上地結衣の家族構成は4人|父親と母親・芳美と4学年上の姉

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上地結衣さんの家族について、両親や姉がどんな人たちなのかを知りたいと感じている方は多いです。

結論からお伝えすると、上地結衣さんは両親と4学年上の姉の4人家族で育ちました。

母親の名前は芳美さんといい、その勤務先が競技人生を支えるスポンサー第1号になっています。

車いすテニスを始めるきっかけを作ったのも、中学で軟式テニス部に入部した姉の存在でした。

この記事では、生涯ゴールデンスラムという偉業の裏側にあった家族の支えを公開情報だけで整理します。

読み終わるころには、上地家がどんな空気の家庭だったのかがはっきり見えてくるはずですよ。

記事のポイント

①:両親と姉の4人家族で育っている

②:母親・芳美の勤務先が初スポンサー

③:4学年上の姉がテニスの原点

④:父親の名前や職業は非公表のまま

上地結衣の家族構成|両親と姉の4人家族

  • 【結論】家族は両親と姉の4人構成
  • 母親・芳美の仕事とスポンサー第1号
  • 父親の職業は非公表|バスケ経験者
  • 4学年上の姉が車いすテニスの原点
  • 両親が作った挑戦できる家庭環境
  • 歩けなくなった小4と家族の決断

【結論】家族は両親と姉の4人構成

 

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まずは、いちばん知りたいところから整理しますね。

上地結衣さんの家族は、父親・母親・姉・本人の4人家族です。

ここでは家族の内訳と、上地結衣さん自身の基本プロフィールをまとめて確認していきます。

上地家は姉妹2人の4人家族

複数のインタビューで語られている家族構成は、両親と姉妹2人というシンプルな形です。

ウェッジの取材記事でも「両親と姉との4人家族」とはっきり紹介されていました。

上地結衣さんは1994年4月24日生まれで、阪神淡路大震災の前年に兵庫県明石市で誕生しています。

姉は4学年上にあたるため、震災当時はすでに小学生だったことになりますね。

下記の表は、公開されている情報をもとに上地家の家族構成を整理したものです。

続柄 名前 公開されている情報
父親 非公表 学生時代にバスケットボール経験あり
母親 芳美 ガス事業会社シィメスに勤務していた
長女 非公表 本人より4学年上で中学は軟式テニス部
次女 上地結衣 生涯ゴールデンスラム達成者

名前が判明しているのは母親の芳美さんだけで、父親と姉については一般の方のため伏せられています。

上地結衣本人の基本プロフィール

家族の話に入る前に、本人のデータも押さえておきましょう。

身長143cmという体格は、世界のトップ選手の中でもひときわ小柄な部類に入ります。

本人も「パワーではかなわないかもしれませんが、車いす操作のスピードでは負けません」と語っていました。

以下の表で基本情報を整理してみます。

項目 内容
名前 上地結衣(かみじ・ゆい)
生年月日 1994年4月24日
2026年09月16日現在の年齢 32歳
出身地 兵庫県明石市
身長 143cm
体重 43kg
利き手 左利き
所属 三井住友銀行
障害 先天性の潜在性二分脊椎症
主な実績 パリパラリンピック単複金メダル

家族の情報が少ない理由

ここ、気になるところですよね。

上地結衣さんは競技や遠征先の話を非常に多く語る一方で、家族の詳細にはほとんど触れていません。

父親について語られたインタビューは見当たらず、姉の名前や職業も明かされていない状況です。

公的な立場にいるわけではない家族を、表に出さないという判断だと考えられます。

ただ、ウィンブルドン優勝後の記者会見のように、節目では必ず家族への感謝を口にしてきました。

情報が少ないことと、家族の存在感が薄いこととは、まったくの別物というわけです。

両親のバスケ経験がスポーツ一家の土台

上地家がスポーツ一家と呼ばれるのは、両親がそろってバスケットボール経験者だからです。

日本コカ・コーラのインタビューでは「学生時代にバスケットボールをやっていた両親の影響」と紹介されていました。

その影響で、上地結衣さんの競技歴は車いすバスケットボールからスタートしています。

幼少期には陸上やスキー、ピアノ、習字など、さまざまな習い事にも挑戦してきました。

姉が軟式テニスをしていたことも合わせると、家族全員がなにかしら体を動かしていたことになります。

この土台があったからこそ、11歳で車いすテニスに出合う流れが自然に生まれたわけですね。

母親・芳美の仕事とスポンサー第1号

家族の中で、もっとも多く名前が表に出ているのが母親の芳美さんです。

実は上地結衣さんのスポンサー第1号は、母親の当時の勤務先でした。

ここでは芳美さんの人物像と、15年以上続く支援の始まりを整理します。

母親・芳美の基本情報

神戸新聞の記事では、2021年の東京パラリンピック当時、母親の芳美さんは55歳と紹介されていました。

逆算すると、2026年09月16日現在は約60歳ということになります。

下記の表は、母親について判明している情報をまとめたものです。

項目 判明している内容
名前 上地芳美(かみじ・よしみ)
2026年09月16日現在の年齢 約60歳
勤務先 ガス事業会社シィメス
スポーツ歴 学生時代にバスケットボール
娘との関係 SNSに2人での写真を公開する仲

