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黒江透修さんの息子について、どんな人物でどんな野球人生を歩んだのかを知りたいと感じている方は多いです。
巨人のV9を遊撃手として支えた黒江透修さんの息子は、国学院久我山高校の内野手だった黒江章哲さんです。
章哲さんは1979年春、国学院久我山にとって初めての甲子園という大舞台で3番打者を任されていました。
さらに黒江家には、巨人3軍との交流戦で祖父譲りの軽快な守備を見せた孫の黒江哲平さんもいます。
この記事では、息子・黒江章哲さんの歩みから娘や孫の話題まで、一家の野球の系譜をあなたが納得できる形で整理していきます。
記事のポイント
①:息子は国学院久我山の黒江章哲
②:1979年春の甲子園に3番で出場
③:孫の黒江哲平も内野手として活躍
④:父・透修はV9を支えた遊撃手
黒江透修の息子・黒江章哲の経歴|甲子園での戦い
- 息子・黒江章哲の基本情報とプロフィール
- 国学院久我山の内野手としての歩み
- 1979年春・初出場の福井商戦の全内容
- 時空甲子園の名鑑に残る黒江章哲
- 同窓生に井口資仁・矢野謙次がいた
- 甲子園出場後の進路は非公表のまま
息子・黒江章哲の基本情報とプロフィール
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まず、黒江透修さんの息子について現在確認できている情報から整理します。
結論から言うと、黒江透修さんの息子は国学院久我山高校で内野手としてプレーした黒江章哲さんです。
ここでは息子の基本情報と父親である透修さんの歩みを、あなたが並べて比べられる形でまとめていきます。
判明している息子の情報まとめ
下記の表は黒江章哲さんについて資料から確認できている内容をまとめたものです。
| 項目 | 判明している内容 |
|---|---|
| 名前 | 黒江章哲 |
| 続柄 | 元巨人・黒江透修の息子 |
| 生年月日 | 非公表 |
| 出身校 | 国学院久我山高校 |
| ポジション | 内野手 |
| 甲子園出場 | 1979年春の選抜高校野球大会(1回戦) |
| 甲子園での記録 | 福井商戦で3番を打ち2四球を選ぶもノーヒット |
| 卒業後の進路 | 非公表 |
表にしてみると、章哲さんの情報は高校時代の一点に集中していることがよく分かりますよね。
名前と続柄が公の資料に記録されているのは、時事ドットコムが公開している高校野球の企画記事です。
そこには「元巨人・黒江透修氏の息子」という一文がはっきりと添えられていました。
つまり父子関係は本人の自己申告ではなく、報道側が整理した名鑑に記された確かな情報ということになります。
一方で生年月日や卒業後の進路については、現在のところ公開資料に見当たりません。
1979年春に甲子園のグラウンドに立っていることから、生まれは1960年代前半と考えるのが自然です。
現時点で確認できるのは高校時代の記録だけであり、それ以外は公開されていないと考えてください。
逆に言えば、甲子園という公式記録が残る舞台に立ったからこそ名前が後世まで伝わったわけです。
父親の知名度が高い一家でありながら、家族の情報が最小限しか出ていない点は印象的ですよね。
名前の読み方は公表されていない
ここ、気になるポイントだと思うので先に触れておきます。
黒江章哲さんの名前の読み方は、現時点では公開資料に記載がありません。
名鑑には「黒江 章哲」と漢字のみが並び、ふりがなは添えられていませんでした。
父親の透修さんが「ゆきのぶ」というかなり珍しい読み方であるため、息子の読みも推測しづらいところがあります。
章哲という漢字の組み合わせは、あきのり・あきさと・しょうてつなど複数の読み方が考えられます。
そのためこの記事では読み方を断定せず、漢字表記のままお伝えしていきます。
検索するときも「黒江章哲」と漢字で入力したほうが、目的の情報にたどり着きやすいはずですよ。
なお孫にあたる黒江哲平さんの名前にも「哲」の字が入っており、一家で共通して使われている漢字だと分かります。
スポーツ紙の記事でも、孫の黒江哲平さんには読み方が添えられていませんでした。
黒江という姓そのものは全国的に多い名字ではなく、読み方の推測が難しい部類に入ります。
父の透修さんが鹿児島県姶良町の出身であることを踏まえれば、一家の源流も九州にあると考えられます。
読み方が分からないままでも、漢字が特定できていれば調査の手がかりとしては十分ですよ。
父親・黒江透修のプロフィール
息子の話を深く理解するために、父親である黒江透修さんの歩みも確認しておきましょう。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 黒江透修(くろえ・ゆきのぶ) |
| 生年月日 | 1938年12月12日 |
| 2026年10月12日現在の年齢 | 87歳 |
| 出身地 | 鹿児島県姶良町(現在の姶良市) |
| 身長/体重 | 167cm/75kg |
| 投打 | 右投右打 |
| 経歴 | 鹿児島高→杵島炭鉱→日炭高松→立正佼成会→1964年に巨人入団 |
| ポジション | 遊撃手 |
| 主な実績 | 1968年ベストナイン、巨人のV9を支えた一員 |
| 通算成績 | 1135試合/923安打/57本塁打/371打点/打率.265 |
透修さんは鹿児島高校を出たあと、杵島炭鉱と日炭高松という九州の炭鉱チームで腕を磨いています。
その後立正佼成会の野球部を経て、1964年にようやく巨人のユニフォームを着ました。
プロ1年目は26試合で打率.163と苦しみ、決して順風満帆なスタートではありませんでした。
そこから1967年に129試合118安打まで一気に成績を伸ばし、遊撃のレギュラーを掴み取っています。
1969年には130試合で141安打63打点を記録し、打率.293という自己最高の数字を残しました。
内野手という親子の共通点
親子の経歴を並べて見ると、ひとつ興味深い共通点が浮かび上がってきます。
父の透修さんは遊撃手、息子の章哲さんは内野手として名鑑に記載されていました。
どちらも内野の守備位置で勝負していた点が一致しているのです。
内野手というポジションは、打球への反応速度と送球の正確さがそのまま評価につながる場所でもあります。
透修さんは巨人の鉄壁の内野陣を形成した一人として、緻密なチームプレーを支えた名脇役と評されていました。
その父の姿を日常で見ていた息子が同じ内野を選んだ流れは、とても自然に感じられますよね。
さらに孫の黒江哲平さんも内野手で、しかも小学校時代から遊撃を志望していたと語っています。
