有した仲間だからですね。

糖尿病対策で赤ワインに変えた習慣

80代になっても現場に関わるには、当然ながら体調の管理が欠かせません。

高橋善正さんは健康面について、自分の言葉で語った記事を残しています。

ここでは公開されている健康に関する情報を、断定できる範囲で丁寧に整理していきますね。

血糖値を理由にした飲み方の変更

日刊ゲンダイは2023年5月、高橋善正さんの健康をテーマにしたインタビュー記事を掲載しました。

記事の見出しには「血糖値が高いから」という本人の言葉が掲げられています。

糖尿病対策として、日本酒から赤ワインへお酒を切り替えたという内容です。

野球選手は引退後に体重が増えやすく、血糖値の管理に悩む人も少なくありません。

お酒そのものをやめるのではなく、種類を替えて付き合い方を変えるという現実的な選択ですね。

この記事は有料会員限定で続きが掲載されており、公開部分から読み取れるのはここまでです。

ただ、80代で高校野球の現場に関わっている事実を考えると、体調の管理はうまくいっているのだろうと思えます。

無理のない形で続ける工夫が、現在の活動を支えているのかもしれませんね。

赤ワインへの切り替えは、健康を意識する世代にとって身近な選択ですよね。

日本酒を完全に断つのではなく、量と種類を見直すという発想です。

現役時代に体を酷使した選手ほど、引退後の体調管理が課題になりやすいといわれます。

その点で、具体的な対策を語っている記事は読者の参考にもなるはずです。

高齢になっても外で仕事を続けるには、こうした小さな積み重ねが効いてくるのでしょうね。

四万十の自然が育てた体

同じインタビューで語られたのが、幼少期の環境です。

高橋善正さんが生まれたのは高知県高岡郡窪川町、現在の四万十町にあたる土地でした。

山に登り、川で泳ぐという日常の中で、強靱な肉体がつくられたと振り返っています。

四万十川の流域という自然環境が、そのままトレーニング場だったわけですね。

トレーニング理論も器具も整っていない時代に、遊びの中で体幹が鍛えられたという話です。

175cm・75kgという体格は当時の投手として標準的ですが、1324回3分の2を投げ切る耐久性がありました。

高知商業高校では甲子園に出場し、中央大学ではエースとしてリーグ優勝を経験しています。

その土台が幼少期の自然の中にあったとすれば、現在も地元で高校生を見ているのは自然な流れだと感じますよ。

四万十町は高知県の西部に位置し、四万十川の流域として知られる土地です。

山と川に囲まれた環境が、そのまま遊び場になっていた時代ですね。

現在もその四万十町に住んでいると報じられており、生まれた土地に戻って暮らしている形です。

故郷の高校を支える立場になったのは、こうした縁の延長線上だと思いますよ。

都市部で育った選手とは違う下地が、長いイニングを投げ切る体力につながったのかもしれません。

腰の故障から学んだ体との付き合い方

健康という話題で外せないのが、現役時代に負った腰の故障です。

1969年のオープン戦期間、ランニング中に排水溝へ落ちて腰を痛めました。

本人は「オープン戦、すごいよかったのよ」と好調を振り返りつつ、腰を壊してから球が全然ダメになったと語っています。

腰がヒュッと切れないためシュートもイメージ通りに行かず、勝ち星が減って自信を失っていきました。

開幕投手が決まっていたため黙って調整を続けたという判断も明かしています。

現在なら即座に登録抹消という状況を、我慢して投げ続けた時代だったわけです。

この経験があるからこそ、若い選手の体調管理についても語れる立場にあると思います。

進路アドバイザーという役割の中で、こうした教訓が伝わっていくのかもしれませんね。

排水溝に落ちたのは、普段とは違う初めてのグラウンドで全力で走っていたためでした。

現在であれば画像診断を受けて休養に入る場面ですが、当時はその発想がありません。

結果として2年続けて大きく負け越し、キャリアを失いかけました。

故障を隠して投げ続けた経験は、高校生に伝える教訓としても重みがありますよね。

無理をした代償がどれほど大きいかを、身をもって知っている指導者だということですね。

混同されやすい高橋姓の野球人たち

検索するとき、どうしても気をつけたいのが同じ高橋姓の野球人との混同です。

実際に関連キーワードを見ると、別人の情報が入り混じっている状況が確認できます。

ここでは誰と間違えやすいのかを整理して、あなたが情報を取り違えないようにしておきますね。

検索結果に混ざる高橋姓の有名人

検索候補には「巨人の高橋は現在何をしている?」という質問が並びます。

巨人に在籍した高橋姓の選手は多く、この質問だけでは誰を指しているのか分かりません。

同じ検索結果の中に、高橋由伸さんや高橋里志さん、高橋勇丞さんといった別人の名前が混ざってきます。

いずれも実在するプロ野球関係者ですが、高橋善正さんとはまったくの別人です。

下記の表で、混同されやすい高橋姓の野球人を整理してみます。

名前 主な所属 立場や活動
高橋善正 東映・巨人 完全試合を達成した投手で窪川高校の進路アドバイザー
高橋由伸 巨人 元巨人監督で野球評論家・球団特別顧問
高橋里志 南海・広島・日本ハム 最多勝と最優秀防御率を獲得した投手で訃報が報じられた
高橋勇丞 阪神 検索候補に名前が挙がる元選手

