小池兼司の現在は大阪ホークスドリーム終身名誉監督で今も語る日本一

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小池兼司さんの現在について、どこで何をしている人なのかを知りたいと感じている方は多いです。

小池兼司さんは1964年の南海ホークス日本一を支えた名遊撃手で、ベストナインを4年連続で受賞した昭和プロ野球を代表する守備の名手ですよ。

現役引退から半世紀が過ぎた今も野球の現場との縁は切れておらず、大阪ホークスドリームの終身名誉監督という肩書きを持ち続けています。

この記事では小池兼司さんの現在の立場や近年の取材で語った言葉、そして今も語り継がれる記録までを公開情報だけをもとに整理していきます。

記事のポイント

①:現在は大阪ホークスドリーム終身名誉監督

②:2020年2月に終身名誉監督へ就任した

③:遊撃手で1494試合は球団最多タイ記録

④:1968年の球宴でMVPに選ばれている

小池兼司の現在は大阪ホークスドリーム終身名誉監督

  • 現在の肩書きは終身名誉監督
  • 大阪ホークスドリームでの役割
  • 2023年の取材で語った日本シリーズ
  • 藤本博史へのエールと南海OBの絆
  • 情報が少ないと言われる理由

現在の肩書きは終身名誉監督

まず、小池兼司さんが今どんな立場にいるのか、事実関係から順番に確認していきましょう。

小池兼司のプロフィールと経歴

結論から言うと、小池兼司さんは大阪ホークスドリームの終身名誉監督という肩書きを持つ人物です。

1939年2月5日に静岡県浜松市で生まれ、浜松商業高校から専修大学を経て1961年に南海ホークスへ入団しました。

身長169cm、体重70kgという小柄な体格ながら、俊足と強肩を生かした広い守備範囲で1960年代のパ・リーグを代表する遊撃手になった選手ですよ。

現役生活は南海ホークス一筋の14年間で、1974年に引退しています。

下記の表は小池兼司さんの基本情報をまとめたものです。

項目 内容
氏名 小池兼司(こいけ けんじ)
生年月日 1939年2月5日
2026年11月02日現在の年齢 87歳
出身地 静岡県浜松市
身長・体重 169cm・70kg
投打 右投右打
ポジション 遊撃手
出身校 静岡県立浜松商業高校・専修大学
所属球団 南海ホークス(1961〜1974年)
選手時代の背番号 2
主な表彰 ベストナイン4回・日本シリーズ技能賞・オールスターMVP
通算成績 1536試合・1003安打・104本塁打・473打点・打率.226
現在の肩書き 大阪ホークスドリーム終身名誉監督

引退後は南海からダイエーへと球団名が変わる時期にコーチや二軍監督を務め、編成部長やスカウトまで経験しています。

つまり選手としてだけでなく、指導者と球団職員の両面からプロ野球に関わってきた人なんですね。

その後は台湾プロ野球でもコーチを務め、キャリアの最後に行き着いた場所が大阪ホークスドリームというクラブチームでした。

終身名誉監督へ就任するまでの流れ

小池兼司さんが大阪ホークスドリームと関わり始めたのは2012年のことです。

このときの肩書きはシニアアドバイザーで、チームの技術面を外から支える立場でした。

そこから2年後の2014年4月に大阪ホークスドリーム女子硬式野球部の総監督へ就任し、現場の最高責任者という立場に変わっています。

そして2020年2月、総監督から終身名誉監督へと肩書きが変わりました。

以下の表で大阪ホークスドリームでの役職の変化を整理してみます。

時期 役職 立場の内容
2012年 シニアアドバイザー 技術面を助言する外部の立場
2014年4月 女子硬式野球部総監督 現場の最高責任者
2020年2月 終身名誉監督 功績をたたえる終身の肩書き