三代にわたって内野にこだわり続けた一家、と言ってしまってもよさそうです。
透修さんは身長167cmという決して恵まれない体格で、遊撃手として11年間も第一線に立ち続けました。
体格の不利を守備範囲と判断力で補う姿勢が、黒江家の野球観の土台になっているのでしょう。
息子が内野手、孫が二塁手と遊撃手というのも、同じ発想の延長線上にある選択だと感じます。
国学院久我山の内野手としての歩み
では、黒江章哲さんが過ごした国学院久我山高校での日々を追っていきます。
ここでは章哲さんが立った舞台の価値を、学校の歴史から丁寧に見ていきますね。
東京の進学校で育った野球部
国学院久我山高校は東京都杉並区にある私立高校で、進学実績と部活動の両立で知られています。
野球部は東京の激しい予選を勝ち抜く実力を持ちながら、長く甲子園とは縁がありませんでした。
その状況を打ち破ったのが1979年春の選抜高校野球大会への出場です。
黒江章哲さんは、この学校史上初となる甲子園出場メンバーの一人でした。
学校にとって初めての大舞台に立つという経験は、何度も出場している強豪校とは重みが違います。
先輩たちが届かなかった場所に自分たちの代で到達するのは、選手として格別の意味を持つはずです。
東京の学校が選抜大会の切符を得るには、秋の都大会で上位に進んだうえで関東地区の評価を得る必要があります。
つまり章哲さんたちの世代は、都内の強豪を相手に確かな実績を積み上げていたということになります。
国学院久我山は東京都の私学の中でも、文武両道を掲げる学校として長く知られてきました。
野球部は都内の強豪校と互角に渡り合う実力を備え、毎年のように上位まで進んでいました。
章哲さんが在籍した1970年代後半は、まさにその土台が整ってきた時期にあたります。
1979年春に初めて届いた切符
1979年春という年を、少し当時の空気と一緒に振り返ってみましょう。
父の透修さんが現役を引退したのは1974年で、章哲さんの甲子園出場はその5年後にあたります。
透修さんはこの時期、巨人でコーチや2軍監督を歴任しながら指導者としての道を歩んでいました。
1978年に優勝を逃してコーチを解任された直後の時期と、息子の甲子園出場はほぼ重なっています。
父が指導者として苦しい局面にあったまさにその時期に、息子が甲子園の土を踏んだわけです。
この巡り合わせは、黒江家にとって忘れられない春になったのではないでしょうか。
選抜大会は春休み期間に行われるため、家族が観戦に向かいやすい大会でもあります。
プロ野球はまだオープン戦の時期で、指導者だった父にも息子の試合を気にかける余裕はあったはずです。
透修さんが巨人のコーチを解任されたのは1978年で、章哲さんの甲子園出場はその翌春にあたります。
父が新しい居場所を探していた時期に、息子が全国の舞台で戦っていたことになります。
家族としてそれぞれの勝負に向き合っていた、忘れられない1年だったのではないでしょうか。
3番を任された打者としての評価
章哲さんの立ち位置を知るうえで、打順は非常に分かりやすい手がかりになります。
名鑑によると、章哲さんは福井商との1回戦で3番を打っていました。
3番という打順は、チームで最も信頼される打者に託される場所です。
出塁率と長打力の両方を期待され、得点機を作る役目と仕留める役目の両方を担います。
初出場の緊張感が漂う甲子園で3番に座ったという事実は、章哲さんがチームの中心打者だったことを裏づけています。
守備では内野手として記録されており、攻守両面で欠かせない存在だったと考えられます。
高校野球では中心打者が守備の要を兼ねるケースが多く、章哲さんもそのタイプだった可能性が高いです。
父が遊撃手だった影響を考えれば、内野の中でも二遊間を守っていた姿が想像できますよね。
名鑑では打順と守備位置だけが記され、打率や本塁打といった高校時代の数字は残されていません。
それでも3番という記載があるだけで、チーム内の序列はかなり正確に読み取れます。
監督が初めての甲子園で誰に得点源を託したのか、その答えが打順に表れているわけです。
父の背中が進路に与えた影響
ここでは、章哲さんが野球を選んだ背景について整理してみます。
父の透修さんは1972年から1974年まで、巨人とセ・リーグの選手会長を兼務していました。
フロントに対して後輩のための待遇改善を要求するなど、チームのために直言を続けた人物です。
そうした父の姿勢を家庭の中で見ていた息子が、野球という道を選んだのは自然な流れでしょう。
透修さんは引退後も巨人、中日、西武、ダイエーでコーチや2軍監督を務め続けました。
父親が球界の現場に居続けたことで、息子は常に本物の野球に触れられる環境にあったわけです。
孫の黒江哲平さんが「おじいちゃんが1番の憧れの人」と語っていることからも、一家の野球への情熱が伝わってきます。
この空気の中で育った章哲さんが甲子園まで到達したのは、決して偶然ではないはずですよ。
透修さんは指導者として数々のチームを育て上げ、究極のナンバー2と評された人物でもあります。
その指導力が最初に向けられた相手が自分の息子だった可能性も、十分に考えられますよね。
家庭の中に本物の技術があるという環境は、野球を続ける子供にとって大きな財産です。
1979年春・初出場の福井商戦の全内容
ここでは、黒江章哲さんが甲子園で残した記録を一つずつ掘り下げていきます。
資料に残された数字は多くありませんが、そこから読み取れることは意外に豊富です。
福井商という1回戦の相手
下記の表は1979年春の甲子園で章哲さんが残した記録をまとめたものです。
| 項目 | 記録内容 |
|---|---|
| 大会 | 1979年春の選抜高校野球大会 |
| 学校 | 国学院久我山(東京) |
| 対戦相手 | 福井商 |
| 登場した試合 | 1回戦 |
| 打順 | 3番 |
| 守備位置 | 内野手 |
| 安打数 | 0本(ノーヒット) |
| 四球 | 2個 |
対戦相手となった福井商は、北信越を代表する実力校として知られていました。
初出場の国学院久我山にとって、経験値で上回る相手との1回戦は厳しい入り口だったはずです。
国学院久我山はこの試合で敗れ、学校初の甲子園は1回戦での退場という結果に終わっています。
試合の細かなスコアや経過までは資料に残されていないため、ここでは記録として確認できる部分に絞ってお伝えします。
それでも3番打者として最後まで打席に立ち続けた事実は、はっきりと記録に刻まれています。
福井商は北陸を代表する公立の強豪として、春夏を通じて何度も甲子園に出場してきた学校です。
初出場校が経験豊富な相手と初戦でぶつかるのは、組み合わせ抽選の厳しさでもあります。
