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あなたは、権藤正利さんと権藤博さんがどんな関係なのかを知りたいと感じているのではないでしょうか。
2人は同じ佐賀県の鳥栖で育った同姓の投手で、そろって新人王に輝いた左右のエースという経歴まで重なっています。
そのため兄弟ではないかという声が、今もネット上で繰り返し出てきますよ。
ただ、公表資料に血縁をうかがわせる記録は一つもありません。
この記事では2人の出身地や経歴、残した記録を一つずつ並べて関係性を整理します。
読み終えたときに、どちらがどの権藤なのかすっきり区別できていれば嬉しいです。
記事のポイント
①:兄弟を示す記録は存在しない
②:2人は同じ佐賀県鳥栖の出身
③:正利は28連敗の日本記録保持者
④:博は35勝と日本一監督の実績
権藤正利と権藤博の関係|兄弟説を検証
- 【結論】血縁を示す記録はない
- 兄弟説が生まれた4つの共通点
- 佐賀県鳥栖という共通の原点
- 家族の記録に兄はいるのか
- 名前の混同はなぜ起きたのか
【結論】血縁を示す記録はない
ここでは、2人の権藤がどういう関係なのかを最初にはっきりさせます。
結論を先に押さえておくと、このあとの比較もすっと頭に入りますよ。
兄弟という記録が見つからない
結論から言うと、権藤正利さんと権藤博さんが兄弟であることを示す記録は見つかりません。
2人はどちらも佐賀県の出身で、しかも同じ権藤という姓を持つプロ野球の投手です。
それでも公表されている資料をたどっていくと、血縁に触れた記述は一つも出てきません。
権藤博さんについては、2019年に野球殿堂入りした際のプロフィールが公開されています。
そこには表彰年、生年月日、出身地、出身校、社会人野球の在籍チーム、投打、通算成績、タイトル、表彰、記録、監督歴という項目が並びます。
その並んだ項目のどこにも兄弟に関する記載はありません。
権藤正利さんについても、球団の記録をまとめた選手名鑑に細かなエピソードが残されています。
幼少期の大けがや甘党すぎた食生活まで書かれているのに、兄弟の話は一度も登場しません。
つまり2人を血縁で結ぶ記録は、どちらの側からも確認できないわけですよ。
野球史を専門に扱う媒体でも「権藤という苗字でもう一人の権藤は権藤博投手。同じ佐賀県出身」という紹介の仕方でした。
兄弟であれば、この一文に必ず書き添えられるはずですよね。
同じ佐賀県の出身という共通点までが、資料で確認できる限界だと考えられます。
ここ、いちばん気になるところだと思うので、先に土台を固めておきました。
このあとの見出しでは、その土台を一つずつ資料で裏づけていきます。
2人のプロフィール比較表
下記の表は、2人の基本情報を並べて比較したものです。
| 項目 | 権藤正利 | 権藤博 |
|---|---|---|
| 名前 | 権藤正利(ごんどう まさとし) | 権藤博(ごんどう ひろし) |
| 生年月日 | 1934年5月1日 | 1938年12月2日 |
| 出身 | 佐賀県・鳥栖で中学を卒業 | 佐賀県鳥栖市 |
| 出身校 | 柳川商業高校 | 佐賀県立鳥栖高校 |
| 社会人野球 | 経験なし | ブリヂストンタイヤ |
| 投打 | 左投左打 | 右投右打 |
| プロ入り | 1953年・大洋松竹ロビンス | 1961年・中日ドラゴンズ |
| 在籍球団 | 大洋・東映・阪神 | 中日 |
| 実働年数 | 21年 | 5年 |
| 通算成績 | 117勝154敗・28連敗の日本記録 | 82勝60敗・1961年に35勝 |
| 血縁関係 | 記録なし | 記録なし |
生年月日を見ると、権藤正利さんのほうが4年7か月ほど早く生まれています。
出身校は柳川商業高校と鳥栖高校で、進んだ道も高卒入団と社会人経由に分かれました。
投げ方も左と右で正反対なので、タイプの違う投手だったことが分かりますよ。
プロ入りの年は1953年と1961年で、8年の開きがあります。
在籍した球団にも重なりはなく、同じユニホームを着た時期は一度もありません。
こうして並べてみると、同じ姓と同じ県という2点以外はきれいに分かれていますね。
この表だけで、2人を混同してしまう理由と区別する手がかりが同時に見えてきます。
兄弟説を否定できる3つの根拠
結論から言うと、兄弟ではないと考えられる根拠は3つに整理できます。
①どちらのプロフィールにも兄弟に関する記載が存在しないこと。
②野球史を扱う専門媒体が、2人を同姓の別人として紹介していること。
③家族について語られた記録の中に、もう一方の名前がまったく出てこないこと。
①については、野球殿堂博物館の公式プロフィールと球団記録の選手名鑑の両方で確認できます。
プロ野球選手の兄弟はそれ自体が話題になる題材で、記録として残らないほうが不自然ですよね。
②については、野球史専門誌が権藤正利さんを紹介する際の書き出しが分かりやすい例です。
そこでは「あまり野球史に詳しくない方には権藤、権藤、雨、権藤の人ですかと聞かれたりした」と書かれていました。
つまり専門家の側も、読者が2人を取り違える前提で説明を始めているわけです。
③については、権藤博さんが語ってきた家庭の話が手がかりになります。
父親を早くに亡くして母親に育てられた経緯は何度も語られてきました。
それでも、プロ野球選手の兄がいたという話は一度も出てきません。
この3点を重ねると、血縁ではなく同姓の別人と考えるのが自然という結論に落ち着きます。
もちろん今後、新しい資料から縁戚関係が判明する可能性はゼロではありません。
ただ現時点で公開されている情報の範囲では、兄弟と断定できる材料はまったくありません。
権藤姓が重なった背景
では、なぜ同じ時代に権藤という姓の投手が2人も出てきたのでしょうか。
権藤という姓は、全国的に数が多いとは言えない苗字です。
ただし佐賀県から福岡県にかけての一帯では、昔から珍しくない姓として知られています。
2人の原点である鳥栖は、佐賀県の東端で福岡県と接する町です。
同じ土地に同じ姓の家が複数あるのは、ごく自然なことですよね。
血縁がなくても姓が重なるのは、地域に根づいた苗字の特徴だと言えます。
そこに投手という共通点まで加わったため、2人はセットで語られるようになりました。
親子ではないかという声も見かけますが、生まれた年の差はわずか4歳です。
年齢の並びを見ただけでも、親子という線は無理があると分かりますよね。
いとこという説についても、それを示す記録はやはり見当たりません。
結局のところ、資料で言えるのは同じ県の出身であるという事実だけです。
この距離感を頭に入れておくと、ネット上の断片的な情報に振り回されずに済みますよ。
九州には権藤姓の家系が点在しており、野球界以外でもこの姓を見かけることがあります。
姓が同じだから親族だろうという推測は、こうした地域性を知ると成り立たなくなりますよね。
次の見出しでは、それでも兄弟説が消えない理由を共通点から掘り下げます。
兄弟説が生まれた4つの共通点
ここでは、なぜ兄弟だと思われてしまうのかを共通点から整理します。
偶然がいくつも重なっている事実を知ると、誤解の理由にも納得できるはずですよ。
共通点①同じ権藤という姓
まず最大の要因は、言うまでもなく同じ権藤という姓です。
プロ野球の歴史を振り返っても、権藤という姓の投手はこの2人がよく知られています。
しかも姓が同じだけでなく、どちらも投手として名前を残した点が重なりました。
野球中継や新聞記事では、選手は基本的に姓だけで呼ばれます。
マウンドに上がる投手が権藤と紹介されれば、どちらの権藤なのかは文脈で判断するしかありません。
当時のラジオ中継やスポーツ紙を思い浮かべると、混同が起きやすい環境だったことが分かりますよ。
権藤正利さんのプロ入りは1953年、権藤博さんのプロ入りは1961年です。
この8年の間に、権藤という姓はすでに球界で知られた名前になっていました。
そこへ同じ姓の新人が現れて大活躍したのですから、話題にならないはずがありませんよね。
