小田凱人の家族構成は5人|父親と母親・直子と弟・桃次郎が支えた世界一への道

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小田凱人さんの家族について、どんな人たちに囲まれて育ったのかを知りたいと感じている方は多いです。

9歳で骨肉腫を発症し、そこから史上最年少での生涯ゴールデンスラムまでたどり着いた歩みは、家族の支えなしには語れません。

結論から言うと、小田凱人さんは父親・母親・姉・本人・弟の5人家族で育ちました。

母親の名前は直子さん、弟は桃次郎さんというサッカー少年です。

この記事では、両親の人物像から姉弟の情報、闘病を支えた家族のエピソードまでを公開情報だけで整理します。

読み終える頃には、小田家の絆の強さがはっきり見えてくるはずですよ。

記事のポイント

①:5人家族で本人は3人兄弟の長男

②:母親は直子で闘病を献身的に支えた

③:父親は一般人で職業や名前は非公表

④:弟の桃次郎は全国優勝経験のサッカー少年

小田凱人の家族構成|両親と姉・弟の素顔

  • 【5人家族】家族構成の内訳と基本情報
  • 父親の職業は非公表なのか
  • 父親の口ぐせ「お前ならできる」
  • 母親・直子の献身と職業の噂
  • 姉の情報が出てこない理由
  • 弟・桃次郎はサッカーの実力者

【5人家族】家族構成の内訳と基本情報

まず、いちばん知りたいところから整理しますね。

小田凱人さんの家族は、父親・母親・姉・本人・弟の5人家族です。

ここでは家族構成の内訳と、小田凱人さん自身の基本プロフィールをまとめて確認していきます。

小田家は3人兄弟の5人家族

複数のメディアが伝えている家族構成は、両親と3人の兄弟という形になっています。

小田凱人さんは姉と弟に挟まれた3人兄弟の長男で、いわゆる真ん中の子という立ち位置です。

毎日新聞の「ひと」欄や西日本スポーツの記事でも、この5人家族という構成が繰り返し紹介されてきました。

下記の表は、公開されている情報をもとに小田家の家族構成を整理したものです。

続柄 名前 公開されている情報
父親 非公表 一般人。職業・年齢・顔写真とも非公開
母親 直子 一般人。闘病期の看病と練習の送迎を担当
長女(姉) 非公表 一般人。年齢・進路とも公開情報なし
長男(本人) 小田 凱人 車いすテニス世界ランキング1位
次男(弟) 桃次郎 4歳下。サッカークラブで全国優勝を経験

父親と姉については、名前も含めて一切公開されていません。

一般人としてのプライバシーに配慮している形なので、この点は今後も明かされない可能性が高いです。

小田凱人の基本プロフィール

家族の話に入る前に、本人の基本情報も確認しておきましょう。

小田凱人さんは2006年5月8日生まれ、愛知県一宮市の出身です。

項目 内容
名前 小田 凱人(おだ・ときと)
生年月日 2006年5月8日
2026年09月16日現在の年齢 20歳
出身地 愛知県一宮市
身長 175cm
利き手 左手
所属 株式会社東海理化
主な実績 生涯ゴールデンスラム史上最年少達成
趣味 スニーカー集め・格闘技観戦・ギター

