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西山大翔さんがバレーボールをやめた理由について、何があったのかを知りたい方は多いです。
東海大学付属相模高校のエースとして春高バレーに2度出場した選手が、入学からわずか5カ月で東海大学を中退していました。
バレーボール部も同時に退部し、その後は約9カ月間ボールに触れることすらなかったといいます。
本人が語ったやめた理由は「環境が合わなくて、ちょっとやりづらくなった」というものでした。
それでもパナソニックからの偶然のオファーでコートへ戻り、日本代表にまで駆け上がります。
この記事では、やめた理由と復活までの道のりを本人の発言をもとに整理していきますね。
記事のポイント
①:やめた理由は環境の不一致
②:東海大を5カ月で中退し退部
③:約9カ月バレーから離れていた
④:パナソニックの誘いで復帰し代表へ
西山大翔がバレーをやめた理由と中退の経緯
- 東海大をやめた理由は環境不一致
- 入学5カ月で中退に至った経緯
- バレーへの意欲を失った理由
- 中退後9カ月の空白期間の過ごし方
- 中学のサッカー部も退部していた
- やめた理由をめぐる噂と事実
東海大をやめた理由は環境不一致
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結論から言うと、西山大翔さんが東海大学とバレーボールをやめた理由は、大学の環境が自分に合わなかったことです。
ここ、いちばん気になるポイントですよね。
本人が日刊スポーツの取材で語った言葉は「環境が合わなくて、ちょっとやりづらくなった」という、驚くほど飾り気のないものでした。
ここでは、その言葉の背景にあるものを、あなたが納得できる形で順番に整理していきます。
まず、話の前提になる西山大翔さんの基本情報を確認してみましょう。
下記の表は、西山大翔さんのプロフィールをまとめたものです。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 西山大翔(にしやま ひろと) |
| 生年月日 | 2003年3月4日 |
| 2026年09月24日現在の年齢 | 23歳 |
| 出身地 | 神奈川県南足柄市 |
| 身長/体重 | 193cm/80kg |
| 血液型 | A型 |
| ポジション | オポジット(OP) |
| 最高到達点 | 350cm(指高255cm) |
| 出身高校 | 東海大学付属相模高校 |
| 大学 | 東海大学(5カ月で中退) |
| 所属 | 大阪ブルテオン(旧パナソニックパンサーズ) |
| 愛称 | ニッシー/ヒロリン |
本人が語ったやめた理由の言葉
西山大翔さんがやめた理由として公の場で語っているのは、環境への違和感ただひとつです。
日刊スポーツの連載「龍神NIPPON若手のホープ」の取材では、大学を離れた当時をこう振り返っています。
「環境が合わなくて、ちょっとやりづらくなった」という言葉に続けて、中学2年から打ち込んできたバレーボールについても「もういいかな」とやる気を喪失したと明かしました。
ケガでも成績不振でもなく、不祥事でもありません。
ただ純粋に、置かれた場所が自分に噛み合わなかったという話なんですよね。
バレーボール選手図鑑のまとめによると、西山大翔さんは別の機会に「だんだんとモチベーションも下がっていってしまって…」とも語っています。
一気に嫌になったのではなく、じわじわと熱が引いていった様子が伝わってきます。
環境が合わないという言葉の中身
では、環境が合わないとは具体的に何を指すのでしょうか。
この点について、西山大翔さん本人は詳細を公表していません。
そのため断定はできませんが、大学バレー特有の組織体制や寮生活、競技への向き合い方の違いなどが挙げられています。
東海大学のバレーボール部は全日本インカレの常連で、部員数も多く、上下関係や練習量の管理が高校とは大きく変わる世界です。
高校では入学直後からエース扱いだった選手が、同じ強さの選手が何人もいる集団に放り込まれる。
この落差は、数字には出にくいストレスとして効いてくるはずです。
実際、西山大翔さんは所属先の公式プロフィールで自分の性格を「人見知り」と答えています。
初対面の相手が一気に増える環境が、負担として重くのしかかった可能性は十分に考えられますよね。
周囲の期待と本人の感覚のギャップ
もうひとつ見逃せないのが、周囲からの評価の高さです。
高校時代の西山大翔さんは「世代ナンバーワンアタッカー」と呼ばれ、さらには「神様からバレーボール界への贈り物」とまで評されていました。
中学2年からバレーボールを始めて2年で春高の舞台に立った選手ですから、期待が膨らむのも当然です。
ただ、期待というのは本人にとって燃料にも重りにもなります。
東海大学でも1年生からオープン戦に全試合スタメンで起用されるなど、実力そのものは通用していました。
結果が出ていたのに離れたという事実こそが、理由が技術面ではなかったことの何よりの証明だと思います。
順風満帆に見えたバレー人生で、初めて自分の内側とぶつかった時期だったのでしょう。
やめた理由をどう受け止めるべきか
ここまでを整理すると、西山大翔さんがやめた理由は「環境への不適応によるモチベーションの消失」に尽きます。
ネット上には退部や中退の背景を詮索する声もありますが、本人の説明以上の事実は出ていません。
