柿本実の現在は西宮でブライダルサロン経営|最優秀防御率の名投手

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柿本実さんの現在について、今はどこで何をしている人なのかを知りたいと感じている方は多いです。

柿本実さんは1963年にセ・リーグの最優秀防御率を獲得した元中日ドラゴンズのエースで、昭和のプロ野球を彩った個性派サイドスロー投手ですよ。

現役引退から半世紀以上が過ぎた今も健在で、兵庫県西宮市でブライダルサロン「柿本」を経営していることが公開資料で確認できます。

この記事では柿本実さんの現在の仕事や拠点、引退後に歩んだ道のり、そして今も語り継がれる現役時代の記録までを公開情報だけをもとに順番に整理していきます。

記事のポイント

①:現在は西宮市でブライダルサロン柿本を経営

②:1963年に21勝で最優秀防御率を獲得

③:引退後は阪神で投手コーチを4年務めた

④:通算1402回1/3を投げて暴投0の記録

柿本実の現在は西宮のブライダルサロン経営

  • 現在はブライダルサロン柿本の経営者
  • 西宮市という拠点を選んだ背景
  • 阪神投手コーチを4年務めた後の転身
  • 現在の年齢と健在ぶり
  • 情報が少ないと感じる理由

現在はブライダルサロン柿本の経営者

まず、柿本実さんが現在どこで何をしているのか、公開情報で確認できる事実から順番に見ていきましょう。

柿本実のプロフィールと経歴

結論から言うと、柿本実さんは兵庫県西宮市でブライダルサロン「柿本」を経営している人物です。

1935年10月5日に福岡県京都郡苅田町で生まれ、2026年11月03日現在で91歳を迎えています。

身長176cm、体重83kgという当時としては恵まれた体格で、右投右打の投手として10年間プロのマウンドに立ちました。

福岡県立苅田高等学校から豊国セメント、日炭高松という社会人野球を経て、1960年に南海ホークスへ入団した経歴を持ちます。

その後は中日ドラゴンズ、阪急ブレーブス、阪神タイガースと渡り歩き、1969年のシーズン終了後に現役を引退しました。

通算成績は300試合に登板して83勝71敗、防御率2.55という数字が残っています。

1963年にはチーム最多の21勝を挙げ、防御率1.70でセ・リーグの最優秀防御率に輝いた実力派ですよ。

下記の表は柿本実さんの基本情報をまとめたものです。

項目 内容
氏名 柿本実(かきもと みのる)
生年月日 1935年10月5日
2026年11月03日現在の年齢 91歳
出身地 福岡県京都郡苅田町
身長・体重 176cm・83kg
投打 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1960年(南海ホークス)
最終出場 1969年(阪神タイガース)
獲得タイトル 最優秀防御率1回(1963年)
現在の職業 ブライダルサロン「柿本」経営
現在の拠点 兵庫県西宮市

ブライダルサロン柿本とは

ブライダルサロンというのは、結婚式や披露宴を控えたカップルの相談を受け、衣装や式場の手配までをトータルで支援する業態のことです。

柿本実さんが手がけているのは、自身の姓をそのまま屋号にした「柿本」というサロンになります。

プロ野球選手の引退後の進路としては飲食店やスポーツ用品店が定番ですが、婚礼という分野を選んだ元投手はかなり珍しい存在ですよね。

所在地の西宮市は大阪と神戸のあいだに位置する阪神間の住宅地で、古くから婚礼需要の厚いエリアとして知られています。

ただし、サロンの開業年や店舗の規模、現在の営業形態といった細かい部分までは公開資料に記載がありません。

確認できるのは「兵庫県西宮市でブライダルサロン柿本を経営している」という一文に集約される情報だけなんですよ。

それでも、球界を離れてから半世紀にわたって自分の名前で商売を続けてきたという事実そのものが、柿本実さんの現在を物語っていると言えます。

元プロ野球選手の第二の人生というと、どうしても球界に残った人の話ばかりが語られがちですよね。

その点で、看板も肩書きも自分で用意して商売を回してきた柿本実さんの歩みは、かなり骨太な選択だったと思います。

ここ、気になるポイントだと思うので、新しい情報が出てくれば今後もアップデートしていきます。

野球人から経営者への転身

柿本実さんが球界を離れたのは、阪神タイガースの一軍投手コーチを退任した1973年のことです。

現役引退が1969年オフですから、ユニフォームを脱いだあとも4年間は指導者として現場に残っていた計算になります。

その後は他球団のコーチやスカウト、解説者といった球界の仕事に戻った記録が見当たりません。

つまり1973年を区切りに野球の世界から完全に離れ、経営者として第二の人生を歩み始めたわけですね。

当時のプロ野球選手の年俸は現在とは比べられない水準で、引退後に自分で生計を立てる必要があった時代でもあります。

セカンドキャリアという言葉すら一般的でなかった1970年代に、自力で商売を立ち上げたという点は素直にすごいなと思います。

派手な肩書きで球界に残るのではなく、地域に根を下ろして静かに事業を続ける道を選んだのが柿本実さんらしい選択ですよ。

ブライダルという業界は景気の波を受けやすく、婚姻件数の減少という長期的な逆風もある分野です。

そのなかで看板を下ろさずに続けてきたのであれば、相当な努力と地元での信頼があったはずですよね。

現役時代に打者とのかけひきで勝負してきた投手ですから、人を相手にする商売は性格に合っていたのかもしれません。

公開情報で確認できる現在

柿本実さんの現在の職業についての記述は、プロ野球人名事典という書籍の情報をもとに広く引用されています。

具体的には2003年に日外アソシエーツから刊行された資料の138ページに、西宮市でのブライダルサロン経営が記載されています。

そのほか、日本野球機構のNPB公式サイトにはOB選手として個人年度別成績が登録されており、経歴欄には苅田高、豊国セメント、日炭高松という3つの所属先が並んでいます。