顔写真や詳しい経歴は公開されていませんが、名前と勤務先がわかっている点は貴重ですね。

勤務先シィメスがスポンサー第1号になった経緯

障害者スポーツは、競技用車いすをはじめ器具にも遠征にもお金がかかります。

その負担を最初に引き受けたのが、母親の芳美さんが当時勤めていた神戸市西区のガス事業会社シィメスでした。

浅井哲也社長は「中学1年のころに初めて会ったとき、『将来パラリンピックに出てみたい』と言っていた」と振り返っています。

そして「こんな小さい子が夢を持って生きている。彼女の夢を一緒に追いかけていけたら」と決断しました。

最初の支援は、出場する大会パンフレットへの広告掲載という小さな一歩だったそうです。

この一歩が、のちに15年以上続く支援の絆へと育っていきました。

母がスポーツを勧めた一言

そもそも上地結衣さんがスポーツの世界に入ったのも、母親の声かけがきっかけでした。

本人はPLAY TRUEのインタビューで、当時の様子をこう振り返っています。

「新しいことに挑戦することが大好きな私の性格を考えて、母が『今度こんなイベントがあるみたいだけど、行ってみる?』みたいな軽い感じで、スポーツを勧めてくれました」

押し付けではなく、あくまで軽いトーンで選択肢を置いてくれる形だったわけですね。

パラサポWEBの紹介文でも「母のすすめで車いすバスケットボールをしていた」と記されています。

この距離感の取り方が、その後の自立した競技人生につながっているように見えます。

左利きを直そうとした習い事の思い出

母親らしいエピソードとして、習い事の話も残っています。

上地結衣さんは左利きなのですが、幼少期に習字とピアノへ通ったのは自分の希望ではありませんでした。

本人は「左利きだったのを右利きに直そうと母に勧められ通っていた」と明かしています。

ところが習字の先生からは、無理に直すと情緒が不安定になるため直さない方がいいと言われました。

ピアノの先生からも右手を使う練習になるから続ければいいという意見だったそうです。

結局、左利きはそのままになりましたが、習字は4年間、ピアノは6年間も続いています

後年、動きのリズム感を人から指摘されたこともあり、この6年間は無駄ではなかったようですよ。

父親の職業は非公表|バスケ経験者

では、父親についてはどこまでわかっているのでしょうか。

結論から言うと、父親の名前も職業も公表されていません

それでも、断片的な情報からは家族思いの人物像が浮かび上がってきます。

父親について判明していること

父親に関する単独のインタビューや取材記事は、現時点で見当たりません。

わかっているのは、母親と同じく学生時代にバスケットボールをやっていたという点です。

日本コカ・コーラの記事では「学生時代にバスケットボールをやっていた両親の影響」と両親まとめての紹介でした。

下記の表は、父親について確認できる情報と不明な項目を整理したものです。

項目 公開状況 補足
名前 非公表 報道でも伏せられている
職業 非公表 一般の会社員とみられる
年齢 非公表 母親は東京パラ当時55歳
スポーツ歴 判明 バスケットボール経験者
顔写真 未公開 メディア露出は確認できない

