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江尻亮さんの現在について、プロ野球の第一線を離れたあとどんな日々を送っているのか気になっている方は多いのではないでしょうか。
大洋ホエールズで15年間プレーし、ベストナインを2度受賞した強肩の外野手です。
茨城県高萩市の旅館に生まれ、早稲田大学では六大学記録の連続無失点を残した投手でもありました。
その江尻亮さんは2026年10月18日現在、公式サイトを開設して野球の家庭教師として少年指導を続けています。
一般社団法人アスリートキャリア支援協会の名誉顧問としての活動や、六花亭野球部のコーチも継続中です。
この記事では現在の指導内容から選手時代の記録、監督としての足跡まで順番に整理していきますね。
記事のポイント
①:公式サイトで野球の家庭教師として指導中
②:アスリートキャリア支援協会の名誉顧問
③:六花亭野球部のコーチを2006年から継続
④:江尻慎太郎との血縁を示す情報はない
江尻亮の現在|野球指導とキャリア支援活動
- 公式サイトで始めた野球の家庭教師
- 現在の年齢と基本プロフィール
- 少年指導で伝える体を使う順序
- アスリートキャリア支援協会の名誉顧問
- 六花亭野球部と900名の指導歴
- 江尻慎太郎との血縁関係の真相
公式サイトで始めた野球の家庭教師
#キイハンター 14話 大洋vs巨人戦。川崎球場。堀内恒夫さんも森昌彦(祇晶)さんもガッツリ『キイハンター』にご出演だ。打者は背番号「19」が見えたので江尻亮さん。#ドラマや映画に映ったプロ野球中継が気になる https://t.co/OACV6dn65q
— 一番星、 (@1banboshi_) October 22, 2025
まず、あなたが一番知りたい現在の活動から整理していきますね。
江尻亮さんは2026年10月18日現在、自身の公式サイトを窓口にして野球の個別指導を請け負う、いわば野球の家庭教師として活動しています。
ここでは公式サイトに掲載されている指導の形と料金、申し込みの流れまで、確認できる情報をもとにあなたが納得できる形で整理します。
公式サイトで案内される指導の形
結論から言うと、現在の軸になっているのは「元プロ野球選手監督|江尻亮(えじりあきら)公式サイト」で募集している野球指導です。
サイトのトップには「元プロ選手による野球指導」という一文が掲げられています。
案内されている指導の形は、ご指定の場所へ訪問してマンツーマンで教える家庭教師型個別指導と、チーム単位で行うチーム指導の2本柱ですね。
対象は小学生・中学生・社会人で、個人でも複数名でもチームでも受け付けると書かれています。
高校生と大学生については、チームが所属する連盟に申請することで指導が可能になるという条件付きの案内になっています。
学童から社会人まで幅を持たせているあたりに、長く育成の現場に立ってきた人らしさが出ているかなと思います。
サイトには野球の技術指導だけでなく、スポーツ選手のセカンドキャリア相談も受け付けると明記されています。
プロ野球で36年間を過ごした経験が、そのまま指導メニューの土台になっているわけですね。
公式サイトという形で窓口を一本化しているため、現役を離れたOBの中でも活動内容が外から見えやすい人物だといえます。
サイトには監督やコーチとしての受け入れも可能だと記されており、指導の規模を問わず相談できる体制になっていますね。
マンツーマン指導の料金体系
気になる料金についても、公式サイトにはっきりと数字が出ています。
下記の表は、公式サイトに掲載されているレッスン時間と料金をまとめたものです。
| 受講形態 | 時間 | 料金 |
|---|---|---|
| 一人の場合 | 45分 | 2,000円(初回体験) |
| 一人の場合 | 60分 | 4,500円〜 |
| 一人の場合 | 120分 | 8,000円〜 |
| 複数名の場合 | 45分 | 1,500円(初回体験) |
| 複数名の場合 | 60分 | 4,000円〜 |
| 複数名の場合 | 120分 | 7,000円〜 |
| チーム指導 | 要相談 | 時間とスケジュールを相談 |
初回体験が45分2,000円という設定は、元プロ野球選手の個人指導としてはかなり入りやすい金額ですよね。
複数名で申し込めば一人あたりの負担が下がる仕組みになっているのも、親御さん目線ではありがたいところだと思います。
チーム指導については時間とスケジュールを相談する形で、試合も含むという注記が添えられています。
交通費は実費を頂きますという但し書きもあるので、依頼する側は移動距離も頭に入れておく必要がありますね。
料金を公開している指導者は意外に少ないので、問い合わせ前に見通しが立つのは大きな安心材料だと思いますよ。
60分と120分で金額に幅を持たせているのは、人数や内容によって調整する前提があるからだと読み取れます。
予約方法と指導が受けられる場所
申し込みの流れも、公式サイトでかなり具体的に説明されています。
指導場所として挙げられているのは自宅・近くの公園・グラウンド・バッティングセンターなどで、受講者側の生活圏に合わせる形です。
持ち物はバットとグローブの持参をお願いしており、ボールは軟式Mと硬式の両方をこちら側で準備すると書かれています。
硬式か軟式か、レギュラーかベンチかを事前に共有してほしいという要望も添えられていますね。
この一文からは、同じ中学生でも立場によって必要な練習が違うという前提で指導を組んでいることが読み取れます。
受付については予約制で、平日は15時から、土日祝日は終日可能という時間設定になっています。
予約や問い合わせは電話またはメールで、名前・年齢・住所・使用球といった基本情報を簡単に伝える流れです。
ホームページには予約・問合せボタンが用意されており、そこから連絡する形が案内されています。
ご相談に応じて時間を調整するという柔軟な書き方になっているので、学校や仕事の都合に合わせやすいのかなと思います。
平日15時からという設定は、学校が終わってから練習に向かう小中学生の生活時間に合わせたものですよね。
チーム指導で試合も含むとされている点からは、実戦の中で動きを見ながら助言する指導スタイルがうかがえます。
横浜市栄区を拠点にした活動
活動拠点についても、公式サイトのコンタクト欄に手がかりがあります。
記載されているのは横浜市栄区鍛冶ケ谷で、現役・コーチ時代を通じて縁の深い横浜エリアが現在の生活圏になっているとわかります。
大洋ホエールズから横浜大洋ホエールズ、そして横浜ベイスターズへと名前が変わる時代をずっと現場で過ごした人物ですから、この土地に根を下ろしているのは自然な流れですよね。
2006年から2020年までチーフインストラクターを務めたジャパンアスレチックアカデミーも、横浜スタジアムの室内練習場を舞台にしていました。
横浜スタジアムは1978年に開場し、江尻亮さんの現役終盤から監督時代までの職場でもあった球場です。
そこで引退後に少年たちを教えていたという事実は、キャリアの連続性を感じさせる話だと思います。
個人指導も訪問型が基本なので、横浜周辺であれば依頼のハードルはかなり低いはずですよね。
横浜スタジアムの室内練習場という環境は、天候に左右されず年間を通して指導できる貴重な場所でもありました。
栄区は横浜市の南部に位置し、鎌倉市と隣接する緑の多いエリアとして知られています。
現在の活動について、少しイメージが湧きやすくなれば嬉しいです。
現在の年齢と基本プロフィール
歌人と言えば江尻さんでしょうか。
確か監督時代では売りとして歌を読むことはありませんでしたね。
今年のCSで活躍をした山口さんですが俳句も日々見事に進化しております。
来年は野球に俳句にとどんな進化を遂げるのでしょうか。
BBM96年より千葉ロッテ江尻亮監督。
#chibalotte https://t.co/sfZAWeuFSZ— 箭内哲 (@Yeskamejiro) November 14, 2021
公式発表やNPBの選手データによると、江尻亮さんの基本情報はかなり細かく公開されています。
ここでは生年月日や現在の年齢、体格や通算成績といった土台の数字を先に押さえておきますね。
この部分を頭に入れておくと、このあとの指導内容や経歴の話がぐっと理解しやすくなりますよ。
生年月日と現在の年齢を確認
江尻亮さんは1943年1月10日生まれで、2026年10月18日現在の年齢は83歳です。
読み方は「えじり あきら」で、NPBの個人年度別成績のページにも同じ表記で登録されています。
下記の表は、公開情報から確認できる基本プロフィールをまとめたものです。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 江尻亮(えじり あきら) |
| 生年月日 | 1943年1月10日 |
| 2026年10月18日現在の年齢 | 83歳 |
| 出身地 | 茨城県高萩市 |
| 身長・体重 | 177cm・80kg |
| 投球・打席 | 左投左打 |
| ポジション | 投手・外野手 |
| 学歴 | 茨城県立日立第一高等学校・早稲田大学 |
| プロ入り | 1965年 |
| 所属球団 | 大洋ホエールズ・横浜大洋ホエールズ |
| 在籍年 | 1965年から1979年 |
| 表彰 | ベストナイン2回 |
プロ入りから15年間を一つの球団で過ごし、その後もコーチや監督として同じチームに戻っています。
生まれは茨城県の北部にある高萩市で、海沿いに広がる自然豊かな町として知られていますね。
この土地で旅館を営む家に生まれ育ったという生い立ちも、公開情報として記録されています。
80代を迎えてなお野球の現場に立っているわけですから、驚かされる話だと思いますよ。