それでも3番打者として2度出塁した事実は、章哲さんが相手投手に屈しなかった証拠と言えます。
2四球という記録の読み解き方
結論から言うと、2四球という数字は決して消極的な結果ではありません。
甲子園の1回戦で3番打者が2つの四球を選んだという事実には、いくつもの意味が含まれています。
まず相手投手が章哲さんを警戒し、安易にストライクゾーンで勝負してこなかった可能性があります。
中心打者を歩かせてでも後続で勝負するという判断は、強打者に対する最大の敬意でもあるのです。
さらに四球を2つ選ぶには、ボール球に手を出さない選球眼と我慢強さが欠かせません。
初めての甲子園という極度の緊張の中でボール球を見極めた点は、十分に評価できる内容です。
高校野球では大舞台の空気に飲まれて早打ちになる選手が少なくありません。
そう考えると、章哲さんは自分のスイングを最後まで崩さなかった打者だったと言えそうですよね。
高校野球では、1試合で2つの四球を選ぶ打者はそれほど多くありません。
ストライクゾーンが広く取られがちな大会で、ボールを見極めるには相当な集中力が必要です。
甲子園という舞台でも冷静さを保てる打者だったと、記録から読み取ることができます。
ノーヒットに終わった打席
一方で、記録として残ったのはノーヒットという結果でした。
名鑑には「福井商戦で3番を打ち、2四球を選ぶもノーヒット」と簡潔に記されています。
学校初の甲子園で中心打者が安打を残せなかったという事実は、本人にとって悔しい記憶でしょう。
ただし四球を含めれば出塁は果たしており、打点や得点につながる場面を作っていた可能性は残ります。
高校野球の名鑑は限られた字数で選手を紹介するため、安打数以外の貢献までは記載されにくい性質があります。
実際には走塁や守備で試合を支えていた場面もあったと考えるのが自然です。
数字の上ではノーヒットでも、3番という責任ある場所を任され続けた点に章哲さんの価値があります。
この一打席ごとの重みは、記録の数字だけでは測りきれないものですよね。
名鑑の備考欄は1人あたり数十文字しか与えられていない、かなり厳しい制約の中で書かれています。
その限られた字数で2四球という内容まで記載された点に、章哲さんへの評価が表れています。
ノーヒットと書いて終わらせず出塁した事実を併記した、編集側の配慮が感じられますよね。
初出場の重みと敗戦の意味
最後に、この1試合が持つ意味を整理しておきます。
国学院久我山にとって1979年春は、学校の野球史に最初の1ページを刻んだ大会でした。
その後この学校は2011年春まで合計5回甲子園に出場しています。
しかし時事ドットコムの資料では、その5回を通じて甲子園での勝ち星は記録されていないと説明されていました。
九州学院にサヨナラ負けした2011年春を含め、1点差での敗戦が3度あったという惜しい歴史も残されています。
つまり章哲さんが経験した1回戦敗退は、その後の世代も味わい続けた壁だったわけです。
学校の初陣を3番打者として戦い抜いた経験は、後輩たちへ確かにつながっていったはずですよ。
この一戦があったからこそ、国学院久我山は甲子園を目指せる学校になったのだと思います。
学校にとっての初陣は、勝敗以上に経験そのものが財産として残ります。
国学院久我山はこの後も東京の有力校として戦い続け、プロ野球選手を次々と送り出しました。
その系譜の出発点に章哲さんの名前が刻まれている事実は、何より価値のあることだと思います。
時空甲子園の名鑑に残る黒江章哲
では、黒江章哲さんの情報が確認できる唯一の資料について詳しく見ていきます。
ここでは情報源そのものを検証することで、あなたが安心して受け取れる形に整理しますね。
時空甲子園とはどんな企画か
章哲さんの名前が記録されているのは、時事ドットコムが公開している「時空甲子園」という特集です。
この企画は全国の高校を取り上げ、甲子園に出場した歴代の選手を一覧にまとめたものです。
早稲田実業や日大三、帝京、関東一、創価といった東京の名門校と並んで国学院久我山も収録されています。
各校のページには学校の甲子園成績の総括と、OB選手の名鑑が掲載される構成になっています。
この名鑑の国学院久我山の項目に、黒江章哲さんの名前が確かに記載されていました。
報道機関が運営する企画であるため、情報の信頼性はかなり高いと考えられます。
個人ブログやまとめサイトの転載情報ではなく、一次資料に近い位置づけの記録というわけです。
息子の存在を調べるうえで、これほど心強い裏づけはありませんよね。
時空甲子園では学校ごとに出場回数や勝敗の総括が整理され、歴代選手が一覧で並びます。
全国の有力校を横断して比較できる構成になっており、資料性の高い企画として知られています。
個人の記憶ではなく記録に基づいて編集されているため、情報の裏づけとして使いやすいのです。
名鑑に書かれた6項目の中身
この名鑑は選手ごとに決められた項目で情報を整理する形式になっています。
具体的にはポジション、甲子園出場年、到達ラウンド、進路、通算成績、備考という構成です。
黒江章哲さんの欄には、内野手という守備位置と1979年春という出場年が記載されていました。
到達ラウンドは1回戦と記され、進路と通算成績の欄は空欄のままになっています。
進路と成績が空欄であることは、プロ野球に進んだ記録がないことを事実上示しています。
同じ名鑑で井口資仁さんには「青学大→ダ→米国→ロ」という進路が細かく記されていました。
つまりプロや大学に進んだ選手には必ず進路が書き込まれる形式だということです。
その形式を踏まえると、章哲さんの欄の空白は意味を持つ空白だと受け取れます。
同じ名鑑には矢野謙次さんの国学院大から巨人と日本ハムへという進路も細かく記載されていました。
森笠繁さんには関東学院大から広島と横浜へという経歴が並び、通算成績まで数字で示されています。
こうした統一された形式の中で章哲さんの欄だけが簡素である点に、情報の限界が表れています。
逆に言えば、記載されている内容はすべて確認が取れた事実だと受け取ってよいわけです。
透修の息子と明記された意味
ここが今回の記事で最も重要な部分なので、丁寧に確認していきます。
名鑑の備考欄には「元巨人・黒江透修氏の息子」という一文が記載されていました。
さらに学校の総括文にも「黒江は、巨人のV9戦士・透修氏の息子」と重ねて書かれています。
同じ資料の中で2度も父子関係が明記されている点は、情報の確度を大きく高めています。
一度の誤記であれば編集側のミスという可能性も残りますが、2箇所に書かれていればその心配はほぼありません。
当時の高校野球では、プロ野球選手の子どもが出場すると必ず注目される空気がありました。
