草木ひなのの親が語る鬼姫誕生の秘密|母親・ユリさんと祖父の絆

草木ひなのの親が語る鬼姫誕生の秘密|母親・ユリさんと祖父の絆

※本サイトのコンテンツには、商品プロモーションが含まれています。

草木ひなのさんは、スケートボード女子パーク競技の日本代表として2024年パリオリンピックの決勝に進出した茨城県つくば市出身のアスリートです。

「鬼姫」という愛称で知られ、16歳での五輪出場は多くの注目を集めました。

草木ひなのさんがスケートボードを始めたきっかけは、スケートボード経験者だった母・草木ユリさんの姿を見て「負けたくない」と感じたことでした。

母への対抗心から練習に励み、わずか数年で日本チャンピオンに上り詰めた草木ひなのさん。

亡き祖父との約束を胸に掴んだパリ五輪出場の裏側にある、草木ひなのさんの親や家族の素顔に迫ります。

記事のポイント

①:母・ユリさんはスケボー経験者で最初のライバル

②:父親の詳細情報は現在非公開

③:亡き祖父との約束がパリ五輪への原動力

④:は2歳年下でサッカー少年

草木ひなのの親とスケートボードの原点

  • 母・草木ユリのプロフィール|スケボー経験者という素顔
  • 【最初のライバル】母への対抗心がスケボーへの原点
  • 父親の情報と草木ひなのの家族構成
  • 亡き祖父・大山岩男との約束|パリへの道
  • 草木ひなのを育てたつくばのスケボーパーク環境
  • 草木ひなののプロフィールと競技経歴

母・草木ユリのプロフィール|スケボー経験者という素顔

 

この投稿をInstagramで見る

 

Hinano Kusaki(@hinano_kusaki)がシェアした投稿

草木ひなのさんの母親は、草木ユリさんというお名前です。

2024年の報道では48歳とされており、草木ひなのさんがスケートボードの世界に飛び込むきっかけをつくった、まさにスケートボード人生の原点とも言える存在です。

ユリさん自身もスケートボード経験者で、趣味として長年親しんでいました。

そのため、ひなのさんが幼いころから茨城県つくば市内にあるスケートボードパーク「AXIS SKATEBOARD PARK」に連れて行き、スケートボードの楽しさや奥深さが自然と伝わる環境を整えていたのです。

下記の表は、草木ユリさんのプロフィールをまとめたものです。

項目 詳細
名前 草木ユリ
年齢 48歳(2024年当時の報道より)
趣味・特技 スケートボード
草木ひなの(スケートボード選手)
主な役割 ひなののスケートボードとの出会いのきっかけを作った

ユリさんがスケボーパークへ連れていった理由

ユリさんがひなのさんをスケートボードパークに連れていったのは、特別なねらいがあったわけではありませんでした。

ただ、自分が好きなスケートボードを楽しむ場所に、幼い娘を一緒に連れていっていた——それだけのことだったようです。

しかし、そのさりげない行動が、後に「鬼姫」と呼ばれる選手を生み出すことになるのですから、人生はわからないものですよね。

ユリさん本人がオリンピック選手を育てようとしていたわけではなく、「好きなことを一緒に楽しもう」という自然体の親子関係がひなのさんの才能を引き出したと言えるでしょう。

