田中勉の黒い霧事件|池永に渡した100万円と完全試合投手の転落

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あなたは、田中勉さんが黒い霧事件でどんな役割を担ったのかを知りたいと感じているのではないでしょうか。

田中勉さんは史上9人目の完全試合を達成した西鉄ライオンズのエースでした。

その一方で黒い霧事件では、後輩の池永正明さんに100万円を渡した人物として実名を報じられています。

しかも自分は週刊誌を名誉棄損で告訴しておきながら、最後は八百長を認めて告訴を取り下げました。

この記事では田中勉さんと黒い霧事件の関わりを、当時の新聞報道と公表されている情報だけを使って時系列で整理します。

読み終えたときに、あなたのモヤモヤがすっきり片づいていればうれしいです。

記事のポイント

①:完全試合達成の3年後に八百長で逮捕

②:池永正明に100万円を渡した人物

③:週刊ポストを告訴したが後に取り下げ

④:引退済みで処分なしも事実上の永久追放

田中勉と黒い霧事件|完全試合投手の告発と逮捕

  • 黒い霧事件とは|田中勉の名が出た経緯
  • 完全試合達成から転落までの3年間
  • 週刊ポストへの抗議と名誉棄損告訴
  • 中日自由契約と事実上の引退
  • 永易将之の告白とオート八百長逮捕

黒い霧事件とは|田中勉の名が出た経緯

まず、黒い霧事件そのものの輪郭と、そこに田中勉さんの名前が出てきた流れから押さえていきますね。

ここを整理しておくと、このあとの告訴や逮捕の話がぐっと理解しやすくなりますよ。

発端となった永易将之の任意引退

結論から言うと、黒い霧事件の発端は田中勉さんではなく、西鉄ライオンズの投手だった永易将之さんの八百長疑惑でした。

1969年10月8日、西鉄は永易将之さんを野球賭博に関連して公式戦で八百長をしていた疑いがあるため任意引退にすると発表します。

会見は福岡市天神の球団事務所で午前11時過ぎから開かれ、国広直俊球団社長が記者の前に立ちました。

国広社長は永易さんの様子について「その年の永易は先発すると妙に打たれてKOされる。勝つという意欲が見られず、負けた後、派手な遊びをしていた」と語っています。

球団は7月上旬から疑いを持ち、密かに身辺調査を進めていたといいます。

そもそものきっかけは、スポーツ報知の西鉄担当記者がある選手から「チームの中にわざとミスをする選手がいる」という情報を入手したことでした。

報知は系列の読売新聞社会部と組んで調査を進め、永易さんが暴力団関係者の誘いに応じて八百長に加担していた事実をつかみます。

西鉄は騒動を避けるために永易さんを静かに切り離そうとしましたが、この判断が逆に事態を泥沼化させました。

永易さんは1969年11月28日に永久追放処分を受け、黒い霧事件で最初に球界を追われた選手となります。

ここまでの段階では、田中勉さんの名前はまだどこにも出てきていません。

田中勉のプロフィールと主な経歴

では、その後に名前が浮上する田中勉さんとはどんな投手だったのでしょうか。

下記の表は日本野球機構の個人年度別成績ページなどで公表されている基本情報をまとめたものです。

項目 内容
名前 田中勉(たなか つとむ)
生年月日 1939年10月10日
2026年11月02日現在の年齢 87歳
出身地 福岡県大牟田市
身長・体重 178cm・75kg
投打 右投右打
ポジション 投手
経歴 三池工業高校・東洋高圧大牟田・西鉄ライオンズ・中日ドラゴンズ
プロ在籍 西鉄1961年から1967年・中日1968年から1969年
主なタイトル 最高勝率1回・最多奪三振1回・ベストナイン1回
背番号 13(1961年)・29(1962年から1969年)

福岡県大牟田市で生まれた田中勉さんは、小学2年生のときに野球を始めています。

中学時代は捕手で4番を打つ中心選手で、福岡県立三池工業高等学校に進んでから投手へ転向しました。

1957年の全国高等学校野球選手権福岡大会では準々決勝まで進みましたが、福岡県立小倉高等学校に敗れて甲子園には届いていません。

高校卒業後は社会人野球の東洋高圧大牟田へ入社し、都市対抗野球で一気に評価を高めます。

1961年の都市対抗では日本鉱業日立戦に先発して2安打完封勝利を飾りました。

準々決勝では富士製鐵広畑のエース大工勝さんと延長12回を投げ合って引き分け、翌日の再試合でも6回から救援登板しています。

この都市対抗での投球が評価され、同じ1961年に西鉄ライオンズへ入団しました。

週刊ポストが実名を挙げた1969年10月

田中勉さんの名前が急に浮上したのは、1969年10月のことです。

当時は創刊直後だった週刊ポストが、暴力団関係者による野球賭博の実態に迫る記事の掲載を始めました。

1969年10月17日号では「阪急・近鉄を狙う野球トバクの魔手 在阪球団の骨までしゃぶりつくすトトカルチョの実態」という記事が40ページから43ページに掲載されています。

そして1969年10月24日号では、永易さん以外に疑わしい人物がいるとして、ファンを裏切った腐敗分子を蛮勇をふるって告発するという見出しで選手の実名を公表しました。