注目したいのは、総監督として現場に立っていた期間が6年近くあったという点です。

名前だけを貸すアドバイザーではなく、実際にユニフォームを着てチームを率いていた時期があったわけですね。

終身名誉監督という役職名は、その6年間の働きに対する球団側の答えだったと受け取れます。

シニアアドバイザーという役職は、技術面の助言に特化した立場として置かれるケースが多いポジションです。

そこから現場の最高責任者である総監督へ上がった流れは、球団側が指導力を高く評価した結果だと受け取れます。

6年間の総監督時代を経て肩書きが変わったことで、日々の采配からは一歩引いた立場になりました。

それでも名前がチームに残り続けている点が、この役職のいちばん大きな意味なんですよね。

終身名誉監督という肩書きの意味

終身名誉監督という言葉は、プロ野球の世界ではあまり見かけない役職名ですよね。

一般的に名誉監督は、長く指揮を執った人物の功績を永続的にたたえるために用意される肩書きです。

そこに終身という言葉が付くことで、本人が生涯その立場を持ち続けるという意味合いが加わります。

つまり小池兼司さんは、日々の試合采配から離れた今もチームの象徴として名前を残し続けているということですよ。

この肩書きは2020年2月に与えられたもので、その後に別の役職へ移ったという発表は確認できません。

そのため現在も終身名誉監督であると考えるのが自然です。

ここで押さえておきたいのは、小池兼司さんが選んだ最後の居場所が女子野球のクラブチームだったという事実です。

プロ野球のOBが古巣の球団でアドバイザーに就く例は珍しくありませんが、アマチュアの女子チームに10年以上関わり続けるケースはそう多くありません。

野球以外の分野にも名誉職は存在しますが、終身という言葉が付くケースはそれほど多くありません。

長く現場に立った人への敬意が、肩書きという形で表現されているわけですね。

小池兼司さんの場合は現役14年と指導者としての20年近い経験が土台にあり、評価の根拠がはっきりしています。

現在も現場に名を残している理由

では、なぜ小池兼司さんはここまで長く野球の現場に名を残しているのでしょうか。

答えのヒントは、現役時代に積み上げた守備の実績にあります。

小池兼司さんは1963年に遊撃手として113併殺というパ・リーグ記録を樹立し、1968年には連続守備機会無失策218回という当時の日本記録まで打ち立てました。

派手な長距離砲ではなく、守りで評価を取り続けた選手だったわけですね。

この種の技術は時代が変わっても価値が落ちにくく、むしろ若い世代に伝える価値が高まっていきます。

遊撃手の足の運び方や送球のタイミングといった細部は、本やデータでは伝わりにくい領域ですからね。

南海ホークスという球団が福岡へ移り、ダイエーからソフトバンクへと姿を変えた今、大阪に残る南海の記憶を背負う人物は限られています。

大阪ホークスドリームというチーム名にホークスの文字が残っていることも、小池兼司さんが関わり続ける理由と重なって見えますよ。

遊撃手というポジションは、体格よりも判断の速さと足の運びが問われる場所です。

現役と指導者の年数を合わせれば、小池兼司さんが野球に関わった期間は30年を超えています。

その蓄積を必要とする現場がある限り、名前が残り続けるのは自然なことなんですよね。

大阪ホークスドリームでの役割

ここでは小池兼司さんが名前を連ねている大阪ホークスドリームについて、公開情報からわかる範囲を整理します。

大阪ホークスドリームというチーム

大阪ホークスドリームは、女子硬式野球部を持つアマチュアのクラブチームです。

チーム名にホークスという文字が入っているとおり、かつて大阪を本拠地としていた南海ホークスの流れをくむ名前になっていますよ。

南海ホークスは1988年シーズンをもって身売りし、翌年から福岡ダイエーホークスとして九州へ移りました。

そのため大阪の街から南海というプロ球団の看板は消えましたが、ホークスという呼び名は形を変えて残っているわけですね。

小池兼司さんがこのチームに関わり始めたのは2012年のシニアアドバイザー就任からです。

南海ホークスで14年間プレーし、引退後も南海とダイエーで指導者を続けた人物がこの名前のチームに加わった流れは、とても自然なものだったと言えます。

公式サイトでは硬式野球部の女子チームとして活動内容が公開されており、選手の募集や試合の情報も掲載されています。

つまり現在も現役で活動しているチームであり、小池兼司さんの肩書きも過去の名残ではなく生きているものなんですね。

アマチュアのクラブチームは、企業の支援や地域の協力によって運営されるケースが一般的です。

そうした環境でプロ経験者が長く関わり続ける例は、決して多くありません。

小池兼司さんが10年以上も名を連ねている事実は、チームとの結びつきの強さを示していますよ。

女子硬式野球部としての活動

小池兼司さんが総監督を務めた期間は、日本の女子硬式野球が大きく動いた時期と重なっています。

就任した2014年前後は女子野球の競技人口が増え始めた時期で、高校や大学にも女子硬式野球部の設立が相次ぎました。

その流れの中でクラブチームは、学校を卒業した選手が競技を続ける受け皿として機能していきます。

小池兼司さんが2014年4月から2020年2月まで総監督を務めた6年間は、まさにその変化の只中だったわけですよ。

プロ野球で1536試合に出場した人物が女子チームの総監督に就く例は、当時はまだ多くありませんでした。

ベストナインを4度受賞した遊撃手が直接指導する環境は、選手にとって貴重な経験になったはずです。

下記の表は小池兼司さんが大阪ホークスドリームに関わってからの歩みを整理したものです。

年 小池兼司の立場 女子野球界の動き
2012年 シニアアドバイザー就任 女子硬式野球部の設立が増加
2014年 女子硬式野球部総監督就任 クラブチームの受け皿機能が拡大
2020年 終身名誉監督就任 女子プロ野球の再編が進む

役職の変化を並べてみると、関わり方が助言から現場指揮へ、そして象徴へと段階的に移っていることがわかります。

女子硬式野球は近年になって注目が高まった競技で、指導者の確保が長く課題になってきました。

総監督という肩書きは技術指導だけでなく、チーム運営にも責任を持つ立場ですよね。

伝えられる遊撃守備の技術

小池兼司さんが指導者として伝えられるものは何かと考えると、やはり遊撃守備の技術に行き着きます。

現役時代の小池兼司さんは、俊足と強肩を生かした広い守備範囲を持ち味としていました。

打率は通算.226という数字で、打撃で売った選手ではありません。

それでも14年にわたってレギュラーの座を守り続けたのは、守備の評価が突き抜けていたからですよ。

特に併殺を成立させる技術は際立っており、1963年には遊撃手として113併殺というパ・リーグ記録を打ち立てています。

併殺は投手の球数を減らし、ピンチの流れを一気に切る守備ですから、チームへの貢献度は数字以上に大きいんですよね。

二塁手との連携やベースへの入り方、送球を受けてから投げるまでの時間の削り方など、覚えることは山ほどあります。

こうした細かい技術こそ、経験者から直接教わることでしか身につかない領域だと思いませんか。

小柄な体格でパ・リーグを代表する遊撃手になった事実は、体格に恵まれない選手への説得力にもなりますよね。

打球への入り方1つで、間に合う打球と間に合わない打球が分かれてしまいます。

併殺の数を伸ばすには、打球を処理する速さだけでなく送球の正確さも欠かせません。

どちらも反復でしか身につかない技術で、だからこそ経験者の助言が効いてくるわけですよ。

南海ホークスの名を継ぐ意味

最後に、大阪ホークスドリームというチーム名が持つ意味を考えてみます。

南海ホークスは1938年に創設され、プロ野球最多勝監督の鶴岡一人さんが長く率いた名門球団でした。

小池兼司さんが入団した1961年は鶴岡一人さんが監督を務めていた時期で、レギュラーに抜てきされたのもその鶴岡一人さんの判断です。

南海は1960年代に3連覇を含む4度のリーグ優勝を果たし、小池兼司さんはその全てに貢献しました。

その南海ホークスが大阪から消えて30年以上が過ぎ、当時を知る選手も年々少なくなっています。

だからこそ、ホークスという名を掲げるチームに南海の正遊撃手だった人物が名を連ねていること自体に価値があるんですよ。

終身名誉監督という肩書きは、技術指導者としての評価と同時に、球団史の語り手としての役割も含んでいるように見えます。

大阪ホークスドリームでの小池兼司さんの立ち位置について、少しイメージが湧きやすくなれば嬉しいです。

大阪球場で南海の試合を見た記憶を持つ人も、年々少なくなっているのが現実です。

そうした状況で現場に関わり続ける小池兼司さんの存在は、記録と記憶の両方をつないでいますよね。

現在の肩書きには、そうした歴史を継承する役割も込められているように見えますよ。

2023年の取材で語った日本シリーズ

2023年10月、小池兼司さんが日刊スポーツの取材に応じて59年前の日本シリーズを振り返っています。

日刊スポーツの取材に応じた近況

この取材が掲載されたのは、日刊スポーツの名物編集委員である寺尾博和さんのコラム「寺尾で候」です。

掲載日は2023年10月24日で、ちょうど阪神とオリックスによる関西勢同士の日本シリーズが始まる直前でした。

取材の切り口は、1964年に南海が阪神を破った日本シリーズを語れる数少ない存在としての証言という形になっています。

59年前の対決を当事者として語れる人物は、この時点でもう限られていたわけですね。

コラムの冒頭では小池兼司さんが名ショートとして紹介され、南海のオールドファンならこの人の名を知らない者はいないだろうと書かれています。

実際に小池兼司さんは、浜松商から専修大を経てプロ入りし、鶴岡一人さんの目にかなってレギュラーへ抜てきされた経歴を持っています。

この取材で注目したいのは、記憶の細かさです。

当時の相手チームの内野陣の名前まで即座に挙げており、59年という年月を感じさせない語り口になっていますよ。

このコラムでは、南海で100万ドルの内野陣といわれた系譜を受け継いだのが小池兼司さんの世代だという指摘もされています。

取材に応じる機会そのものが少ない人物ですから、この記事の資料価値はかなり高いと言えますよ。

勝因は反骨心という言葉

1964年の日本シリーズは、南海が阪神に4勝3敗で勝って2度目の日本一を達成した戦いでした。

ジョー・スタンカが連続完封するという圧倒的な投球もあり、第7戦までもつれた末の決着です。

この勝因について小池兼司さんは「でもあえて勝因を挙げるとしたら反骨心だったと思うんだよ」としみじみ振り返っています。

戦力や戦術ではなく、気持ちの問題を真っ先に挙げたところが印象的ですよね。

その背景として語られたのが、当時のプロ野球における人気の偏りです。

小池兼司さんは「巨人は水原さん、川上さんと監督が続いた強い時代だからね」と前置きしたうえで、「パ・リーグは南海、西鉄も人気があったが、やっぱり巨人だった」と当時の空気を説明しています。