一方で、本人のSNSアカウントや公式サイト、近年のインタビュー記事といった一次情報は確認できていません。

そのため、現在の生活の様子や健康状態を細かく追える材料はほとんどないのが実情です。

裏を返せば、メディア露出を避けて静かに暮らしているのが柿本実さんの今の姿という読み方もできますよね。

この記事でも推測を重ねるのではなく、確認できた事実だけをていねいに並べていく方針で整理します。

ちなみに人物記録の脚注には、スポーツニッポンの連載や球団史に関する書籍の名前も挙げられています。

つまり柿本実さんの情報は、ネット上ではなく活字の資料のなかにまとまって残っているということですね。

こうした出典をたどれば、現在の姿だけでなく現役時代の細かいエピソードまで追いかけることができますよ。

西宮市という拠点を選んだ背景

ここでは、福岡県出身の柿本実さんがなぜ兵庫県西宮市を現在の拠点にしているのか、その土地の事情から読み解いていきます。

甲子園球場がある街という縁

西宮市と聞いてまず思い浮かぶのは、やはり阪神甲子園球場ですよね。

柿本実さんは1967年から1969年まで阪神タイガースの投手として、そして1970年から1973年まで同球団のコーチとして甲子園を職場にしていました。

つまり現役終盤からコーチ時代までの7年間、西宮市が生活の中心だったことになります。

選手やコーチは本拠地の近くに住居を構えるのが一般的ですから、球団を離れたあともその街に残るという選択はごく自然な流れです。

縁もゆかりもない土地に移って商売を始めるより、7年かけて人間関係を築いた場所で始めるほうが現実的ですよね。

阪神ファンの多い土地柄でもあり、元タイガース投手という経歴が地域で好意的に受け取られやすい環境でもあったはずです。

結果として、福岡県苅田町生まれの投手が兵庫県西宮市の経営者になるという流れが生まれました。

甲子園球場は1924年に完成した日本最古の大規模野球場で、西宮市のシンボルとも言える存在です。

その球場を本拠地とする球団で現役とコーチの両方を経験した投手は、意外と多くありません。

柿本実さんにとって西宮市は、第二の故郷と呼んでいい土地になったのでしょうね。

球場のそばに住み、引退後もその街で商売を続けたという流れには一本の筋が通っています。

阪神間という土地柄の特徴

西宮市は大阪市と神戸市のあいだに広がる、いわゆる阪神間エリアの中核都市です。

戦前から高級住宅地として開発が進み、芦屋市や宝塚市と並んで文化的な暮らしを志向する住民が多い地域として知られています。

この土地には阪神間モダニズムと呼ばれる独自の生活文化が根づき、婚礼や冠婚葬祭に手間と費用をかける気風が受け継がれてきました。

ブライダルという業態がこのエリアで成立しやすいのは、そうした地域性と無関係ではありません。

加えて西宮市は人口48万人規模の都市で、安定した世帯数が商売の土台になります。

阪急電鉄と阪神電鉄、JR東海道本線が並走する交通の便の良さも、来店型のサロンには有利な条件ですよ。

野球選手としての知名度と地域の需要がかみ合った結果、柿本実さんの事業が長く続いてきたと考えられます。

西宮市は兵庫県内では神戸市と姫路市に次ぐ人口規模を持ち、文教住宅都市を名乗る自治体でもあります。

子育て世代から高齢世代まで幅広く暮らす街ですから、冠婚葬祭の需要は安定して生まれます。

さらに阪神間は神戸の洋風文化と大阪の商業文化が交わる場所で、婚礼のスタイルにも多様性がありました。

そうした土地で店を構えるというのは、商売としては理にかなった判断だと言えますよ。

福岡から兵庫へ移った経緯

時系列を整理すると、柿本実さんの移動の軌跡はかなりはっきりしています。

生まれは福岡県京都郡苅田町で、高校も県立苅田高等学校ですから、10代までは完全に地元の人でした。

社会人時代の豊国セメントは苅田町に工場を構えたセメント会社で、日炭高松も福岡県の炭鉱系チームです。

プロ入り後の南海ホークスは大阪、中日ドラゴンズは名古屋、阪急ブレーブスは兵庫県西宮市、そして阪神タイガースも西宮市が本拠地でした。

おもしろいのは、1966年の阪急と1967年以降の阪神がどちらも西宮市を本拠にしていたという点です。

阪急ブレーブスの本拠地だった阪急西宮球場も、阪神の甲子園球場も同じ西宮市内にあったんですよ。

結果的に柿本実さんはプロ生活の後半をまるごと西宮市で過ごしたことになり、この街との縁がいちばん深くなりました。

整理すると、福岡から大阪へ、大阪から名古屋へ、そして名古屋から西宮へという移動の軌跡になります。

トレードや自由契約に振り回された結果として、たまたま西宮にたどり着いたという見方もできますよね。

ただ、本人が最後に腰を落ち着けたのがこの街だったという事実は変わりません。

プロ野球選手の人生は移動の連続ですが、最後に選ぶ街にはその人の価値観が表れるものだなと思います。

故郷の苅田町との距離感

では、生まれ故郷の苅田町との関係はどうなっているのでしょうか。

苅田町は福岡県の北東部、周防灘に面した京都郡の町で、セメント工業と自動車産業で発展してきた土地です。

柿本実さんが社会人時代に所属した豊国セメントはまさにこの町を代表する企業で、地元で働きながら野球を続けていたことがわかります。

なお、柿本実さんの人物情報の出典のひとつに、スポーツニッポンの猛虎人国記という連載の福岡県編が挙げられています。

これは阪神タイガースと各都道府県の縁をたどる企画で、2012年3月27日付で福岡県の後編が掲載されたものです。

故郷に戻った形跡は確認できませんが、地元メディアや球団史のなかで名前が語り継がれているのは間違いありません。

生まれた町を離れて半世紀以上たっても、郷土の誇りとして扱われているのは素敵なことだなと思います。

苅田町は現在も人口3万人規模の町で、海沿いに工業地帯が広がる独特の景観を持っています。

県立苅田高等学校は柿本実さんの母校であり、地元の野球少年にとっては目標になる名前でしょうね。

福岡県からは数多くのプロ野球選手が育っていますが、最優秀防御率投手は限られた存在です。

郷土の記録として名前が残り続けるのは、本人にとっても誇らしいことでしょうね。

阪神投手コーチを4年務めた後の転身

ここでは柿本実さんが指導者としてどんな4年間を過ごし、どのタイミングで球界を離れたのかを具体的に整理します。

二軍投手コーチとしての2年間

結論から言うと、柿本実さんは現役引退の翌年から阪神タイガースの二軍投手コーチに就任しています。

担当した期間は1970年と1971年の2シーズンで、育成の現場からコーチ人生をスタートさせました。

二軍の投手コーチというのは、ドラフトで入ってきた若手を一軍に送り出すための土台をつくる役割です。

柿本実さん自身、南海で1試合しか登板できずに自由契約となり、中日でフォームを変えて花開いたという遠回りの経歴を持っています。

だからこそ、芽が出ない投手の気持ちやフォーム改造の難しさを誰よりも理解できる立場だったはずですよね。

サイドスローへの転向で成功した実体験は、伸び悩む若手への具体的な処方箋になったと考えられます。

当時の阪神はドラフト制度が始まって数年目で、二軍の育成体制を整えている最中でもありました。

そうした時期に投手コーチを任されたという点でも、球団の評価は高かったのだと受け取れます。

下記の表は柿本実さんの引退後の歩みをまとめたものです。

時期 立場 備考
1969年オフ 現役引退 阪神タイガースで通算10年
1970年〜1971年 阪神 二軍投手コーチ 背番号72
1972年〜1973年 阪神 一軍投手コーチ 背番号72
1974年以降 球界を離れる 以降の球団在籍記録なし
現在 ブライダルサロン「柿本」経営 兵庫県西宮市

