足立光宏は現在何してる?日本シリーズ男の引退後とドカベン里中モデル説

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足立光宏さんの現在について、今はどこで何をしているのかを知りたいと感じている方は多いです。

阪急ブレーブスの主戦投手として通算187勝を積み上げ、日本シリーズ男と呼ばれた下手投げのレジェンドですね。

結論から言うと、足立さんは現在86歳で、球界の公職からは離れて静かに過ごしています。

ただ、関西学院大学の臨時コーチを2017年まで務めていたことや、近年もメディアの取材に応じていることが確認できています。

この記事では、足立さんの引退後の歩みから最新の近況、そして今も残り続けている記録までを順番に整理していきますね。

記事のポイント

①:現在は球界の公職を退いて静かに過ごす

②:関西学院大の臨時コーチを2017年まで

③:日本シリーズ通算9勝で歴代3位タイ

④:ドカベン里中智のモデルと報じられた

足立光宏の現在|引退後の歩みと近況

  • 【結論】現在は球界の公職を退いた
  • 引退後に歩んだコーチとスカウトの道
  • 関西学院大で臨時コーチを務めた日々
  • 長嶋茂雄を偲んだ最新のコメント
  • 阪神大震災で消えたトロフィーの行方
  • OB会に出ない理由と語られる人物像

【結論】現在は球界の公職を退いた

 

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まず、いちばん気になるところから答えますね。

足立光宏さんは現在、プロ野球・アマチュア野球を含めて球界の公職には就いていません。

ユニフォームを着る仕事から完全に離れ、表に出る機会そのものが少なくなっているのが実情です。

ただ、消息が分からなくなったわけではありませんよ。

ここでは、年齢や経歴といった基本情報から、現在どういう立ち位置にいるのかまでを、確認できる情報だけで整理していきます。

現在の年齢と判明している近況

足立さんは1940年3月10日生まれですので、現在は86歳になります。

1959年に阪急ブレーブスへ入団した選手ですから、プロ入りからすでに60年以上が経っている計算ですね。

同じ阪急黄金時代を支えた米田哲也さんや梶本隆夫さんの名前と並べて語られる世代で、まさに昭和のプロ野球を生で知る数少ない証人のひとりです。

そんな足立さんの近況として確認できる最新の記録は、2025年6月3日に出された長嶋茂雄さんへの追悼コメントです。

日刊スポーツの取材に応じ、V9時代の好敵手との思い出を自分の言葉でしっかり語っています。

この時点で記憶も語り口もはっきりしていたことが記事から伝わってきますので、体調面を心配する声に対しては、ひとまず安心できる材料かなと思います。

住まいについては、かつて兵庫県西宮市に自宅があったことが判明しています。

ただし阪神・淡路大震災で被災して転居しているため、現在の居住地は公表されていません。

家族構成についても、公開情報の中では触れられていないのが現状です。

この辺りは本人が私生活を語らないタイプということもあって、無理に推測で埋めるべき部分ではないですね。

足立光宏のプロフィール

下記の表は、足立さんの基本情報をまとめたものです。

項目 内容
名前 足立光宏(あだち みつひろ)
生年月日 1940年3月10日
2026年10月12日現在の年齢 86歳
出身地 大阪府大阪市此花区
本籍地 兵庫県氷上郡遠坂村(現・丹波市青垣町遠阪)
身長/体重 173cm/74kg
投打 右投右打
ポジション 投手(アンダースロー)
経歴 大阪市立西高校 – 大阪大丸 – 阪急ブレーブス
プロ入り 1959年
初出場 1959年4月10日
最終出場 1979年10月9日
背番号 16(1959年 – 1980年)/71(1981年 – 1985年)
通算成績 676試合 187勝153敗3セーブ 防御率2.91

注目してほしいのは、経歴欄にドラフトの文字がないところです。

足立さんがプロ入りした1959年はドラフト制度の導入前で、各球団が自由に交渉できた時代でした。

実際、巨人・阪神・広島からも誘われていたことが語られています。

それでも阪急を選んだ理由として、足立さんは東京嫌いで巨人は眼中になかったこと、やりがいが一番ありそうだったこと、そして米田さんと梶本さんへの憧れがあったことを挙げていますよ。

公職を退いたあとの立ち位置

では、公職を離れた足立さんは球界とどう関わっているのでしょうか。

結論から言うと、組織に属するかたちでの関わりは確認できず、個人として取材に応じる立場に落ち着いています。

解説者としてテレビやラジオに常時出演しているわけでもありませんし、評論家として連載を持っているわけでもありません。

この点は、同世代でメディア露出の多かった野球人と比べると、かなり対照的です。

一方で、節目のタイミングではきちんと言葉を残しています。

2018年12月にはサンケイスポーツの連載に登場し、日本球界の最後の男として紹介されました。

2019年9月には週刊ベースボールONLINEで山田久志さんとの2人そろっての特集が組まれています。

2023年11月6日号の週刊ベースボールでも、当時を振り返る企画に登場していました。

つまり、表舞台に立ち続けるのではなく、求められたときに出てくるスタイルを選んでいるということですね。

この距離感の取り方は、後ほど触れるブレーブスOB会への向き合い方とも一本の線でつながっています。

足立さんの現在を理解するうえで、ここはかなり大事なポイントだと思いますよ。

引退後に歩んだコーチとスカウトの道

 

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ここでは、現役引退から現在に至るまでの約40年を時系列で追っていきます。

