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土屋正孝さんの現在について、引退後にどんな道を歩んだのかを詳しく知りたいと感じている方は多いのではないでしょうか。
読売ジャイアンツで長嶋茂雄さんや広岡達朗さんとともに百万ドル内野陣の一角を担った二塁手であり、1959年と1961年には二塁手部門でベストナインを2度受賞した実力者ですよ。
けだるそうな表情と剣豪のようにバットを構えるスタイルから眠狂四郎というあだ名で親しまれた選手でもあります。
この記事では、現役引退後に歩んだ仕事や六本木のクラブ経営という意外な経歴まで、公開されている情報をもとに整理していきます。
記事のポイント
①:引退後は野球評論家を志すも断念
②:六本木のクラブと養老乃瀧を経営
③:ベストナインは二塁手部門で2度受賞
④:あだ名眠狂四郎は水原茂の命名説も
土屋正孝の現在|引退後の仕事と暮らし
- 【結論】土屋正孝の現在と引退後の歩み
- 野球評論家を志した引退直後の挑戦
- 六本木のクラブ狂四郎と八王子の養老乃瀧
- 建築コンサルタントとしての第二の顔
- 公の場に出ない現在の消息を整理
- 同姓同名の土屋敏男や土屋博映との違い
【結論】土屋正孝の現在と引退後の歩み
まず、あなたが一番知りたいであろう結論から整理していきますね。
土屋正孝さんは現役を引退したあと野球界には戻らず、飲食店の経営や建築関係のコンサルタント業といった自営業の道を歩んだ人物です。
ここでは基本プロフィールと引退後の足取り、そして現役時代の到達点について、信頼性の高い情報をもとにあなたが納得できる形で整理します。
現在の消息と基本プロフィールの確認
土屋正孝さんは1935年10月6日に長野県松本市で生まれた元プロ野球選手で、2026年10月14日現在の年齢は91歳です。
名前の読みは「つちや まさたか」で、身長180cm・体重73kgという、当時の日本人選手としては非常に恵まれた体格の持ち主でした。
プロ入りは1954年、最終出場は1965年で、読売ジャイアンツ・国鉄スワローズ・阪神タイガースという3球団でプレーしています。
投打は右投右打、ポジションは二塁手を中心に三塁手や遊撃手もこなす内野手でしたよ。
出身校は長野県でも屈指の進学校として知られる長野県松本深志高等学校です。
引退後に球団の役職へ就いた記録や解説者としてメディアに登場した記録は見当たらず、現在の暮らしぶりを伝える公式発表も確認できません。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 土屋正孝(つちや まさたか) |
| 生年月日 | 1935年10月6日 |
| 2026年10月14日現在の年齢 | 91歳 |
| 出身地 | 長野県松本市 |
| 身長体重 | 180cm・73kg |
| 投打 | 右投右打 |
| ポジション | 内野手(二塁手・三塁手・遊撃手) |
| 出身校 | 長野県松本深志高等学校 |
| プロ入り | 1954年・読売ジャイアンツ |
| 所属歴 | 巨人(1954〜1960年)/国鉄(1961〜1964年)/阪神(1965年) |
| 主な受賞 | ベストナイン2回・日本シリーズ敢闘賞1回 |
引退後に歩んだ3つの仕事
ここが「現在」というキーワードで検索したあなたにとって、いちばん気になる部分かなと思います。
土屋正孝さんは1965年に阪神タイガースで現役を退いたあと、野球界に戻らず自営業で生計を立てる道を選んでいます。
最初に目指したのは野球評論家で、自分で野球評論を書いて文藝春秋へ持ち込むという行動まで起こしました。
しかし評論家としてのデビューは実現せず、そこから飲食業へと舵を切ることになります。
六本木ではクラブ、八王子では養老乃瀧という2つの店を経営し、さらに建築関係のコンサルタント業にも携わりました。
下記の表は、引退後に土屋正孝さんが取り組んだ仕事をまとめたものです。
| 時期 | 取り組んだ仕事 | 内容の概要 |
|---|---|---|
| 引退直後 | 野球評論家を志す | 野球評論を書いて文藝春秋へ持ち込むが実現せず |
| その後 | 六本木のクラブ経営 | 店名は自身のあだ名と同じ狂四郎 |
| その後 | 八王子の養老乃瀧 | チェーン居酒屋の店舗を経営 |
| その後 | 建築関係のコンサルタント | 建築分野で助言を行う自営業 |
プロ野球選手の第二の人生といえばコーチや解説者が王道ですが、土屋正孝さんはまったく別のルートを選んだわけですね。
野球評論家という目標から飲食業、そして建築分野へと、まったく異なる世界を渡り歩いたことになりますね。
この振れ幅の大きさが、土屋正孝さんという人物の面白さだと思います。
現役11年の到達点と今も語られる理由
引退後の歩みを理解するうえで、まず現役時代にどこまで到達した選手だったのかを押さえておきたいところです。
土屋正孝さんの現役生活は11年で、通算1097試合に出場して826安打・54本塁打・299打点・154盗塁を記録しました。
通算打率は.239ですが、二塁手として781試合、三塁手として245試合、遊撃手として24試合に守備で就いた点に価値があります。
1964年4月26日には1000試合出場を達成しており、これは当時のプロ野球で史上84人目という節目の記録でした。
ちなみに、東京ヤクルトスワローズが球団創立70周年を記念して選んだ1960年代のベストナインでも、二塁手として土屋正孝さんの名前が挙がっています。
以下の表で通算記録を整理してみます。
| 項目 | 通算記録 |
|---|---|
| 出場試合 | 1097試合 |
| 安打 | 826安打 |
| 本塁打 | 54本塁打 |
| 打点 | 299打点 |
| 盗塁 | 154盗塁 |
| 打率 | .239 |
| OPS | .638 |
| 表彰 | ベストナイン2回・日本シリーズ敢闘賞1回 |
引退から長い年月が経っても名前が語られ続けているのは、こうした実績があるからこそですよね。
時事通信社が企画した全国夢のベストナインでも、長野県の二塁手として土屋正孝さんが紹介されています。
郷土の代表としても、球団の歴史のなかでも名前が残っているわけですね。
野球評論家を志した引退直後の挑戦
では、引退直後の土屋正孝さんは何をしていたのでしょうか。
ここでは野球評論家という最初の目標と、その夢が実らなかった背景について整理します。
文藝春秋へ野球評論を持ち込んだ日々
土屋正孝さんが引退後に最初に目指したのは、野球評論家としての道でした。
単に評論家を志望したという話ではなく、自分で野球評論を書き上げて文藝春秋へ持ち込むところまで実行しています。
当時のプロ野球OBは、球団のコーチや新聞社の客員解説者という形で球界に残るのが一般的なルートでした。
そのなかで出版社に原稿を持ち込むという発想を実行に移したのは、かなり異色の行動だったといえます。