その記事の中に、当時中日ドラゴンズに所属していた投手の田中勉が西鉄球団に八百長を広めたのは衆目の一致するところ、という一文があったのです。

ここ、かなり強烈な書き方ですよね。

永易さんの告白よりも先に、週刊誌の推測記事で名前が出てしまったわけです。

のちに週刊ポストの第3代編集長となった関根進さんは、この取り上げ方について率直に振り返っています。

週刊ポストは1969年8月に創刊したばかりで目玉記事も少なく、売り上げが低迷していた時期でした。

関根さんは「無鉄砲にも噂の段階で八百長選手の実名を挙げて記事にしてしまった」と自著で認めています。

つまり田中勉さんの名前は、確たる証拠ではなく噂の段階で紙面に載ったということになります。

名前が出た当時の田中勉の立場

実名報道が出た1969年10月、田中勉さんは中日ドラゴンズの現役投手でした。

この年は8勝を挙げ、5月11日の対大洋ホエールズ6回戦では史上47人目の通算100勝も達成しています。

シーズン前半の好調ぶりからオールスター戦にも選ばれていましたが、肩の痛みに苦しんで出場を辞退しました。

最終出場は1969年9月4日で、実名報道が出たときには既にシーズンの登板を終えていた状態です。

肩肘の故障を抱えながらも6年連続の二桁勝利を狙えるところにいた投手でしたから、球界での知名度は十分にありました。

西鉄時代の同僚である永易さんと親しく、しかも中日のベテラン投手という立場が、記事の「八百長を広めた」という書き方につながっていきます。

ただし、この時点で警察や検察が田中勉さんを調べていたわけではありません。

週刊誌が噂をもとに名前を出し、それを本人が全面否定するという構図から、黒い霧事件での田中勉さんの物語は始まりました。

ここからの展開が、完全試合投手の人生を大きく変えていくことになります。

通算9年で326試合に登板し、103勝89敗で防御率2.81という数字を残した投手でした。

次の見出しでは、名前が出る前の田中勉さんがどれほどの投手だったのかを見ていきますね。

完全試合達成から転落までの3年間

黒い霧事件の関係者を追った野球ブログも指摘していますが、田中勉さんは日本の野球史に残る大記録を持つ投手でした。

ここでは、その絶頂期から黒い霧事件に巻き込まれるまでのわずか3年間を、数字と出来事で追っていきます。

1966年5月12日の完全試合の中身

まず押さえておきたいのが、1966年5月12日に大阪球場で達成した完全試合です。

対戦相手は南海ホークスで、日本プロ野球史上9人目の完全試合という大記録でした。

この試合の打線には、戦後初の三冠王となった野村克也さんや、俊足の広瀬叔功さん、助っ人のブルームさんが並んでいました。

北原遼三郎さんの著書によれば、田中勉さんはこの強打者たちに速球で正面から立ち向かって記録を達成したといいます。

さらに興味深いのが、9回に田中勉さん自身のタイムリーでチームに追加点が入っている点です。

打った相手は南海の名投手である杉浦忠さんでした。

投げて打って記録を作ったわけですから、これはもう主役以外の表現が思いつきませんよね。

同書は記録達成の瞬間を「西鉄ベンチから『ウォー』という鬨の声が上がった。この瞬間、西鉄ナインが一斉にベンチを飛び出していった」と描いています。

同書はこの1966年について、結果的に彼の野球人生の絶頂期だったと総括しました。

この年の成績は23勝12敗で防御率2.34、奪三振は217を記録して最多奪三振に輝いています。

投手部門のベストナインにも選ばれ、名実ともにパ・リーグを代表する右腕になりました。

年度別成績に見る西鉄時代の実力

では、完全試合の年だけが突出していたのでしょうか。

以下の表で9年間の投手成績を整理してみます。

年度 球団 登板 勝敗 防御率 奪三振
1961年 西鉄 2 0勝1敗 5.06 5
1962年 西鉄 30 6勝8敗 2.44 109
1963年 西鉄 51 17勝8敗 2.66 133
1964年 西鉄 52 15勝15敗 3.30 126
1965年 西鉄 38 11勝17敗 3.21 194
1966年 西鉄 56 23勝12敗 2.34 217
1967年 西鉄 40 12勝10敗 2.17 136
1968年 中日 35 11勝12敗 3.40 129
1969年 中日 22 8勝6敗 3.12 103
通算9年 両球団 326 103勝89敗 2.81 1152