足立さんの引退後は、ひとつの球団を軸にした非常に長いキャリアになっています。

結論を先に言うと、二軍投手コーチを5年、そのあと阪急とオリックスのスカウトを長く務めました。

派手な肩書きではありませんが、球団の土台をつくる仕事をずっと担ってきたわけですね。

あなたが知りたい引退後の全体像を、年表のかたちでつかめるように整理します。

二軍投手コーチからスカウトへ

以下の表で、足立さんの指導者・スカウトとしての歩みを時系列に整理してみます。

時期 立場 内容
1979年 一軍投手コーチ兼任 選手登録を残しながら指導に回る
1980年 選手兼コーチ 登板機会なくこのオフに現役引退
1981年 – 1985年 阪急二軍投手コーチ 背番号71で若手投手の育成を担当
1986年 – 阪急・オリックスのスカウト 球団名が変わっても担当を継続
2009年2月 – 2017年 関西学院大学硬式野球部 臨時コーチ アマチュア球界で約9年間指導
現在 球界の公職なし 取材に応じるかたちで登場

表を見ると、1980年からおよそ37年にわたって野球の現場に関わり続けたことが分かります。

選手として21年、指導者とスカウトとして約37年ですから、人生の大半を野球に捧げてきた計算になりますね。

1986年に阪急がオリックスへ譲渡されたあともスカウトを続けているのは、球団からの信頼の表れだろうと思います。

スカウト時代に見ていたもの

足立さんがスカウトとして長く重宝された理由は、現役時代の経歴から推し量ることができます。

足立さんは直球とカーブだけでプロ入りし、肩を壊してからシンカーを覚えて復活した投手です。

つまり、持っている球種が少ない若手がどう生き残るかを、自分の体で証明してきた人なんですよ。

加えて、足立さんはフィールディングに長けていて、ダイヤモンドグラブ賞を通算4度受賞しています。

投げる技術だけでなく、守る動きまで含めて投手を評価できる目を持っていたことになります。

通算暴投がわずか4個という制御力も、スカウトの基準を語るうえで欠かせない要素でしょう。

速い球だけを追いかけない視点は、素材よりも完成度を重視する評価軸につながります。

実際に足立さんは、1972年を含めて1974年から1976年まで3年連続でダイヤモンドグラブ賞を獲っていました。

この時期の足立さんは球威が落ちた状態で勝ち星を重ねているため、技術で勝つという発想が染み付いているはずです。

スカウト業は結果が何年も先にしか出ない仕事ですが、こういう地味な積み重ねを評価できる人は貴重ですよね。

現役引退の年が2つ語られる理由

ここで、少し細かいけれど大事な話をしておきます。

足立さんの引退年については、1979年と1980年という2つの表記が混在しているんです。

デイリースポーツの記事では79年現役引退と書かれていますし、週刊ベースボールの選手データでは阪急59年~80年と記載されています。

どちらが正しいのかというと、実はどちらも間違いではありません。

足立さんは1979年から一軍投手コーチを兼任しており、1980年も選手登録を残していました。

ただし1980年は登板機会がなく、実際にマウンドに上がった最後の試合は1979年10月9日です。

そのため、最後に投げた年を基準にすると1979年、選手登録が消えた年を基準にすると1980年になるわけですね。

この手のズレは昭和の選手兼コーチにはよくある話で、足立さんに限った特殊な事情ではありません。

年表を読むときには、どちらの基準で書かれているのかを意識すると混乱しなくなりますよ。

関西学院大で臨時コーチを務めた日々

足立さんの引退後のキャリアで、意外と知られていないのが大学野球との関わりです。

スカウトとしてプロの現場を見てきた足立さんは、60代後半になってアマチュアの指導に回っています。

2009年2月に関西学院大学硬式野球部の臨時コーチへ就任し、2017年まで務めました。

ここでは、この9年間がどんな意味を持つのかを掘り下げていきますね。

現在の足立さんを語るとき、この時期が実質的な現場からの卒業にあたる部分になります。

2009年2月に臨時コーチへ就任

関西学院大学は兵庫県西宮市に本部を置く私立大学です。

足立さんがかつて暮らしていた西宮市と同じ土地にあるのは、偶然ではないかもしれませんね。

硬式野球部は関西学生野球連盟に所属し、阪急や阪神にもOBを送り出してきた伝統のあるチームです。

そこへ、通算187勝のアンダースロー投手が臨時コーチとして入ったわけです。

臨時コーチという肩書きは、常勤の監督やコーチとは違い、必要に応じて技術指導に入る立場を指します。

足立さんの場合は投手陣への指導が中心だったと考えられます。

就任当時の足立さんは60代後半で、プロのスカウト業と並行していた時期にあたります。

プロの評価眼を持った人が学生の現場に立つのは、選手側にとってかなり貴重な環境だったでしょう。

とくにアンダースローの投手にとっては、日本で指導を受けられる相手が限られます。

山田久志さんも語っていたように、下手投げは自分で投げ方をつくり上げる投法だからです。

だからこそ、実際にその道を歩き切った人の助言には重みがありますよね。

2017年までの9年間が意味するもの

足立さんは2017年まで臨時コーチを務めています。

就任から数えると、9年におよぶ長期の関わりになりました。

臨時という肩書きのまま9年続いたということは、現場から必要とされ続けたという解釈が自然です。

そして2017年の退任時点で、足立さんは70代後半に入っていました。

この退任をもって、足立さんが現場で選手を直接指導する立場からは完全に離れたと見られます。

現在に至るまで、新たな指導者就任やコーチ復帰の報道は確認できていません。

つまり、足立さんの野球人としての現場キャリアは、2017年が区切りになっているわけですね。

1959年のプロ入りから数えると、実に58年です。

これだけ長く野球の現場にいた人は、同世代を見渡してもそう多くありません。

大学野球を選んだ背景にあるもの

なぜプロのOBとして解説者の道を選ばず、大学野球だったのか。

その答えは、足立さん自身の歩みの中に見つけられます。

足立さんは高校卒業後、プロへ直行せず社会人野球の大阪大丸に進んだ選手です。

野球チームを持つ製薬会社からも誘われていましたが、就職先で仕事ができることを決め手に大阪大丸を選びました。

高校が商業科で、そろばんと簿記の知識があったことが判断の背景にあったといいます。

この時点で、足立さんは野球と仕事を切り離して考えない人だったことが分かります。

そして1958年の第29回都市対抗野球大会で、ルーキーながら全鐘紡の補強選手として出場します。

2回戦では東洋紡岩国を降して勝利投手となり、準々決勝ではニッポンビールの北川芳男さんらと投げ合って完投しました。

結果は0対1の惜敗でしたが、この大会での好投がプロのスカウトの目に留まることになります。

つまり足立さんは、アマチュア野球の現場から見つけてもらった選手なんですよ。

自分が拾い上げられた場所に指導者として戻ったと考えると、関西学院大での9年はすごく自然な選択に見えてきますよね。

長嶋茂雄を偲んだ最新のコメント

2025年6月3日、足立さんの名前が久しぶりにスポーツ紙の見出しになりました。

巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄さんが亡くなり、その追悼コメントを求められたからです。

