西本聖の嫁・由里子さんとガス爆発事故|離婚しなかった夫婦の絆

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西本聖さんといえば、江川卓さんとともに巨人のダブルエースとして活躍した、不屈の精神を持つ元プロ野球選手です。

シュートを武器にドラフト外から通算165勝を積み重ねた姿は、多くの野球ファンの記憶に刻まれているでしょう。

そんな西本さんの嫁・由里子さんは、1981年3月15日に川崎市内の自宅でガス爆発事故に遭い、全身の65%をやけどするという重傷を負いました。

新婚1年目のできごとだっただけに、その衝撃は計り知れないものがありますよね。

この記事では、嫁・由里子さんとの出会いと事故後の夫婦の絆、離婚説の真相、さらには野球選手や力士を輩出したアスリート一家としての西本家の全貌まで、詳しく解説していきます。

記事のポイント

①:嫁・由里子さんが全身65%やけどの重傷を負った

②:事故後も離婚せず夫婦の絆はその後も続いている

③:「永久欠番夫婦」という感動的な名言を本に残した

④:五兄弟のうち4人がスポーツ界で活躍した家族

西本聖の嫁・由里子さんとガス爆発事故の真相

  • 西本聖の嫁・由里子さんのプロフィールと出会い
  • 【全身65%やけど】川崎自宅ガス爆発の衝撃
  • 事故後も離婚せず|嫁への愛が生んだ沢村賞
  • 「俺たち夫婦は永久欠番」嫁・由里子さんへの誓い
  • 西本聖と嫁の離婚説の真相|噂の根拠検証

西本聖の嫁・由里子さんのプロフィールと出会い

 

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西本さんの嫁・由里子さんについて、現在公表されている情報は限られています。

名前は「由里子さん」であることが各種インタビューや書籍から確認できますが、旧姓・出身地・職業などの詳細は非公表です。

下記の表は由里子さんの基本情報をまとめたものです。

項目 内容
名前 由里子さん(旧姓非公表)
結婚時期 1980年頃(1981年に「結婚1年目」との発言より)
出身・職業 非公表
子供 公表なし

西本聖のプロフィール

西本さん自身のプロフィールも合わせて確認しておきましょう。

項目 内容
本名 西本 聖(にしもと たかし)
生年月日 1956年6月27日
2026年04月27日現在の年齢 69歳
出身地 愛媛県松山市
出身校 愛媛県立松山商業高等学校
身長 176cm
入団 1975年(ドラフト外)
所属球団 読売ジャイアンツ(1975〜88・1994)/中日ドラゴンズ(1989〜92)/オリックス・ブルーウェーブ(1993)
引退 1994年
通算成績 165勝128敗17セーブ、防御率3.20
主なタイトル 最多勝2回(1981・1989年)、沢村賞(1981年)

嫁・由里子さんとの馴れ初め

嫁・由里子さんとの馴れ初めについて、西本さん自身が公の場で詳しく語ったことはほとんどありません。

ただ、結婚したのは1980年頃であり、当時の西本さんはドラフト外から這い上がり、巨人のローテーション投手として確固たる地位を築き始めた時期です。

14勝を挙げた1980年シーズンの充実感と、私生活での結婚という二重の喜びを手にしていたわけですが、その翌春に衝撃的な出来事が夫婦を襲うことになります。

西本さんは「結婚1年目です。帰国する飛行機に乗りながら、女房のご両親に申し訳ないなと。自分と結婚したから、こういうことになったんじゃないかと思いました」と語っており、由里子さんへの深い愛情と誠実な人柄がにじみ出ています。