そして「だからセ・リーグには絶対に負けたくないという気概でぶつかっていったんだ」と続けました。

人気の差を実力で返すという発想が、チーム全体の原動力になっていたということですね。

2023年の阪神対オリックスを前にしても「セ・リーグには負けられないよ」と力を込めており、この感覚は現在まで変わっていないようです。

阪神との関西対決という構図も、当時のファンの関心をかき立てていました。

勝因を精神面に求める語り口は、データ重視の現代の分析とは違う重みを持っていますよね。

鶴岡一人への評価と骨折の話

取材のなかで小池兼司さんが語った鶴岡一人さんへの評価も、かなり踏み込んだ内容になっています。

鶴岡一人さんはプロ野球最多勝監督であり、親分と呼ばれた南海の象徴的な指揮官でした。

小池兼司さんは「親分は雲の上の人だったけど、『この人についていけば勝てる』という貫禄があった」と表現しています。

単なる敬意ではなく、勝てる監督だという確信があったという言い方になっているのが興味深いところです。

さらに驚くのが、シーズン中の起用をめぐるエピソードですよ。

小池兼司さんは右手の人さし指を骨折していた時期にも黙ってスタメンで使われていたと明かしています。

本人は「こちらが右人さし指を骨折してるのに、黙ってスタメンで使うんだもん」と振り返り、「お前に任せたぞというメッセージなんだよ」と受け止め方を語りました。

言葉で説明せず起用で意思を伝えるという、昭和の監督像がそのまま表れた話ですよね。

鶴岡一人さんが残した「グラウンドにゼニが落ちてる」という名言も有名ですが、その若手候補として名が挙がっていたのが小池兼司さんでした。

骨折しながら出場を続けた選手を、監督が何も言わずに起用し続けたという話です。

今の時代なら考えにくい起用法ですが、当時の信頼関係の形がよく表れたエピソードですよね。

人気のセ実力のパという時代

かつてのプロ野球には、人気のセ・実力のパという色分けが存在しました。

セントラル・リーグには巨人があり、観客動員や報道の量で圧倒的な存在感を示していた時代です。

一方のパシフィック・リーグには南海や西鉄といった強豪が揃い、実力の高さで対抗していました。

小池兼司さんの証言は、この構図が選手の心にどう作用していたかを教えてくれます。

下記の表は1964年の日本シリーズをめぐる基本情報を整理したものです。

項目 内容 補足
対戦カード 南海ホークス対阪神タイガース 1964年の日本シリーズ
結果 南海が4勝3敗で日本一 球団としては2度目
南海の主戦投手 ジョー・スタンカ シリーズで連続完封
阪神の内野陣 吉田義男・三宅秀司・鎌田実 小池兼司が華麗さを証言
小池兼司の成績 全7試合出場で打率3割4分8厘 6番と7番で起用

小池兼司さんは阪神の守りについて「まるでアクロバットを見ているような華麗さだった」と評しています。

敵の守備陣を称賛できるのは、自分自身が守備で生きてきた選手だからこそですよね。

ここ、気になるポイントだと思うので、新しい証言が出てくれば今後も追いかけていきます。

当時のパ・リーグは実力の高さを評価されながら、注目度の面では苦戦していました。

だからこそ日本シリーズは、リーグの力を示せる唯一の舞台になっていたわけですよ。

藤本博史へのエールと南海OBの絆

同じ2023年の取材では、小池兼司さんが教え子にあたる人物へ向けた言葉も残しています。

2軍監督時代の愛弟子・藤本博史

その相手が、ソフトバンクの監督を退任した藤本博史さんです。

藤本博史さんが南海ホークスへ入団した当時、二軍監督を務めていたのが小池兼司さんでした。

小池兼司さんの二軍監督時代は1983年から1985年までの3年間で、ちょうどこの時期に入団してきた若手の1人が藤本博史さんだったわけですね。

2023年のソフトバンクはクライマックスシリーズのファーストステージで敗退し、藤本博史さんは監督を退くことになりました。

その知らせを受けて小池兼司さんが口にしたのが「よく監督までなったけど、おれは博史がかわいそうでならないよ」という言葉です。

よく監督までなったという前半と、かわいそうでならないという後半が同時に出てくるあたり、40年近く見守ってきた人の実感がにじんでいますよね。

二軍監督というのは、プロの世界で生き残れるかどうかの瀬戸際にいる若手を預かる立場です。

その時期に接した選手が一軍の監督まで務めたとなれば、感慨もひとしおだったはずですよ。

二軍の指揮官は、一軍の試合に出られない選手と日々向き合う立場です。

そこで接した若手が後に一軍の監督まで務めたという巡り合わせは、そう多くありません。

小池兼司さん自身も二軍監督を3年務めており、若手を見る目には自信があったはずですよ。

短期決戦は難しいという実感

小池兼司さんは藤本博史さんをねぎらう流れで、短期決戦の性質についても語っています。

その言葉が「短期決戦は公式戦と違って難しいんだ」という一文です。

続けて「雰囲気にのまれて、勢いをつけすぎて、空回りしてもダメだしな」と、具体的な落とし穴まで挙げていますよ。

これは経験に裏打ちされた言葉だと受け取れます。

小池兼司さんは1964年の日本シリーズを全7試合フル出場で戦い抜いた選手ですからね。

しかも相手は本拠地の人気で勝る阪神で、第7戦までもつれる緊張感のなかで打率3割4分8厘を残しました。

雰囲気にのまれるという表現は、そこを切り抜けた側にしか出せない言い方ですよね。

短期決戦では力の差がそのまま出るわけではないという認識は、現在の野球にもそのまま通じる見立てだと思いませんか。

クライマックスシリーズのファーストステージは、少ない試合数で決着する短期決戦です。

レギュラーシーズンで積み上げた力が、そのまま反映されるとは限らない形式ですよね。

小池兼司さんが指摘した空回りという言葉は、気持ちが前に出すぎた状態を指しています。

経験者だからこそ、結果だけで教え子を評価しなかったのだと思いますよ。

二軍監督まで経験した人の言葉として、かなり重みのある見立てですよね。

100万ドルの内野陣の系譜

南海ホークスには、100万ドルの内野陣と呼ばれた時代があります。

これは守備力の高い内野手が揃っていた1950年前後の南海を評した呼び名で、その系譜を受け継いだのが小池兼司さんの世代でした。

小池兼司さんは先輩である木塚忠助さんや蔭山和夫さんといった名内野手から直接指導を受けています。

下記の表は南海ホークスの内野を支えた選手の流れをまとめたものです。

時代 主な内野手 特徴や関係
1950年前後 木塚忠助・蔭山和夫 100万ドルの内野陣と呼ばれた世代
1950年代後半 広瀬叔功 小池の入団後に中堅手へ転向
1960年代 小池兼司 遊撃手で113併殺のパ・リーグ記録
1980年代 藤本博史 小池が二軍監督だった時期に入団