顔出しも実名も避けているあたり、表舞台に出るタイプではないのかもしれませんね。

車いすスポーツを探してくれた両親の一人

父親の存在がはっきり見えるのは、上地結衣さんが歩けなくなった小学4年生ごろの話です。

神戸新聞の記事には「見かねた両親が車いすでもできるスポーツを探してくれ」と書かれています。

スポーツ庁長官との対談でも、本人がこう語っていました。

「それを見ていた両親が、何か車いすでもできるスポーツを、っていう風に思ってくれたことがきっかけで、一番最初は車いすバスケを始めたんですね」

落ち込む娘を前に、禁止したり甘やかしたりするのではなく、代わりの道を探したわけです。

この行動が、結果的に世界一のプレーヤーを生む最初の一歩になりました。

ウィンブルドン制覇で口にした父への感謝

2026年7月、上地結衣さんはウィンブルドン選手権の女子シングルスで初優勝を飾ります。

その後の日本記者クラブでの会見で、家族への思いをはっきり言葉にしました。

会見リポートには、姉への思いとともに「日本から応援してくれた父への謝意」を口にしたと記されています。

現地に駆け付けたのは母親と姉で、父親は日本から見守るという形だったようです。

直接会場にいなくても、真っ先に名前が挙がる存在だったということですよね。

ゲストブックに選んだ言葉が「感謝」だった点も、この家族の関係性をよく表しています。

情報が出てこないことをどう受け止めるか

父親の情報が少ないと、つい何かあるのではと勘ぐってしまいがちです。

ただ、上地結衣さんの場合は姉の名前も職業も公開されていません。

家族全体について、一般人としてのプライバシーを守るスタンスが徹底されていると見るのが自然です。

実際、会見や取材では「両親」「家族」という言葉で感謝を伝える場面が繰り返し登場します。

名前が出ないことと、関係が薄いことはまったく別の話ということですね。

今後もし父親が公の場に出る機会があるとすれば、それは大きなニュースになりそうです。

ちなみに母親の芳美さんも、勤務先の社長が取材に答える形で名前が出たにすぎません。

家族側から積極的に発信しているわけではない点は、押さえておきたいところですね。

父親の人物像を知る手がかりは、今のところ本人の言葉の端々しかないのが実情です。

4学年上の姉が車いすテニスの原点

上地家を語るうえで外せないのが、4学年上の姉の存在です。

そもそも車いすテニスを始めたきっかけが姉でした

ここでは姉についてわかっている情報と、競技の原点になったエピソードを整理します。

姉のプロフィールでわかっている範囲

姉の名前や職業、顔写真は公開されていません。

わかっているのは、上地結衣さんより4学年上であることと、中学校で軟式テニス部に所属していたことです。

神戸新聞の記事では「4学年上の姉がソフトテニスを始めたことから」と表現されていました。

以下の表で、姉について確認できる情報を整理してみます。

項目 内容
続柄 長女(本人は次女)
年齢差 本人より4学年上
名前 非公表
部活動 中学校で軟式テニス部
現在の職業 非公表

一般の方なので情報は限られますが、テニス経験者という点だけは共通認識になっています。

軟式テニス部への入部が運命を変えた

上地結衣さんが小学生だったころ、姉は中学校の軟式テニス部に入部します。

当時小学生だった上地結衣さんは「私もお姉ちゃんと一緒にテニスがやりたい」と思うようになりました。

本人はJALのインタビューで「姉と一緒にテニスがしたいなって」と当時の気持ちを振り返っています。

日本コカ・コーラの記事には、さらに踏み込んだ発言が載っていました。

「姉がやることは、スポーツに限らず何でも真似したがる子でした。他の習い事にもついていっていたので、ごく自然な流れでテニスに興味を持つようになりました」

姉の背中を追いかける妹という、どこの家庭にもある関係が競技人生の出発点だったわけですね。

立ったままプレーした最初の半年

ここ、なかなか知られていないエピソードです。

テニスを始めた当初、上地結衣さんは車いすを使わず立ったままプレーしていました。

理由は「姉が立ってプレーしていたので私も同じようにやりたい」という気持ちからです。

うまく動けないため、立っている場所へボールを出してもらう形でしたが、それでも十分楽しかったといいます。

そんな日々が半年ほど続き、やがて車いすでプレーする人たちの速さに憧れを抱くようになりました。

実際に乗ってみると立っていたときより速く動けたため、車いすでのプレーが主流になっていきます

姉と同じスタイルにこだわった半年間があったからこそ、その後の切り替えが際立って見えますね。

負けず嫌いに火をつけた姉の存在

上地結衣さんの代名詞といえば、天性の負けず嫌いです。

その性格に最初に火をつけたのも、身近な目標だった姉でした。

アスリート育成パスウェイのインタビューでは、競技を始めた理由をこう語っています。

「はじめは家族と一緒にスポーツができたらいいなという思いから、姉が軟式テニスをやっていたこともあり、車いすテニスを始めました」

家族と一緒に楽しみたいという動機が出発点だった点は、覚えておきたいところです。

その後14歳で史上最年少の日本ランキング1位に立つまで、わずか数年しかかかりませんでした。

姉の名前や職業は伏せられたままですが、ウィンブルドン優勝の夜には現地で妹を見守っていました。

会見でも姉への思いを口にしており、今も近い距離にいることがうかがえます。

両親が作った挑戦できる家庭環境

上地家の本当の特徴は、名前や職業ではなく家庭の空気にあります。

本人が何度も語っているのは「やりたい」と言っていい環境があったという事実です。

ここでは、その家庭環境が競技人生にどう効いたのかを見ていきます。

やりたいと言っていい家庭だった

アスリート育成パスウェイのインタビューで、支えについて聞かれた本人はこう答えています。

「両親や家族も含めて周りの人たちが、やりたかったら『やりたい』と言ってもいいんだよ、というような環境を作ってくれていました」