むしろ注目したいのは、いったん離れたからこそバレーボールの価値に気づけたという後日談のほうです。
この空白があったから現在があるという見方は、多くのメディアが共通して伝えています。
やめた理由そのものはネガティブでも、その後の歩みまで含めて見ると、かなり前向きな物語になっているんですよね。
入学5カ月で中退に至った経緯
次に気になるのが、どれくらいの期間で決断に至ったのかという点です。
結論を先に言うと、東海大学に在籍したのはわずか5カ月ほどでした。
ここでは入学から中退までの流れを、日付を追いながら具体的に確認していきます。
以下の表で、当時の動きを時系列に整理してみます。
| 時期 | 出来事 | 補足 |
|---|---|---|
| 2021年3月 | 東海大学付属相模高校を卒業 | 春高に2度出場した実績を残す |
| 2021年4月 | 東海大学に進学しバレー部へ | 1年生でオープン戦全試合スタメン |
| 2021年夏ごろ | 環境への違和感が強まる | モチベーションが低下 |
| 2021年9月ごろ | バレー部を退部し大学も中退 | 在籍は約5カ月 |
| 2021年秋〜冬 | 自宅で過ごす日々が続く | 就職活動を考え始める |
| 2021年末 | パナソニックから誘いを受ける | 復帰への転機 |
期待のルーキーとしてのスタート
2021年4月、西山大翔さんは東海大学に入学しました。
系列の東海大学付属相模高校からの進学ですから、環境としては地続きに見えるルートです。
実際、入学直後から評価は高く、1年生でオープン戦の全試合にスタメン出場するほどの扱いを受けています。
大学バレー界では、1年生が春先から使われること自体が異例と言っていい待遇です。
将来を嘱望されたルーキーとしてのスタートだったのは間違いありません。
ここだけを切り取れば、順調そのもののキャリアに見えますよね。
半年足らずで訪れた決断
しかし、その順調さは長くは続きませんでした。
複数のメディアは「半年足らず」「わずか5カ月」と表現しており、2021年の秋には退部と中退が現実のものになっています。
バレーボール部だけを辞めて大学には残るという選択肢もあったはずです。
それでも西山大翔さんは、部と大学の両方から同時に離れる道を選びました。
競技を続けるために進んだ大学だったからこそ、競技を離れる時点で大学に残る意味も消えたのでしょう。
この潔さは、後にパナソニックへ飛び込む決断の速さとどこか重なって見えます。
退部は事実として確認できるのか
退部や中退が本当なのかを気にする人も多いようです。
この点はすでに決着がついていて、本人のインタビューや所属先の公表経歴から事実と確認できます。
バレーボールキングの選手プロフィールでは、経歴が「東海大学(中退)→パナソニックパンサーズ(現・大阪ブルテオン)」と明記されています。
つまり噂話の類ではなく、公式の記録として残っている情報です。
本人も隠すことなく取材で語っており、むしろ自分の歩みとして受け止めている印象を受けます。
5カ月という短さが意味するもの
あらためて5カ月という期間を考えてみると、かなり短いですよね。
春に入学して、夏を越えたあたりで結論が出ているわけです。
これは、悩みが長期化した末の消耗ではなく、早い段階で違和感が決定的になったことを示しています。
時間をかければ馴染めたのではという声もありますが、当時の本人にはその余力がなかったのだと思います。
結果的にこの早い決断が、9カ月の空白を経た復帰と日本代表入りにつながっていきました。
人生の選択って、あとから見ないと正解がわからないものだと感じさせられます。
バレーへの意欲を失った理由
大学を離れたことと、競技そのものを手放したことは別の話です。
西山大翔さんの場合、中学2年から打ち込んできたバレーボールへの情熱まで一緒に消えてしまいました。
ここでは、なぜ意欲まで失われたのかという一段深いところを掘り下げていきますね。
この部分がわかると、その後の復帰劇の意味もぐっと立体的に見えてきます。
もういいかなという一言の重さ
当時の心境を、西山大翔さんは「もういいかな」という一言で表現しています。
この言葉、かなり重いと思いませんか。
怒りでも悔しさでもなく、ただ静かに熱が消えた状態を指しているからです。
中学2年で競技を始めてから、わずか数年で全国トップレベルまで駆け上がった選手です。
その濃密な時間の先にある感情が「もういいかな」だったという事実に、当時の消耗の深さがにじんでいます。
本人はFNNの取材で、一度離れようと思ったのか完全にやめるつもりだったのかを問われ、「完全に離れようと思って家でダラダラしてました」と答えていました。
感情を表に出さない性格との関係
意欲の消失を考えるうえで、西山大翔さんの性格は無視できない要素です。
所属先の公式プロフィールでも、自身の性格として人見知りを挙げています。
復帰直後の様子を知るパナソニックの白澤健児コーチは、「あまり自分から言葉を発さなくて、本当に『はい』『いいえ』ぐらいしかなかった」と当時を振り返りました。
これはチームに加入したあとの話ですが、悩みを内側に抱え込みやすいタイプであることがよくわかります。
相談できる相手が近くにいても、言葉にできなければ状況は変わりません。
環境への違和感が誰にも共有されないまま膨らんでいったとすれば、限界が来るのも早かったはずです。
短期間で頂点に立った反動
もうひとつの角度として、成長スピードの速さがあります。
西山大翔さんがバレーボールを始めたのは中学2年で、競技歴としてはかなり遅いスタートでした。