V9戦士の息子という肩書きは、大会前から話題になっていたと考えられます。
この記載があるからこそ、黒江章哲さんが黒江透修さんの息子であると自信を持ってお伝えできるわけです。
報道機関が運営する企画で、2度にわたって続柄が記される例はそう多くありません。
それほどV9戦士の息子という事実が、当時の高校野球では大きな話題だったということです。
現在はプロ野球選手の子供が活躍する例も増えましたが、1979年当時はまだ珍しい存在でした。
星印が付いた選手という扱い
名鑑の表記には、もうひとつ注目したい特徴があります。
黒江章哲さんの名前には「☆黒江 章哲」という形で星印が添えられていました。
同じように星印が付いていたのは金森宏徳さんなど一部の選手だけです。
この印は資料の読み方によって解釈が分かれますが、何らかの区分を示す記号と考えられます。
プロ入りしていない選手や、特記事項のある選手に付けられている可能性が高いと読み取れます。
いずれにしても、章哲さんが他の選手と区別して紹介されていた事実は変わりません。
V9戦士の息子という特別な存在として、編集側も扱いを分けていたのではないでしょうか。
こうした小さな記号ひとつにも、当時の注目度が表れていると感じます。
星印が確認できるのは黒江章哲さんのほか、金森宏徳さんと鳩貝順一さんの名前です。
金森宏徳さんは慶應義塾大学からJFE東日本へ進み、東京六大学で10本塁打を放った左打者でした。
鳩貝順一さんは1981年夏の甲子園で、今治西戦に本塁打を放った内野手です。
この3人に共通するのは、プロ野球での通算成績が名鑑に記載されていない点になります。
印の意味は資料に明示されていないため断定はできませんが、興味深い共通点ではありますよね。
同窓生に井口資仁・矢野謙次がいた
黒江章哲さんが所属した国学院久我山は、実は非常に豪華なOBを輩出している学校です。
ここでは章哲さんの先輩や後輩にあたる選手たちを整理し、学校の実力を具体的に見ていきます。
国学院久我山の主なOB一覧
以下の表で国学院久我山が送り出した主な選手を整理してみます。
| 選手名 | ポジション | 進路 | 主な実績 |
|---|---|---|---|
| 黒江章哲 | 内野手 | 非公表 | 1979年春の甲子園に3番で出場 |
| 井口資仁 | 内野手 | 青学大→ダイエー→米国→ロッテ | 日米通算2343試合2224安打293本塁打 |
| 河内貴哉 | 投手 | 広島 | 166試合16勝28敗、1999年ドラフト1位 |
| 秋元宏作 | 捕手 | 日大→西武→大洋・横浜 | 573試合230安打16本塁打 |
| 森笠繁 | 外野手 | 関東学院大→広島→横浜 | 840試合412安打21本塁打 |
| 矢野謙次 | 外野手 | 国学院大→巨人→日本ハム | 696試合361安打29本塁打 |
| 金森宏徳 | 外野手 | 慶大→JFE東日本 | 東京六大学で10本塁打、ベストナイン |
| 佐伯秀喜 | 内野手 | 西武 | プロ初打席で本塁打、1989年ドラフト5位 |
こうして並べると、国学院久我山がいかに多くのプロ選手を育ててきたかが一目で分かりますよね。
章哲さんが在籍していた1970年代後半はまだ甲子園初出場の時期ですが、その後の土台を作った世代でもあります。
学校が強豪として認知される最初のきっかけが、章哲さんたちの1979年春だったのです。
川北和典さんのようにプリンスホテルを経て、大洋と横浜に在籍した選手もいます。
投手から外野手まで幅広くプロへ送り出している点も、この学校の育成力を物語っています。
メジャーに届いた井口資仁
OBの中でもっとも大きな成功を収めたのが井口資仁さんです。
井口さんは1991年夏の甲子園に1回戦で出場し、その後青山学院大学へ進学しました。
1996年のドラフト1位でダイエーに入団し、日本を代表する二塁手へと成長しています。
さらにアメリカへ渡ってメジャーリーグでプレーし、帰国後はロッテでも活躍を続けました。
日米通算で2343試合に出場し2224安打293本塁打という圧倒的な数字を残しています。
内野手というポジションも、章哲さんと共通している点が興味深いところです。
学校の歴史をたどれば、章哲さんは井口さんの12年ほど先輩にあたる計算になります。
初出場の重圧を背負った先輩たちの背中が、後の世代に受け継がれていったのだと思います。
井口さんが甲子園に出場した1991年夏も、国学院久我山は1回戦で姿を消しています。
つまり甲子園での結果だけでは、選手のその後の将来性までは測りきれないということです。
章哲さんの1回戦敗退も、その意味では決して評価を下げる材料にはなりません。
井口さんは引退後にロッテの監督を務めるなど、指導者としても球界に関わり続けています。
投打の柱となったOBたち
国学院久我山のOBは、投手も打者もバランスよくプロへ進んでいます。
投手では河内貴哉さんが1999年のドラフト1位で広島に入団しました。
この指名ではドラフトで3球団が競合したと記録されており、当時の評価の高さがうかがえます。
河内さんは2004年に8勝を挙げてオールスターにも出場し、2013年には21試合連続無失点という記録も残しました。
捕手の秋元宏作さんは1985年春の甲子園でチームの4番を務めた強打者です。
秋元さんは横浜で谷繁元信さんと正捕手の座を争ったこともある実力者でした。
外野では矢野謙次さんが巨人と日本ハムで696試合に出場し、361安打を積み上げています。
森笠繁さんも広島と横浜で840試合に出場しており、俊足巧打の1番打者として評価されていました。
佐伯秀喜さんは1989年のドラフト5位で西武に入団し、プロ初打席で本塁打を放ちました。
ただしその後は精彩を欠き、通算7試合2安打1本塁打という記録で現役を終えています。
華やかな入り口と厳しい現実の両方が、この学校のOB名鑑には刻まれているのです。
5回の出場で勝ち星がない理由
これだけのOBを輩出しながら、甲子園での結果は意外に厳しいものでした。
時事ドットコムの資料によると、1979年春から2011年春までの5回の出場で勝ち星はありません。
しかもその内容は、力の差で大敗したわけではないという点が重要です。
1点差での敗戦が3度もあり、あと一歩というところで勝利を逃し続けてきました。
2011年春には九州学院にサヨナラ負けを味わい、試合終盤まで接戦を演じています。
この年の試合では8回に同点二塁打が出て、一度は試合を振り出しに戻していました。
つまり実力はありながら、最後の一押しに恵まれなかった歴史が続いていたわけです。
章哲さんが経験した初出場の悔しさは、後輩たちにも長く引き継がれていったと言えますよね。