ただ、原稿の持ち込みは実を結ばず、野球評論家としてデビューする構想は実現しませんでした。
もし評論家として世に出ていたら、巨人の内野陣を内側から見た貴重な証言が残っていたかもしれませんね。
ここ、野球史が好きな人にとってはかなり惜しいポイントだと思います。
引退した1965年当時のプロ野球界では、選手の第二の人生といえばコーチや二軍監督、あるいは球団フロントが定番のルートでした。
新聞社や放送局の解説者として現場に残る人も多く、文章で勝負するという選択はかなり少数派だったはずです。
それでも土屋正孝さんは自分の名前ではなく原稿の中身で評価されようとしたわけで、この姿勢はかなり潔いですよね。
結果として評論家デビューは叶いませんでしたが、挑戦した事実そのものは記録に残っています。
ロッカールームでバルザックを読む文学青年
そもそも、なぜ元二塁手が出版社へ原稿を持ち込むという行動に出たのか気になりますよね。
その答えは、現役時代から土屋正孝さんが相当な読書家だったという事実にあります。
現役時代はロッカールームでバルザックを読んでいたと伝えられており、愛読書はカフカや世界文学全集でした。
プロ野球選手がベンチ裏でフランス文学を開いているという光景は、当時かなり珍しかったはずです。
学力の面でもベースはしっかりしていて、出身校の松本深志高校は長野県でも屈指の進学校であり、そのなかで土屋正孝さんは理数系科目を得意として上位20位前後の成績を取っていました。
そのため友人たちは、土屋正孝さんがプロ野球界へ進むと聞いて皆驚いたと伝えられています。
文学と理数系の両方に強いという素養が、引退後に評論や建築コンサルタントへ向かった背景にあるのかなと思います。
バルザックは19世紀フランスを代表する小説家で、人間喜劇と呼ばれる長大な作品群で知られる作家ですね。
カフカは変身や城などで知られる作家で、どちらも軽い気持ちで読み進められる作品ではありません。
遠征先のロッカーでこうした本を開いていたのですから、周囲の選手からは少し変わった存在に見えていたかもしれません。
評論家の道が実らなかった背景を読み解く
では、なぜ野球評論家としての道は開かなかったのでしょうか。
公式な理由は語られていませんが、現役時代の立ち位置がヒントになりそうです。
土屋正孝さんは試合中でも眠っているように見える表情から眠狂四郎と呼ばれ、首脳陣からの評価はあまり芳しくなかったと伝えられています。
一塁の川上哲治さん、三塁の長嶋茂雄さん、遊撃の広岡達朗さんという華のある面々に囲まれ、どうしても目立たない存在でもありました。
実際、阪神へ移る際には「これでわかったことは、ぼくは早くレギュラーになりすぎて、ぬるま湯に浸かったような気持ちになっていたと言うことです」と自身を省みる言葉を残しています。
知名度よりも渋い実力で評価されるタイプだったことが、メディアの世界に残りにくかった一因かもしれません。
逆に言えば、その職人的な立ち位置こそが後年の再評価につながっているとも考えられます。
加えて、引退した時点で土屋正孝さんは阪神で52試合しか出場しておらず、晩年の印象が強く残っていたことも想像できます。
全盛期の国鉄時代を知るファンは多かったものの、引退直前の数字だけを見れば地味に映ったはずですよね。
評論家という仕事は知名度と発信力が物を言う世界でもあるため、そこが壁になった可能性はあります。
六本木のクラブ狂四郎と八王子の養老乃瀧
引退後の土屋正孝さんを語るうえで欠かせないのが、飲食業への転身です。
ここでは店名の由来から2店舗の経営、そしてその選択が持つ意味まで掘り下げます。
店名に自分のあだ名を刻んだ理由
土屋正孝さんは六本木でクラブを開き、その店名を狂四郎と名付けました。
これは現役時代に親しまれた眠狂四郎というあだ名から取ったものですね。
あだ名の由来は、長身で常にポーカーフェイス、打席ではバットを大きく構えるスタイルが剣豪を思わせたことにあります。
一方で、目が細くけだるそうな表情でいつも眠っているように見えたため、水原茂監督が名付けたという説も伝わっていますよ。
どちらの説にしても、現役時代の象徴だった呼び名を自分の店の看板に掲げたことになります。
野球評論家の夢が叶わなかったあとに、野球時代の記憶を店名として残したというのは、なかなか味のある選択だと思いませんか。
ここ、人物像を知るうえでとても象徴的なエピソードですよね。
眠狂四郎は柴田錬三郎さんの小説に登場する無頼の剣士で、1960年代には映画やテレビドラマでも人気を集めた存在でした。
つまり当時の人なら誰でも知っているキャラクターで、店名として掲げれば一発で覚えてもらえる看板になりますよね。
自分のあだ名と時代の人気キャラクターが重なっていたことを、商売に活かしたと見ることもできます。
資料では引退後の歩みが「野球から離れて水商売や建設関係のコンサルタントをしていた」と記されています。
六本木と八王子で2つの店を営む
飲食業での展開は六本木だけではありませんでした。
土屋正孝さんは八王子で養老乃瀧も経営しています。
養老乃瀧は全国に店舗を展開する老舗の居酒屋チェーンで、六本木のクラブとはまったく客層の異なる業態です。
繁華街の高級業態と郊外の大衆業態という2つの顔を持っていたことになりますね。
こうした引退後の経歴は、沢木耕太郎さんのノンフィクション作品である敗れざる者たちなどで触れられてきました。
同書は1979年に文春文庫から刊行された作品で、土屋正孝さんの歩みを後世に伝える重要な資料になっています。
選手としての通算成績だけでは見えてこない人生が記録されているわけです。
六本木は1960年代後半から飲食店や外国人向けの店が急増し、夜の街として全国的に知られるようになったエリアです。
一方の八王子は多摩地域の中心都市で、学生や会社員が集まる地元密着型の商圏ですね。
性格のまったく違う2つの街で店を構えたということは、経営の幅がそれなりに広かったことを意味します。
どちらの店がいつまで営業していたのかという記録は公表されていないため、そこは確認できません。
ただ、プロ野球選手の肩書きを使って一度の挑戦で終わらせなかった点は注目に値します。
水商売という選択をどう見るか
プロ野球選手の引退後として、飲食店経営はそれほど珍しい進路ではありません。
ただ土屋正孝さんの場合は、野球評論家という知的な職業を目指したあとに水商売へ移ったという順序が独特です。
1960年代後半の六本木は飲食店が急増していた時期で、知名度のある元選手が店を構える土壌はありました。
とはいえ、球界と縁を切る形で自営業を続けた点は、同時代の選手と比べても際立っています。
同じ国鉄を1965年に退団した町田行彦さんは巨人へ移ってコーチや二軍監督を務め、のちにヤクルトのコーチとして古巣へ復帰しました。
対照的に、土屋正孝さんは指導者としてユニホームを着た記録が残っていません。
球界の人脈に頼らず自分の商売で立つという姿勢は、統一契約書を盾に減俸を撤回させた現役時代の交渉とも重なります。
この話は後半で詳しく触れますので、ぜひ最後まで読んでみてください。