にもかかわらず高校1年で春高に出場し、3年時には春と夏の県大会を連覇して全国ベスト16まで到達しています。
キャリア2年と少しで全国区になったわけですから、周囲の評価は跳ね上がる一方です。
ただ、急激に上がった評価は、本人の心の準備が追いつかないまま独り歩きします。
期待に応え続けなければならないという圧力が、環境の変化と重なって一気に効いてきたと考えられます。
燃え尽きに近い状態だった可能性
ここまでの要素を重ねると、当時の西山大翔さんは燃え尽きに近い状態だったと見るのが自然です。
実力があるのに続けられない、というのはスポーツの世界では珍しい話ではありません。
バレーボール選手図鑑も「メンタル的に疲れ切っていた」「精神的な負担が限界を迎えての決断」と分析しています。
数字や実績では測れない部分で、本人はすでに限界を迎えていたということですね。
この状態を無理やり押して続けていたら、今の西山大翔さんはいなかったかもしれません。
そう考えると、一度手放すという選択にも意味があったのだと思えてきます。
中退後9カ月の空白期間の過ごし方
やめた理由と同じくらい気になるのが、離れていた期間に何をしていたのかという点ですよね。
結論から言うと、西山大翔さんは約9カ月間、自宅で漫画やアニメに没頭する日々を送っていました。
ここでは、その空白期間の実像を具体的に見ていきます。
この時間の過ごし方を知ると、復帰後の言葉の重みがまったく違って響いてきます。
ボールに触れない日々の実態
大学を中退したあと、西山大翔さんはバレーボールから完全に距離を置きました。
日刊スポーツは「その後はボールに触れることもなく、自宅で漫画やアニメに没頭する日々を送っていた」と伝えています。
FNNの取材では本人が「完全に離れようと思って家でダラダラしてました」と語りました。
バレーボールを見ることすら避けていたという証言もあります。
将来の日本代表候補と呼ばれた選手が、テレビ中継すら遠ざけていたわけです。
この徹底ぶりは、一時的な休養ではなく本気の引退だったことを物語っています。
就職活動を考えていた時期
空白期間の終盤、西山大翔さんは進路として就職を考え始めていました。
本人は「本当になにもやることがなくて、仕事を探そうと思っていました」と明かしています。
つまり競技者ではない人生を現実的に選ぼうとしていたということです。
もしあと少しタイミングがずれていたら、西山大翔さんは今ごろまったく別の職業に就いていたかもしれません。
ここ、想像すると少しゾッとしますよね。
実際にオファーが届いたのは、就職活動を始めようとしていた2021年末のことでした。
漫画とアニメが果たした役割
空白期間を支えたのが、漫画とアニメでした。
所属先の公式プロフィールでも、趣味の欄にはアニメ鑑賞と漫画鑑賞が挙げられています。
単なる暇つぶしではなく、競技から離れた苦しい時期を埋めてくれた存在だったのでしょう。
現在もオフの時間には趣味を楽しんでいるとされ、心身のリフレッシュに役立っているようです。
好きなものがあるというのは、それだけで人を支える力になります。
この時期の過ごし方は、ダラダラしていたというより、心を回復させる時間だったと捉えたほうがしっくりきます。
ブランクが競技に与えた影響
9カ月のブランクは、身体面にも小さくない影響を残しました。
復帰後の西山大翔さんは、その遅れを取り戻すために必死に練習へ取り組んだと伝えられています。
バレーボールは、跳ぶ・打つ・拾うという動作を体が覚えているかどうかで精度が大きく変わる競技です。
1年近く離れれば、感覚もフィジカルも当然落ちてしまいます。
それでも復帰から2カ月でU20日本代表に選ばれたのですから、地力の高さは相当なものでした。
この回復の速さ自体が、もともとの身体能力の高さを裏づけています。
家族が見守った9カ月
本人以上に苦しかったのは、そばで見ていた家族かもしれません。
FNNは「心を閉ざすその姿に、見守った家族も苦しんだ」と伝えています。
声をかけても届かない時期があったことがうかがえる表現です。
それでも無理に競技へ引き戻そうとせず、静かに待ったからこそ、本人が自分の意思で戻ることができました。
復帰を決めたのは西山大翔さん自身ですが、その土台には家族の距離感があったはずです。
この9カ月は、のちの飛躍につながる大切な助走期間だったといえます。
中学のサッカー部も退部していた
実は西山大翔さんがチームを離れた経験は、東海大学が初めてではありません。
中学時代には、それまで8年間続けてきたサッカー部も退部していました。
ここでは、バレーボールに出会う前の歩みを整理します。
この経歴を押さえておくと、やめた理由の背景にある本人の気質がより見えやすくなりますよ。
小学生時代はサッカー少年だった
西山大翔さんの出身小学校は、神奈川県の岩原小学校です。
小学生時代に打ち込んでいたのはバレーボールではなく、サッカーでした。
ポジションはディフェンダーで、幼少期から通算で8年間プレーしていたといいます。
所属先の公式プロフィールでも、バレー以外の特技としてサッカーが挙げられています。
現在の跳躍力や体の使い方の土台には、この期間で培われたものがあるはずです。
まさか将来バレーボールで日本代表になるとは、本人も想像していなかったでしょうね。
トラブルによる退部と帰宅部生活
そのサッカー部を、西山大翔さんは中学1年で退部しています。
理由は本人の言葉として「ちょっとトラブルがあって」と伝えられていますが、詳細は公表されていません。