この表を頭に入れておけば、記事を読むときの取り違えはかなり減らせるはずですよ。

プロ野球には高橋姓の選手が非常に多く、同時期に複数人が在籍することも珍しくありません。

さらに巨人は在籍選手の情報量が多いため、検索結果が混ざりやすい球団でもあります。

名前だけで判断せず、所属球団と年代をあわせて確認するのが確実ですね。

現在の活動を調べるときは、生年と出身地まで照らし合わせると取り違えを防げますよ。

前巨人監督の高橋由伸との違い

最も混同されやすいのが、前の読売ジャイアンツ監督である高橋由伸さんです。

高橋由伸さんは千葉市の郊外で育ち、神奈川県の桐蔭学園高校から慶應義塾大学へ進みました。

1998年に法学部政治学科を卒業し、逆指名という形で読売ジャイアンツへ入団しています。

1年目からセ・リーグで長嶋茂雄さん以来となる新人打率3割をマークした外野手でした。

2015年の現役引退と同時に読売ジャイアンツ第18代監督へ就任し、3シーズン指揮を執っています。

現在は野球評論家・解説者として活動し、球団特別顧問と読売新聞スポーツアドバイザーも務めています。

高橋善正さんは投手で東映出身、高橋由伸さんは打者で慶應義塾大学出身という違いですね。

どちらも巨人に所属して現在は評論の仕事をしているため、肩書きだけ見ると紛らわしいのは確かです。

高橋由伸さんは2004年のアテネ五輪で、日本の銅メダル獲得にも貢献した選手です。

現役時代は松井秀喜さんらとともに強力打線を形成していました。

投手として記録を残した高橋善正さんとは、まったく異なるキャリアだと分かりますよね。

読みも善正と由伸で異なるため、漢字とあわせて確認するのが確実です。

肩書きだけを見て同一人物と思い込まないよう、気をつけたいところですね。

元カープの高橋里志との違い

もう一人、名前が近いのが元広島東洋カープ投手の高橋里志さんです。

高橋里志さんは南海を自由契約となり、1973年に広島へ移籍しました。

1977年には20勝を挙げて最多勝利投手に輝き、プロ10年目での開花と報じられています。

背番号34での小気味いい投球を覚えているファンも多い投手でした。

その後は日本ハムへ移り、1982年に最優秀防御率を獲得しています。

中国新聞は「僕は南海で一度死んだ人間」という本人の言葉を紹介しながら、訃報を伝えました。

高橋善正さんと高橋里志さんは、同じ時代に投げた別人の投手です。

同姓の選手が多いポジションだからこそ、所属球団と記録で見分けるのが確実ですよ。

1977年までの広島は3年連続で最多勝投手を輩出しており、その流れを継いだ形でした。

高知県出身で東映から巨人へ進んだ高橋善正さんとは、経歴がまったく重なりません。

同じ時代に高橋姓の投手が複数いたという事実だけ覚えておけば十分だと思います。

高橋善正の現在に至る経歴|完全試合と指導歴

  • 高知商から中央大へ進んだ学生時代
  • 1966年ドラフト1位で東映入団
  • プロ初登板13回完封と新人王獲得
  • 史上12人目の完全試合達成の全貌
  • 巨人移籍後の中継ぎ転向と登録名変更
  • 引退後のコーチ歴と中央大監督時代