現役時代に百万ドル内野陣の一角として名前を知られていたことは、客商売において大きな武器になったはずです。
とはいえ、知名度だけで続く世界ではありませんから、相応の苦労もあったのではないでしょうか。
このあたりは本人が語った記録が残っていないため、想像の域を出ないところですね。
建築コンサルタントとしての第二の顔
飲食業と並行して、土屋正孝さんにはもうひとつの仕事がありました。
それが建築関係のコンサルタント業で、野球とも飲食ともまったく異なる領域です。
ここでは、この転身の中身とそれを支えた素養について整理していきますね。
建築関係のコンサルタント業への転身
土屋正孝さんは引退後、建築関係のコンサルタント業を手がけていたと伝えられています。
コンサルタントという言葉からは企画や設計の助言を行う立場が想像できますが、具体的な社名や取引先は公表されていません。
そのため、どの規模でどんな案件に関わっていたのかという詳細は、現時点では確認できない状況です。
わかっているのは、飲食店経営とコンサルタント業を並行または時期をずらしながら営み、自営業として生計を立てていたという事実ですね。
プロ野球OBの第二の人生としては、かなり実務寄りの選択だったといえます。
球界の肩書きを使って指導や解説に進むのではなく、ビジネスの現場で自分の腕を試したという構図です。
この姿勢は、現役時代に自分で契約条項を調べて交渉した行動とも通じるところがあります。
同じ資料には「建築関係のコンサルタント業を行うなど、自営業を営んだ」という記述があり、複数の事業を手がけていたことがわかります。
建築分野のコンサルタントは、設計や施工の知識に加えて数字を読む力が求められる仕事です。
飲食店の経営で培った実務感覚も、そこで役に立った可能性がありますよね。
野球とは縁のない領域で長く働いたという点が、土屋正孝さんの引退後を特徴づけています。
理数系の素養が活きた第二の顔
建築という分野を選んだ背景としては、やはり学生時代の得意科目が気になります。
土屋正孝さんは松本深志高校で理数系科目を得意としており、進学校のなかで上位20位前後の成績を収めていました。
本来は大学進学を予定していたほどで、学業の下地はしっかりしていたわけです。
読売ジャイアンツ・中日ドラゴンズ・国鉄スワローズという3球団から勧誘を受けたことで進路が変わりましたが、学力自体は折り紙付きでしたよ。
図面や構造を扱う建築分野で助言する仕事は、こうした理数系の素養と相性が良かったはずです。
文学を愛する一面と数字に強い一面、その両方を持っていたことが土屋正孝さんの特徴かなと思います。
野球選手としての評価が守備の安定感にあったことも、几帳面な性格の表れだったのかもしれません。
松本深志高校は旧制松本中学を前身とする伝統校で、長野県内では最上位に位置づけられる存在です。
その環境で上位20位前後を維持していたのですから、学業と野球を高いレベルで両立させていたことになります。
進学予定だった大学の道を捨ててプロへ進んだ決断には、相当な覚悟があったはずですよね。
結果として引退後に学力を活かす場を自分で作ったのですから、無駄にはならなかったわけです。
自営業を貫いた引退後の歩み
ここまでの流れを時系列で整理すると、引退後の歩みがよりはっきり見えてきます。
下記の表は、現役末期から引退後までの流れをまとめたものです。
| 時期 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 1964年 | 国鉄で定位置を失う | 故障もあり6月から杉本公孝に二塁を譲る |
| 1965年 | 阪神タイガースへ移籍 | 52試合出場・打率.164に終わる |
| 1965年限り | 現役を引退 | 11年の現役生活に区切りをつける |
| 引退直後 | 野球評論家を志す | 野球評論を文藝春秋へ持ち込む |
| その後 | 六本木でクラブ狂四郎 | 自身のあだ名を店名に採用 |
| その後 | 八王子で養老乃瀧 | 居酒屋チェーンの店舗を経営 |
| その後 | 建築関係のコンサルタント | 自営業として活動を続ける |
この表からわかるのは、引退後に一度も球団の指導者やフロントに就いていないという点です。
同時期に国鉄を去った宮本敏雄さんは引退、町田行彦さんは巨人へ移籍という道をたどりました。
仲の良かった広岡達朗さんが監督として名を残したのとも対照的で、土屋正孝さんは野球の外側で生きる選択をしたわけですね。
こうして見ると、引退後のキャリアも含めて一本芯の通った生き方だったと感じます。
野球の世界に戻らなかった理由は語られていませんが、自分の力で立つことを選んだのは間違いなさそうです。
公の場に出ない現在の消息を整理
では、現在の土屋正孝さんについてはどこまでわかっているのでしょうか。
ここでは確定している情報と未確認の情報を切り分けて、あなたが判断を誤らないように整理します。
現在の年齢と松本市という原点
土屋正孝さんは1935年10月6日生まれで、2026年10月14日現在の年齢は91歳になります。
長野県松本市の出身で、時事通信社の全国夢のベストナイン特集でも長野県の二塁手として紹介された人物です。
その紹介では球歴が「松本深志→巨人→国鉄→阪神」と記され、生まれは1935年10月6日、出身は松本市と明記されていました。
郷土のベストナインに選ばれるほど、長野県の野球史において大きな存在だったということですね。
松本深志高校は現在も長野県を代表する進学校として知られています。
そこから3球団競合でプロ入りした選手というだけでも、地元では語り継がれる存在だったはずです。
あなたが長野県にゆかりのある方なら、このあたりは特に興味が湧く部分かもしれません。
松本市は北アルプスを望む城下町で、長野県を代表する文化都市として知られる土地ですね。
その松本市から甲子園出場のないまま3球団競合でプロ入りした選手というのは、やはり特別な存在だったはずです。
時事通信社の企画では球歴が松本深志から巨人、国鉄、阪神と並べられ、長野県の二塁手として選ばれていました。
あなたが現在の姿を知りたいと思うのも、それだけ記憶に残る選手だからこそかなと思います。
確定情報と未確認情報の線引き
現在の情報を扱うときに大事なのは、どこまでが公開情報なのかという線引きです。
結論から言うと、現在の居住地や日々の活動に関する公式発表は確認できません。
プロ野球の記録サイトや野球史の資料に残っているのは、あくまで現役時代の成績と引退後の職業までですね。
以下の表で、情報項目ごとに確度を整理してみます。
| 情報項目 | 内容 | 確度 |
|---|---|---|
| 生年月日 | 1935年10月6日 | 確定 |
| 出身地 | 長野県松本市 | 確定 |
| 出身校 | 長野県松本深志高等学校 | 確定 |
| 引退後の職業 | 飲食店経営と建築関係のコンサルタント | 確定 |
| 家族構成 | 警察官の長男で姉と妹がいる | 確定 |
| 現在の居住地 | 公表されていない | 未確認 |