そのうえで、歩けないから諦める、みんなと一緒に行動できないから我慢する、という発想をしなかったと続けました。

やり方を変えれば同じことができるかもしれない、という前提で話をしてくれたそうです。

この考え方はまず言ってみる、そこから相談するという行動パターンにつながっています。

コート上で自分の判断を貫ける強さも、この家庭環境が土台になっているというわけですね。

リレー出場を断られた悔しさ

もちろん、外の世界は理解ある人ばかりではありませんでした。

小学校時代、先生から「走って転んだらケガをするかもしれないから、リレーに出すことはできません」と言われた経験があります。

本人は転んでケガをするのはどんな子でも一緒だと感じ、強い不満を抱きました。

海外ホームステイの説明会に参加したときも、車いすの前例がないという理由で断られています。

こうした場面で気持ちを折らずに済んだのは、家庭では意思が尊重されていたからでしょう。

PLAY TRUEのインタビューでは「私の意思をどんな時も尊重してくれました」と両親への感謝を述べていました。

習い事と経験の幅が生んだ武器

上地家の教育方針は、とにかく経験の幅を広げるという形で表れています。

陸上、スキー、車いすバスケットボール、ピアノ、習字と、ジャンルはバラバラです。

本人も「私は趣味ベースで、子どもの頃から色々なことを経験させてもらいました」と語っています。

下記の表は、幼少期に取り組んだ主な習い事と、その後どう役立ったかを整理したものです。

習い事・競技 期間の目安 後年への影響
習字 4年間 右手を使う練習になった
ピアノ 6年間 動きのリズム感につながった
車いすバスケ 小学4年ごろから 車いす操作の技術が身についた
陸上・スキー 幼少期 体を動かす楽しさを知った

テニス一本ではなかったことが、結果的に唯一無二の武器になったわけですね。

進路の決断も家族ぐるみだった

高校卒業後にプロへ進むかどうかは、人生最大の分かれ道でした。

当時は外国語大学への進学や、裁判所事務官という職業にも強い興味を持っていたそうです。

公務員試験の願書を実際に書いたというのですから、かなり本気だったことがわかります。

本人は「コーチや両親、先生などたくさんの人に相談し、すごく時間をかけて考えました」と振り返りました。

両立は絶対にしたくないという性格だったため、どちらかを選ぶしかなかったわけです。

最終的にプロの道を選び、2014年5月に初めて世界ランキング1位へと駆け上がりました。

歩けなくなった小4と家族の決断

上地結衣さんの家族を語るとき、避けて通れないのが障害との向き合い方です。

生まれつきの潜在性二分脊椎症により、成長とともに歩行が難しくなりました。

ここでは、家族がその変化にどう向き合ったのかを時系列で整理します。

潜在性二分脊椎症という障害

本人が説明する症状は、右と左で状態が異なるという少し複雑なものです。

「右は感覚が鈍くて、左は運動機能が鈍いんです。右は左に比べると動かすことができますので、階段などは右足を軸にして登っています」

感覚のまばらさについては、数センチ離れただけでも感覚がなかったりすると語っていました。

小学校時代は補装具を着ければ歩くことができ、ドッジボールやサッカーにも交ざっていたそうです。

体育が一番好きな科目だったというのですから、もともと活発な少女でした。

保育所のころは、水の入っていないプールを男の子たちと取り合って遊んでいたといいます。

小学4年生で車いすを頼るように

転機は小学4年生のころに訪れます。

体重が増えたことで脚が体を支えきれなくなり、車いすを使う場面が増えていきました。

神戸新聞のインタビューでは、当時の心境を「なんで、みんなと違うの?」という言葉で振り返っています。

友だちと外に遊びに行く機会が減り、気持ちがふさぎ込んだ時期でもありました。

買い物先で歩き方について心ない言葉を投げられ、外出そのものを避けた時期もあったそうです。

小学4年生くらいになると周囲の視線の意味がわかってくる、と本人は話していました。

見かねた両親が探したスポーツ

そんな娘の様子を見て動いたのが両親でした。

車いすでもできるスポーツを探し、最初にたどり着いたのが車いすバスケットボールです。

大人たちの輪に混ぜてもらう形で、月に数回の練習に通うようになりました。

その後、姉の影響で車いすテニスにも通い始め、月2回ずつの二刀流生活が始まります。

兵庫県内に3つあったクラブのうち、所属したのは競技志向の強い神戸車いすテニスクラブでした。

周囲は30代から40代の大人の男性ばかりで、小学生を受け入れる体制はなかったといいます。

特別ルールへの違和感が原点になった

車いすバスケットボールでは、体の小さい上地結衣さんに配慮した特別ルールが作られました。

「結衣ちゃんはネットにカスったら入ったことにしようか」という、大人たちの厚意から出た提案です。

しかし本人にとっては、それが悔しくてたまらないものでした。

「やるならみんなと同じルールでやりたいし、同じ土俵で戦いたい」という気持ちが強かったからです。

その点テニスは、ネットを越しさえすれば誰とでも勝負が成立する競技でした。

この感覚こそが、車いすテニスへ完全に舵を切った決め手だったわけですね。

ネットを越せば勝負になるという公平さが、幼い上地結衣さんの心をつかんだわけです。

車いすバスケットボールで培った操作技術は、その後テニスの武器としてそのまま生きています。

本人も、相手選手をかわす俊敏さやボールを予測する感覚はバスケで学んだと語っていました。

家族が最初に選んだ競技が、遠回りではなく近道になっていたということですね。

上地結衣の家族が支えた栄光と現在

  • 母と姉を招いたチャンピオンズディナー
  • 15歳の単身遠征を決めた家族会議
  • 地元明石と応援する会15年の絆
  • 大久保中と明石商業での学校生活
  • 結婚や旦那の噂と独身の現在
  • 家族への感謝と引退後に描く夢