こうして並べると、守備の技術が人から人へ手渡されてきた球団だったことがよくわかります。

小池兼司さんは受け手であり、同時に渡し手でもあったわけですね。

100万ドルという表現は、それだけの価値がある守備陣という意味で使われた言葉です。

当時の南海は打線の強さと守りの堅さを両立させ、1960年代の黄金期を築いていきました。

その系譜のなかで遊撃の定位置を任されたという事実が、評価の高さを物語っていますよね。

呼び名が残るほど、当時の南海の内野守備は高く評価されていたんですね。

木塚忠助と蔭山和夫からの教え

小池兼司さんが先輩から学んだ内容について、具体的な練習方法までは公開されていません。

ただ、木塚忠助さんと蔭山和夫さんがどんな選手だったかを知ると、受け継いだものの輪郭が見えてきますよ。

蔭山和夫さんは1950年に新人として9本塁打を放った選手で、この記録は小池兼司さんが1961年に並ぶまで球団の新人最多本塁打でした。

つまり小柄でも長打を打てる内野手という点で、2人は重なる部分を持っていたことになります。

木塚忠助さんは名遊撃手として知られた人物で、小池兼司さんと同じポジションの先輩にあたります。

同じ守備位置の先輩から指導を受けられた環境は、技術の習得にとって相当な強みだったはずです。

小池兼司さんが現在も大阪ホークスドリームで若い選手に関わり続けているのは、自分が先輩から受け取ったものを次へ渡すという姿勢の表れとも読めます。

南海OBのつながりは今後も語られていくはずなので、新しい情報があればまた整理していきますね。

先輩の技術を間近で見られる環境は、映像が手軽でなかった時代には何よりの教材でした。

同じポジションの動きを毎日見続けることで、細部の感覚が伝わっていったはずですよ。

技術の継承が球団の強さを支えていたことが、よくわかる話ですよね。

情報が少ないと言われる理由

小池兼司さんを調べていくと、残した実績に比べて情報量が少ないという指摘に行き当たります。

書籍やインタビューが少ない現状

野球ファンのブログでは、小池兼司さんについて残した実績に対して情報が少な過ぎるという問題提起がされています。

実際に調べてみると、小池兼司さん本人を主題にした書籍は確認できません。

南海ホークスを特集した書籍では1人の選手として名前が出てくるものの、大きく特集された例はほとんど見当たらないんですよね。

インタビューや対談といった形式の記事も、ネット上では数えるほどしか見つかりません。

これだけの記録を持つ選手としては、かなり珍しい状況だと言えます。

その理由としてよく挙げられるのが、小池兼司さんがあまり表舞台に出たがらない性格ではないかという見方です。

ただし本人がそう語った記録はないため、これはあくまで推測の域にとどまります。

もう1つ考えられるのは、活躍した時期と場所の問題ですよ。

1960年代のパ・リーグは報道量そのものが少なく、記録が残りにくい環境でした。

指摘をしたブログの筆者は、本人から直接話を聞くのが理想だとまで書いていますよ。

現役当時や引退直後の書籍を探せば情報が出てくるのではないか、という見立ても示されています。

熱心なファンが探しても見つからないというのが、現状を一番よく表していますよね。

野村克也らの著書でも扱いが薄い

興味深いのは、南海の関係者が書いた本でも小池兼司さんの扱いが小さいという点です。

南海ホークスからは野村克也さんや広瀬叔功さんといった著書を多数出した人物が出ていますが、小池兼司さんについて大きく触れた箇所は見つかりません。

後輩にあたる門田博光さんの著書でも同様です。

これは不仲のような話ではなく、守備の名手という評価の性質によるものだと考えられます。

打撃記録やタイトルは数字で語りやすいのに対し、守備の価値は文章にしにくいんですよね。

しかも小池兼司さんの現役時代には、守備を評価する賞が存在していませんでした。

ゴールデングラブ賞があった時代なら、パ・リーグの遊撃手部門を小池兼司さんが独占していた可能性は十分あります。

その代わりとなるのがベストナインで、小池兼司さんは1963年から1966年まで4年連続で受賞していますよ。

近年の研究では、歴代遊撃手の守備得点という指標で小坂誠さんに次ぐ歴代2位という数字も示されています。

参考文献として挙げられているのは、広瀬叔功さんの著書や南海ホークスの特集ムックです。

いずれもベースボール・マガジン社から2014年と2015年に出たもので、小池兼司さんへの言及は限られています。

検索で出てくる同姓同名の別人

もう1つ押さえておきたいのが、小池という姓の有名人が複数いるという事実です。

小池兼司さんの現在を検索すると、まったく別の人物の情報が混ざって表示されることがあります。

下記の表は検索結果に登場しやすい同姓の人物をまとめたものです。

名前 分野 どんな人物か
小池兼司 元プロ野球選手 南海の名遊撃手で現在は終身名誉監督
小池信三 実業家 三栄建築設計の創業者で湘南ベルマーレ名誉会長
小池達子 アナウンサー フリーアナウンサーへ転身した人物
小池龍之介 僧侶 月読寺の住職として知られる

小池信三さんは1968年に福島県で生まれた実業家で、野球とは関係のない経歴を歩んでいます。

検索窓に小池の現在と入力すると、こうした別人物の近況が上位に来ることも珍しくありません。

名前が似ているだけの人物の情報を取り違えないよう、生年月日や所属で確認するのが確実ですよ。

小池龍之介さんは月読寺の住職として知られ、住まいを紹介する記事にも登場しています。

いずれも小池兼司さんとはまったく関係のない経歴の持ち主ですよ。

現在という言葉を添えて検索すると、こうした別人の近況が上位に混ざりやすくなります。

調べるときは元プロ野球選手や南海という言葉を足すと、目的の情報にたどり着きやすくなりますね。

現在の情報を追うならどこを見るか

では、小池兼司さんの確かな情報はどこで手に入るのでしょうか。

まず経歴については、日外アソシエーツが発行したプロ野球人名事典に記載があります。

この事典の212ページに小池兼司さんの項目が収録されており、入団から指導者時代までの流れが確認できますよ。

成績面ではNPBの公式サイトに個人年度別成績が掲載されており、14年分の数字を1ページで追うことができます。

近年の発言を追うなら、スポーツニッポンが2012年に掲載した球宴MVPの回顧記事と、日刊スポーツが2023年に掲載したコラムが有力です。

そして現在の肩書きを確認できるのは大阪ホークスドリームの公式サイトになります。

情報が少ないと言われる選手ではありますが、公式の記録と近年の取材を組み合わせれば現在の姿はきちんと追えるんですよね。

新しい取材記事が出た場合は、こちらでも内容を足していきます。

小池兼司が現在も語り継がれる名遊撃手の記録

  • 浜松商から専修大までの歩み
  • 1961年の南海入団と広瀬叔功
  • 併殺記録とベストナイン4度の守備
  • 1964年の日本一と1968年のMVP
  • 遊撃1494試合と指導者の歩み

個人成績をまとめたサイトでは、年度別の守備成績まで確認することができますよ。

守備率や併殺数を1年ずつ追えるため、守備の名手という評価を自分の目で検証できます。

浜松商から専修大までの歩み

ここからは小池兼司さんが名遊撃手と呼ばれるまでの道筋を、アマチュア時代からたどっていきます。

1956年春の甲子園に出場

小池兼司さんの野球人生は、静岡県立浜松商業高等学校から本格的に動き出します。

浜松商は静岡県の野球どころとして知られる学校で、小池兼司さんは内野手としてプレーしていました。

そして3年次にあたる1956年春、選抜高等学校野球大会で甲子園の土を踏んでいます。

このときのポジションは遊撃手で、のちにプロで14年間守り続ける定位置をすでに任されていたことになりますね。

ただし結果は2回戦敗退という厳しいものでした。

立ちはだかったのが県立尼崎高校のエースだった今津光男さんで、小池兼司さんたちの打線は抑え込まれてしまいます。

この試合の詳細は毎日新聞社が1989年に編んだ選抜高等学校野球大会60年史に記録されていますよ。

高校時代の打撃成績は残っていませんが、県大会を勝ち抜いて全国大会へ出た実績は確かなものです。

下記の表は小池兼司さんのアマチュア時代をまとめたものです。

時期 所属 主な実績
1957年3月まで 静岡県立浜松商業高校 3年次の1956年春に甲子園出場
1957年4月から 専修大学 東都大学野球リーグで4度の優勝
大学通算 東都大学野球リーグ 85試合・272打数69安打・打率.254
大学での表彰 東都大学野球リーグ 遊撃手部門のベストナイン3度