| 現在の活動内容 | 公の場での活動は確認できない | 未確認 |
ネット上では現在の様子について断定的に語る情報も見かけますが、根拠が示されていないものは噂止まりと考えるのが安全です。
ここは慎重に見ておきたいところですよね。
プロ野球選手の情報は、引退から時間が経つほど公開情報が減っていくのが普通です。
特に1960年代に引退した選手となると、本人がメディアに出ない限り近況が伝わる機会はほとんどありません。
そのため、断定的な近況情報を見かけたときは出典を確認するのがおすすめですよ。
この記事では確認できた範囲の情報だけを扱うようにしています。
球団の記念企画で再び名前が挙がった
一方で、近年あらためて土屋正孝さんの名前が取り上げられた場面もあります。
東京ヤクルトスワローズの球団創立70周年を記念した企画では、1960年代のベストナインで二塁手に選出されました。
その記事では国鉄時代の4年間で453試合に出場し、打率.247・23本塁打・137打点・53盗塁を記録したと紹介されています。
選出の理由としては、1967年入団の武上四郎さんも同じく3年間レギュラーを務めたものの、二塁での通算出場数がより多い土屋正孝さんが選ばれたと説明されていました。
また、東海テレビで実況を担当した吉村功さんの著書には「野球中継デビューの日に土屋正孝がホームラン」という項目が収められています。
アナウンサーの記憶に残る一打を放った選手として、別の角度からも名前が残っているわけです。
現在も活動が公開されていないとはいえ、野球史のなかで語り継がれているのは間違いなさそうです。
この企画では投手に金田正一さん、捕手に根来広光さん、三塁手に徳武定之さんといった面々が並びました。
国鉄からサンケイ、アトムズへと球団名が変わった時代を支えたメンバーの一人として評価されたわけですね。
引退から長い年月を経ても選出されるというのは、記録がしっかり残っている証拠だと思います。
同姓同名の土屋敏男や土屋博映との違い
ここで、検索するときに必ず気をつけたいポイントを整理しておきます。
土屋という姓の著名人は複数いて、現在というキーワードで調べると別人の情報が混ざりやすいんですよ。
検索で混ざりやすい土屋姓の著名人
土屋正孝さんを調べると、テレビプロデューサーの土屋敏男さんや予備校講師の土屋博映さんの情報が一緒に表示されます。
いずれも分野の異なる別人で、プロ野球選手だった土屋正孝さんとは経歴がまったく重なりません。
さらに、元プロ野球選手には土屋雅敬さんという表記の似た人物も存在します。
下記の表は、混同されやすい土屋姓の人物を整理したものです。
| 名前 | 活動分野 | 代表的な実績 |
|---|---|---|
| 土屋正孝 | プロ野球の元選手 | 巨人と国鉄で二塁手としてベストナイン2回 |
| 土屋敏男 | テレビ番組の制作 | 進め!電波少年などを企画・演出 |
| 土屋博映 | 受験指導と国文学 | 土屋の古文単語222など200万部超の著書 |
| 土屋雅敬 | プロ野球の元選手 | 表記が似ていて混同されやすい別人 |
実際に関連キーワードを見ても、土屋プロデューサーは現在何をしているのかという検索や、土屋博映先生は現在何をされているのかという検索が並んでいます。
この記事で扱っているのは、あくまで元プロ野球選手の土屋正孝さんですよ。
検索結果に別人の情報が混ざるのは、同じ姓の著名人がそれぞれの分野で実績を残しているからですね。
特に現在という言葉を一緒に入れると、活動中の人物の情報が優先して表示されやすくなります。
ここを押さえておけば、調べたい情報に最短でたどり着けますよ。
日本テレビのプロデューサー土屋敏男
まず混同されやすいのが、土屋敏男さんというテレビ番組のプロデューサーです。
日本テレビ放送網に44年勤め、2022年9月末で退社したのちは社外アドバイザーとして契約しています。
代表番組は進め!電波少年で、1992年から2002年まで放送され平均視聴率18.7パーセント・最高視聴率30.4パーセントを記録した人気番組でした。
ほかにもウッチャンナンチャンのウリナリや雷波少年、天才たけしの元気が出るテレビなどを手がけています。
間寛平アースマラソンの企画や、萩本欽一さんを追ったドキュメンタリー映画の監督も務めた人物です。
Tプロデューサーという呼び名で画面に登場していたため、名前を覚えている方も多いのではないでしょうか。
いずれにしても野球とは無関係の経歴なので、情報が混ざらないよう注意してくださいね。
番組内では「Tプロデューサー」という呼び名で知られ、顔を出して出演することもありました。
退社後も一般社団法人の代表理事やケーブルテレビのアドバイザーなど、幅広く活動を続けています。
東京大学大学院で非常勤講師を務めた経歴もあり、テレビの枠を越えた実績を持つ人物です。
野球選手だった土屋正孝さんとは、年代も分野もまったく異なりますよね。
予備校講師の土屋博映と元選手の土屋雅敬
もうひとり混同されやすいのが、土屋博映さんという受験指導の世界で知られる人物です。
元祖カリスマ予備校講師と呼ばれ、現在は大学教授として筑波大学国語国文学会の理事も務めています。
土屋の古文公式222や土屋の古文単語222といった著書は累計200万部を超え、受験生から絶大な支持を得てきました。
NHK教育テレビやラジオの講師、クイズ番組のレギュラー解答者としても活躍し、ツッチーの愛称で親しまれています。
そして野球ファンにとって紛らわしいのが、元プロ野球選手の土屋雅敬さんの存在です。
百科事典の記述でも土屋正孝さんと土屋雅敬さんは別人であると明記されており、ここは特に混同しやすいポイントです。
検索するときは、巨人や国鉄という球団名を一緒に入れると目的の情報にたどり着きやすくなりますよ。
土屋正孝の現在までの経歴|成績と逸話
- 松本深志高校時代と巨人入団までの道
- 投手から打者へ転向した巨人時代の序章
- 百万ドル内野陣を支えた二塁手の実力
- 国鉄移籍で掴んだ2度目のベストナイン
- 阪神移籍から現役引退までの経緯
- 眠狂四郎の由来と長嶋茂雄との関係
紹介文では「元祖カリスマ予備校講師」と記され、絶頂期の江川を長者番付で抜いたという逸話まで伝えられています。
松本深志高校時代と巨人入団までの道
ここからは、現在に至るまでの歩みを時系列でたどっていきます。
まずは生まれ育った環境と、プロ入りまでの経緯を押さえておきましょう。
警察官の長男として松本市に生まれる
土屋正孝さんは1935年10月6日、長野県松本市に生まれました。
父親は警察官で、土屋正孝さんはその長男として育っています。
松本市は北アルプスを望む城下町で、国宝松本城を中心に文化の香りが残る土地ですね。
戦後の混乱期に少年時代を過ごし、スポーツに打ち込める環境があったことは恵まれていたといえます。
警察官の家庭という規律のある環境で育ったことは、几帳面な守備や冷静な交渉術につながっていたのかもしれません。