初出場は1965年4月11日の国鉄戦、最終出場は1979年10月10日の広島戦として記録されています。
プロの舞台に立っていた期間だけで15年、指導者としての年数を合わせると36年にもなります。
177センチの体と左投左打という特徴
体格は177cm・80kgで、1960年代の日本人選手としてはかなり恵まれたサイズでした。
左投げ左打ちで、プロ入り当初は投手、その後に外野手へ転向したという経歴を持っています。
特筆すべきは肩の強さで、遠投は120メートル近くに達したと伝えられています。
練習では三塁にバットを立て、ライトから投げてワンバウンドで当てる練習をしていたという話も残っています。
単に遠くへ投げるだけでなく、狙った場所へ正確に届けるコントロールまで備えていたわけですね。
打撃フォームについても、大学時代に学んだ運動機能学を応用したと紹介されています。
無駄な力が入らない安定感のあるスイングで、打撃ベストテンに何度もランクインしました。
外野守備も同じ運動機能学に立脚したもので、守備範囲が広くリーグ屈指の強肩として評価されています。
理屈で体の使い方を組み立てる選手だったという点は、のちの指導スタイルにも直結していますよ。
1971年には強肩を活かして自己最高の15補殺を記録し、走者に走らせない外野手として恐れられました。
最多補殺を3度も記録しているので、相手ベンチは右翼に飛んだ打球で簡単に進塁できなかったはずですよね。
左投げの外野手は右翼守備で肩の強さがそのまま武器になるため、適性としてもぴったりだったと思います。
通算1485試合の打撃成績
数字で見ると、江尻亮さんの15年間がどれだけ安定していたかがよくわかります。
以下の表で通算成績を整理してみます。
| 成績項目 | 通算数字 |
|---|---|
| 出場試合 | 1485試合 |
| 打数 | 4603打数 |
| 安打 | 1249安打 |
| 二塁打 | 186本 |
| 本塁打 | 116本 |
| 打点 | 436打点 |
| 盗塁 | 82盗塁 |
| 打率 | .271 |
| 出塁率 | .317 |
| 長打率 | .402 |
| 投手通算 | 10登板・防御率3.50 |
引退した年を含めて、在籍15年のすべてで打率.250以上を記録しているという安定感が光ります。
1968年から8年連続で100安打を放ち、二桁盗塁も4度記録しました。
通算三振率.098という数字も残っており、三振の少ない確実性の高い打者だったとわかります。
走攻守すべてで長くチームを支えた外野手だったという評価は、この数字が裏づけていますよね。
1974年6月9日の阪神戦では史上173人目となる通算1000試合出場を達成しました。
1975年4月11日のヤクルト戦では浅野啓司さんから通算100本塁打を記録しています。
さらに同年5月21日の中日戦では星野仙一さんから1000本安打を放ちました。
大学卒業後にプロ入りし、しかも投手から打者へ転向して1000本安打に到達した数少ない一人です。
節目の数字をどれも主力として積み上げているあたりに、息の長さが表れていますね。
背番号19と91という2つの数字
背番号の変遷も、この人のキャリアを物語る材料になります。
現役時代の1965年から1979年までは一貫して19を背負い続けました。
コーチ・二軍監督・ヘッドコーチ・監督を務めた1980年から1986年と1990年から1992年は91番です。
千葉ロッテマリーンズでヘッドコーチと監督を務めた1995年から1996年は90番を着けていました。
下記の表は背番号の変遷をまとめたものです。
| 背番号 | 年度 | 立場 |
|---|---|---|
| 19 | 1965年から1979年 | 選手 |
| 91 | 1980年から1986年・1990年から1992年 | コーチ・二軍監督・監督 |
| 90 | 1995年から1996年 | ヘッドコーチ・監督 |
同じ球団で選手から監督までを務めた人は多くないので、19と91という2つの番号には重みがありますね。
ちなみに2017年に公開された直筆サインの紹介ページでは「現在は横浜スタジアムのチーフインストラクターらしいです」と書かれていました。
当時から現場で子どもたちを教えていたことが、こうした記述からも確認できます。
選手時代の19番は、のちに同じ球団でさまざまな投手が背負うことになる番号でもあります。
90番台はコーチ番号として一般的ですが、同じ91番で二軍監督と一軍監督の両方を経験しています。
基本データを押さえたところで、次は指導の中身に踏み込んでいきますね。
少年指導で伝える体を使う順序
では、江尻亮さんは実際に何を教えているのでしょうか。
公式サイトには指導方針がかなり具体的に書かれており、読むだけでも面白い内容になっています。
ここでは指導の核になっている考え方を、本人の言葉を引きながらあなたが実践に活かせる形で整理します。
体を使う順序という指導の核心
結論から言うと、江尻亮さんの指導は「体を使う順序」を教えるという一点に絞られています。
公式サイトには「私の仕事は『体を使う順序』を指導するだけ。例えば筋肉より関節の使い方です。面白いですよ。」と書かれています。
筋力トレーニングではなく関節の動かし方から入るというのが、この人の指導の出発点なんですね。
下記の表は、公式サイトで示されている体の動かし方の順序をまとめたものです。
| 順序 | 部位 | 意識するポイント |
|---|---|---|
| 1 | 足首 | しっかり構えてから動き出す |
| 2 | 膝 | ゆっくり動かして連動を確認 |
| 3 | 腰 | 下半身の力を上へつなげる |
| 4 | 肩 | 力を入れずに回す |
| 5 | 肘 | 振り出しの方向を決める |
| 6 | 手首 | 最後に加速させる |
| 7 | 手のひらと甲 | ボールへの伝え方を整える |
| 8 | 指 | 離れる瞬間を感じる |
| 9 | 握り方 | 送球も打球も握りで決まる |
この順序でゆっくり動かすことで、送球も打球も捕球も生きてくると説明されています。
公式サイトではこの考えを「ボールは嘘をつかない」という一言で表現しています。
動きが正しければボールが応えてくれるという意味で、小中学生にも伝わりやすい言葉ですよね。
さらに「もっとシンプルに考えて出来ることをやればボールが喜ぶようになるのです。」とも述べています。
難しい理論を押しつけるのではなく、いまできることを順番にやるという姿勢が貫かれていますよ。
褒め育てを基本にした小学生指導
小学生への接し方についても、公式サイトに箇条書きで方針が示されています。
まず挙げられているのが、目線を同じくしてゆっくりした口調で指導するという一文です。
大人が上から指示を飛ばすのではなく、子どもの目の高さに合わせるところから始めるわけですね。
次に書かれているのが、ミスよりも良かった箇所を褒め育てるという方針です。
失敗を責める指導が長く当たり前だった時代を知る人だからこそ、この順番にこだわっているのかなと思います。
個性についても、プレーと性格の両面をじっくり見極めて、何から始めたら良いかを見つけると書かれています。
走り方・投げ方・捕り方・バットの振り方と握り方を分かりやすく伝えるという基本も明記されています。
どれも派手さはありませんが、最初につまずきやすい部分を順に埋めていく丁寧な組み立てですよね。
硬式か軟式か、レギュラーかベンチかを事前に共有してほしいという依頼も並んでいます。
同じ小学生でもチーム内の立場で必要な練習が変わるという前提に立っているからですね。
褒めて伸ばすという方針と、現状を正確に把握するという姿勢が両立しているのが特徴だと思います。
ここ、親御さんとしては一番気になるポイントだと思います。
選手の状態で変える練習メニュー
面白いのは、同じ年代でも立場や体の状態によってメニューを変えると明言している点です。
以下の表で、公式サイトに示されている対象別の練習方針を整理してみます。
| 選手の状態 | 取り組む練習 | 狙い |
|---|---|---|
| ベンチ入りの選手 | ヘッドスピードをつける練習 | 出場機会をつかむ打力 |
| 身体が出来上がっている選手 | 下半身強化と素振りの徹底 | 伸び率を上げる |
| 新入団・体が未完成の選手 | ジョギングとアメリカンノック | 土台づくりを優先 |
| 硬式・軟式で異なる場合 | 使用球を事前に共有 | 実戦に沿った指導 |
とくに印象的なのが、技術は下半身がしっかりしてからで充分間に合うという考え方です。
体ができていない段階で細かい技術を詰め込まない、という判断ですね。
身体が出来上がっている選手には下半身強化と素振りを徹底すると伸び率が上がるとも書かれています。
同じ練習を全員に課すのではなく、段階を見極めてから内容を決めるわけです。
レギュラーかベンチかを事前に共有してほしいという要望も、この考え方から出てきたものだとわかりますよね。
指導前に情報を集めてからメニューを組むという手順は、スカウト経験者らしい視点だと思います。
アメリカンノックは守備と走力を同時に鍛える練習で、体力づくりの定番として知られていますね。
900名を教えて感じた質問の傾向
指導歴の長さも、公式サイトの文章から読み取ることができます。
19年間ベースボールアカデミーで学童と中学生を合わせて約900名を指導してきたと記されています。
その経験の中で驚いたこととして挙げているのが、子どもたちからの質問の内容です。
「プロでも難しい技術や、まだ発達していない筋肉や骨なのに過激な筋トレの質問が多かった」と振り返っています。
情報が簡単に手に入る時代だからこそ、背伸びした練習に目が向きやすいということですよね。