専修大で4度のリーグ優勝

高校卒業後、小池兼司さんは1957年に専修大学へ進学します。

所属した東都大学野球リーグは当時から競争の激しいリーグで、そのなかで専修大は在学中に4度の優勝を飾りました。

4年間で4度ですから、ほぼ毎シーズン優勝争いの中心にいたということですよ。

小池兼司さんはチームの中心選手として起用され続け、遊撃手部門のベストナインに3度選ばれています。

大学のリーグ通算成績は85試合出場で272打数69安打、打率.254という数字でした。

本塁打は2本、打点は28という内容で、大学時代から打撃よりも守備で評価される選手だったことがうかがえます。

ここで押さえておきたいのは、打率.254という数字がプロでの通算打率.226に近いという点です。

つまりプロに入って急に打てなくなったわけではなく、もともと守備型の選手として評価されて入団したわけですね。

大学で4度の優勝を経験したという事実は、勝つチームの空気を知っている選手だったことも示しています。

東都大学野球リーグは入れ替え戦のある厳しいリーグとして知られています。

そのなかで4度優勝したチームの中心にいたという経歴は、プロのスカウト陣の評価を高めたはずです。

小池兼司さんはこの時期に、遊撃手としての基礎を固めていきました。

大学日本選手権で早大に惜敗

小池兼司さんの大学時代で最大の山場は、3年次にあたる1959年の全日本大学野球選手権でした。

専修大はこの大会で準決勝まで勝ち進み、全国制覇が見える位置まで到達します。

対戦相手となったのが、当時の大学野球を代表する存在だった早稲田大学でした。

早大の投手陣には金沢宏さんと安藤元博さんが揃い、打の主軸には木次文夫さん、近藤昭仁さん、徳武定之さんが並んでいたんですよね。

近藤昭仁さんはのちに大洋で日本シリーズMVPを獲得し、徳武定之さんも国鉄や西鉄で活躍した人物です。

この布陣に対して専修大は惜敗し、決勝進出はなりませんでした。

とはいえ、後にプロで実績を残す選手が揃ったチームと準決勝で渡り合った経験は、小池兼司さんにとって大きな財産になったはずです。

この年のあと、小池兼司さんはプロのスカウト陣から注目される存在になっていきます。

全日本大学野球選手権は各リーグを制した大学が集まる全国大会です。

準決勝まで進んだという結果は、専修大の歴史のなかでも上位に入る戦績になります。

早大の金沢宏さんと安藤元博さんは、ともにのちにプロへ進んだ投手でした。

準決勝で敗れたとはいえ、全国の舞台で主力として出場し続けた価値は変わりません。

この悔しさが、プロ入り後の原動力の1つになったとも考えられますよね。

大学時代の同期と後輩

専修大での人間関係も、小池兼司さんのキャリアを語るうえで欠かせません。

同期にはエースだった坂井勝二さんがいて、チームの投打の軸として並び立っていました。

ただし坂井勝二さんは3年生で中退してしまい、その後の主戦投手は山本兵吾さんが担うことになります。

さらに1学年下には堀込基明さんがいて、同じ時期に東都のリーグ戦を戦っていましたよ。

こうした顔ぶれを見ると、専修大が当時いかに人材を集めていたかがわかりますよね。

そして1961年、小池兼司さんは大学卒業と同時に南海ホークスへ入団します。

選んだ先が、ちょうど鶴岡一人さんが若手の抜てきを進めていた球団だったという巡り合わせも見逃せません。

大学で積み上げた守備の評価が、プロ1年目から遊撃手の定位置をつかむ下地になっていたんですね。

エースが抜けた後のチームを山本兵吾さんが支えたという流れは、当時の苦しい状況を物語っています。

それでも専修大がリーグ優勝を重ねられたのは、守りの中心に小池兼司さんがいたからですよね。

こうした顔ぶれと競い合った4年間が、プロで即戦力として扱われる下地になったわけです。

主戦投手が入れ替わる難しい時期を乗り越えた経験も、プロでの適応力につながったはずですよ。

大学の4年間が、小池兼司さんの野球観の土台になったと言えます。

1961年の南海入団と広瀬叔功

1961年、小池兼司さんは南海ホークスの一員としてプロの世界に足を踏み入れます。

初出場から初本塁打までの歩み

プロ1年目の小池兼司さんは、開幕スタメンからのスタートではありませんでした。

初出場は1961年5月13日の毎日大映戦で、舞台は後楽園球場です。

このとき9回裏に三塁手として守備に就いており、入団時は遊撃手としての起用ではなかったことがわかりますね。

翌14日には8番・三塁手として初先発を果たし、2回裏に金山勝巳さんから初安打を放ちました。

初打点は5月21日の近鉄戦で、大阪スタヂアムの4回裏にグレン・ミケンズさんから記録しています。

そして7月6日の毎日大映戦では、9回裏に穴吹義雄さんの代打として登場し、ディック・ディサさんから2点本塁打を放ちました。

代打で初本塁打というのは、打撃にも期待されていた証拠ですよ。

下記の表はプロ1年目に記録した初物をまとめたものです。

日付 記録 内容
1961年5月13日 初出場 毎日大映戦の9回裏に三塁手で出場
1961年5月14日 初先発と初安打 8番三塁手で先発し金山勝巳から安打
1961年5月21日 初打点 近鉄戦でグレン・ミケンズから記録
1961年7月6日 初本塁打 穴吹義雄の代打でディック・ディサから2ラン
1961年8月 遊撃の定位置獲得 広瀬叔功が中堅手へ回ったため