さらに後から出てきた権藤博さんの印象が強烈だったことも、混同に拍車をかけました。
1年目に35勝という数字を残した投手は、球史を通して権藤博が最後です。
その圧倒的な印象が、同姓の先輩投手の記憶を上書きしてしまった形になります。
姓が同じというだけの話が、ここまで誤解を広げる要因になったわけですよ。
同じ姓の選手が同時期に活躍した例は他にもありますが、投手同士となると珍しいケースです。
共通点②佐賀県鳥栖との縁
2つ目の共通点は、どちらも佐賀県の鳥栖に縁があるという点です。
権藤博さんは佐賀県鳥栖市の生まれで、県立鳥栖高校を卒業しています。
権藤正利さんについては、鳥栖で中学を出て柳川商業高校へ進んだと記録されています。
つまり2人は、少年時代を同じ町で過ごしていた可能性が高いわけです。
同じ姓で同じ町という条件が重なれば、親戚だと受け取られるのも無理はありませんよね。
鳥栖は鹿児島本線と長崎本線が分岐する鉄道の要衝として発展した町です。
福岡県久留米市とも隣接しており、九州北部の野球文化が流れ込む土地でもありました。
そうした環境で、同じ時期に2人の本格派投手が育っていたことになります。
野球史の専門媒体も、2人の関係を説明する際には同じ佐賀県出身という表現を使っています。
この書き方は、血縁ではなく同郷であることだけを伝える言い回しです。
同郷という事実が、兄弟という誤解に変換されてしまったのだと考えられます。
地元の人にとっては、2人とも誇らしい郷土の投手だったことでしょう。
鳥栖から2人の本格派投手が出たことは、九州の野球史を語るうえでも外せない話題です。
ただし同郷であることと血縁であることは、まったく別の話だと押さえておきたいですね。
ここ、読み物としても面白い偶然だと思いますよ。
共通点③そろって新人王を受賞
3つ目の共通点は、2人がどちらも新人王に輝いているという事実です。
権藤正利さんは1953年に15勝12敗、防御率2.77の成績で球団初の新人王を獲得しました。
35試合に登板して13完投、220回3分の2を投げるという働きぶりでした。
一方の権藤博さんは1961年に35勝19敗、防御率1.70で新人王に選ばれています。
同じ年に最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、沢村賞、ベストナインまで獲得しました。
下記の表は、2人の新人年の成績を並べたものです。
| 項目 | 権藤正利(1953年) | 権藤博(1961年) |
|---|---|---|
| 所属球団 | 大洋松竹ロビンス | 中日ドラゴンズ |
| 登板 | 35試合 | 69試合 |
| 成績 | 15勝12敗 | 35勝19敗 |
| 投球回 | 220回3分の2 | 429回3分の1 |
| 完投・完封 | 13完投・1完封 | 32完投・12完封 |
| 奪三振 | 170 | 310 |
| 防御率 | 2.77 | 1.70 |
| 受賞 | 新人王 | 新人王・沢村賞ほか |
同じ球団の新人王ではないのに、経歴の見出しだけが似通っているのが分かりますよね。
どちらも1年目から主戦として投げ抜いた、いわゆる即戦力タイプの投手でした。
新人王という肩書きが2人に共通していることが、同一視を招いた一因になっています。
経歴を斜め読みすると、同じ家から2人の新人王が出たように見えてしまうわけです。
共通点④同時代のセ・リーグ投手
4つ目の共通点は、2人が同じ時代の同じリーグで投げていたことです。
権藤正利さんは1953年から1963年まで大洋に在籍し、1965年から1973年までは阪神でした。
権藤博さんは1961年に中日へ入団し、1968年に現役を終えています。
つまりセ・リーグの舞台に、2人の権藤が同時に立っていた時期が存在したのです。
新聞の試合結果欄に権藤という名前が並ぶ日も、当然あったことになりますよね。
当時は選手名鑑も今ほど整っておらず、読者が取り違えても確認する手段は限られていました。
同じ姓・同じ県・同じ新人王・同じリーグという4つの偶然が積み重なっています。
下記の表で、共通点と相違点を対比して整理してみます。
| 観点 | 共通している点 | はっきり違う点 |
|---|---|---|
| 名前 | どちらも権藤姓 | 正利と博で下の名前は別 |
| 出身 | 佐賀県鳥栖に縁がある | 出身校は柳川商業と鳥栖高 |
| 実績 | そろって新人王を受賞 | 通算117勝と通算82勝 |
| 時代 | セ・リーグで同時期に登板 | プロ入りは8年差 |
| 投球 | 先発の柱として起用 | 左投げと右投げで正反対 |
| 血縁 | 記録は存在しない | 戸籍上のつながりも不明 |
こうして対比すると、重なっているのは表面的な肩書きだけだと見えてきます。
中身を一つずつ確かめれば、2人はまったく別のタイプの投手だったと分かりますよ。
次の見出しでは、その原点になった鳥栖という土地の話を掘り下げます。
佐賀県鳥栖という共通の原点
ここでは、2人が育った鳥栖という土地と、そこからの進路を整理します。
同じ町から出発した2人が、どこで別の道に分かれたのかが見えてきますよ。
鳥栖で中学を出た権藤正利
権藤正利さんの野球人生は、思いがけない大けがから始まっています。
5歳のとき、果物ナイフで竹とんぼを作っていて左手人差し指の先端を1センチあまりそぎ落としてしまいました。
さらに幼い時期には小児麻痺も患っており、野球どころではない状態だったと伝えられています。
ところがこの指のけがが、のちに武器となる変化球を生んだと言われるようになりました。
50センチは落ちると評されたドロップカーブが、権藤正利さんの代名詞になったのです。
ただし本人は、親指と中指で投げているのでけがとは関係ないと否定しています。
この冷静な否定の仕方も、職人気質の投手らしいところですよね。
鳥栖で中学を卒業したあと、権藤正利さんは福岡県の柳川商業高校へ進みました。
高校時代は九州の三振奪取王と騒がれる本格派左腕に成長しています。
低めの速球を2つ投げ込んで決め球のカーブを落とせば、たいていの高校生は三振したと評されました。
甲子園の土を踏むことはできませんでしたが、その実力はプロのスカウトに知られていました。
一方で阪神のスカウトは、左手が曲がっていることを理由に最終的に採用を見送っています。
結果として1953年、権藤正利さんは大洋松竹ロビンスへ入団することになりました。
のちに阪神のユニホームを着ることになるのですから、縁というのは不思議なものですよ。
鳥栖高校から巣立った権藤博
権藤博さんの出発点は、地元の佐賀県立鳥栖高校でした。
高校卒業の時点で、練習に参加していた西鉄ライオンズから誘いを受けています。
当時の西鉄は日本シリーズを連覇した黄金期の球団で、普通なら迷わず飛び込む誘いでした。
ところが権藤博さんは、この話を断って社会人野球の道を選びました。
進んだ先は久留米のブリヂストンタイヤという、九州の有力チームです。
社会人1年目は体力づくりに徹し、毎日走り込みを続ける日々だったと伝えられています。
3年目になるとほとんど打たれなくなり、投手として一段上の存在になりました。
4年目には延長10回を無失点で投げ切る快投を見せ、一躍全国に名前が知れ渡ります。
この社会人時代の4年間が、のちの驚異的な稼働を支える土台になりました。
1961年に中日ドラゴンズへ入団したときには22歳になっていました。
高校から直接プロへ進んだ権藤正利さんとは、ここで歩みがはっきり分かれています。
同じ町の出身でも、選んだ道筋はまったく別だったわけですよ。
社会人を経た回り道が、結果として即戦力の完成度につながったとも言えます。
ブリヂストンタイヤでの4年間は、肩を作る時間としても大きな意味を持っていました。
高校卒業と同時にプロの連投に巻き込まれなかった点は、幸運だったと見ることもできますよ。
高校進路が分けた2人の歩み
下記の表は、2人が歩んだ進路を時系列で並べたものです。
| 時期 | 権藤正利の歩み | 権藤博の歩み |
