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国松彰さんといえば、読売ジャイアンツのV9時代を支えた強肩巧打の外野手として知られています。
1934年9月14日生まれの国松彰さんは、長年にわたってON砲の脇を固める選手として巨人の黄金期を支えた存在です。
そんな国松彰さんの息子について、気になっている方は多いのではないでしょうか。
国松彰さんは現役引退後も巨人のコーチや二軍監督として活躍し、その後は義父が創業した和菓子メーカー亀屋万年堂の会長に就任した実業家でもあります。
この記事では、国松彰さんの息子に関する情報と、後継者の引地大介さんとの関係性、さらには巨人新社長・国松徹氏との関連性について詳しく整理します。
記事のポイント
①:息子の詳細情報は非公開
②:後継者は甥の引地大介さん
③:V9巨人を支えた強肩俊足の外野手
④:亀屋万年堂会長として実業界でも活躍
国松彰の息子に関する情報と現在の状況
- 【非公開?】国松彰の息子に関する情報の現状
- 国松彰のプロフィール|生い立ちと経歴
- 妻は亀屋万年堂創業者の娘|国松彰の家族背景
- 引地大介は甥か息子か?後継者問題の真相
- 国松徹と国松彰の関係性を検証
- V9巨人を支えた強肩俊足の外野手
【非公開?】国松彰の息子に関する情報の現状
国松彰さん! pic.twitter.com/pCcQmnV6om
— いたがき歯科クリニック (@itagakishika) April 24, 2025
国松彰さんの息子について、現時点では公式な情報は一切公開されていません。
ここでは、国松彰さんの息子に関して現在わかっていること・わかっていないことを整理してみます。
国松彰さんは1934年生まれで、2026年03月22日現在の年齢は91歳です。
長きにわたってプロ野球選手・コーチ・二軍監督・フロントとして巨人に在籍し、その後は実業家として亀屋万年堂の会長を務めるなど、球界と実業界の両方で名を知られた人物です。
ところが、その息子についての情報は驚くほど少ないです。
プロ野球選手の息子が同じくプロ野球に進んだ場合はメディアに取り上げられることが多いですが、国松彰さんの息子がプロ野球に進んだという報道は確認できていません。
また、亀屋万年堂の後継者として社長職に就いたのは「甥の引地大介さん」とされており、息子への事業継承という形が取られていないことも、息子の存在があまり注目されてこなかった背景の一つと考えられます。
息子の情報が表に出にくい理由
国松彰さんは、現役時代から「口より先に手が出る」と語られるほど厳しい指導者でした。
その分、家族に関しては非常にプライベートを大切にしているとも考えられます。
一方で、国松彰さんが妻である引地家の娘さんと結婚していることは公にされており、家族がいること自体は確かです。
息子がいるかどうかという点についても、明確な否定情報はないため、「非公開」というのが現状の正確な表現だと言えます。
また、駒田徳広さんや福島敬光さんをはじめ、多くの選手が国松コーチからの指導について語っていることを考えると、国松彰さんは野球界での後継者育成には非常に情熱的だった人物です。
しかし、自身の家族についての公開情報は最小限にとどめるスタンスを取っている印象を受けます。
現在確認できる情報まとめ
息子についての確認情報を下記の表でまとめます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 息子の名前 | 非公開 |
| 息子の職業 | 非公開 |
| 子供の人数 | 不明 |
| 亀屋万年堂後継者 | 甥・引地大介さん(息子ではない) |
| 国松徹との関係 | 親族関係は未確認 |
こうした情報の薄さは、国松彰さん自身が家族のプライバシーを大切にしていることの表れかもしれません。
今後、何らかのかたちで公開情報が出てくる可能性はありますが、現状では「不明」というのが正確な回答です。
ここ、気になるポイントだと思うので、新しい情報があれば今後もアップデートしていきます。
国松彰のプロフィール|生い立ちと経歴