のちに広岡達朗さんが守備について「うまい選手でした。球を捕りに行く仕切りからきちんとできていた。だからミスが非常に少ない」と評した背景にも、この育ちが関係していそうです。
ここ、人物像を知るうえで意外と重要なポイントだと思いますよ。
生まれた1935年は、まだプロ野球が日本で産声を上げたばかりの時代でした。
職業野球という言葉が使われていた頃で、野球選手が安定した職業と見なされていたわけではありません。
そんな時代に警察官の家庭からプロ野球選手が生まれたというのは、なかなか珍しいケースですよね。
家族の理解がなければ、プロの道へ進む決断はできなかったはずです。
ここは土屋正孝さんの原点として押さえておきたいポイントです。
姉と妹がテニス日本一の球技一家
土屋家は、実はかなりのスポーツ一家でした。
土屋正孝さんは野球のほかにテニス・バスケットボール・バレーボールと球技は何でも得意で、姉と妹は高校時代にテニスで日本一になったことがあると伝えられています。
姉妹がそろって全国制覇を経験しているのですから、家族全体の運動能力がかなり高かったことがわかりますよね。
球技一家という表現がそのまま当てはまる環境で育ったわけです。
そうした下地があったからこそ、高校では複数のポジションをこなす器用さを発揮できたのだと考えられます。
実際、2年生では捕手と三塁手を兼任し、3年生になると投手を任されていました。
つまり土屋正孝さんは、高校時代に投手も捕手も内野も経験した万能型の選手だったのです。
この器用さはプロ入り後のコンバート人生にも直結していきます。
テニスで高校日本一になるには、相当な練習量と環境が必要になります。
姉と妹の両方が全国の頂点を経験しているのですから、家庭全体がスポーツに前向きだったことがうかがえますよね。
土屋正孝さん自身もバスケットボールやバレーボールをこなしたと伝えられ、球技の勘が抜群だったようです。
この万能さが、投手から打者への転向をスムーズにした要因かなと思います。
松商学園に惜敗し3球団競合から巨人へ
高校時代のハイライトは、1953年春季長野大会の中信予選決勝です。
この試合で松本深志高校は松商学園に惜敗し、甲子園出場には届きませんでした。
対戦相手の松商学園には、のちにプロで同僚となる堀内庄さんと木次文夫さんがいたという巡り合わせも興味深いところです。
同年の夏も県予選で敗れ、結果として甲子園の土を踏むことはできませんでした。
当初は大学への進学を予定していたそうですが、ここで思わぬ展開が待っていました。
読売ジャイアンツ・中日ドラゴンズ・国鉄スワローズという3球団から勧誘を受け、1953年11月17日に巨人へ投手として入団を決めます。
甲子園に出ていない選手が複数球団から誘われるというのは、それだけ素材として評価されていた証拠ですね。
ちなみに、このとき勧誘した国鉄にはのちに実際に移籍することになります。
松商学園は長野県を代表する強豪校で、甲子園の常連として全国に名を知られてきた学校です。
その壁に阻まれた形ですが、相手チームの堀内庄さんと木次文夫さんはのちに巨人で同僚になりました。
高校時代に敗れた相手と同じユニホームを着ることになったのですから、不思議な縁ですよね。
甲子園に届かなくてもプロで評価される選手がいるという、よい例だと思います。
投手から打者へ転向した巨人時代の序章
プロ入り当初の土屋正孝さんは、実は投手でした。
ここでは打者転向からレギュラー獲得までの流れを、段階を追って見ていきます。
二軍監督の内堀保による打者転向
巨人へ投手として入団した土屋正孝さんですが、その肩書きはすぐに変わります。
入団後まもなく、二軍監督の内堀保さんが打力を生かすために打者へ転向させたのです。
この判断がなければ、1097試合に出場する内野手は生まれていなかったことになりますね。
当時はハワイから来日していた強打者の柏枝文治さんと比べても守備が安定していたと評価されており、守備力を買われた形でした。
1954年の背番号は49で、この年は一軍出場がありません。
翌1955年に7試合へ出場して打率.250を記録し、プロの舞台に足を踏み入れます。
この時点では、まだ百万ドル内野陣の一角になる姿は誰も想像できなかったはずです。
転向を決めた首脳陣の眼力に、あらためて驚かされますよね。
当時の資料では「ハワイから来日していた強打の柏枝文治より守備が安定しており」と評されており、守備力が決め手だったことがわかります。
投手として入団した選手を内野手に転向させるという判断は、今の時代でもそれほど多くありません。
高校時代に捕手や三塁手を経験していたことが、この転向を可能にしたのでしょう。
結果的にこの決断が、ベストナイン2回の二塁手を生み出したわけですね。
三塁手で開幕レギュラーを奪った3年目
飛躍のきっかけは3年目の1956年でした。
この年、土屋正孝さんは開幕から三塁手のレギュラーポジションを獲得します。
115試合に出場して打率.257・6本塁打・27打点を記録し、一軍の主力として定着しました。
背番号も1956年の途中から25へ変更され、球団からの期待の高まりがうかがえます。
翌1957年には遊撃手も兼任し、129試合に出場して初めて規定打席に到達しました。
このシーズンの打率は.221でリーグ25位でしたが、7本塁打・42打点と勝負強さを見せています。
守備では三塁113試合・遊撃19試合・二塁4試合という内訳で、内野のどこでも守れる便利さを発揮しました。
このユーティリティ性が、のちのコンバートを受け入れる土台になっていきます。
1956年の巨人は川上哲治さんや岩本堯さんといった実績ある打者が並ぶチームでした。
そのなかで入団3年目の選手が開幕から三塁に入るというのは、かなりの評価を得ていた証拠です。
打順は7番に置かれることが多く、下位から流れを作る役割を担っていました。
この年は6本塁打を放ち、長打力も持ち合わせていたことがわかりますよね。
守備では三塁で111試合に就き、一年を通して定位置を守り切りました。
日本シリーズの舞台で積んだ経験
当時の巨人は常に優勝争いの中心にいたチームでした。
そのため土屋正孝さんは、若くして日本シリーズの舞台を何度も経験しています。
下記の表は、日本シリーズでの成績をまとめたものです。
| 年 | 対戦相手 | 土屋正孝の成績 |
|---|---|---|
| 1956年 | 西鉄ライオンズ | 岩本堯と併用され8打数3安打2打点 |
| 1957年 | 西鉄ライオンズ | 全5試合に先発し20打数4安打 |
| 1958年 | 西鉄ライオンズ | 全7試合に先発し26打数4安打5打点 |
| 1959年 | 南海ホークス | 18打数8安打2打点で打率.444・敢闘賞 |
1956年の初舞台では岩本堯さんとの併用でしたが、8打数3安打2打点という結果を残しました。
1958年の西鉄戦では全7試合に先発し、第1戦と第2戦で各2打点と活躍しています。
ただシリーズ通算では26打数4安打5打点にとどまり、悔しさの残る内容でもありました。
この積み重ねが1959年の爆発につながっていくわけですね。