スケボー経験者の母が与えた影響

ユリさんがスケートボードを実際に滑れる経験者だったことは、ひなのさんにとって非常に大きな意味を持ちます。

ただ「やってみなさい」と言うだけの親と、自分自身がスケートボードを滑れる親とでは、子供が受け取るメッセージがまったく違います。

「お母さんができるなら自分もできるはず」という自然なモチベーションが生まれ、同時に「お母さんより上手くなりたい」という競争心にも火がついたのです。

その競争心こそが、草木ひなのさんを日本チャンピオンへ、そして世界の舞台へと導いた原動力の一つです。

ユリさんは選手ではありませんでしたが、スケートボードを愛する母親として、娘に最高のスタート地点を与えたと言えるでしょう。

【最初のライバル】母への対抗心がスケボーへの原点

草木ひなのさんがスケートボードを始めた当初、実は「スケボーが嫌い」だったというエピソードがあります。

ここ、意外ですよね。

転んで痛い思いをしたり、お母さんのようにうまく滑れなかったりと、最初はなかなか楽しめなかったそうです。

それでもひなのさんの中に燃え続けたのが、「お母さんに負けたくない!」という強烈な対抗心でした。

この気持ちが、練習を続けさせる力になっていたのです。

チックタックとパンダのボード

スケートボードを始めるようになったひなのさんが、自分のボードを欲しがるようになったときのエピソードが微笑ましいです。

ユリさんに「スケートボードを買って」とお願いしたところ、「チックタックができたら買ってあげる」と言われたそうです。

チックタックとは、スケートボードの初心者がまず覚える基本技で、ボードを左右に動かしながら前に進む動きのこと。

最初はなかなかできず悔しい思いをしましたが、負けず嫌いの本領を発揮してついにマスター。

「できたのになかなか買ってもらえなかったけど」と笑うひなのさんですが、ようやく手に入れた初ボードはパンダの絵が描かれたものだったそうです。

「とってもかわいくて、うれしかった」と語るひなのさんの言葉が、幼いころからの純粋なスケートボードへの愛着を感じさせます。

嫌いから好きへ——転換点はパークの大人たち

最初はスケボーが嫌いだったひなのさんですが、転換点になったのが、つくばのスケートボードパーク「AXIS SKATEBOARD PARK」に集まる大人たちからの称賛でした。

まだ幼いひなのさんがドロップ(板を端にかけて滑り降りる動き)をすぐにやってのけると、パークにいた大人たちが次々と褒めてくれたのです。

ユリさん自身もその動きで骨折したことがあるほど難しい技だったにもかかわらず、ひなのさんはあっさりできてしまいました。

褒められる経験が積み重なるにつれて、「スケボー嫌い」はいつの間にか「スケボー大好き」へと変わっていったのです。

この「母への対抗心→褒められる体験→好きになる」という流れが、草木ひなのさんというアスリートを作り上げた重要なプロセスだと言えるでしょう。

父親の情報と草木ひなのの家族構成

草木ひなのさんの父親については、残念ながら現在のところ詳細な情報は公開されていません。

名前や職業など、具体的な情報はメディアやインタビューを通じて明らかになっておらず、非常にプライベートを守っている様子がうかがえます。

一方で、草木家の家族構成については、父親・母親・草木ひなのさん・弟の4人家族だと考えられています。

ただし、この情報も公式に発表されたものではなく、メディアの報道や関係者の情報から推測されるものです。

父親の経済的サポートという側面

父親に関する直接的な情報は少ないですが、草木ひなのさんの幼少期の環境を振り返ると、父親の存在と経済的サポートの大きさが見えてきます。

ひなのさんは幼いころから、水泳・ダンス・サッカー・トランポリン・器械体操といった多種多様な習い事をしていました。

これらすべての習い事の費用に加え、スケートボードという競技自体もボードや防具の購入費、遠征費など、決して安くない出費が続きます。

全日本選手権への参加、国際大会への遠征、そしてパリオリンピックの代表活動まで、長年にわたって惜しみなくサポートしてきた背景には、父親による経済的な支えがあった可能性が高いと考えられます。

収入の高い職業についているのではないかと推測できますが、あくまでも現時点では確認できていない情報です。

父親の存在感について

草木ひなのさんのインタビューや報道では、主にお母さんであるユリさんの話が多く登場します。

一方で父親について直接言及される機会はほとんどありませんが、ひなのさんが大会や遠征に集中できる環境が整っていることは間違いなく、陰で支える存在として家庭を守ってきた父親の役割は大きいと言えます。