これが現在のところ、足立さんが公の場に残した最も新しい発言になります。

ここでは、その言葉を丁寧に追いながら、現在の足立さんの姿を読み取っていきますね。

短いコメントの中に、V9巨人と戦い抜いた投手の目線がぎゅっと詰まっていますよ。

2025年6月に語った別れの言葉

足立さんは日刊スポーツの取材に対し、長嶋さんとの思い出を順を追って語っています。

訃報が届いたのは3日の早朝だったといいます。

足立さんはその知らせを受けて「こんな日が来てしまったのか…と。寂しさしかないですね」と話しました。

同じ時代を生きたスーパースターへの思いは、なかなか尽きなかったと記事は伝えています。

足立さんにとって長嶋さんは、日本シリーズで何度も対峙した相手でした。

巨人のV9時代、阪急の対巨人成績は8勝20敗という厳しい数字です。

その8勝のうち5勝を挙げたのが足立さんですから、ON砲と最も長く向き合った投手のひとりと言っていいでしょう。

敵として戦った相手の死を、これだけ静かな言葉で受け止められるのは、同じ時代を全力で走り切った者同士だからかもしれません。

ちなみにこの取材の時点で、足立さんは80代半ばです。

それでいて半世紀以上前の会話を細部まで再現しているところに、驚かされますよね。

西宮球場での初対面エピソード

足立さんが最初に挙げたのは、1967年の日本シリーズでの出会いでした。

試合前練習で西宮球場の外野で球拾いをしていたところ、巨人の選手たちがグラウンドに入ってきたそうです。

足立さんが「あ…長嶋さんや…」と思っていたら、長嶋さんのほうから声がかかりました。

その第一声が「やあ、足立君、久しぶり」だったといいます。

足立さんはこれについて「久しぶりも何も、それが初対面やったんですよ」と振り返りました。

初対面で久しぶりと言われる、という長嶋さんの天真爛漫さに、まず驚いたわけですね。

この話、球史に残るエピソードとしてよく語られる類のものですが、当事者本人の口から出てくると重みが違います。

さらに足立さんは、試合前練習を見て驚きが驚嘆に変わったとも話しています。

「とにかくかっこいい。守備練習も多少、オーバーアクションなんだけど、どういうプレーをすればファンが喜ぶかを心得ておられた。スターだなと思いました」という言葉です。

敵チームのエースが、相手の看板選手をここまで素直に称えているのが印象的ですよね。

大谷翔平を引き合いに出した表現

マウンドから打者の長嶋さんを見たときの感覚について、足立さんはこう語っています。

「打たれたくはないのに、この人にぶつけるわけにはいかない、と思わせる雰囲気があった」という表現です。

もちろん打たせるわけにはいかないのでインコースにも投げたそうですが、絶対に傷つけてはいけない人だと感じたといいます。

そして足立さんは、その存在感をこう言い換えました。

「今でいうなら、大谷選手がそういう存在なのかな。球界の、まさに宝物と思わせる方でした」という言葉です。

80代半ばの足立さんが、現役の大谷翔平さんを引き合いに出して説明しているのがポイントです。

これはつまり、足立さんが現在の野球をきちんと見ているという証拠でもありますよね。

加えて足立さんは、長嶋さんの打撃センスについても具体的に語っています。

「アウトコースに投げたら、右翼ポール際のぎりぎりのところにホームラン性の打球を打たれて。インコースで勝負しにいったら、レフトスタンドに見事に打たれた」という内容です。