国松彰さん、お誕生日おめでとうございます☺️ pic.twitter.com/H7THPGU40T
— 甦ったパンク (@zcpbFuNWhU7527) September 13, 2025
まず、国松彰さんの基本情報を確認してみましょう。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 本名 | 国松 彰(國松 彰) |
| 生年月日 | 1934年9月14日 |
| 2026年03月22日現在の年齢 | 91歳 |
| 出身地 | 京都府京都市中京区 |
| 身長・体重 | 180cm・77kg |
| 投球・打席 | 左投左打 |
| ポジション | 外野手、一塁手、投手 |
| プロ入り | 1955年(読売ジャイアンツ) |
| 現役引退 | 1970年 |
| 出身校 | 京都市立西京高等学校→同志社大学(中退) |
国松彰さんは1934年9月14日、京都府京都市中京区で生まれました。
京都市立西京高校では野球部に所属し、3年次の1952年に春季近畿大会府予選で準決勝まで進みましたが山城高校に敗退。
夏の府予選準々決勝でも洛北高校に敗れ、甲子園には届きませんでした。
高校卒業後は1953年に同志社大学に進学し、1年次から投手として活躍。
大学同期には青木稔さん・伊香輝男さんがいました。
巨人入団から外野手転向まで
2年次の1954年限りで大学を中退し、青木さんと共に1955年に読売ジャイアンツへ入団します。
同期には後に「ジャイアント馬場」として名を馳せる馬場正平さん、そして名捕手・森昌彦さんらがいました。
入団1年目の1955年から一軍で起用され、10月には初先発も果たしています。
入団当初の国松さんの生活ぶりは質素なものでした。
多摩川寮の側にある土堤下の店で1個10円のコッペパンを朝晩食べており、給料日には奮発して5円足してピーナッツバターを塗ってもらったというエピソードが残っています。
プロ野球選手といえども、新人時代は決して裕福ではなかった当時の雰囲気がよく伝わってきますよね。
ただし投手では思うような結果が残せず、3年目の1957年からは外野手に転向することになります。
この転向が国松彰さんのキャリアを大きく変えることになりました。
外野手として才能を開花させた国松彰さんは、1959年には主に右翼手として一軍に定着。
1960年には9月から中堅手に回り、初の規定打席に到達(打率.238)、外野守備で11補殺を記録するなど守備でもその実力を示しました。
こうしてV9時代を陰で支える重要な選手へと成長していったのです。
国松彰さんの名前はアニメ『巨人の星』にも登場するほど、当時の巨人軍における知名度は高いものでした。
妻は亀屋万年堂創業者の娘|国松彰の家族背景
国松彰さんの家族背景を理解するうえで欠かせないのが、妻との結婚と亀屋万年堂との縁です。
国松彰さんは、東京の和菓子店・亀屋万年堂の創業者である引地末治さんの娘と結婚しています。
亀屋万年堂といえば、「ナボナはお菓子のホームラン王です」という王貞治さんのCMフレーズで有名な老舗和菓子メーカーです。
国松彰さんの結婚が、後にこの歴史的なCMを生み出すきっかけとなったというのは、なかなか面白い縁ですよね。
義父・引地末治との関係
義父の引地末治さんから「王にCMを頼めないか」と相談された国松さんは、親友である王貞治さんに依頼します。
王さんはそれに対して二つ返事で了承したといいます。
その後のCM効果は絶大で、1967年のCM開始当初に4億8000万円だった亀屋万年堂の総売上高は、王さんが引退した1980年には50億円と10倍以上に膨れ上がりました。
ライバル会社から「3倍のギャラを支払う」というオファーがあったとも伝えられていますが、王さんはそれに一切目もくれず亀屋万年堂のCMに出続けたといいます。
国松彰さんと王貞治さんの親友関係が、亀屋万年堂の発展を大きく後押しした形ですね。
家族構成について
国松彰さんの家族構成については、妻が引地末治さんの娘であること以外、詳細は公開されていません。
息子がいるかどうかについても、メディアで確認できる情報はなく、現時点では不明というのが正確な状況です。