アスリートの成長を家族全体で支えるという視点で見たとき、表には出てこない父親の存在もまた、草木ひなのさんという選手を作り上げた要素の一つかもしれません。

今後、草木ひなのさんがさらに注目を集めるにつれて、父親に関する情報が明らかになる可能性もあります。

亡き祖父・大山岩男との約束|パリへの道

草木ひなのさんがどうしてもパリオリンピックに行きたかった理由——それは亡き祖父との約束にありました。

2023年夏のイタリア遠征中、日本にいる母方の祖母からLINEのビデオ通話がかかってきました。

画面に映っていたのは、病床に横たわる祖父の姿。

親戚が全員集まっているのを見て、事態の深刻さを察したひなのさんは涙をこらえながら、画面に向かってこう言葉を振り絞りました。

じいちゃん、一緒にパリの景色を観よう

その瞬間、祖父の目がうっすらと開き、「がんばれ〜、がんばれ〜」とかすれた声でつぶやいたのです。

そして画面に祖父の指が映り、自分の顔をなでているのだとひなのさんはわかりました。

その電話を切ってしばらく後、祖父が亡くなったと知らされました。

祖父・大山岩男さんとの絆

祖父の名前は大山岩男さん。享年74歳でした。

10年前に病から生還した経験を持つ大山岩男さんでしたが、再発して闘病していたことをひなのさんも知ってはいました。

しかし、その状態がそこまで深刻だったとは知らなかったといいます。

訪問診療の医師から「血中酸素濃度が正常値をずっと下回った状態だったのに奇跡です」と言われるほど、最後の力を振り絞って孫へのエールを送ってくれたのです。

大山岩男さんはひなのさんに「オリンピック」という言葉を絶対に言わなかったといいます。

いつもいつも「スケボー頑張れ」とだけ言い続けていた祖父。

後から祖母を通して知ったのは、祖父はひなのさんのプレッシャーになるからあえて「オリンピック」という言葉を使わなかったのではないかということでした。

孫への深い気遣いを胸に秘め、パリへの思いを心の奥底にしまっていた祖父の愛情——その気遣いにひなのさんは胸が熱くなったといいます。

サンタクロースは祖父母だった

大山岩男さんとひなのさんのエピソードはもう一つあります。

ひなのさんが小学生のころ、クリスマスプレゼントはいつもスケートボードでした。

最初はサンタクロースからのプレゼントだと思っていたひなのさんでしたが、大きくなるにつれて「本当は親が買ってくれたんだ」と思うようになっていました。

しかし祖父が亡くなった後に知ったのは、そのサンタクロースが実は祖父母だったという事実でした。

毎年スケートボードを贈り続けていた祖父母の想いが、ひなのさんを鬼姫へと育てていったのです。

草木ひなのを育てたつくばのスケボーパーク環境

草木ひなのさんの成長を語る上で欠かせないのが、茨城県つくば市にある「AXIS SKATEBOARD PARK」の存在です。

このパークは、スケートボードコミュニティの間では全国的に有名な場所で、パークスタイル(湾曲した滑走面を主とするジャンル)の元祖・聖地とも呼ばれています。

そこに集まるスケートボーダーたちは当然そのジャンルに精通した玄人揃いで、スケートボードカルチャーを深く知る大人たちのコミュニティが形成されていました。

草木ひなのさんは、まさにそのカルチャーの中で育った「叩き上げ」のスケートボーダーです。

パークの大人たちから学んだこと

幼いひなのさんはAXIS SKATEBOARD PARKに集まるスケートボーダーたちから、1から10まですべてを教えてもらいました。

技術だけでなく、スケートボードに対する考え方や姿勢も、この場所で培われたのです。

その過程で掛けられた、ある言葉がひなのさんをさらなる高みへ導くきっかけになりました。

もっと自分で考えてスケボー練習するようにならないと先はねえぞ