一軍投手コーチへの昇格

1972年、柿本実さんは二軍から一軍の投手コーチへと配置転換されます。

この時期の阪神タイガースは江夏豊さんという球界屈指の左腕を擁し、巨人のV9を阻む最大の対抗馬として戦っていた時代です。

1973年には最終戦までもつれる激しい優勝争いを演じており、投手陣の運用がそのままチームの命運を左右する緊張感のあるシーズンでした。

そうした修羅場で一軍の投手陣を預かる立場にいたというのは、指導力が評価されていた証拠でもあります。

現役時代に通算53完投を記録した柿本実さんですから、先発投手の体力配分や勝負どころの読みについては説得力があったはずです。

強気のピッチングで知られた投手らしく、ベンチでも腹をくくった助言ができる人だったのではないかなと思います。

結果として4年間のコーチ生活は、現役10年と合わせて14年にわたる球界キャリアの締めくくりになりました。

一軍の投手コーチというポストは、結果が出なければすぐに責任を問われる厳しい立場です。

それを2年間務め上げたという事実は、現場での信頼を得ていたことの裏付けになりますよね。

この時期に接した若手投手たちが、のちの阪神を支えていったことになります。

選手として遠回りした人が指導者になると、言葉に重みが出るものだなと感じますよね。

コーチ時代の背番号72

柿本実さんが背負った番号の変遷を追うと、キャリアの節目がきれいに見えてきます。

南海時代の1960年は20、中日からの1961年から1966年までは45、阪神時代の1967年から1969年までは41でした。

そしてコーチに転じた1970年から1973年までの4年間は、指導者を示す72という番号を付けています。

選手時代に3度も番号が変わったのは、それだけ移籍が多かったという事情の反映でもありますね。

とくに45番は中日と阪急を通じて6年間使い続けた番号で、最優秀防御率を獲ったのもこの背番号を着けていた時期です。

以下の表で背番号の変遷を整理してみます。

41番は阪神での3年間を通して背負った番号で、リリーフとして復活した時期を象徴しています。

72番という2桁の大きい番号は、当時も現在もコーチが着ける定番の番号です。

番号をたどるだけでキャリアの起伏が見えてくるのは、プロ野球の面白いところですよね。

ちなみに45番は中日でタイトルを獲った時期の番号ですから、本人にとっても思い入れが深いはずです。

背番号 年度 所属・立場
20 1960年 南海ホークス(選手)
45 1961年〜1966年 中日・阪急(選手)
41 1967年〜1969年 阪神タイガース(選手)
72 1970年〜1973年 阪神タイガース(コーチ)