なお、国松彰さんが2011年に亀屋万年堂の社長の座を譲った相手は「甥の引地大介さん」とされています。
息子への継承ではなく甥への継承という形を選んだ背景には、何らかの家族の事情があった可能性もありますが、これについても公式な説明はありません。
亀屋万年堂の会社概要によれば、創業家である引地家の縁者が経営を引き継ぐ形が取られていることから、国松彰さんの妻の縁者が自然な形で後継者となったと考えられます。
国松彰さんの家族に関しては、プライバシーを重んじた公開情報の少なさが際立っています。
引地大介は甥か息子か?後継者問題の真相
国松彰さんの息子を調べる際、気になるのが亀屋万年堂の後継者・引地大介さんの存在です。
ウィキペディアの記述によると、引地大介さんは国松彰さんの「甥」であり、息子ではありません。
2011年に国松彰さんが社長の座を引地大介さんに譲り、自身は会長に就任しています。
引地大介さんとはどんな人物か
引地大介さんは亀屋万年堂創業者・引地末治さんの縁者で、国松彰さんの妻の親族にあたる人物だと考えられます。
つまり、国松彰さんの妻が引地家の娘であることから、その縁戚にあたる引地大介さんが後継者として亀屋万年堂の経営を引き継いだという流れです。
引地大介さんが「甥」と表現されている点は、国松彰さんの妻の甥にあたる可能性が高いと考えられます。
いずれにせよ、亀屋万年堂の経営継承は「血縁ベース」で引地家の人物に引き継がれた形であり、国松彰さんの実の息子が経営を引き継いだわけではないようです。
後継者問題から読み解く国松家の事情
社長職を息子ではなく甥に譲ったという事実は、いくつかの可能性を示唆しています。
一つ目は、国松彰さんに息子がいない(あるいは娘のみ)という可能性。
二つ目は、息子がいたとしても和菓子業界ではなく別のキャリアを歩んでいるという可能性。
三つ目は、亀屋万年堂が「引地家の会社」という位置付けで引き継がれていくことが自然な流れだったという可能性です。
実際のところ、亀屋万年堂は国松彰さんの義父・引地末治さんが一代で築いた会社です。
国松さんはその経営を婿養子的な立場で支えてきた形であり、最終的に引地家の血筋に経営を戻すという判断は、ある意味で自然な流れだったとも言えます。
いずれにしても、現時点で国松彰さんの息子が亀屋万年堂に関与しているという情報は確認できていません。
少しイメージが湧きやすくなれば嬉しいです。
国松徹と国松彰の関係性を検証
2024年、読売ジャイアンツに新社長として就任したのが国松徹さんです。
国松というやや珍しい苗字が同じであることから、「国松徹氏は元巨人選手・国松彰氏の親戚ですか?」という質問がYahoo!知恵袋にも投稿されています。
これは自然な疑問で、同じ巨人との関わりがある「国松」さんとあれば関係性を疑いたくなります。
国松徹新社長のプロフィール
国松徹さんのプロフィールを確認してみましょう。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 氏名 | 国松 徹 |
| 出身地 | 大阪府 |
| 出身大学 | 同志社大学文学部卒業 |
| 大学院 | 米シラキュース大学大学院修了 |
| 入社 | 1982年、読売新聞社 |
| 主な役職 | ブリュッセル支局長・大阪本社経済部長など |
| 巨人社長就任 | 2024年6月 |
国松徹さんは大阪府出身で、同志社大学文学部を卒業後に米シラキュース大学大学院を修了し、1982年に読売新聞社に入社した経歴の持ち主です。
興味深いのは、国松彰さんも同志社大学出身(中退)という点で、2人ともに同志社大学との縁があります。
関係性についての現時点での見解
ただし、国松徹さんが読売新聞社出身のメディア・経営系の人物である一方、国松彰さんは京都市出身の元プロ野球選手という全く異なるバックグラウンドを持ちます。
現時点では、国松徹さんと国松彰さんが親族関係にあるという情報は確認されていません。
「国松」という苗字が同じで、どちらも同志社大学との縁があり、巨人との関わりがあるという共通点はあるものの、それだけでは親族とは断定できません。
国松彰さんは息子についての情報を公開していないため、もし国松徹さんが国松彰さんの息子や親族であったとしても、現状の公開情報からは確認できないという状況です。