1981年夏には1回戦が不戦勝となり、2回戦で今治西と対戦しています。
この試合では投手が3失点完投しながら、のちに南海へ進む藤本さんとの投げ合いに及びませんでした。
2011年春の九州学院戦では、中央大学へ進んだ主将が2番打者として同点二塁打を放っています。
さらに国学院大学へ進んだ選手が2点三塁打を記録し、チームは終盤まで食い下がりました。
甲子園出場後の進路は非公表のまま
ここまで高校時代を追ってきましたが、その後の黒江章哲さんについても整理しておきます。
曖昧な情報で埋めるのではなく、分かっていないことを分かっていないとお伝えする形で進めます。
プロ入りの記録は残っていない
結論から言うと、黒江章哲さんがプロ野球に進んだ記録は確認できません。
日本野球機構の選手データベースを調べても、黒江という姓で登録されているのは透修さんだけです。
つまり章哲さんは高校野球までで表舞台を離れたと考えるのが妥当です。
時空甲子園の名鑑でも進路と通算成績の欄は空欄のままになっていました。
大学や社会人のチームに進んだかどうかについても、公開資料には記載がありません。
父親が球界の名門である巨人の出身であっても、息子の進路が報じられるとは限りません。
当時はプロ野球選手の家族のプライバシーが今ほど話題にならない時代でもありました。
そのため情報が少ないこと自体は、特に不自然なことではないのです。
日本野球機構の個人年度別成績で黒江という名前を調べると、透修さんの記録だけが表示されます。
透修さんのページには1964年から1974年までの11年分の成績が細かく並んでいます。
もし息子がプロへ進んでいれば、同じ形式で名前と成績が残っていたはずです。
その記録が存在しないことが、プロ入りしていないという判断の最も確かな根拠になります。
噂と事実を整理した対比表
下記の表は黒江透修さんの息子に関する噂と、資料で確認できる事実を対比したものです。
| ネット上で見られる話 | 資料で確認できる内容 | 判定 |
|---|---|---|
| 息子がプロ野球選手になった | NPBの選手登録に黒江章哲の名前はない | 事実ではない |
| 息子は甲子園に出場している | 1979年春の選抜に3番内野手で出場 | 事実 |
| 孫の黒江哲平が息子である | 報知の記事では哲平は透修の孫と明記 | 誤り |
| 息子は国学院久我山の出身 | 時空甲子園の同校の名鑑に記載あり | 事実 |
| 息子の現在の職業が判明している | 職業に関する公開情報は存在しない | 未確認 |
表にしてみると、混同が起きやすいのは息子と孫の区別だと分かります。
黒江哲平さんはスポーツ報知の記事で明確に「孫」と書かれており、息子ではありません。
名前に「哲」の字が共通しているため、同一人物や親子関係を混同する人が出やすいのです。
検索するときは息子と孫を分けて調べることで、情報の整理がぐっと楽になりますよ。
混同を避ける要点は、1979年春に甲子園にいたのが息子で、2023年に大学で戦っていたのが孫という整理です。
年代で分けて覚えておけば、息子と孫の情報が入り混じることはまずありませんよ。
情報が少ない時代背景
ここでは、なぜ章哲さんの情報がこれほど少ないのかを考えてみます。
1979年という年は、インターネットが一般に普及する20年近く前にあたります。
当時の高校野球の記録は新聞や雑誌といった紙の媒体にしか残されていませんでした。
その紙媒体の情報がすべてデジタル化されているわけではないため、検索で出てこないのは当然なのです。
時空甲子園のような後年の企画によって、ようやく当時の選手名が検索可能になったという経緯があります。
逆に言えば、この企画がなければ章哲さんの名前は現在ほとんど確認できなかったはずです。
孫の黒江哲平さんが2023年にスポーツ報知で取り上げられているのとは、情報環境がまったく違いますよね。
時代による記録の残り方の差は、こうした調査では必ず意識しておきたいポイントです。
1979年の高校野球の記録は、大会本部の公式記録と新聞の縮刷版に頼るしかありません。
個人の打撃成績まで細かく追えるようになったのは、2000年代以降のデータ整備の成果です。
情報が出てこないことと活躍がなかったことは、まったく別の話だと押さえておきたいですね。
今後新しい情報が出る可能性
最後に、今後の見通しについて触れておきます。
黒江透修さんは巨人の球団創設90周年記念インタビューにも登場した人物です。
こうした節目の企画では、家族についての話題が語られることが少なくありません。
実際に2024年のスポーツ報知の連載では、娘についての具体的なエピソードが本人の口から語られました。
同じように今後のインタビューで息子の話が出てくる可能性は十分にあります。
孫の黒江哲平さんがプロの道に近づけば、一家三代の物語として息子にも光が当たるはずです。
気になる人も多いはずなので、新しい情報が出てきた際には改めて整理していきますね。
公式の発表や報道があれば、その都度確かな形でお伝えできるようにしておきます。
球団の節目の企画は今後も続くはずで、その中で家族の話題が出る機会は十分にあります。
現在も健在な透修さん本人の言葉で語られる日が来れば、それが最も確かな情報になります。
黒江透修の息子以外の家族|娘と孫・黒江哲平
- 孫・黒江哲平は東海大相模から大学へ
- 巨人3軍戦で見せた祖父譲りの守備
- 娘を叱った経験が指導に生きた話
- 黒江透修の現在と一家の野球の系譜
孫・黒江哲平は東海大相模から大学へ
ここからは黒江透修さんの息子以外の家族について、確認できている情報を整理していきます。
まず取り上げたいのが、スポーツ報知で大きく紹介された孫の黒江哲平さんです。
黒江哲平のプロフィール表
下記の表は黒江哲平さんについて確認できている情報をまとめたものです。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 黒江哲平 |
| 続柄 | 黒江透修の孫 |
| 生年月日 | 非公表 |
| 出身高校 | 東海大相模高校(神奈川) |
| 大学 | 日本ウェルネススポーツ大学 |
| ポジション | 内野手(二塁手・遊撃手) |
| 所属リーグ | 首都大学野球2部 |
| 目標 | プロ野球選手になること |
哲平さんは2023年3月11日に行われたプロ・アマ交流戦で、スポーツ報知に取り上げられました。
この試合に大学2年生として出場し、見出しでも「黒江透修氏の孫」として紹介されています。
記事では祖父の名前と通算の立ち位置がきちんと添えられており、球界での知名度の高さが伝わる扱いでした。
祖父が元巨人の遊撃手というだけで、大学の交流戦が全国ニュースになるほどの注目度だったわけです。