|---|---|---|
| 幼少期 | 指の大けがと小児麻痺を克服 | 小学3年で父親と死別 |
| 中学時代 | 鳥栖で中学を卒業 | 鳥栖で少年期を過ごす |
| 高校時代 | 柳川商業で三振奪取王と評判 | 鳥栖高校でエースに成長 |
| 卒業時 | 阪神は採用を見送る | 西鉄の誘いを断る |
| 卒業後 | 1953年に大洋松竹へ入団 | ブリヂストンタイヤへ入社 |
| プロ入り | 18歳で高卒入団 | 22歳で社会人から入団 |
| 1年目 | 15勝で球団初の新人王 | 35勝で新人王と沢村賞 |
表にすると、同じ鳥栖から出発して進路が枝分かれしていく流れがよく分かりますよね。
権藤正利さんは高校を出てすぐプロの世界に飛び込み、19歳で開幕投手まで任されました。
対する権藤博さんは社会人で4年を過ごし、心身を鍛えてからプロの門をくぐっています。
プロ入り時の年齢差は4歳で、この差がキャリアの形にも影響しました。
若くして酷使された権藤正利さんは、20代半ばで一度は引退を考えるまで追い込まれます。
完成された状態で入った権藤博さんは、最初の2年で球史に残る数字を残しました。
どちらが良い進路だったとは言えませんが、対照的な選択だったのは間違いありません。
同じ鳥栖の空の下で野球を覚えた2人が、まったく違う入口からプロの世界に入ったわけです。
鳥栖という土地が生んだ偶然
ここでは、2人を生んだ鳥栖という町について少し触れておきます。
鳥栖は佐賀県の東端にあり、福岡県の久留米市や小郡市と隣り合う位置にあります。
鹿児島本線と長崎本線が分岐する鉄道の要衝として発展してきた町です。
人の行き来が盛んな土地柄で、九州北部の野球文化が自然に流れ込む環境でもありました。
同じ町から4歳差で2人の新人王投手が育ったという事実は、それ自体がかなり珍しい話です。
戦後の九州は社会人野球も盛んで、企業チームが若い選手を鍛える受け皿になっていました。
権藤博さんが進んだブリヂストンタイヤも、その代表的なチームの一つです。
一方で権藤正利さんは、県境を越えた柳川商業で腕を磨きました。
同じ町に生まれても、当時から選手の進路は多方向に開かれていたわけですよ。
地元の人にとっては、どちらも誇らしい郷土の投手だったことでしょう。
血縁ではなく土地のつながりが2人を結んでいたと考えるのが、いちばん自然な見方です。
鳥栖という共通点があったからこそ、兄弟説がここまで根強く残ったとも言えますね。
この偶然の重なりを知ると、2人の関係がぐっと理解しやすくなるはずですよ。
土地の縁という説明なら、資料の裏づけがある範囲で語れるという点も大切なところです。
家族の記録に兄はいるのか
ここでは、公表されている家族の情報から兄弟説を確かめます。
家族の話がどこまで語られてきたかを知れば、記録の空白の意味も見えてきますよ。
小学3年で父親を亡くした家庭
結論から言うと、権藤博さんの家庭環境については比較的よく語られています。
小学3年生のときに父親を病気で亡くしているという事実が、繰り返し伝えられてきました。
その後は母親が女手ひとつで子どもを育てる、いわゆる母子家庭で育っています。
戦後間もない時期の佐賀で、母親一人が家計を支えた苦労は想像に難くありませんよね。
高校卒業時に西鉄の誘いを断って社会人野球を選んだ判断にも、家庭の事情が重なっていたと見られます。
企業チームに入れば給料をもらいながら野球を続けられるという現実的な選択でした。
母親の存在感は、その後の人生にもはっきり表れています。
プロ入り直後に交際していた相手との結婚話が持ち上がった際、母親が猛反対したと伝えられているのです。
家庭の決定に母親の意向が強く働いていた様子がうかがえますよ。
こうした家族の話が繰り返し語られてきたこと自体が、今回の検証では重要な材料になります。
父親の死や母親の反対といった踏み込んだ内容まで伝えられているわけです。
それなのに、兄弟に関する記述だけがぽっかり抜け落ちています。
語られていないのではなく、語るべき兄弟がいなかったと読むほうが筋が通りますよね。
家族について語る機会が多かったからこそ、この空白は意味を持ってきます。
公表されている家族は妻と娘
権藤博さんの家族として記録に残っているのは、妻と2人の娘です。
下記の表は、公表されている範囲の家族情報をまとめたものです。
| 続柄 | 公表されている内容 | 補足 |
|---|---|---|
| 父親 | 本人が小学3年のときに病死 | 名前や職業は非公表 |
| 母親 | 女手ひとつで本人を育てる | 結婚話に反対した逸話あり |
| 兄弟 | 記録が見当たらない | 兄弟に関する言及なし |
| 妻 | 1964年に結婚した一般女性 | 名前も顔写真も非公表 |
| 娘 | 2人の娘がいる | 次女は権藤嘉江子 |
結婚したのはプロ入り4年目の1964年で、出会いは社会人野球の時代とされています。
妻については名前も顔写真もいっさい公表されていません。
野球については雄弁に語る一方で、家庭については徹底して語らない姿勢を貫いてきました。
娘のうち次女の権藤嘉江子さんは1968年12月5日生まれで、ビジネスの世界で活躍している人物です。
外資系企業の社長を務めた経歴を持ち、複数の企業で社外取締役などを担ってきました。
家族の情報として確認できるのは、おおむねこの範囲にとどまります。
父母と妻と娘という家族の輪の中に、兄弟の姿は出てきません。
妻や娘については語られているのに、兄弟だけが空欄のまま残されている形です。
家族を扱った記事が複数出ている人物で、ここまで兄弟の情報がないのは珍しいことですよ。
兄がいれば語られているはず
ここで、少し視点を変えて考えてみましょう。
仮に権藤正利さんが実の兄だったとしたら、どんな記録が残っていたでしょうか。
プロ野球に兄弟で入ることは、それだけで大きな話題になる出来事です。
球団の広報も新聞記者も、兄弟の対決という切り口を見逃すはずがありませんよね。
実際に球史には兄弟で活躍した例がいくつもあり、そのたびに特集が組まれてきました。
ところが2人の権藤については、兄弟を前提にした記事がまったく見当たりません。
同じリーグに在籍していた時期にも兄弟対決として扱われた記録はないのです。
これは兄弟ではないと考える、かなり強い根拠になります。
さらに権藤博さんは、自身の生い立ちを語る機会が多い人物でした。
選手寿命や登板過多について問われるたび、少年期からの経験を交えて話しています。
母子家庭で育った話を何度も口にしながら、兄の存在に触れたことは一度もありません。
語られてこなかった空白こそが、答えを示していると受け取れますよね。
ここは推測ではなく、記録の有無から確認できる話だと押さえておいてください。
兄弟で同じ球界にいたなら、どちらかのインタビューで一度は話題になるはずですよね。
長く解説者を務めてきた人物であることを考えると、なおさら触れられる機会は多かったはずです。
権藤正利の家族に関する記録
では、権藤正利さんの側の家族情報はどうなっているのでしょうか。
こちらは権藤博さんよりもさらに情報が少ない状態です。
球団の記録をまとめた選手名鑑には、投球内容や逸話が細かく書き残されています。
5歳のけがの話や、ご飯に砂糖を大さじ3杯かけるほどの甘党だった話まで載っています。
枕元に常にキャラメルやお菓子を置き、水に砂糖を山ほど入れて飲んでいたという内容です。
それが原因で重い胃下垂になり、まともにご飯が食べられなくなったとも記されています。
ここまで細かな私生活が残されているのに、家族構成の記載はありません。
唯一家庭につながる記録は、1957年に連敗を止めた直後のインタビューです。
そこで権藤正利さんは、自信を取り戻した心境とともに婚約したことを語っていました。
連敗という重圧から解放された時期と、人生の節目が重なっていたわけですよ。
ただし相手の情報や結婚後の家庭については、やはり公表されていません。
当時のプロ野球選手は、私生活が細かく報じられる環境にはありませんでした。