いずれにしても、公式に親族関係が示されているわけではないので、現時点では「同じ苗字・同じ大学を持つ別人物」として捉えるのが適切でしょう。
今後、何らかのかたちで関係性が明らかになる可能性はゼロではありませんが、現状では不明というのが正確な表現です。
V9巨人を支えた強肩俊足の外野手
国松彰さんのプロ野球選手としての実績について、詳しく見ていきましょう。
1955年に読売ジャイアンツに入団した国松さんは、最初は投手として起用されましたが、3年目から外野手に転向。
その後は強肩俊足を武器に、ON砲の脇を固める強肩巧打者としてV9時代前半を支えました。
通算成績は1378試合出場、979安打、93本塁打、打率.243と、長打力と守備力を兼ね備えた選手でした。
主な成績と活躍
| 年度 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 特記事項 |
|---|---|---|---|---|
| 1960年 | .238 | 11 | 46 | 初の規定打席到達 |
| 1963年 | .268 | 9 | 43 | ファン選抜オールスター出場 |
| 1965年 | .259 | 11 | 39 | 日本シリーズ全5試合先発 |
| 1966年 | .272(自己最高・リーグ12位) | 6 | 44 | — |
| 通算 | .243 | 93 | 427 | 15年間 |
1961年には監督推薦で、1963年にはファン選抜でオールスターゲームにも出場しています。
1967年の阪急との日本シリーズでは第5戦で米田哲也さん・佐々木誠吾さんから連続本塁打を放ち、シリーズ通算25打数7安打4打点という活躍を見せました。
また、1967年には1000試合出場(史上125人目)も達成しています。
引退の経緯と後続選手の台頭
1970年には末次民夫さんの台頭もあって出場機会が減少し、1000本安打まで残り21本という惜しい場面で現役を引退することになります。
引退を決断した同年9月8日の後楽園球場での対中日戦では、延長10回裏1アウト1・2塁の場面でサヨナラヒットを打ちながら、一二塁間で一塁走者の末次さんを追い越してしまいアウトになるという珍しい場面もありました。
惜しいところでの引退でしたが、この判断が後のコーチ・監督としての長いキャリアにつながっていきました。
V9時代の巨人を語るうえで、国松彰さんの存在は欠かすことのできないピースの一つです。
国松彰の息子の話題|実業家としての歩みと人脈
- 亀屋万年堂会長として築いた実業家キャリア
- 王貞治との深い絆|ナボナCM誕生の経緯
- コーチとして育てた選手たち
- 日本レフティゴルフ協会での活動
亀屋万年堂会長として築いた実業家キャリア
よみがえるプロ野球1966年編。黒柳徹子さんと巨人・国松彰の対談。「外野の人はいつも上を向いて待っていると思ったの」とか、すべて徹子節。面白いです(全文は再録しませんが)。 pic.twitter.com/xrNxUfUq94
— ベースボール・マガジン社【出版/雑誌野球担当】 (@baseball_BBM) April 11, 2024
国松彰さんは1989年から1994年まで巨人のフロントを務めた後、1995年にラジオ日本の解説者に転身します。
そして同年、義父・引地末治さんが創業した亀屋万年堂の副社長に就任し、実業家としての第2のキャリアをスタートさせました。
亀屋万年堂といえば、「ナボナ」という銘菓で知られる東京の老舗和菓子メーカーです。
社長から会長へ
国松彰さんの亀屋万年堂でのキャリアを時系列で整理すると以下のようになります。
| 年 | 役職 | 備考 |
|---|---|---|
| 1995年 | 副社長就任 | ラジオ日本解説者と兼任 |
| 2002年 | 代表取締役社長就任 | — |
| 2011年 | 会長就任 | 社長の座を甥・引地大介さんに譲る |
副社長として現場の業務を学び、2002年には代表取締役社長に就任。
その後、2011年には社長の座を甥の引地大介さんに譲り、自身は会長として会社を支える立場となりました。