これに対する答えとして示しているのが、一つのことを続けて練習している選手が自分の型を造っていたという観察です。
「今出来ることを一つ一つやり遂げ汗をかいた選手が一軍で活躍しているのです。」とも述べています。
プロの現場を36年間見てきた人の結論がこれだというのは、かなり説得力がありますよね。
約900名という人数は、横浜周辺の少年野球に与えた影響の大きさをそのまま表しています。
学童から中学生までを長期間見続けると、成長の速さが一人ずつ違うことが肌で分かるはずです。
だからこそ、流行の練習法に飛びつくのではなく基礎の反復を勧めているのだと思いますよ。
あなたのお子さんが伸び悩んでいるとしたら、この視点はかなり参考になるかなと思います。
30数回の海外視察で得た指導観
もう一つの土台になっているのが、海外での視察経験です。
公式サイトにはアメリカ・カナダ・キューバを含む中南米・韓国・台湾・中国などを30数回訪れたと書かれています。
目的は教育リーグの視察やスカウティング、そして現地での指導だったとされています。
各国の若者の育て方を見て気づいたこととして「国によって違いますが、完璧を目指すより今出来ることを指導していた」と記しています。
完成形から逆算するのではなく、目の前の段階に合わせるという発想が共通していたわけですね。
キューバについては、1993年に親会社の担当者とともに訪問した記録も残っています。
現地でスポーツ庁の担当者と会ったとされ、単なる観戦旅行ではない本格的な調査だったとわかります。
海外の育成現場を自分の目で確かめた経験が、いまの少年指導にそのまま生きているんですね。
公式サイトは「現在悩んでいることや知りたいことがあればいつでも相談してください。」という一文で結ばれています。
技術の相談だけでなく、迷いそのものを受け止めるという姿勢が伝わってきますよね。
2004年から2005年にはサンディエゴ・パドレスの極東地区担当スカウトも務めています。
メジャーの組織に身を置いた経験まで含めると、視野の広さは相当なものだと思います。
気になる人も多いはずなので、新しい情報があれば今後も追いかけていきます。
アスリートキャリア支援協会の名誉顧問
現在の活動のもう一つの柱が、引退したアスリートを支える仕事です。
野球の指導とは性質の違う役割ですが、本人のキャリアを振り返るとつながりがよく見えてきますよ。
ここでは名誉顧問という立場で何をしているのか、相談の受け皿としてどんな仕組みがあるのかを整理します。
名誉顧問として関わるACSの活動
結論から言うと、江尻亮さんは一般社団法人アスリートキャリア支援協会の名誉顧問を務めています。
この団体は略称でACSと表記され、現役を引退したアスリートの第二の人生をサポートする活動に取り組んでいます。
プロ野球の世界で36年間を過ごした人物が、競技を離れたあとの道筋づくりに関わっているわけですね。
公式サイトにもACS特設サイトへの案内が置かれており、本人の活動の中で重要な位置を占めていることがわかります。
選手のセカンドキャリアという言葉が一般に広まったのは比較的最近のことです。
ところが江尻亮さんはスカウトや編成部長として、選手の入り口と出口の両方を長く見てきた立場でした。
ドラフトで選ぶ側にいた人が、ユニホームを脱いだあとの支援に回っているという構図は興味深いですよね。
ぽっぽの野球観戦日記というブログでも、この団体に所属してセカンドキャリア支援に携わっていると紹介されていました。
記事の結びでは「今後も、江尻亮氏のような選手が増えれば、セカンドキャリアで迷うこともなくなるかも知れません」と書かれています。
ファン目線からも、こうした活動が評価されているということですね。
名誉顧問という肩書きは、日々の実務よりも方向性を示す立場に近いものだと考えられます。
公式サイトで受け付けるキャリア相談
具体的な窓口は、公式サイトのアスリートキャリア相談という項目になります。
そこには「アスリートとしての経験を活かして、多くの現役アスリートやOB、またアスリートの卵たちが抱える様々な課題や悩みの相談を受け付けております。」と書かれています。
注目したいのは、相談の対象が現役選手だけでなくOBやこれから目指す子どもまで含まれている点です。
引退後の人だけを対象にしているわけではないんですね。
下記の表は、公式サイトから読み取れる相談の受け皿を整理したものです。
| 対象 | 想定される相談 | 対応の形 |
|---|---|---|
| 現役アスリート | 競技と将来の両立 | 経験に基づく助言 |
| 引退したOB | 第二の人生の設計 | ACSとしての支援 |
| アスリートの卵 | 進路や練習の悩み | 個別の相談対応 |
| 専門分野の課題 | 法務や健康など | 専門家の紹介 |
野球に限定した表記になっていないので、競技を問わず相談できる構えだと読み取れます。
現役時代から引退まで、本人が実際に通ってきた道を語れる立場ですからね。
大学時代に部を抜け出そうとしたこともあったという経歴まで含めて、迷いを知っている人物だといえます。
厳しい練習に耐えかねたという当時の心境は、いまの中高生が抱える悩みとも重なる部分がありますよね。
順調に進んだ人の成功談ではなく、つまずいた経験も含めて語れるのが強みだと思います。
専門家につなぐという役割
もう一つ大事なのが、自分一人で抱え込まない仕組みになっているという点です。
公式サイトには「江尻が参加するACS(アスリートキャリア支援協会)には様々な専門家が集まっており、ご希望のある方には専門家のご紹介も行なっております。」と明記されています。
つまり相談を受けた内容に応じて、適切な専門家へつなぐ役割も担っているわけですね。
セカンドキャリアの課題は、資格取得や就職、健康管理、資金計画など多方面に広がります。
元選手の経験談だけでは解決できない部分が出てくるのは当然ですよね。
そこを団体のネットワークで補う形にしているのは、現実的で誠実な設計だと思います。
コーチ時代には選手に知識を付けさせるために合宿所に図書室を作ったという逸話も残っています。
若手選手に作文を書かせたこともあったそうで、野球以外の力を育てようとする姿勢は昔から一貫しています。
専門家に委ねるという判断も、同じ発想から出てきたものだと考えると納得できますよね。
現役時代から詩作と読書を趣味にし、同人誌に短歌を発表していたという一面も伝えられています。
詩人のポール・ヴェルレーヌを愛し、柏人という俳号で俳句にも造詣が深かったそうです。
野球だけで世界が完結していない人だったからこそ、競技を離れた先の話ができるのだと思います。
引退の決断が原点にあるキャリア観
なぜここまでセカンドキャリアにこだわるのか、その答えは現役引退の場面にあります。
江尻亮さんは引退を決めた時期に、球団の入団テストに立ち会っていました。
そこで声をかけてきた高校生が、自分の入団時に一緒に写真に写っていた子どもだったという出来事があります。
本人はその瞬間を「人生トシをとったものが若者に席を譲っていく。これが自然だと思いました」と振り返っています。
世代が入れ替わることを自然な流れとして受け止めた言葉ですね。
この感覚を持っている人だからこそ、席を譲った側のその後を気にかけるのだと思います。
プロ野球の世界は、毎年多くの選手が入り、同じだけの人数が去っていく場所です。
ドラフトで選ぶ立場も、戦力外を伝える編成部長の立場も経験しているのが江尻亮さんでした。
その両方を知る人が名誉顧問に就いている意味は、想像以上に大きいのではないでしょうか。
選手を発掘する喜びと、戦力にならないと判断する苦しさを同時に味わってきた人ですからね。
スカウト時代には他球団がノーマークだった選手を見つけ出し、のちの主力に育てた実績もあります。
人の可能性を見抜く目を、引退後の進路選びに向けているという見方もできますよね。
引退後の進路に不安を抱えている人には、心強い存在だと思いますよ。
六花亭野球部と900名の指導歴
ユニホームを脱いだあとの江尻亮さんは、プロ以外の現場でも長く指導を続けてきました。
意外に知られていないのが、北海道の企業チームと横浜の少年野球という二つの舞台です。
ここでは指導者としての足跡を年表で整理しながら、どんな成果が出ているのかまで見ていきますね。
六花亭野球部コーチとしての歩み
まず押さえておきたいのが、2006年から社会人の六花亭野球部でコーチを務めているという経歴です。
公式サイトの経歴欄にも「’06~社会人六花亭野球部コーチ」とはっきり記されています。
六花亭は北海道を代表する菓子メーカーとして知られ、企業スポーツとして野球部を抱えています。
プロ野球のコーチや監督を歴任した人物が、企業チームの指導に入った形ですね。
注目したいのは、江尻亮さんの指導によって全国大会でも好成績を残すようになったと伝えられている点です。
社会人野球は高校や大学を経た選手が集まるカテゴリーで、技術の土台はすでに出来上がっています。
そこに新しい結果が出たということは、体の使い方を整える指導が効いたと考えるのが自然ですよね。
プロ野球の一軍打撃コーチを務めた人の指導を、企業チームの選手が受けられる環境は貴重です。
遠く離れた北海道のチームと20年近い関係を続けているという点にも、信頼の厚さが表れています。
企業チームのコーチは、仕事と野球を両立する選手の事情に寄り添う必要があります。
社会人の現場を知っていることが、セカンドキャリア支援の活動にもつながっているはずですよね。
この継続性は、現在の活動を語るうえで欠かせない要素だと思いますよ。
横浜スタジアムで続けたJAAの指導
もう一つの舞台が、横浜スタジアムの室内練習場です。