生年月日は公表されていませんが、2023年3月に大学2年生だったことから学年は特定できます。
二塁手として出場しながら、本来の希望は遊撃手だったと本人が語っている点も見逃せません。
首都大学野球連盟は東京都や神奈川県の大学が加盟するリーグで、2部にも実力校が揃っています。
東海大相模で過ごした3年間
哲平さんが進学したのは、神奈川県の東海大相模高校です。
この学校は甲子園で何度も優勝経験を持つ全国屈指の名門校として知られています。
プロ野球選手を数多く輩出しており、入部するだけでも相当な競争を勝ち抜く必要があります。
ただし哲平さんの高校時代は、順調だったとは言えませんでした。
3年春の神奈川県大会でベンチ入りを果たしたものの、不完全燃焼に終わったと本人が振り返っています。
全国レベルの選手が集まる環境で、出場機会を得るのは簡単ではなかったのでしょう。
それでも名門で3年間を戦い抜いた経験は、大学での飛躍につながっていきました。
祖父の章哲さんが東京の学校で甲子園を目指したのに対し、哲平さんは神奈川の名門を選んでいます。
世代ごとに違う道を選びながら野球を続けている点が、この一家の面白さですよね。
東海大相模はプロ野球に多くの選手を送り込んでおり、部員数も非常に多い学校です。
その中で3年春にベンチ入りを勝ち取った点は、決して評価を下げる材料ではありません。
名門で揉まれた3年間が大学で主力に成長する土台になったことは、間違いなさそうです。
日本ウェルネス大での挑戦
高校卒業後、哲平さんは日本ウェルネススポーツ大学へ進みました。
この大学の野球部は首都大学野球連盟の2部に所属しています。
2部という環境は1部に比べて注目度が下がるものの、出場機会を多く得られる利点があります。
哲平さんはここで主力として起用され、プロとの交流戦でも先発メンバーに名を連ねました。
高校で出場機会に恵まれなかった選手が、大学で主力に成長した典型的な例と言えます。
本人は取材に対して「1番の目標はプロ」と明言していました。
さらに「もっと高いレベルでやれるように、頑張っていきたいと思います」と力強く言い切っています。
2部リーグからプロへ進んだ選手は決して珍しくなく、その道を本気で狙っていたことが伝わってきます。
日本ウェルネススポーツ大学は、スポーツ分野に特化した大学として知られています。
野球部も強化に力を入れており、プロ・アマ交流戦で巨人と対戦できる位置まで来ていました。
哲平さんはこの環境で、2番打者と二塁手という重要な役割を任されています。
打順でも守備でもチームの中心に置かれていた事実が、実力を何より雄弁に示していますよね。
祖父を1番の憧れと語る理由
ここ、気になりますよね。
哲平さんは祖父の黒江透修さんについて、はっきりと言葉を残しています。
「おじいちゃんが1番の憧れの人なので、小学校時代からショートをやりたいと言っていて」というコメントです。
さらに「今はセカンドですけど、内野にこだわりはあります」と続けていました。
小学生のころから祖父と同じ遊撃手を志していたという事実は、一家の絆の深さを物語っています。
祖父が現役を引退したのは1974年で、哲平さんが生まれる前の出来事です。
つまりプレーを直接見たわけではなく、家族の語りや映像を通じて憧れを育てたことになります。
それでも遊撃手というポジションにこだわり続けたのは、祖父への純粋な尊敬があったからでしょう。
三代にわたって内野を守り続ける一家の物語に、少し胸が熱くなりますよね。
透修さんは遊撃手として1135試合に出場し、1968年にはベストナインにも輝いています。
孫にとってその記録は、家族であり同時に越えるべき目標でもあったのでしょう。
憧れの人を身近に持てることは、野球を続けるうえで何よりの支えになりますよね。
巨人3軍戦で見せた祖父譲りの守備
では、黒江哲平さんが全国の注目を集めた一戦を詳しく見ていきましょう。
この試合の内容は、祖父から受け継いだものがはっきり表れた貴重な記録です。
2023年3月11日の試合概要
以下の表でこの日の試合の流れを整理してみます。
| 場面 | 状況 | 黒江哲平の動き |
|---|---|---|
| 試合前 | プロ・アマ交流戦の先発発表 | 2番・二塁でスタメン出場 |
| 3回 | 1死一、二塁の得点機 | 右前へ運ぶタイムリーを放つ |
| 4回 | 先頭打者の打球が右翼へ | 背面の体勢で好捕を見せる |
| 試合終了 | 巨人3軍が7対3で勝利 | 巨人が今季の対外試合初勝利 |
この一戦は2023年3月11日、東京都稲城市のジャイアンツ球場で行われました。
対戦したのは巨人の3軍と日本ウェルネススポーツ大学です。
結果は7対3で巨人が勝利し、この年の対外試合初勝利を挙げる形になりました。
哲平さんは敗れた側のチームにいながら、攻守両面で存在感を示して記事の主役になりました。
プロ相手の試合で2番打者に抜擢された点からも、チームの信頼を得ていたことが分かります。
プロ・アマ交流戦は、プロ球団が大学や社会人のチームと実戦形式で戦う貴重な機会です。
大学側にとってはプロの投手と対戦できる場であり、選手の評価が直接高まる舞台でもあります。
その試合で先発出場を任された哲平さんは、絶好のアピールの機会を得たことになります。
背面の体勢で見せた好捕
この試合で最も話題になったのが、4回のファインプレーです。
先頭打者として打席に立った巨人の大津さんが、右翼のファウルゾーンへ打球を飛ばしました。
二塁手だった哲平さんは、その打球を最短距離で追いかけています。
そして背面の体勢という難しい姿勢のまま、見事に捕球してみせました。
この守備は祖父譲りの軽快な動きとして、スポーツ報知の記事で大きく紹介されています。
本人は「上空は風があって流されたんですけど、フェンスを恐れずに打球を追ったことがあのプレーにつながったかなと思います」と振り返りました。
風に流される打球を追いながらフェンスへの恐怖を捨てる判断は、普段の練習の積み重ねがあってこそです。
祖父の透修さんも緻密な守備で鳴らした選手であり、その血筋を感じさせる場面でした。
右翼のファウルゾーンまで二塁手が追いかける守備は、連係と判断力が問われる難しい場面です。
打球の落下点を読み切り、フェンスまでの距離を把握していなければ成立しないプレーでした。
結果として記事の見出しにも華麗な守備という言葉が使われ、全国へ名前が届いています。
右前へ運んだタイムリー
守備だけでなく、打撃でも結果を残しています。
3回の第2打席、1死一塁二塁という絶好の得点機が訪れました。
哲平さんはここで右前へ運ぶタイムリーヒットを放ち、チームに得点をもたらしました。