高知商から中央大へ進んだ学生時代

ここからは、現在に至るまでの歩みを時系列で追っていきます。

まず押さえておきたいのが、プロ入り前の高知商業高校と中央大学での実績です。

この時期の積み上げがあったからこそ、ドラフト1位という評価につながりました。

高知商業高校で踏んだ甲子園の土

高橋善正さんは高知県高岡郡窪川町から、高知商業高等学校へ進学しました。

高知商業は甲子園の常連として知られる、県内屈指の野球強豪校です。

2年時には夏の甲子園大会に出場し、2回戦まで勝ち進んでいます。

全国の舞台を高校2年で経験したことは、その後の進路に大きく響いたはずですよね。

この時期の決め球はカーブで、パワプロの再現選手を作ったブログでも「高知商時代はカーブでならしていた」と触れられています。

プロで武器になったシュートやシンカーは、後から身につけた球種だったわけです。

高校時代から球種を変えながら生き残ってきた投手だという見方もできますね。

四万十の自然で鍛えた体に、高知商業の練習が加わって土台ができていきました。

高知商業は高知県を代表する野球強豪校として、長く甲子園に出場してきた学校です。

高橋善正さんが在学したのは1960年前後で、県内の競争も激しい時代でした。

その環境で2年生のうちから主戦級として投げていたことになります。

甲子園で2回戦まで勝ち進んだ経験が、大学進学への評価につながっていきました。

高知県は人口規模に対して甲子園での実績が豊富な県として知られています。

その土壌の中で全国を経験したことが、進路の幅を広げたわけですね。

中央大学で記録した8連勝

高知商業を卒業した高橋善正さんは、中央大学へ進学します。

東都大学野球の強豪で、プロへの登竜門として知られる環境ですね。

2年時には当時のリーグ記録である8連勝を記録し、エースとしての地位を確立しました。

在学中には2度のリーグ優勝を経験しています。

個人としても最優秀投手に選ばれ、ベストナインを2度、最高殊勲選手を1度受賞しました。

学生野球で獲れるタイトルをほぼ手中にした、と言ってよい実績です。

3学年下には、のちに広島や中日で捕手として活躍した水沼四郎さんがいました。

下記の表は、アマチュア時代の主な実績をまとめたものです。

時期 所属 主な実績
高校 高知商業高校 2年夏の甲子園出場・2回戦進出
大学2年 中央大学 当時のリーグ記録となる8連勝
大学在学中 中央大学 リーグ優勝2回
個人表彰 中央大学 最優秀投手・ベストナイン2回・最高殊勲選手1回