由里子さんの詳細は非公表のままですが、その後の西本さんの言動を通じて、彼女がいかに西本さんの人生を支えた存在であるかが伝わってきますよね。

ここ、気になりますよね。詳細は次のH3以降で詳しく掘り下げていきます。

【全身65%やけど】川崎自宅ガス爆発の衝撃

西本聖さんと嫁・由里子さんの夫婦を語る上で、絶対に欠かせないのが1981年3月に起きたガス爆発事故です。

この出来事が、その後の西本さんの野球人生を大きく動かすことになりました。

事故発生の経緯

1981年3月15日の朝8時頃、川崎市内にある西本さんの自宅で悲劇は起きました。

当時、由里子さんは台所で湯を沸かすためにプロパンガスに点火しようとしていました。

しかし、その瞬間にガスが爆発し、由里子さんは全身の65%をやけどするという重症を負い、横浜市内の病院に緊急搬送されて集中治療室での治療を余儀なくされました。

医師からも「亡くなってもおかしくない状況」と言われるほどの重体で、当時のニュースでも大きく報道されました。

一方の西本さんは、このとき読売ジャイアンツの一員としてアメリカ・フロリダのベロビーチで春季キャンプに参加中でした。

チームが帰国する1日前に事故の知らせを受けた西本さんは、急遽一人で帰国することになります。

帰国する飛行機の中で「女房のご両親に申し訳ない」という思いが胸をよぎり、「自分と結婚したから、こういうことになったんじゃないか」と深く自分を責めたといいます。

由里子さんの不屈の精神

事故後、由里子さんを特に気遣ったのは「顔が大丈夫だったこと」でした。

由里子さんは爆発の瞬間、本能的に両手で顔を押さえたため、顔への被害を最小限に抑えることができたのです。

全身の65%というやけどの重症度は、医学的にも生命の限界を超えるレベルとされており、当時取材した記者も「生命の限界を超えてると言われていた」と証言しています。

それでも由里子さんは懸命に治療に耐え、無事に退院することができました。

西本さんは後のインタビューで「でも、女房が頑張ってくれてね。運が強かったというか」と振り返っており、由里子さんへの敬意と感謝が言葉の端々に込められています。

帰国後の西本さんは知人宅で過ごすことになりましたが、「正直なところ野球をしている場合ではなかった」とその当時の心境を語っています。

新婚1年目のカップルに降りかかった試練としては、これほどつらいものはなかったはずです。それでも西本さんは野球に向き合い続けたのです。

このキャンプ中には、アイク生原昭宏さんが励ましの言葉をかけてくれたことでも知られており、西本さんが涙したというエピソードも残っています。

事故後も離婚せず|嫁への愛が生んだ沢村賞

ガス爆発事故という未曽有の試練を乗り越え、西本さんは嫁・由里子さんへの思いを胸に、1981年シーズンで驚異的なパフォーマンスを発揮します。

妻のやけどをバネにした開幕投手

1981年、西本さんは初めて開幕投手を任されました。

当時の西本さんの心境はこうです。「ああいうことがあったから、西本はダメだった」と言われたくない。そう言われると一番気を落とすのは女房だから、頑張らなきゃいけないと思った——。

嫁への思いやりが、マウンドでの闘志に変わっていたのです。

開幕戦の相手は中日ドラゴンズ。西本さんはこの試合を完投勝利で飾り、その後も勝ち星を積み重ねていきました。

また、あるエピソードとして知られているのが、由里子さんの焼け落ちた皮膚を尻のポケットに入れて登板したという話です。

妻の傷の痕を常に体の傍に置くことで、マウンドでの覚悟と誓いを守り続けたわけです。これほどの愛情表現は、なかなかできるものではありません。

1981年シーズンの成績と沢村賞受賞

この年の西本さんの最終成績は18勝12敗、防御率2.58という好成績で、リーグ優勝にも大きく貢献しました。

そして、投手最高の栄誉とされる沢村賞を受賞します。

ただ、当時の江川卓さんは20勝6敗・221奪三振・防御率2.29という成績で最多勝・最多奪三振・最優秀防御率のタイトルを総ナメにしていたため、「なんで西本なんだ、江川じゃないのか」という声もあったといいます。

記者投票による選出という仕組みも影響したといわれますが、西本さん自身は「沢村賞はナンバーワンピッチャーですから、うれしかったですね」と素直に喜びを語っています。

さらに同年の日本シリーズ(対日本ハム)では、第2戦の完投勝利と第5戦の完封勝利を挙げてMVPを受賞。巨人の日本一に最大の貢献をした立役者となりました。

嫁・由里子さんの事故があったにもかかわらず、いやむしろその苦難をバネにして、西本さんは自己最高ともいえるシーズンを過ごしたのです。

事故後も離婚せず、夫婦で苦難を乗り越えた絆が、この素晴らしい成績の裏にあったことは間違いないでしょう。

「俺たち夫婦は永久欠番」嫁・由里子さんへの誓い

西本さんの嫁・由里子さんへの深い愛情を示すエピソードとして、多くのファンの心に刻まれている名言があります。

それが「俺たち夫婦は永久欠番。再婚だけはしないでほしい」という言葉です。

「妻への遺言」という書籍

この言葉が収められているのは、2006年4月に発売された「妻への遺言」(著:根本直樹さん)という書籍です。

「妻への遺言」というタイトルは、自分が先に逝ったときに残しておきたいメッセージという意味合いを持ち、西本さんが由里子さんへの深い思いを言葉に託しています。

書籍の中で西本さんが贈った言葉が「俺たち夫婦は永久欠番。再婚だけはしないでほしい」であり、これは野球用語を使った唯一無二の愛情表現として今でも語り継がれています。