母と姉を招いたチャンピオンズディナー

2026年7月、上地結衣さんの競技人生に大きな節目が訪れます。

ウィンブルドン選手権の女子シングルスを初めて制し、生涯ゴールデンスラムを達成しました。

その夜、母親と姉を初めてチャンピオンズディナーへ同行させています。

取らずに終われなかったウィンブルドン

四大大会とパラリンピックをすべて制する生涯ゴールデンスラムは、女子では史上2人目の快挙です。

日本記者クラブでの会見で、本人は「取らずには自分の競技人生終われない」と語りました。

四大大会通算11勝、パリ・パラリンピックの金メダルと実績を重ねながら、芝だけは厚い壁だったからです。

攻略のために、持ち味の粘り強いラリーではなく早い段階での攻撃へと方針を変えました。

歴代優勝者が使っていたスライスショットに磨きをかけ、車いすのセッティングまで戦術に合わせて見直しています。

1年かけてスタッフと練り上げたプランが、ついに結実した瞬間でした。

決勝で見せた開き直りの強さ

ただ、道のりは順調ではありませんでした。

本人は「精神的にすごく不安な日々があった」と明かしており、特に準決勝は心身ともに苦しい戦いになったそうです。

試合後には涙も流したといいます。

決勝の相手が過去20勝49敗と大きく負け越していたディーデ・デフロートと決まると、弱気の虫も顔を出しました。

「正直、今回もここまでかな」と一度は思ったそうです。

それでも最後は「また、やればいいやんか」と開き直り、1ゲームも奪わせない圧勝劇につなげました。

母がものすごく楽しんでくれた夜

この日いちばん印象的だったのが、試合後の家族エピソードです。

現地に応援へ駆け付けていた母親と姉を、初めてチャンピオンズディナーに同行させることができました。

本人は「母がものすごく楽しんでくれていた。こんなに喜んでくれるなら勝てて良かった」と語っています。

自分の喜びより先に母親の笑顔を挙げるあたりが、いかにも上地結衣さんらしいところですよね。

会見では姉への思い、そして日本から応援してくれた父親への感謝も口にしました。

偉業の裏には家族の理解と支えがあった、と会見リポートは結んでいます。

ゲストブックに書いた言葉は感謝

会見の最後、ゲストブックに選んだ言葉は「感謝」でした。

「サポートしてくださった方、これから出会ってくださる方々と一緒に、自分の競技を高められるような出会いがあったら嬉しい」とも述べています。

人との絆を大切にする上地結衣さんらしい締めくくりだった、と会見リポートは評しています。

優勝の喜びを語る場面でも、まず周囲の顔を思い浮かべるのが持ち味なのでしょう。

この日の会見には、母親と姉の存在がずっと通奏低音のように流れていました。

下記の表は、家族が関わった主な節目を時系列で整理したものです。

時期 出来事 家族の関わり
2004年ごろ 歩行が難しくなる 両親が車いすスポーツを探す
2005年 車いすテニス開始 姉の軟式テニス部入部が契機
2007年ごろ 支援の輪が広がる 母親の勤務先が初スポンサー
2009年 初の海外遠征 家族会議で単身参加を決定
2026年 生涯ゴールデンスラム達成 母親と姉が現地で応援