そのうえで「配球を読むとか、そういうんじゃない。来た球を打つ。まさにそういう感じでした」と続けました。

グラウンドを離れたゴルフ大会での話も出ていて、ティーアップを済ませても全然打とうとしない慎重さに驚いたと笑っています。

ここまで細かく記憶が残っているあたり、足立さんの頭の中には今も昭和の球場が鮮明に残っているのだろうなと感じますよ。

阪神大震災で消えたトロフィーの行方

足立さんの現在を調べていくと、ひとつ切ない事実に突き当たります。

通算187勝、MVP、ダイヤモンドグラブ賞4回という輝かしい実績の証が、ほとんど残っていないんです。

現役時代のトロフィーやユニフォームの大半は、阪神・淡路大震災をきっかけに処分されています。

ここでは、その経緯と足立さんの考え方を整理していきますね。

モノが残っていないという事実の裏側に、この人の性格がはっきり出ている部分です。

西宮市の自宅が被災して転居

1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災は、兵庫県南部に甚大な被害をもたらしました。

足立さんが暮らしていた西宮市も、被害が大きかった地域のひとつです。

この震災で足立さんの自宅も被災し、転居を余儀なくされました。

当時の足立さんはすでにオリックスのスカウトとして働いていた時期にあたります。

仕事を続けながら住まいを移すという、かなり大変な状況だったはずです。

そしてこの転居のタイミングで、現役時代の記念品の整理をすることになります。

西宮という土地は、足立さんにとって単なる住所ではありません。

阪急ブレーブスの本拠地だった西宮球場があった場所であり、1967年に長嶋さんと初めて言葉を交わした球場もここです。

21年の現役生活をほぼこの街で過ごしてきたわけですね。

その土地を離れるタイミングで記念品を手放したというのは、本人にとっても大きな節目だったのだろうと想像します。

トロフィーとユニフォームを処分した理由

では、なぜ処分という選択だったのでしょうか。

足立さんは転居の際、現役時代のトロフィーやユニフォームの大半を手放しています。

震災で住環境が変わったという物理的な事情は、もちろん大きかったはずです。

ただ、それだけでは説明しきれない部分があります。

というのも、足立さんは現役時代の映像も見ないという人なんです。

過去の栄光を手元に置いておくことに、あまり価値を感じないタイプと考えられますよね。

1967年の最優秀防御率とMVP、ベストナイン、4度のダイヤモンドグラブ賞、日本シリーズ敢闘賞3回。

これらは普通であれば一生の自慢になる実績です。

日本シリーズ敢闘賞の3回は史上最多の記録でもあります。

それでも足立さんは、モノとして残すことにこだわらなかったわけですね。

この潔さは、後ほど触れるOB会への向き合い方とも完全に地続きです。

現役時代の映像も見ないという姿勢

足立さんが現役時代の映像を見ないというのは、関係者の間でも知られている話です。

これは謙遜というより、過去を振り返る行為そのものを好まないという感覚に近いのでしょう。

実際、足立さんの発言を並べてみると、妙に現在志向なんですよ。

1972年ごろの投球について足立さんは「この頃はもう三振取るのに3球投げるのもしんどくて、1球でいかに打ち取るかを考えていた」と語っています。

そして「それには相手を打ち気にさせて芯を外す。それがシンカーのシンカ(真価)ですしな」と駄洒落まで添えました。

栄光を語るのではなく、工夫と手応えを語るんですよね。

1978年の日本シリーズで大杉勝男さんに疑惑の本塁打を打たれた場面についても同じです。

この打球をめぐって日本シリーズ史に残る1時間19分の中断が起きていますが、足立さんは「ゴロを打たすつもりが、甘く入ったわ」と述べ、悔いはないとしています。

球史に残る大事件の当事者が、自分の1球の失敗としてだけ処理しているわけです。

この感覚を持っている人なら、トロフィーを処分するのもまあ納得かなと思えますよね。

OB会に出ない理由と語られる人物像

ここ、気になる人も多いはずです。

阪急ブレーブスのOBが集まるイベントに、足立さんの姿はほとんどありません。

ブレーブスOBによるトークイベントへの出演は、そういう場は苦手という理由で固辞しています。

では足立さんは球界と縁を切ってしまったのか、というとそうではないんですよ。

ここでは、足立さんの人物像と球界との距離感を、発言から読み解いていきますね。

そういう場は苦手という一言

阪急ブレーブスは1988年にオリックスへ譲渡され、球団名としては消滅しました。

そのためブレーブスのOB会やトークイベントは、ファンにとって貴重な場になっています。

黄金時代を支えた主戦投手である足立さんは、当然ながら最も呼ばれたい人物のひとりでしょう。

それでも足立さんは、そういう場は苦手という理由で出演を断ってきました。

注目すべきなのは、断り方に体調や多忙を理由として挙げていない点です。

単純に、人前で思い出話をするのが性に合わないということですよね。

この姿勢は、現役時代の足立さんの投球スタイルと重なる部分があります。

足立さんは球速で押す投手ではなく、打者を打ち気にさせて芯を外すタイプでした。

見せ場をつくるのではなく、結果だけを静かに持ち帰るピッチングです。

人としての在り方も、たぶんそのまま同じなんだろうなと思います。

取材には応じるという線引き

一方で、足立さんは取材そのものを拒んでいるわけではありません。

ここが大事なところで、足立さんは明確に線を引いているんですよ。

2018年12月にはサンケイスポーツの連載企画に登場しています。

2019年9月には週刊ベースボールONLINEで山田久志さんとの特集に応じました。

2022年1月には水島新司さんへの追悼コメント、2025年6月には長嶋茂雄さんへの追悼コメントを出しています。

つまり、記録として残る取材には応じ、賑やかなイベントには出ないという姿勢です。

個別の取材であれば、きちんと自分の言葉で答える人なんですね。

この線引きを知らないと、足立さんは隠遁しているという誤解が生まれやすくなります。

実際には、必要とされる場面ではしっかり前に出てきているわけです。

現在の足立さんの状況を考えるうえで、ここは押さえておきたいポイントですよ。

大阪大空襲を生き抜いた性根

足立さんの動じない性格は、プロ入り前の経験に根っこがあります。

足立さんは足立忠太郎さんの長男として、大阪市此花区に生まれました。

父親の忠太郎さんは大阪でメリヤス工場を営んでいましたが、大阪大空襲で自宅も工場も焼失してしまいます。

光宏さん自身も、空襲から何度も逃げる経験をしています。

この体験について足立さんは「人間として性根も腹も据わったね。プロでもピンチでびびったことがないもん」と回想しています。

焼け出された一家は兵庫県尼崎市の親類宅に移り、足立さんは田畑を走り回るガキ大将として少年時代を過ごしました。

貧しい生活の中、小学5年生のときに父親からグラブを買い与えられたことが、野球人生の出発点になります。

このとき道具を大切に使う習慣が身についたといいます。

その後、一家は大阪市内に戻りました。

ピンチでびびらないという言葉は、のちに日本シリーズ男と呼ばれる働きに直結しています。

そして震災でトロフィーを処分する決断も、この性根の延長線上にあるように見えますよね。

足立光宏の実績と現在も語られる伝説

  • 現役通算187勝と年度別成績の推移
  • 日本シリーズ男と呼ばれた9勝の軌跡
  • もっと騒げ|1976年第7戦の完投勝利
  • ドカベン里中のモデル説を検証する
  • 山田久志にシンカーを教えた経緯
  • 現在も残る最少暴投と連勝の記録

現役通算187勝と年度別成績の推移

 

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ここからは、足立さんがなぜ現在まで語られ続けるのかを数字で確認していきます。