まだ幼かったひなのさんは呆気に取られたそうですが、そこから明らかに意識が変わったといいます。

言われたことをこなすだけでなく、自分の頭で考えながら練習する姿勢——この転換が、草木ひなのさんという選手の核心にある「自立した思考」を作り上げました。

恩師への誓い

AXIS SKATEBOARD PARKで、ひなのさんには競技を始めたころからお世話になった恩師がいました。

山形の寒河江のパークへの遠出など、常にそばにいてくれた存在だったと言います。

しかし、その恩師は2022年2月21日に他界してしまいます。

その年の4月に開催された「第1回マイナビスケートボード日本オープン」では、恩師が愛用していたTシャツを着て試合に臨みました。

1・2本目で転倒し最下位に沈みながらも、3本目で大逆転優勝を果たしたひなのさん。

「これからもかっこいいスケーターになっていくので空で見ていてください」と天国の恩師に誓いの言葉を送りました。

AXIS SKATEBOARD PARKで育まれた人と人との縁が、草木ひなのさんの競技人生を精神的にも支え続けています。

草木ひなののプロフィールと競技経歴

 

この投稿をInstagramで見る

 

Hinano Kusaki(@hinano_kusaki)がシェアした投稿

ここでは草木ひなのさんの基本プロフィールと、これまでの競技経歴を整理します。

項目 詳細
名前 草木ひなの(くさき ひなの)
生年月日 2008年4月4日
2026年03月30日現在の年齢 17歳
出身地 茨城県つくば市
身長 148cm
血液型 B型
学歴 土浦日本大学高等学校(通信制課程)
所属 スターツ
得意技 バックサイド540
愛称 鬼姫
趣味 映画鑑賞、音楽鑑賞、クレーンゲーム

競技経歴の歩み

草木ひなのさんがスケートボードを本格的に始めたのは小学2年生(2016年)のとき。

以下の表で、その後の目覚ましい経歴を整理してみます。

大会・出来事 結果
2021年 日本スケートボード選手権 初優勝
2022年 日本スケートボード選手権 2連覇達成
2022年 マイナビ日本オープン 優勝
2023年9月 アジア競技大会(中国・杭州) 金メダル獲得
2023年10月 パーク世界選手権(ローマ) 銀メダル獲得
2023年 日本スケートボード選手権 3連覇達成
2024年6月 パリ五輪予選シリーズ第2戦 5位・五輪代表内定
2024年8月 パリオリンピック女子パーク決勝 8位

競技歴わずか数年で日本チャンピオンに輝き、15歳でアジア競技大会の金メダリストになった経歴は、日本スケートボード界でも異例のスピード出世と言えるでしょう。

鬼姫という愛称は、猪突猛進型のスケートスタイルから「もののけ姫」と呼ばれたのが始まりで、上達するにつれて「鬼姫」へとグレードアップしたものです。

得意技のバックサイド540は、スケートボードのパーク競技の中でも高い難易度を誇るトリックで、それを武器として持っているひなのさんの技術力の高さが伝わります。

土浦日本大学高等学校の通信制課程に2024年4月から在籍しており、競技と学業を両立させながら高校生アスリートとして活躍しています。

「勉強を頑張れたら」「高校生らしいことをしたい」と笑顔で話すひなのさんの言葉が、スケートボード一本ではなく人間としての成長も大切にしていることを感じさせてくれます。

これからもさらなる成長が楽しみな選手の一人です。新しい情報があれば今後もアップデートしていきます。

草木ひなのの親が支えた鬼姫の競技人生

  • 母・ユリさんの型破りなサポートスタイル
  • 草木ひなのの弟との家族エピソード
  • マルチスポーツで磨いた草木ひなのの高い運動神経
  • 草木ひなのの競技実績|日本選手権3連覇からパリ五輪へ
  • コーチ冨川蒼太との出会いと母の行動力

母・ユリさんの型破りなサポートスタイル

 

この投稿をInstagramで見る

 