退部後は半年ほど帰宅部として過ごしました。
この時期に、後の人生を変える出来事が起こります。
身長が一気に伸び始め、165cmだった身長が中学卒業時には191cmに到達したのです。
26cm以上という伸び幅は、さすがに規格外ですよね。
中学2年でバレーボールへ転向
帰宅部生活を経て、西山大翔さんは中学2年でバレーボールを始めました。
きっかけは、両親と兄がバレーボールをしていたことです。
所属先の公式プロフィールでも、始めた理由として「家族みんながバレーをしていたので」と答えています。
中学は南足柄市立岡本中学校で、中学3年時にはJOC杯全国都道府県対抗で優秀選手賞を受賞しました。
競技歴1年ほどで全国レベルの表彰を受けるのですから、適性は圧倒的だったといえます。
ここから東海大学付属相模高校へ進む流れができあがりました。
岡本中トリオとして進んだ高校
中学時代の西山大翔さんには、もうひとつ知られたエピソードがあります。
南足柄市立岡本中学校のバレー部からは、西山大翔さんを含む3人が東海大学付属相模高校へ進学しました。
この3人は高校で「岡本中トリオ」と呼ばれ、周囲の注目を集めています。
春高バレーを目指して同じ高校を選んだ仲間がいたということですね。
中学卒業の時点で身長191cmに達していた西山大翔さんは、その中でも別格の存在でした。
競技歴1年半ほどで強豪校のスカウト対象になっていたわけですから、やはり規格外です。
2度の退部から見える共通点
サッカー部の退部と東海大学の退部、この2つには共通するものがあります。
どちらも技術や能力の問題ではなく、人間関係や環境への違和感が引き金になっている点です。
この点を捉えて「繊細な性格なのかもしれない」と評する記事もありました。
ただ、繊細さは弱さとイコールではありません。
自分に合わない場所を早く見極めて動けるのは、ひとつの判断力でもあります。
事実、2度の離脱を経た西山大翔さんは、自分に合う場所にたどり着いてから一気に伸びました。
やめた理由をめぐる噂と事実
ネット上では、やめた理由についていくつかの推測が飛び交っています。
ここでは、確認できる事実と推測にすぎない話を明確に切り分けて整理していきます。
曖昧な情報に振り回されないために、いちばん大事なパートかもしれません。
下記の表は、よく見かける情報の真偽をまとめたものです。
| よく見かける情報 | 実際のところ | 根拠となる情報源 |
|---|---|---|
| 東海大学を中退した | 事実 | 本人インタビュー・公式経歴 |
| バレー部も退部した | 事実 | 本人インタビュー |
| 理由は環境が合わなかったこと | 本人が明言 | 日刊スポーツの取材 |
| ケガが原因でやめた | 裏付けなし | 該当する報道は確認できず |
| 不祥事が理由だった | 裏付けなし | 該当する報道は確認できず |
| 在籍期間は約5カ月 | 事実 | 複数メディアが報道 |
ケガや不祥事という説は確認できない
まず押さえておきたいのが、ケガや不祥事を理由とする情報は見当たらないという点です。
大学を離れた前後に、故障や処分を伝えた報道は確認できません。
本人も一貫して環境の話しかしておらず、別の理由をほのめかす発言も出ていません。
復帰後すぐにU20日本代表に選ばれている事実も、身体面に問題がなかったことの裏づけになります。
もし大きな故障を抱えていたら、あの短期間での代表選出は難しかったはずです。
推測で語られがちな部分ですが、ここは冷静に見ておきたいところですね。
具体的な内容が語られない理由
とはいえ「環境が合わなかった」だけでは物足りないと感じる人もいるでしょう。
具体的な内容が語られないのには、いくつかの理由が考えられます。
ひとつは、当時所属していたチームや関係者への配慮です。
もうひとつは、本人がすでに前を向いていて、過去を掘り返す必要を感じていないことです。
実際、復帰後のインタビューで西山大翔さんが語るのは、ほとんどが現在と未来の話になっています。
語られない部分を勝手に埋めるより、語られた言葉を尊重するほうが実像に近づけるはずです。
もったいないという周囲の評価
当時の状況を象徴するのが、パナソニックの白澤健児コーチの言葉です。
白澤コーチは「辞めた背景は分からなかったが、バレーのプレーを見てポテンシャルは凄くあったので辞めるのはもったいないと思いました」と語っています。
チームの内部関係者ですら、やめた背景は把握していなかったわけです。
それでも能力への評価だけは揺るがなかったという事実が、この話のすべてを物語っています。
結果として、この「もったいない」という感覚が復帰への扉を開くことになりました。
やめていた期間についての誤解
離れていた期間についても、少し誤解が生まれやすい部分があります。
1年以上やめていたと書かれることもありますが、正確には中退から復帰まで約9カ月です。
2021年の秋に大学を離れ、2022年6月にパナソニックへ加入しています。
逆に、すぐ復帰したという表現も実態とは異なります。
9カ月というのは、伸び盛りの選手にとって決して短い時間ではありません。
数字を押さえておくと、この復活劇の密度がより正確に伝わってきますよね。
噂に惑わされない見方
情報を整理すると、確定しているのは中退と退部、そして環境が理由という3点だけです。
それ以外はすべて推測の域を出ません。
西山大翔さんのやめた理由について、少しイメージが湧きやすくなっていれば嬉しいです。