初出場から初本塁打までの期間はおよそ2か月で、1年目から打撃でも結果を出していますよ。

広瀬叔功が外野へ回った理由

小池兼司さんのキャリアを決定づけたのが、1961年8月に起きたポジションの移動です。

当時の南海で遊撃手を守っていたのは、のちに盗塁王を何度も獲得する広瀬叔功さんでした。

その広瀬叔功さんが中堅手へ回り、空いた遊撃の定位置を小池兼司さんが受け取ることになります。

この経緯について広瀬叔功さんは「小池が守った方がチームの為になる」と語ったと伝えられていますよ。

入団1年目の新人の守備を見て、レギュラーが自らポジションを譲ったという話です。

もちろん広瀬叔功さん側の事情もあったとされています。

広瀬叔功さん自身は遊撃守備にあまり自信を持っておらず、俊足と強肩を生かせる外野へ回りたい気持ちもあったという見方です。

とはいえ、新人の守備が先輩の決断を促すほどの水準だったことは間違いありません。

日刊スポーツのコラムでも、小池兼司さんが広瀬叔功さんを外野へ追いやったと語り継がれていると紹介されています。

結果としてこの配置転換は、南海にとって最良の選択になりました。

遊撃に守備の名手を置き、外野に俊足の選手を回すという形が完成したわけですね。

1人のポジション変更がチーム全体の形を決めた好例だと思いませんか。

守備の適性でポジションが決まるという、わかりやすい事例ですよね。

新人9本塁打という球団記録

1961年の小池兼司さんは98試合に出場し、打率.209で9本塁打25打点を記録しました。

打率は低めですが、注目すべきは本塁打の数ですよ。

この9本塁打は、2リーグ制以降の球団新人最多本塁打に並ぶ数字でした。

並んだ相手は1950年に9本塁打を放った蔭山和夫さんで、南海の内野を支えた先輩にあたります。

球団の歴代新人記録としては、監督だった鶴岡一人さんが1リーグ時代の1939年に記録した10本塁打が上にありました。

つまり小池兼司さんの9本塁打は、戦後の南海では誰も超えていない数字だったわけですね。

この記録が破られたのは2022年のことで、ソフトバンクの野村勇さんが10本塁打を放って更新しました。

60年以上も並ぶ者がいなかったという事実は、小池兼司さんの1年目のインパクトを物語っています。

サンスポも2022年8月の記事で、野村勇さんが球団新人本塁打記録に並んだ相手として小池兼司さんの名前を伝えていますよ。

ドラフト制度がなかった時代の入団ですから、大学時代の評価がそのまま結果につながった形ですね。

1年目から長打を打てる遊撃手というのは、当時でもかなり貴重な存在でしたよ。

打率.209という数字の裏側で、長打力だけは一級品だったわけですね。

鶴岡一人に見出された若手

ここで触れておきたいのが、小池兼司さんを抜てきした鶴岡一人さんの存在です。

鶴岡一人さんはプロ野球史に残る最多勝監督で、南海では親分と呼ばれていました。

その鶴岡一人さんが残した言葉のなかで特に有名なのが「グラウンドにゼニが落ちてる」という一節ですよね。

努力して結果を出せば報われるという意味で使われた言葉で、日刊スポーツのコラムではその若手候補が小池兼司さんだったと説明されています。

名門球団の監督から直接見込まれたという事実は、プロ入り直後の立場としては大きな後押しだったはずです。

結果として小池兼司さんは、2年目の1962年に全試合出場で初めて規定打席に到達しました。

この年の成績は打率.230で24盗塁という内容で、走れる遊撃手としても計算されるようになります。

抜てきした側の判断が正しかったことを、数字で証明していったわけですね。

若手を見極めて起用する決断力も、鶴岡一人さんの実績を支えた要素でした。

小池兼司さんのように入団1年目で定位置を与えられるケースは、当時も例外的だったんですよ。

その判断を結果で返したからこそ、14年にわたってレギュラーを務められたわけですね。

監督の目と選手の結果が噛み合った、理想的な関係だったと言えますよ。

併殺記録とベストナイン4度の守備

守備の名手という評価は、1960年代半ばに積み上げた記録によって裏打ちされています。

1963年に更新した併殺記録

プロ3年目の1963年、小池兼司さんは遊撃手としてパ・リーグの併殺記録を更新しました。

それまでの記録保持者は山田潔さんで、小池兼司さんがその数字を塗り替えた形になります。

併殺というのは1つのプレーで2つのアウトを取る守備で、遊撃手と二塁手の連携が成否を分けるんですよね。

ここで1つ注意しておきたいのが、この年の併殺数について資料ごとに数字が違うという点です。

以下の表で併殺記録に関する記述の違いを整理してみます。

情報項目 記述内容 掲載元の種類
1963年の遊撃手併殺数 113併殺 百科事典サイトや野球ブログ
1963年の遊撃手併殺数 111併殺 日刊スポーツのコラムや個人成績サイト
破った記録の保持者 山田潔 百科事典サイトの記述
記録の種類 パ・リーグの遊撃手併殺記録 いずれの資料でも共通

数字に差が出る理由としては、集計対象の試合や記録の数え方の違いが考えられます。

どちらの数字を採るにしても、当時のパ・リーグ記録を更新したという事実そのものは共通していますよ。

1963年の小池兼司さんは149試合に出場し、打率.238で22本塁打65打点20盗塁という成績でした。

併殺を取る守備には、投手の球数と失点の両方を減らす効果がありますよね。

4年連続ベストナインの評価

守備の評価が形になったのが、ベストナインの受賞歴です。

小池兼司さんは1963年から1966年まで4年連続でパ・リーグのベストナインに選出されています。

遊撃手部門で4年続けて選ばれるというのは、リーグを代表する守備力と認められていた証拠ですよね。

加えて1964年から1968年まで5年連続でオールスターゲームにも出場しました。

下記の表は小池兼司さんの主な年度別成績をまとめたものです。

年度 試合 打率 本塁打 打点 盗塁
1961年 98 .209 9 25 7
1962年 133 .230 8 43 24
1963年 149 .238 22 65 20
1964年 149 .260 10 57 30
1965年 137 .268 17 63 12
1966年 132 .216 7 48 6
1967年 126 .194 7 31 5
1968年 136 .193 13 44 3