身長175センチという体格と、左利きから繰り出す攻撃的なショットが最大の武器になっています。

所属先の東海理化は愛知県に本社を置く自動車部品メーカーで、地元企業が地元出身の選手を支える形ですね。

名前の由来はパリの凱旋門

凱人という珍しい名前は、ご両親が意味を込めて名づけたものです。

由来はフランス・パリのシンボルである凱旋門で、世界で活躍する人になってほしいという願いが込められています。

凱という字には勝ちどきという意味もあり、勝負の世界で生きる今の姿とぴったり重なりますよね。

実際に小田凱人さんは、パリのローランギャロスで行われる全仏オープンで何度も優勝を重ねてきました。

さらに2024年のパリパラリンピックでも金メダルを獲得しており、名前とパリの縁は本物だったことになります。

本人も「名前のときとは、パリのシンボルである凱旋門の漢字の凱を使っていますし、パリに縁を感じるというか……」と語っていました。

保育園時代の夢はスーパースター

両親の影響がよくわかる、微笑ましいエピソードも残っています。

小田凱人さんが保育園の頃に抱いていた夢は、なんとスーパースターという壮大なものでした。

きっかけは、ご両親がふだんから聴いていた長渕剛さんのSUPER STARという曲だったそうです。

この曲が好きで、口ずさみながら自転車をこいでいたと本人が振り返っています。

「今でもすごく好きな曲で、当時から気に入っていたのでその影響でスターに憧れていた気がします」という言葉も残されていますよ。

両親が聴いていた一曲が、後に世界の頂点に立つ少年の原点になっていたというのは、なんだかロマンのある話だと思いませんか。

父親の職業は非公表なのか

では、いちばん検索されている父親の職業はどうなのでしょうか。

結論から言うと、父親の職業や名前は一切公表されていません

ここでは公開情報だけを使って、父親という人物の輪郭をあなたが納得できる形まで近づけていきますね。

名前も職業も顔写真も非公開

小田凱人さんの父親は一般人のため、メディアに顔を出したことがありません。

インタビュー記事や書籍でも、父親は常に「お父さん」という呼び方で登場します。

年齢についても公表がなく、息子が2006年生まれであることから逆算するしかない状況です。

下記の表は、父親について公開されている項目と非公開の項目を整理したものです。

項目 公開状況 わかっている内容
名前 非公開 一度も報道されていない
職業 非公開 会社員説が有力だが裏づけなし
年齢 非公開 息子の生年から推測するのみ
顔写真 非公開 メディア露出は確認できない
趣味 公開あり ギターなど多趣味と本人が証言
関わり方 公開あり 練習相手と送迎を担当していた