15歳の単身遠征を決めた家族会議

上地家のスタンスがもっともよく表れているのが、2009年の家族会議です。

中学3年生だった上地結衣さんは、親の付き添いなしで初の海外遠征に出ました。

ここでは、その決断に至るまでの家族のやり取りを見ていきます。

中学3年で選ばれた世界国別選手権

舞台はイギリスで開催された車いすテニスの世界国別選手権、ワールドチームカップです。

日本代表として選ばれたものの、15歳での参加は前例がありませんでした

そのため大会スタッフから「ご両親と一緒に来られますか?」と確認が入ります。

女子の参加国は16チームで、上地結衣さんはシングルス4戦、ダブルス3戦を戦い3位に入りました。

同じ中学3年のころには、フランスで開かれた世界ジュニアマスターズにも出場しました。

国内だけでなく、世界からも実力が認められ始めた時期でした。

家族会議で出した現実的な結論

スタッフからの問いかけを受け、上地家では文字どおりの家族会議が開かれました。

本人はJALのインタビューで、その場面を笑いながら振り返っています。

「今後もこういう機会が増えるかもしれないと考えたとき、毎回来てもらっていたら両親の負担になるし、単純に費用も倍になりますよね」

そのうえで「でも一人だったら、その倍の大会に出られる。それなら一人で行きますって」と続けました。

15歳が自分で費用対効果を計算していたわけですから、なかなかの現実感覚です。

しかも本音では「むしろ一人で行かせてくださいって感じでした」というのですから、たくましいですよね。

現地で受け取ったYUIコール

念願の初海外遠征は、期待以上のものになりました。

日本開催の国際大会で海外選手を見てはいましたが、じっくり話したことはなかったといいます。

現地では一緒に写真を撮ってもらうなど、交流が一気に広がりました。

当時15歳でしたが体が小さく、周囲からは12、13歳くらいに見られていたそうです。

みんなが「YUI! YUI!」と声を掛けてくれたことが、本人にとってはうれしい記憶になりました。

心配した監督が1日1回日本へメールを送っていいと言ったのに、交流に夢中で一度も送らなかったという逸話まで残っています。

子どものころの夢が叶った遠征

そもそも海外への興味は、小学生時代の悔しい経験から生まれたものでした。

学校で配られた海外ホームステイのチラシを見て説明会に参加したものの、前例がないと断られたのです。

その夢を、車いすテニスという競技が別のルートで叶えてくれました。

本人も「子どものころに思い描いていた海外に行くという夢が叶えられたような気がします」と語っています。

現在は年間20大会弱の海外遠征をこなし、月の半分以上を海外で過ごす生活です。

あの家族会議がなければ、この生活はもっと遅れて始まっていたかもしれませんね。

単身遠征を認めた両親も、内心では心配していたはずです。

それでも本人の意思を優先したところに、上地家の一貫した姿勢が表れていますよね。

この経験があったからこそ、海外の選手と物おじせず関われる今の姿があるのだと思います。

語学力が自然と身についたのも、この時期からの積み重ねによるものでした。

地元明石と応援する会15年の絆

上地結衣さんを支えてきたのは、血のつながった家族だけではありません。

地元の兵庫県明石市には、15年以上続く支援の輪があります。

ここでは、母親の勤務先から広がっていった第二の家族のような存在を整理します。

応援する会の結成と募金活動

支援の第一歩は、母親の勤務先だったシィメスによる大会パンフレットへの広告掲載でした。

そこから地元を中心に輪が広がり、2012年のロンドン大会前には「応援する会」が結成されます。

世界ランキングを上げるには海外遠征を重ねる必要があり、その費用が大きな壁だったからです。

会のメンバーは夏祭りや駅前で募金活動を行い、遠征費を工面しました。

浅井哲也社長は、上地結衣さんが大企業のスポンサーを得たあとも縁が続いていると語っています。

今も活躍のたびに報告に来てくれるそうで、本社の一室には贈られた全米オープンの優勝トロフィーが飾られています。

無観客の東京大会と逆サプライズ

2021年の東京パラリンピックは、コロナ禍の影響で無観客開催となりました。

社員旅行を兼ねて現地観戦するはずだった支援者たちは、代わりにビデオメッセージを送ります。

開会式が始まったころ、上地結衣さんから伝言が届きました。

「たくさんの人たちと出会えて、今も応援してもらえていることに感謝の気持ちでいっぱいです。少しでもこの気持ちを伝えたくて、私から逆サプライズです!」

行進に姿が見当たらず心配していた浅井社長でしたが、その理由はすぐに判明します。

クライマックスに現れた上地結衣さんは、家族にも内緒にしていた聖火台への最終点灯者でした。

スポンサー12社と推定年収

現在は多くの企業がスポンサーとして名を連ねています。

下記の表は、公開されている主なパートナー企業を整理したものです。

区分 企業名
所属先 三井住友銀行
飲料・用具 コカ・コーラ、ダンロップ、FILA
移動・寝具 日本航空、エアウィーブ
車いす関連 OXエンジニアリング、井上ゴム
地元企業 シィメス、ネッツトヨタ神戸

四大大会の優勝賞金は1大会あたり約700万円とされ、2023年のグランドスラム獲得賞金は約1950万円と試算されています。

スポンサー料や報奨金を合わせた推定年収は4000万円以上ともいわれています。

明石ふるさと大使としての顔

地元明石市との関係も年々深まっています。

上地結衣さんは明石ふるさと大使を務めており、市も公式に応援する姿勢を打ち出してきました。

2024年のパリパラリンピックで日本人初の金メダル2冠を達成すると、市はその功績を称えます。

同年11月1日の市制施行105周年記念式典では、市長特別表彰が授与されました。

リオ大会後には母校へ報告に訪れ、点字が施されたメダルを関係者に触らせたという話も残っています。

支援者たちは、上地結衣さんを結衣ちゃんと呼び続けてきた第二の家族のような存在です。

浅井社長は手の届かないような存在になったと語りつつ、今も交流が続いていると話していました。

地元の応援が途切れなかったことは、本人にとって大きな心の支えになっているはずですよ。

家族、支援者、地元という三層の支えが重なっているのが上地結衣さんの強みですね。

大久保中と明石商業での学校生活

家族の話とあわせて気になるのが、学生時代の過ごし方ではないでしょうか。

上地結衣さんは地元の公立校から明石商業高校へ進んでいます。

ここでは学歴と、学校生活で見せた負けず嫌いなエピソードを整理します。

学歴は明石市内の学校が中心

以下の表で、判明している学歴を整理してみます。

時期 学校名 できごと
小学校 明石市立大久保小学校 6年の春に地元紙へ初登場
中学校 明石市立大久保中学校 14歳で日本ランキング1位
高校 明石市立明石商業高等学校 3年でロンドン大会に出場
高校卒業後 進学せず プロとして競技に専念