双方の家族情報を突き合わせても、2人がつながる記述は出てこないという結論になります。
ここ、気になるポイントだと思うので、新しい情報が出てくれば今後も追いかけていきます。
名前の混同はなぜ起きたのか
ここでは、混同が今も続いている理由と、2人を見分けるコツを整理します。
覚え方まで押さえてしまえば、もう取り違えることはなくなりますよ。
権藤、権藤、雨、権藤の浸透
混同の最大の引き金になったのは、あまりに有名なあのフレーズです。
権藤、権藤、雨、権藤という言葉は1961年に生まれました。
中日に入団した権藤博さんが、雨天中止を挟みながら連日のように登板し続けた状況を表した言葉です。
この言葉を生み出したのは、当時の読売新聞の記者だと伝えられています。
雨、雨、権藤、雨、権藤と続ける言い回しもあり、流行語として広く定着しました。
実際に1961年7月には、雨天順延を挟みながら先発と救援を繰り返す日程が組まれています。
この一句があまりに有名になった結果、権藤という姓は博さんのものとして記憶されました。
先にプロの世界で名を上げていたのは、8年早く入団した権藤正利さんのほうです。
それでも後から出てきた強烈なフレーズが、記憶の順番を逆転させてしまいました。
野球史に詳しくない人に権藤正利の名を出すと、雨権藤の人かと聞き返されると専門媒体も記しています。
つまり専門家の側も、取り違えられる前提で説明を始めているわけですよ。
フレーズの力が、ここまで人物像を上書きしてしまった例はそう多くありません。
ここ、言葉の影響力という意味でも面白いところだと思います。
一つのフレーズが、同姓の別人の記録まで覆い隠してしまった例だと言えますよ。
B面に回った権藤正利の記録
野球史を扱う専門媒体は、2人の関係を独特の表現で説明しています。
権藤正利さんのことを、昔のシングルレコードで言えばB面のカップリング曲のイメージだと書いているのです。
そしてそのB面曲が隠れた名曲だったりするものだ、と続けていました。
たしかに権藤博さんが入団2年で65勝を挙げ、指導者としても成功して野球殿堂入りしたのは事実です。
華やかさという点では、どうしても権藤博さんのほうが前に出ます。
一方の権藤正利は21年という長い現役生活を送った投手でした。
28連敗という不名誉な記録で語られがちですが、通算117勝という数字も残しています。
最優秀防御率のタイトルも獲得しており、実力は疑いようがありません。
それでも球史の表舞台では、同姓の後輩に光を譲る形になりました。
B面という比喩は、記録の価値ではなく知名度の差を表した言葉です。
この構図を知っておくと、なぜ2人の情報量に差があるのかも納得できますよね。
検索しても権藤正利さんの情報が少ないのは、そもそも語られる場が限られていたからです。
隠れた名曲を掘り起こすような気持ちで読むと、記録の見え方も変わってきますよ。
知名度の差は実力の差ではないという視点を持つと、球史の読み方も深くなります。
同姓の2人を区別する覚え方
ここでは、2人をすっきり区別するための早見表を用意しました。
下記の表は、迷ったときに見分ける手がかりをまとめたものです。
| 見分ける項目 | 権藤正利の場合 | 権藤博の場合 |
|---|---|---|
| 利き腕 | 左投げ | 右投げ |
| 代表的な記録 | 28連敗の日本記録 | 1年目に35勝 |
| 有名な呼び名 | 懸河のドロップ | 権藤、権藤、雨、権藤 |
| 主な所属 | 大洋と阪神 | 中日のみ |
| 監督経験 | なし | 横浜で日本一 |
| 野球殿堂 | 入りはしていない | 2019年に殿堂入り |
| 実働年数 | 21年の長いキャリア | わずか5年で引退 |
いちばん簡単なのは、左投げなら正利、右投げなら博と覚える方法です。
記録で覚えるなら、連敗が正利で35勝が博という対比が分かりやすいですよ。
雨権藤というフレーズが出てきたら、それは必ず権藤博のことです。
監督として日本一になったのも、野球殿堂入りを果たしたのも権藤博さんだけです。
逆に21年という長い現役生活を送ったのは権藤正利さんのほうです。
この3つだけ押さえておけば、資料を読むときに迷うことはなくなります。
覚え方が整理できると、球史の読み物としても一気に面白くなりますよね。
古い記事で権藤という表記だけを見かけたときは、年度と球団名を確認するのが近道です。
1961年から1963年の記事なら、どちらの可能性もあると考えておくと間違いが減りますよ。
混同が今も続いている理由
最後に、なぜ今も混同が続いているのかを整理しておきます。
検索窓に権藤正利と入力すると、権藤博と兄弟かという関連語が並びます。
この関連語が表示されること自体が、同じ疑問を持つ人が多い証拠ですよね。
2人が活躍した1950年代から1960年代の資料は、ネット上に十分に整理されていません。
当時の新聞や雑誌は電子化されていないものも多く、確認の手間がかかります。
断片的な情報だけが残ると、推測が事実のように広まってしまうわけです。
加えて権藤正利さんは、引退後の動向がまとまった形で伝えられていません。
情報の空白は、噂が入り込みやすい隙間になります。
一方の権藤博さんは解説者として長く活動し、発言が記事として残り続けました。
片方の情報だけが増え続けた結果、2人の輪郭がますます混ざってしまったのです。
混同の原因は血縁ではなく、資料の偏りにあると考えると筋が通りますよ。
だからこそ、記録を一つずつ並べて確認する作業に意味があります。
次の見出しからは、2人が実際に残した記録を正面から比べていきます。
権藤正利と権藤博の関係|記録で比べる球歴
- 権藤正利の28連敗という記録
- 【35勝】権藤博のルーキー年
- 2人の通算成績を比べる
- 同じリーグで投げ合った4年
- 引退後に分かれた2人の道
権藤正利の28連敗という記録
ここでは、権藤正利さんの名前を球史に刻んだ連敗記録を追いかけます。
数字の裏にある投球内容まで見ると、単なる不運では片づけられない事情が見えてきますよ。
連敗が始まった1955年7月9日
権藤正利さんの代名詞になっているのが、プロ野球史に残る連敗記録です。
3シーズンにまたがる28連敗は、今も破られていない日本記録です。
その悪夢は、新人王から2年後の1955年に始まりました。
この年の4月30日、中日戦で杉山悟にサヨナラ安打を打たれて敗戦投手になります。
そこから11連敗を記録し、すでに歯車が狂い始めていました。
6月18日の巨人戦では、理不尽な判定にも見舞われています。
二塁三塁のピンチでスクイズを見破り、わざと外すウエストボールを投げた場面でした。
ところが投球が手を離れる前に捕手がキャッチャーボックスの外に出てしまいます。
当時のルールでは投手にボークが記録され、失点まで背負う結果になりました。
その後7月に国鉄戦でリリーフして無失点に抑え、ようやく11連敗を止めています。
このとき相手の投手を務めていたのは、あの金田正一でした。
ところが数日後の7月9日、熊谷球場での広島戦が運命の分かれ道になります。
4対4で迎えた7回から登板し、白石に勝ち越し打を浴びて敗戦投手になりました。
翌日の広島戦でも9回から4イニングを投げ、延長12回につかまって2日連続の黒星です。
ここから権藤正利さんは、まるで何かに取りつかれたように勝ち星から見放されていきました。
0勝13敗に終わった1956年
連敗の歯車は、翌1956年にさらに加速しました。
3月22日の中日戦では9回まで抑えながら、児玉利一にサヨナラ安打を浴びて敗戦投手です。
4月12日の阪神戦でも8回を1失点に抑えましたが、味方打線が2安打零封で勝ちは消えました。
自分の投球内容とは無関係に負けが積み上がる、きつい展開が続きます。
6月10日の広島戦では、当時の日本タイ記録となる18連敗に到達しました。
6月17日の国鉄戦では、5対1とリードした中盤から登板させる温情采配が組まれます。
ところがスリーランを浴び、押し出しの死球と牽制の悪送球まで重なって逆転されました。