江尻亮さんは2006年から2020年まで、ジャパンアスレチックアカデミーのチーフインストラクターを務めました。
このアカデミーは横浜スタジアムの室内練習場で開催されており、地元の子どもたちが通う場所でした。
公式サイトの経歴欄では期間を’04~’22と記載しており、関わりはさらに長かった可能性があります。
前述の通り、公式サイトには19年間で学童と中学生を合わせて約900名を指導したと書かれています。
この19年間という数字は、アカデミーでの活動期間とほぼ重なるものだと考えられますよね。
2017年に公開された直筆サインの紹介ページでも、横浜スタジアムのチーフインストラクターとして触れられていました。
外部の野球ファンからも、その肩書きで認識されていたということです。
プロの本拠地球場の設備で、元ベストナインの外野手から直接教わる経験はなかなかありません。
この時期に教わった子どもたちの中には、いま高校や大学で野球を続けている人もいるはずですよね。
室内練習場は雨でも練習が中断しないため、年間を通して計画的に教えられる環境でした。
プロ野球の球場が地域の育成拠点として使われている例としても、興味深い取り組みだと思います。
指導歴を年表で整理
ここまでの流れを整理するために、引退後の役職を時系列で並べてみます。
下記の表は、公開情報から確認できる指導歴と役職をまとめたものです。
| 年度 | 所属・団体 | 役職 |
|---|---|---|
| 1980年から1981年 | 大洋ホエールズ | 一軍打撃コーチ |
| 1982年から1984年 | 横浜大洋ホエールズ | 二軍打撃コーチ |
| 1985年から1986年 | 横浜大洋ホエールズ | 二軍監督 |
| 1987年から1989年 | 横浜大洋ホエールズ | スカウト |
| 1990年から1992年 | 横浜大洋ホエールズ | ヘッドコーチ |
| 1992年 | 横浜大洋ホエールズ | 監督 |
| 1993年から1994年 | 横浜ベイスターズ | 編成部長 |
| 1995年 | 千葉ロッテマリーンズ | 二軍・一軍ヘッドコーチ |
| 1996年 | 千葉ロッテマリーンズ | 監督 |
| 1997年から2001年 | 千葉ロッテマリーンズ | 編成部長 |
| 2004年から2005年 | サンディエゴ・パドレス | 極東地区担当スカウト |
| 2006年から2020年 | ジャパンアスレチックアカデミー | チーフインストラクター |
| 2006年から | 六花亭野球部 | コーチ |
| 現在 | アスリートキャリア支援協会 | 名誉顧問 |
こうして並べると、現役を引退してからの年数のほうが長いことに気づきますよね。
コーチから二軍監督、スカウト、ヘッドコーチ、監督、編成部長と役割を変えながら球界に残り続けています。
その後も国内外のアカデミーや企業チームで現場に立ち続けているわけです。
プロ野球で36年間という本人の表現は、この年表を見れば決して誇張でないとわかります。
全国大会で成績を残すまでの変化
気になるのは、江尻亮さんが入ってチームがどう変わったのかという部分ですよね。
六花亭野球部については、江尻亮さんの指導で全国大会でも好成績を残すようになったと伝えられています。
社会人野球の全国大会は都市対抗や日本選手権などで、出場するだけでも狭き門です。
そこで結果を出せるようになったという変化は、指導の効果を示す分かりやすい指標だと思います。
本人の指導方針は、筋力より関節の使い方という一貫したものでした。
社会人の選手であれば体はすでに完成しているため、動きの順序を整える余地が大きいはずですよね。
完璧を目指すより今出来ることを指導するという海外視察での気づきも、ここで活きていると考えられます。
プロ経験者が企業チームに入ると、戦術面だけを教えるケースも少なくありません。
体の使い方という土台から手を入れる指導は、年齢を問わず効果が出やすい領域です。
長く同じチームに関わり続けているのは、成果が出ているからこそだと思いますよ。
北海道と横浜という離れた土地の両方に関わり続けた行動力も見逃せません。
社会人と少年野球という両極の現場を同時に見ていたことが、指導の幅を広げたのだと思いますよ。
指導者としての現在地について、イメージが掴めてきたのではないでしょうか。
江尻慎太郎との血縁関係の真相
江尻亮さんを検索すると、必ずといっていいほど別の江尻さんの名前が一緒に表示されます。
同じ姓で同じ野球界の人物だと、どうしても関係があるように見えてしまいますよね。
ここでは検索時に混ざりやすい情報を、確認できる事実と区別できる形で整理します。
関連キーワードに江尻慎太郎が並ぶ理由
まず事実確認から入りますね。
江尻亮という名前で検索すると、関連キーワードに「江尻慎太郎 父親」や「江尻慎太郎 弟」が並びます。
検索エンジンの候補には「江尻 麻理」「江尻 仁」といった同姓の人物名も表示されます。
さらにYahoo!の関連質問には「江尻 慎太郎さんは現在、何をしていますか?」という項目まで出てきます。
つまり検索する人の多くが、江尻亮さんと江尻慎太郎さんを並べて調べているということですね。
江尻慎太郎さんは元プロ野球選手で、引退後も野球界で仕事を続けている人物です。
同じ姓で、しかもどちらもプロ野球の世界にいた人なので、血縁を疑う人が出てくるのは自然な流れだと思います。
江尻という姓はそれほど多くないため、同じ一族ではないかという推測が生まれやすいんですよね。
検索エンジンは一緒に調べられた語を関連キーワードとして表示する仕組みです。
つまり関連キーワードに並んでいること自体は、血縁の証拠にはまったくなりません。
Yahoo!の関連質問には「江尻亮さんの実家はどこですか?」という項目も並んでいます。
家族や出身地への関心が高いテーマだからこそ、推測が広がりやすいのだと思います。
ここ、かなり誤解されやすいところだと思います。
親子関係を示す情報は確認できない
結論から言うと、公開情報の範囲では両者の親子関係を示す記述は確認できません。
江尻亮さんのプロフィールには、茨城県高萩市出身で実家は旅館という情報が記録されています。
家族に関して確認できるのは、学生時代の昏睡状態から目覚めた逸話に登場する兄の寛さんの名前です。
息子がプロ野球選手になったという記述は、経歴にも脚注にも見当たりません。
加えて重要なのが結婚の時期で、江尻亮さんは二軍監督に就任した1985年に結婚したと記録されています。
それまでは現役時代を通じて独身を貫いていたとされ、当時話題になったとも伝えられています。
下記の表は、検索時に生まれやすい印象と確認できる事実を対比したものです。
| 検索で生まれる印象 | 公開情報から確認できる事実 |
|---|---|
| 江尻慎太郎は江尻亮の息子 | 親子関係を示す記述は確認できない |
| 家族もプロ野球関係者 | 記録にあるのは兄の寛さんの名前のみ |
| 早くから家庭を持っていた | 結婚は二軍監督就任の1985年 |
| 実家は野球関係の家庭 | 実家は茨城県高萩市の旅館 |
| 同姓だから一族 | 同姓の野球人という共通点のみ |
断定を避けて書きますが、現時点で血縁を裏づける公表情報は見つからないという状況です。
新しい情報が出てくれば話は変わりますが、今は推測の域を出ない話ですね。
江尻慎太郎の現在は球団広報という紹介
では、検索で一緒に出てくる江尻慎太郎さんは何をしている人なのでしょうか。
スポーツ関係者のマネジメント会社であるRIGHTS.のプロフィールページに情報が掲載されています。
そこでは福岡ソフトバンクホークスの球団広報として活躍していると紹介されています。
プロフィールには略歴・引退後の経歴・現在の活動という項目が並び、引退後も球界に残っていることがわかります。
つまり二人とも、現役を終えたあとに野球界で仕事を続けているという共通点があるわけです。
この共通点も、検索結果で二人が並びやすい一因になっていると思いますよ。
片方は少年指導とキャリア支援、もう片方は球団の広報という役割の違いがあります。
活動の場も横浜と福岡に分かれており、現在の仕事内容はまったく別のものです。
年代も世代がひとつ違うため、現役時代が重なっていたわけでもありません。
混同したまま情報を集めると、経歴の数字がかみ合わなくなるので注意が必要ですね。
マネジメント会社のページにはSNSやトピックスの欄も設けられており、情報発信を続けている様子がうかがえます。
球団広報は試合前後の取材対応やメディア窓口を担う仕事で、裏方として球団を支える役割ですね。
調べる際は、どちらの江尻さんの情報なのかを必ず確認するのがおすすめですよ。
同姓の野球人を見分けるポイント
最後に、二人を取り違えないための見分け方を整理しておきますね。
いちばん確実なのは生年と出身地で、江尻亮さんは1943年1月10日生まれの茨城県高萩市出身です。
所属球団も明確で、現役時代は大洋ホエールズから横浜大洋ホエールズの一球団のみでした。
ポジションは投手として入団し、その後に外野手へ転向しているという経歴も特徴的です。
左投左打という点、177cmの体格、背番号19という情報も識別の手がかりになります。
ベストナイン2回とオールスター2回という表彰歴も、江尻亮さんを特定する材料ですね。
監督経験があるかどうかも分かりやすい違いで、大洋とロッテで2度の監督経験があるのは江尻亮さんです。
検索結果に監督時代の話が出てきたら、それは江尻亮さんの情報だと判断できます。
逆に球団広報やSNSの発信に関する話題は、別の江尻さんの情報である可能性が高いです。
固有名詞や年号を一つずつ確認すれば、取り違えはかなり防げるはずですよ。
通算1485試合で打率.271という数字が出てきた場合も、江尻亮さんのものだと判断できます。