足立さんの通算成績は676試合に登板して187勝153敗3セーブ、防御率2.91です。

在籍21年すべてを阪急ブレーブス一筋で過ごした、生粋の生え抜き投手ですね。

ただ、この数字は一直線に積み上がったものではありません。

ここでは成績の推移を追いながら、足立さんの投手人生の山と谷をあなたに見える形で整理します。

21年間の数字が示すもの

まず、通算の投球内容を細かく見てみましょう。

足立さんは通算3103回を投げ、1482奪三振を記録しています。

先発372試合に対して完投141、完封36という数字が残っています。

先発した試合の約38パーセントで最後まで投げ切ったことになりますね。

与四球は567個で、投球回に対する割合はかなり低い水準です。

通算WHIPは1.10で、1イニングあたりに許した走者が少なかったことが分かります。

一方で与死球は130個と、意外に多い数字が並んでいます。

これについて足立さんは、球が遅いので踏み込まれないように時々警告の意味を込めて内角を厳しく攻めた結果だと説明しています。

コントロールが良かったのに死球が増えたのは、作戦だったということですね。

この考え方ひとつ取っても、ただ投げていた投手ではないことが伝わってきます。

年度別成績の推移

下記の表は、足立さんの主な年度の成績をまとめたものです。

年度 登板 勝敗 投球回 防御率 その年の出来事
1959年 36 4勝7敗 111.2 3.79 開幕戦でリリーフ初勝利
1962年 39 8勝4敗 123.2 1.96 1試合17奪三振の当時の日本記録
1963年 47 6勝18敗 200.2 3.45 西本幸雄監督に多用され負けが先行
1964年 46 13勝15敗 236.0 2.78 初の規定投球回到達
1965年 31 15勝9敗 171.0 2.74 完投10で主戦格に定着
1966年 52 17勝14敗 270.1 2.63 自己最多の270回超を投げる
1967年 43 20勝10敗 268.0 1.75 最優秀防御率・MVP・ベストナイン
1971年 43 19勝8敗 252.2 2.49 完投18でリーグ2位の防御率
1972年 34 16勝6敗 195.1 2.63 初のダイヤモンドグラブ賞
1976年 31 17勝8敗 212.2 2.54 阪急の完全優勝に貢献
1978年 15 4勝6敗 85.2 4.20 左膝の故障で公式戦は低迷
通算21年 676 187勝153敗 3103.0 2.91 完投141・完封36・奪三振1482

表を眺めると、谷が3回あることが分かります。

1961年に1勝、1968年に0勝、1973年に4勝という3つの落ち込みです。

このうち1968年と1973年は、肩の故障と技術的な壁という明確な原因があった時期にあたります。

1967年の20勝とMVP

足立さんのキャリアのピークは、やはり1967年でしょう。

この年、足立さんは20勝10敗、防御率1.75という成績を残しました。

完投17、完封5という中身の濃さも光ります。

そして最優秀防御率のタイトルを獲得し、阪急の初優勝に大きく貢献しました。

さらにシーズンMVPにも選ばれています。

これは投では米田哲也さんと梶本隆夫さん、打ではダリル・スペンサーさんと長池徳二さんという強力な候補を抑えての受賞です。

ここに至るまでの道のりは、決して平坦ではありませんでした。

1963年に西本幸雄さんが監督に就任すると、足立さんは47試合に投げて200回超を投げながら6勝18敗という結果に終わっています。

負けが多くても使い続けてくれた西本さんへの信頼に応えるため、足立さんは練習に力を入れたといいます。

そこから1964年に13勝、1965年に15勝、1966年に17勝と階段を上がり、4年目の1967年に20勝へ到達しました。

遠回りに見えて、実は一段ずつ確実に積み上げていたんですよね。

日本シリーズ男と呼ばれた9勝の軌跡

足立さんが現在まで語られ続ける最大の理由は、間違いなくここにあります。

短期決戦での勝負強さが、他の投手と比べて異常なレベルだったんですよ。

日本シリーズ通算26試合に登板して9勝5敗、この9勝は歴代3位タイの記録です。

ここでは、その中身を1年ずつ確認していきます。

数字の並びを見るだけで、なぜ日本シリーズ男と呼ばれたのかが腑に落ちると思いますよ。

通算9勝は歴代3位タイ

まず、足立さんの9勝がどれだけ難しいかを確認しておきましょう。

足立さんが日本シリーズで戦った相手は、ほぼ全てがV9時代の巨人です。

王貞治さんと長嶋茂雄さんのON砲がいる、史上最強クラスの打線ですね。

この時期の阪急の対巨人成績は8勝20敗という数字でした。

そして阪急が挙げた8勝のうち、5勝が足立さんによるものです。

チームの勝ち星の6割以上を1人で稼いだことになります。

足立さん自身の対巨人成績は8勝4敗と、通算9勝の大半がここに集まっています。

ON砲に対する考え方についても、足立さんは独特の論理を持っていました。

「ONは2人いると怖いが、1人だけなら全部歩かせればいいんだから怖くない」という発想です。

そして「勝負しなきゃならない場面でもホームランさえ打たれなければいいという気持ちで五分の力で投げればいい」と続けました。

他の打者と勝負したほうが楽に決まっている、という割り切りが徹底していたわけですね。

日本シリーズ登板の年表

以下の表で、足立さんの日本シリーズでの働きを時系列に整理してみます。

年度 対戦相手 主な登板内容 受賞
1967年 巨人 4試合登板|第4戦で金田正一に投げ勝ち完投勝利 敢闘賞
1968年 巨人 2試合先発|第2戦で5失点し敗戦投手 –
1969年 巨人 5試合登板|第5戦で完投勝利 優秀選手賞
1971年 巨人 2試合先発|いずれも敗戦投手 –
1972年 巨人 第3戦で堀内恒夫に投げ勝ち完投勝利 敢闘賞
1975年 広島 3試合先発|勝敗はつかず –
1976年 巨人 第7戦でクライド・ライトに投げ勝ち完投勝利 最優秀投手賞
1977年 巨人 第2戦で完封勝ち 最優秀投手賞
1978年 ヤクルト 第3戦で完封|第7戦は2失点で敗戦投手 敢闘賞