こうして日本新記録となる19連敗が記録されてしまったのです。
結局この年は1勝も挙げられず、0勝13敗という数字でシーズンを終えました。
それでも防御率は4.03で、極端に打ち込まれていたわけではありません。
当時の大洋はチーム打率が2割1分にも届かない貧打で、1点に抑えても勝てない状況でした。
肩の痛みも抱えており、当時の記事には夜遊びが度を越えたような記述まで残っています。
前年から数えた連敗は21に達し、シーズン13連敗はリーグ記録になりました。
同じ年、明治大学から入団した秋山登が25勝25敗で新人王に輝いています。
世界記録を超えた1957年
3年目となる1957年、権藤正利さんは21連敗を背負ったままシーズンに入りました。
4月11日の巨人戦で敗れたとき、記録はついに世界の領域に踏み込みます。
当時の世界記録だったクリフ・カーティスの23連敗を更新し、24連敗となったのです。
そして6月2日、甲子園での阪神戦に先発して敗戦投手となりました。
この時点で開幕から7連敗、通算では28連敗という数字に達しています。
周囲では、記録が途切れるより先に引退するのではないかとまで囁かれていました。
本人の心境を思うと、言葉が出てこないほどの重圧だったはずですよね。
ここで押さえておきたいのが、連敗の前後も含めた通算の数字です。
28連敗が始まる前にも、1勝を挟んで11連敗という大型連敗を記録していました。
この期間を通した成績は1勝39敗という凄まじいものでした。
それでも防御率は3点台から2点台で推移しており、崩壊していたわけではありません。
貧打のチーム事情と不運が、数字を極端な方向へ押し上げた構図が見えてきます。
記録だけを見て力のない投手だと判断すると、実像を見誤ってしまいますよ。
当時の大洋は投手を援護できる打線ではなく、1点を守り抜く戦い方しかできませんでした。
七夕に止まった3年越しの連敗
運命が動いたのは、1957年7月7日の巨人戦でした。
先発した権藤正利さんは、3回裏に自ら先制タイムリーを放ちます。
これで目を覚ました打線も奮起し、4点を奪って援護しました。
マウンドでは2度のピンチを切り抜け、9回を投げ切ります。
巨人打線を4安打に抑える完封勝利で、3年越しの連敗が止まりました。
勝利の瞬間、大洋の選手たちがマウンドに駆け寄って総出で胴上げしています。
負けた巨人のベンチからも拍手が送られたと伝えられていますよ。
ベンチに戻った権藤正利さんは、その場に泣き崩れました。
ここ、何度読んでも胸に来る場面だと思います。
憑き物が落ちたように、後半戦は11勝10敗という成績で乗り切りました。
最終的にこの年は12勝17敗で、3年ぶりの二桁勝利を達成しています。
シーズン終盤のインタビューでは、投球に対する考え方も語られました。
「球威というのは紙一重だと思う。同じボールを投げても、自信をもって投じたのは威力がある」という言葉です。
迷いながら投げた球は打たれるという実感が、連敗の日々から導き出されていました。
この時期には婚約したことも語っており、人生の節目が重なった年でもありました。
連敗が止まったあとの投球は、速球とドロップにカーブとシュートを加えた形に変わりました。
連敗の流れを時系列で整理
下記の表は、連敗が始まってから止まるまでの流れをまとめたものです。
| 時期 | 出来事 | 連敗数の推移 |
|---|---|---|
| 1955年4月30日 | 中日戦でサヨナラ負け | ここから11連敗 |
| 1955年7月 | 国鉄戦の救援で11連敗を止める | いったん連敗が切れる |
| 1955年7月9日 | 熊谷球場の広島戦で敗戦 | 28連敗の起点 |
| 1955年終了時 | 3勝21敗で最多敗 | 8連敗でシーズン終了 |
| 1956年6月10日 | 広島戦で日本タイ記録に到達 | 18連敗 |
| 1956年6月17日 | 国鉄戦で逆転を許す | 19連敗で日本新記録 |
| 1956年終了時 | 0勝13敗でシーズンを終える | 通算21連敗 |
| 1957年4月11日 | 巨人戦で世界記録を更新 | 24連敗 |
| 1957年6月2日 | 甲子園の阪神戦で敗戦 | 28連敗に到達 |
| 1957年7月7日 | 巨人戦で4安打完封勝利 | 連敗ストップ |
表にすると、3シーズンにわたって記録が積み上がった経緯がはっきり分かりますよね。
1955年の途中から1957年の7月まで、実に2年間も勝ち星から遠ざかっていたことになります。
その間も先発を任され続けていた点が、当時の起用法を物語っています。
登板機会を奪われなかったからこそ、連敗記録も伸びていったという皮肉な構図です。
この記録は、投手個人の能力だけでは説明できない時代の空気も含んでいますよ。
【35勝】権藤博のルーキー年
ここでは、権藤博さんが1年目に残した数字を細かく確認します。
現代の感覚で読むと信じられない記録なので、比較しながら整理していきますね。
429回を投げた1961年
結論から言うと、権藤博さんの1年目は球史に例のない働きぶりでした。
1961年、中日に入団したルーキーは69試合に登板しています。
投球回は429回3分の1で、シーズン最多投球回のセ・リーグ記録です。
成績は35勝19敗、防御率1.70、奪三振310という数字でした。
32完投に12完封という内容も含まれており、ほとんど休みがない日程です。
この年の権藤博さんは、新人王と最多勝、最優秀防御率、最多奪三振を獲得しました。
さらに沢村賞とベストナインまで受賞し、投手部門の賞を総なめにしています。
連日のように先発と救援を繰り返す姿から、あの有名なフレーズが生まれました。
前述の通り、権藤、権藤、雨、権藤という言葉は、この年の登板状況を表したものです。
現代のエースの規定投球回は143回で、権藤博の429回は約3倍にあたります。
最多勝のラインが13勝から16勝あたりの時代から見ると、35勝という数字は別世界ですよね。
この記録以降、年間35勝以上を挙げた投手は現れていません。
分業制が確立された今の野球では、更新の余地がない記録になりました。
先発44試合と完了20試合という内訳も、現代では考えられない組み合わせです。
この1年だけで、現代の先発投手3人分に近い回数を投げ切ったことになりますよ。
2年で65勝という稼働
驚くべきことに、権藤博さんの稼働は1年で終わりませんでした。
2年目の1962年も61試合に登板し、362回3分の1を投げています。
成績は30勝17敗、防御率2.33、奪三振212という内容でした。
23完投を記録しており、相変わらず完投前提の起用が続いています。
1年目と2年目を合わせると65勝、投球回は791回3分の1になりました。
2年続けて最多勝を獲得し、球界を代表する存在になっていました。
この時期の中日は、権藤博さんの登板計算を軸に戦っていたと言ってもいいほどです。
本人は後年、当時の空気についてはっきりとした言葉を残しています。
「時代も違うんですよ。我々が投げてる時は、監督はみんな戦争帰りの人ばっかりなんですよ」という回想です。
肘が痛いと訴えれば、たるんどる、命までは取られはせんのひと言で返されたと語っています。
精神論で片づけられてしまう時代だったわけですよ。
そういうことは今はもう通用しないと、権藤博さん自身が明言しています。
この実体験が、のちの指導者としての哲学につながっていきました。
連投を当たり前とする空気の中で、本人は痛みを訴える選択肢すら持てませんでした。
投げられるうちに投げるという発想が、球界全体を覆っていた時代だったわけです。
権藤博のプロフィール表
ここで、権藤博さんの基本情報を表で確認してみましょう。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 権藤博(ごんどう ひろし) |
| 生年月日 | 1938年12月2日 |
| 2026年10月30日現在の年齢 | 87歳 |
| 出身地 | 佐賀県鳥栖市 |
| 出身校 | 佐賀県立鳥栖高校 |