1962年から1969年まで二桁勝利が並んでいるのが分かりますよね。

1963年には規定投球回に初めて到達し、17勝8敗で勝率.680を記録して最高勝率のタイトルを獲得しました。

この年は西鉄が5年ぶりのリーグ優勝を果たした年でもあります。

肩を痛めた稲尾和久さんが中継ぎに回ったあとは、田中勉さんが先発投手陣の柱を務めました。

西鉄ライオンズの開幕投手は1964年から1967年まで4年連続で田中勉さんが務めています。

初登板は1961年8月16日の対南海ホークス21回戦で、場所は平和台野球場でした。

初勝利は1962年4月8日の対近鉄バファローズ3回戦、小倉球場で記録しています。

1963年日本シリーズでの不運

順調なキャリアの中に、少しだけ不運な場面もありました。

1963年の日本シリーズは読売ジャイアンツが相手で、田中勉さんは4試合に登板しています。

第2戦では先発のマウンドに上がりましたが、1回に広岡達朗さんの放った打球が右足を直撃してしまいました。

この打球で早々に降板を余儀なくされ、せっかくの大舞台を自分の投球で締めることができませんでした。

第4戦にも先発しましたが、3回に制球が乱れて四球を与え、そこから先制点を奪われてこの回限りで降板します。

シーズンでは17勝を挙げた最高勝率投手が、日本シリーズでは結果を残せなかったわけです。

ここ、気になるポイントだと思うのですが、こうした不運の積み重なりが後の球団との関係にも影を落としていきます。

1964年は15勝15敗、1965年は11勝17敗と負けの数が増え、チーム状況も下り坂に入りました。

それでも奪三振数は1965年に194、1966年に217と伸び続けており、球威そのものは健在だったことが読み取れます。

日本シリーズの舞台では通算4試合の登板にとどまり、勝ち星を挙げることはできませんでした。

1966年の完全試合は、こうした厳しい時期を乗り越えた先にあった大記録でした。

肘の故障と契約更改での決裂

転落の入り口になったのは、1967年の肘の故障です。

この年、武器としていたシュートを多投した影響で肘を痛め、7月下旬から9月上旬までの約1か月間を戦線離脱しました。

復帰後は5勝を挙げ、シーズン全体では12勝で防御率2.17という好成績を残しています。

数字だけ見れば立派な成績ですが、球団との関係はここから一気に悪化します。

北原遼三郎さんの著書によれば、田中勉さんは肘や膝の痛みに加えて腰痛も再発し、球が走らないから打たれるという悪循環に陥っていました。

肘が痛むと練習を休むため、コーチからは怠けていると見なされてしまったといいます。

そして球団からは22パーセントの年俸ダウン提示を受けました。

シーズン終了後の契約更改で、田中勉さんは自分の父親に代理人を依頼するという異例の手を打ちます。

交渉の場で父親は、息子が肘を負傷している中での中西太監督の起用法への不満を語りました。

さらに現在の首脳陣の中では息子を働かせられないとまで発言し、西鉄は田中勉さんの放出を決定します。

こうして広野功さんとの交換トレードで中日ドラゴンズへ移籍することになりました。

移籍初年度の1968年は11勝を挙げて6年連続の二桁勝利を達成していますから、実力はまだ十分でした。

ただ同書によれば、ギャンブルに手を出したのは中日移籍後からで、オートレースにのめり込んでいったとされています。

古里の九州を離れた心の隙間が、取り返しのつかない方向へ広がっていったわけですね。

週刊ポストへの抗議と名誉棄損告訴

ここでは、実名を報じられた田中勉さんがどう反応したのかを整理します。

結論から言うと、本人は徹底的に戦う姿勢を見せていました。

編集部へ直接乗り込んだ10月21日

では、実名報道を知った田中勉さんは何をしたのでしょうか。

答えは、黙って静観するのではなく自分で編集部へ乗り込むという行動でした。

1969年10月21日、田中勉さんは弁護士を伴って週刊ポスト編集部を訪ねています。

そこで記事の内容は事実無根だと主張し、謝罪と記事の撤回を求めました。

しかし編集長の荒木博さんはこの要求を拒否し、話し合いは決裂しました。

弁護士を連れて出版社に直談判しているわけですから、本人の否定は相当強い意思に基づいていたことが分かります。

この時点で田中勉さんは中日ドラゴンズの現役選手でしたから、名前に傷がつけば選手生命に直結します。

球団が守ってくれる保証がなかったことを考えると、自分で動くしかなかった側面もあったのでしょう。

あなたがもし同じ立場なら、やはり何らかの形で否定したくなるはずですよね。

ただ、この強硬な姿勢がのちに自分を苦しめる結果になってしまいます。

当時の記事は、田中勉さんが西鉄球団に八百長を広めたのは衆目の一致するところという書き方でした。

証拠を示さずに断定された形ですから、抗議に向かう気持ちは自然なものだったと言えます。

なぜなら半年後に、本人が八百長を認める供述をすることになるからです。

報知とサンケイが報じた抗議の中身

この抗議行動は当時のスポーツ紙でも大きく扱われました。

報知新聞は1969年10月22日の3面で、八百長は事実無根として田中勉がポスト誌へ抗議したと報じています。

同じ日のサンケイスポーツも3面で、田中勉が週刊誌を告訴する方針であることを伝えました。

サンケイスポーツの記事では、八百長記事は事実無根という本人の主張がそのまま見出しに使われています。

翌日の紙面で二紙が同じ内容を扱っているわけですから、当時の注目度の高さが伝わってきますよね。

ここで重要なのは、田中勉さんが抗議の段階から一貫して事実無根という言葉を使っていた点です。

曖昧な否定ではなく、全面否定だったということになります。

この時期の報道では、田中勉さんの名前が出た根拠は永易さんとの親交と週刊誌の取材情報だけでした。

警察や検察が動いた形跡はなく、裏付けのある告発ではなかったのです。

だからこそ本人も強く出られたのだと考えられます。

実名を出された選手の中で、公の場で記事の撤回を求めて動いたのは田中勉さんだけでした。

この行動力が、結果として報道をさらに大きくした面もあります。

この構図が逆転するのは、1970年4月に永易さんが実名で告白してからです。

東京地検への名誉棄損告訴の経緯

抗議だけでは終わりませんでした。

1969年12月、田中勉さんは週刊ポストを相手に名誉棄損罪で東京地方検察庁へ告訴しました。

朝日新聞は1969年12月20日の15面で、週刊ポストを名誉棄損で告訴した田中投手として報じています。

この告訴が、結果的に黒い霧事件の捜査を一気に進める引き金になりました。

東京地方検察庁特別捜査部は田中勉さんの告訴をきっかけに、八百長そのものの捜査に乗り出したのです。

つまり自分の名誉を守るための告訴が、自分の立件につながる調査を呼び込んでしまいました。

これ、皮肉という言葉では足りないくらいの展開ですよね。

告訴から約5か月後の1970年5月、田中勉さんは逆に八百長を認める供述をすることになります。

そして世間を騒がせて申し訳ない、いまは反省すべき時で告訴どころではないと述べて告訴を取り下げました。

これを受けて東京地検特捜部は週刊ポストを不起訴処分とし、名誉棄損の捜査を打ち切っています。

朝日新聞は1970年5月9日の夕刊11面で、田中勉の週刊誌告訴事件について名誉棄損捜査を打ち切ったと伝えました。

結果として週刊ポストの噂ベースの記事は、本人の自供によって事実として裏づけられてしまったわけです。

当時の野球賭博の仕組みと賭け金規模

ところで、当時の野球賭博はどのような仕組みだったのでしょうか。

産経新聞の田淵幸一物語の連載が、その中身を具体的に説明しています。

野球賭博は好みのカードの勝負を当てる単純な賭けが基本でした。

強いチームと弱いチームが対戦する場合は、強いチームからハンディキャップの得点を出す仕組みになっていました。

賭け屋はこのハンディキャップをバック目と呼んでいたそうです。

たとえばAチームからバック目1.7点が出た試合で、客がAの勝ちに10万円を賭けたとします。

Aが3点以上リードして勝てば、賭け金の倍額から手数料の1割を引いた19万円が支払われました。

2点差なら1.7を引いた0.3で3万円の勝ちとなり、手数料3千円を引いた12万7千円が払戻金になります。

1点差で勝った場合は0.7のマイナスとなり、客が7万円の負けという計算でした。

大阪府警捜査4課の調べでは、1965年の1年間でプロ野球の公式戦全試合と日本シリーズを対象に約1億5千万円の賭け金が動いていたとされています。

これだけの金額が裏で回っていれば、選手に手が伸びるのも時間の問題だったのかもしれません。

田淵幸一さんは当時を振り返り、なぜ自分の人生を懸けてやり続けてきた野球を賭けの対象にするのか理解できないと語っています。

中日自由契約と事実上の引退

実名報道が出てから、田中勉さんの立場は驚くほど早く崩れていきました。

ここでは1969年の秋から冬にかけて何が起きたのかを、あなたが時系列で追えるように整理します。

トレード要員通達から自由契約まで

まず、球団の動きは非常に素早いものでした。

週刊ポストの記事で名前が急浮上した田中勉さんは、1969年12月に球団上層部からトレード要員にすると通達されます。

朝日新聞は1969年12月16日の13面で、田中勉がトレードになると報じています。

しかし12月19日までに移籍先が見つからず、球団は自由契約とする旨を通達しました。

朝日新聞は1969年12月20日の13面で、中日が田中勉を自由契約にしたと伝えています。

前年に11勝を挙げ、この年も8勝して通算100勝を達成した投手が、わずか3か月で無所属になったわけです。

実名報道から自由契約までの期間を考えると、球団が火種を抱え込みたくなかったことがはっきり分かりますよね。

そして田中勉さんは自由契約の通達と同じ時期に、週刊ポストを名誉棄損で告訴する手続きを取りました。

球団に守られないまま、個人で週刊誌と戦う形になったのです。