「永久欠番」という表現の意味

野球における「永久欠番」とは、特定の選手の功績を称えてその背番号を永久に使用しないことを意味します。

その背番号は、他の誰にも渡さない——つまり「あなたの代わりは誰もいない」「あなただけが私の永遠のパートナーだ」という宣言です。

プロ野球選手ならではの表現で、由里子さんへの愛情と覚悟を込めたこの言葉は、西本さんの人柄をそのまま体現しているといっていいでしょう。

「再婚だけはしないでほしい」という一文も、自分が先に逝ったとしても由里子さんだけを思い続けたいという純粋な気持ちの裏返しです。

また、西本さんは現役引退の際に「長嶋監督で始まって長嶋監督で終わりたかった」と語るなど、義理と人情をこよなく大切にする人物として知られています。

そのような人間性が、嫁・由里子さんへの一途な思いにも反映されているのだと感じます。

ガス爆発事故という生死の境をともに経験した夫婦だからこそ、この言葉の重みは格別です。

少しイメージが湧いてきましたか。次のH3では、世間で話題になった「離婚説」の真相を検証していきましょう。

西本聖と嫁の離婚説の真相|噂の根拠検証

西本聖さんと嫁・由里子さんに関して、ネット上では「離婚した」という噂が一部で出回っています。

ここでは、この離婚説の根拠と真相を整理しておきます。

離婚説が浮上した背景

西本さん夫婦への離婚説が出た正確な理由は明確ではありませんが、事故の深刻さや新婚1年目という時期から「別れてしまったのでは」と想像した人がいる可能性が考えられます。

全身65%のやけどという重傷を負った事故は、当時のプロ野球界でも大きく報道されました。

あれほどの試練が夫婦関係に影響を与えたのではないかと思う人がいるのは、ある意味で自然なことかもしれません。

離婚の事実は確認されていない

結論から言うと、西本聖さんと嫁・由里子さんが離婚したという事実は、現在に至るまで公式に確認されていません。

むしろ、事故後に西本さんが発した言葉や行動は、離婚とは真逆の強い絆を示しています。

「女房が頑張ってくれた」「女房が一番気を落とすから頑張らなきゃいけない」という言葉に加え、由里子さんの皮膚をポケットに入れて登板したという行動は、離婚を考えた人間のそれではありません。

さらに2006年に出版された「妻への遺言」において「俺たち夫婦は永久欠番」という言葉を綴っていることは、引退後も夫婦関係が続いていることを示す有力な証拠です。

西本さん夫婦の離婚説はあくまで根拠のない噂であり、事実と異なります。

むしろ、あれだけの大事故を乗り越えた夫婦だからこそ、より一層の絆で結ばれているのではないでしょうか。

西本聖の嫁と家族を支えた兄弟アスリート一家の全貌

  • 西本家5男2女の大家族と「西本五兄弟」の異名
  • 三男・明和の甲子園準優勝と広島カープ入団
  • 二男・忠雄は力士「玉松山」|四男・正夫も甲子園
  • 野球解説者として活動する西本聖の現在
  • 長嶋茂雄が飛び入り参加した引退試合のドラマ

西本家5男2女の大家族と「西本五兄弟」の異名

 

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西本聖さんの家族背景を理解すると、なぜ彼がこれほどの不屈の精神を持つのかが見えてきます。

西本家は5男2女の計7人兄弟という大家族で、西本聖さんは男子の中では末っ子にあたります。

「西本五兄弟」の全貌

地元・松山では「西本五兄弟」と言われるほど有名なスポーツ一家で、5人の兄弟のうち少なくとも4人がプロや実業団など高いレベルで活躍しました。

以下の表で家族構成を整理しておきます。

続柄 名前 活躍分野・主な実績
二男 忠雄さん 相撲(四股名:玉松山、三段目36位)
三男 明和さん 野球(広島カープ・ドラフト1位、1966年甲子園準優勝)
四男 正夫さん 野球(1969年甲子園出場、中央大学・日本生命)
五男(末男) 聖さん プロ野球(通算165勝、沢村賞)