| 社会人野球 | ブリヂストンタイヤ |
| 投打 | 右投右打 |
| ポジション | 投手・三塁手 |
| 在籍球団 | 中日(1961年から1968年) |
| 通算成績 | 210試合82勝60敗・防御率2.69 |
| 主なタイトル | 最多勝2回・最優秀防御率・最多奪三振 |
| 監督歴 | 横浜(1998年から2000年) |
| 野球殿堂 | 2019年に競技者表彰で入り |
投手として210試合に登板し、82勝60敗という通算成績を残しました。
奪三振は667、防御率は2.69という数字です。
注目したいのは、ポジションに三塁手が併記されている点ですよね。
打者としても通算483試合に出場し、214安打18本塁打を記録しています。
投手として投げられなくなった時期に、打者として生き残ろうとした証拠です。
この経歴の幅は、権藤正利さんとの大きな違いでもあります。
監督歴として横浜の3年間が記録されている点も、権藤正利さんには見られない項目です。
野球殿堂入りの区分が競技者である点も、現役時代の評価の高さを示しています。
野手転向と31歳での引退
驚異的な2年間の代償は、3年目から一気に表れました。
1963年は45試合に登板して10勝12敗、防御率は3.83まで悪化します。
1964年には26試合で6勝11敗、防御率4.20という成績でした。
右肩の痛みに苦しみ、球威が急速に落ちていったのです。
1965年には内野手へ転向し、投手としてのマウンドを一度離れました。
1965年は81試合、1966年は74試合、1967年は107試合に出場しています。
三塁手として試合に出続けたわけで、野球選手としての執念が伝わってきますよね。
1968年には投手として9試合に登板しましたが、防御率は11.00でした。
そしてこの年、権藤博さんは現役を終えることになります。
投手としての実働はわずか5年、31歳の若さで選手生命は終わりました。
華々しいデビューをした投手が、あまりに早く散った形です。
この落差は、現代でも投手起用を語るときに必ず引き合いに出されます。
21年間投げ続けた権藤正利さんとは、まさに対照的なキャリアでした。
1967年には107試合に出場しており、野手としても戦力になっていたことが分かります。
それでも本職の投手として戻れなかった事実は、酷使の重さを物語っていますよね。
短命の理由を語った本人の言葉
では、権藤博さん自身は選手生命の短さをどう捉えていたのでしょうか。
この点について、本人は意外な見方を示しています。
2年間の登板過多が選手寿命を縮めたのではないかと問われた場面がありました。
そこで権藤博さんは、当時の監督を批判することなく冷静に答えています。
「誰かが手を差し出したからといって、選手寿命は延びるようなものでありませんよ」という言葉です。
むしろ我慢して使い続けることが監督には必要だと説いていました。
中5日や6日をもらった投手が100球投げて3点取られたからと簡単に降板させれば、育つものも育たないという理屈です。
そして自身のキャリアについて、核心を突く説明をしています。
1年目と2年目に30勝を挙げられたのは、気持ちよくプレーさせてもらえたからだと振り返りました。
ところが3年目からは、少し打たれるとすぐに交代させられるようになります。
抑えようとするあまり投球に無理が生じ、10勝どまりになってしまいました。
4年目からは勝てないから余計に無理をして、体を痛めたと語っています。
「結局、短命で終わったのは登板過多が原因ではない。気持ちよく投げることができなくなったからです」という結論でした。
この原体験こそが、指導者としての権藤博を作った土台になっています。
2人の通算成績を比べる
ここでは、2人が残した通算の数字を正面から並べてみます。
数字を比べると、同じ姓でもまったく違う野球人生だったことがはっきりしますよ。
通算成績の比較表
下記の表は、2人の通算成績を項目ごとに並べたものです。
| 項目 | 権藤正利 | 権藤博 |
|---|---|---|
| 実働年数 | 21年 | 5年 |
| 登板数 | 719試合 | 210試合 |
| 勝敗 | 117勝154敗 | 82勝60敗 |
| 完投 | 84完投 | 67完投 |
| 投球回 | 2513回 | 1136回 |
| 奪三振 | 1943 | 667 |
| 防御率 | 2.78 | 2.69 |
| 主なタイトル | 最優秀防御率1回 | 最多勝2回など4冠 |
| 日本記録 | 28連敗 | セ記録の429回1/3 |
勝ち星では権藤正利さんが117勝で上回っています。
一方で防御率は2.78と2.69で、ほとんど差がありません。
21年かけて積み上げた数字と、5年で駆け抜けた数字が並んでいるのが興味深いところです。
奪三振は1943と667で大きな差がありますが、これは登板数の違いによるものです。
完投数は84と67で、どちらも完投を前提に投げていた時代の投手だと分かります。
数字の性格がこれだけ違うのに、同一視されてきたのは不思議なことですよね。
投球回では2513回と1136回で、2倍以上の開きがあります。
登板数も719試合と210試合で、3倍以上の差がついています。
それでも防御率がほぼ並んでいるのは、どちらも質の高い投球をしていた証拠です。
数字の大小ではなく、性格の違いとして読むのがいちばん正確だと思いますよ。
21年と5年という実働差
2人のキャリアで最も大きな違いは、やはり実働年数です。
権藤正利さんは1953年から1973年まで、21年にわたって現役を続けました。
719試合に登板し、2513回を投げ切った数字は長期戦の証です。
その中には0勝13敗の年も、12勝5敗で防御率1.42を記録した年も含まれています。
どん底から復活を繰り返した、起伏の激しいキャリアでした。
対する権藤博の投手生活はわずか5年で終わっています。
最初の2年に65勝を集中させ、残りの3年で17勝という内訳でした。
短期間に燃焼し尽くした形で、まさに線香花火のようなキャリアです。
この差があるからこそ、2人の知名度の形も違ってきました。
権藤博さんは1年目の衝撃で名前が刻まれ、権藤正利さんは記録の積み重ねで名前を残しました。
短く太い線と、長く細い線という違いだと言い換えてもいいかもしれません。
どちらも簡単に真似できないキャリアであることは間違いありませんよ。
21年という実働は、当時のプロ野球では20年選手の表彰対象になる長さでした。
権藤正利さんは1973年までマウンドに立ち続け、通算719試合に登板しています。
一方の権藤博さんは、最初の2年で同世代の投手の生涯分を投げてしまった形です。
獲得タイトルの違い
タイトルの数で見ると、権藤博さんのほうが派手な経歴になります。
1961年の新人王に加え、最多勝を1961年と1962年の2年連続で獲得しました。
さらに最優秀防御率と最多奪三振、沢村賞とベストナインも1961年に受賞しています。
1年で主要タイトルをまとめて獲ったわけで、強烈なインパクトを残しました。
では権藤正利さんにタイトルがなかったのかというと、そうではありません。
1967年には阪神で防御率1.40をマークし、最優秀防御率を獲得しています。
この年は40試合に登板し、9勝6敗という成績でした。
さらに惜しかったのが1960年の大洋時代です。
49試合で12勝5敗、防御率1.42という好成績を残しました。
この防御率は、タイトルを獲得した秋山登の1.75を上回っていました。
ところが当時の規定投球回182回に対して158回しか投げておらず、資格を満たしませんでした。
規定が改正された4年後であれば、タイトルは権藤正利さんのものでした。
こういうところまで運に恵まれなかったのが、このひとの野球人生らしいところです。
規定投球回に届かなかった理由も、リリーフ中心の起用だったことによるものでした。
三原脩監督の判断でリリーフに回ったことが、復活と同時にタイトルを遠ざけたわけですよ。
名球会と野球殿堂という評価
最後に、2人の現役引退後の評価を整理しておきます。