その後も一貫して獲得を希望する球団は現れませんでした。

この年の田中勉さんは8勝を挙げており、成績だけを見れば放出される理由は見当たりません。

つまり実名報道そのものが、放出の決定的な理由になったということです。

行き場を失った田中勉さんは、郷里の福岡市へ戻ることになります。

オーナー会議での中日側の発言

ここで注目したいのが、中日ドラゴンズ側の説明です。

中日はオーナー会議の場で、投手が不足しているけれども田中を出すと述べました。

続けて、その意味は幅広く解釈すれば分かってもらえると思うと発言しています。

投手難を認めながら放出するという説明は、田中勉さんが黒い選手であることを暗示したものと受け取られました。

球団が公式に八百長を認定したわけではありませんが、他球団へのサインとしては十分だったのでしょう。

実際、その後に2球団が田中勉さんの獲得に動き出したという情報があります。

ところが、中日ドラゴンズの裏面工作によってその話は立ち消えになったとされています。

つまり移籍先が見つからなかったのは偶然ではなかった可能性が高いわけです。

ここ、かなり生々しい話ですよね。

球団は田中勉さんを解雇するだけでなく、他球団で現役を続ける道まで実質的にふさいだことになります。

1970年の関係者処分の対象から田中勉さんが外れたのも、この自由契約が理由でした。

すでにどの球団にも所属していない人物に対しては、野球協約に基づく処分を下す対象がなかったのです。

結果として自由契約という手続きが、田中勉さんを処分の網から外す形になりました。

稲尾和久への西鉄復帰の打診

福岡に戻った田中勉さんは、まだ現役を諦めていませんでした。

この頃、田中勉さんは西鉄への復帰を打診しに行っています。

相手はコーチ兼任選手から西鉄の新監督に就任していた稲尾和久さんでした。

稲尾さんの自宅を訪ねて復帰を頼み込んだのですが、この打診は拒否されています。

問題だったのは、田中勉さんがこのとき八百長事件の黒幕である藤縄洋孝さんを同行させていた点です。

すでに球界で名前が出ている人物を連れて復帰を頼みに行けば、どんな監督でも受け入れられませんよね。

稲尾さんは黒い霧事件で崩壊寸前のチームを立て直す立場にありました。

疑惑の投手を復帰させる余地など、どこにもなかったはずです。

この拒否によって、田中勉さんは事実上の現役引退となりました。

1966年に完全試合を達成した投手が、わずか3年半で球界から姿を消したことになります。

週刊朝日は1970年5月8日号で、元エース田中勉の栄光と転落という記事を掲載しました。

1966年に最多奪三振とベストナインを獲得した投手が、3年余りで行き場をなくしたことになります。

この落差の大きさが、黒い霧事件の破壊力をそのまま物語っていますよね。

この見出しが、当時の世間の受け取り方をそのまま表していると言えます。

1969年オフまでの時系列整理

下記の表は実名報道から事実上の引退までの流れをまとめたものです。

時期 出来事 備考
1969年10月8日 西鉄が永易将之を任意引退と発表 黒い霧事件の発端
1969年10月17日号 週刊ポストが野球賭博の実態記事を掲載 在阪球団を扱った記事
1969年10月21日 田中勉が弁護士を伴い編集部へ抗議 謝罪と撤回を要求
1969年10月22日 報知とサンケイが抗議を報道 事実無根と主張
1969年10月24日号 週刊ポストが選手の実名を公表 田中勉の名前も掲載
1969年12月16日 中日がトレード要員にすると通達 朝日新聞が報道
1969年12月19日 移籍先が決まらず自由契約を通達 無所属となる
1969年12月20日 週刊ポストを名誉棄損で告訴 東京地方検察庁へ
1969年オフ 稲尾和久へ西鉄復帰を打診し拒否 事実上の現役引退

こうして並べてみると、わずか3か月弱で選手生命が終わっていることが分かりますよね。

名前が週刊誌に載った瞬間から、球団も球界も距離を取るのが早かったわけです。

この時期の田中勉さんは、まだ法的には何の処分も受けていません。

にもかかわらず投げる場所を完全に失ったという点が、黒い霧事件の怖さを物語っています。

そして事態はこの後、刑事事件へと発展していきます。

永易将之の告白とオート八百長逮捕

1970年に入ると、黒い霧事件は一気に刑事事件の段階へ進みます。

ここでは逮捕に至るまでの決定的な流れを、報道をもとに丁寧に追っていきますね。

札幌に潜伏していた永易との接触

まず、鍵を握っていたのは行方不明になっていた永易将之さんでした。

永易さんは八百長疑惑が浮上した直後から、福岡市内の自宅アパートを出て姿を消していました。

その後、恋人と一緒に恋人の故郷である札幌に滞在していることが判明します。

この潜伏先を突き止めたのが、ライターの大滝譲司さんでした。

大滝さんは永易さん本人と接触し、永易の告白として各紙を賑わせることになります。

切り捨てられた側が沈黙を破れば、残された関係者の名前が出るのは避けられませんよね。

実際この接触が、黒い霧事件の全体像を表に出す決定打になりました。

西鉄の楠根オーナーが永易さんに渡した金についての説明が三度も変わったことも、世論の不信感を強めました。

最初は永易なんて男の顔も知らない、金など渡すわけがないと否定していました。

ところが1970年4月27日には、永易に泣きつかれて100万程度の生活費を渡したと認めます。

さらに地検に調べられると、更生資金として550万円を渡したという説明に変わりました。

当時の550万円は現在の価値で3千万円ほどとも指摘されており、口止め料と見られても仕方のない金額です。

説明が三転したことで、球団ぐるみの隠蔽という見方が一気に強まりました。

内外タイムスの独占スクープ

決定的だったのは、1970年4月の内外タイムスの報道です。

4月6日に発行された1面で、永易が八百長選手名を明かすという独占スクープが掲載されました。

見出しにはオレだけではないと真相ぶちまけるという言葉が並んでいます。

この記事の中で永易さんは、具体的な金銭の流れを証言しました。

HさんはI投手にやらせたくて、Iと親しい中日の田中勉さんに頼んで100万円を田中さんに渡したのを知っていますという内容です。

注目すべきは、この証言で実名が出たのは田中勉さんだけだったという点です。

それ以外の選手はすべてイニシャルで表記されていました。

つまり田中勉さんは、永易さんの告白の中で唯一名前を晒された選手だったことになります。

すでに自由契約で無所属だったことが、実名を出しやすい状況を作っていたのかもしれません。

そして1970年4月10日、永易さんは記者会見で改めて関係者全員の実名を公表します。

フジテレビのインタビューでは、自分のほかにも投手の池永正明、与田順欣、益田昭雄、捕手の村上公康、内野手の船田和英、基満男、田中勉が八百長に加担したと述べました。

ここで初めて、西鉄の主力が総崩れになる構図が世間に示されたわけです。

オートレース八百長事件での逮捕

逮捕のきっかけは、意外にも野球ではなくオートレースでした。

1970年4月22日、オートレースの八百長事件で現役レーサーが小型自動車競走法違反容疑により警視庁捜査四課に逮捕されます。

このレーサーが、大井での八百長レースで現役のプロ野球選手と謎の男2名が現場にいたと供述しました。

朝日新聞は1970年4月22日の夕刊11面で、プロ野球選手がからむ可能性と不正現場に数名いたという逮捕レーサーの自供を報じています。

そして翌日の4月23日、警視庁捜査四課は同じ小型自動車競走法違反で3人を逮捕しました。

逮捕されたのは田中勉さんと藤縄洋孝さん、さらに元大洋ホエールズ投手の高山勲さんの3人です。

朝日新聞は1970年4月24日の15面で、田中勉と高山を逮捕しレーサーをだき込んだ経緯と藤縄も逮捕され数十万円を渡していたことを伝えました。

北原遼三郎さんの著書によれば、田中勉さんがオートレースにのめり込んだのは中日移籍後からでした。

たまたまやり始めたという程度だったものの、負けが込んで抜け出せなくなったとされています。

その借金が、やがて八百長の依頼を断れない立場を作っていきました。

同書は田中勉さん自身が八百長を3回頼まれ、失敗するとその損失を返せと要求されたことも記しています。

関係を断ち切ろうとして家まで売ったものの、すでに引き返せない状況だったといいます。

取り調べでの自供と告訴の取り下げ

逮捕から2週間後、事態は決定的な局面を迎えます。

1970年5月6日の取り調べで、田中勉さんはプロ野球でも八百長を演じていたことを認める供述をしました。

日刊スポーツは1970年5月7日の1面で、田中が八百長を認めたと報じています。

対象とされたのは昭和43年10月と昭和44年5月の、巨人戦と広島戦の2試合でした。

日本経済新聞も同日の19面で、八百長を数回やったという田中の自供と小川も一役という内容を伝えています。

ここに出てくる小川とは、中日のエースだった小川健太郎さんのことです。

自供を受けて、週刊ポストの記事は名誉棄損には当たらないと判断されました。

田中勉さんは世間を騒がせて申し訳ない、いまは反省すべき時で告訴どころではないと述べ、告訴を取り下げる手続きを取りました。

半年前に弁護士を伴って編集部に乗り込んだ人物が、自分の口で噂を裏づけた形になります。

東京地検特捜部はこれを受けて週刊ポストを不起訴処分とし、捜査を打ち切りました。

そして逮捕された時点で既に現役を引退していたため、野球協約に基づく処分は発表されませんでした。

それでも球界では、事実上の永久追放として扱われています。

田中勉の黒い霧事件が残した影響と現在

  • 池永正明に渡した100万円の経緯
  • 永久追放6名と田中勉の処分の違い
  • 黒幕・藤縄洋孝と球界を襲った闇
  • 西鉄ライオンズ崩壊と球界への影響
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池永正明に渡した100万円の経緯