つまり、職業が野球関係やテニス関係だったという話はどこにも存在しません。

ネット上で見かける父親の職業に関する断定的な情報は、根拠のない推測と考えたほうがよさそうです。

毎日テニスの練習に付き合った日々

職業はわからなくても、父親の関わり方からは人物像が見えてきます。

小田凱人さんが退院したあと、父親は毎日のようにテニスの練習に付き合っていたと伝えられています。

本人も一球でも多く打ちたいと、クラブの練習日以外は近くの公園でボールを追っていました。

もし一般的な会社勤めをしていたとすれば、仕事終わりに毎日これを続けるのは並大抵のことではありませんよね。

岐阜車いすテニスクラブへの送りむかえも、母親が中心ではあったものの父親が担当する日がありました。

こうした積み重ねが、9歳で大病を患った少年をコートに引き戻したわけです。

多趣味な父親と小田家のレジャー

父親の人柄を語るうえで外せないのが、趣味の多さです。

書籍の記述によると、父親はたくさんの趣味を持っている人物でした。

そのため小田家のレジャーといえば、父親が好きなことを家族みんなで楽しむのが定番だったといいます。

父親が夢中になっているものが、そのまま家族の週末の行き先になっていたイメージですね。

父親が趣味に本気で向き合う姿を間近で見ていたことが、何かに夢中になる息子の姿勢につながったのかもしれません。

父親がスポーツ好きで運動神経も良かった可能性は高く、初期の練習相手を務められたのもその証拠と言えそうです。

ギターが息子のパフォーマンスに

父親の趣味のひとつが、そのまま世界の舞台に登場したことがあります。

小田凱人さんは勝利した瞬間に、ラケットを構えてエアギターを弾くパフォーマンスを見せることで知られています。

このポーズの原点は、父親が持っていたギターでした。

本人は「父親が持っていたギターを借りて何曲か弾けるようになりました」と明かしています。

エド・シーランのパーフェクトは暗記しているそうで、コロナ禍で増えた趣味として定着しました。

父親の部屋にあった一本のギターが、世界中の観客が見る勝利の儀式に化けたと考えると面白いですよね。

父親の情報が少ないぶん、こうした断片からその人柄を想像するのがこの話題のいちばんの楽しみ方かなと思います。

父親の口ぐせ「お前ならできる」

ここでは、父親と息子の関係性がわかるエピソードを深掘りします。

小田凱人さんは幼少期を振り返って「父親にしょっちゅう怒られていました」と語っており、厳しくも愛のある父親だったことがわかります。

その厳しさがどう変化していったのかを、時系列で追ってみましょう。

口ぐせは「お前ならできる」

父親がふだんから息子にかけていた言葉があります。

それが「お前ならできる」という口ぐせでした。

病気で歩けなくなった息子に対しても、この言葉だけは変わらなかったといいます。

結果が出ない時期でも可能性を疑わない姿勢は、子供にとって何よりの支えになりますよね。

後に本人が「負けるわけがない」と言い切れるほどの強気なメンタリティを身につけた土台は、まさにここにあります。

自分のことは自分でやるという自立心も、父親の教育方針から自然に身についたものでした。

「なんで、できないのか」という厳しさ

一方で、父親は甘いだけの存在ではありませんでした。

試合で負けたときなどには「なんで、できないのか」という厳しい言葉をかけられることもあったそうです。

言われた側としては、当然きついですよね。

ただ小田凱人さんは、それをすなおに受け止めていました。

厳しく言われるのは期待してくれているからだと、子供ながらに理解していたからです。

父親が自分のことを思って言ってくれていると伝わっていたからこそ、反発ではなく吸収につながったわけですね。

息子が言うことを聞かないと悟った日

親子の関係が変わる決定的な場面がありました。

父親のアドバイスを聞いても、小田凱人さんはすなおに従わないことが多かったのです。

自分のやりたいやり方でテニスを続け、勝ったり負けたりが延々と続きました。

その様子を見ていた父親は、何を言ってもこの子は聞かないと気づきます。

そして息子に「好きにやればいい。勝ち負けなんか関係なく。自分が好きなことをやって、勝てれば、それでいいんじゃないか」と告げました。

頑固に自分のやり方を貫く息子に、父親のほうが根負けした瞬間でした。

この一言が、誰の真似でもない今のプレースタイルを決定づけたと言っても大げさではありません。

初試合の0-6完敗で味わった悔しさ

親子で挑んだ最初の試合も、忘れられない記憶として残っています。

小田凱人さんが初めて試合に出たのは10歳の頃でした。

一所懸命に練習してきたので、本人も父親もいけると思って会場に向かったそうです。

ところが結果は0対6の完敗でした。

親子そろって手応えを裏切られた形ですが、この悔しさが練習量を一段階引き上げるきっかけになります。

その後の小田凱人さんは、自分が必要だと思うことをやり続けるスタイルを崩しませんでした。

父親は今でも「こんな大きな大会で、チャレンジしている。あいつのやりたいスタイルをつらぬいている。すごくいいことだな」と息子を見守っています。

厳しさから信頼へと形を変えた親子関係、なかなか胸に来るものがありますよね。

母親・直子の献身と職業の噂

公開情報がもっとも多い家族が、母親です。

小田凱人さんの母親は直子さんという名前で、西日本スポーツの記事などで実名が紹介されています。

ここでは職業の噂の真偽から、闘病期の支え方までを整理していきます。

名前は直子|職業は公表されていない

母親の名前が表に出たのは、2024年9月に公開された西日本スポーツの記事でした。

そこで直子さんという実名が紹介され、以降のメディアでも同じ表記が使われています。

一方で職業や年齢については、父親と同じく公表されていません

下記の表は、母親について判明している項目を整理したものです。

項目 公開状況 内容
名前 公開あり 直子
職業 非公開 仕事を持っていたことは本人が証言
年齢 非公開 報道での言及なし
メディア出演 公開あり 読売テレビのインタビューに登場
主な役割 公開あり 看病・送迎・食事・環境づくり