名球会の入会資格は、投手であれば通算200勝以上とされています。
この基準に照らすと、117勝の権藤正利さんも82勝の権藤博さんも資格を満たしません。
通算勝利という一本の軸では、どちらも届かなかったわけです。
ところが評価の形は、ここから大きく分かれました。
権藤博は2019年に野球殿堂入りを果たしています。
選手としての突出した2年間に加え、指導者と監督としての功績が評価された結果です。
表彰の区分は競技者で、数字以上のレジェンドとして認められた形になりました。
一方の権藤正利さんは、野球殿堂入りはしていません。
残した記録は28連敗という日本記録と、通算117勝という数字です。
不名誉な記録のほうが先に語られてしまう点は、少し切ないところですよね。
ただ21年間マウンドに立ち続けた事実は、それだけで十分な価値があります。
評価の分かれ目を知ると、2人の球史での位置づけもすっきり整理できますよ。
名球会の基準は通算成績を重視するため、短期間の活躍は反映されにくい仕組みです。
野球殿堂はその人物が球界に与えた影響まで評価するため、指導者の功績も対象になります。
この違いが、2人の評価の形を分けた背景になっていますよね。
同じリーグで投げ合った4年
ここでは、2人が同じ舞台に立っていた時期を年単位で確認します。
同じリーグにいた事実を知ると、混同が起きた背景にもさらに納得できますよ。
重なったのは1961年から3年
結論から言うと、2人が投手として同じリーグにいた時期は限られています。
権藤正利さんは1953年から1963年まで大洋に在籍していました。
そこへ1961年、権藤博さんが中日に入団してきます。
つまり1961年から1963年までの3年間、2人はセ・リーグの投手として同時に在籍していました。
1961年の権藤正利さんは51試合に登板し、5勝6敗という成績でした。
同じ年に権藤博さんは69試合で35勝19敗を挙げています。
同じリーグで、同じ姓の投手が正反対の成績を残していたわけですよ。
1962年は権藤正利さんが68試合で8勝6敗、権藤博さんが61試合で30勝17敗でした。
2人の登板数を足すと、この年だけで129試合という数字になります。
1963年は権藤正利さんが39試合で1勝3敗、権藤博さんが45試合で10勝12敗です。
この年を最後に権藤正利さんは大洋を離れ、1964年は東映でプレーしました。
リーグが分かれたため、1964年には同じ舞台に立つ機会がなくなっています。
当時の新聞を読んだ人が混乱したのも、無理のない話だと思いますよ。
1961年の権藤博さんの登板数69試合は、権藤正利さんの51試合を上回っていました。
どちらも登板過多と言える起用で、投手を酷使する時代だったことが伝わってきます。
1968年にもう一度交差
2人の歩みは、1968年にもう一度だけ交わりました。
権藤正利さんは1965年に阪神へ移り、セ・リーグに戻っていました。
一方の権藤博さんは1965年から内野手として出場していた時期です。
そして1968年、権藤博さんは投手として9試合のマウンドに立ちます。
この年が、権藤博さんの現役最後のシーズンになりました。
同じ1968年、権藤正利さんは阪神で34試合に登板して5勝4敗という成績です。
投手としてセ・リーグに同時在籍した年は、この1968年を含めて4シーズンになります。
一方が去ろうとする年に、もう一方はまだ中継ぎとして投げ続けていました。
このすれ違いが、2人のキャリアの長さの違いを象徴していますよね。
権藤正利さんはこの後も5年間現役を続け、1973年まで投げました。
権藤博が引退した時点で、権藤正利はまだ阪神の戦力だったわけです。
同じ時代に生きた2人の時間軸は、きれいに重なっていたわけではありません。
権藤博さんが野手だった1965年から1967年は、権藤正利さんが阪神で主戦でした。
1965年の権藤正利さんは33試合で7勝6敗、1966年は41試合で4勝11敗という成績です。
同じ球団にいたことは一度もないため、チームメートになる機会もありませんでした。
同リーグ在籍年の一覧表
下記の表は、2人がどのリーグに在籍していたかを年ごとにまとめたものです。
| 年度 | 権藤正利の所属 | 権藤博の所属 |
|---|---|---|
| 1953年から1960年 | 大洋(セ・リーグ) | 社会人野球や学生時代 |
| 1961年 | 大洋(セ・リーグ) | 中日(セ・リーグ) |
| 1962年 | 大洋(セ・リーグ) | 中日(セ・リーグ) |
| 1963年 | 大洋(セ・リーグ) | 中日(セ・リーグ) |
| 1964年 | 東映(パ・リーグ) | 中日(セ・リーグ) |
| 1965年から1967年 | 阪神(セ・リーグ) | 中日で野手として出場 |
| 1968年 | 阪神(セ・リーグ) | 中日で9試合に登板 |
| 1969年から1973年 | 阪神(セ・リーグ) | 引退後の活動期 |
表で見ると、投手として重なった年が限られていたことがよく分かります。
1964年だけは権藤正利さんがパ・リーグに移っており、完全に別の舞台でした。
1965年から1967年は権藤博さんが野手だったため、投手対決は成立しません。
そう考えると、投手として同じリーグにいた時期はごく短かったことになります。
この短い重なりの中で、同姓の2人が同時に名前を呼ばれていたわけですよ。
当時の記録を読むときは、どちらの権藤なのか年度で見分けるのが確実です。
球団名まで確認すれば、取り違える心配はほぼなくなりますよ。
大洋や阪神なら正利、中日なら博という見方で整理できます。
1968年9月18日の天王山
権藤正利さんの名前が球史に残るもう一つの試合を紹介します。
それが1968年9月18日、同率首位で並んでいた巨人と阪神の一戦です。
巨人は金田正一、阪神はバッキーという先発で試合は始まりました。
1対0の巨人リードで迎えた4回表、2死二塁で王貞治が打席に立ちます。
バッキーの初球が頭部付近へ、続く球も膝付近へ投げ込まれました。
これに怒った王貞治がマウンドへ詰め寄り、巨人の荒川博コーチが走り込みます。
荒川コーチがバッキーにキックを入れ、バッキーも右ストレートで応酬する大乱闘になりました。
試合が再開されると、バッキーの後を受けてマウンドに上がったのが権藤正利さんです。
ところが権藤正利の投球が王貞治の後頭部を直撃してしまいました。
王貞治は担架で運ばれて退場し、再び乱闘が起きる空気になります。
ここで巨人の川上哲治監督は、権藤がそんなことをするはずがないと判断して選手を呼び戻しました。
死球を受けた王貞治も、権藤さんは狙っていなかったと思うと証言しています。
相手チームの監督と主砲が投手の人柄を信じたという、球史に残る場面でした。
続く打席の長嶋茂雄がカーブを振り抜いてスリーランを放ち、巨人が優勝へ突き進みます。
この死球は野球規則の規定により、バッキーの記録として処理されました。
直接の投げ合いは記録にない
ここで気になるのが、2人が投げ合った試合はあったのかという点です。
結論から言うと、両者の投げ合いを示す記録は確認できません。
同じリーグにいた3年間、どちらも登板機会は豊富にありました。
大洋と中日の対戦で両者が同じ試合に登板した可能性は十分にあります。
ただし公表されている資料の中に、権藤対権藤として語られた試合は見当たりません。
これも兄弟説が広まった背景を考えるうえで、重要な事実です。
兄弟であれば、同じ試合で投げ合った日は必ず記事になっていたはずですよね。
いわゆる兄弟対決は、当時のスポーツ紙が最も好む題材でした。
それが一行も残っていないという事実が、関係の薄さを物語っています。
2人の接点は、同じ県の出身という一点にとどまると考えるのが妥当です。
資料の空白を埋めようとして、推測が広がってしまったのでしょう。
当時のセ・リーグは6球団制で、大洋と中日は年間20試合以上対戦していました。
そのため同じ試合で両者がマウンドに上がった日があった可能性は否定できません。