東都大学野球は入れ替え戦のある厳しいリーグで、実力がそのまま順位に出る環境です。

そのリーグで8連勝というのは、連戦を任され続けた証でもあります。

ベストナインを2度受賞しているあたりに、安定して働き続けた選手像が見えますよね。

連勝記録はチームの打線にも支えられますが、崩れない投球が前提になります。

石で鳥を落とす制御力の原点

高橋善正さんを語るうえで欠かせないのが、制御力への評価です。

web Sportivaの連載タイトルには「石で鳥を落とす」という表現が使われました。

石を投げて飛んでいる鳥を落とすほど正確だ、というたとえですね。

クセのある直球とシュート、シンカーを武器に打たせて取るサイドスローでした。

速球で押し切る投手ではなく、狙った場所へ投げ分けて凡打を誘うタイプです。

通算1324回3分の2を投げて与四球255という数字が、その特徴を裏づけています。

学生時代の8連勝も、崩れにくい制御力があってこそ成立した記録だと思いますよ。

この持ち味が、プロ初登板での衝撃的なデビューにつながっていきます。

当時のプロ野球は球速を測る環境も整っておらず、投手の評価軸は結果と制御力でした。

そうした時代に石で鳥を落とすとたとえられたのは、かなりの誉め言葉だといえます。

サイドスローから繰り出すシュートは、右打者の内角へ食い込む球筋になります。

打者の手元で動く球を低めに集められれば、長打は避けられるという理屈ですね。

速球派ではない投手が長く生き残るには、狙った場所へ投げ切る技術が不可欠です。

この持ち味が、のちの完全試合という結果にもつながっていきました。

1966年ドラフト1位で東映入団

中央大学で実績を残した高橋善正さんは、プロ野球の門をたたきます。

1966年の第2次ドラフト会議で、東映フライヤーズから1位指名を受けました。

ここでは当時のドラフト制度の事情と、指名に至るまでの経緯を具体的に見ていきますね。

第2次ドラフト制度という時代背景

1966年のドラフトは、現在の形とは大きく違う仕組みで行われていました。

この年は第1次と第2次に分けて会議が開かれ、高橋善正さんは第2次ドラフトでの指名です。

選手データベースの経歴欄には「東映67(二次)年~72年」と、二次指名であることが明記されています。

同じ順位の1位指名でも、現在の1位とは意味合いが異なる時代だったわけですね。

当時はパ・リーグの人気がセ・リーグに及ばず、「人気のセ、実力のパ」と言われた時期でもあります。

その中で東映は個性的な選手を集め、独特の空気を持つ球団として知られていました。

高橋善正さんはこの東映で、1年目から先発ローテーションに入ります。

大学で結果を出した投手を即戦力として使う判断は、見事に当たったことになります。

1960年代の日本プロ野球は、ドラフト制度そのものが整備されたばかりの時期でした。

第1次と第2次に分けて実施された年もあり、現在とは指名の仕組みが大きく異なります。

その第2次ドラフトで1位指名を受けたのが、中央大学の高橋善正さんでした。

当時の制度を知らないまま記録だけを見ると、評価を読み違えてしまいますよね。

指名順位の意味合いが現在と違う点を押さえておくと、経歴の読み方が変わりますよ。

八木沢荘六と荒武康博を外した抽選

1位指名に至る経緯には、少し複雑な事情がありました。

東映は八木沢荘六さんと荒武康博さんを指名しましたが、いずれも抽選で外しています。

その結果として指名権が回り、高橋善正さんの名前が呼ばれました。

くじ引きの結果、3番目の選択として東映入りが決まった形です。

八木沢荘六さんは早稲田大学から東京オリオンズへ入団し、1973年10月10日に史上13人目の完全試合を達成した投手です。

結果だけ見れば、抽選で外した投手と獲得した投手が、史上13人目と12人目の完全試合達成者として並んだことになります。

ドラフトの順番や抽選の結果が、その後の球史をどう変えるか分からないという好例だと思いますよ。

この年の判断が、1971年の記録につながっていったわけです。

八木沢荘六さんは早稲田大学のエースとして知られ、のちに千葉ロッテマリーンズの初代監督も務めた人物です。

荒武康博さんも当時注目された選手で、東映は2度の抽選で指名権を得られませんでした。

その流れで名前が挙がったのが、中央大学で実績を残していた高橋善正さんです。

下記の表は、東映が1位指名に至るまでの抽選の流れです。

抽選の順番 指名した選手 東映の結果
1人目 八木沢荘六(早稲田大学) 抽選で外す
2人目 荒武康博 抽選で外す
3人目 高橋善正(中央大学) 1位指名で入団

抽選の結果に左右されるドラフトの性質が、よく表れた一件だと思いますよ。

東映にとっては3番目の選択でしたが、結果的に大きな当たりくじだったことになります。

同期入団の大下剛史という相棒

同じ1966年のドラフトで東映に入団したのが、大下剛史さんです。

駒澤大学出身の内野手で、後に広島の主力として1975年の初優勝を支えた選手でした。

現役引退後は広島や日本ハムでヘッドコーチを務め、厳しい指導で知られた人物ですね。

この大下剛史さんは、高橋善正さんの完全試合の場面で二塁を守っていました。

普段から一緒に食事をして酒も飲む仲だったと、本人が振り返っています。

同期入団の選手が記録達成の瞬間に同じ内野にいたというのは、なかなかドラマチックですよね。

遊撃を守っていた大橋穣さんも含め、守備陣との関係が記録を支えました。