黒い霧事件で田中勉さんの名前が語られるとき、必ずセットで出てくるのが100万円の話です。

ここでは、この100万円がどう動いて誰の人生を変えたのかを、あなたが納得できる形で整理します。

100万円が池永に渡った経緯

結論から言うと、田中勉さんは後輩の池永正明さんに八百長の報酬である100万円を預けました。

毎日新聞は1970年5月8日の19面で、池永投手に八百長料百万円が渡っていたことを東京地検が確認したと報じています。

見出しには、藤縄に頼まれ田中が渡すという経緯もはっきり書かれていました。

時期は昭和44年9月末、つまり1969年の9月末のことです。

田中勉さんは西鉄時代の後輩である池永正明さんに、オレを助けてくれと八百長を執拗に頼み込みました。

池永さんはこれを断りましたが、とりあえずということで100万円を渡されてしまいます。

北原遼三郎さんの著書によれば、田中勉さんはこのとき借金の棒引きをにおわされていたといいます。

つまり自分の借金を消すために、後輩へのメッセンジャー役を引き受けた形です。

同書は、魔の手が狙っていたのは田中勉さんではなく池永正明さんだったと指摘しています。

300勝も狙えると言われた大投手に近づくための経路として、先輩の田中勉さんが使われたわけですね。

日刊スポーツは1970年5月11日の1面で、池永が黒い百万円を告白しながら八百長は否定したと報じています。

ここ、読んでいて本当に切なくなる部分だと思います。

池永正明のプロフィールと実績

では、巻き込まれた池永正明さんはどんな投手だったのでしょうか。

以下の表で基本情報と実績を整理してみます。

項目 内容
名前 池永正明(いけなが まさあき)
生まれ 1946年・山口県豊北町(現在の下関市)
出身校 下関商業高等学校
高校時代 1963年春の選抜大会優勝・同年夏の全国選手権準優勝
プロ入り 1965年に西鉄ライオンズ入団
1年目 20勝を挙げて新人王を獲得
年度別勝利 20勝・15勝・23勝・23勝・18勝
通算成績 238試合・103勝65敗・防御率2.36
体格 175cm
愛称 稲尾2世
処分 1970年5月に永久失格・2005年4月に解除

池永正明さんは下関商業高校2年生だった1963年春の選抜大会で優勝を飾っています。

同じ年の夏の全国選手権では準優勝に貢献し、高校時代から全国区の投手でした。

1965年に西鉄へ入団すると1年目から20勝を挙げて新人王を獲得します。

1967年には23勝で最多勝に輝き、5年余りで103勝を積み上げました。

175センチながらバネのある体に加えて、抜群の制球力と度胸と洞察力を備えていたと評されています。

西鉄の黄金期を築いた稲尾和久さんと同じく漁師の息子だったことから、稲尾2世という呼び名まで付きました。

処分を受けた1970年5月時点で、池永さんはまだ23歳でした。

この年齢で103勝ですから、通算300勝は確実と言われたのも無理のない話です。

池永が100万円を返せなかった理由

では、池永正明さんはなぜ100万円を返さなかったのでしょうか。

結論から言うと、当時の球界の縦社会の構造がそれを許しませんでした。

池永さんは先輩からの頼みを無下にできず、そのうち返すつもりで押し入れにしまったとされています。

八百長行為そのものは一切していないにもかかわらず、金を預かったことだけで処分の対象になりました。

時事通信の記事でも、世話になった先輩投手から敗退行為を頼まれて100万円を預かったと説明されています。

池永さんは預かった事実は認めましたが、八百長行為そのものは一貫して否定し続けました。

毎日新聞によれば、処分理由は八百長の誘いを拒否する明確な意思表示を認めがたいというものでした。

池永さんは一貫して、八百長は誓ってしていないと訴えています。

週刊ベースボールの回顧記事には、地検の捜査状況についても興味深い記述があります。

与田順欣さんと益田昭雄さんについては立件できる証拠をつかんでいたものの、永易ルートでないのは池永さんだけでした。

永易さん自身も田中勉が金を渡したはずとしか言っておらず、八百長があったのかどうかも分からないと答えています。

つまり池永さんの八百長を示す証言は、どこにも存在しなかったわけです。

それでも最も重い処分が下されたという点が、この事件の最大の後味の悪さになっています。

2005年の復権と35年の歳月

池永正明さんの名誉が回復されるまでには、長い時間が必要でした。

復権運動の先頭に立ったのは、かつてのチームメイトであり大エースだった稲尾和久さんです。

稲尾さんは池永が八百長などするはずがない、預かった金を返そうとしていただけだと訴え続けました。

この運動で集まった復権署名は100万人を超えたとされています。

王貞治さん、長嶋茂雄さん、野村克也さんといった球界のレジェンドたちも処分の再考を公に支持しました。

日本野球機構は長年、野球協約に復権の規定が存在しないという形式論を理由に再審を拒んでいました。

その状況が動いたのは2005年4月の野球協約改定です。

永久失格処分を受けた者でも改悛の情が顕著である場合は処分を解除できるという規定が新設されました。

そして2005年4月25日、池永正明さんの永久追放処分は35年ぶりに正式解除されました。

復権後はヤフードームで始球式を務め、2014年には西鉄のOB会にも顔を出しています。

マスターズリーグでも投球を披露し、2001年12月25日には福岡ドームで先発のマウンドに立ちました。

引退後は福岡市内で飲食店を経営しており、店のトイレには復権への応援メッセージがぎっしり書き込まれていたそうです。

池永さんは2022年9月25日、がんのため76歳で亡くなりました。

野球を恨みたくもなったはずですが、私には野球しかない、高校野球もプロ野球もテレビで毎日見ていると語っていたといいます。

永久追放6名と田中勉の処分の違い

あなたが最も気になっているのは、なぜ田中勉さんには処分が出なかったのかという点ではないでしょうか。

ここでは6人の永久失格者と田中勉さんの扱いを比較しながら、信頼できる情報だけで答えを整理します。

永久失格となった6人の内訳

まず、黒い霧事件で永久失格処分を受けた選手を確認しておきましょう。

下記の表は処分を受けた6人とその理由をまとめたものです。

選手名 当時の所属 主な処分理由
永易将之 西鉄ライオンズ 暴力団関係者から現金を受け取り敗退行為を実行
池永正明 西鉄ライオンズ 現金100万円を預かり報告しなかった不告
益田昭雄 西鉄ライオンズ 依頼を受けて敗退行為と金銭の仲介
与田順欣 西鉄ライオンズ 報酬受領および敗退行為への直接関与
小川健太郎 中日ドラゴンズ オートレース八百長で小型自動車競走法違反
森安敏明 東映フライヤーズ 50万円を受け取り保管していた不告