指導者を退いたあとの歩み

1973年限りで阪神の一軍投手コーチを退いたあと、柿本実さんの名前はプロ野球の在籍記録から消えます。

他球団のコーチに転じた形跡もなく、解説者やスカウトとして名前が挙がることもありません。

この潮時の見極めが、結果的にブライダルサロン経営という現在につながっていきました。

球界に残り続ければ安定した収入は得られますが、ポストは限られていて数年単位で職を失うリスクもあります。

30代後半という年齢で自分の商売を立ち上げたのは、むしろ合理的な判断だったのかもしれません。

野球から完全に身を引いたからこそ、西宮の地域社会に根を下ろす時間をたっぷり確保できたと言えますよ。

現在まで名前の残る事業を築いた点を見れば、この転身は成功だったと考えて良さそうです。

コーチを退いた1973年は、柿本実さんにとって人生の折り返し地点のような年になりました。

野球以外の世界で一から信用をつくるというのは、想像以上に大変だったはずですよね。

それでも西宮という土地で腰を据え、婚礼という人生の節目に立ち会う仕事を選びました。

マウンドで勝負を背負ってきた人が、人の幸せを支える側に回ったという流れが何だか素敵に思えます。

野球から離れたからこそ、半世紀続く仕事に出会えたという見方もできますよね。

現在の年齢と健在ぶり

ここでは柿本実さんが今おいくつなのか、そして健在かどうかという点について、確認できる情報をもとに整理します。

生年月日から見る現在の年齢

柿本実さんの生年月日は1935年10月5日です。

したがって2026年11月03日現在で91歳という計算になります。

1935年は昭和10年にあたり、日本のプロ野球リーグが発足する前年に生まれた世代ですよ。

プロ入りが1960年ですから、社会人野球を経てようやくプロの門をくぐった遅咲きの選手でもあります。

高校卒業後に豊国セメント、日炭高松という社会人野球で6年ほど腕を磨いた分、プロ入りのタイミングが遅くなったんですね。

それでもプロ2年目の1962年には20勝、3年目の1963年には21勝と一気に階段を駆け上がりました。

遠回りをしてもここまで到達できるという、努力型の選手の代表格みたいなキャリアです。

1960年のプロ入りから数えると、現在までに66年という年月が流れていることになります。

日本のプロ野球で最優秀防御率を獲得した投手のなかでも、存命の方はかなり限られてきました。

そう考えると、柿本実さんは昭和のセ・リーグを知る貴重な語り手のひとりだと言えます。

生年月日が1935年10月5日というのは、プロ野球の記録としても正確に残されている情報ですよ。

出身地の表記も福岡県京都郡苅田町で統一されており、資料間のぶれがありません。

訃報が確認できないという事実

気になるのは、ご健在なのかどうかという点ですよね。

結論から言うと、現時点で柿本実さんの訃報は確認できません。

公開されている人物記録では生年月日のあとが空欄のままになっており、これは存命中であることを示す表記です。

プロ野球のOB選手が亡くなった場合、通常は球団や日本野球機構から発表があり、スポーツ各紙が報じます。

最優秀防御率というタイトルホルダーですから、万一のことがあればニュースとして流れるはずの立場です。

そうした報道が見当たらないという点から、健在と考えて差し支えない状況だと判断できます。

とはいえ年齢を重ねた方のことですから、断定ではなく公開情報の範囲での整理だとご理解いただければ嬉しいです。

日本野球機構の公式サイトでも、柿本実さんはOB選手として個人成績のページが維持されています。

こうしたデータベースは選手の存命にかかわらず残るものなので、健在かどうかの判断材料にはなりません。

判断の根拠になるのは、人物記録の生没年表記と報道の有無という2点です。

どちらの材料からも亡くなったという情報は出てきませんでした。

新しい情報が入り次第、この部分は更新していきますね。

気になる方は球団のOB会情報などもあわせて追ってみてください。

同時代を戦った投手たちの顔ぶれ

柿本実さんがどんな時代に投げていたのかは、対戦相手の名前を並べると一気に伝わります。

1963年8月28日の阪神戦では村山実さんと投げ合い、1965年4月12日の巨人戦では長嶋茂雄さんと対峙しました。

同じ中日の投手陣には、1961年と1962年に驚異的な登板数をこなした権藤博さんがいます。

1962年に柿本実さんが記録した20勝は、その権藤博さんに次ぐチーム2位の数字でした。

打線では江藤愼一さんが主軸を打ち、柿本実さんの一軍抜擢を監督に進言したのもこの江藤愼一さんだと伝えられています。

巨人には金田正一さんがいて、のちに触れる乱闘騒ぎでは直接ぶつかり合うことになります。

こうして名前を並べると、昭和プロ野球のど真ん中を生きた投手だったことがよくわかりますね。

社会人野球時代のチームメートには、龍憲一さんと黒江幸弘さんという2人の名前も挙がっています。

黒江幸弘さんは巨人の内野手として長く活躍した選手で、同じ日炭高松で汗を流した間柄でした。

1965年の乱闘では巨人と中日という立場で向き合っていますから、因縁めいた話でもありますよね。

阪神時代には捕手の田淵さんとコンビを組み、世代の違う選手とも仕事をしています。

長く第一線を離れていられた理由

プロ野球のOBというのは、引退後も解説や講演で球界と関わり続ける人が多い世界です。

そのなかで柿本実さんは1974年以降、球界の表舞台にほとんど登場していません。

理由のひとつは、ブライダルサロンという毎日店を開けなければならない事業を選んだことにあると考えられます。

遠征や取材に時間を割く球界の仕事と、地域密着型の接客業は両立しづらいですよね。

もうひとつは、強気な発言で話題を集めた現役時代の反動で、静かな生活を望んだ可能性もあります。

いずれにしても、半世紀以上にわたって自分の商売に専念してきたという点に一貫性があります。

派手さはなくても、積み上げた年月そのものが説得力になるタイプの人生だなと感じます。

球界との関わりを断った人の近況は、どうしても表に出にくくなります。

それでもタイトルホルダーとして記録は永久に残り、球団史のなかで名前が語られ続けますよね。

柿本実さんの場合、記録は球界に、生活は西宮に置いたという整理ができます。

表舞台に出ないという選択そのものが、本人の意思だったのかもしれません。

だからこそ、現在の情報が少ないこと自体をそっと尊重したいなとも思うんですよ。

野球ファンとしては近況を知りたい気持ちもありますが、そこは静かに見守るのが筋ですよね。

情報が少ないと感じる理由

柿本実さんの現在を調べようとすると、意外なほど情報にたどり着けません。

昭和30年代デビュー世代の壁

まず前提として、柿本実さんがプロ入りしたのは1960年です。

インターネットが一般に普及する30年以上前の話ですから、現役時代の記録がデジタル化されずに残っている部分が多い世代になります。

当時の情報源は新聞と週刊誌、そして球団発行の冊子が中心で、それらは検索エンジンの対象になりません。

そのため今ネットで出てくるのは、百科事典的な人物記録と公式成績データに限られてしまうんですよ。

加えて1969年に引退しているため、テレビの野球中継が全国に定着した時代の映像資料も多くありません。

同じ昭和の名投手でも、引退後に解説者になった人は映像と音声が残りますが、柿本実さんはその道を選んでいません。

結果として活字の記録だけが頼りという状況が生まれています。

1960年代のプロ野球は新聞のスポーツ面が最大の情報源で、記事はマイクロフィルムで保管されています。

一般の読者がそこへアクセスするのは簡単ではなく、どうしても要約された情報しか届きません。

そのため柿本実さんのような選手は、実績に対して情報量が極端に少なくなってしまうんですよ。

ここ、調べていてもどかしくなるポイントだと思います。

逆に言えば、公式記録として数字がきれいに残っているのは本当にありがたいことです。

検索で出てくる同姓同名の別人

もうひとつ、調べる側が混乱しやすい事情があります。

柿本という姓で検索すると、元プロ野球選手とは無関係な企業や人物が上位に並んでしまうんです。

たとえば株式会社柿本商会という企業の採用情報が検索結果に混ざってくることがあります。

これは柿本実さんのブライダルサロンとはまったく別の法人ですので、混同しないよう注意が必要です。

同じように、同姓の経営者や同名の一般の方の情報が引っかかるケースも珍しくありません。

下記の表は検索時に取り違えやすい情報を整理したものです。

関連検索には角盈男さんの息子さんや辻内崇伸さんの近況といった別人物の話題も混ざってきます。

これは同じ現在という言葉で検索する人が多いために起きる現象で、柿本実さんとは無関係です。

情報を読むときは、名前が本当に柿本実さんを指しているかを必ず確認してくださいね。

同姓同名の混同は、この手の昭和の選手を調べるときに最も起きやすい落とし穴です。

検索で出る情報 実際の内容 柿本実との関係
ブライダルサロン「柿本」 兵庫県西宮市の婚礼事業 本人が経営する事業
株式会社柿本商会 一般企業の採用情報 無関係の別法人
辻内崇伸の野球教室 元巨人投手の指導活動 別人物の記事
角盈男の息子の現在 関連検索からの流入 別人物の話題

現在を追える一次情報の少なさ

柿本実さんについては、本人が発信する一次情報がほぼ存在しません。

公式サイトやブログ、SNSアカウントは確認できず、近年のインタビュー記事も見当たりません。

人物情報の多くは2003年刊行のプロ野球人名事典という書籍を出典としており、20年以上前の時点での記述がそのまま参照され続けている状態です。

つまりブライダルサロン経営という情報自体、最新の確認が取れているわけではないという点は押さえておきたいところです。

とはいえ、それを否定する材料も一切ありません。

公開資料に基づけば西宮市でサロンを営んでいるという理解が最も妥当だと言えます。

曖昧なところは曖昧なまま伝えるのが、この手の人物記事ではいちばん誠実だと思うんですよ。

人物事典の記述は刊行時点の調査結果ですから、あくまで当時の状況を示すものです。

それでも事典という性格上、編集部が本人や関係者に確認を取って掲載しているケースが多くあります。

だからこそ、ブライダルサロン経営という情報の信頼性は高いと判断できるわけですね。

一方で店舗の現況まで保証するものではない、という線引きは押さえておきたいところです。

この点を踏まえたうえで読み進めていただけると嬉しいです。

情報を確かめたいときの参照先

では、柿本実さんの情報をもう少し掘りたい場合はどこを見ればいいのでしょうか。

いちばん確実なのは日本野球機構のNPB公式サイトで、個人年度別成績のページに10年分の投球成績が掲載されています。

経歴欄には苅田高、豊国セメント、日炭高松という3つの所属先が並び、球団の表記も公式のものです。

現役時代のエピソードを知りたいなら、1982年にリイド社から刊行された森芳博さんの著書が参考になります。

この本の114ページから119ページにかけて、中日時代の柿本実さんについて詳しく書かれているんですよ。

社会人野球時代の実績は、1990年に日本野球連盟と毎日新聞社がまとめた都市対抗野球大会60年史に記録が残っています。

気になる方は公式データベースと書籍の両方をあたってみるのがおすすめですよ。

スポーツニッポンの猛虎人国記という連載も、阪神と各県の縁を知るうえで読み応えがあります。

こうした資料を重ねることで、断片的な情報が少しずつつながっていきますよ。

柿本実が現在も語られる現役時代の記録

  • 苅田高から日炭高松までの歩み
  • 南海1試合から中日での開花
  • 1963年の最優秀防御率と21勝
  • 長嶋茂雄への一球が招いた乱闘
  • 阪神時代の完封劇と暴投0の記録