外国語大学への進学も検討していましたが、最終的にはテニス一本に絞る決断をしました。

中学校のバリアフリー問題と意地

通っていた大久保中学校は古い校舎で、バリアフリーではありませんでした。

そこで市が介護用の車いすを借り、各階に置くという対応が取られます。

1階は自分の車いす、2階と3階は借りた車いすを使うという生活でした。

2年生に上がる前、学校側から「上地のクラスだけは1階のまま」という提案が出ます。

しかし本人は、自分のクラスだけ特別扱いされることに抵抗を感じて断りました。

代わりに早めに登校して階段を上がるという選択をしたのですから、筋金入りの負けず嫌いです。

3部練習をこなした中学時代

競技面では、この中学時代がもっとも練習量の多い時期でした。

学校が終わると18時から21時までボールを打ち続ける日々だったといいます。

週末は朝・昼・夜の3部練習に励み、練習場所があると聞けば新幹線に飛び乗ることもありました。

本人は「納得いくまでやらなきゃ気が済まないタイプなんです」と語っています。

その結果、中学1年で全日本選抜車いすテニス選手権の準優勝、翌年には初優勝を飾りました。

所属していた神戸車いすテニスクラブでは、選手が個人的に指導してくれるようになりました。

コートを無料開放してくれるテニススクールにも2年ほど通っていたそうです。

月に1〜2回だった練習は、いつのまにか週3〜4回のペースへと増えていきました。

以後5連覇を達成し、14歳で史上最年少の日本ランキング1位に到達しています。

試験と試合を両立させた高校時代

明石商業高校時代は、国内外の大会を転戦する日々でした。

試験と試合が重なれば試合を優先していましたが、勉強を捨てたわけではありません。

「テニスをやっているから進級できない」とは言われたくないという気持ちが強かったからです。

放課後の補習やレポート提出にも時間を惜しまず、大会にも勉強道具を持参していました。

海外遠征中は先生が出場大会や成績をクラスに説明してくれたそうで、学校ぐるみの応援体制だったわけですね。

たまに登校すると、クラスメートから今度はいつ帰ってくるのと声をかけられたといいます。

友達に長く会えない生活でしたが、学校とのつながりは切れないままでした。

家族だけでなく、学校の先生や同級生も応援団の一員だったということですね。

そして高校3年生だった2012年、ロンドンパラリンピックでシングルス・ダブルスともベスト8に入りました。

結婚や旦那の噂と独身の現在

家族について調べていると、必ず気になるのが自身の結婚ではないでしょうか。

結論から言うと、結婚や旦那に関する発表は出ていません

ここでは現在の状況と、競技に集中している背景を整理します。

結婚・旦那の情報は確認できない

上地結衣さんはプライベートについて語る機会が非常に少ない選手です。

結婚や子供に関する噂も出ておらず、交際相手の情報も公表されていません

下記の表は、プライベート面で確認できる情報を整理したものです。

項目 現在わかっていること
結婚 発表なし・独身とみられる
子供 情報なし
交際相手 公表されていない
語学 英語・フランス語・韓国語
趣味 用具を持たない海外旅行