6人のうち4人が西鉄ライオンズの選手だったことが分かりますよね。

最初に処分を受けたのは永易さんで、1969年11月28日に永久追放となりました。

このうち処分が解除されたのは池永正明さん1人だけで、残る5人は復権していません。

中央日報の解説によれば、与田さんと益田さんは容疑を認めています。

池永さんは八百長を否定しましたが、100万円を受け取った事実が明らかになりました。

結局、投手3人が永久追放されたという整理になっています。

残りの選手は容疑を晴らしたものの、球団と連盟に知らせなかった協約違反が認められました。

そのため1年間の野球活動停止および厳重警告処分という扱いになっています。

与田順欣さんは熊本県出身で、西鉄に1962年から1970年まで在籍した投手でした。

球界を去った後はタクシー運転手に転身したと伝えられています。

コミッショナー喚問の7時間

1970年5月4日、西鉄の6選手に対するコミッショナーの喚問が行われました。

この時点で6人全員がシロを主張していたため、組織として直接の事情聴取に踏み込んだ形です。

事情聴取は7時間におよびました。

順番は与田順欣、益田昭雄、船田和英、池永正明、村上公康、基満男の6人でした。

宮沢俊義コミッショナー委員長は順番に意味はないと説明しましたが、報道陣は噂の濃い順じゃないかと話していたそうです。

喚問後の記者会見には200人の報道陣が集まり、放送関係のマイクが30本、テレビカメラが10台並びました。

ある新聞記者は、1968年に発生した3億円事件の記者会見以上だねと驚いていたといいます。

会見で与田さんは、すべて事実無根であり、すべて永易将之がウソを言っていると話しました。

腕を組んだまま何を聞かれても冷静に受け答えをしていた姿も印象的だったと記録されています。

他の選手は動揺しながらも、何も知らない、八百長などしていない、永易は嘘をついているという答え以外しませんでした。

記者から名誉棄損で永易を訴えたらどうだと言われても、皆が球団とコミッショナーに一任するの一点張りでした。

これについて宮沢委員長は、一任と言われても意味が分からない、選手個人の問題だと話しています。

田中勉に処分が出なかった理由

では本題です。

田中勉さんに野球協約上の処分が出なかった理由は、きわめてシンプルでした。

1969年のうちに中日ドラゴンズを自由契約になっており、1970年の関係者処分の時点ではどの球団にも所属していなかったからです。

北原遼三郎さんの著書にも、この理由で田中勉さんは処分の対象にならなかったと記されています。

野球協約はあくまで球界に籍を置く人物を対象とする規定です。

すでに球界の外にいた人物に対しては、追放という処分を下す必要がなかったことになります。

そのため田中勉さんは、逮捕されて八百長を自供した当事者でありながら、形式上は無処分という扱いになりました。

ただし球界では事実上の永久追放とされ、現役復帰や指導者としての復帰は一切ありませんでした。

名誉が回復された池永正明さんとは違い、田中勉さんには復権という概念そのものが存在しないのです。

このあたり、腑に落ちない気持ちになる人も多いのではないでしょうか。

金を渡した側に処分がなく、受け取って押し入れにしまった側が35年間追放されたという結果だからです。

渡した側と受け取った側で処分が逆転したという、きわめて珍しい結末でした。

この不均衡さが、黒い霧事件が今も語り継がれる理由のひとつになっています。

処分の重さをめぐる評価の違い

興味深いのは、田中勉さんの処分について資料によって記述が分かれている点です。

高山文彦さんの著書では、田中勉さんの処分は厳重戒告処分と書かれています。

一方でウィキペディアの黒い霧事件の項目では、処分なしで事実上の永久追放と記載されています。

この食い違いに混乱したという野球ブログの書き手の記述も残っています。

下記の表で、よく見かける記述と確認できる事実を整理してみます。

よく見かける記述 確認できる事実
田中勉は永久追放された 協約上の処分発表はなく事実上の永久追放
田中勉は厳重戒告だった 高山文彦の著書にその記述があるが処分発表の記録はない
池永正明も八百長をした 該当試合でも勝利しており敗退行為の記録はない
黒い霧事件は西鉄だけの問題 中日・東映・大洋・ヤクルト・阪急にも波及