ここは気になる人も多いポイントなので、新しい発言や情報が出てきたら今後もアップデートしていきますね。
西山大翔がやめた理由を越えた復活と現在
- パナソニックからの偶然のオファー
- 自分にはバレーしかないの再発見
- 復帰後のVリーグでの成長と成績
- 日本代表初選出と銅メダル貢献
- 空白期を支えたバレー一家の存在
- 大阪ブルテオンでの現在の立ち位置
パナソニックからの偶然のオファー
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2021年末、就職活動を始めようとしていた西山大翔さんのもとに一本の連絡が入ります。
差出人は、Vリーグの強豪パナソニックパンサーズ(現・大阪ブルテオン)でした。
ここでは、人生を変えたこのオファーがどのように生まれたのかを追いかけます。
偶然が重なった経緯は、何度読んでも出来すぎた話に感じられますよ。
視察対象は別の選手だった
このオファーの発端は、まったくの偶然でした。
パナソニックのスタッフが東海大学を訪れたのは、本来は別の選手を視察するためだったのです。
ところが、その場でプレーしていた1年生の西山大翔さんが強く印象に残りました。
視察された側ではなく、たまたま同じコートにいた選手が心をつかんだという流れです。
もし西山大翔さんがその日休んでいたら、この話は存在しませんでした。
タイミングも人生の実力のうち、という言葉がぴたりとはまる出来事ですよね。
辞めるのはもったいないという判断
スタッフの記憶に残った西山大翔さんは、その後チーム内で話題にのぼり続けました。
白澤健児コーチが語った「辞めるのはもったいない」という感覚が、組織としての動きにつながっていきます。
すでに大学を離れていた選手に声をかけるというのは、決して当たり前の判断ではありません。
実戦から遠ざかった期間の長さを考えれば、リスクのある決断です。
それでも最高到達点350cmという飛び抜けた身体能力が、迷いを上回ったのでしょう。
結果から見れば、この判断は大正解でした。
チャンスをもらえたという受け止め
誘いを受けた西山大翔さんの反応は、驚くほど前向きでした。
本人は当時を振り返り、「チャンスをもらえたと思った。このままではダメだと、モチベーションになった」と語っています。
9カ月もボールに触れていなかった人の言葉とは思えない切り替えの早さです。
心のどこかに、まだ諦めきれていない部分が残っていたのだと思います。
気持ちを入れ替えた西山大翔さんは、そのまま入団を決意しました。
一度は完全に閉じたはずの扉が、外側からのノックで開いた瞬間でした。
声がかかった決め手はどこか
ここで気になるのが、なぜ大学を離れた選手にわざわざ声がかかったのかという点です。
決め手になったのは、やはり数字に表れる身体能力でした。
身長193cm、最高到達点350cm、指高255cmという数値は、日本人オポジットとして極めて高い水準にあります。
加えて、高校時代に春高の舞台で全国レベルの相手と戦った実戦経験も持っていました。
技術は取り戻せても、体のつくりと大舞台の経験は簡単には手に入りません。
この2つを備えていたことが、ブランクのリスクを上回る材料になったのでしょう。
2022年6月の正式加入
入団が正式に決まったのは、2022年6月のことです。
大学を中退したのが2021年秋ですから、およそ9カ月ぶりの競技復帰となりました。
加入後はブランクを取り戻すため、必死に練習へ取り組んだと伝えられています。
体力も感覚も落ちた状態からのスタートですから、相当な努力だったはずです。
その成果は、わずか2カ月後に最初の形となって現れることになります。
自分にはバレーしかないの再発見
復帰した西山大翔さんが口にした言葉が、この記事でいちばん印象的かもしれません。
コートに立った瞬間、「自分にはバレーしかない」という思いがよみがえったといいます。
ここでは、その心境の変化がどこから来たのかを掘り下げます。
離れたからこそ気づけたものがある、という話にきっと共感できるはずですよ。
コートで甦った忘れていた感覚
ブランクを経て再びコートに立ったとき、忘れていた感覚が一気に戻ってきました。
日刊スポーツの取材で西山大翔さんは「自分にはバレーしかない」と語っています。
これは自己否定ではなく、自分の居場所を確認した言葉として受け取るべきでしょう。
やめたいと思っていた競技が、実は自分を形づくっていたものだったと気づいたわけです。
9カ月という距離があったからこそ、その輪郭がはっきり見えたのだと思います。
離れてみないとわからないことって、確かにありますよね。
サッカーとの決定的な違い
この気づきを語るうえで、西山大翔さんはサッカーを引き合いに出しています。
幼少期に8年間プレーしたサッカーについては「周りとレベルが違う」と諦めたと明かしました。
一方、バレーボールは違いました。
復帰して初めて、手放したくないものだと自覚したというのです。
同じ「やめた」でも、サッカーとバレーボールでは意味がまったく異なっていたということになります。
この対比が、本人の中で復帰の決意を固める材料になったのでしょう。
競技への向き合い方が変わった
挫折を経験したことで、練習への姿勢も変化したといわれています。
以前よりも一日一日の練習を大切にするようになり、精神面でも大きく成長した姿が見られるようになりました。
当たり前に与えられていた環境が、当たり前ではないと知ったからこその変化です。