苅田高から日炭高松までの歩み

ここでは柿本実さんがどのようにして投手になり、プロの目に留まるまで成長したのかを時系列で追っていきます。

苅田高校時代は三塁手だった

意外に思われるかもしれませんが、柿本実さんは高校時代は投手ではなく内野手でした。

福岡県立苅田高等学校での守備位置は三塁手で、マウンドに立つ選手ではなかったんですよ。

三塁手というポジションは強い送球が求められるため、もともと腕の力には恵まれていたのだと考えられます。

のちに176cm、83kgという体格に成長したことからも、素材としての体の強さは高校時代から持っていたのでしょう。

ただ、この時点では甲子園での活躍やプロのスカウトの注目といった話は出てきません。

地方の県立高校で野球を続けていた、ごく普通の高校生だったというのが実情です。

そこから10年足らずで最優秀防御率投手になるのですから、人生は何が起こるかわからないなと思いますよね。

三塁手から投手へという転向は、プロ野球では決して珍しい話ではありません。

打球への反応や送球の強さを評価されて、マウンドを任されるケースは昔から多くあります。

ただ柿本実さんの場合、転向のタイミングが高校卒業後というかなり遅い時期でした。

10代のうちに投手として基礎を固めた選手と比べれば、スタート地点はずっと後ろにあったわけです。

それでもプロでタイトルを獲るところまで到達したのは、素材の良さと努力の両方があったからですね。

豊国セメントで投手に転向

高校卒業後、柿本実さんは準硬式野球の豊国セメントに進みます。

豊国セメントは地元苅田町に拠点を置くセメント会社で、企業の野球部として活動していました。

そしてこのチームで、三塁手から投手へという大きな配置転換を経験します。

準硬式というのは硬式と軟式の中間にあたるボールを使う競技で、社会人野球では独自のカテゴリーを形成しています。

この転向が柿本実さんの野球人生を決定づけたと言っても大げさではありません。

なお所属先の表記については注意点があり、日本野球機構の公式記録では豊国セメントと記載されています。

一方で百科事典的な記述では豊岡セメントと表記されており、資料によって社名の表記が揺れている状態です。

公式記録を優先するなら豊国セメントが正しい表記だと考えられますよ。

準硬式から硬式へ、そして社会人からプロへという段階的なステップアップも興味深いところです。

当時の企業スポーツは、働きながら競技を続けられる貴重な受け皿として機能していました。

苅田町のような工業地帯では、企業チームが地域のスポーツ文化を支えていたんですよ。

柿本実さんが投手として生きる道を見つけられたのも、そうした環境があったからこそです。

もし準硬式のチームに進まなければ、最優秀防御率投手は生まれていなかったかもしれませんね。

日炭高松と深見安博の指導

準硬式で投手としての手応えを得た柿本実さんは、硬式野球に転じて日炭高松へ移籍します。

日炭高松は日本炭礦の企業チームで、当時の福岡県を代表する社会人野球の強豪でした。

ここで出会ったのが、監督を務めていた深見安博さんという指導者です。

深見安博さんの指導を受けたことで、柿本実さんの投手としての完成度が一気に高まっていきます。

同じ時期のチームメートには龍憲一さんと黒江幸弘さんという、のちにプロ入りする選手も名を連ねていました。

とくに黒江幸弘さんは巨人で長く活躍した内野手で、同じチームで汗を流した時期があったというのは興味深い縁ですね。

下記の表はプロ入り前の歩みをまとめたものです。

日炭高松という社名は日本炭礦の高松鉱業所に由来し、筑豊の炭鉱産業と結びついたチームです。

石炭が国のエネルギーを支えていた時代、企業チームの野球は地域の誇りそのものでした。

そうした環境で硬式の実戦経験を積んだことが、プロでの土台になったと考えられます。

時期 所属 ポジション・出来事
高校時代 福岡県立苅田高等学校 三塁手として在籍
高校卒業後 豊国セメント(準硬式) 投手に転向
その後 日炭高松(硬式) 深見安博監督の指導を受ける
1959年 日炭高松 都市対抗野球で初勝利に貢献
1960年 南海ホークス プロ入り