ここは次のセクションで詳しく触れていきます。

大下剛史さんは東映から広島へ移り、1975年の球団初優勝を支えた内野手です。

引退後は厳しい指導で知られたコーチとして、長く球界に残りました。

同じ年に入団した2人が、1971年の完全試合で投手と二塁手として並んだわけです。

こうした巡り合わせが、昭和のプロ野球の面白さだと思いますよ。

投手と内野手という違う立場でも、同期入団という関係は長く続くものです。

記録達成の場面を同じグラウンドで共有した事実は、2人にとって一生の話題になったはずですよね。

プロ初登板13回完封と新人王獲得

1967年、高橋善正さんはプロの世界で衝撃的なスタートを切ります。

結論から言うと、初登板で13回を投げ切って完封し、そのまま新人王まで駆け上がりました。

ここでは1年目から東映時代の6年間を、数字と一緒に追いかけていきますね。

プロ初登板で13回を投げ切る

web Sportivaの記事見出しには「プロ初登板で13回を完封」と記されています。

現在の感覚では考えられない投球回ですが、当時は延長戦を1人で投げ切るのが当たり前でした。

デビュー戦で13回無失点という内容は、ルーキーとして破格の結果です。

この1試合で、球団内の評価が一気に固まったことは想像できますよね。

制御力を武器にするサイドスローが、長いイニングでも崩れなかったという証明にもなりました。

パワプロの再現選手を扱ったブログでも、初登板完封勝利が真っ先に紹介されています。

つまり、ファンの記憶に残るデビューだったということですね。

この試合が、1年目の15勝という数字の出発点になりました。

延長戦を1人で投げ切る起用は、継投が当たり前の現在では考えられません。

当時は完投が投手の責任と見なされ、球数という概念も希薄でした。

13回を無失点で抑えた新人は、それだけで一軍の信頼を得たはずです。

この1試合が、1年目45試合登板という起用につながっていきました。

現在であれば2試合分に相当する投球回を、デビュー戦でこなしたことになります。

起用した側にも、それだけの計算があったということですね。

デビュー戦の内容が、その後11年のキャリアの方向を決めたといえますね。

1年目15勝で新人王を受賞

1967年、高橋善正さんは45試合に登板して15勝11敗を記録します。

この15勝はチームトップの数字で、防御率2.46はパ・リーグ9位に入りました。

投球回は226回3分の2に達し、ルーキーとしては異例の負担を背負っています。

この活躍によって、1967年のパ・リーグ新人王に選ばれました。

WHIPは1.03で、走者を出さない投球が数字にもはっきり出ています。

翌1968年も38試合で13勝14敗、防御率3.41を記録して2年連続の二桁勝利を達成しました。

同年には初めてオールスターゲームにも出場しています。

デビューから2年で、パ・リーグを代表する先発投手の1人になったわけですね。

226回3分の2という投球回は、現在の規定投球回をはるかに超える数字です。

1年目からこれだけ投げれば、体への負担は相当なものになりますよね。

新人王というタイトルは、その働きに対する当然の評価だったといえます。

チームトップの15勝という事実が、当時の東映の先発事情も物語っています。

新人で先発ローテーションを守り切る例は、現在でもそれほど多くありません。

制御力を武器にする投球だからこそ、1年目から通用したのだと思います。

東映のローテーションを背負った1年目は、まさに即戦力の働きでした。

2年連続二桁勝利と初のオールスター

順調に見えたキャリアは、3年目に大きく揺らぎます。

1969年は3勝11敗で防御率4.08、1970年は2勝9敗で防御率4.50と、2年続けて大きく負け越しました。

原因は前述の通り、オープン戦期間に排水溝へ落ちて痛めた腰です。

一時は引退も考えたほどだったと伝えられていますが、踏みとどまって現役を続けました。

そして1971年に完全試合を達成し、翌1972年には10勝を挙げて3年ぶりの二桁勝利に戻します。

1972年は38試合登板で10勝13敗、防御率3.79という成績で、オールスターゲームにも再び出場しました。

この年を最後に東映での6年間が終わり、翌年から巨人でのキャリアが始まります。

不調から復調までの振れ幅が、この投手のキャリアを物語っていますよね。

3年目と4年目の成績は、同じ投手とは思えないほどの落差です。

勝ち星が減ると自信もなくなるという本人の言葉が、数字の裏側を説明してくれます。

それでも現役を続けたことで、1971年の記録につながりました。

この踏みとどまりがなければ、完全試合は生まれていなかったわけですね。

好調と不調の両方を短期間で味わった経験が、のちの評論にも生きているのでしょうね。

年度別成績で見る東映時代の6年

下記の表は、東映時代6年間の成績を年度別に整理したものです。

年度 登板 勝敗 防御率 主な出来事
1967年 45試合 15勝11敗 2.46 新人王を受賞
1968年 38試合 13勝14敗 3.41 初のオールスター出場
1969年 34試合 3勝11敗 4.08 腰の負傷でスランプ
1970年 23試合 2勝9敗 4.50 2年連続の大幅負け越し
1971年 34試合 7勝11敗 3.26 完全試合を達成
1972年 38試合 10勝13敗 3.79 3年ぶりの二桁勝利