噂が独り歩きしていないのは、本人の言葉選びが慎重だからでもありますね。

競技が最優先という現在地

2026年09月16日現在の上地結衣さんは32歳で、まさに競技の充実期にあります。

年間20大会弱の海外遠征をこなし、月の半分以上を国外で過ごす生活です。

本人は「納得いくまでやらなきゃ気が済まないタイプなんです」と語ってきました。

表彰式で対戦相手にいいプレーだったと言われても、ありがとうより悔しさが先に来るタイプだそうです。

この姿勢が続く限り、しばらくは競技が最優先という状況が続きそうです。

大阪の靭テニスセンターでは、大会中にもかかわらず観客と談笑する姿も見られました。

世界ランキング1位の金メダリストとは思えない、柔らかな距離感の持ち主です。

新しい家族の話題が出るとすれば、競技生活が一区切りついたあとかもしれませんね。

4か国語と旅好きという素顔

中学時代から海外遠征を重ねてきた影響で、語学力も自然と身につきました。

日本語に加えて英語、フランス語、韓国語を使えるといわれています。

行った先で言葉を覚え、どんどんコミュニケーションを取ることで上達していくのが楽しいそうです。

元気の源はテニス用品を持たない海外旅行だと本人が明かしていました。

遠征の合間に友達と1泊か2泊の旅行へ出かけることもあるといいます。

好きな音楽はglobeで、冷麺が好物という飾らない一面も語られていました。

高校卒業後は外国語大学への進学も考えていたほど、語学への関心は強いものでした。

引退後に語学を生かした仕事を選ぶ可能性も、十分にありそうですよね。

言葉に慎重になった14歳の経験

プライベートを語らない背景には、14歳のときの苦い経験も影響しているようです。

初めて日本一になった際、「来年またここに戻ってきたい」とスピーチしました。

本人は大会に戻りたいという意味で話しましたが、テレビの字幕は表彰台に戻りたいと補足されます。

10代前半だった本人は、言葉が意図と違う形で伝わる怖さを実感しました。

以来、質問の意図がわからなければ聞き返すという習慣が身についたそうです。

取材では、質問の意図がわからないときはもう一度聞き直すこともあるそうです。

疑って跳ね返すのではなく、ていねいに確かめるという姿勢を貫いています。

この慎重さが、家族の情報を守る姿勢にもつながっているように見えますね。

家族への感謝と引退後に描く夢

ここまで見てきたとおり、上地結衣さんの歩みは家族の支えと切り離せません。

最後に、家族への感謝と今後の展望について整理します。

今なお続く家族との距離感がよくわかるエピソードがそろっていますよ。

迷ったときに相談する相手

世界ランキング1位を経験した現在も、上地結衣さんは一人で抱え込まないタイプです。

JOCのインタビューでは、心に引っかかる言葉があったときの対処法をこう語っています。

「家族とか友達とか、テニスを全然知らない人にも聞いて確かめます」

自分だけがわからないわけじゃない、と確認できることもあるという説明でした。

別の視点をもらうことで「そうかもな」と思えてスッと楽になるのだそうです。

地元の方や趣味でテニスをする人からのアドバイスも、新鮮だと言って受け止めています。

試してみてうまくいかなければ、本人に正直にフィードバックすることもあるそうです。

家族が今も現役の相談相手であり続けている点は、上地家らしい関係性ですよね。

聖火点灯を家族にも内緒にした理由

2021年の東京パラリンピック開会式は、家族にとっても驚きの夜になりました。

上地結衣さんは最終点火の役割を担っていましたが、そのことを家族にも伝えていなかったのです。

選手団の行進に姿が見えず、関係者も心配していたほどでした。

クライマックスで登場した瞬間、支援者たちからは驚きの声が上がったといいます。

秘密を守り抜いたのは、大役に対する責任感の強さの表れでしょう。

後から報告を受けた家族の気持ちを想像すると、なんだか笑ってしまいますね。

ユース交流という次の目標

競技以外でも、上地結衣さんには温めている構想があります。

トップレベルの競技生活を離れても、車いすテニスから完全に離れることはないと語っていました。

特に力を入れたいのが、ユースアスリートたちの国際交流だそうです。

日本の若手を海外の知り合いのクラブへ送り、その国のユースを日本に招くという交換留学のような形を思い描いています。

若い年齢で海外に目を向ければ、より多くの経験ができるという考えからです。

国枝慎吾さんという憧れの存在と子どもたちの間に立つお姉ちゃんのような存在でありたい、とも話していました。

スポーツの楽しさを教えてくれた家族へ

PLAY TRUEのインタビューで、本人は支えてくれた人たちへの思いをこう語っています。

スポーツの楽しさと素晴らしさを見せてくれたのは、両親や家族、先輩方、周囲の人たちだったという内容でした。

歩けなくなって落ち込んだ小学4年生の娘に、両親は代わりの道を探しました。

姉は何気なく入部した軟式テニス部で、妹の人生を変えるきっかけを作りました。

母親の勤務先は、まだ何者でもない中学生に最初のスポンサーとして手を挙げました。

その積み重ねの先に、生涯ゴールデンスラムという歴史的偉業があったわけですね。

国内にジュニアのクラスができるほど競技人口が増えたことも、うれしい変化だと語っていました。

家族の名前の多くは公表されていませんが、その支えの大きさははっきり見えてきますね。

これからも上地家の物語は、コートの外で静かに続いていくのだと思います。

上地結衣の家族に関するまとめ

  • 家族構成は両親と姉を合わせた4人家族である
  • 本人は次女で姉との年齢差は4学年にあたる
  • 母親の名前は芳美で娘とSNSにも登場している
  • 母親の勤務先シィメスがスポンサー第1号となった
  • 父親は名前も職業も非公表のままとなっている
  • 父母はともに学生時代のバスケットボール経験者
  • 姉は中学の軟式テニス部で妹の原点を作った
  • 本人は先天性の潜在性二分脊椎症を抱えている
  • 小学4年ごろに歩行が難しくなり車いすを使用
  • 見かねた両親が車いすでもできる競技を探した
  • 中学3年の初遠征は家族会議で単身参加に決定
  • 出身校は大久保中学校と明石商業高校になる
  • 2026年に生涯ゴールデンスラムを達成している
  • 優勝の夜は母と姉を晩さん会へ初めて招いた
  • 結婚や旦那の発表はなく独身とみられている

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