1950年代の日本シリーズは西鉄ライオンズとの対戦が続き、野武士軍団と呼ばれた強豪との真っ向勝負でした。
3年連続でシリーズの舞台に立てたのは、チームが強かったからこそですね。
結果が出ないシリーズもありましたが、この経験が1959年の活躍につながったと考えられます。
百万ドル内野陣を支えた二塁手の実力
土屋正孝さんのキャリアを語るうえで最大のトピックが、百万ドル内野陣です。
ここでは長嶋茂雄さんの入団からベストナイン受賞までを、段階的に深掘りしていきます。
長嶋茂雄の入団と二塁へのコンバート
1958年、巨人に立教大学出身の大型三塁手が入団します。
そう、長嶋茂雄さんですね。
この入団により、三塁手だった土屋正孝さんは二塁手へコンバートされました。
しかも二塁には前年までの正二塁手である内藤博文さんがいて、さらに関西六大学野球リーグで本塁打記録を作った新人の難波昭二郎さんも加わります。
つまりポジションを移されたうえで、新たな競争を強いられたわけです。
それでも土屋正孝さんはこの競争に勝ってレギュラーの座を確保し、100試合に出場して打率.246を記録しました。
驚くのは、本人がこのコンバートに不満を抱かなかったという点です。
長嶋茂雄さんの素質が自分より優れていることをすぐに見抜いていたからだと伝えられていますよ。
自分の定位置を奪われるという状況で、素直に受け入れられる選手はそう多くないはずです。
しかも相手は立教大学から来た大型新人で、注目度は比べものになりませんでした。
それでも土屋正孝さんは不満に思うことなく二塁へ移り、新しい競争に挑んでいます。
この切り替えの早さが、長く一軍に残り続けた理由のひとつかなと思います。
ちなみに、二塁へ移った1958年は100試合に出場して5本塁打・24打点を記録しました。
百万ドル内野陣と呼ばれた布陣
こうして完成したのが、当時のマスコミが絶賛した内野陣です。
以下の表で、その布陣を整理してみます。
| ポジション | 選手 | 備考 |
|---|---|---|
| 一塁手 | 川上哲治(のち王貞治) | 打撃の神様と呼ばれた大打者 |
| 二塁手 | 土屋正孝 | 守備の安定感で内野を支える |
| 遊撃手 | 広岡達朗 | 同期入団で二遊間コンビを組む |
| 三塁手 | 長嶋茂雄 | 華のあるスターとして人気を集める |
この内野陣は派手で見栄えがよく、マスコミから大型内野陣あるいは百万ドル内野陣と呼ばれました。
王貞治さんや長嶋茂雄さん、広岡達朗さんといった180cm台の選手とともに、超大型内野陣の一翼を担っていたことになります。
そのなかで土屋正孝さんは、際立って華麗でもなければ下手でもない堅実な存在でした。
言い換えれば、スターに囲まれながら穴を作らなかった職人型の二塁手だったわけです。
こういう選手がいるからこそ、チームは強くなれるんですよね。
一塁には打撃の神様と呼ばれた川上哲治さんが入り、のちに王貞治さんがその座を継ぎました。
遊撃の広岡達朗さんは同期入団で、二遊間を組む相棒でもありました。
この4人が並んだ内野は、当時のファンにとって圧倒的な存在だったはずですよね。
そのなかで土屋正孝さんは、派手さではなく確実さで評価を得ていました。
1959年のベストナインと35盗塁
キャリアの頂点といえるのが1959年です。
この年、土屋正孝さんは121試合に出場して打率.254・6本塁打・41打点を記録しました。
特筆すべきは走力で、リーグ2位の35盗塁という数字を残しています。
これはチームトップの数字で、二塁手として初のベストナイン受賞につながりました。
打順は7番を任されることが多く、1番の与那嶺要さんから始まる強力打線の下位でしぶとく機能していました。
派手さはないものの、走れて守れる二塁手として評価されていたということですね。
なお、1961年にも国鉄で2度目のベストナインを受賞しており、二塁手部門で計2回の受賞となっています。
35盗塁という数字は、同年の三塁打7本という記録と合わせて考えると、相当な機動力を持っていた証拠ですね。
盗塁死は13でしたから、積極的に次の塁を狙う姿勢だったことがわかります。
この年の巨人は与那嶺要さんや広岡達朗さん、長嶋茂雄さんが並ぶ強力打線でした。
そのなかで下位打線から走って揺さぶる役割を担っていたわけです。
打率.254という数字以上に、チームへの貢献度が高かったシーズンだったといえます。
二塁手としての守備も112試合に就き、攻守両面でフル稼働していました。
日本シリーズ敢闘賞と広岡達朗の証言
1959年の日本シリーズは、土屋正孝さんにとって生涯の名場面でした。
相手は南海ホークスで、杉浦忠さんの4連投の前に巨人はストレート負けを喫します。
しかしチームが沈むなかで、土屋正孝さんだけは打ち続けました。
1番もしくは2番打者として18打数8安打2打点、打率.444という成績を残し、敢闘賞を受賞しています。
チームが4連敗したシリーズで個人賞を受けるというのは、相当なインパクトですよね。
守備面の評価も高く、仲の良かった広岡達朗さんは「うまい選手でした。球を捕りに行く仕切りからきちんとできていた。だからミスが非常に少ない」と語っています。
実際、1959年の二塁守備では112試合で守備率.977を記録しました。
華やかな打者が並ぶチームで、守備の土台を支えていたのが土屋正孝さんだったのです。
杉浦忠さんは同年の日本シリーズで4試合すべてに先発して投げ抜くという離れ業を見せた投手です。
その相手から8安打を奪ったのですから、土屋正孝さんの打撃がどれだけ機能していたかが伝わってきますよね。
チームは4連敗で終わったものの、個人としては胸を張れる内容でした。
前述の通り、守備についても広岡達朗さんから高い評価を受けていた選手です。
国鉄移籍で掴んだ2度目のベストナイン
1960年オフ、土屋正孝さんのキャリアは大きく動きます。
ここでは移籍の経緯から国鉄での全盛期まで、背景を含めて整理していきますね。
川上哲治の監督就任とトレード通告
きっかけは1960年の成績不振でした。
この年の打率は.206まで落ち込み、土屋正孝さんは一念発起して身体作りから練習をやり直すことを決意します。
中野から多摩川グラウンドの近くへ住居を移すという、生活ごと野球に捧げる覚悟を見せました。
ところが、チーム内の人間関係が思わぬ形で影響します。
現役時代にかわいがられていた川上哲治さんが引退してヘッドコーチに就いたのち、両者の関係は微妙になっていたと伝えられています。
そして川上哲治さんが監督に就任すると、1960年12月23日に土居章助さんとのトレードで国鉄スワローズへ移籍することになりました。
すでに月給1割ダウンで契約更改まで終えていたタイミングでの通告ですから、相当な衝撃だったはずですよね。
1960年の巨人は水原茂監督が退き、川上哲治さんが新監督として就任する転換期でした。
監督が代われば構想も変わるため、評価が微妙だった選手にとっては厳しい局面になります。