こうしたズレが起きるのは、処分が発表されなかったという事実そのものが曖昧さを生んでいるからです。

処分一覧に名前がないため、追放されたのか不問だったのかが資料によって揺れてしまうわけですね。

確実に言えるのは、田中勉さんが八百長を自供し、球界に戻ることはなかったという点だけです。

公式記録としての処分と、球界での実質的な扱いが一致していない珍しいケースだと言えます。

ここを押さえておけば、ネット上の記述の違いに振り回されることもなくなりますよ。

黒幕・藤縄洋孝と球界を襲った闇

田中勉さんを追い込んだ存在として必ず名前が挙がるのが、黒幕とされた藤縄洋孝さんです。

ここでは八百長の具体的な手口と、球界全体に広がっていた闇の規模を見ていきますね。

藤縄洋孝が指示した八百長の手口

藤縄洋孝さんは元暴力団員で、黒い霧事件の黒幕とされる人物です。

1970年4月23日には田中勉さんと一緒に小型自動車競走法違反で逮捕されています。

週刊ベースボールの回顧記事には、藤縄さんが永易さんに指示した八百長の具体的な手順が記録されています。

まず先発投手に四球か死球で最初の走者を出すように言いくるめるという内容でした。

続いて次の打者にはバントをさせ、それを投手か内野手に悪送球させるという段取りです。

あとは投手と内野手が組んでエラーをさせ、前半はこれを繰り返せという指示でした。

読んでいて分かるのは、投手ひとりでは成立しない仕組みだという点です。

だからこそ複数の選手を巻き込む必要があり、結果的に西鉄の主力が総崩れになりました。

田中勉さんが池永正明さんに声をかけたのも、この構造の延長線上にあります。

先輩後輩の関係を使えば、新しい選手を取り込めると考えられていたわけですね。

当時のプロ野球界には先輩の命令に逆らえない強固な徒弟制度があり、断るという選択肢そのものが機能しにくい環境でした。

藤縄さんは逮捕時に、オートレーサーへ数十万円を渡していたことも明らかになっています。

金を配って関係者を囲い込む手法が、野球と公営競技の両方で使われていたわけですね。

八百長の成功率と実際の難しさ

意外に思われるかもしれませんが、この手口はあまり成功していません。

週刊ベースボールの記事によれば、指示した通りに成功したのは3回のうち1回だけだったとされています。

賭け屋側から見れば、まったく割に合わない成功率です。

野球の八百長がそれだけ難しいということを示す数字でもありますよね。

そして成功率の低さが、選手をさらに追い込む仕組みになっていました。

北原遼三郎さんの著書によれば、田中勉さん自身も八百長を3回頼まれています。

そして八百長に失敗すると、その損失を返せと要求されたといいます。

つまり協力しても失敗すれば借金が増えるという、出口のない構造だったわけです。

田中勉さんは関係を絶ち切ろうとして家まで売ったと記録されています。

それでも抜け出せなかったという事実が、相手の執拗さを物語っています。

オートレースの借金が入口となり、野球の八百長が出口のない罠になっていったという流れです。

北原遼三郎さんの著書を読んだブロガーは、心の隙間は誰にもあると書いています。

絶好調の時期から一転して不遇になったときこそ気をつけたいという教訓ですね。

もしも強気の投球と同じように最初から勇気をもって断っていたら、という指摘も残されています。

他球団へ広がった八百長と賭博

黒い霧事件は西鉄ライオンズだけの問題ではありませんでした。

警視庁による公営競技の捜査から、事件はオートレース八百長事件へと波及していきます。

中日ドラゴンズのエースだった小川健太郎さんは、小型自動車競走法違反の容疑で逮捕されました。

東映フライヤーズの看板投手だった森安敏明さんも、暴力団関係者から50万円を受け取り保管していたとして追放されています。

さらに大洋ホエールズ、ヤクルトアトムズ、阪急ブレーブスの選手にも疑惑のメスが入りました。

中央日報の解説では、阪神の内野手である葛城隆雄さんやヤクルトの内野手である桑田武さんの容疑にも触れています。

結果として多くの選手が永久追放または3か月の失格処分を受けました。

その後もロッテの成田文男さんや阪神の江夏豊さんが、野球賭博に関係する暴力団との交流を理由に謹慎処分を受けています。

つまり裏社会は球界全体に触手を伸ばしていたわけです。

田中勉さんが特異な存在だったのではなく、当時の球界に広がっていた構造の一部だったという理解が正確です。

田中勉さんが自供した八百長も、昭和43年10月の巨人戦と昭和44年5月の広島戦という中日時代の試合でした。

この点を押さえておくと、西鉄だけが悪者だったという誤解からも自由になれますよ。

発覚の構造と組織が抱えた脆さ

では、なぜここまで事件が大きくなったのでしょうか。

最大の要因は、西鉄が初動で隠蔽を選んだことにあります。

球団は永易さんの不正を公表せず、個人を密かに解雇することで組織を守ろうとしました。

しかしこの場当たり的な対応が、切り捨てられた永易さんの絶望と暴露を招きます。

結果として球団全体の崩壊という最悪の結末を迎えました。

初動の隠蔽が致命傷になるという、現代の企業不祥事でも繰り返される典型例です。

加えて、閉鎖的な組織では個人の倫理的な境界線が侵食されやすいという問題もありました。

先輩の命令が絶対という環境では、一部の不正が全体を巻き込むドミノ倒しを生み出します。

池永正明さんが現金を突き返せなかった背景には、まさにこの力関係がありました。

そして世論の高まりに押されたコミッショナー側は、大エースを切り捨てることで早期解決を図ったとされています。

この判断が、金を渡した田中勉さんは無処分、受け取った池永さんは永久追放という結果を生みました。

トカゲの尻尾切りという言葉で語られるこの対応は、ガバナンス欠如の象徴として今も引用されています。

不正を早い段階で表に出す仕組みがなければ、同じことが繰り返されるという教訓です。

組織を守るための処分が、結果的に組織の信頼を最も損なったわけですね。

西鉄ライオンズ崩壊と球界への影響

黒い霧事件がもたらした影響は、処分を受けた選手だけにとどまりませんでした。

ここでは名門球団の崩壊と、球界全体に残った後遺症について整理します。

中西太の辞任と稲尾和久の就任

まず動いたのは監督人事でした。

大騒動の責任を取って、中西太さんが西鉄の監督を辞任します。

その後任として、コーチ兼任選手だった稲尾和久さんが新監督に就任しました。

皮肉なことに、中西さんの起用法への不満が田中勉さんの放出につながった経緯があります。

そして田中勉さんが復帰を打診した相手が、新監督の稲尾さんだったわけです。

稲尾さんは崩壊寸前のチームを引き継ぎながら、のちに池永正明さんの復権運動の先頭にも立ちました。

広野功さんの証言によれば、1969年の暮れにかけて社会部の記者が20人くらい球場に詰めかけるようになったといいます。

普段は運動部の顔なじみの記者しかいないのと比べれば、異様な光景だったそうです。

球場が取材の現場ではなく事件の現場になっていたということですね。

永易さんは1969年11月28日に永久追放処分を受けました。

翌1970年にはエースの池永正明さんを含む3名が永久追放、2名が野球活動禁止処分、1名が厳重注意処分を受ける事態となりました。

黒い霧事件によって身売り説まで囁かれ、球団は崩壊寸前に陥りました。

1963年のリーグ優勝からわずか7年で、名門は土台から揺らいだことになります。

野武士軍団という異名をとった常勝チームが、見る影もなくなっていきます。

3年連続最下位から身売りまで

戦力の崩壊は成績に直結しました。

下記の表は黒い霧事件後の西鉄ライオンズの歩みをまとめたものです。

時期 出来事 球団の状況
1969年11月 永易将之が永久追放 最初の処分者が出る
1970年5月 池永正明らが永久失格 主力投手を一挙に失う
1970年から1972年 3年連続で最下位 観客動員が激減し財政が悪化
1972年オフ 福岡野球株式会社へ売却 太平洋クラブライオンズへ
1970年代後半 命名権を他社へ売却 クラウンライターライオンズ
1978年オフ 西武グループが球団を買収 現在の埼玉西武ライオンズへ