球界と実業界の両方で活躍したキャリアを持つ国松彰さんは、各地での人材育成に関する講演活動も行っており、その経験と人脈は多くの場で活かされています。
プロ野球という厳しい世界で培った精神力と、長年のコーチングで磨いた人材育成の感覚は、経営の世界でも大いに活かされたのではないでしょうか。
国松彰さんは現在も会長職にあるとされており、亀屋万年堂の発展を見守る立場を続けているとみられます。
選手時代・指導者時代・実業家時代と、それぞれの場面で人との縁を大切にしてきた国松彰さんの生き様は、多くの人に影響を与え続けています。
王貞治との深い絆|ナボナCM誕生の経緯
国松彰さんと王貞治さんの関係は、単なる同僚選手の域を超えた深い友情で結ばれています。
2人が親密になったきっかけは、合宿所で同部屋になったことだといいます。
ナボナのCMに王貞治さんが出演することになったのも、国松彰さんの仲介がきっかけでした。
「ナボナはお菓子のホームラン王です」の誕生秘話
義父の引地末治さんから「王にCMを頼めないか」と相談された国松さんは、親友である王さんに依頼しました。
王さんはこの依頼に対して二つ返事で了承したといいます。
その後、王さんのCM出演による効果は絶大でした。
1967年のCM開始当初に4億8000万円だった総売上高は、王さんが引退した1980年には50億円と10倍以上に成長しています。
ライバル会社が「3倍のギャラを支払う」と誘っても、王さんは一切見向きもせずに亀屋万年堂のCMに出続けたというエピソードが残っています。
友情と義理を大切にする王さんの人柄が感じられる話ですよね。
1988年の解任劇と号泣エピソード
国松彰さんと王貞治さんの絆を語るうえで忘れられないのが、1988年の出来事です。
当時、国松さんはヘッドコーチとして王監督を支えていましたが、優勝が絶望的になった9月、国松さんは王さんに責任が及ばないよう、先に辞任を申し出たといいます。
その後行われた慰労会では大いに盛り上がりましたが、帰りの車の中で国松さんは普段温厚な王さんが運転手を見たことのない剣幕で怒鳴りつける場面を目撃します。
翌朝の新聞で「王解任」の文字が目に飛び込んできました。
実は慰労会の前に、王さんは球団から「来季の契約を結ばない」と通告されていたのです。
周囲は「国松さんの慰労の会だから」という配慮でその事実を彼に伝えなかったといいます。
1か月後、共通の友人たちによる慰労会が開かれ、その帰り道に王さんは突然「悔しい。もう1年勝負したかった」と男泣きしたといいます。
その涙は5分ほど止まらず、国松さんももらい泣きしてしまったとのこと。
2人の深い絆がよく伝わるエピソードです。
現在も月1回は会うほどの親密な関係が続いているそうで、最近は王さんがカラオケを楽しんでいるという微笑ましい話も伝わっています。
昔は人前で歌わなかった王さんが、今は若い人の歌を熱唱してマイクを離さないとか(笑)。
コーチとして育てた選手たち
国松彰さんは現役引退後、巨人一軍打撃コーチ(1971年〜1973年・1976年〜1979年)、二軍監督(1974年〜1975年・1981年〜1985年)、ヘッドコーチ(1986年〜1988年)と長きにわたって指導者として活躍しました。
「口より先に手が出る」という厳しい指導スタイルで知られていましたが、その裏には真剣に選手の成長を願う気持ちがあったことは間違いありません。
後にコーチについての思い出を語った選手も多く、国松彰さんの指導が彼らのキャリアに大きな影響を与えたことがわかります。
駒田徳広との関係
現在も野球解説者として活躍する駒田徳広さんは、国松コーチの厳しさについてこう語っています。
ウォーミングアップで少しでも手を抜こうものなら、「野球というものはラインの内か外か、ほんの僅かの差で人生が変わる。そこをタラタラ抜くようなヤツは絶対に成功しないんだ!」とすぐに手が飛んでくるため、気が抜けなかったと振り返っています。
この厳しさがあってこそ、駒田さんは後に1000安打を超える実績を残せたとも言えるかもしれません。
福島敬光との関係
中央公論誌上では福島敬光さんが「国松コーチにはよく叩かれた」とコメントしており、厳しい指導が行われていたことが伝えられています。