数字を並べると、1969年と1970年の落ち込みがいかに深刻だったか分かりますよね。

その底から記録を達成したという流れが、完全試合の価値をさらに高めています。

東映時代の6年で212試合に登板し、50勝69敗という数字を残しました。

「若い投手を使い潰す時代だった」と言われる当時の起用法も、あわせて見えてくる表だと思います。

1967年と1968年で28勝を挙げたあと、1969年と1970年の2年では5勝しか積めていません。

そこから1972年に10勝まで戻した回復力が、この表の見どころだと思います。

防御率も4点台から3点台へ戻しており、復調が数字で裏づけられていますよね。

東映での6年間は、投手としての山も谷もすべて詰まった期間だったといえます。

史上12人目の完全試合達成の全貌

1971年の夏に起きた出来事が、現在も高橋善正さんの代名詞になっています。

史上12人目の完全試合という記録ですが、その状況は近年の達成例とはまったく違っていました。

ここでは記録が生まれた背景から当日の様子まで、本人の証言をもとに段階的に掘り下げていきますね。

腰痛と二軍暮らしで迎えた5年目

完全試合を達成した1971年、高橋善正さんは決して順風満帆ではありませんでした。

腰の故障で1969年は3勝11敗、1970年は2勝9敗と落ち込み、自信を完全に失っていた時期です。

本人は4年目が終わったときにゴルファーへの転向を考えたと明かしています。

しかし問い合わせてみると給料は5万円ほどで、家のローンも妻もいる身では食べていけないと判断しました。

「これはもう仕方ない、クビを覚悟して野球をやるしかない」という心境だったそうです。

1971年の前半は二軍暮らしで、オールスターゲーム直前にようやく一軍へ昇格しています。

勝ち星は3つしかない状態で、8月21日のマウンドに上がりました。

完全試合ができるなんてまったく思っていなかった、という振り返りも残っていますよ。

ゴルファーへの転向を検討したという話は、追い込まれ具合をよく表しています。

当時のプロゴルファーの収入事情まで調べていたわけですから、本気だったのでしょうね。

20代後半で家族を抱えた選手にとって、収入は現実的な判断材料になります。

結果として野球を続ける決断が、球史に残る記録を生みました。

崖っぷちの投手が球史に残る記録を残したという筋書きが、この物語の核心ですね。

1971年8月21日の後楽園球場

運命の日は1971年8月21日、後楽園球場での西鉄ライオンズ戦でした。

試合前のブルペンでは「シュートのキレが悪い。1回でダメだなと思ってた」という状態だったといいます。

ところが1回を三者凡退で切り抜け、そのまま誰も走者を出さない試合が続いていきました。

結果としてわずか86球で27人を抑え、NPB史上12人目の完全試合が成立しました。

調子が悪いと感じていた日に完全試合が生まれるという、野球の不思議さが詰まった1日ですね。

完全試合の達成時には、カーブとスライダーの精度が上がらずごまかしながら投げていたという証言もあります。

下記の表は、この完全試合の記録を整理したものです。

項目 内容
達成日 1971年8月21日
対戦相手 西鉄ライオンズ
球場 後楽園球場
投球数 86球
記録の順番 NPB史上12人目
当時の立場 前半は二軍暮らしから復帰
その年の成績 7勝11敗・防御率3.26
のちの達成者 2022年に佐々木朗希が史上16人目