主力投手を一挙に失ったことで、チーム戦力は壊滅的に低下しました。

加えて八百長球団という世論の猛烈な批判を受け、観客動員数も激減します。

親会社の西日本鉄道は巨額の赤字に耐えきれなくなり、1972年のオフに球団を売却しました。

売却先は福岡野球株式会社で、チーム名は太平洋クラブライオンズに変わります。

その後はリゾート会社やライター製造会社に命名権を売ってかろうじて運営される時期が続きました。

名門が再び安定するのは、1978年シーズン後に西武グループが球団を買収してからです。

ひとつの八百長事件が球団そのものを消しかけたという点で、球史に残る出来事になりました。

広野功が語る1970年のライオンズ

ここで触れておきたいのが、田中勉さんとの交換トレードで西鉄へ来た広野功さんの証言です。

広野さんは八百長とは無関係でしたが、チームの空気に巻き込まれていきました。

広野さんによれば、池永正明さんは1970年の開幕戦の東映戦で投げています。

その内容は四球を連発した後に張本勲さんと作道烝さんにホームランを打たれ、6失点で途中降板というものでした。

八百長を疑われても仕方のない内容だったと広野さんは振り返っています。

そのまま球場を後にした池永さんを、眼光鋭い社会部の記者が追いかけていったそうです。

広野さん自身も、打っても三振してもスタンドから八百長じゃねえのかとヤジられる状況に置かれました。

広野さんは酒を飲まないため八百長を持ちかけられる盛り場には行かず、それを幸運だと語っています。

それでも八百長と言われ続ければ、野球への情熱は消えていくばかりだったといいます。

実際1970年の成績は9本塁打に低迷し、打率は2割を下回りました。

そして1970年のオフ、広野さんは稲尾監督から巨人へのトレードを告げられます。

稲尾さんは、うちは投手が永久追放になって勝てる者がいないと率直に事情を説明したそうです。

西鉄は巨人から3人の選手を得る条件で、広野さんを放出する決断をしました。

ドラフトと球界全体に出た影響

影響は西鉄の外にも及びました。

分かりやすいのが、新人選手の契約条件の変化です。

1969年のドラフトで南海ホークスに1位指名された佐藤道郎さんは、契約金1700万円で年俸180万円で入団しました。

佐藤さんによれば、それまでドラフト1位であれば契約金3000万円から4000万円は当たり前だったといいます。

ところが黒い霧事件の影響で、新人の契約金や年俸が一気に絞られてしまいました。

球界のイメージ悪化が、直接選手の収入に跳ね返ったわけですね。

選手の行動規範も大きく変わりました。

佐藤さんは入団早々、野村克也監督やフロントから厳命を受けています。

内容は、知らない人と飲みには行くな、飲み屋で知らない人にご馳走にはなるなというものでした。

相手が賭けをやっていて一緒に写真でも撮ったものなら、球界を永久追放されるような時代だったといいます。

バーで飲んでいると店員からあちらのお客さまからですと酒を渡されることもあり、その場合は同じ酒を返していたそうです。

そうすればご馳走になったことにならないという、徹底した自衛策でした。

日本野球機構が日本の司法当局より迅速かつ強く暴力団に対応する理由も、この事件にあるとされています。

引退後の田中勉|料理店経営と現在

最後に、球界を去った後の田中勉さんについて整理します。

ネット上には同姓同名の別人物の情報が多いので、そこもしっかり切り分けていきますね。

釈放後に始めた割烹料理店の経営

結論から言うと、田中勉さんは釈放後に飲食業の世界へ進みました。

経営したのは魚市という名前の大衆割烹料理店です。

プロ野球人名事典などの資料に、この店の経営について記載が残っています。

23勝を挙げた元エースが、福岡で包丁を握る生活に入ったわけです。

完全試合を達成した1966年から数えれば、わずか4年で野球とは無縁の人生に移ったことになります。

同じ時期、池永正明さんも福岡市内で飲食店を経営していました。

ただし池永さんの店には復権への応援メッセージが集まり、署名運動の拠点のような場所になっています。

一方の田中勉さんには、復権を求める運動は起きませんでした。

八百長を自分で認めた当事者と、否定し続けた後輩という違いがそのまま表れた形です。

この対比は残酷ですが、黒い霧事件の本質を理解する手がかりにもなります。

球界から名前が消えた後も、田中勉さんは郷里の福岡で生活を続けました。

西鉄時代の7年間で84勝を積み上げた右腕でしたが、そのキャリアは球史の表舞台から消えました。

完全試合の記録そのものは公式記録として残り続けていますが、達成者として語られる機会は限られています。

表舞台に出ることはなく、メディアのインタビューに応じた記録も確認できません。

大野城市での販売会社の経営

飲食店の経営の後、田中勉さんは別の事業に移っています。

場所は福岡県大野城市で、販売会社を営んだと記録されています。

扱っていた商品は健康食品の卵油や、土地改良剤などでした。

卵油は鶏卵の卵黄から抽出される伝統的な健康食品で、昭和期には家庭向けの販売が盛んだった商品です。

土地改良剤を扱っていたという点からも、地域に根ざした商売をしていたことが読み取れます。

華やかなプロ野球の世界とは対照的な、静かな第二の人生だったと言えるでしょう。

この情報はプロ野球人名事典などの資料に記載されているもので、それ以降の動向を示す公表情報は見つかりません。

テレビ出演やOB会への参加といった記録も確認できていません。

1939年10月10日生まれですから、2026年11月02日現在の年齢は87歳になります。

生存や健康状態に関する公式な発表はないため、ここは断定を避けておきますね。

西鉄OB会に顔を出した池永正明さんとは異なり、田中勉さんが球界の行事に姿を見せた記録はありません。

気になる人も多いはずなので、確認できる事実だけを淡々と並べておきますね。

新しい情報が出てきた場合は、今後もアップデートしていきます。

同姓同名の別人物に注意が必要

ここで、あなたに特に注意してほしい点があります。

田中勉という名前で検索すると、元プロ野球選手とは無関係の人物が多数ヒットします。

下記の表で混同しやすい人物を整理しておきます。

同姓同名の人物 肩書き・活動分野
田中勉(元プロ野球選手) 本記事の人物・西鉄と中日の投手
田中勉(会社経営者) 株式会社HSAの代表取締役社長
田中勉(声楽家) 大阪音楽大学の教授でバリトン歌手
田中勉(バレエ指導者) バレエ教室を主宰する舞踊指導者

声楽家の田中勉さんは関西歌劇団の理事も務め、オペラの舞台で活躍している人物です。

バレエ教室を主宰する田中勉さんは、全国舞踊コンクールにも生徒を送り出している指導者です。

株式会社HSAの代表取締役社長である田中勉さんは、神奈川県の企業経営者として紹介されています。

いずれも元プロ野球選手の田中勉さんとは別人であり、情報を混ぜて読むと事実関係が完全に崩れます。

検索結果の上位だけを見て判断すると、こうした取り違えが起きやすいので気をつけてください。

元プロ野球選手かどうかを見分ける鍵は、1939年10月10日生まれで福岡県大牟田市出身という識別情報です。

加えて三池工業高校と東洋高圧大牟田という経歴も、本人を特定する手がかりになります。

野球の田中勉さんを調べたいときは、西鉄ライオンズや完全試合という語を一緒に入れるのが確実ですよ。

黒い霧事件から学べること

最後に、この事件が今の私たちに残したものを考えてみます。

黒い霧事件から半世紀以上が経ちましたが、同じ構図の不祥事は繰り返されています。

2015年9月には、巨人の若手3選手が野球賭博に関与していたことが発覚しました。

巨人は11月9日に3選手との契約を解除し、翌10日には熊崎勝彦コミッショナーが処分を言い渡しています。

このときの判断は、3選手に八百長はなかったとして永久追放ではなく無期限失格という内容でした。

池永正明さんのケースと比べると、処分の考え方が変わってきたことが分かりますよね。

黒い霧事件の教訓が、半世紀をかけて制度に反映されたと見ることもできます。

田淵幸一さんは当時の気持ちと2015年の気持ちが同じだったと語り、野球を賭けの対象にする心境は理解できないと述べています。

そして田中勉さんの事例から学べるのは、不調と孤立が重なった時期の危うさです。

肘や肩の故障、球団との決裂、移籍による環境の変化が同時に押し寄せていました。

心の隙間は誰にでもあるからこそ、絶好調から一転して不遇になった時期こそ気をつけたいという指摘は重く響きます。

完全試合という最高の栄光と、八百長という最悪の転落が同じ投手の中に同居していた事実は、それだけで十分な警鐘になっています。

田中勉さんと黒い霧事件について、少しイメージが湧きやすくなっていればうれしいです。

田中勉の黒い霧事件に関するまとめ

  • 田中勉は1939年10月10日に福岡県大牟田市で誕生
  • 三池工から東洋高圧大牟田を経て1961年に西鉄入団
  • 1963年に17勝8敗で最高勝率のタイトルを初獲得
  • 1966年5月12日に南海戦で史上9人目の完全試合
  • 1966年は23勝12敗で最多奪三振とベストナイン
  • 1967年オフの契約更改で父親が監督批判をして放出
  • 広野功との交換トレードで1968年に中日ドラゴンズへ
  • 1969年10月に週刊ポストが実名で八百長を報じた
  • 週刊ポストを名誉棄損で東京地方検察庁へ告訴していた
  • 1969年12月19日に中日から自由契約を通達された
  • 1970年4月23日に黒幕の藤縄洋孝らとともに逮捕
  • 5月6日の取り調べで八百長を認め週刊誌への告訴を撤回
  • 池永正明に八百長料の100万円を渡した人物とされる
  • 既に引退していたため処分なしの事実上の永久追放扱い
  • 引退後は割烹料理店や健康食品の販売会社を福岡で経営

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