9年にわたって日本シリーズのマウンドに立ち続けているのが、まずすごいところです。

そして敢闘賞3回は史上最多の記録で、最優秀投手賞も2回獲っています。

公式戦で4勝しかできなかった1978年にも敢闘賞を獲っているのが、この人らしいですよね。

阪急で唯一の完封投手

足立さんの日本シリーズ記録で、最も象徴的なものを紹介します。

1977年の日本シリーズ第2戦で、足立さんは巨人を完封しました。

実はこの年、足立さんはシーズン終盤に左膝関節炎を発症していた時期です。

左膝の骨が摩耗して水がたまるようになり、登板時には膝をテーピングとサポーターで固定していました。

そして投げ終わるたびに膝から水を抜くという対応を余儀なくされていたんですよ。

それでも日本シリーズでは完封勝ちを収めています。

翌1978年は公式戦をあきらめ、日本シリーズに賭けようと決めました。

そしてヤクルトとの第3戦で、鈴木康二朗さんと投げ合って再び完封を果たします。

この2試合連続完封は日本シリーズのタイ記録で、2完封を挟んで25イニング連続無失点も記録しました。

そして注目すべき事実がもうひとつあります。

阪急の投手で日本シリーズで完封を記録しているのは、足立さんただ一人です。

阪急というチームは1967年から1978年まで繰り返し日本シリーズに出ていますが、その中で完封したのは足立さんだけなんですね。

膝から水を抜きながらこれをやったと考えると、ちょっと言葉を失いますよ。

もっと騒げ|1976年第7戦の完投勝利

1976年11月2日、後楽園球場。

この日のマウンドにいた足立さんの姿が、現在も語り継がれる名場面になっています。

約5万人の巨人ファンの大声援の中で完投勝利を挙げ、阪急の2年連続日本一を決めた試合です。

ここでは、その試合で何が起きていたのかを追っていきますね。

足立さんの人間性がいちばんはっきり出ている一戦だと思います。

3連勝からの3連敗という状況

まず、第7戦を迎えるまでの流れを確認しましょう。

1976年の日本シリーズで、阪急は巨人に対して3連勝で王手をかけました。

ところが、そこから3連敗を喫してしまいます。

しかも第6戦は0対7からの逆転サヨナラ負けという、精神的に最もきつい負け方でした。

3連勝のあと3連敗で逆王手という状況は、チームの空気としては最悪に近いですよね。

そして決戦の第7戦の舞台は、巨人の本拠地である後楽園球場です。

観客の大半が巨人ファンで、球場全体が異様な熱気に包まれていました。

その場面で先発を任されたのが、プロ18年目を迎えていた足立さんです。

リーグ優勝を決めたエースの山田久志さんではなく、ベテランの足立さんが送り出されたわけですね。

この起用に、阪急の首脳陣が足立さんの短期決戦での勝負強さをどれだけ信頼していたかが表れています。

淡口憲治を併殺に打ち取った場面

試合は6回に1対2と逆転され、なお1死満塁という絶体絶命の場面を迎えます。

巨人のチャンスになれば、場内には5万人のジャイアンツコールが起こる状況でした。

普通の投手なら足がすくむ場面です。

ところが足立さんは、ここで「もっと騒げ」とつぶやきました。

そして打者の淡口憲治さんをシンカーで投手ゴロに打ち取り、本塁から一塁への併殺でピンチを脱します。

この「もっと騒げ」について、足立さんは2つの理由を説明しています。

ひとつは、自分への声援と考えれば奮い立つから。

もうひとつは、声援によって打者の淡口さんが冷静さを失うからです。

敵地の大声援を、自分の味方に読み替えてしまったわけですね。

続く7回には森本潔さんが逆転本塁打を放ち、阪急が試合をひっくり返します。

終盤に近づくと、観客からグラウンドにものが投げ込まれる事態になりました。

そのとき足立さんは、再び「もっと騒げ」を口にしたといいます。

一人で5万人と戦った男

足立さんは2失点で完投勝利を挙げ、胴上げ投手になりました。

阪急は2年連続の日本一を達成し、ついに悲願の打倒巨人を果たします。

この日本一が決まったのが約5万人の巨人ファンに囲まれた後楽園だったことから、当時のマスコミは足立さんを一人で5万人と戦った男と評しました。

足立さん自身は、このシリーズをこう振り返っています。

「緊張感がなかったわけじゃないけど、我を忘れるということはなかった」という言葉です。

そして「向こうも興奮しているので、こっちは冷静なほうが扱いやすかった」と続けました。

この年の足立さんは、ON砲の片方がすでに監督になっていたことも計算に入れていました。

「76年はもうONも1人だけやったから楽よ。全部フォアボールで出せばいい」という発言が残っています。

さらに「それがダメなら5の力で投げればいい。10の力、12の力で投げるから悪いんや」とも語っています。

実際、足立さんは第2戦と第4戦で王さんに本塁打を許していました。

それでも大一番の第7戦では、王さんに2四球を出しながら要所を締めて完投勝利を収めています。

言っていることをきちんと実行しているのが、本当に見事ですよね。

ドカベン里中のモデル説を検証する

足立さんの名前を検索すると、必ず出てくるのが里中智というワードです。

人気野球漫画のドカベンに登場する、明訓高校のエースですね。

この里中智の投球フォームのモデルが足立さんだったと報じられています。

ただ、情報源によっては別の投手の名前が挙がることもあるんですよ。

ここでは、どこまでが確認できる事実なのかをあなたと一緒に整理していきます。

本人が語ったモデル説

最も確度の高い情報は、足立さん本人のコメントです。

2022年1月、漫画家の水島新司さんが亡くなりました。

この訃報を受けて、同月17日にデイリースポーツが足立さんに取材をしています。

そこで足立さんは「モデルにしていただいたのは、本当に光栄だった」と語りました。

つまり、足立さん自身がモデルであることを前提に話しているわけですね。

記事では、足立さんを下手投げのレジェンド右腕として紹介しています。

水島さんとは深く話をしたことはなかったものの、面識はあったそうです。

足立さんは「水島さんは、南海ホークスのファンだったみたいで、ナンバ球場であいさつしていただいたことは覚えています」と振り返っています。

ナンバ球場というのは、南海の本拠地だった大阪スタヂアムのことです。

時期の符合も興味深いところです。

足立さんが19勝を挙げた1971年の翌年、1972年からドカベンの連載が始まっています。

シンカーを武器に復活した下手投げ投手が、まさに最も注目されていた時期だったわけですね。

山田久志説との食い違い

一方で、別の名前が挙がっている資料もあります。

下記の表は、里中智のモデルに関する情報を整理したものです。

情報 内容 確認できる根拠
足立光宏モデル説 下手投げのフォームが里中智の原型 デイリースポーツの取材で本人が肯定
山田久志モデル説 美しいフォームが里中智のモデル 週刊ベースボールのコラムに記載
共通する背景 2人とも阪急の下手投げ2枚看板 同時期に同じチームで先発を担当
フォームの違い 足立は手首を寝かし、山田は手首を立てる 山田久志本人の証言