スポーツ一家が生まれた土台

7人という大家族の中で育まれた競争意識と向上心が、兄弟たちをスポーツの世界へと駆り立てたのかもしれません。

西本さん自身もドラフト外という逆境からプロ野球選手になり、通算165勝というドラフト外選手最多の勝ち星を積み重ねました。

「なんとか這い上がろう」という精神は、兄弟全員に共通する西本家のDNAといえるでしょう。

西本さんが嫁・由里子さんの事故後も諦めずにマウンドに立ち続けた精神力も、この家族の中で培われたものかもしれませんね。

地元・松山でスポーツ一家として名を馳せた西本家の誇りが、それぞれの道で花を咲かせたと感じます。

三男・明和の甲子園準優勝と広島カープ入団

西本聖さんの三男の兄・明和さんもまた、プロ野球の世界で活躍した人物です。

西本聖さんと同じ愛媛県立松山商業高等学校(通称・松山商業)の出身で、エース投手として甲子園に出場しました。

1966年夏の甲子園での活躍

明和さんが松山商業高校のエースとして出場した1966年夏の第48回全国高校野球選手権大会で、松山商業は準優勝を果たしました。

この活躍が認められ、1966年11月のドラフト会議で広島カープから1位指名を受けて入団しています。

1969年の開幕第3戦には先発登板し、中日ドラゴンズのエース・星野仙一さんと投げ合って初完投勝利を飾るという印象的なプロデビューを飾りました。

野手転向と闘病・不屈のカムバック

その後、明和さんは野手に転向して1軍出場も果たしましたが、怪我と肝臓病に苦しみ、1973年オフに現役を引退しています。

しかし、ここで終わらないのが西本家のDNAです。

3年にわたる闘病生活を経た1976年、明和さんは再び広島カープの入団試験に合格するという快挙を成し遂げました。

残念ながら夢だった1軍復帰は叶いませんでしたが、その不屈の精神は球界関係者やファンを大いに驚かせました。

「諦めない」という姿勢は、弟の西本聖さんにも共通するものです。

実際、西本さんも椎間板ヘルニアの手術から復帰し、40歳近くまで現役にこだわり続けたことを考えると、兄・明和さんから学んだものが大きかったのではないでしょうか。

松山という地で育まれた西本家の不屈の精神は、兄弟を通じて受け継がれています。

二男・忠雄は力士「玉松山」|四男・正夫も甲子園

西本家のアスリート一家ぶりは、野球だけにとどまりません。

二男・忠雄さんは相撲の世界で活躍し、四男・正夫さんもまた甲子園のグラウンドを踏んでいます。

二男・忠雄さんの力士人生

西本聖さんの二男の兄・忠雄さんは、相撲界に進みました。

四股名は「玉松山(たままつやま)」という名前で、三段目36位まで出世しています。

1963年9月場所をもって現役を引退していますが、地元・松山の名を冠した四股名で土俵に立ち続けた姿は、故郷への誇りの表れといえるでしょう。

野球に進んだ兄弟が多い中で、相撲という全く異なるスポーツの世界でプロとして活動した忠雄さんの存在は、西本家の多様なスポーツへの適性を示しています。

四男・正夫さんの甲子園出場

四男の正夫さんは、三男・明和さんと同じ松山商業高校に進み、一塁手として1969年夏の甲子園大会に出場しました。

三男・明和さんは1966年の甲子園で準優勝投手として活躍し、正夫さんもまた甲子園の舞台に立ったわけですが、同じ高校から2人の兄弟が甲子園に出場するというのは、西本家のアスリートとしての才能を示すエピソードです。

正夫さんはその後も中央大学と日本生命でプレーを続け、社会人野球の世界でも活躍したとされています。

松山商業高校から甲子園、そして大学・社会人へと野球を続けた正夫さんの姿は、野球を愛する西本家の象徴といえますね。

兄弟それぞれが異なる道でスポーツに打ち込んだ西本家は、地元・愛媛松山では今でも伝説的な存在です。

そしてその末弟として、プロ野球界で最も輝かしい成績を残したのが西本聖さんです。嫁・由里子さんという心強いパートナーを得て、様々な試練を乗り越えながら通算165勝を達成した軌跡は、まさにアスリート一家の集大成といえるでしょう。