ここで大事なのは、職業が非公表イコール専業主婦という意味ではないという点です。

小田凱人さん自身が「練習へは両親の仕事もあったので、週に1回しか行けなかった」と語っており、母親も仕事を持っていたことがわかります。

テレビで見せた優しい口調

母親の人柄がもっともよくわかるのが、読売テレビのインタビューです。

画面に映った直子さんは、とても優しそうな雰囲気で柔らかい口調の女性でした。

闘病中の息子について語った言葉が、多くの視聴者の胸を打ちます。

それが「楽しみを増やしてあげることぐらいしかできなかったので」というひと言でした。

病気そのものは親の力ではどうにもならないという無力感と、それでも何かしたいという気持ちが同時ににじむ言葉ですよね。

実際、この「楽しみを増やす」という発想こそが、息子を車いすテニスに導いた原動力になっていきます。

自宅を練習場に変えた工夫

退院後の母親の行動は、かなり具体的でした。

まず自宅で壁打ちができるように工夫し、卓球台まで用意したといいます。

テニスコートに毎日通えないなら、家をコートに近づけてしまおうという発想ですね。

両親の仕事の都合で、クラブでの練習は週に1回しか行けない時期がありました。

その足りない分を家で埋められるようにしたのが、この環境づくりだったわけです。

岐阜車いすテニスクラブまでは車で片道30分ほどかかりましたが、送りむかえは主に直子さんが担当していました。

練習が終わるまで車で待ち、帰り道の車内でもテニスの話ばかりしていたそうですよ。

プロ転向後も続くサポート

支え方は、世界ランキング1位になった今も変わっていません。

プロに転向してからも、母親は練習の送迎やトレーニングのサポートを続けていると伝えられています。

1年の半分がホテル暮らしという生活の中で、地元に帰ったときの拠点をきちんと整えているわけですね。

小さい頃にネイマール選手と同じ髪型にしてほしいとお願いされ、そのとおりにしてあげたのも直子さんでした。

やりたいと言ったことを否定せず、できる形にして返す。

この一貫した姿勢が、自分らしさを何より大事にする今の小田凱人さんをつくったのだと思います。

姉の情報が出てこない理由

ここ、気になっている人が多いポイントだと思います。

小田凱人さんには姉がいますが、名前も年齢も一切公開されていません

なぜ弟の情報は出ているのに姉だけ出てこないのか、その理由を整理してみますね。

姉は長女|名前も年齢も非公開

家族構成のなかで、姉は長女という位置づけになります。

複数のメディアが5人家族と伝えるときに、姉の存在そのものは明記されてきました。

ただし学生なのか社会人なのかという基本的な情報すら確認できません

顔写真はもちろん、職業や進学先についても報道は存在しない状況です。

本人のインスタグラムにも、姉らしき人物がはっきり写った投稿は見当たりません。

弟だけ情報が出ている本当の理由

ではなぜ、弟の桃次郎さんについてはこれだけ情報があるのでしょうか。

答えはシンプルで、弟が競技者として公の場に名前が出る立場にいたからです。

サッカーの全国大会や地元の表彰式では、選手名や所属クラブが公式に発表されます。

つまり弟の情報は、家族が明かしたのではなく競技の記録として世に出たものなのですね。

姉についてそうした公的な記録がないということは、少なくとも競技や芸能の世界にはいないと考えるのが自然です。

一般人としての生活を守るという小田家の方針が、そのまま反映されている形になります。

ネットで流れる姉の噂を検証

情報が少ないぶん、姉については憶測が広がりやすい状態です。

以下の表で、よく見かける噂と実際に確認できる事実を整理してみます。

よく見かける噂 実際に確認できること 判定
姉もアスリートである 競技歴に関する報道は皆無 根拠なし
姉の名前が判明している 実名の報道は一件も存在しない 根拠なし
姉は何歳か特定できる 年齢差を示す記述が見当たらない 特定不可
姉も一宮市で表彰された 表彰は本人と弟のダブル受賞のみ 事実と異なる
姉は存在する 複数メディアが5人家族と明記 事実

一宮市のスポーツ表彰式で受賞したのは、本人と弟の2人だけでした。

この事実からも、姉が競技の世界とは別の道を歩んでいることがうかがえます。

兄弟の情報が偏って出てくるのは、有名人の家族ではよくあるパターンです。

報道の量がそのまま家族としての近さを表すわけではない、という点は押さえておきたいところですね。

それでも姉が支えだったとわかる理由

情報がないからといって、存在感がなかったわけではありません。

小田凱人さんは幼少期、家の中を走り回るほどのやんちゃぼうずだったと語られています。

にぎやかな兄弟環境で育ったことが、負けず嫌いな性格やタフな人間性の土台になりました。

9カ月におよぶ入院生活の間も、家族全員が病院に通う日々を送っています。

姉もその一員として、当たり前のように弟の回復を待っていたはずです。

本人が語る幼少期の思い出には、兄弟でにぎやかに過ごした時間が何度も登場します。

表に出ない支えこそが、いちばん長く続くものだったりしますよね。

新しい情報が出てくる可能性は低いですが、動きがあれば今後もアップデートしていきます。

弟・桃次郎はサッカーの実力者

家族のなかで、本人以外にもっとも実績が明らかなのが弟です。

小田凱人さんの弟は桃次郎さんという名前のサッカー選手で、全国大会で優勝した経験を持っています。

兄弟のエピソードは温かい話ばかりなので、ここはぜひ読んでほしいところですよ。

弟の名前は桃次郎|4歳下の次男

弟の名前は桃次郎と書いて、ももじろうと読みます。

兄の凱人という名前と同じく、かなり個性的な名づけですよね。

年齢差は4歳で、家族構成のなかでは次男にあたります。

生年は公表されていませんが、兄が2006年5月生まれであることから2010年前後の生まれと考えられます。

下記の表は、弟について公開されている情報をまとめたものです。

項目 内容
名前 小田 桃次郎(おだ・ももじろう)
続柄 小田凱人の弟(次男)
年齢差 兄の4歳下
2026年09月16日現在の年齢 約16歳
競技 サッカー
所属クラブ FCフェルボール愛知
主な実績 JA全農杯全国小学生サッカー大会in東海 優勝

兄がサッカー少年だったことを考えると、弟が同じ道に進んだのは自然な流れだったのかもしれません。

FCフェルボール愛知で全国優勝

桃次郎さんが所属していたのは、愛知県春日井市を拠点とするFCフェルボール愛知です。

東海地区でも名の知られた強豪クラブで、U12のカテゴリーでプレーしていました。

そしてJA全農杯全国小学生サッカー大会in東海で優勝という結果を残しています。

この大会は各県の代表が集まる東海ブロックの決勝大会で、勝ち抜くのは簡単なことではありません。

兄が9歳でサッカーを断念したぶんまで、弟がピッチで結果を出していたと考えると胸が熱くなりますよね。

兄の凱人さんも小学校の徒競走で1位になるほど足が速く、FCディバインという選手コースのあるクラブに在籍していました。

運動神経の良さは、間違いなく小田家の共通項です。

一宮市でのダブル受賞と兄自慢

兄弟そろって表彰された、記念すべき出来事もありました。

一宮市のスポーツ表彰式で、サッカーの大会と車いすテニスの世界選手権で兄弟ダブル受賞を果たしたのです。

地元の表彰式に兄弟で並ぶ姿は、ご両親にとっても忘れられない一日だったはずです。

桃次郎さんは、兄のことをかなり誇りに思っているようですよ。

インタビューでは「学校とかで自慢しています。新聞に載ったら新聞持って行って同級生に見せたりしています」と答えていました。

新聞を学校に持っていって見せるという行動が、なんとも小学生らしくて微笑ましいですよね。

世界ランキング1位の兄を持つプレッシャーよりも、素直な自慢が先に来るあたりに兄弟仲の良さがにじみます。

自宅の卓球台で遊ぶ仲良し兄弟

家での様子も、ごく普通の兄弟そのものです。

母親が用意した自宅の卓球台は、練習器具であると同時に兄弟の遊び道具にもなっていました。

10代の男子が2人そろえば、卓球ひとつで真剣勝負になるのは目に見えていますよね。

本人がインスタグラムに投稿した表彰式の写真からも、距離の近さが伝わってきます。

スポーツ以外のことでも、実家ではにぎやかに過ごしているのでしょう。

兄が世界を転戦する生活になった今でも、帰国したときに待っている場所があるというのは大きいはずです。

兄弟の関係について、少しイメージが湧きやすくなれば嬉しいです。

小田凱人と家族の歩み|骨肉腫からの復活

  • 9歳の骨肉腫発覚と両親の不安
  • 12時間の大手術と母親の看病
  • サッカー断念を告げた病室の会話
  • 岐阜への送迎を続けた両親の日々
  • 家族旅行が遠征に変わった理由
  • 結婚や彼女は?自分の家族を持つ日