Hinano Kusaki(@hinano_kusaki)がシェアした投稿

草木ひなのさんの母親・ユリさんのサポートスタイルには、一般的なスポーツ親御さんと大きく異なる点があります。

それは、娘の競技を一切見ないという独自の方針です。

これだけ聞くと「なぜ見ないの?」と疑問に思うかもしれませんが、そこには深い理由がありました。

日本選手権の練習中、ユリさんが見ているときだけひなのさんの調子が上がらなかったことがあったといいます。

その経験から、ユリさんは「自分が見ていない方がいい」と心に決め、それ以来試合会場には足を運ばないようにしているのです。

ドバイでの笑えるエピソード

この方針が生んだ笑えるエピソードがあります。

2023年の世界選手権(ドバイ)のとき、ユリさんはたまたまひなのさんがミスをした滑りを目にしてしまいました。

「世界は厳しいよね。次頑張ろうね」とLINEを送ったところ、ひなのさんから「何言っているの?予選通ったよ」と返ってきたというのです。

ユリさんはその場面がミスで終わった場面だと思ってしまったわけで、実際にはそのあとしっかり成功して予選通過していたという微笑ましい誤解。

「そんなこともありました」と笑うユリさんのエピソードが、2人ならではの関係性を物語っています。

サポートの全体像

競技を見ない一方で、ユリさんがひなのさんに提供するサポートは非常に手厚いものです。

スケートボードパークへの送り迎えはもちろん、食事管理も徹底的に行っており、ひなのさんが好物だという「納豆うどん」をはじめ、体をつくる食事作りに心を込めています。

「『勉強しろ』とはグチグチ言われますがスケボーを続けられているのはお母さんのおかげだと思っています」と照れくさそうに感謝を述べるひなのさんの言葉が、2人の関係のほほえましさを伝えています。

パリオリンピック本番も現地には行かず、「家でお掃除でもしています」とユリさんは語っていました。

娘のために陰で支え続ける、ユリさんの愛情の深さが伝わってくるエピソードです。

草木ひなのの弟との家族エピソード

草木ひなのさんには、2歳年下の弟がいるという情報があります。

ひなのさん本人からも弟について公式に語られる機会は少なく、メディアやSNSで触れられることもほとんどないため、詳細な情報は明らかになっていません。

わかっている情報としては、スケートボードではなくサッカーをしているという点です。

姉がスケートボードに打ち込む一方、弟はサッカーというそれぞれの道を歩んでいる草木兄弟。

両親が複数の習い事をサポートしてきた環境を考えると、弟もサッカーで親のサポートを受けながら取り組んでいるのかもしれません。

スポーツファミリーとしての草木家

母親がスケートボード経験者で、娘がスケートボード日本代表、弟がサッカー少年というプロフィールを見ると、草木家がいかにスポーツを大切にしている家族かがわかります。

ひなのさん自身も幼少期から水泳・ダンス・サッカー・トランポリン・器械体操と多くのスポーツを経験しており、家庭全体で運動や身体活動を前向きに捉える文化があったことが伝わってきます。