この意識の差は、同世代の選手との伸び幅にそのまま表れていきます。
競技歴の短さを補ったのは、この密度の濃さだったのかもしれません。
やめた経験を語れるようになるまで
興味深いのは、西山大翔さんが自分の空白期間をまったく隠していないことです。
取材のたびに大学中退について聞かれても、率直に当時の心境を語っています。
普通なら触れられたくない過去のはずですが、本人の中ではすでに整理がついているのでしょう。
むしろ、一度やめた経験そのものを自分の一部として捉えているようにも見えます。
同じように競技を続けるか迷っている人にとって、この姿勢は相当な救いになりますよね。
結果を出したから語れるという面はあるにせよ、言葉にする姿勢は本物だと思います。
感情を表に出すようになった変化
内面の変化は、コート上の表情にも現れました。
白澤健児コーチは、加入当初は「はい」「いいえ」しか言わなかった西山大翔さんについて、こう語っています。
「サーブを決めた時に地面を叩いてまで喜んでいる姿を見て、こんなことをするんだと。強い成長を感じました」という証言です。
2024年3月31日の決勝戦では、スパイクを決めれば大きなガッツポーズを見せ、敗れたあとには涙を流しました。
感情を全面に出せるようになったことこそ、復活の何よりの証だといえます。
心を閉ざしていた時期を知っていると、この変化は本当に大きいですよね。
復帰後のVリーグでの成長と成績
復帰後の西山大翔さんは、驚くようなスピードで結果を積み上げていきます。
加入からわずか数カ月でU20日本代表に選出され、Vリーグデビューも果たしました。
ここでは、数字と出来事の両面から成長の軌跡を確認していきます。
以下の表で、復帰後のあゆみを時系列に整理してみます。
| 時期 | 出来事 | 内容 |
|---|---|---|
| 2022年6月 | パナソニックへ正式加入 | 約9カ月ぶりの競技復帰 |
| 2022年8月 | アジアU20選手権に出場 | バーレーン開催・OHで起用 |
| 2022年10月 | Vリーグデビュー | 開幕戦に途中出場 |
| 2023年12月 | 天皇杯優勝 | チームの一員として戴冠 |
| 2024年2月23日 | 今季初スタメン | 以降6試合連続でチーム最多得点 |
| 2024年3月10日 | V・レギュラーラウンド1位通過 | 終盤の主力として貢献 |
加入2カ月でのU20代表入り
2022年6月に加入した西山大翔さんは、同年8月にはU20日本代表へ選出されました。
バーレーンで行われたアジアU20選手権には、アウトサイドヒッターとして出場しています。
9カ月のブランクがあった選手が、復帰2カ月で国際大会の日本代表です。
この時点で、失われていたのは実力ではなく気持ちだけだったことがはっきりしました。
同年10月にはVリーグの開幕戦に途中出場し、国内リーグデビューも果たしています。
復帰からここまで、わずか4カ月の出来事でした。
2年目に立ちはだかった壁
ただ、順風満帆というわけでもありませんでした。
2年目のシーズンは、同じオポジットに日本代表の西田有志選手が加入し、出場機会が限られたのです。
当時を西山大翔さんは「西田選手という大きな存在がスタートで入っていたので。出たいという気持ちはありましたが、実力不足も感じていました」と振り返っています。
悔しさを押し殺しながら2枚替えでの起用を受け入れる日々が続きました。
かつてなら、ここで気持ちが折れていたかもしれません。
それでも腐らずに続けられたところに、復帰後の変化が表れています。
シーズン終盤の爆発
そしてチャンスは、シーズン終盤に訪れます。
2024年2月18日のウルフドッグス名古屋戦では第3セットから出場し、チーム2位となる19得点をマークしました。
続く2月23日の日本製鉄堺ブレイザーズ戦ではそのシーズン初のスタメンに起用され、以降6試合連続でチーム最多得点を記録します。
本人も「武器であるスパイクとサーブがVリーグの上位チームに通用していることは、プラスにつながったと思います」と手応えを口にしました。
出番を待ち続けた選手が、つかんだ瞬間に結果を出したわけです。
この期間の働きが、チームのV・レギュラーラウンド1位通過を支えました。
数字で見る復帰後の実力
成長ぶりは、スタッツにもはっきり表れています。
2023-24シーズンの西山大翔さんは36試合85セットに出場し、アタック200得点、ブロック23得点、サービスエース10得点を記録しました。
途中出場が多かったシーズンでこの数字ですから、出場時間あたりの決定力の高さがうかがえます。
また、助っ人のトーマス・ジェスキー選手は西山大翔さんを「自分の若いときと少し似ていて、ほんとうに弟のような存在です」と評しました。
ウエイトトレーニングでは常にそばについて重量をチェックし、プロテインの摂取まで助言していたといいます。
世界を渡り歩いた選手が手をかけたくなるほどの原石だった、ということですね。
日本代表初選出と銅メダル貢献
復帰から約1年、西山大翔さんはついにシニア日本代表の舞台に立ちます。
一度は競技をやめた選手が、2023年に龍神NIPPONへ初選出されたのです。
ここでは、代表入りからメダル獲得までの流れを追いかけていきます。
やめた理由を知ったうえで読むと、この飛躍の異例さがより鮮明になりますよ。
想像していなかった初招集
初めて日の丸を背負ったとき、西山大翔さんの反応は控えめなものでした。