後楽園球場は東映と巨人が本拠地として使った球場で、のちに東京ドームへ役割を譲りました。

その後楽園で生まれた完全試合が、現在も語られ続けているわけですね。

電光掲示板に並んだゼロの列が、胴上げされる写真とともに残されています。

冷やかした大下剛史と大橋穣

完全試合の試合中には、思わず笑ってしまうやり取りがありました。

二塁手の大下剛史さんと遊撃手の大橋穣さんが、途中から「完全試合だぞ」と冷やかしてきたのです。

野球界では記録達成に向けて誰も言葉にしないという不文律がありますよね。

それを平然と破ってくる同僚に、高橋善正さんは「うるせえ!」と返したそうです。

普段から一緒に食事をして酒も飲む仲だからこそのやり取りだったわけですね。

大下剛史さんは1966年の同期入団で、東映の内野を支えた選手でした。

そして最後の打者が放った左翼への痛烈な当たりを、張本勲さんが捕球して記録が確定します。

内野の同期と外野の先輩、その両方に支えられた完全試合だったことになりますね。

大橋穣さんは守備範囲の広い遊撃手として知られ、東映の内野を支えた選手です。

記録がかかった場面で声をかけるのは、普通なら考えられない行為ですよね。

それでも軽口を言い合える関係が、緊張を和らげた可能性もあります。

うるせえと返した反応からも、肩の力が抜けていた様子が伝わってきます。

完全試合という言葉を口にしない不文律は、現在のプロ野球でも生きています。

それを破った同僚の軽口が、結果的に良い方向へ働いたわけですね。

佐々木朗希まで続く完全試合の系譜

完全試合という記録は、NPBの長い歴史でもごくわずかしか生まれていません。

高橋善正さんの達成が12人目で、2022年の佐々木朗希さんが16人目にあたります。

約50年の間に4人しか増えていない、という希少性の高い記録ですね。

web Sportivaの記事は、佐々木朗希さんと高橋善正さんの状況の違いに注目していました。

将来を嘱望された若い怪物による完全試合と、クビ寸前の投手による完全試合という対比です。

記録の価値は同じでも、そこに至る物語はまったく違うということですね。

だからこそ高橋善正さんの完全試合は、昭和プロ野球を語るときに何度も引用される題材になっています。

現在も評論家としてコメントを求められる理由の一つが、ここにあると思いますよ。

13人目は1973年10月10日に達成した八木沢荘六さんで、2年あまりで続いた形でした。

投手の分業が進んだ現在は、完投そのものが珍しくなりました。

完全試合の条件を満たすには、先発が最後まで1人で投げ切る必要があります。

今後も達成者が増えにくい記録だと考えると、12人目という番号の価値が分かりますよね。

12人目と13人目が2年あまりで続いた一方、その後は達成の間隔が大きく開いていきました。

巨人移籍後の中継ぎ転向と登録名変更

東映で6年を過ごした高橋善正さんは、1973年から環境を大きく変えます。

読売ジャイアンツへ移籍し、先発から中継ぎへと役割を転換したのです。

ここでは移籍の経緯と巨人での5年間を、年度別の数字と一緒に整理していきますね。

渡辺秀武らとのトレードで巨人へ

1973年、高橋善正さんは渡辺秀武さんらとのトレードで読売ジャイアンツへ移籍しました。

当時の巨人はV9の最終年にあたる時期で、投手陣の層を厚くする補強が続いていました。

東映でエース格だった投手が、優勝を争うチームの一員になったわけですね。

巨人では主に中継ぎ投手として起用され、先発中心の役割から完全に切り替わりました。

移籍1年目の1973年は25試合で1勝5敗、防御率3.47という成績でした。

背番号も東映時代の18から11へと変わっています。

環境も役割も背番号も変わるという、キャリア後半の大きな転機だったと思います。

この転換がうまくいったからこそ、5年も現役を続けられたのでしょうね。

渡辺秀武さんは巨人で活躍した右腕で、この交換は複数の選手が動くトレードでした。

週刊ベースボールONLINEの紹介文にも「73年に巨人へ移籍し、77年限りで引退」と記されています。

パ・リーグからセ・リーグへ、しかも当時の最強球団への移籍です。

環境の変化に適応できるかどうかが、その後の5年を左右したはずですね。

東映でエースだった投手が、巨人では中継ぎから出直す形になりました。

それでも5年間ユニホームを着続けた点に、適応力の高さが表れています。

中継ぎとして残した防御率2.53

中継ぎ転向後の数字は、実はかなり優秀です。

1974年は24試合で2勝1敗、防御率2.29という安定した内容でした。

続く1975年には53試合に登板し、防御率2.53、WHIP0.88を記録しています。

この53試合は小川邦和さんと並ぶチームトップの登板数で、チームが最下位に沈む中での数字でした。

WHIP0.88という数字は、1イニングあたり1人も走者を許さない計算になります。

1976年も25試合で3勝1敗、勝率.750をマークしました。

下記の表は巨人時代5年間の成績です。

年度 登板 勝敗 防御率 主な出来事
1973年 25試合 1勝5敗 3.47 トレードで巨人へ移籍
1974年 24試合 2勝1敗 2.29 中継ぎとして安定
1975年 53試合 1勝3敗 2.53 チームトップ級の登板数
1976年 25試合 3勝1敗 3.43 勝率.750をマーク
1977年 45試合 3勝2敗 4.34 日本シリーズ初登板・引退

1975年の巨人は、球団史に残る最下位を経験したシーズンでした。

チームが苦しむ中で防御率2点台を残した中継ぎは、貴重な存在だったはずです。

先発から中継ぎへ役割を変えて成功した投手の、早い時期の例だといえますね。

登板数が増えたことで、チーム内での信頼の厚さも伝わってきますよね。

日本シリーズ初登板と引退の決断

現役最後の年となった1977年も、高橋善正さんは45試合に登板しました。

年齢的には30代後半に入っていましたが、登板数は巨人時代で2番目に多い数字です。

そしてこの年、ついに日本シリーズのマウンドにも立ちました。

東映時代には縁のなかった日本シリーズ初登板を、巨人の最終年で経験したことになります。

長嶋茂雄さんの引退試合で先発を務めたとも伝えられており、節目の試合を任される存在でもありました。

そして1977年限りで現役を引退し、11年間のプロ生活に区切りをつけます。

通算384試合のうち、巨人での5年間が172試合を占めています。

東映のエースから巨人の中継ぎへ、役割を変えながら生き残った11年だったわけですね。

東映時代はチームが優勝争いに加われず、日本シリーズとは縁がありませんでした。

巨人で過ごした5年の最後に、ようやくその舞台へたどり着いたことになります。

引退を決めた1977年も45試合に投げており、力尽きた形ではありません。

役割を終えたタイミングで区切りをつけた、潔い引き際だと思いますよ。

11年間で384試合という登板数は、先発と中継ぎの両方を務めた証です。

引退後すぐに指導の道へ進んだのも、この経験があったからだと思いますよ。

引退後のコーチ歴と中央大監督時代

引退後の高橋善正さんは、指導者としてのキャリアを積み上げていきます。

プロ4球団で投手コーチを務め、社会人野球と大学野球でも指揮を執りました。

ここでは指導者としての歩みを時系列で整理し、育てた投手の名前まで具体的に見ていきますね。

4球団で歴任した投手コーチ

高橋善正さんは引退後、古巣の巨人と日本ハムで投手コーチを務めました。

さらに中日ドラゴンズ、横浜大洋ホエールズでもコーチを歴任しています。

プロ4球団で投手コーチを経験し、投手育成に定評のある指導者として知られました。

社会人野球のシダックスでも投手コーチを務めた経歴があります。

コーチ業の合間を縫う形で、野球解説者・評論家としても活動していました。

下記の表は指導者としての歩みを整理したものです。

時期 所属 役職
引退後 巨人・日本ハム 投手コーチ
引退後 中日・横浜大洋 投手コーチ
引退後 シダックス 投手コーチ(社会人野球)
2008年〜 中央大学 監督
2011年秋 中央大学 成績不振により退任