1959年の都市対抗野球デビュー

1959年、日炭高松は都市対抗野球大会にチームとして初出場を果たします。

この舞台で柿本実さんは1回戦の電電東京戦にリリーフで登板し、好投してチームの初勝利に貢献しました。

都市対抗野球というのは社会人野球の日本一を決める大会で、プロのスカウトが大勢詰めかける場でもあります。

つまりこの1試合がプロへの切符をつかむきっかけになった可能性が高いんですよ。

続く2回戦では東洋レーヨンに惜敗し、チームの夏は終わりました。

それでも初出場で1勝を挙げたという結果は、企業チームとしては立派な成績です。

この年の活躍を経て、翌1960年に柿本実さんは南海ホークスへ入団することになります。

都市対抗野球の初出場で初勝利というのは、チームにとっても歴史的な一歩でした。

リリーフで好投したという記述から、すでに短いイニングを締める能力があったことが読み取れます。

のちに阪神でリリーフとして復活するのですから、原点はこのあたりにあったのかもしれません。

2回戦で東洋レーヨンに惜敗という結果も、当時の社会人野球の層の厚さを物語っています。

東洋レーヨンは都市対抗の常連で、強豪相手に惜敗というのは健闘した証ですよね。

この大会での経験が、プロの世界へ進む決意を固めるきっかけになったと考えられます。

南海1試合から中日での開花

プロ入り後の柿本実さんは、いきなりつまずきを経験します。

南海で1試合だけの登板

1960年、南海ホークスに入団した柿本実さんに与えられた機会はごくわずかでした。

公式記録によると、この年の登板はたった1試合、投球回は1回です。

その1回で3安打2四球を浴びて4失点しており、防御率は36.00という厳しい数字が残っています。

当時の南海は鶴岡一人監督が率いるパ・リーグの強豪で、投手陣の層も厚い時代でした。

社会人から入ってきた遅咲きの新人にとって、割って入る余地はほとんどなかったわけですね。

結果としてこの年のオフに自由契約となり、わずか1年でプロの世界から放り出されてしまいます。

普通ならここで野球人生が終わってもおかしくない状況ですよね。

当時の自由契約は、現在のような移籍の自由とは意味がまったく違います。

球団から戦力外を告げられ、拾ってくれる球団がなければそこで引退という厳しい制度でした。

社会人時代に実績を残していたとはいえ、プロでの実績は1回3失点だけという状態です。

この時点で柿本実さんを獲ろうとする球団があるかどうかは、まさに運まかせだったでしょう。

ここで声がかかったことが、のちの最優秀防御率につながっていくわけですね。

キャリアの分岐点としては、これほどはっきりした瞬間もなかなかありません。

自由契約から中日移籍へ

自由契約となった柿本実さんに手を差し伸べたのが、セ・リーグの中日ドラゴンズでした。

1961年、柿本実さんは中日に移籍して再スタートを切ります。

この年の成績は17試合に登板して3勝3敗、投球回63回2/3で防御率2.67という内容でした。

前年の防御率36.00から考えれば、数字の上では劇的な改善です。

シーズン後半には一軍に抜擢され、チームの優勝争いにも貢献しています。

この抜擢の裏には、打線の主軸だった江藤愼一さんが監督に進言したという経緯が伝えられています。

同じチームの野手から「あの投手を使ってほしい」と言われるというのは、相当な評価ですよね。

当時の監督は濃人渉さんで、この起用判断が柿本実さんの転機になりました。

1961年の中日は中盤まで優勝を争っており、投手陣に余力が必要な状況にありました。

そこへ割って入った柿本実さんは、17試合という限られた機会で結果を出しています。

防御率2.67という数字は、一軍の戦力として十分に通用するレベルです。

前年の自由契約から1年で評価を覆したのですから、よほど必死に取り組んだのだと思います。

移籍1年目で監督の信頼を得るというのは、実力と人柄の両方が必要なことですよね。

近藤貞雄が授けたサイドスロー

中日での飛躍を決定づけたのは、投球フォームの改造です。

柿本実さんはそれまでオーバースローで投げていましたが、近藤貞雄コーチの指導でサイドスローに転向しました。

この変更によって才能が一気に開花したと記録されています。

サイドスローは横から腕を振るため、右投手なら右打者の外側へ逃げる球筋が自然に生まれます。

柿本実さんの武器はスライダー、シュート、シンカーという3種類の変化球でした。

いずれも横の変化や沈む動きを持つ球種で、サイドスローの腕の軌道と相性がとても良いんですよ。

近藤貞雄さんは投手の個性を見抜いて活かすことで知られた指導者で、その手腕がここでも発揮された形です。

フォームを変える決断ができた柿本実さん自身の素直さも、成功の要因だったと言えますね。

オーバースローからサイドスローへの転向は、全身の使い方を根本から変える作業です。

長年染みついた動きを捨てる勇気がなければ、途中で元に戻してしまうケースも多くあります。

柿本実さんはそれをやり切り、翌年に20勝という結果でこたえました。

サイドスローは打者から見ると球の出どころが見えにくく、特に右打者には厄介な角度になります。

シュートで内角を突き、シンカーで沈め、スライダーで外へ逃げるという組み立てが可能になりました。

1962年の開幕戦完投勝利

そして1962年、柿本実さんはプロ野球史に残る記録をつくります。

この年の開幕戦で完投勝利を挙げ、これが自身のプロ初完投勝利となりました。

実はこれ、開幕戦でプロ初完投勝利を記録したのは日本プロ野球史上初という珍しいケースなんです。

シーズンを通しても60試合に登板して40先発、16完投3完封という驚異的な働きを見せました。

最終成績は20勝17敗、投球回318回1/3、防御率2.06で奪三振157です。

この20勝はチーム内では権藤博さんに次ぐ2位の数字で、初めて規定投球回に到達したシーズンでもありました。

防御率2.06はリーグ7位にランクインしており、名実ともに一軍の柱になったことがわかります。

60試合に登板して318回1/3を投げるというのは、現在の感覚ではちょっと信じられない数字ですよね。

先発40試合に加えて20試合のリリーフをこなしており、投げられるだけ投げた時代の典型です。

16完投3完封という内容からも、試合を任されれば最後まで投げ切る存在だったことがわかります。

無四球試合を5度記録している点も、制御の良さを示す立派な数字です。

プロ3年目でここまでの働きを見せたのですから、球団としては願ってもない戦力でした。

1963年の最優秀防御率と21勝

ここでは柿本実さんのキャリアで最も輝いた1963年について、数字と出来事の両面から掘り下げていきます。

21勝と防御率1.70の中身

結論から言うと、1963年はチーム最多の21勝を挙げて最優秀防御率のタイトルを獲得したシーズンです。

登板数は48試合で、そのうち28試合が先発でした。

完投は12回、完封は3回を記録し、無四球試合も3度達成しています。

投球回は260回ちょうどにのぼり、被安打208、与四球42という安定した内容でした。

防御率1.70という数字は、9イニングを投げて2点も取られない計算になります。

奪三振は83と決して多くありませんが、WHIPは0.96で1イニングに1人も走者を出さない精度の高さが光ります。

三振で押すタイプではなく、打者との読み合いで打ち取る技巧派だったことが数字からも伝わってきますよ。

下記の表は中日時代の年度別成績をまとめたものです。

48試合のうち28試合が先発ですから、残りの20試合はリリーフでの登板になります。

先発もリリーフもこなしながら防御率1.70というのは、相当なタフさがないと成り立ちません。

年度 登板 勝敗 投球回 防御率
1961年 17 3勝3敗 63回2/3 2.67
1962年 60 20勝17敗 318回1/3 2.06
1963年 48 21勝13敗 260回 1.70(リーグ1位)
1964年 50 15勝19敗 277回2/3 2.85
1965年 31 9勝7敗 151回2/3 3.14