9歳の骨肉腫発覚と両親の不安

ここからは、小田家にとって人生の分岐点となった出来事を追っていきます。

すべての始まりは、小学2年生の3月に感じた左足の痛みでした。

信頼性の高い書籍の記述をもとに、当時の流れをあなたが追えるよう時系列で整理しますね。

小2の3月に始まった左足の痛み

サッカーの練習中、小田凱人さんは左足に痛みを感じました。

小学2年生がまもなく終わろうという3月ごろのことです。

最初は本人も両親も、練習の疲れがたまったか筋肉を痛めた程度だと考えていました。

ところが痛みはなかなか消えず、回数も強さも増していきました

ズキズキするような痛さが激しくなっていくなかで、家族の不安は少しずつ膨らんでいきます。

子供が痛いと言い続けるのを見守る時間は、親にとって本当につらいものですよね。

3つの病院を経て名大病院へ

その年の6月、ようやく近くの整形外科クリニックで診察を受けます。

レントゲン写真を見た医師の言葉は「大きい病院に行って、みてもらってください」でした。

次に行った総合病院でも同じことを言われ、設備の整った名古屋大学医学部附属病院を勧められます。

下記の表は、痛みの発生から診断までの流れを整理したものです。

時期 出来事 家族の動き
小2の3月 練習中に左足の痛みを自覚 筋肉痛だと考えていた
3月〜6月 痛みの回数と強さが増す 様子を見ながら不安が募る
6月 近所の整形外科を受診 医師の表情の変化に気づく
6月 総合病院へ紹介される 母親がネットで病名を調べる
6月 名古屋大学医学部附属病院へ 左股関節の骨肉腫と診断