打率を見ると1967年と1968年は2割を割っており、打撃だけなら厳しい評価になる数字です。

それでも試合数が落ちていないのは、守備で計算できる選手だったからなんですよね。

ベストナインの受賞が止まった後も出場機会が確保されていた事実は、守備の価値を裏づけています。

関係者の投票で選ばれる賞を4年続けて取るのは、簡単なことではありませんよね。

400フィート打線の一翼

意外に思われるかもしれませんが、小池兼司さんは長打も打てる遊撃手でした。

身長169cmという体格ながら、シーズン2桁本塁打を4度記録しています。

最多は1963年の22本塁打で、この年は打線のなかでも存在感のある打者になっていました。

当時の南海は400フィート打線と呼ばれる強力な打線を売りにしており、小池兼司さんもその一翼を担っていたんですよ。

打撃の傾向としては引っ張り中心で、左方向への打球に定評があったと伝えられています。

遊撃手というポジションは守備の負担が大きく、打撃まで求められるケースは当時それほど多くありません。

そこで2桁本塁打を4度も記録したというのは、かなり特殊な存在だったということになりますね。

1965年には打率.268で17本塁打63打点という、キャリアでも上位の打撃成績を残しています。

400フィートは約122メートルに相当し、長打力を誇る打線を指す呼び名として使われました。

南海にはこの時期、のちに三冠王となる野村克也さんをはじめとする強打者が揃っていました。

そのなかで遊撃手が2桁本塁打を打てば、相手投手の組み立ては大きく狂いますよね。

守備の名手が打線でも計算できるという状況は、監督にとって理想的ですよね。

守備得点で歴代2位の数字

近年は守備を数値化する指標が整備され、昔の選手の守備力も比較できるようになりました。

そのなかで小池兼司さんは、歴代遊撃手の守備得点という項目で高い評価を受けています。

具体的には小坂誠さんに次ぐ歴代2位の数字が示されているんですよ。

小坂誠さんはロッテや巨人で活躍し、守備の名手として広く知られた選手です。

その小坂誠さんの次に来るということは、現役時代の評価が数字の裏づけを得たことを意味します。

小池兼司さんの現役当時にはゴールデングラブ賞が存在しておらず、守備を表彰する仕組みがありませんでした。

もし当時この賞があれば、パ・リーグの遊撃手部門は小池兼司さんが独占していたのではないかという見方もあります。

守りで評価を取り続けた選手が、半世紀後の指標でも上位に来るというのは痛快な話ですよね。

守備得点は、平均的な選手と比べてどれだけ失点を防いだかを示す指標です。

過去の選手を同じ基準で比べられるため、昔の名手の再評価につながっています。

小池兼司さんが上位に来るのは、失策の少なさと守備範囲の広さを両立させていたからですよ。

1963年の守備率.972という数字も、当時の遊撃手としては高い水準にありました。

数十年前の守備が現在の指標で裏づけられるというのは、なかなか珍しいケースですよ。

1964年の日本一と1968年のMVP

小池兼司さんのキャリアには、現在も語られ続ける2つの大舞台があります。

日本シリーズ全7戦で残した打率

1964年、南海はパ・リーグを制して阪神との日本シリーズに進みました。

この年の小池兼司さんはリーグ戦で149試合に出場し、打率.260で10本塁打57打点30盗塁という成績を残しています。

盗塁30という数字は自身のキャリア最多で、走れる遊撃手としての全盛期でもありました。

前述の通り、日本シリーズでは全7試合に遊撃手として先発出場しています。

打順は6番と7番で、23打数8安打という内容でした。

打率にすると3割4分8厘という高い数字で、短期決戦で結果を出した選手の1人になりました。

この活躍によって小池兼司さんは日本シリーズの技能賞を受賞しています。

技能賞は守備や走塁を含めた総合的な貢献をたたえる賞で、まさに小池兼司さんの持ち味に合った表彰ですよね。

南海としては6年ぶりの日本一であり、球団2度目の頂点でもありました。

レギュラーシーズンの打率.260に対し、日本シリーズでは3割4分8厘まで数字を上げています。

大舞台で成績を伸ばせる選手というのは、それだけで価値がありますよね。

しかも守備では遊撃という最も負担の大きい場所を、7試合続けて守り切りました。

7試合すべてで先発した遊撃手は、守備の負担も相当なものだったはずです。

それでも打撃で結果を残した点が、この年の評価につながっています。

スタンカの連続完封と4勝3敗

1964年の日本シリーズを投手面で支えたのが、ジョー・スタンカさんです。

スタンカさんはシリーズ中に連続完封をやってのけ、南海の4勝3敗という決着を引き寄せました。

第7戦までもつれる展開ですから、1試合の重みが尋常ではありません。

相手の阪神は吉田義男さん、三宅秀司さん、鎌田実さんという内野陣を誇り、守備力の高いチームでした。

小池兼司さんは「まるでアクロバットを見ているような華麗さだった」と当時の阪神内野陣を評しています。

そんな相手に守り勝った背景として小池兼司さんが挙げたのが、セ・リーグに負けたくないという反骨心でした。

人気の差を実力で返すという意識が、チーム全体の集中力を高めていたわけですね。

この日本シリーズは、小池兼司さんが現在も繰り返し語る原点になっています。

スタンカさんは南海の主戦投手として起用され、短期決戦で圧倒的な投球を見せました。

日本シリーズで連続完封を達成するというのは、現在でもほとんど見られない記録ですよね。

小池兼司さんはその全試合で遊撃を守り、守備の面からも勝利を支えています。

投手が試合を作り、守備が守り切るという形が噛み合った結果でした。

打線が接戦をものにしたことで、長い勝負を制することができたんですよね。

江夏豊から放った3点本塁打

もう1つの大舞台が、1968年7月25日のオールスターゲーム第3戦です。

舞台は阪急西宮球場で、小池兼司さんは途中出場という形で打席に立ちました。

そして7回、阪神の江夏豊さんから左翼へ3点本塁打を放ちます。

江夏豊さんはこの年に新人として台頭し、のちに通算206勝を挙げる剛腕です。

その江夏豊さんから一度は逆転となる一発を打ったわけですから、価値のある本塁打ですよね。

ところが9回、全セは二死一塁から2本の安打と全パの守備の乱れで同点に追いつきます。

試合は延長に入り、小池兼司さんは遊撃の守備位置で「俺がこんな大舞台でヒーローになれるわけがないんだ」と考えていたそうですよ。

自分に注目が集まる展開を、本人はまったく想像していなかったということですね。

オールスターゲームは、両リーグの代表選手が集まる年に一度の舞台です。

小池兼司さんはこの年で5年連続の出場を果たしており、球宴の常連と呼べる存在でした。

途中出場だったにもかかわらず、7回の一発で試合の流れを引き寄せています。

代表級の投手から打った本塁打ですから、記憶に残るのも当然ですよね。

球宴で主役になる選手は毎年限られますが、この年はその1人が小池兼司さんでした。

守備の名手として選ばれた選手が打撃で試合を動かしたという意外性もありましたよ。

長嶋茂雄のグラブをかすめた安打

運命が動いたのは延長11回裏、一死二塁の場面でした。

打順が回ってきた小池兼司さんの前に立ったのは、大洋の島田源太郎さんです。

小池兼司さんにとって島田源太郎さんはオープン戦で対戦したことがある程度の相手で、細かい攻略法は持っていませんでした。

そのため頭にあったのは、ストレートを強く振ることだけだったといいます。

振り抜いた打球は三遊間へ飛び、三塁を守っていた長嶋茂雄さんが横っ飛びでグラブを出します。

グラブの網に入るか入らないかというところで、打球は長嶋茂雄さんのグラブの先端に当たって中堅方向へ進路を変えました。

二塁走者だった代走の池永正明さんは手を叩きながら本塁へ生還し、全パはサヨナラ勝ちを収めます。

下記の表はこの試合で小池兼司さんが残した足跡をまとめたものです。

場面 出来事 相手や結果
7回 左翼へ3点本塁打 阪神の江夏豊から放つ
9回 全セが同点に追いつく 2安打と全パの守備の乱れ
延長11回裏 一死二塁で打席に立つ 相手投手は島田源太郎
延長11回裏 三塁強襲のサヨナラ安打 長嶋茂雄のグラブをかすめる
試合後 オールスターMVPに選出 5度目の出場で初受賞

殊勲の一打を放ったにもかかわらず、小池兼司さんは「正直、ホームランの方が嬉しかったかな」と語っていますよ。

この試合でオールスター通算4安打のうち3安打を固め打ちしており、まさに一夜の主役になりました。

連続守備機会無失策の日本記録

1968年は守備でも節目を迎えた年でした。

7月18日の阪急戦では7番・遊撃手で先発し、史上134人目となる通算1000試合出場を達成しています。

そして同じ年に、遊撃手として連続守備機会無失策という当時の日本記録を樹立しました。

ここでも資料によって数字の記述が分かれており、218回とするものと210回とするものがあります。

日刊スポーツのコラムでは4月6日から6月7日までの連続守備機会無失策210という形で紹介されていますよ。

一方で百科事典サイトなどは218回という数字を挙げています。

いずれにしても、2か月にわたって遊撃手が1つもエラーをしなかったという事実は変わりません。

この年の失策数は12で、守備率は.983という高さでした。

守備機会とは、守備についた選手が打球を処理する機会の総数を指します。

その数を200以上重ねてエラーが1つもないというのは、相当な集中力が必要ですよ。

1968年の小池兼司さんは136試合に出場し、打率.193という打撃成績でした。

それでも試合に出続けられたのは、守備への信頼が揺るがなかったからなんですね。

同じ年に球宴MVPと1000試合出場も達成しており、節目が集中した1年になりました。

守備の記録は派手さに欠けますが、積み重ねの難しさは折り紙つきですよね。

遊撃1494試合と指導者の歩み

最後に、小池兼司さんが残した通算の数字と、引退後に歩んだ指導者としての道を整理します。

通算成績と節目の記録

小池兼司さんの現役生活は、1961年から1974年までの14年間でした。

通算成績は1536試合に出場して1003安打、104本塁打、473打点、113盗塁、打率.226という内容です。

守備では遊撃手として1494試合に出場しており、三塁手19試合と二塁手7試合を除けばほぼ遊撃一筋のキャリアでした。

プロ入り1年目に三塁手として起用され、晩年に二塁手で2試合出場した以外は、ずっと同じ場所を守り続けたわけですね。

下記の表は小池兼司さんが到達した節目の記録をまとめたものです。

達成日 記録 内容と順位
1968年7月18日 1000試合出場 阪急戦で7番遊撃手として先発し史上134人目
1971年7月15日 100本塁打 西鉄戦で後藤清から左越ソロを放ち史上64人目
1974年4月17日 1500試合出場 太平洋クラブ戦で7番遊撃手として先発し史上46人目
1974年5月5日 1000安打 ロッテ戦で池田重喜から中前安打を放ち史上86人目