オールスターに3度の出場

柿本実さんはオールスターゲームに3度選ばれています。

出場年は1962年、1963年、1965年の3回です。

20勝を挙げた1962年と、タイトルを獲った1963年に選出されているのは当然の結果ですよね。

注目したいのは、成績が下降した1965年にも選ばれているという点です。

この年の成績は9勝7敗で防御率3.14ですから、数字だけなら当落線上と言えます。

それでも球宴の舞台に呼ばれたのは、強気なピッチングと個性派としての人気があったからだと考えられます。

ファン投票の時代ですから、見ていて面白い投手として支持されていたということですね。

オールスターゲームは当時からプロ野球最大のお祭りで、選ばれること自体が勲章でした。

とくに1962年と1963年は中日の投手陣を代表する立場で球宴のマウンドに立っています。

権藤博さんという同僚の大エースがいながら選出されたのですから、評価の高さがうかがえます。

3度の出場という記録は、現在もプロ野球の公式記録として残っています。

セ・リーグを代表する投手として認められた時期が確かにあったという証拠ですよ。

球宴の舞台で投げた経験は、本人にとっても生涯の思い出になったはずですよね。

1964年と1965年の成績推移

タイトルを獲った翌1964年、柿本実さんは50試合に登板して15勝19敗という成績を残します。

勝ち星は15と二桁を維持しましたが、敗戦が19に膨らんで負け越しに転じました。

ただし完投は自身最多の18回を記録しており、投げた回数は277回2/3と相変わらずの働きぶりです。

与四球が79に増えている点が気になるところで、前年の42から倍近くに悪化しています。

続く1965年は31試合で9勝7敗、投球回151回2/3と登板機会が大きく減りました。

防御率も3.14まで上がり、黄金期だった2年間からの変化がはっきり表れたシーズンになります。

1962年から1964年まで3年連続で260回以上を投げた反動が出たのかもしれませんね。

実際、1962年から1964年の3年間で合計856回を投げている計算になります。

現在の先発投手が年間150回前後ですから、3年でおよそ6年分を投げたことになりますよね。

肩や肘のケアという概念が薄かった時代の投手は、こうして消耗していくことが多くありました。

それでも1964年に18完投を記録している点は、意地のようなものを感じさせます。

成績が落ちた1965年も31試合に登板しており、起用は続いていたことがわかります。

左右の打席を入れ替えた打席

柿本実さんを語るうえで欠かせないのが、1963年8月28日の阪神戦で見せた打席です。

2回の自身の打席で、なんと1球ごとに左右の打席を入れ替えながら立ったという記録が残っています。

相手の投手は阪神のエースだった村山実さんで、球界を代表する本格派右腕です。

その村山実さんを相手に打席を行き来したうえで、6球目に三振に倒れました。

結果は三振ですが、エースを相手にこんな遊び心を見せられる度量がすごいですよね。

柿本実さんは自称スイッチヒッターとしても知られ、ナインの誰もその打撃をあまり信用していなかったと伝えられています。

こういう人を食った言動が話題を集め、個性派選手として人気を得ていたわけです。

投手が打席でふざけるというのは、普通なら相手に失礼だと怒られる行為ですよね。

それが許されるくらい愛されていたというのが、柿本実さんの立ち位置なのだと思います。

村山実さんのほうも、本気で向かってくる相手には全力で応えるタイプの投手でした。

1963年8月28日という日付まではっきり残っているあたり、よほど話題になったのでしょう。

記録に残る数字だけでなく、こうした逸話が語り継がれる選手は実は少ないんですよ。

ちなみにこの打席の記録は、人物事典にもきちんと書き残されています。

長嶋茂雄への一球が招いた乱闘

柿本実さんの名前が今も語られる理由のひとつに、ある試合で起きた騒ぎがあります。

1965年4月12日の巨人戦

舞台は1965年4月12日、中日ドラゴンズと読売ジャイアンツの一戦です。

マウンドの柿本実さんは、打席に立った長嶋茂雄さんに対して際どいシュートを投げ込みました。

シュートは右投手から右打者の内角へ食い込む球種で、当たればただでは済まないコースです。

この一球が引き金となり、球場全体を巻き込む乱闘騒ぎへと発展しました。

長嶋茂雄さんは当時の球界最大のスター選手で、巨人の看板そのものです。

その看板に向けて内角を突いたわけですから、ベンチが黙っていなかったのも当然ですよね。

この時期の巨人はV9の初年度にあたり、チームの勢いも最高潮にありました。

1965年の巨人は川上哲治監督のもとで9連覇の1年目を迎えた年です。

中日としては、その巨人の勢いを止めるために内角を厳しく攻める必要がありました。

柿本実さんの持ち球であるシュートは、まさにその役割を担う球種です。

際どいところを突くというのは勝負の一環ですが、スター選手が相手となると話が大きくなります。

4月12日という開幕直後の時期だったことも、火がつきやすい状況だったと言えますね。

シーズンの主導権を握るための駆け引きが、そのまま乱闘に発展した構図です。

ベンチ全体が飛び出す規模の騒ぎですから、球場は相当な騒然ぶりだったでしょうね。

金田正一らが退場した騒ぎ

乱闘の結果、巨人側から2人の選手が退場処分を受けています。

そのなかに名前が挙がっているのが、通算400勝投手として知られる金田正一さんです。

金田正一さんはこの年に国鉄スワローズから巨人へ移籍したばかりで、球界最大の実績を持つ大投手でした。

その金田正一さんが退場になるほどの騒ぎだったという点で、事の大きさが伝わってきます。

当時のプロ野球は乱闘が珍しくない時代でしたが、それでも大物が退場する展開はニュースになりました。

一方で、際どい球を投げた柿本実さん自身は退場処分を受けていません。

この点も含めて、記録として語り継がれる一戦になっています。

乱闘というのは、どちらが先に手を出したかで処分が変わるものです。

柿本実さんが退場にならなかったのは、投球そのものは勝負の範囲内と判断されたからでしょう。

当時の審判は投手の内角攻めに対して比較的寛容で、危険球退場という制度もありませんでした。

そうした時代背景を踏まえると、この騒ぎの構図が少し見えてきますよね。

金田正一さんはこの年に巨人へ移り、1969年に現役を引退しています。

球界の大投手と若手の個性派投手がぶつかった一件として、今も語られる場面です。

世代も実績も違う二人が本気でぶつかれたのは、昭和のプロ野球らしい熱さですよね。

蹴られても完投した度胸

この乱闘のなかで、柿本実さんは金田正一さんから蹴りを受けたと記録されています。

それでも試合を降りることなく、そのまま最後まで投げ切って勝利投手になりました。

蹴られてなお完投勝利というのは、ちょっと漫画みたいな展開ですよね。

気持ちで押し負けないという点において、柿本実さんの心臓の強さが際立つエピソードです。

先に触れたとおり、スピードや変化球の切れで押すタイプではなく、打者とのかけひきと度胸が武器の投手でした。

そういう投手が大舞台で動じないというのは、強みが本物だったことの証明になります。

この試合の勝利は、柿本実さんの名前を球史に刻む1勝になったと言えますよ。

乱闘のあとというのは、球場の空気が張り詰めて平常心を保つのが難しくなります。

ましてや自分が騒ぎの発端で、相手選手から蹴りを受けた直後という状況です。

そこから最後まで投げ切るには、技術よりも精神力が必要だったはずですよね。

この年の柿本実さんは3完投を記録しており、そのうちの1つがこの試合だった可能性があります。

完投数が少ないシーズンだったからこそ、この1試合の重みが際立ちますよね。

9勝7敗という成績の1勝ですが、意味合いはほかの勝ち星とまったく違います。

乱闘の当事者が勝利投手になるという結末は、物語としても出来すぎています。

人を食った言動と人気