最初のクリニックで、レントゲンを見た医師が驚いたような表情になったことも家族の頭に残っていました。

両親は最初の受診まで3カ月ほど様子を見ており、その時間を悔やんだ可能性もありますよね。

母親が検索でたどり着いた病名

総合病院が書いてくれた紹介状のあて名が、決定的なヒントになります。

そこには大学病院整形外科腫瘍班と書かれていました。

母親はいてもたってもいられなくなり、インターネットで病気について調べます。

腫瘍という文字を入れて検索したときに飛びこんできたのが、骨肉腫という病名でした。

もしかしたら凱人は、という悪い予感を抱えたまま、母親は息子と一緒に名大病院へ向かいます。

重い病気ではないといいけれど、と願いながらの道のりだったそうです。

診断を聞いた日の母親の心境

そして、恐れていた言葉が医師の口から告げられます。

病名は左股関節の骨肉腫、胴体と足をつなぐ関節の骨に発生する悪性腫瘍でした。

心の準備をしていたつもりの母親でしたが、病名を聞かされた瞬間に目の前が真っ暗になるように感じたと振り返っています。

すぐに入院して治療を始めることが決まりました。

一方の本人は、手術をしてきちんと治せばまたサッカーができると信じていました。

早く病気を治してサッカーがしたいという思いが、心の支えになっていたからです。

親と子で見えている現実の重さが違ったこの時期こそ、小田家にとってもっとも苦しい時間だったのかもしれません。

12時間の大手術と母親の看病

入院生活は、家族全員にとって長い戦いになりました。

小田凱人さんが受けたのは、12時間におよぶ人工関節の大手術でした。

ここでは治療の流れと、そばで支え続けた家族の姿を確認していきます。

抗がん剤治療のつらさと転院

治療はまず、腫瘍をできるだけ小さくすることから始まりました。

抗がん剤治療のために、名大病院から名古屋医療センターに転院しています。

ここでの治療は、たいへんつらいものでした。

薬を体に入れると吐き気におそわれ、それが数日続きます。

髪の毛が抜けるといった副作用もあり、この治療が1〜2週間おきに繰り返されたのです。

9歳の子供がこれに耐える姿を見守る親の気持ちは、想像するだけで胸が締めつけられますよね。

入院中の病室には家族が交代で通い、少しでも気がまぎれるように工夫を重ねていました。

12時間におよぶ人工関節の手術

入院から3カ月がたった9月、抗がん剤の効果で腫瘍が小さくなり手術が決まります。

腫瘍のできた骨を取りのぞき、そこに人工関節を入れる手術でした。

手術前日、医師が体にマーカーで印を入れると、その線はおなかのほうまでのびていました。

驚いた本人が「え、おなかまで切るんですか」とたずねたというエピソードが残っています。

股関節にできた腫瘍でしたが、左わき腹から太もものあたりまで切る必要があったのです。

腫瘍を取ったあとの傷ついた筋肉を、おなかの筋肉で補強するためでした。

覚悟を決めていた本人も、さすがに怖くなってほとんど眠れないまま朝を迎えます。

手術は朝に始まり夜までかかり、12時間の大手術は無事に成功しました。

痛みに耐えた術後と流れた涙

成功しても、そこからが本当の試練でした。

サッカーで鍛えていたとはいえ、9歳の小さな体に手術は大きな負担です。

医師は点滴で痛み止めを入れてくれましたが、一定の量より多く入れることはできません。

つまり痛みには本人が耐えるしかなかったわけです。

高い熱も出て気分はすぐれず、ベッドで痛みを我慢しているといつの間にか涙があふれてきたといいます。

この場面を病室で見ていた家族の心境は、言葉にならないものだったはずです。

9カ月の入院生活を支えた家族

リハビリも、想像を超える地道さでした。

ベッドの上で上半身を起こし、体の向きを変えて横に足を出して座る。

たったそれだけの動きができるようになるまで、何日も何日もかかったそうです。

左足の付け根がつっぱった状態で、ひざを曲げることができませんでした。

そこから歩行器や松葉づえを使う練習へと、単調なメニューが延々と続きます。

母親はその様子を見て、あまりリハビリをやる気がないのかなと心配になったこともあったそうです。

入院期間は最終的に9カ月にもおよびました。

それでも小田凱人さんは、できることは何でも自分でやる姿勢を崩しませんでした。

当時の担任の先生も「我慢強く、できることは何でも自分でやった」と振り返っています。

この間、母親は看病の合間に「楽しみを増やしてあげる」ことだけを考え続けていたことになります。

サッカー断念を告げた病室の会話

小田家の歴史のなかで、もっとも有名な場面がここです。

9歳の少年が母親に告げた「おれの足がこわれる」という言葉は、多くの人の記憶に残っています。

その前後で何があったのかを、丁寧に追ってみましょう。

「おれの足がこわれる」という言葉

思うように体を動かせないなかで、本人にある考えが浮かんできます。

もう、サッカーはむずかしいかもしれない、という現実でした。

病室で母親と一緒にサッカーの試合を見ているとき、その言葉が口から出てきます。

「おれ、サッカーは、もう無理だな。サッカーしたら、おれの足がこわれる。大事な足、手術をしてもらった足が……」

ずっと支えにしてきた夢を、自分から手放す宣言でした。

それでも本人の目に涙はなく、誰かを恨むこともふさぎこむこともなかったといいます。

母親が確かめた本当の気持ち

この言葉を聞いた母親の対応が、また見事でした。

すぐに受け入れるのではなく、どんな気持ちでそう言ったのかを確かめようとしたのです。

「凱人はそれでいいの。またサッカーやりたい、って、ほんとうはそう思っていないの」

いいかげんな気持ちでサッカーをあきらめるはずがないことは、母親もよくわかっていました。

ただ、本当はすごくやりたいのに気持ちを隠して無理だなと言っているのかもしれない。

その可能性を放置せず、きちんと向き合って本音を聞き出そうとしたわけですね。

「思ってもいないこと、いうわけないじゃん」

母親の問いかけに対する答えが、また小田凱人さんらしいものでした。

「おれが、思ってもいないこと、いうわけないじゃん」

この一言で、母親にはすべてが伝わりました。

息子がひとりで深く考え、悩み、そのうえで決心したことがはっきりわかったからです。

ありのままにつらい現実を受け入れた9歳の判断を、母親は否定しませんでした。