土屋正孝さんは身体作りから練習をやり直す覚悟を固めていた最中の通告でした。
多摩川グラウンドの近くへ引っ越したばかりだったことを考えると、やりきれない気持ちだったはずですよね。
相手の土居章助さんとの交換という形で、巨人を去ることになりました。
統一契約書を盾に減俸を撤回させた交渉
ここで土屋正孝さんは、ただ受け入れるのではなく行動に出ます。
持ち出したのは統一契約書の条項でした。
移籍先での給料は移籍前の球団での前年度の給料を下回ってはならないという条項を指摘し、巨人の措置が誤りであることを突きつけたのです。
結果として、1割ダウンされていた給料は元に戻された上での移籍となりました。
当時の選手が契約書の条文を根拠に球団と交渉して勝つというのは、極めて珍しいケースでした。
ロッカールームでバルザックを読んでいた知性派らしいエピソードだなと思います。
この交渉力は、のちに自営業で生きていく姿にもつながっているように見えますよね。
目立たない選手と言われながら、守るべきものはきちんと守る人だったわけです。
統一契約書はプロ野球選手と球団の間で交わされる共通の契約書で、選手を守る条項も含まれています。
しかし当時、その内容を細かく読み込んで球団に突きつける選手はほとんどいませんでした。
情報が限られていた時代に自力で条項を調べ上げたという点で、かなり先進的な行動だったといえます。
結果として減俸は撤回され、前年と同じ水準の給料で国鉄へ移ることができました。
この一件は、土屋正孝さんの冷静さと行動力を示す象徴的なエピソードですね。
三番打者として球団初のAクラス入りへ
移籍1年目の1961年、土屋正孝さんは完全に生まれ変わります。
巨人では下位打線が多かったのに対し、国鉄では開幕から四番打者・二塁手として起用されました。
その後は三番打者を任され、ゴールデンウィーク頃には4割を越える高打率で打撃成績トップに座ります。
シーズン当初は巨人の長嶋茂雄さんと激しく首位打者を争うほどの勢いで、巨人から東映フライヤーズの監督に移った水原茂さんは思わず「しまった」と漏らしたと伝えられています。
最終的にはチームトップの打率.269でリーグ13位、132安打を記録しました。
130試合すべてで二塁に就き、守備率.981という安定感も示しています。
そしてこの年、国鉄は球団史上初の3位に入りAクラスへ食い込みました。
その原動力となった土屋正孝さんは2度目のベストナインを受賞し、オールスターゲームにも出場しています。
1961年の国鉄打線は1番に佐藤さん、2番に杉本さん、3番に土屋正孝さん、4番に徳武定之さんという並びでした。
打線の中心に座ったことで、巨人時代とは役割が大きく変わったことがわかりますよね。
国鉄はこの年まで5位や6位が続くチームでしたから、3位という結果は大きな前進でした。
長嶋との激突が招いた1時間40分の中断
国鉄時代には、プロ野球史に残る騒動の中心人物にもなりました。
1961年9月7日の巨人・国鉄22回戦、ダブルヘッダー第2試合での出来事です。
2対2で迎えた11回表、国鉄は2死一・二塁のチャンスを作ります。
打者鈴木秀幸さんの打球は三塁ゴロとなり、長嶋茂雄さんが二塁走者の土屋正孝さんを刺そうとしましたが間一髪セーフ。
しかし三塁を大きくオーバーランしてしまい、長嶋茂雄さんと藤尾茂さんの間に挟まれてしまいます。
そこから三塁方向に逃れた土屋正孝さんは長嶋茂雄さんと交錯し、その背後から回り込むようにして本塁へ突入し生還しました。
島秀之助球審は初めアウトを宣告しますが、国鉄の砂押邦信監督が抗議して判定が覆ります。
今度は巨人の川上哲治監督が猛抗議し、場内には無数の座布団や空き瓶が投げ込まれ、ライトスタンドでは焚き火をする者まで現れて機動隊が出動する騒ぎになりました。
島球審が場内に状況を説明したのは午後11時41分で、プレーから1時間40分以上が経過していたそうです。
試合が再開したのは午後11時53分、決着は翌9月8日午前0時11分で、3対2で国鉄が勝利しました。
両軍が譲らなかったのは、シーズン終盤で激しく優勝を争う相手同士の試合だったからだと言われています。
阪神移籍から現役引退までの経緯
栄光の時期を経て、キャリアの終盤は厳しいものになりました。
ここでは阪神移籍から引退までの流れを、数字を交えて整理します。
サンケイへの経営権譲渡と放出第一号
1964年、土屋正孝さんは故障もあって6月から杉本公孝さんに定位置を譲ります。
そして1965年、球団の経営権が国鉄からサンケイへ譲渡されるという大きな変化が起こりました。
このとき国鉄の今泉代表による経営立て直し策として、高給のわりに貢献度の少ない選手の放出第一号に土屋正孝さんが選ばれ、阪神タイガースへ移籍することになったのです。
同時に国鉄のベテランだった町田行彦さんは巨人へ移籍し、宮本敏雄さんは引退という形でチームを去っています。
この移籍にあたって、土屋正孝さんは「これでわかったことは、ぼくは早くレギュラーになりすぎて、ぬるま湯に浸かったような気持ちになっていたと言うことです」と語りました。
さらに愛読書のカフカや世界文学全集を整理し、野球に集中する決意を示したと伝えられています。
この言葉からは、自分を冷静に分析する姿勢がにじみ出ていますよね。
国鉄スワローズは1965年5月9日までが国鉄、その後はサンケイスワローズという名称に変わりました。
球団の体制が変わるタイミングでベテランが整理されるのは、今も昔も変わらない光景ですね。
土屋正孝さんはその第一号という、あまり嬉しくない形で球団を離れることになりました。
鎌田実と本屋敷錦吾の壁に阻まれる
決意を持って移った阪神でしたが、現実は厳しいものでした。
阪神は守備を優先するチーム方針を取っていて、二塁には鎌田実さんと本屋敷錦吾さんという守備の名手が君臨していました。
その壁に阻まれ、土屋正孝さんの出場機会は限られます。
1965年の成績は52試合出場で打率.164、1本塁打・1打点にとどまりました。
守備では二塁18試合・一塁1試合・三塁1試合という起用で、背番号は巨人時代と同じ25を着けています。
そして、この年限りで現役を退くことになりました。
11年のプロ生活は、1965年のシーズン終了とともに静かに幕を閉じたのです。
華やかな時期を知る選手にとって、この終わり方は複雑な思いだったかなと思います。
鎌田実さんは華麗な守備で知られた二塁手で、本屋敷錦吾さんも守備に定評のある内野手でした。
守備重視の阪神にとって、この2人を外す理由は見つからなかったということですね。
打線でも1番に吉田義男さん、3番に山内一弘さんが並ぶなど、レギュラーは固まっていました。
出場52試合のうち二塁での守備は18試合にとどまっています。
打席数は78で、まとまった出場機会は得られませんでした。
こうして土屋正孝さんの現役生活は静かに終わりへ向かいます。
通算成績と1000試合出場の記録
ここで、現役11年の数字をあらためて確認しておきましょう。
下記の表は年度別の主要成績をまとめたものです。