野球以外では、俳句や詩を愛する文学好きという人物像も江尻亮さんを表す特徴ですね。
気になる人も多いテーマなので、新しい情報が出てきたら今後もアップデートしていきます。
江尻亮の現在に至る経歴|大洋と早大の記録
- 高萩の旅館に生まれた少年時代
- 早大で残した46回2/3無失点
- 投打二刀流で挑んだ大洋入団1年目
- ベストナイン2度の打者としての実績
- 加藤初の頭部死球と最後の本塁打
- 大洋とロッテで2度務めた監督時代
高萩の旅館に生まれた少年時代
現在の指導スタイルを理解するうえで、出発点となった高校時代は外せません。
茨城県の北部で旅館の家に生まれた少年が、どうやって早稲田大学までたどり着いたのか。
ここでは生い立ちから進学までの流れを、年表も使いながら順番に追いかけていきますね。
旅館を営む家に生まれた生い立ち
江尻亮さんが生まれたのは1943年1月10日、茨城県高萩市です。
プロフィールには実家は旅館という記述があり、宿を営む家で育ったことがわかります。
高萩市は茨城県の北部に位置し、太平洋に面した自然豊かな町として知られています。
旅館業は家族で切り盛りする仕事ですから、人の出入りが多い環境で育ったことになりますね。
家族については、学生時代の逸話に登場する兄の寛さんの存在が記録に残っています。
大学2年の秋、早慶戦で頭部に投球を受けて意識を失った際の夢の話に出てくる名前です。
本人は当時を「死んだ祖父母がお花畑の中に立って『こっちへこい』といいながら手招きするんですよ」と語っています。
続けて「後ろから兄の寛が襟首つかんで引き戻すんですね。私はこの瞬間意識が戻ったんです」と振り返りました。
生死の境で思い出したのが兄だったという話には、家族の近さが表れていますよね。
祖父母の存在まで語られているので、三世代が同じ土地で暮らしていた可能性も考えられます。
旅館という家業が、人に向き合う姿勢を育てた面もあるのかなと思います。
Yahoo!の関連質問にも実家の場所を尋ねる項目が並ぶほど、生い立ちに関心が集まっています。
高萩市は日立市の北側に隣接し、海と山が近い土地柄で知られていますね。
日立一高1年目のノーヒットノーラン
野球の才能は、高校に入ってすぐに形になります。
進学先は茨城県立日立第一高等学校で、1年次からレギュラーとして起用されました。
そして1958年の秋季関東大会県予選準々決勝で、結城一高からノーヒットノーランを達成します。
1年生でいきなり無安打無得点を記録したわけですから、県内で話題になるのは当然ですよね。
続く準決勝では土浦三高に敗れましたが、好投手として一気に名前が知られるようになりました。
公式サイトの経歴欄にも「高校’58’60夏準優勝」という表記が残されています。
注目したいのは、進学先が野球の強豪校ではなかったという点です。
ぽっぽの野球観戦日記というブログでは「ちなみに日立一高は、県内有数の公立進学校です!」と紹介されています。
勉強と野球を両立させる環境で力を伸ばしたということですね。
この時期に培った考える習慣が、のちの運動機能学への関心につながったのかもしれません。
派手な環境ではなく、公立校から道を切り開いたという点に惹かれる人も多いはずですよ。
1年生でノーヒットノーランという記録は、投球の精度が早い段階で完成していた証拠だと思います。
当時から制御力のある左腕として、県内の指導者に注目されていたはずですよね。
甲子園を逃した3年夏の決勝
高校最後の夏は、あと一歩のところで甲子園を逃しています。
下記の表は、日立一高時代の主な歩みをまとめたものです。
| 年 | 学年 | 出来事 |
|---|---|---|
| 1958年 | 1年次 | 秋季関東大会県予選準々決勝でノーヒットノーラン |
| 1958年 | 1年次 | 準決勝で土浦三高に敗退 |
| 1960年 | 3年次 | 夏の甲子園東関東大会県予選決勝に進出 |
| 1960年 | 3年次 | 決勝で水戸商に0-1で惜敗 |
| 1961年 | 大学1年 | 早稲田大学で春季リーグから登板 |
1960年の夏、県予選の決勝まで勝ち上がったものの、水戸商に0-1で敗れました。
1点差、しかも完封負けという結果ですから、本人としては悔しさが残ったはずですよね。
当時の東関東大会は茨城と千葉の両県で代表を争う方式でした。
結果として甲子園出場はならず、高校時代の実績は県大会までで終わっています。
それでも投手としての評価は高く、大学で野球を続ける道が開けていきました。
甲子園に出ていない選手がプロで1000本安打を記録するというのは、なかなかない経歴だと思います。
高校時代は投手としての評価が中心で、打者としての才能が開花するのはプロ入り後でした。
この時点では外野手に転向する未来など、本人も想像していなかったのではないでしょうか。
水戸商は茨城を代表する強豪で、当時も県内屈指の実力校として知られていました。
一般入試で早稲田大学へ進んだ選択
進学の経緯には、この人らしさがよく出ています。
高校卒業後、江尻亮さんは一般入試で早稲田大学2部政治経済学部に進学しました。
野球推薦ではなく学力試験で合格したという点が、他の選手と大きく違うところですね。
ぽっぽの野球観戦日記でも、野球推薦ではなく一般入試で早稲田大野球部の門を叩いたと紹介されています。
2部は夜間の課程で、働きながら学ぶ学生も多く在籍していた環境でした。
そこから東京六大学野球という最高峰のリーグへ挑んだわけです。
入部後は最上級生だった安藤元博さんの後継として期待される立場になります。
1年次の1961年春季リーグから登板機会を得たという事実は、評価の高さを示していますよね。
ただ、そこから順調に階段を上がったわけではありませんでした。
学力で道を開き、挫折も経験しながら力をつけていく過程は、次の見出しで詳しく見ていきます。
勉強と野球の両方で結果を出した経験は、現在の少年指導にも確実に生きているはずです。
進学先の選び方に悩んでいる中学生や保護者には、参考になる歩みだと思いますよ。
大学同期には広島で名スカウトとして知られる宮本洋二郎さんや、石山建一さんがいました。
少年時代の歩みについて、少しイメージが湧きやすくなれば嬉しいです。
早大で残した46回2/3無失点
江尻亮さんの名前が全国に知られたのは、早稲田大学4年の年でした。
3シーズンにまたがって続いた連続無失点は、24年間も破られない六大学記録になります。
ここでは挫折から記録樹立までの4年間を、年月を追いながら読み物として整理していきますね。
苦しんだ1年目と2年目の挫折
意外に思われるかもしれませんが、大学入学後の数年間は苦しみの連続でした。
1年次の1961年春季リーグから登板機会を得たものの、同年秋季リーグでは1死も取れずに5失点を喫して降板します。
いきなり突きつけられた現実は、相当に厳しいものだったはずですよね。
2年次の1962年春季リーグでも3度の先発機会をもらいましたが、結果を残せませんでした。
同期のエースだった宮本洋二郎さんの後塵を拝す形になり、立場は苦しくなっていきます。
同年秋季リーグでは投手ではなく外野手として起用されるようになりました。
投手として入学した選手が、2年目の秋には野手として試合に出ていたということです。
当時の指揮官は石井連藏監督で、その厳しい練習は学生の間でも有名でした。
江尻亮さん自身、耐えかねて何度か部を抜け出そうとしたことがあると伝えられています。
いまの言葉でいえば、完全に伸び悩みと離脱寸前の状態ですよね。
3年次の1963年はリリーフ兼代打要員という中途半端な役回りになります。
それでも秋季リーグでは、すべて負け試合のリリーフながら4試合に登板して無失点に抑えました。
この地味な無失点が、のちの大記録の起点になっていたわけです。
頭部死球で48時間の昏睡
大学時代には、野球人生を左右する大きな事故も経験しています。
1962年秋季リーグの早慶戦、舞台は富山球場でした。
6番打者・右翼手で出場した江尻亮さんは、6回裏の打席で右こめかみに投球を受けて失神します。
病院に運ばれましたが、48時間にわたって昏睡状態が続いたと記録されています。
2日間も意識が戻らないというのは、命に関わる重傷ですよね。
前述の通り、本人は意識のない間に亡くなった祖父母と兄の寛さんが登場する夢を見ていたと語っています。
この死球が、のちにプロで経験する2度目の頭部死球とつながってくるのも不思議な巡り合わせです。
ヘルメットの性能も現在とは比べられない時代ですから、危険度はさらに高かったはずです。
それでも江尻亮さんは野球を辞めず、翌年にはリリーフとして復帰しています。
頭部への死球を受けた打者は、恐怖心から踏み込めなくなるといわれます。
その後も打者として活躍し続けたという事実は、精神的な強さを物語っていますよね。
外野手転向という回り道も、結果的には打者としての才能を開かせることになりました。
富山球場での試合は地方開催で、六大学の人気を各地に広める興行の一つでもありました。
遠征先での事故という点も、当時の関係者には強く記憶されたはずですよね。
4年目に投手専任を申し出て開花
転機は4年次の1964年、監督が交代したタイミングで訪れます。
新任の石井藤吉郎監督に対し、江尻亮さんは自ら投手専任を申し出て認められました。
自分の進む道を自分で決めたという一歩が、ここから快進撃につながっていきます。
春季リーグの明大戦では6イニングのロングリリーフを無失点に抑え、大学初勝利を挙げました。
続く東大戦でも4イニングを無失点、先発を任された法大戦では5安打完封という結果を残します。
そして迎えたのが、勝ち越せば7季ぶりの優勝が決まる早慶戦1回戦でした。
7回裏に代打で起用されると、同点につながる二塁打を放ちます。