日刊スポーツの取材には「目標ではあったけど…。自分にはちょっと早いかなと思った」と答えています。
1度バレーボールをやめた男にとって、想像すらしていなかった招集だったと記事は伝えました。
身長193cm、最高到達点350cmのオポジットとしての評価が、代表の扉を開いたことになります。
中退から2年足らずでの代表入りですから、周囲の驚きも相当なものでした。
本人の実感が追いつかないのも無理はありません。
デビュー戦でいきなりのサービスエース
代表デビューは、ネーションズリーグ2023の決勝ラウンドでした。
ポーランド戦にリリーフサーバーとして途中出場すると、いきなりサービスエースを決めて話題になります。
短い出番で結果を出すというのは、想像以上に難しいことです。
その後は3位決定戦のイタリア戦にも出場し、日本の銅メダル獲得に貢献しました。
やめていた期間を思えば、この展開は物語としてできすぎています。
ここ、素直にすごいと思いませんか。
トップ選手が認めるサーブ力
西山大翔さんの武器は、なんといってもジャンプサーブです。
イタリアでプレーする髙橋藍選手は「彼のサーブは破壊力もありますし、サーブスキルは非常に高いですね」と評価しました。
実際にレシーブした日本代表リベロの山本智大選手は「あまり回転がかからないので、捕りづらいですね」と語っています。
さらに「今のサーブもだいぶ曲がってきたので。ちょっとウザい。仲間で良かったです」とまで話しました。
守備のスペシャリストがここまで言うのですから、相手チームにとってはかなり嫌な存在のはずです。
本人も「相手が嫌がってくるのはすごく感じたので、頑張りたいと思います」と手応えを口にしていました。
オポジットというポジションの特性
ここで、西山大翔さんが務めるオポジットについても整理しておきますね。
オポジットは攻撃専門のポジションで、守備には入らずサーブレシーブも行いません。
後衛になった際もレシーブはせず、バックアタックで攻撃に参加します。
セッターと対角になり、主にライト側に配されるのが一般的な起用法です。
つまり、決めることだけを求められる逃げ場のない役割だということになります。
この重圧のかかるポジションを一度競技を離れた選手が担っているのは、やはり驚くべきことです。
チームメートからの高い評価
評価しているのは髙橋藍選手だけではありません。
同じポジションで先を走る西田有志選手も、西山大翔さんについてこう語っています。
「僕がケガをしている時にずっと試合に出てチームを勝たせているので、日本代表に絶対に入ると思いますよ」という言葉です。
競争相手でもある選手からこう言われるのは、なかなかないことですよね。
2025年9月の世界選手権壮行試合のイタリア戦では、チーム2番目となる13得点を記録しました。
右利きのオポジットとして、着実に得点源へと育っています。
空白期を支えたバレー一家の存在
西山大翔さんがコートに戻れた背景には、家族の存在も欠かせません。
そもそもバレーボールを始めたきっかけからして、家族全員がバレーボール経験者という環境にありました。
ここでは、やめた時期を支えた家族について整理します。
下記の表は、公表されている家族構成をまとめたものです。
| 続柄 | わかっていること | バレーとの関わり |
|---|---|---|
| 父親 | 名前・職業ともに非公表 | バレーボール経験者 |
| 母親 | 名前・職業ともに非公表 | バレーボール経験者 |
| 兄 | 1人・名前や年齢は非公表 | 転向のきっかけをつくった人物 |
| 本人 | 西山大翔 | 大阪ブルテオン所属のオポジット |
4人家族というシンプルな構成
西山大翔さんの家族は、父親・母親・兄・本人の4人家族です。
両親ともに一般の方のため、名前や職業といった詳細は公表されていません。
ただ、本人がインタビューで「家族全員がバレーボール経験者」であることを明かしています。
所属先の公式プロフィールでも、バレーを始めたきっかけは「家族みんながバレーをしていたので」と答えていました。
家庭の中にバレーボールが当たり前にあった、ということですね。
この環境が、中学2年からのスタートでも急成長できた土台になっています。
兄の影響で始まったバレー人生
家族の中でも、特に大きな影響を与えたのが兄の存在です。
西山大翔さんには兄が1人おり、中学2年でバレーボールを始めたのは兄の影響が大きかったと本人が語っています。
名前や年齢といった詳細は公表されていませんが、当時から兄もバレーボールをしていた可能性が高いとみられています。
サッカー部を退部して帰宅部だった弟に、家族が競技を勧めたという流れでした。
もし兄がバレーボールをしていなかったら、現在の西山大翔さんは存在していなかったかもしれません。
兄のプレーする姿が、それだけ魅力的に映ったのでしょうね。
父親が実業団という噂の真偽
家族に関しては、ひとつ気になる噂があります。
一部で「父親が実業団に所属していた」という情報が流れているのです。
ただし、この話には裏付けとなる情報が見当たりません。
実業団でプレーしていたのであれば名前が判明していてもおかしくない、という指摘ももっともです。
現時点では、学生時代や地域クラブでの経験者と考えるのが妥当だとされています。
家族が一般の方である以上、この線引きは大切にしたいところです。
家族がつくった競技環境の強み
家族全員が経験者という環境には、技術面でも大きな利点があります。
中学2年という遅いスタートでも、家庭内に競技の知識がある状態でした。