表を見ると、混同が起きる理由がはっきりします。

足立さんと山田さんは、同じ時期に同じ阪急で先発を務めた下手投げ2枚看板でした。

どちらもアンダースローの名投手ですから、入れ替わって語られやすいんですよね。

山田さんはアンダースローとして史上最多の通算284勝を挙げた投手で、米球界の関係者からはミスター・サブマリンと呼ばれていたといいます。

両者のフォームの違いについて、山田さんは手首を立てて投げるかどうかだと説明しています。

手首を寝かす足立さんはスピードが出づらい代わりに、シンカーが落ちやすかったそうです。

どちらがモデルかという点については、足立さん本人が直接肯定したコメントが残っている以上、足立さん説のほうが根拠は強いと言えます。

水島新司への追悼コメント

足立さんは水島さんの作品について、具体的な思い出も語っています。

現役時代、喫茶店などで水島さんの漫画を読んでいたそうです。

野球狂の詩やあぶさんなど、水島さんの作品は野球を題材にしたものが主でした。

足立さんはそれらについて「本当に絵がきれいで。劇画的な漫画で、野球界を盛り上げてくれた」と評しています。

そして「ご冥福を心よりお祈り致します」と言葉を結びました。

デイリースポーツはこの関係性を、野球界を盛り上げてくれた戦友との別れと表現しています。

足立さんと水島さんは同世代で、どちらも野球を軸に生きた人でした。

片方は実際にマウンドで、もう片方は紙の上で、野球の魅力を広げてきたわけですね。

ドカベンは子どもたちにアンダースローという投げ方の存在を教えた作品でもあります。

足立さんのフォームが漫画を通じて何十年も残り続けているというのは、記録とは別のかたちの財産だと思いますよ。

この追悼コメントは、現在の足立さんが自分の歩みをどう受け止めているかが垣間見える貴重な記録です。

山田久志にシンカーを教えた経緯

足立さんを語るうえで外せないのが、山田久志さんとの関係です。

同じチームに同じタイプの投手が2人いるという、かなり特殊な環境でした。

そして足立さんは山田さんにシンカーの教えを請われたとき、最初は覚えんでええと断っています。

この断り方と、のちの教え方に足立さんの本質が出ているんですよ。

ここでは、2人のやり取りを順を追って見ていきますね。

覚えんでええと断った1975年

話は1970年に遡ります。

入団2年目の山田さんが急成長した年、足立さんは「そのうち20勝しよるぞ」と感じたそうです。

同時に、球速が出なくなった自分について「このままやと、メシが食えんぞ」と危機感を覚えました。

そこで肩への負担を抑えるため、打たせて取るピッチングへの転換を決意します。

これがシンカーを磨いて復活する契機になりました。

つまり、足立さんのシンカーは山田さんの台頭によって生まれた球種とも言えるんですね。

そして1975年のシーズン中、立場が逆転します。

ストレート中心のピッチングに限界を感じ始めた山田さんが、足立さんにシンカーの投げ方を尋ねてきたのです。

これに対して足立さんは「覚えんでええ」と断りました。

表向きの理由は、直球で勝負できる時期はそれを生かした投球をするものだという自身の経験です。

これは説教ではなく、足立さん自身が通ってきた道から出た助言でした。

後は自分で考えろというヒント

ただ、足立さんは後に本音も明かしています。

「自分より若い山田がシンカーを覚えたら大変な脅威になると感じた。チームに同じタイプの投手は2人いらないですからね」という言葉です。

この正直さが、なんとも人間らしくて好きになってしまう部分ですよね。

結局、足立さんは後にシンカーの投げ方を教えることになります。

ただし手取り足取りの指導ではありませんでした。

足立さんが伝えたのは「俺はこう握るが、投げ方は人それぞれ違う。後は自分で考えろ」というヒントだけです。

この教え方について、山田さんのほうがのちに感謝を語っています。

「最初から教われば、ああ、こういうものかで終わったかもしれない」という内容です。

そして「自分で苦心していた時期だったのですごく参考になった」と続けました。

山田さんはシンカーの習得に必死になっていた時期だったため、ヒントのほうが効果的だったということですね。

実際、山田さんは自分のフォームのままシンカーを投げるため、フォークのようにボールをはさむなど複数のパターンを生み出して勝負球にしています。

山田の後に投げるのを嫌った理由

2人の関係には、もうひとつ面白いエピソードがあります。

足立さんは、山田さんの投げた後に登板することを極端に嫌っていたそうです。

理由は非常に実務的です。

同じアンダースローで球の速い山田さんが投げると、打者の目が慣れてしまうんですよ。

そのあとに自分の緩い球を投げても通用しにくくなるという計算です。

アンダースローは数が少ないからこそ、打者の不慣れを突ける投法です。

その利点を同じチームの仲間に消されてしまうのは、確かに困りますよね。

そして1976年、山田さんは足立さんからシンカーを盗み学んで26勝を挙げます。

同じ年、足立さんも17勝を挙げて阪急の完全優勝に貢献しました。

2シーズン制の前後期ともに優勝するという完全優勝ですから、2枚看板がそろって機能した結果です。

警戒しながら教え、教えながら自分も勝つ。

このライバル関係が阪急黄金時代の下手投げ2枚看板を完成させたと言っていいでしょう。