そのまま8回表からマウンドに上がり、延長13回表までの6イニングを無失点に抑えました。
結果はサヨナラ勝ちで、優勝への道を自分の打撃と投球の両方で開いたわけです。
この試合ぶりは、現在の二刀流という言葉がぴったり当てはまりますよね。
6月の大学日本選手権では決勝で駒大に敗れ、準優勝に終わりました。
それでも投手として完全に立ち直り、秋の大記録へ向かっていきます。
監督に自分から申し出たという行動は、受け身では道が開けないと悟った結果だと思います。
前年まで野手で起用されていた選手が、最終学年で投手として優勝に貢献したわけですね。
46回2/3無失点という六大学記録
秋季リーグで、連続無失点の記録は一気に注目を集めます。
東大戦で6イニングのロングリリーフを無失点、翌日の東大戦では先発して7回を無失点に抑えました。
この時点で記録は42回2/3まで伸び、杉浦忠さんが持つ六大学記録の45イニングに迫ります。
下記の表は、大記録が生まれた立大戦1回戦の流れをまとめたものです。
| 場面 | 出来事 |
|---|---|
| 試合前 | 球場入りしてから先発を告げられる |
| 1回表・2回表 | 走者を出しながら無失点 |
| 2回裏 | 同期の直江輝昭が先制本塁打で援護 |
| 3回表 | 45イニングを超えて六大学記録を更新 |
| 4回表 | 無失点を継続 |
| 5回表2死 | 右翼の直江がフェンスに激突し負傷 |
| 記録停止 | ランニング本塁打で46回2/3でストップ |
記録を更新した瞬間、応援団は「仰げよ荘厳」を歌って江尻亮さんを祝福したと伝えられています。
記録が止まった場面も劇的で、立大の渡辺選手が打ち上げた大飛球が引き金になりました。
右翼を守っていた直江輝昭さんがダイビングキャッチを試み、フェンスに激しく激突してしまいます。
打球はランニング本塁打となり、3季にわたる連続無失点は46回2/3で止まりました。
直江さんは立ち上がれず、神宮球場の場内に初めて救急車が入り、信濃町の慶大病院へ搬送される事態になります。
記録更新に懸命なプレーを見せた同期の負傷という、重い結末だったわけですね。
この46回2/3という記録は、1988年に志村亮さんが更新するまで24年間も六大学記録として残りました。
防御率0.00と2季連続最優秀防御率
数字で見ると、4年次の投球内容はさらに驚きが増します。
江尻亮さんは4年の春と秋で2季連続の最優秀防御率に輝いています。
とくに春季リーグは4試合に登板して3勝0敗、防御率は0.00という記録でした。
秋季リーグは7試合に登板して4勝3敗、防御率1.02という成績を残しています。
春の0.00という数字は、2008年秋季リーグに野村祐輔さんが達成するまで44年間も再現されませんでした。
44年という年月を考えると、どれほど極端な記録だったかが伝わってきますよね。
下記の表は、大学時代の最終的な成績をまとめたものです。
| 項目 | 記録 |
|---|---|
| リーグ通算登板 | 23試合 |
| 通算成績 | 7勝6敗 |
| 通算防御率 | 1.97 |
| 連続無失点 | 46回2/3 |
| 最優秀防御率 | 2季連続 |
通算では7勝6敗ですから、勝ち星だけ見れば派手な数字ではありません。
それでも防御率1.97という内容は、失点を許さない投手だったことを示しています。
勝ち星が伸びなかったのは、負け試合のリリーフ登板が多かった時期があるからですね。
大学時代に学んだ運動機能学は、のちの打撃フォームづくりにも応用されていきます。
理論を学びながら体で確かめるという姿勢は、学生時代から変わっていないんですね。
この実績を引っさげて、江尻亮さんはプロの世界へ進むことになりました。
投打二刀流で挑んだ大洋入団1年目
1965年、江尻亮さんは大洋ホエールズに入団します。
驚くのは、1年目から投手と打者の両方で起用されていたという事実です。
ここでは二刀流として過ごした最初の2年間を、日付と対戦相手まで追いながら整理していきますね。
本格派左腕として期待された入団
入団時の評価は、本格派左腕という投手としてのものでした。
ところが打者としての評価も高く、1年目は投打の二刀流としてプレーすることになります。
下記の表は、プロ1年目に記録した初めてのプレーをまとめたものです。
| 初記録 | 日付 | 対戦 | 内容 |
|---|---|---|---|
| 初出場 | 1965年4月11日 | 国鉄 | 伊藤勲の代打で出場 |
| 初登板 | 1965年5月8日 | 巨人 | 秋山登・佐々木吉郎に続く3番手 |
| 初安打 | 1965年9月12日 | 中日 | 水谷寿伸から記録 |
| 初本塁打 | 1965年10月21日 | 中日 | 小川健太郎から記録 |
打者としての初出場が投手としての初登板より早いという点が、すでに二刀流らしいですよね。
4月11日の国鉄戦は川崎球場で行われ、伊藤勲さんの代打として打席に立ちました。
投手としての初登板は5月8日の巨人戦で、秋山登さんと佐々木吉郎さんに続く3番手でした。
当時の大洋は秋山登さんを軸にした投手陣で、そこに新人左腕が加わった形です。
ぽっぽの野球観戦日記では、この時期について興味深い見方が示されています。
「ここは、大谷翔平のような二刀流というよりは、投打どちらで行くかを判断する期間だったのだと推測します」という一文です。
確かに2年で投手としての登板が止まっているので、見極めの期間だったという解釈は納得できますよね。
9月12日の中日戦では近藤昭仁さんの代打で出場し、水谷寿伸さんから初安打を放ちました。
代打からチャンスをつかんでいく姿は、現在のルーキーと変わらない光景だと思います。
王貞治に浴びた満塁本塁打
投手としての1年目には、忘れられない一発を浴びています。
1965年6月24日の巨人戦、川崎球場でのことでした。
小野正一さんと新治伸治さんに続く3番手としてマウンドに上がります。
そこで4番を打つ王貞治さんに満塁本塁打を浴びてしまいました。
相手は言うまでもなく、のちに世界記録を打ち立てる打者です。
新人投手が真っ向から勝負して、最悪の結果を突きつけられた場面ですね。
この試合以降、投手としての成績は低迷していきます。
その後は二軍へ落ち、ジュニアオールスターゲームに出場しました。
1年目の投手成績は5試合に登板して0勝1敗、防御率3.27という数字です。
投球回は11回1/3で、被本塁打は4本を記録しています。
11イニングで4本の被弾というのは、一軍の壁を痛感する数字ですよね。
10月27日の最終戦ではサンケイ戦に登板し、石戸四六さんと投げ合いました。
この試合でも根来広光さん・小淵泰輔さん・別部捷夫さんに3本塁打を打たれて敗れています。
投手としての道は、こうして早い段階で厳しさを突きつけられたわけです。
大学で防御率0.00を記録した投手でも、プロの打者相手では通用しなかったということですね。
この経験があるからこそ、少年指導で基礎の反復を説くのだろうと思います。
初先発で放った初本塁打
一方で、打者としての才能は1年目から光りました。
シーズン終盤の2試合で、偵察要員に代わって右翼手として先発出場します。
初めて先発した1965年10月21日の中日戦で、小川健太郎さんから初本塁打を放ちました。
しかもこの一打は、2回表に飛び出した先制の2ラン本塁打でした。
初先発の試合で先制本塁打というのは、なかなかできる経験ではありませんよね。
ただ試合展開は厳しく、4回裏に権藤博さんのタイムリー二塁打で同点とされます。
5回裏には竹中惇さんのソロ本塁打、6回裏にも2点を追加されて苦しい展開になりました。
9回表に桑田武さんの2ラン本塁打が出て1点差まで追い上げましたが、4対5で敗れています。
個人としての初本塁打がチームの勝利につながらなかったのは残念な結末でした。
それでも27打数7安打で打率.280という1年目の数字は、打者としての可能性を示しています。
投手で苦しんだ年に、打者としては結果を出していたわけですね。
この対比が、球団の判断を大きく動かしていくことになります。
偵察要員に代わって先発するという起用法は、当時の野球らしい駆け引きの一つでした。
そこで本塁打を打ったのですから、ベンチの評価が一気に変わったはずですよね。
2年目の打率.303で決まった転向
運命が決まったのは、プロ2年目の1966年でした。
この年は主に右翼手として56試合に先発し、209打席に立っています。
残した成績は71試合で201打数61安打、打率.303という高い数字でした。
二塁打18本を含む長打力も見せており、打者としての評価は決定的になります。
一方で投手としては5試合に中継ぎ登板したものの、好結果は残せませんでした。
投手成績は6回1/3を投げて防御率4.50で、通算10登板という記録で止まります。
この結果を受けて、3年目の1967年から打者に専念することが決まりました。
下記の表は、二刀流だった2年間の成績を並べたものです。
| 年度 | 打者成績 | 投手成績 |
|---|---|---|
| 1965年 | 27試合・打率.280・1本塁打 | 5登板・防御率3.27 |
| 1966年 | 71試合・打率.303・4本塁打 | 5登板・防御率4.50 |
打者としての数字が右肩上がりだったことが、ひと目でわかりますよね。
1967年は開幕から2番打者として起用され、早くもレギュラーを獲得します。
ライナー性の二塁打が多いシュアな打者として頭角を表していきました。
投手として挫折した経験が、打者としての大成につながったという流れですね。
転向の経緯について、イメージが掴めてきたのではないでしょうか。
ベストナイン2度の打者としての実績
打者に専念してからの江尻亮さんは、大洋の中心打者として長く活躍しました。