弟がサッカーをしているという情報は、そうしたスポーツを愛する草木家の文化を象徴しているとも言えるでしょう。

兄弟それぞれが自分の好きなスポーツに取り組んでいる環境が、ひなのさんにとっても良い刺激になっているのではないでしょうか。

今後、草木ひなのさんのメディア露出が増えるにつれて、弟さんについての情報も明らかになっていく可能性があります。

兄弟仲についても気になるところですが、現時点では確かな情報が出ていないため、新しい情報があれば随時確認していきたいところです。

姉が世界を舞台に活躍するスケートボード選手として注目を集める中、弟さんもサッカーに打ち込んでいるとすれば、草木家はまさにスポーツ一家ですね。

アスリートの家族として育った環境は、弟さんにとっても「諦めずに頑張ること」の大切さを自然に学べる場であったはずです。

草木ひなのさんの活躍が国内外でさらに知られるようになっていく中で、家族それぞれの情報も少しずつ明らかになっていくことが予想されます。

マルチスポーツで磨いた草木ひなのの高い運動神経

草木ひなのさんの驚異的なスケートボードの習得スピードは、幼少期からのマルチスポーツ経験と切り離せない関係にあります。

トランポリン・器械体操・水泳・サッカー・ダンスと、さまざまなスポーツに幼いころから触れてきたことが、強みとなる運動神経を養ったのです。

母・ユリさんが語ったエピソードの数々が、その才能の片鱗を伝えています。

幼稚園で25メートルを泳いだ水泳の才能

水泳については、幼稚園生で25メートルを泳いでいたという驚きのエピソードがあります。

これは一般的な子供と比べてもかなり早いペースで、水への恐怖心がなく、身体を動かすことへの適応力の高さが幼少期から表れていました。

初日に側転をマスターしたダンスの才能

ダンスについてはさらに驚きのエピソードがあります。

ダンス教室に行くと、初日に覚えてきたのがきれいな側転だったといいます。

そこからひなのさんの中にスイッチが入り、「次はバク転がやりたい」と言い出したのだとか。

当時はスーパーで買い物中にいきなりバク転を披露することもあったというエピソードが笑いを誘います。

少々母を困らせるおてんば娘でしたが、それだけ身体を動かすことへの喜びと探求心にあふれていたことがわかります。

マルチスポーツがスケートボードに与えた影響

複数のスポーツを経験することで培われた「身体のコントロール能力」「空中感覚」「バランス感覚」は、スケートボードのパーク競技において直接的なアドバンテージになります。