子供の決断を子供扱いせずに受け止める。

この対応があったからこそ、次の夢へ切り替えるスピードが速かったのだと思います。

主治医の勧めと国枝慎吾との出会い

絶望の底で、運命を変える出来事が重なります。

まず主治医が、パラスポーツという選択肢を教えてくれました。

名古屋医療センターでは月に一度パラスポーツの体験会が開かれており、そこで初めてスポーツ用の車いすに乗ります。

病院でふだん乗る車いすとは違い、少しこぐだけでスピードが出る感覚に驚いたそうです。

ハの字になったタイヤのおかげでターンもしやすく、まさにマシンという言葉がぴったりでした。

自転車やスケートボードを乗りこなしていた本人は、すぐに操作を覚えて夢中になりました。

そして動画サイトで見つけたのが、2012年ロンドンパラリンピックで金メダルを獲る国枝慎吾さんの姿でした。

めちゃくちゃカッコいい、自分もこうなりたいと感じた瞬間が、車いすテニスとの出会いです。

退院する頃には、車いすテニスプレーヤーになって世界一になるという目標が固まっていました。

サッカーの夢を手放した病室から、次の夢が生まれるまでの時間は驚くほど短かったのですね。

岐阜への送迎を続けた両親の日々

退院してからの数年間こそ、家族の支えがもっとも必要な時期でした。

練習拠点は車で片道30分かかる岐阜車いすテニスクラブで、送迎はすべて両親の役割です。

ここでは当時の練習環境と、現在の拠点までの変化を整理します。

片道30分の送迎は母親が中心

岐阜車いすテニスクラブでの練習に通うには、車で片道30分ほどかかりました。

送りむかえは主に母親が担当し、ときどき父親も引き受けていたそうです。

しかも両親は、クラブに送りとどけたあと練習が終わるまでその場で待っていたといいます。

往復1時間の運転に待機時間を足せば、半日仕事になりますよね。

それを毎週のように続けていたわけですから、相当な覚悟があったはずです。

競技用の車いすは大きく重いため、車への積みおろしも家族の仕事でした。

大会のたびに遠方へ出向く必要もあり、移動の負担は年々大きくなっていきました。

車内の話題はいつもテニス

送迎の時間は、単なる移動ではありませんでした。

車に乗っている間も、話題はテニスのことばかりだったといいます。

それが本人にとっても両親にとっても、楽しい時間になっていました。

この何気ない会話の積み重ねが、家族全員を同じ方向に向かせたのだと思います。

親が子供の競技を義務として運ぶのではなく、一緒に面白がっていた点が小田家の強さですね。

一球でも多くボールを打ちたい本人は、クラブの練習以外に近くの公園でも練習していました。

中学生になると、テニスコートを借りて練習することもあったそうです。

仕事の都合で週1回だった練習

ただし、通いたいだけ通えたわけではありません。

小田凱人さんは「練習へは両親の仕事もあったので、週に1回しか行けなかった」と語っています。

両親がともに仕事を持っていた以上、平日の送迎は現実的に難しかったのでしょう。

そこで母親が用意したのが、自宅の壁打ち環境と卓球台でした。

週1回の外練習と、毎日の自宅練習。

この組み合わせで足りない部分を埋めていったのが、初期の小田凱人さんの育ち方です。

環境が完璧ではないなかで最大限の工夫をした家族の姿勢が、結果につながったと言えます。

名古屋の練習拠点と現在の環境

現在の練習環境は、当時とは大きく変わりました。

6年ほど前からは、名古屋市緑区にある諸の木テニス倶楽部を拠点のひとつにしています。

地元のセラミック企業であるNGKのグループ会社が運営する施設で、2020年ごろからスロープや昇降機などのバリアフリー化が進められました。

特徴は、ベースラインから壁際までのスペースが普通のテニスクラブの倍以上ある点です。

車いすテニスは2バウンドまでの返球が認められているため、後ろが広いほど強いボールに追いつきやすくなります。

本人も「他の選手が来た時も東京にはこういうところはないと言うくらいプロからの需要は高い」と話していました。

家族の送迎から始まった環境づくりが、今は企業と地域を巻き込む形にまで広がっているわけですね。

家族旅行が遠征に変わった理由

競技に打ちこむにつれて、小田家の生活そのものが変わっていきました。

象徴的なのが、家族旅行が遠征に置き換わっていったという変化です。

ここでは家族の生活がどう変わり、その先にどんな記録が生まれたのかを見ていきます。

父親の趣味が中心だった小田家のレジャー

もともと小田家のレジャーは、父親の好きなことが軸でした。

父親はたくさんの趣味を持っていたため、その関心が家族の行き先を決めていたのです。

子供たちは父親についていく形で、いろいろな体験をしてきました。

本人が自転車もBMXもスケートボードも乗りこなしていたのは、こうした環境の影響が大きいはずです。

実はこの経験が、のちにスポーツ用車いすをすぐ乗りこなせた理由になっています。

曲がったり回ったりする操作が、自転車やスケボーと同じ感覚だったからですね。

遠征が家族旅行の代わりになった

ところが、テニスの練習や試合で忙しくなると流れが変わります。

試合であちこち遠征するようになると、それが家族旅行の代わりになっていきました。

家族はテニスを中心に行動するようになり、父親の趣味中心だった週末は姿を消します。

父親からすれば、自分の楽しみを息子に明け渡した形ですよね。

それでも一度も不満が語られていないあたりに、小田家の空気の良さが表れています。

こうして家族全員が同じ目標を共有したことが、驚異的なスピードの成長につながりました。

最年少記録を積み重ねた軌跡

家族の支えが、どんな形で結果になったのかを確認しましょう。

下記の表は、これまでに達成してきた主な最年少記録を時系列で整理したものです。

達成年 記録の内容 達成時の年齢
2020年 世界ジュニアマスターズ単複優勝 13歳8カ月25日
2021年 世界ジュニアランキング1位 14歳11カ月18日
2022年 グランドスラム初出場(全仏) 16歳23日
2023年 グランドスラム史上最年少優勝 17歳33日
2023年 世界ランキング1位 17歳35日
2024年 パラリンピック金メダル 18歳4カ月21日
2025年 生涯ゴールデンスラム達成 19歳3カ月29日