野球解説者として活動する西本聖の現在

西本聖さんは1994年のシーズンをもって現役を引退した後、長年にわたってプロ野球界に貢献し続けています。

現在の活動について整理してみましょう。

引退後のコーチ歴

現役引退後、西本さんは複数の球団でコーチを歴任しています。

球団 役職
阪神タイガース 投手コーチ
千葉ロッテマリーンズ 投手コーチ
オリックス・バファローズ 投手コーチ
ハンファ・イーグルス(韓国) 投手コーチ

特に注目されるのが、韓国プロ野球・ハンファ・イーグルスでの指導経験です。

同じ野球でも言語・文化が異なる韓国での指導は、日本国内とは全く違う難しさがあります。

その経験を通じて、野球という競技の普遍的な本質に対する理解をさらに深めたといわれています。

野球解説者・評論家としての現在

2016年からは日刊スポーツや文化放送の野球解説者として活動しており、現在もその活動を続けています。

現役時代の豊富な実戦経験と、複数球団でのコーチ経験から導かれる解説は非常に的確で、特に投手目線の細かな分析が評価されています。

厳しい物言いの中にも人情味あふれる語り口は、多くの野球ファンから支持を受けています。

また、マスターズリーグにも参加しており、札幌アンビシャスの一員として投手として活躍したエピソードも残っています。

新聞やラジオが活動の中心であるため、テレビで見かける機会は多くありませんが、OB間でのYouTube出演も増えており、今後さらに露出が増えるかもしれませんね。

長嶋茂雄が飛び入り参加した引退試合のドラマ

西本聖さんの引退にまつわるエピソードは、多くの野球ファンの心を打つドラマに満ちています。

通常はシーズン中に行われる引退試合が、西本さんの場合は特別な形で実現しました。

10.8決戦と引退試合のなかった1994年シーズン

1994年シーズン、西本さんは背番号「90」を与えられて古巣・巨人に復帰します。

この背番号「90」は、かつて第1次政権時代に長嶋茂雄監督が着用していた番号であり、2人の深い絆を象徴するものでした。

しかし、西本さんは長嶋監督の期待に応えるべくコンディションを整えていたものの、1軍での登板機会はついに訪れませんでした。

その年の巨人は中日ドラゴンズと激しいペナント争いを繰り広げ、「10.8決戦」として語り継がれる最終戦まで優勝争いが続いたため、引退試合を行う余裕がなかったのです。

長嶋監督自身も後に「西本にはかわいそうなことをした。シーズン中に登板のチャンスを与えようと思ったんだが、もつれちゃったからね」と語っています。

1995年1月の「手作り引退試合」

西本さんの引退試合ができなかったことを不憫に思ったチームメイトや記者たちが、シーズンオフに「手作り引退試合」を企画しました。

1995年1月21日、伝説の多摩川グラウンドで行われたこの引退試合には、観客2000人が集まりました。

定岡正二さんが率いる「サダーズ」と対戦し、桑田真澄さんら現役・OBの著名選手が多数参加。

試合は盛り上がりを見せ、7回二死の時点でノーヒットノーランが続くという展開になりました。

そこへなんと「代打・長嶋」のアナウンスが流れたのです。

長嶋茂雄監督が打席に立つという「まさか」のサプライズに、グラウンドに集まった人々は大いに沸きました。

長嶋さんが初球をフルスイングすると、サードへのボテボテのゴロになりましたが、全力疾走で内野安打をもぎとります。

現役時代さながらの全力疾走は「大記録」の夢を打ち砕くものでしたが、それ以上に西本さんと長嶋さんの絆を示す感動的な場面となりました。

さらに長嶋監督は、自らが着てきたオーストリッチ製のジャケットを脱いで西本さんにプレゼントするという粋な計らいも見せています。

西本さんは「長嶋さんで始まって長嶋さんで終わりたかった。あれはうれしかったですね」と振り返っており、野球人生の締めくくりに最高の舞台が用意されたといえるでしょう。

西本聖の嫁・由里子さんへの愛情と家族の絆|総まとめ

  • 西本聖さんは1956年6月27日生まれ、愛媛県松山市出身の元プロ野球投手
  • 嫁・由里子さんと1980年頃に結婚(詳細プロフィールは非公表)
  • 1981年3月15日、川崎市内の自宅でガス爆発事故が発生
  • 由里子さんは全身65%やけどという重傷を負い集中治療室で治療を受けた
  • 両手で顔を覆う本能的な行動により顔への被害は最小限に抑えられた
  • 西本さんはフロリダキャンプ中に急遽帰国し、嫁の回復を祈り続けた
  • 事故後も離婚せず、試練を夫婦でともに乗り越えた
  • 嫁への思いをバネに1981年シーズン18勝・沢村賞を受賞した
  • 同年の日本シリーズでもMVPを獲得し巨人の日本一に貢献
  • 2006年の著書に「俺たち夫婦は永久欠番。再婚だけはしないでほしい」という名言を残した
  • 離婚説はネット上の噂に過ぎず、事実は確認されていない
  • 西本家は5男2女の7人兄弟、地元では「西本五兄弟」と称されたアスリート一家
  • 三男・明和さんは広島カープのドラフト1位、二男・忠雄さんは力士「玉松山」
  • 引退後は阪神・ロッテ・オリックス・韓国ハンファのコーチを歴任し2016年から野球解説者
  • 1995年の引退試合では長嶋茂雄のサプライズ参加が多くのファンの感動を呼んだ

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