フォームやルール、試合の見方を日常会話の中で共有できるのは想像以上のアドバンテージです。
競技歴わずか2年ほどで春高の舞台に立てた背景には、この環境が確実に効いています。
身体能力だけでなく、理解のスピードという面でも恵まれていたということですね。
サポート体制という意味でも、これ以上ない家庭だったといえます。
離れていた期間を見守った家族
そして、やめていた9カ月間を最も近くで見ていたのも家族でした。
FNNの取材では、心を閉ざす姿に家族も苦しんだと伝えられています。
それでも競技への復帰を急かすことなく、時間をかけて見守り続けました。
パナソニックからのオファーが届いたときも、家族との話し合いがあったと考えるのが自然です。
バレーボールを始めるきっかけを与えたのも、やめた時期を支えたのも家族だったということになります。
復活劇の土台には、こうした静かなサポートがあったんですね。
大阪ブルテオンでの現在の立ち位置
やめた理由を乗り越えた西山大翔さんは、現在どんな立場にいるのでしょうか。
結論から言うと、大阪ブルテオンの主力候補として計算される存在にまで成長しています。
ここでは、現在の活動状況と今後の展望を確認していきます。
最後まで読むと、あの空白期間が何につながったのかがはっきり見えてきますよ。
契約更新とチームでの役割
所属する大阪ブルテオンとは、2026-27シーズンの契約更新が発表されています。
発表は同じく若手の甲斐優斗選手とあわせて行われ、クラブの将来を担う顔ぶれとして紹介されました。
複数年にわたって計算される戦力として、チームが次世代の柱と見ていることがわかります。
西田有志選手というトップ選手が同じポジションにいる環境は、厳しくもあり恵まれてもいます。
日本最高峰の技術を毎日間近で見られるのですから、伸びない理由がありません。
この競争環境こそ、現在の西山大翔さんに合った場所なのだと思います。
日本代表での立場
日本代表については、2023年の初選出以降も継続して名前が挙がっています。
直近では日本B代表メンバーにも選出され、国際舞台での出場機会を積み重ねている状況です。
石川祐希選手や髙橋藍選手といった軸が確立された代表の中で、得点源としての序列を上げていく段階にあります。
本人も日刊スポーツの取材で「まだまだ成長したい。代表でスタメンに入ることが目標です」と語りました。
目標が明確な選手は強いですよね。
西田有志選手に続く得点源として、大きな飛躍を遂げる可能性を秘めています。
競技外での注目度
注目度は、コートの外にも広がっています。
バレーウェアブランドのMILEGRAとサプライヤー契約を締結したことも発表されました。
所属先の公式プロフィールでは、好きな飲み物にカフェラテ、得意料理にチャーハン、よく聴く曲にback numberの「瞬き」を挙げています。
試合前に必ずすることは「トイレに行く」という、なんとも人間味のある回答も残していました。
チームでNo.1だと思うものにはジャンプ力を挙げており、自分の武器をしっかり自覚しています。
人見知りと公言しながら、少しずつ言葉で発信する選手になってきました。
同世代との競争が続く現在地
現在の日本代表には、同世代のライバルが何人もいます。
ネーションズリーグ2026では、同じ大阪ブルテオンの甲斐優斗選手がアウトサイドヒッターとして存在感を示しました。
ポジションは違っても、若手の枠を争う相手であることに変わりはありません。
刺激の多い場所に身を置けているのは、西山大翔さんにとって幸運なことだと思います。
かつて環境が合わずに競技を離れた選手が、いまは競争の激しい環境で伸びているのですから面白いものですよね。
合う場所を見つけられるかどうかで、人はここまで変わるということなのでしょう。
やめた経験が生きる未来
トーマス・ジェスキー選手は、西山大翔さんの歩みについてこう語っています。
「西山選手は大学を途中で辞めて、プロの世界まではほかの人とは違う道でしたが、それは全然いいことだと思います」という言葉です。
さらに「いっぱい努力すれば誰も止められないくらいポテンシャルがある」と続けました。
遠回りに見えた道が、独自の強さを育てたということですね。
挫折を知る選手だからこそ持てる粘り強さは、これから大舞台で効いてくるはずです。
今後も西山大翔さんの活躍が期待されます。
西山大翔がやめた理由と復活の総まとめ
- 西山大翔がやめた理由は東海大の環境との不一致だった
- やめた理由は環境が合わずやりづらくなったと本人が明言
- 東海大学の在籍期間はわずか5カ月ほどで中退している
- バレーボール部の退部と大学中退を同時に決断していた
- 中学2年から続けた競技にももういいかなと意欲を喪失
- 中退後は約9カ月間ボールに触れず自宅で過ごしていた
- 空白期間は自宅で漫画やアニメに没頭する日々を送った
- 本人は当時競技をやめて就職活動を始めようとしていた
- 中学時代はサッカー部もトラブルが理由で退部している
- 帰宅部だった期間に身長が191cmまで一気に伸びた
- ケガや不祥事が理由という説には一切裏付けが存在しない
- パナソニックからの偶然の誘いが競技復帰の転機になった
- 2022年6月に加入し自分にはバレーしかないと実感
- 2023年に日本代表へ初選出されVNL銅メダルに貢献
- 現在は大阪ブルテオンの主力候補として活躍を続けている
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