1974年には1500試合出場と1000安打をわずか3週間ほどの間に達成しています。

この年の出場は40試合にとどまり、同年限りで現役を引退しました。

1972年には移籍してきた佐野嘉幸さんにレギュラーを譲っており、晩年は控えとして役割を変えていたんですよね。

今宮健太が並んだ球団記録

小池兼司さんの名前が近年のスポーツ紙に載ったのは、1つの記録がきっかけでした。

2024年6月8日、ソフトバンクの今宮健太さんが遊撃手で球団最多タイの1494試合出場を達成します。

舞台は横浜スタジアムでの交流戦、DeNA戦でした。

この1494試合という数字が、1961年から1974年まで南海でプレーした小池兼司さんの記録だったわけですよ。

今宮健太さんは2009年のドラフト1位で明豊高校からソフトバンク入りし、2013年から2017年まで5年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞しています。

この日も2番・遊撃で先発し、4回には中前に抜けそうなライナー性の打球をスライディングキャッチしました。

守備の名手が守備の名手の記録に並ぶという、絵になる並び方ですよね。

西日本スポーツの記事では、今宮健太さんが節目の試合で決勝打を放ち「若い選手に良いアドバイスできるように」と語ったことも伝えられています。

半世紀前の記録が現在の選手の目標として機能しているというのは、小池兼司さんの実績が生き続けている証拠です。

南海からダイエー、ソフトバンクへと球団の形が変わっても、記録は球団史として引き継がれています。

西日本スポーツは記録到達の前後で複数の記事を出しており、注目度の高さがうかがえますよ。

背番号2から始まる番号の変遷

小池兼司さんが選手時代に背負っていた番号は2でした。

この背番号2は1961年の入団から1975年まで使われており、現役引退後の1年も同じ番号を着けていたことになります。

その後はコーチや二軍監督として番号が変わっていきました。

1976年から1978年までが63、1979年から1980年までが73、1981年から1982年までが81です。

二軍監督を務めた1983年から1985年までは70を着け、台湾でコーチを務めた1997年にも同じ70を使っています。

そして1998年には87という番号になりました。

番号の変遷をたどるだけで、立場がどう変わっていったかが見えてくるのが面白いところですよね。

なかでも選手時代の2という一桁番号は、レギュラーの証として扱われる番号です。

プロ野球では、一桁の背番号が主力選手に与えられる慣習があります。

小池兼司さんが入団1年目から2を着けていた点は、期待の大きさを示していますよね。

コーチ時代の63や73という番号は、指導者が着ける番号帯として一般的なものです。

番号が一桁から60番台へ変わる瞬間が、選手から指導者への転換点だったわけですね。

選手と指導者で合わせて6つの番号を着けた経歴は、球団への長い貢献を表しています。

南海と台湾での指導歴

引退後の小池兼司さんは、長く南海とダイエーで指導者を務めました。

以下の表で引退後のキャリアを整理してみます。

時期 役職 所属
1975年 二軍助監督 南海ホークス
1976〜1977年 二軍コーチ 南海ホークス
1978〜1979年 一軍コーチ 南海ホークス
1980年 一軍守備走塁コーチ 南海ホークス
1981〜1982年 二軍の守備コーチと内野守備コーチ 南海ホークス
1983〜1985年 二軍監督 南海ホークス
1992年の退団まで 編成部長とスカウト 南海からダイエーへ
1994年と1998年 打撃コーチ 台湾の三商タイガース
1997年 打撃コーチ 台湾の和信ホエールズ

注目したいのは、1992年にダイエーを退団した後の動き方です。

小池兼司さんは大阪府八尾市の少年野球チームで指導しており、プロの現場を離れてもユニフォームを脱いでいませんでした。

そこから台湾プロ野球へ渡り、三商タイガースと和信ホエールズで打撃コーチを務めています。

日本と台湾、プロと少年野球を行き来した指導歴は、かなり珍しい経歴ですよね。

台湾プロ野球での打撃コーチという仕事は、日本で培った指導法を海外へ伝える役割でもありました。

編成部長やスカウトを務めた経験は、選手を見極める目を磨く時間にもなったはずですよ。

ゲームに残る守備の評価

現在の小池兼司さんを知るきっかけとして、野球ゲームを挙げる人も増えています。

パワフルプロ野球の南海ホークス選手として小池兼司さんが収録されており、能力値を通じて当時の評価が追体験できるんですよ。

最新作での能力値は守備力83という高い数字で、肩力72、走力71と続きます。

一方でミートは58、パワーは65、捕球は41という設定で、打撃よりも守備範囲と足が際立つ選手像になっています。

特殊能力には選球眼と積極盗塁が付いており、四球を選べる打者だった実像も反映されていますね。

実際に小池兼司さんの通算四球は479個で、通算安打1003本に対して決して少ない数字ではありません。

ゲームの背番号は現役時代と同じ2で、守備位置も遊撃手として登録されています。

数字で振り返ってみると、昭和の名遊撃手がどんな選手だったのかが立体的に見えてきますよね。

パワフルプロ野球では、過去に存在した球団も追加コンテンツとして登場します。

南海ホークスの一員として収録されることで、若い世代が名前を知るきっかけになっていますね。

総合力は335という数値で、全体としては守備型の選手として設計されていますよ。

半世紀以上前の記録を数字で追体験できるというのは、現在ならではの入口ですよね。

小池兼司の現在と記録の総まとめ

  • 元南海の小池兼司は現在も大阪ホークスドリームに名を残す
  • 現在の肩書きは終身名誉監督で2020年2月に就任した
  • 2012年からシニアアドバイザーとして関わり始めた
  • 2014年4月から女子硬式野球部の総監督を6年務めた
  • 静岡県浜松市の出身で1939年2月5日に生まれている
  • 浜松商では1956年春の選抜大会に遊撃手として出場
  • 専修大では東都リーグ優勝4度とベストナイン3度を経験
  • 1961年に南海入団で新人9本塁打の球団記録に並ぶ
  • 1961年8月に広瀬叔功が中堅手へ回り遊撃の定位置に定着
  • 1963年に遊撃手の併殺でパ・リーグ記録を更新した
  • ベストナインは1963年から4年連続で受賞している
  • 1964年の日本シリーズで技能賞を受賞し日本一に貢献
  • 1968年の球宴ではMVPに選ばれサヨナラ打を放った
  • 遊撃手の1494試合は2024年に今宮健太が並んだ
  • 引退後は南海の二軍監督や台湾での打撃コーチを歴任した

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