しかしながら、国松コーチから指導を受けた選手の多くが後に活躍していることを見れば、厳しさの中にも愛情のある指導であったことが伝わってきます。
また、1980年8月には中村稔さんと共に中国・四川省の成都市に招待され、四川野球チームと成都体育学院野球チームへの野球指導も行っています。
こうした国際交流活動も、国松彰さんのキャリアの一部として特筆すべきでしょう。
V9戦士としての提言
現役時代にV9を経験した国松彰さんは、常勝巨人の再建についても積極的な発言をしてきました。
長年の指導経験から得た知見と、V9という黄金時代を肌で知る者としての視点から、後輩たちへのアドバイスを惜しまない姿勢は多くの野球関係者から尊敬を集めています。
デーブ大久保さんも「国松彰さんからの電話で、本当に巨人に入ったのかと実感した」と語っており、V9戦士としての存在感の大きさがうかがえます。
日本レフティゴルフ協会での活動
国松彰さんはプロ野球選手・指導者・実業家という多岐にわたるキャリアに加え、ゴルフ界でも重要な役割を担っています。
左利きゴルファーの代表として、日本レフティゴルフ協会の会長を務め、現在は最高顧問の立場にあります。
日本レフティゴルフ協会は、左利きのゴルファーを支援し、左利きゴルフの普及・発展を目的とした団体です。
川上哲治との縁
日本レフティゴルフ協会の終身名誉会長は川上哲治さんが務めており、同じ巨人V9時代を知る2人がゴルフ界でも縁で結ばれていることがわかります。
川上哲治さんは国松さんがプロ入りした1955年当時の監督であり、その後も長く巨人の監督として活躍した人物。
プロ野球界で指揮官と選手として関わった2人が、ゴルフ界でも同じ協会で活動しているというのは、なんとも興味深い縁です。
左利きを活かした活動
国松彰さんは現役時代、左投左打の選手でした。
その左利きの特性を持つゴルファーとしてのアイデンティティが、日本レフティゴルフ協会への参加につながったのだと思われます。
日本では左利き用のゴルフ用具は右利き用に比べて種類が少なく、コース設計も右利きを前提としているケースが多いです。
そうした環境の中で左利きゴルファーを支援する団体を率いてきた国松さんの活動は、多くの左利きゴルファーにとって大きな支えになってきたことでしょう。
また、球界と実業界での経験を買われて各地で人材育成に関する講演も行っており、現在も精力的に活動を続けている国松彰さん。
野球だけにとどまらず、ビジネス・スポーツ・社会貢献など様々な場面で活躍してきた国松彰さんの生き方は、まさに「第二の人生」の模範とも言えるでしょう。
息子についての詳細は明らかになっていませんが、国松彰さん自身が多くの人に影響を与え続けている点は変わりません。
国松彰の息子と経歴に関する総まとめ
- 国松彰さんの息子に関する情報は現時点では公開されていない
- 亀屋万年堂の後継者は甥の引地大介さんであり、息子への継承ではない
- 引地大介さんは国松彰さんの甥であることが確認されている
- 巨人新社長・国松徹氏との親族関係は現時点では確認されていない
- 国松彰さんは1934年9月14日生まれ、京都府京都市中京区出身
- 1955年に読売ジャイアンツに入団し、投手から外野手に転向して活躍した
- V9時代を支えたON砲の脇を固める強肩巧打者として通算1378試合に出場
- 通算成績は打率.243・93本塁打・427打点
- 現役引退後は一軍打撃コーチ・二軍監督・ヘッドコーチとして巨人一筋で指導者を務めた
- 駒田徳広さんら後輩選手を厳しく育て、多くの巨人戦士のキャリアを支えた
- 義父・引地末治さんの縁で王貞治さんのナボナCM誕生を仲介した
- 1995年に亀屋万年堂副社長、2002年に社長、2011年から会長に就任した
- 2011年に甥の引地大介さんに社長職を譲り、会長として亀屋万年堂を支える立場に
- 日本レフティゴルフ協会の元会長・現最高顧問として左利きゴルフの普及に貢献
- 球界と実業界での経験を活かし、各地で人材育成に関する講演活動を行っている
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