指導者としては選手を厳しく叱咤激励するタイプだったと伝えられています。

巨人と日本ハムは、選手として在籍した球団の系譜にあたります。

中日と横浜大洋は縁のなかった球団で、そこからも請われたことになりますね。

制御力を武器にした投手らしく、技術を言葉で説明できる指導者だったのでしょう。

社会人野球のシダックスまで含めると、指導の幅はかなり広いといえます。

複数球団を渡り歩いたコーチは、それぞれの育成方針を比べられる立場にもなります。

現役時代の経験を言葉にして渡せる人材は、どの球団でも重宝されます。

2008年から務めた中央大監督

指導者としての集大成といえるのが、母校である中央大学の監督就任です。

高橋善正さんは2008年から中央大学の監督を務めました。

自身が2年時に8連勝を記録したチームへ、40年以上の時を経て指揮官として戻ったことになります。

NEWSポストセブンの記事では「プロで60勝を挙げ、4球団で投手コーチをやって投手育成に定評があった高橋善正監督」と紹介されています。

この評価が、進学先を選ぶ高校生にとっての決め手になっていました。

興南高校で甲子園春夏連覇を達成した島袋洋奨さんも、高橋善正さんの存在を理由の一つに中央大学を選んでいます。

プロ志望届を出さずに大学へ進んだ投手が、指導者の名前で進学先を決めたわけですね。

現在の進路アドバイザーという役割と重なる部分を感じますよ。

中央大学は東都大学野球の強豪で、プロへ多くの投手を送り出してきた大学です。

母校の監督という立場は、OBにとって特別な意味を持ちますよね。

自身が最優秀投手に選ばれたリーグへ、指導者として戻ったことになります。

この時期の経験が、現在の進路アドバイザーという仕事に直結しています。

大学の指導では技術だけでなく、進路の相談まで受けるのが監督の仕事になります。

澤村拓一や美馬学を育てた指導

中央大学の監督として、高橋善正さんは複数のプロ野球選手を育てました。

代表的なのが澤村拓一さん、美馬学さん、鍵谷陽平さんという3人の投手です。

澤村拓一さんは巨人のドラフト1位からメジャーリーグまで到達した右腕ですね。

美馬学さんは楽天で日本シリーズのMVPを獲得し、鍵谷陽平さんも日本ハムと巨人で中継ぎを担いました。

いずれも大学時代に高橋善正さんの指導を受けた投手たちです。

1年生の島袋洋奨さんは2011年春に5試合1勝3敗、防御率0.98で新人王を獲得しました。

ただし同年秋のリーグ戦終了後、成績不振により監督を退任しています。

プロと大学の両方で投手を育ててきた経験が、現在の高校野球への関わりにつながっているわけですね。

澤村拓一さんは中央大学から巨人へ1位指名で入団し、のちにメジャーリーグへも挑戦しました。

美馬学さんは楽天や千葉ロッテで先発を担い、日本一にも貢献しています。

鍵谷陽平さんは日本ハムと巨人で、中継ぎとして長く投げ続けました。

同じ時期の中央大学から、これだけの投手が育っているわけですね。

プロで活躍する投手を複数輩出した実績が、指導者としての評価を裏づけています。

現在の窪川高校での役割も、この実績を知る人からの依頼だったのかもしれません。

高橋善正の現在に関するまとめ

  • 高橋善正は1944年5月5日生まれで高知県出身の元投手
  • 現在は窪川高校野球部の進路アドバイザーに就任している
  • 就任は2026年10月6日で高知新聞が報じた情報だ
  • 日刊ゲンダイでは野球評論家としての活動を続けている
  • 日本プロ野球OBクラブには投手として登録されている
  • 張本勲の訃報では日刊ゲンダイに追悼コメントを寄せた
  • 健康面では糖尿病対策として日本酒から赤ワインに替えた
  • 検索では高橋由伸や高橋里志らと混同されやすい人物だ
  • 高知商から中央大へ進み2年時に8連勝を記録している
  • 1966年の第2次ドラフト1位で東映に入団している
  • 1967年は15勝でパ・リーグ新人王に選ばれている
  • 1971年8月21日に史上12人目の完全試合を達成
  • 巨人移籍後は中継ぎに転向し1975年は53試合に登板
  • 引退後は巨人や中日など4球団で投手コーチを歴任している
  • 中央大の監督として澤村拓一や美馬学らプロ投手を育てた

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