特に器械体操やトランポリンで養われた空中での身体の扱い方は、スケートボードのエアトリック(空中技)に大きく活きています。

スケートボードを始めてすぐにドロップ(難易度の高い基本技)ができた背景には、こうしたマルチスポーツで磨かれた身体能力があったのです。

多様なスポーツを経験させた両親の方針が、草木ひなのという「鬼姫」を生み出す土台を作ったと言えるでしょう。

草木ひなのの競技実績|日本選手権3連覇からパリ五輪へ

草木ひなのさんの競技実績は、年齢を考えると圧倒的なものがあります。

スケートボードを本格的に始めたのが8歳(小学2年生)で、わずか5年足らずで日本チャンピオンに輝いた経緯は多くの注目を集めました。

日本国内での圧倒的な強さ

2021年の日本選手権初優勝から、2022年・2023年と3年連続で日本選手権を制覇し、国内最強の地位を確立しました。

2022年の大会では、東京五輪銀メダリストの開心那選手を上回るほどの力を見せており、その実力は本物でした。

同年の「マイナビ日本オープン」では、1・2本目で転倒して最下位に沈みながらも3本目で大逆転優勝を果たすという、劇的な勝利も経験しています。

世界舞台での活躍

2023年はさらにスケールの大きな舞台で結果を残しました。

9月の中国・杭州市で開催されたアジア競技大会ではスケートボード女子パークで金メダルを獲得し、15歳でのメダル獲得が大きな話題となりました。

10月にはローマで開催されたパーク世界選手権で銀メダルを獲得し、一気に世界のトップ選手の一人として認知されることになります。

パリオリンピックへの道と結果

2024年6月のパリ五輪予選シリーズ第2戦の決勝で5位となり、オリンピック代表に内定しました。

そして迎えたパリオリンピック本番では、決勝に進出して8位という結果を残しました。

笑顔で演技する姿がパリの観客を沸かせ、「笑顔の鬼姫」として多くのファンの心をつかみました。

メダルには届きませんでしたが、16歳でオリンピックの決勝の舞台に立ったこと自体、今後への大きな可能性を感じさせる結果でした。

銅メダルのスカイ・ブラウン選手とも健闘をたたえ合い、笑顔で会場を去ったひなのさんの姿は多くのファンの記憶に残りました。

次のロサンゼルスオリンピック(2028年)時にはまだ20歳という若さで、今後さらなる活躍が強く期待される選手です。

日本スケートボード界の未来を担う鬼姫・草木ひなのさんから、これからも目が離せません。

コーチ冨川蒼太との出会いと母の行動力

草木ひなのさんが2024年1月から指導を受け始めたのが、プロスケーター・冨川蒼太コーチ(21歳)です。

冨川コーチはスケートボード界でも実力を認められたプロで、ひなのさんとは年齢差こそ小さいものの、指導者として信頼される存在です。

ここで注目したいのが、この縁をつくったのが母・ユリさんだという点です。

北海道から呼び寄せた母の決断

冨川コーチは北海道出身・北海道在住のプロスケーターでした。

茨城県つくば市を拠点とするひなのさんとは決して近い距離ではありません。

それにもかかわらず、ユリさんは冨川コーチをひなのさんの指導者として選び、北海道から呼び寄せるという決断を下しました。

「競技を一切見ない」というスタイルを貫きながら、裏では娘の競技力向上のために最高のコーチを探し、行動に移すというユリさんの行動力が見えてくるエピソードです。

パリ五輪への強化と親の判断

2024年1月からというタイミングは、パリオリンピックの代表選考が佳境を迎える直前です。

そのタイミングで新しいコーチを迎え入れるという決断は、リスクも伴うものですが、ユリさんは娘の可能性を信じて決断しました。

ひなのさんにとって冨川コーチの存在は大きく、パリ五輪での活躍につながったと見られています。

競技を見ないという方針を貫きながらも、娘のために最善の環境を整えるために動き続けるユリさんの姿は、スポーツ親御さんとしての理想の形の一つかもしれません。

草木ひなのさんが「スケボーを続けられているのはお母さんのおかげ」と語る背景には、こうした母の見えない努力と決断の積み重ねがあったのです。

冨川コーチとひなのさん、そしてユリさんという三者の関係が、パリ五輪出場という結果を生み出した背景の一つです。

若いコーチと若い選手が共に成長していく過程を、母・ユリさんが陰で支えているという構図は、草木ひなのさんの活躍を語る上で欠かせない要素となっています。

今後のひなのさんの成長とともに、冨川コーチとの関係がどのように発展していくかも楽しみな見どころの一つです。

草木ひなのの親との絆と鬼姫の総まとめ

  • 草木ひなのは茨城県つくば市出身のスケートボード女子パークの日本代表選手だ
  • 生年月日は2008年4月4日で、パリオリンピック出場時は16歳だった
  • 愛称「鬼姫」は猪突猛進型のスケートスタイルに由来し、もともとは「もののけ姫」と呼ばれていた
  • 母親の名前は草木ユリさんで、スケートボード経験者だ
  • ひなのがスケートボードを始めたきっかけは母・ユリさんへの対抗心で、「負けたくない」という気持ちが原動力になった
  • 最初のスケートボードはチックタックをマスターしてようやく手に入れたパンダ柄のボードだった
  • 父親の情報は現在非公開で、名前や職業などの詳細は明らかになっていない
  • 家族構成は父・母・ひなの・弟の4人家族だと考えられている
  • 弟は2歳年下でサッカー少年として知られる
  • 母方の祖父・大山岩男さんとの「パリの景色を一緒に観よう」という約束がパリ五輪への大きな原動力になった
  • 祖父・大山岩男さんは享年74歳で、ひなのへ最後の力を振り絞ってエールを送った
  • 母・ユリさんは競技を一切見ないという型破りなサポートスタイルを貫いている
  • ユリさんは冨川蒼太コーチを北海道から呼び寄せるほど行動力のある親だ
  • 草木ひなのは日本選手権を2021〜2023年の3連覇し、2023年アジア競技大会では金メダルを獲得した
  • つくばのAXIS SKATEBOARD PARKのコミュニティが草木ひなのの技術と精神力を育てた

▶️他のアスリートの家族・兄弟・姉妹・子供を知りたい|カテゴリー・記事一覧