| 年度 | 球団 | 試合 | 打率 | 本塁打 | 打点 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1955年 | 巨人 | 7 | .250 | 0 | 0 |
| 1956年 | 巨人 | 115 | .257 | 6 | 27 |
| 1957年 | 巨人 | 129 | .221 | 7 | 42 |
| 1958年 | 巨人 | 100 | .246 | 5 | 24 |
| 1959年 | 巨人 | 121 | .254 | 6 | 41 |
| 1960年 | 巨人 | 120 | .206 | 6 | 27 |
| 1961年 | 国鉄 | 130 | .269 | 5 | 39 |
| 1962年 | 国鉄 | 119 | .213 | 8 | 34 |
| 1963年 | 国鉄 | 135 | .260 | 9 | 47 |
| 1964年 | 国鉄 | 69 | .236 | 1 | 17 |
| 1965年 | 阪神 | 52 | .164 | 1 | 1 |
| 通算11年 | 3球団 | 1097 | .239 | 54 | 299 |
最も打点を稼いだのは1963年の47打点で、本塁打も自己最多の9本を放っています。
節目の記録としては、1964年4月26日に史上84人目となる1000試合出場を達成しました。
背番号は49から25、そして国鉄時代の10を経て、最後は再び25を着けています。
数字の推移を見ると、1961年の飛躍と1964年以降の落ち込みがはっきり読み取れますね。
通算の守備内訳は二塁781試合、三塁245試合、遊撃24試合、外野2試合、一塁1試合という幅広さでした。
内野のどこでも守れる選手だったことが、長く一軍に残れた理由ですね。
眠狂四郎の由来と長嶋茂雄との関係
最後に、土屋正孝さんの人物像に迫っておきます。
ここでは有名なあだ名の由来と、チームメートとの関係を掘り下げていきますね。
あだ名の由来には2つの説がある
土屋正孝さんといえば、やはり眠狂四郎というあだ名が有名です。
この呼び名の由来には、大きく2つの説が伝えられています。
1つは、長身で試合中は常にポーカーフェイス、打席でバットを大きく構えるスタイルが剣豪を思わせたからという説です。
眠狂四郎は柴田錬三郎さんの小説に登場する剣士で、当時は広く知られたキャラクターでした。
もう1つは、目が細くけだるそうな表情でいつも眠っているように見えたため、水原茂監督が名付けたという説です。
どちらにしても、見た目の印象から生まれた呼び名であることは共通しています。
試合中でも眠っているように見えるところがあったため、首脳陣からの評価はあまり芳しくなかったとも伝えられていますよ。
ただ、そのクールな佇まいこそが後世まで記憶される個性になったわけですね。
東京ヤクルトスワローズの球団創立70周年企画でも、気だるそうな表情とバットを剣豪のように大きく構えるスタイルからあだ名が付いたと紹介されていました。
つまり、見た目と構えの両方が呼び名の由来として語られているわけです。
どちらが正しいのかを決める資料はありませんが、どちらも土屋正孝さんらしい逸話ですよね。
本人が否定した記録も見当たらないため、愛着のある呼び名だったのかもしれません。
広岡達朗との野球談義と長嶋らとの麻雀
首脳陣の評価とは別に、チームメートとの関係は良好でした。
同期入団で三遊間のち二遊間を組んだ広岡達朗さんとは特に仲が良く、遠征先の宿舎で夜遅くまでゴロの捕球方法を始めとして野球について語り合ったといいます。
のちに名監督となる広岡達朗さんと、守備論を突き詰める夜を過ごしていたわけです。
そう考えると、土屋正孝さんの守備の安定感にも納得がいきますよね。
長嶋茂雄さんとの関係も良好で、遠征の試合後には難波昭二郎さんや藤田元司さんを誘ってしばしば麻雀に興じたと伝えられています。
自分のポジションを奪った相手と親しく付き合えるという点に、土屋正孝さんの人柄が表れています。
派手さはなくても、人間関係を大切にする選手だったということですね。
広岡達朗さんは土屋正孝さんと同期入団の遊撃手で、三遊間のちに二遊間を組んだ相棒でした。
のちに監督として手腕を発揮した人物でもありますね。
守備論を語り合った相手が名将になったという事実は、2人の会話の濃さを物語っています。
一方で長嶋茂雄さんや難波昭二郎さん、藤田元司さんとは麻雀を囲む仲でした。
遠征先での息抜きを共有できる関係だったからこそ、コンバートもすんなり受け入れられたのでしょう。
沢木耕太郎の著書とパワプロでの再現
引退から長い時間が経っても、土屋正孝さんは意外な形で語られ続けています。
ノンフィクション作家の沢木耕太郎さんは1979年刊行の敗れざる者たちで、巨人の三塁を巡る選手たちを描きました。
また、上前淳一郎さんの巨人軍 陰のベストナインでも土屋正孝さんの歩みが詳しく記録されています。
さらに近年は、野球ゲームのパワフルプロ野球で1959年の土屋正孝さんを再現する企画がファンによって公開され、土屋正孝 パワプロという検索も生まれました。
その査定では走力がBクラス、特殊能力としていぶし銀や守備職人が付けられています。
目立たないけれど確実に仕事をする選手という評価が、ゲームの能力値にまで反映されているのが面白いところです。
現在の消息は公表されていませんが、記録と逸話は確かに受け継がれていますよ。
ファンの評では「際立って華麗な訳でもなければ、下手では無かった」と表現されており、まさに渋い実力派という位置づけです。
ゲームの査定では、チームトップの35盗塁を記録しながら走力はあえてBに抑えられていました。
長嶋茂雄さんより速く、しかし目立ちすぎない足という表現を狙った結果だそうです。
こうした細かい再現がされるほど、土屋正孝さんは野球好きに愛されている選手なんですよね。
土屋正孝の現在に関するまとめ
- 土屋正孝は1935年10月6日生まれの元プロ野球選手
- 出身地は長野県松本市で地元の松本深志高校から巨人へ
- 父親が警察官の家庭に育ち姉と妹はテニスで日本一である
- 二軍監督の内堀保の判断で入団直後に打者へ転向している
- 1958年の長嶋茂雄入団で三塁から二塁へ移っている
- 川上哲治や長嶋茂雄らと百万ドル内野陣と呼ばれた布陣だ
- ベストナインは1959年と1961年の二塁手部門で2回
- 1959年の日本シリーズでは打率.444で敢闘賞を受賞
- 1960年オフに土居章助とのトレードで国鉄へ移籍した
- 統一契約書の条項を盾にして1割の減俸を撤回させている
- 1961年は打率.269で球団初のAクラス入りに貢献
- 1965年に阪神へ移り通算1097試合で現役を終えている
- あだ名の眠狂四郎は水原茂監督が名付けたという説もある
- 引退後は六本木のクラブと八王子の養老乃瀧を経営した
- 建築コンサルタントも務め現在の消息は公表されていない
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