現在も残る最少暴投と連勝の記録

最後に、足立さんが現在まで残している記録を確認します。

派手な通算勝利数やタイトルとは別に、地味だけれど異常な数字がいくつかあるんですよ。

とくに通算暴投4個という記録は、3000イニング以上を投げた投手の中で最少です。

ここでは、こうした記録の意味を数字で掘り下げていきますね。

足立さんがどんな投手だったのかが、いちばん端的に分かる部分だと思います。

通算暴投4という異常値

まず、この記録の異常さを確認しておきましょう。

足立さんの通算投球回は3103回です。

その中で記録した暴投は、わずか4個でした。

単純に計算すると、約776回に1個というペースになります。

3000イニング以上を投げた投手は史上28名しかいませんが、その中で足立さんの4個は最も少ない数字です。

これがどれだけ難しいかというと、足立さんはアンダースローなんですよ。

地面すれすれから投げ上げるフォームで、決め球は落ちるシンカーです。

低めに沈む球を主武器にしていながら、ワンバウンドで捕手の後ろに行く球がほぼなかったということになります。

加えて足立さんはフィールディングにも長けていて、ダイヤモンドグラブ賞を4度受賞しています。

投げて、止めて、守る。

投手としての総合力が異常に高かったことが、この数字から読み取れますよね。

17連勝と山本由伸の更新

もうひとつ、長く球団記録だった数字があります。

足立さんは1970年から17連勝を記録しました。

1970年に9勝2敗、1971年に19勝8敗と結果を残した時期にあたります。

この17連勝は長らく阪急・オリックスの球団記録でした。

記録が破られたのは2022年で、更新したのはオリックスの山本由伸さんです。

約50年にわたって球団の最長連勝記録を保持していたことになりますね。

日本プロ野球全体で見ても、足立さんの17連勝は歴代8位にあたる記録です。

ここで注目したいのは、この連勝が復活期に記録されたという点です。

足立さんは1968年のキャンプ中に肩を故障し、右手で顔を洗えないほどの重傷を負っていました。

1968年は0勝、1969年は2勝という低迷期です。

そこからシンカーを武器に立て直して17連勝まで持っていったわけですから、ちょっと信じがたい復活ですよ。

日本球界最後の没収試合

下記の表は、足立さんが保持する主な記録をまとめたものです。

記録 内容 現在の状況
通算暴投4個 3000イニング以上の投手28名中で最少 現在も最少
日本シリーズ敢闘賞3回 1967年・1972年・1978年に受賞 史上最多
日本シリーズ通算9勝 26試合登板で9勝5敗 歴代3位タイ
17連勝 1970年から記録した球団記録 2022年に山本由伸が更新
1試合17奪三振 1962年5月24日の対南海戦 当時のプロ野球記録
最後の没収試合の勝利投手 1971年7月13日の対ロッテ戦 現在も日本球界で最後

表のいちばん下に挙げた記録が、かなり珍しいものです。

1971年7月13日の対ロッテオリオンズ戦は、日本プロ野球で最後の没収試合になりました。

没収の責はロッテ側にあったため、足立さんは勝利投手になっています。

この試合以降、日本プロ野球で没収試合は一度も起きていません。

つまり足立さんは、日本球界で最後に没収試合の勝利投手になった人物ということですね。

2018年12月にサンケイスポーツの連載が足立さんを日本球界最後の男として紹介したのは、この記録を指したものです。

1962年5月24日の17奪三振も触れておきましょう。

この年、足立さんは春のキャンプから好調だったにもかかわらず、監督の戸倉勝城さんに干されて登板機会を得られませんでした。

5月初旬の沖縄遠征からも漏れてしまったそうです。

そして5月24日の対南海戦でようやく初先発すると、いきなり当時のプロ野球記録となる1試合17奪三振をマークしました。

この年の足立さんは8勝、防御率1.96、123回2/3で94奪三振という内容です。

干されていた投手が1試合で評価を覆したわけで、ここも足立さんらしいエピソードだなと思いますよ。

足立光宏の現在に関するまとめ

  • 足立光宏の現在は球界の公職を退いて静かに暮らしている
  • 生年月日は1940年3月10日で大阪市此花区の出身だ
  • 最新の公の発言は2025年6月の長嶋茂雄への追悼だ
  • 引退後は阪急二軍投手コーチを1981年から5年務めた
  • 1986年からは阪急とオリックスのスカウトを担当した
  • 関西学院大の臨時コーチを2009年から2017年まで務めた
  • 現役通算は676試合187勝153敗で防御率2.91だった
  • 1967年に20勝で最優秀防御率とMVPを獲得している
  • 日本シリーズ通算9勝5敗は歴代3位タイの大記録である
  • V9巨人から挙げた阪急の8勝中5勝が足立光宏の白星だ
  • 1976年第7戦ではもっと騒げと呟き完投勝利を収めた
  • ドカベン里中智の投球フォームのモデルと本人も認めている
  • 山田久志には後は自分で考えろと伝えてシンカーを教えた
  • 通算暴投4個は3000イニング超の投手の中で最少である
  • 阪神淡路大震災の被災でトロフィーの大半を処分している

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