柿本実さんは強気なピッチングと人を食った言動で話題を集めた選手でした。

先ほどの左右の打席入れ替えもそうですが、やることが毎回予想を裏切るんですよ。

投げたあとに体を大きく左へ傾ける独特の投球フォームも知られており、当時のメジャーリーガーになぞらえて語られています。

あまりに体を泳がせすぎて足を滑らせ、投手ゴロが中前安打に抜けたという笑い話まで残っています。

こうしたちゃめっ気のあるキャラクターがファンに愛された理由でしょうね。

成績だけでは測れない人気というのは、こういうところから生まれるのだと思います。

現在も柿本実さんの名前が語られるのは、記録と人柄の両方が残っているからですよ。

強気なピッチングという評価は、内角を使うことをためらわない姿勢の裏返しです。

打者に恐れられる投手は長く生き残れるというのは、今も昔も変わらない真理ですよね。

一方で軽口を叩いて場を和ませる面もあり、チームメートにとっては愉快な先輩だったはずです。

記録には残らないこうした性格の部分こそ、人物像を知るうえで大事な要素だと思います。

数字だけ見れば通算83勝の投手ですが、語られる量はそれ以上に多い選手なんですよ。

個性で記憶される選手というのは、球史においてとても得な立ち位置だと思います。

阪神時代の完封劇と暴投0の記録

ここでは柿本実さんの現役最終章にあたる阪急と阪神での日々、そして通算成績に残った珍しい記録を整理します。

阪急への交換トレード

1966年、柿本実さんは中日ドラゴンズを離れて阪急ブレーブスへ移籍します。

このときの移籍は佐藤公博さんとの交換トレードという形で実現しました。

前年の成績が9勝7敗と下降していたこともあり、球団としては若返りを図る判断だったのでしょう。

しかし阪急での1年は、柿本実さんにとって苦しいシーズンになります。

登板は16試合で先発はわずか3試合、投球回35回1/3で0勝1敗という成績でした。

防御率は5.66まで悪化し、このシーズン限りで自由契約となってしまいます。

南海時代に続いて2度目の自由契約で、30代に入ってまた所属先を失う厳しい現実に直面しました。

佐藤公博さんは阪急から中日へ移った投手で、このトレードは投手同士の交換でした。

阪急は当時パ・リーグで上位進出を狙う時期にあり、経験ある投手を求めていたと考えられます。

しかし本拠地が同じ西宮でも、リーグが変わると打者の傾向もまったく違ってきます。

セ・リーグで築いた組み立てが通用せず、3先発で結果を残せなかったという見方もできますよ。

35回1/3で42安打を浴びているあたり、球威と制球の両方が噛み合わなかったのでしょう。

わずか1年での自由契約という結果は、本人にとっても納得しづらいものだったはずです。

阪神でのリリーフ転向

1967年、柿本実さんを拾い上げたのが阪神タイガースでした。

ここから3年間、主にリリーフ投手として存在感を発揮していきます。

移籍1年目の1967年は20試合に登板して4勝0敗、勝率1.000で防御率1.52という好成績を残しました。

投球回82回2/3で被安打75、与四球19という内容で、先発も10試合任されています。

1968年は34試合で8勝7敗、投球回134回2/3に防御率3.20という数字でした。

年齢を重ねても一定の仕事を続けられたのは、技巧と度胸で勝負するスタイルだったからですね。

1967年の勝率1.000という数字は、4度の勝ち星すべてを無敗で積み上げた結果です。

防御率1.52は自身のキャリアで最も低い数値で、晩年に迎えた2度目のピークと言えます。

自由契約から拾われた選手がここまで働くのですから、阪神の判断は見事でした。

リリーフという役割が、技巧派になった柿本実さんの持ち味とうまく噛み合ったんですよね。

短いイニングであれば球威の低下も大きな問題になりませんから、起用法としても理にかなっています。

下記の表は阪急と阪神時代の成績をまとめたものです。

年度 球団 登板 勝敗 防御率
1966年 阪急ブレーブス 16 0勝1敗 5.66
1967年 阪神タイガース 20 4勝0敗 1.52
1968年 阪神タイガース 34 8勝7敗 3.20
1969年 阪神タイガース 23 3勝4敗 3.27

1969年の珍しい完封勝利

現役最終年の1969年、柿本実さんは忘れられない1試合を残しました。

大洋ホエールズ戦で、二桁以上の安打を打たれながら完封勝ちを収めたんです。

両リーグを通じてもほかに見当たらないという、ちゃめっ気たっぷりの珍記録でした。

この登板はもともと予定にはなく、伊藤さんが発熱したことで急に先発の順番が回ってきたものです。

柿本実さん自身も「打順がオレに一回くらいまわってくればめっけもの」と自信のなさを漏らしていたそうですよ。

試合後は「びっくりしてもうて」を連発し、6回あたりから「これはひょっとしたら」と気持ちを締め直したと語っています。

リードについては「うまく田淵がリードしてくれた」と当時の若き捕手を立てるコメントを残しました。

9回には代打の重松さんを前にして捕手を呼び、一塁ベースを指さして歩かせようかと相談する場面もありました。

これを見た後藤監督が「冗談じゃない。オイ、カキ、勝負や、勝負ー」と慌てたという話まで伝わっています。

試合後に味方の安打が3本だけだったと聞かされ、「エッ、三本?知らんかったな」と目を丸くしたそうです。

最後は「知らんかってよかったわ」と締めたというのが、いかにも柿本実さんらしいですよね。

通算1402回1/3で暴投0

柿本実さんの通算成績で最も語られるのが、暴投の数です。

結論から言うと、通算1402回1/3を投げて暴投は0という記録を残しています。

暴投というのは捕手が止められないような大きく外れた投球のことで、1400回以上投げて一度もないというのは驚異的です。

コントロールの精度と、捕手が構えたところに投げ切る意識の高さがあってこその数字ですね。

通算成績は300試合登板で173先発、53完投14完封11無四球、83勝71敗で勝率.539でした。

被安打1238、与四球276、奪三振645、防御率2.55、WHIP1.08という内容です。

以下の表で通算成績を整理してみます。

暴投0という記録は、投球数が多い投手ほど達成が難しくなります。

5600人の打者と対戦してワンバウンドの暴投が一度もないというのは、ちょっと異常な精度ですよね。

一方でボークは3つ記録されており、完璧な投手ではなかったという人間味もあります。

項目 通算記録
登板・先発 300試合・173先発
勝敗・勝率 83勝71敗・.539
完投・完封 53完投・14完封
投球回 1402回1/3
奪三振・与四球 645・276
防御率・WHIP 2.55・1.08
暴投 0(通算で一度もなし)

柿本実の現在と記録の総まとめ

  • 元中日の柿本実は現在も兵庫県西宮市で健在とされている
  • 現在の職業は西宮市のブライダルサロン柿本の経営である
  • 1935年10月5日に福岡県京都郡苅田町で生まれた
  • 苅田高では三塁手で豊国セメントで投手に転向している
  • 日炭高松では深見安博監督の指導で都市対抗初勝利に貢献
  • 1960年に南海入団も1試合のみで自由契約となった
  • 1961年に中日へ移り近藤貞雄の指導でサイドスロー転向
  • 1962年の開幕戦完投勝利はプロ野球史上初の記録だった
  • 1963年は21勝と防御率1.70で最優秀防御率を獲得
  • オールスターには1962年と1963年と1965年に出場
  • 1965年4月12日の巨人戦で長嶋茂雄への一球が乱闘を招く
  • 金田正一から蹴られながらも完投して勝利投手になった
  • 1967年に阪神へ移りリリーフとして1969年まで投げた
  • 通算1402回1/3を投げて暴投0という記録を残している
  • 引退後は阪神で1970年から4年間投手コーチを務めた

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