タイトルはベストナイン2回ですが、記録を追うと数字以上の存在感が見えてきます。
ここでは打者としての全盛期を、年度ごとの成績と名場面の両方から整理していきますね。
1969年の18本塁打とAクラス入り
打者専念から3年目の1969年が、最初の大きな飛躍の年になります。
この年は中堅手にコンバートされ、5番打者という重要な役割を任されました。
残した成績はリーグ9位の打率.283、そして自己最多となる18本塁打です。
この活躍で、チームは5年ぶりのAクラス入りを果たしました。
1964年以来となる上位進出ですから、ファンの喜びも大きかったはずですよね。
その前年の1968年には、初めて規定打席に到達しています。
打率.248でランキング23位という成績で、まだ主軸とは言えない数字でした。
それが1年で打率を3分5厘も上げ、本塁打を4本増やしたわけです。
外野のポジションを中堅へ移しながら成績を伸ばしたという点も見逃せません。
守備位置が変わると打撃に影響が出る選手も多いのに、逆に数字を伸ばしています。
この年の働きが、翌年に4番を任される流れをつくりました。
伸び盛りの時期をどう過ごすかで選手寿命が変わるという話は、現在の指導にも通じていますよね。
1969年は113試合の出場で18本塁打ですから、試合数に対する本塁打の割合も高い年でした。
5番という打順は勝負どころで回ってくる場面が多く、勝負強さが問われる位置ですね。
4番を任された1970年の初ベストナイン
1970年、江尻亮さんはキャリア最初のタイトルを手にします。
この年は再び右翼手に戻り、松原誠さんと打順を入れ替えて開幕から4番打者として出場しました。
そして自身初のタイトルとなるベストナイン(外野手)を獲得しています。
同じ年にはオールスターゲームにも初めて選出されました。
成績は128試合に出場して打率.271、11本塁打に51打点という内容です。
打点51は自己最多で、4番としての責任を果たした数字だと言えますね。
1970年のベストナイン外野手は、高田繁さん・江尻亮さん・中暁生さんの3人でした。
投手が平松政次さん、三塁手が長嶋茂雄さん、一塁手が王貞治さんという豪華な布陣の中に名前が並んでいます。
この顔ぶれを見ると、受賞の価値がはっきり伝わってきますよね。
翌1971年には強肩を活かして自己最高の15補殺を記録しました。
打つだけでなく守備でも相手の進塁を止めていたということです。
1972年からはジョン・シピンさん・江藤慎一さん・クリート・ボイヤーさんら強打者が加入します。
その影響で打順は1番から2番へと移り、つなぎ役として起用されるようになりました。
チーム構成に合わせて役割を変えられる柔軟さも、長く主力を務められた理由だと思います。
打率.291で2度目のベストナイン
キャリアハイを記録したのは1973年です。
この年は自己最高でリーグ5位の打率.291をマークし、2度目のベストナインを獲得しました。
ぽっぽの野球観戦日記では「キャリアハイは1973年の打率.291、安打数126、15本塁打、8盗塁。主に5番を任されたようです。」と紹介されています。
以下の表で、打者としての主な年度成績を整理してみます。
| 年度 | 試合 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 主な出来事 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1967年 | 117 | .246 | 7 | 21 | 打者専念1年目で2番に定着 |
| 1968年 | 127 | .248 | 14 | 44 | 初めて規定打席に到達 |
| 1969年 | 113 | .283 | 18 | 43 | 5年ぶりのAクラス入りに貢献 |
| 1970年 | 128 | .271 | 11 | 51 | 初のベストナイン |
| 1971年 | 127 | .280 | 6 | 31 | 自己最高の15補殺 |
| 1972年 | 127 | .265 | 12 | 39 | 1番から2番へ打順変更 |
| 1973年 | 122 | .291 | 15 | 44 | 2度目のベストナイン |
| 1974年 | 120 | .282 | 10 | 37 | 通算1000試合出場を達成 |
| 1975年 | 123 | .277 | 7 | 36 | 1000本安打と100本塁打 |
1973年のベストナイン外野手は、若松勉さん・柴田勲さん・江尻亮さんという3人です。
捕手が田淵幸一さん、二塁手がシピンさんという年で、こちらも強力な布陣でした。
この年のオールスターにも選出され、出場は通算2回となりました。
表を見ると、打率が.246から.291まで段階的に上がっていることがわかります。
派手な一発屋ではなく、確実性を高めながら長く主力を務めた打者だったんですね。
外木場義郎の大記録を阻んだ一発
1975年には、記録ずくめの場面が続きます。
4月11日のヤクルト戦では、浅野啓司さんから通算100本塁打を記録しました。
この試合は4対1とリードした6回裏に江尻亮さんのソロ本塁打が出て、中塚政幸さんの2ラン本塁打も重なって3点を追加しています。
先発の竹内広明さんが7四死球を出しながら4安打1失点で完投し、8対1で勝利を収めました。
5月21日の中日戦では、星野仙一さんから通算1000本安打を放ちます。
そして忘れられないのが9月18日の広島戦です。
この試合で広島の外木場義郎さんがノーヒットノーランに迫っていました。
そこで江尻亮さんがシーズン7号本塁打を放ち、大記録の達成を阻止しています。
しかもこの一打が、その試合で大洋が記録した唯一の安打でした。
無安打無得点試合の完成まであと一歩という場面を、本塁打で止めたわけです。
チームで唯一の安打が一発で記録を止めたというのは、語り継がれる場面ですよね。
同年11月8日には「東京六大学野球連盟結成50周年記念試合プロOB紅白戦」のメンバーに選出されました。
早大の先輩である荒川博監督が率いる白軍の選手として出場しています。
母校の節目の試合に呼ばれるというのは、大学時代の記録が評価されていた証拠だと思いますよ。
加藤初の頭部死球と最後の本塁打
江尻亮さんの現役終盤には、因縁という言葉がぴったりの物語があります。
頭部死球で意識を失い、その相手から本塁打を打ち返すという展開です。
ここでは1977年から引退までの流れを、日付と試合展開まで追いながら整理していきますね。
1977年8月7日の頭部直撃
すべての始まりは1977年8月7日、川崎球場での巨人戦でした。
加藤初さんの投じた2球目が、江尻亮さんの右こめかみを直撃します。
意識不明のまま病院に搬送され、36時間にわたって昏睡状態が続きました。
右の額には重傷を負い、整復手術を受けるほどの事態になります。
大学2年の秋に48時間の昏睡を経験してから、15年後に再び同じ場所を打たれたわけです。
2度も頭部に死球を受けるという巡り合わせは、あまりに過酷ですよね。
この日以降、先発出場はわずか2試合のみとなりました。
引退にまでは至らなかったものの、怪我による後遺症が残ったと記録されています。
1977年の成績は68試合出場、166打数44安打で打率.265という数字です。
前年まで毎年100安打以上を放っていた打者の数字が、一気に半分以下になりました。
1978年からは高木嘉一さんに定位置を奪われ、代打での起用が主になっていきます。
30代半ばという年齢に加えて頭部の後遺症ですから、普通なら引退を考える局面ですよね。
ヘルメットに耳当てがなかった時代の死球は、いまより危険度が高かったはずです。
それでも翌年に代打として打席に立ち続けたのですから、相当な覚悟だったと思いますよ。
別当薫監督の言葉と因縁の一発
ところが1978年6月11日、物語が動きます。
横浜での巨人戦、マウンドには因縁の相手である加藤初さんが先発していました。
この試合はヤクルトを含めた在京3球団の首位争いにおける、前半戦の山場となる一戦でした。
巨人が3点リードで迎えた3回、別当薫監督が代打として送ったのが江尻亮さんです。
そのとき監督から「このまま現役を止めたのでは踏ん切りがつかないだろう。もう一度加藤と勝負して人生のケリをつけてこい」とハッパをかけられました。
この言葉に奮起した江尻亮さんは、3回裏に右翼席へ本塁打を叩き込みます。
頭部死球を受けた相手から、代打でお返しの一発を放ったわけです。
加藤さんは表情を変えないポーカーフェイスで、鉄火面とも呼ばれた投手でした。
その加藤さんの顔色が変わったと伝えられています。
一方で江尻亮さんは動揺とは対照的に落ち着き払っていたそうです。
一度顔面に死球を受けた打者は、恐怖心から打席で踏み込めなくなるといわれます。
ところが江尻亮さんは内角のボールも踏み込んで打ち返しました。
代打でもそれなりの結果を残していたとはいえ、燃えるものが無くなっていた時期だったといいます。
そこに監督の一言が火をつけたという流れは、まるで小説のようですよね。
現役最後の本塁打となった3ラン
1978年7月4日、横浜でのヤクルト戦にも印象的な場面があります。
3対1とリードしていた7回表、杉浦亨さんのソロ本塁打で1点差に追い上げられました。
その裏、2死後に高木嘉一さんの二塁打と松原誠さんへの敬遠四球で一塁二塁となります。
ここで代打に起用された江尻亮さんが、倉田誠さんから右翼へ3ラン本塁打を放ちました。
先発の高橋重行さんから平松政次さんへのリレーで、6対2でヤクルトを振り切ります。
この試合で敗れた首位ヤクルトの連勝は5でストップし、大洋は首位とのゲーム差を3としました。
このダメ押しの3ラン本塁打が、江尻亮さんの現役最後の本塁打になります。