ただし、それを兄弟対決として伝えた記事は一つも確認できないという点が重要です。
気になる人も多いはずなので、新しい資料が出てくれば今後も追記していきます。
引退後に分かれた2人の道
ここでは、2人がユニホームを脱いだあとの歩みを比べます。
引退後の道筋こそ、2人の違いがもっとも大きく表れた部分ですよ。
権藤正利が去った1973年
権藤正利さんの現役生活は、穏やかな形では終わりませんでした。
1973年5月、試合前に青田昇が金田正泰監督を取材していた場面がありました。
そこで監督は、タバコを持っていた権藤正利さんに向けて心ない言葉を投げます。
サルでもタバコを吸うんかという声をかけられたのです。
これに激怒した青田昇が監督を叱りつけ、江夏豊が権藤を監督から引き離しました。
その3か月後には、人前でなじられ続けていた鈴木皖武が監督を殴打する事件も起きています。
チームの空気がかなり荒れていたことが伝わってきますよね。
そしてさらに3か月後の11月23日、ファン感謝デーの日に決着の時が来ます。
権藤正利さんは江夏豊とともに監督室へ向かい、1対1で話したいと告げました。
しばらくすると部屋から監督の叫び声が聞こえ、コーチたちは飛び込もうとします。
それでも江夏豊は扉の前から動かず、室内の決着を待ちました。
江夏が部屋に入ったとき、監督は鼻血を流して部屋の隅でうずくまっていました。
納得したかと声をかけられた権藤正利さんは、うんと答えて監督室を後にします。
その後は二軍に落とされ、そのまま引退することになりました。
連盟から20年選手として表彰されるはずだった話も、これで消えてしまいました。
指導者として花開いた権藤博
対照的だったのが、権藤博さんの引退後の歩みです。
投手として5年で退いたあと、指導者として長いキャリアを築きました。
中日、近鉄、ダイエーの3球団で投手コーチを歴任しています。
近鉄では阿波野秀幸や吉井理人、野茂英雄といった投手を育てました。
吉井理人を抑え役に育て上げ、リーグ優勝に貢献した実績も残っています。
そして1997年に横浜のバッテリーコーチを務め、1998年には監督へ就任しました。
就任1年目でチームを38年ぶりのリーグ優勝と日本一に導いています。
切れ目のない打線はマシンガン打線と呼ばれ、日本中に横浜旋風を巻き起こしました。
石井琢朗や鈴木尚典、ローズや駒田徳広らが打ちまくる超攻撃的な野球でした。
権藤監督が掲げたのは、オトナの野球というスローガンです。
送りバントやエンドランのサインを極力出さず、打者の判断に委ねました。
投手陣では佐々木主浩を守護神に据え、無理な連投や回またぎを避けています。
投手の肩は消耗品であるという信念が、この分業制の土台になっていました。
自身が連投で選手生命を縮めた後悔を、後進を守る哲学に変えたわけですよ。
登板過多の防止と中6日のローテーション順守は、権藤博さんが徹底した原則の一つです。
解説者として続く発信
指導者としての歩みは、80代に入っても止まりませんでした。
2017年の第4回ワールド・ベースボール・クラシックでは、侍ジャパンの投手コーチを務めています。
当時78歳という年齢での国際舞台は、それ自体が異例の話です。
千賀滉大や菅野智之の登板間隔を管理し、千賀滉大は大会ベストナインに選ばれました。
そして2019年、権藤博は競技者表彰で野球殿堂入りを果たしました。
1938年12月2日生まれで、2026年10月30日現在の年齢は87歳です。
それでもテレビやラジオの解説者として、歯に衣着せぬ発言を続けています。
2024年4月29日の中日対DeNA戦では、守備の乱れを草野球並みと厳しく指摘しました。
この発言はネット上でトレンド入りし、正直すぎて好きという声が相次ぎました。
かつて自身が指揮したチームにも容赦しない姿勢が、支持されている理由です。
投手の心理や体の使い方がよく分かる解説だという評価も定着しています。
ヒーローインタビューが面白くないと苦言を呈し、技術を語ってほしいと訴えてもいます。
球界のご意見番として、球数制限や起用法への提言も続けていますよ。
沢村賞や先発投手の起用法についても、具体的な提言を発信しています。
引退後のキャリア年表
下記の表は、2人の引退後の歩みを時系列で整理したものです。
| 時期 | 権藤正利の動き | 権藤博の動き |
|---|---|---|
| 1968年 | 阪神で34試合に登板 | 中日で現役を引退 |
| 1973年 | 阪神を退団して引退 | 評論家として活動 |
| 1980年代 | まとまった記録は残らず | 中日や近鉄で投手コーチ |
| 1990年代 | 記録が語られる存在に | ダイエーを経て横浜のコーチ |
| 1998年 | 28連敗の記録が残り続ける | 横浜を38年ぶりの日本一へ |
| 2017年 | 球史の記録として語られる | WBCで侍ジャパン投手コーチ |
| 2019年 | 日本記録は未更新のまま | 野球殿堂入りを果たす |
表にすると、引退後の情報量の差がはっきり見えてきますよね。
権藤正利さんについては、引退後の動向がまとまった形で伝えられていません。
球史の記録としては語られますが、その後の歩みを追う資料は限られています。
この情報量の差が、2人の知名度の差をさらに広げました。
片方の発言だけが記事として積み上がれば、印象が偏るのも当然です。
混同が長く続いた理由の一つが、ここにもあると考えられますよ。
権藤博さんは62歳から73歳までを評論家として過ごし、74歳で評論の世界に戻りました。
中日の投手コーチを務めた時期もあり、現場と評論を行き来するキャリアになっています。
記録と哲学という2つの遺産
最後に、2人が球史に残したものを整理しておきます。
権藤正利さんが残したのは、28連敗という破られていない日本記録です。
加えて通算117勝、1943奪三振、21年という実働年数も記録に刻まれています。
1試合4死球や5者連続四球といったセ・リーグ記録も持っていました。
どれも簡単に真似できる数字ではありません。
一方の権藤博さんが残したのは、記録と同時に投手を守る哲学でした。
先発と中継ぎと抑えの完全分業、登板過多の防止、無駄な投げ込みの禁止という3原則です。
この考え方は、現代の投手運用の基礎として受け継がれています。
選手を管理して勝たせても選手は成長しないという言葉も残しました。
勝敗の責任は監督が取るが、戦う責任は選手自身にあるという考え方ですよ。
数字として残った記録と、仕組みとして残った哲学という違いがあります。
同じ姓を持つ2人が、まったく別の形で球史に名前を刻んだわけです。
権藤正利さんの記録は、不運と向き合い続けた投手がいた証として残り続けます。
権藤博さんの哲学は、投手の肩を守る仕組みとして今も球界に生きています。
兄弟ではなかったとしても、同じ土地から出た2人の歩みは読み物として十分に面白いですよね。
権藤正利と権藤博の関係の総まとめ
- 権藤正利と権藤博の兄弟説を裏づける記録は存在しない
- 2人はいずれも佐賀県鳥栖に縁がある同姓の投手である
- 権藤正利は1934年5月1日生まれで博より4歳年上
- 権藤博は1938年12月2日生まれの佐賀県鳥栖市出身
- 権藤正利は柳川商業高校から大洋松竹ロビンスへ入団した
- 権藤博は鳥栖高校から社会人野球を経て中日へ入団した
- 2人はそろって新人王を受賞した即戦力型の投手である
- 権藤正利は28連敗という破られていない日本記録を持つ
- 28連敗は1957年7月7日の巨人戦完封で止まった
- 権藤博は1961年に35勝を挙げ新人王と沢村賞を受賞
- 権藤博は投手としての実働5年で31歳の若さで引退した
- 2人の通算成績は117勝と82勝で防御率はほぼ同水準
- 権藤正利は1967年に防御率1.40で最優秀防御率を獲得
- 権藤博は1998年に横浜を38年ぶりの日本一に導いた
- 権藤博は2019年に野球殿堂入りし解説者としても活動
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