本人は「手応えのあった内容でした」と打席の感触を素直に語っています。
さらに「おじいちゃんが入っていた球団のグラウンドでできたのは感謝しかないですね」とも話していました。
祖父が所属した球団の本拠地施設でプレーできた喜びが、言葉の端々からあふれています。
右前に運ぶという打ち方は、強引に引っ張らず逆方向へ流す技術が必要な打撃です。
得点圏に走者を置いた場面で確実に外野へ運んだ点に、勝負強さがにじんでいますよね。
この日の哲平さんは2番打者として起用され、得点機を広げる役目を担っていました。
1死一塁二塁という場面は、打者にとって最も結果を求められる状況のひとつです。
そこで右方向へ打ち返した判断は、走者を進めることを優先した堅実な攻め方です。
祖父の透修さんも勝負強い打撃が光った選手と評されており、その共通点が見えてきます。
ジャイアンツ球場に立った意味
最後に、この試合が黒江家にとってどんな意味を持つのか整理します。
ジャイアンツ球場は読売ジャイアンツの2軍と3軍が拠点にしている施設です。
祖父の透修さんは1964年から1974年まで巨人でプレーし、引退後もコーチとして球団に残りました。
その巨人の施設で孫が公式戦に近い真剣勝負を経験したわけです。
しかも相手は祖父が在籍した球団そのもので、これ以上の舞台設定はなかなかありません。
一家にとって2023年3月11日は、三代にわたる野球の縁がつながった特別な日になりました。
祖父の章哲さんが甲子園に立った1979年春から44年の時を経ての出来事です。
こうして世代を越えて受け継がれていく物語には、やはり心を動かされますよね。
ジャイアンツ球場は東京都稲城市にあり、巨人の2軍と3軍の選手が日々鍛えている場所です。
祖父の透修さんは引退後も巨人でコーチや2軍監督を務め、若手の育成に関わってきました。
その系譜を考えると、孫が同じ施設でプレーした偶然には不思議な縁を感じます。
本人が感謝しかないと語ったのも、こうした背景を理解していたからでしょう。
娘を叱った経験が指導に生きた話
黒江透修さんには息子だけでなく、娘もいることが本人の口から語られています。
ここでは家族についての貴重な証言と、それが指導者人生にどう生きたのかを整理します。
娘が大学生だったころの出来事
娘の存在が明らかになったのは、2024年のスポーツ報知の連載インタビューです。
巨人の球団創設90周年記念企画「G九十年かく語りき」の第4回に透修さんが登場しました。
そこで私生活について問われ、娘についてのエピソードを自ら明かしています。
「私生活では娘が大学生のころ、帰りが遅かったり、生活態度について叱ったことがあった」という内容です。
球界の厳しい指導者として知られた人物が、家庭では普通の父親として娘を心配していたことが分かります。
娘の名前や生年月日については公表されておらず、現在の職業なども明らかになっていません。
家族のプライバシーを守る姿勢は、この一家に一貫している特徴と言えそうです。
息子の章哲さんの情報が少ないのも、同じ方針が家族全体に及んでいるためかもしれません。
この連載は、取材と構成を湯浅佳典さんと太田倫さんが担当した企画です。
テーマは喜怒哀楽とされ、怒りの部分で家族の話が自然に語られる構成になっていました。
本人は「心底怒ったことや腹が立ったことってあまり思い出せないものでね」とも前置きしています。
頭ごなしじゃいかんという学び
ここが透修さんらしい部分で、叱った話をそのままで終わらせていません。
本人は娘を叱った経験について「それも、自分にとってはひとつの人生勉強だった」と語っています。
そしてその学びを、そのまま指導の現場へ持ち込んでいるのです。
「コーチとして、娘と同じような年齢の選手と向き合った時に、今の若い子はこんな考え方をするんだ、頭ごなしじゃいかん、とね」という言葉を残しました。
家庭での衝突から若者との向き合い方を学ぶという姿勢は、なかなかできることではありません。
透修さんは指導者として憎まれ役もいとわず、厳しい言い方になることもあったと認めています。
それでも「腹が立って怒っているわけじゃない」「勝つために、妥協するわけにはいかない」と理由を明確にしていました。
叱る理由を自分の中で整理できていたからこそ、数々のチームで信頼される指導者になれたのでしょう。
西武時代には、森祗晶監督から選手との相性を指摘されたという証言も残されています。
厳しさと向き合い方のバランスを模索し続けた指導者だったことが、よく分かりますよね。
コーチ補佐から始まった第2の人生
以下の表で透修さんの野球人生の節目を時系列で整理してみます。
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 1964年 | 立正佼成会を経て巨人に入団 |
| 1968年 | ベストナインを受賞 |
| 1972年〜1974年 | 巨人とセ・リーグの選手会長を兼務 |
| 1974年 | 現役を引退しコーチ補佐に就任 |
| 1978年 | 優勝を逃してコーチを解任される |
| 1993年 | 西武で一軍の打撃コーチを務める |
透修さんは1974年に長嶋茂雄さんとともに現役を引退しました。
当時は長嶋さんの監督就任と同時に自分もコーチになるものだと考えていたそうです。
しかし球団からは声がかからず、結果的にコーチ補佐という立場に置かれました。
本人は「ベンチにも入れない立場。なんで?という思いはあった」と当時の心境を明かしています。
1978年にコーチを解任された際も「他で頑張ろう、堂々と巨人を出て行こうという気持ちが勝った」と振り返りました。
その後は中日、西武、ダイエーでコーチや2軍監督を歴任し、究極のナンバー2と呼ばれる存在になっています。
本人はこの時期を振り返り、どこか達観していたところがあったなと語っています。
逆境を受け止めながら次の場所で力を発揮する姿勢が、長い指導者人生を支えたのでしょう。
選手会長として戦った日々
透修さんのもうひとつの顔が、選手会長としての活動です。
1972年から1974年まで、巨人とセ・リーグの選手会長を兼務していました。
この立場でフロントに対し、チームのためや後輩のための待遇改善を要求していたのです。
本人は「いろんなことを直言してきたせいもあるのかもしれない」と、引退後の扱いとの関係を示唆しています。
「細かいことはONではなく、僕がやらんといかん、と考えていたからね」という言葉も残していました。
ONとは長嶋茂雄さんと王貞治さんを指す呼び方で、チームの看板を担う二人のことです。
その二人に雑事を背負わせないよう、自分が引き受けるという考え方だったわけです。