代打で勝負を決める一発を打ち、そのまま本塁打から遠ざかったわけですね。
通算116本塁打の最後の1本が、優勝争いを左右する場面だったというのは見事な締め方だと思います。
この時点で1500試合出場まで、あと15試合に迫っていました。
シーズン終了後には打撃コーチ就任を打診されましたが、本人はせめて選手兼任コーチをと希望します。
球団も記録が間近なことで再検討に入りました。
あと15試合であれば、翌年の序盤で到達できる距離ですからね。
代打という役割で勝負を決めた経験は、のちに代打の起用法を考える監督業にも生きたはずです。
入団テストで見た若者と引退の決断
ところが江尻亮さんは、思わぬきっかけで引退を選びます。
球団の入団テストで、1次試験に合格した高校生の姿を見たことでした。
その高校生は、江尻亮さんが早大から大洋に入団する際、新聞社の取材で写真撮影の時に一緒に写った知り合いの男の子でした。
当時はまだ幼児だった子どもが、プロの世界に挑戦する年齢になっていたわけです。
声をかけてきた若者は「江尻さん、子供と走る写真をとったでしょう。あの中に私もいました」と語ったと伝えられています。
その選手は入団テストで2本塁打を放ち、1次試験には合格しましたが2次試験で不合格となりました。
江尻亮さんはこの場面を「その若者の本塁打を見たとき、私の胸もこれでいいんだ、私の引退も時の流れなんだと割り切れました」と振り返っています。
前述の通り、世代交代を自然なものとして受け止めた言葉を残しています。
記録のために1年を延ばすのではなく、潔く選手生活を終えることを決めたわけですね。
最終出場は1979年10月10日の広島戦で、広島市民球場での試合でした。
この試合では高橋さんの代打として打席に立ち、最後の安打と打点も記録しています。
通算1485試合、1249安打、116本塁打という数字で15年間の現役生活を終えました。
1500試合という節目に手が届かなかったことより、引き際の美しさが語られる選手ですよね。
大洋とロッテで2度務めた監督時代
引退後の江尻亮さんは、2度の監督経験を含む36年間を球界で過ごしました。
とくに1992年の采配は、のちの横浜ベイスターズ優勝につながる土台をつくったと評価されています。
ここでは指導者としての足跡を、残した結果と選手の証言から整理していきますね。
スカウトとして見つけた石井琢朗と進藤達哉
監督の前に、まず触れておきたいのがスカウト時代の仕事です。
江尻亮さんは1987年から1989年まで、大洋のスカウトを務めていました。
この時期に進藤達哉さんや石井琢朗さんといった、他球団がノーマークだった選手を発掘しています。
しかもどちらもドラフト外での入団という形でした。
石井琢朗さんはのちに球団を代表する選手となり、後年の名選手と評されるまでになります。
進藤達哉さんも内野の要として長く活躍し、チームを支える存在になりました。
つまり1998年に38年ぶりの優勝を果たしたチームの中核を、スカウト時代に自分で見つけていたわけです。
ぽっぽの野球観戦日記でも、優勝メンバーの基礎を作った監督として紹介されています。
人を見る目の確かさは、現在のアスリート支援活動にもつながる資質ですよね。
コーチや監督として結果を出す人は多いですが、入り口から育てた選手で優勝させた例は貴重です。
二軍打撃コーチや二軍監督として若手を見てきた経験も、この目を養ったのだと思います。
1980年から1981年は一軍打撃コーチ、1982年から1984年は二軍打撃コーチを担当しました。
1985年から1986年には二軍監督として、若手の育成を直接任される立場になっています。
1992年に横浜大洋ホエールズ最後の監督
1992年、江尻亮さんに監督の座が回ってきます。
きっかけは須藤豊監督の休養で、5月3日に監督代行へ就任しました。
その後、須藤さんが退団したことで5月23日に正式な監督となります。
残りの109試合を54勝54敗1分の勝率5割で乗り切り、最終順位は5位でした。
優勝したヤクルトに勝ち越すなど健闘し、首位から8ゲーム差まで盛り返しています。
この手腕を評価する声もあり、「翌年も引き続き江尻監督に指揮を」という意見が出ました。
ところが江尻亮さんはこれを辞退して退任しています。
そして1992年のオフ、チームは横浜ベイスターズへと改称されました。
その結果、江尻亮さんは横浜大洋ホエールズ最後の監督という記録を持つことになります。
球団名が変わる節目に指揮を執った監督として、球団史に名前が刻まれているわけですね。
翌年からは編成部長として1994年までチームを支えました。
1993年には親会社であるマルハのキューバ担当者2名とともにキューバを訪問しています。
監督代行としてスタートした年に勝率5割で戻したのは、立て直しの手腕があった証拠ですよね。
現地ではスポーツ庁の担当者と会ったとされ、国際的な人脈づくりにも動いていました。
ダブルストッパー誕生を仕掛けた采配
1992年の采配でとくに評価されているのが、投手陣の再編です。
江尻亮さんは先発で起用されていた盛田幸妃さんと、不振に陥っていた欠端光則さんを中継ぎへ転向させました。
同時に、1990年から抑えに回っていた遠藤一彦さんを先発へ再転向させています。
この配置転換が見事に当たり、盛田さんはリリーフながら最優秀防御率を受賞する大車輪の活躍を見せました。
規定投球回をクリアしてのタイトルですから、相当な登板数だったことがわかります。
そしてここから、1990年代中盤のベイスターズを支えた盛田さんと佐々木主浩さんのダブルストッパーが誕生しました。
野手でも、自身がスカウト時代に獲得した石井琢朗さんと進藤達哉さんを積極的に起用します。
投手から野手に転向した直後だった石井さんを三塁手で使い、シーズン後半には清水義之さんから定位置を奪う活躍を引き出しました。
捕手では秋元宏作さんを起用し、当時若手だった谷繁元信さんは出場機会を減らしています。
その谷繁さんは後年、この時期を振り返って「僕も全く打てていませんでしたからそれは仕方がない」と語りました。
続けて、プロ野球界という世界に心底向き合って取り組まなければいけないと思い始めたのはそこからだと述べています。
のちに名捕手となる選手の転機にもなっていたということですね。
結果は5位でも、残したものの大きさは数字に表れていないと思いますよ。
1996年ロッテ監督としての苦闘
2度目の監督は、1996年の千葉ロッテマリーンズでした。
1995年に早大の先輩である広岡達朗ゼネラルマネージャーの誘いで二軍ヘッドコーチに就任します。
シーズン途中に一軍ヘッドコーチへ昇格し、10年ぶりのAクラス入りとなる2位躍進に貢献しました。
翌1996年、ボビー・バレンタイン監督の解任に伴って監督へ就任します。
3月30日のダイエーとの開幕戦では、園川一美さんを開幕投手に抜擢しました。
これに対してダイエーの王貞治監督から「開幕投手にも格があるだろう。」と批判されています。
それでも試合は勝利し、14年ぶりの本拠地開幕戦勝利を飾りました。
しかしその後は低迷し、5月10日に貯金4の2位になったのを最高に順位を落としていきます。
6月には伊良部秀輝さんのメジャー移籍希望が表面化し、チームは混乱しました。
8月16日の西武戦では、降板を告げられた伊良部さんがグラブと帽子を観客席に投げ入れる事態も起きています。
こうした問題が重なり、江尻亮さんは原因不明の吐き気と胸の圧迫感を訴えました。
8月23日から6日間の検査入院で一時休養し、予定通り30日の西武戦で復帰します。
その試合で球団創設以来の通算3000勝を達成し、翌31日には12年ぶりの西武戦勝ち越しを決めました。
下記の表は、2度の監督時代の成績をまとめたものです。
| 年度 | 球団 | 順位 | 勝敗 | 勝率 | ゲーム差 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1992年 | 大洋 | 5位 | 54勝54敗1分 | .500 | 8.0 |
| 1996年 | ロッテ | 5位 | 60勝65敗3分 | .480 | 15.5 |
| 通算 | 2年 | – | 114勝119敗4分 | .489 | – |
球団トップは続投を示唆しましたが、広岡さんへの球団内部の反感が強く、広岡さんの解任が決まります。
続投方針だった江尻亮さんも居残るわけにはいかず、広岡さんが辞任した翌日の10月10日に辞任しました。
後任監督は横浜の監督を退いたばかりの近藤昭仁さんで、大洋に続いて2度目の江尻から近藤への交代となりました。
その後は1997年から2001年までロッテの編成部長を務めています。
江尻亮の現在に関するまとめ
- 江尻亮は1943年1月10日生まれで茨城県高萩市出身
- 現在は公式サイトを窓口に野球の家庭教師として個別指導
- 指導料金は45分2,000円の初回体験から設定されている
- 活動拠点は横浜市栄区鍛冶ケ谷で訪問型の個別指導が基本
- 指導の軸は体を使う順序で筋肉より関節の使い方を重視
- 19年間で学童と中学生の約900名を指導してきたという
- 一般社団法人アスリートキャリア支援協会の名誉顧問だ
- 社会人六花亭野球部のコーチを2006年から継続している
- ジャパンアスレチックアカデミーで長く指導を担当した
- 江尻慎太郎との親子関係を示す公開情報は確認できない
- 現役時代は大洋ホエールズ一球団で15年間プレーした
- 早大4年時に46回2/3の連続無失点で六大学記録を樹立
- プロ通算は1485試合で打率.271と116本塁打
- ベストナインを1970年と1973年の2度受賞した
- 横浜大洋ホエールズ最後の監督として球団史に名を残す
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