15歳でプロ転向を宣言してから、わずか2年で四大大会の頂点に立った計算になります。

この間ずっと、送迎と生活面を支えていたのがご両親でした。

ギネス8個と20歳の誕生日

記録は、公式の形でも残されています。

2026年5月8日、20歳の誕生日にギネス世界記録が新たに4つ認定されたことが発表されました。

これで最年少記録の保持者として認定された数は、合計8個になっています。

新たに認定されたのは生涯グランドスラム、生涯ゴールデンスラム、全米オープン優勝、全豪オープン最年少優勝の4つでした。

本人は「最年少にこだわってやってきたことが形として残り、受け取れることは感慨深い」と喜びを語っています。

さらに「記録は常に狙いたい。部屋の壁一面を公式認定証で埋めたい」という意欲も口にしました。

自宅の壁を認定証で埋めるという目標、ご家族にとってはこれ以上ない親孝行かもしれませんね。

結婚や彼女は?自分の家族を持つ日

最後に、自分自身の家族についての話題を整理します。

結論から言うと、小田凱人さんは独身で結婚相手も子供もいません

ここでは恋愛事情と、将来家族を養う土台となる収入面までまとめて確認していきますね。

結婚しておらず子供もいない

2006年5月生まれなので、現在は20代に入ったばかりです。

結婚の事実はなく、当然ながら子供もいません。

いまは国内外の過酷なツアーを転戦しており、競技生活に全力を注いでいる時期ですよね。

本人も「いろいろと言いましたけど、試合に勝つだけ。僕のやることはそれだけです」と語っています。

結婚という選択は、まだかなり先の話になる可能性が高いです。

ちなみに10年前でも10年後でも同じ決断をするかどうかという基準を大事にしているそうで、伴侶選びも慎重になりそうですね。

熱愛報道はなし|番組で明かされたデート事情

交際中の特定の彼女がいるという公式な熱愛報道は、これまで一度もありません。

ただしトーク番組のA-Studio+に出演した際、リアルな恋愛事情が明かされました。

親交のあるオーダースーツ店のスタッフが取材に答え、思わぬエピソードが飛び出したのです。

食事に誘われたときにデートの予定があるという理由で一度断ったところ、そのデートがドタキャンになってしまったという話でした。

結局、そのスーツ店のスタッフと食事に行くことになったそうです。

世界ランキング1位でも、こういうところは等身大なんだなと親近感が湧きますよね。

好きなタイプはアジアンビューティー

同じ番組では、好みのタイプも明らかになりました。

小田凱人さんが理想とするのは、アジアンビューティーな女性だそうです。

世界を転戦する生活だからこそ、芯のあるオリエンタルな魅力に惹かれるのかもしれません。

学生時代のエピソードも番組で暴露されていました。

好きな人と一緒に登校した際、攻めすぎて登校の序盤で告白してしまいフラれたというのです。

そのあと学校に着くまでずっと気まずいまま歩いたという話には、思わず笑ってしまいますよね。

ネットに詰めていくプレースタイルそのままの超攻撃型な失恋エピソードでした。

家族を養う土台|賞金とスポンサー収入

将来自分の家族を持つとなれば、気になるのが収入面です。

下記の表は、報じられている収入の内訳を整理したものです。

収入源 推定額 備考
大会賞金 4000万円以上 四大大会とパラリンピックを含む
スポンサー契約 2000万円以上 10社以上と契約
CM・メディア出演 500万円以上 ほっともっとなどに出演
所属先からの報酬 非公表 東海理化からの報奨金など

スポンサーには日本生命、日本ガイシ、ヨネックス、ナイキ、森永製菓などが名を連ねています。

合計しても1億円にはまだ届かないと見られているのが実情です。

とはいえ車いすテニス界では突出した水準で、遠征費に苦労した少年時代とは状況が一変しました。

本人は助成金への感謝も口にしており、支えてもらった分を返せるくらい活躍したいと語っています。

いつか自分の家族を持つ日が来たら、その報告もきっと大きなニュースになるはずですよ。

小田凱人の家族に関するまとめ

  • 家族構成は父親・母親・姉・本人・弟を合わせた5人家族
  • 本人は姉と弟に挟まれた3人兄弟の長男にあたる
  • 母親の名前は直子だが職業や年齢は公表されていない状況
  • 父親については名前も職業も顔写真も一切公開されていない
  • 父親の口ぐせは「お前ならできる」という励ましの言葉
  • 父親は多趣味でギターが息子の決めポーズの原点になった
  • 姉は一般人のため名前も年齢も公開情報が存在していない
  • 弟の名前は桃次郎といい本人より4歳下の次男にあたる
  • 弟はFCフェルボール愛知で東海の全国大会を制している
  • 一宮市のスポーツ表彰式では兄弟でダブル受賞を果たした
  • 名前の由来はパリの凱旋門で両親が願いを込めて命名した
  • 9歳で左股関節の骨肉腫を発症し9カ月の入院生活を送る
  • 手術は12時間におよぶ人工関節を入れる大手術だった
  • 母親は自宅に壁打ち環境と卓球台を用意し練習を支えた
  • 結婚歴はなく独身で子供もおらず競技生活に専念している

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