家族に対しても球団に対しても、黒江透修さんの一貫した責任感が伝わってきますよね。
選手会長はチームの代表として球団と交渉する立場であり、相当な覚悟が必要な役職です。
透修さんはそれを、巨人とセ・リーグの両方で同時に引き受けていました。
後輩のために声を上げ続けた結果が、自分の立場を難しくした可能性すらあるわけです。
ONという看板を守るために裏方へ回る判断ができる選手は、そう多くはいないはずです。
黒江透修の現在と一家の野球の系譜
最後に、黒江透修さん本人の歩みと一家の系譜をまとめて整理していきます。
ここまで見てきた息子や孫の話を、父親の人生と重ねて眺めてみましょう。
現在の黒江透修について分かること
黒江透修さんは1938年12月12日に鹿児島県の姶良町で生まれました。
現在の地名では姶良市にあたる地域で、実家は精米所を営んでいたそうです。
2026年10月12日現在の年齢は87歳になります。
2024年にはスポーツ本紙の長期連載インタビューに登場し、当時の記憶を鮮明に語っていました。
2025年には長嶋茂雄さんを偲ぶコメントもメディアに寄せており、現在も健在であることが確認できます。
そのコメントでは長嶋さんについて「派手なプレーが注目されがちですけど、ものすごく堅実で、基礎技術が高かった」と語っています。
さらに「そのうえで見せ方がうまくてね。大スターというのはこういうことかと」と続けていました。
三遊間を組んだ相棒だからこそ語れる視点が、現在も球界の貴重な証言として求められているわけです。
実家の精米所での手伝いは、後の人生を左右する大けがにつながった場所でもあります。
鹿児島高校から炭鉱チームを渡り歩いた経歴も、当時の野球選手らしい歩み方でした。
出身地の姶良市は鹿児島湾の北側に位置し、桜島を望む自然豊かな土地として知られています。
右手人さし指を切断した小学5年
透修さんの人生で最大の逆境は、プロの世界に入る前に訪れていました。
小学5年生のとき、実家の精米所で稲を機械に入れる手伝いをしていた際の事故です。
本来は箸を使うべき作業をつい手で行ってしまい、指をローラーに突っ込んでしまいました。
その結果、右手人さし指の第1関節がちぎれて残ったのは1ミリほどだったといいます。
血まみれになりながら「お父さん、指がなくなった!」と叫んだと本人が語っていました。
もう野球ができないと思うほどの大けがを、努力だけで乗り越えたのが透修さんの原点です。
爪が少し伸びてきたことに希望を見つけ、床や机といった硬いものを叩き続けて皮膚を強くしました。
プロ入り後も3本指で投げたり押し出すように投げたりと、試行錯誤を重ねています。
ボールに血が付いているのを王貞治さんに見つけられたこともあったそうです。
ダイエーの監督になった王さんから「その指を若い選手に見せてやってよ」と頼まれたほどの逸話になりました。
本人は「ずっと付き合ってきたこの指は、僕の誇りですよ」と締めくくっています。
指の変形は投球に直接影響し、プロ入り後も思い通りの球を投げられない時期が続きました。
長嶋茂雄と同じ日に引退した事実
透修さんの現役最後の試合は、日本野球史に残る一日でした。
1974年10月14日、後楽園球場で行われた中日とのダブルヘッダーが長嶋茂雄さんの引退試合です。
その第2試合に、透修さんは6番ショートでスタメン出場していました。
第2打席でレフト前ヒットを放ち、最後の打席はセカンドゴロで打ち取られています。
本人は「僕はプロ野球で1000試合以上に出場したけど、あんな雰囲気の試合はなかった」と振り返りました。
通算成績は1135試合に出場して923安打、57本塁打、371打点、打率.265という数字です。
「長嶋さんのようなすごい選手と11年も一緒に野球ができたことに対する感謝の気持ちだけだった」とも語っています。
この引退から5年後に、息子の章哲さんが甲子園の舞台に立ったことになります。
この日のダブルヘッダー第1試合では、遊撃を河埜和正さんが守っていました。
透修さんは第1試合をベンチで過ごし、スタンドが突然騒がしくなる瞬間を体感しています。
長嶋さんがグラウンドに出て場内を一周し始めた場面で、球場の空気がすごく変わったと振り返りました。
黒江家に受け継がれた野球の系譜
下記の表は黒江家の家族構成と、確認できている情報をまとめたものです。
| 続柄 | 名前 | 判明している内容 |
|---|---|---|
| 本人 | 黒江透修 | 1938年12月12日生まれ、巨人のV9を支えた遊撃手 |
| 息子 | 黒江章哲 | 国学院久我山で1979年春の甲子園に3番出場 |
| 娘 | 非公表 | 大学生のころの生活態度を透修が叱った |
| 孫 | 黒江哲平 | 東海大相模から日本ウェルネススポーツ大へ |
こうして並べてみると、黒江家が三代にわたって野球とともに歩んできたことがよく分かります。
祖父の透修さんは遊撃手として巨人の黄金期を支えました。
息子の章哲さんは内野手として国学院久我山の初めての甲子園を経験しています。
そして孫の哲平さんは二塁手として、祖父が在籍した巨人の施設でプレーしました。
三代すべてが内野手という共通点は、偶然では説明しきれない深いつながりを感じさせます。
哲平さんが「内野にこだわりはあります」と語った言葉には、一家の誇りが込められているのでしょう。
息子と孫の情報は限られていますが、野球への向き合い方だけは確かに受け継がれているはずです。
黒江透修さんの息子について、少しイメージが湧きやすくなれば嬉しいです。
黒江透修の息子・黒江章哲と家族の総まとめ
- 黒江透修の息子は国学院久我山の内野手だった黒江章哲
- 章哲は1979年春の選抜で国学院久我山の初出場を経験
- 1979年春の福井商戦では3番で2四球を選ぶ渋い活躍
- 時事ドットコムの時空甲子園に透修の息子と明記されている
- 章哲の生年月日や卒業後の経歴は資料に残されていない
- 国学院久我山は1979年春から2011年春まで5回甲子園に出場
- 同窓生には井口資仁や矢野謙次ら多くのプロ選手がいる
- 孫の黒江哲平は東海大相模から日本ウェルネス大へ進んだ
- 哲平は2023年3月11日の巨人3軍戦に2番二塁で先発した
- 同戦では背面の体勢で好捕し祖父譲りの軽快さを見せた
- 哲平はおじいちゃんが1番の憧れと祖父への敬意を語った
- 透修には娘もおり大学生のころ生活態度を叱った経験がある
- 透修は1938年12月12日生まれで巨人V9を支えた遊撃手
- 小学5年で右手人さし指を切断しながら努力で克服している
- 長嶋茂雄の引退試合が透修自身の現役最後の試合となった
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