近藤心音の父親・近藤信の職業はフリースキーの第一人者!母親・妹や家族構成

※本サイトのコンテンツには、商品プロモーションが含まれています。

近藤心音さんの父親について、どんな人物なのかを知りたいと感じている方は多いです。

フリースタイルスキーのスロープスタイルで2大会連続の五輪代表に選ばれた心音さんですが、その原点には日本フリースキー界の第一人者である父親・近藤信さんの存在がありました。

岩手県北上市から白馬村へ移り住み、世界初とされるモーグルスクールの主任を務めた経歴の持ち主です。

妹の叶音さんも同じ競技で戦っており、近藤家はまさにスキー一家です。

この記事では、父親の職業や経歴、愛称の由来、母親や妹を含めた家族の姿まで、公開情報をもとに整理していきます。

記事のポイント

①:父親は近藤信さんで隊長の愛称

②:岩手県北上市出身の元モーグル選手

③:白馬47で世界初のスクール主任

④:母親・聖子さんと妹・叶音さんもスキー

近藤心音の父親・近藤信の経歴|職業と実績

  • 父親・近藤信のプロフィールと素顔
  • 隊長と呼ばれた理由|愛称の由来
  • モーグルからフリースキーへの転身
  • 白馬47で世界初のスクール主任に
  • 現在の職業はフリースキー教室長
  • 3歳から続いた父娘二人三脚の指導

父親・近藤信のプロフィールと素顔

結論から言うと、近藤心音さんの父親は近藤信(こんどう・まこと)さんという、日本のフリースキーを黎明期から支えてきた人物です。

ここでは、父親の基本情報と人物像について、信頼性の高い公開情報をもとにあなたが納得できる形で整理します。

近藤信の基本プロフィール

まず、下記の表は父親・近藤信さんの基本情報をまとめたものです。

項目 内容
名前 近藤 信(こんどう まこと)
生年月日 1966年3月19日
2026年10月02日現在の年齢 60歳
出身地 岩手県北上市
愛称 隊長
競技歴 モーグル → フリースタイルスキー
現在の職業 Hakuba Freestyle Force 教室長
拠点 長野県北安曇郡白馬村
家族 妻・聖子さん、長女・心音さん、次女・叶音さん
Instagram @makotokondo

生まれは岩手県北上市で、スキーどころの東北から長野県白馬村へと拠点を移した経歴の持ち主です。

1966年3月19日生まれなので、2026年10月02日現在は60歳ということになります。

競技者としてのスタートはモーグルで、そこからフリースタイルスキーへと軸足を移していきました。

愛称の「隊長」は、フリースキーの現場で長く使われてきた呼び名です。

妻の聖子さんも元モーグル選手で、長女の心音さんと次女の叶音さんもフリースタイルスキーの選手という構成になっています。

家族4人全員が同じ競技に関わっているという点だけでも、かなり特異な家庭ですよね。

岩手県北上市から白馬村へ移り住んだ背景

近藤信さんが生まれ育った岩手県北上市は、北上川沿いに広がる人口約9万人の都市です。

東北新幹線の停車駅である北上駅を抱え、夏油高原など県内屈指のスキーフィールドへのアクセスが良い土地でもあります。

そんな環境で雪に親しんだ信さんが次に選んだのが、日本のアルプスと呼ばれる白馬連峰を望む長野県北安曇郡白馬村でした。

白馬村は1998年の長野オリンピックでアルペン競技やジャンプ競技の舞台となった、国内外にその名を知られるスノーリゾートです。

渡部暁斗さんや渡部善斗さんといったノルディック複合の日本代表、アルペンスキーの松本勲人さん、スキージャンプの梅崎慶大さんなど、この村からは数多くのトップ選手が育っています。

信さんはこの白馬村にモーグルスクールを立ち上げ、指導者としてのキャリアを本格的に始めることになりました。

心音さんがスキー場の麓で生まれ育ったのは、父親が競技の現場に身を置き続けていたからなんですね。

北上市は鬼剣舞などの伝統芸能や北上展勝地の桜並木で知られ、冬になると周辺の山々が本格的な雪に覆われる土地です。

白馬村までは直線距離でおよそ400km離れており、生活の拠点を移すという判断は決して軽いものではなかったはずです。

日本フリースキーのファーストジェネレーション

近藤信さんを語るうえで外せないのが、日本のフリースキー第一世代として競技の土台をつくった功績です。

フリースキーが世界的にブレイクしたのは2000年前後のことで、信さんは当時の日本のシーンを牽引したライダーの一人でした。

大きなジャンプと、スタイルにこだわった独特のライディングで国内外の大会やスキームービーに数多く登場しています。

2022年の北京オリンピックを前に、信さんはこう語っていました。

「自分たちがファーストジェネレーションと呼ばれ、このスポーツが生まれるきっかけをつくった。遊びでやっていたスポーツが五輪に採用され、その舞台に自分の娘が出る。そう思うと、感慨深い」

遊びから始まったカルチャーが五輪種目になり、その舞台に自分の娘が立つという流れは、たしかに感慨深いものがありますよね。

つまり近藤信さんは、競技そのものの歴史と家族の歴史が重なっている、きわめて珍しい立場の人物なのです。

当時のフリースキーは、競技団体も大会数も整っていない手探りの状態でした。

その中で滑り続け、映像や大会を通じて存在を示してきた世代が、いまの競技の骨格をつくっています。

第一人者という肩書きは、後から与えられたものではなく積み重ねの結果なんですね。

娘が語る父親としての姿

心音さん自身も、父親の存在を競技人生の出発点として繰り返し語ってきました。

公式サイトのプロフィールには「幼い頃からフリースキーの第一人者と言われる父を師として」という一文が記されています。

企業サイトのインタビューでは「父に誘われたフリースタイルスキー」という見出しで、自身の競技の原点を振り返っていました。

そこでは「父親がこのスポーツの第一人者でもあり、白馬村のスキー場麓に住んでいたため、物心ついた頃からフリースタイルスキーが身近にある環境でした」とも述べています。

父であり師であり、そしてコーチでもあるという関係は、競技の世界では珍しくないものの、ここまで長く続く例はそう多くありません。

近藤信さんという人物像は、「娘を育てた親」という枠だけでは収まらない厚みを持っていると言えそうです。

心音さんは競技を始めたきっかけについて「父に誘われたフリースタイルスキー」と表現しています。

強制された記憶ではなく誘われたという言葉が出てくるあたりに、この親子の距離感が表れている気がします。

技術面だけでなく、競技に向き合う姿勢や考え方にも父親の影響があったと考えられています。

父親であり師匠でもあるという関係は、競技を続けるうえで大きな支えになっていたはずです。

隊長と呼ばれた理由|愛称の由来

では、近藤信さんはなぜ「隊長」と呼ばれているのでしょうか。

フリースキーの現場では名前よりも愛称で通っている人物であり、この呼び名そのものが信さんの立ち位置を物語っています。

隊長という愛称が定着した背景

結論から言うと、近藤信さんはフリースタイルスキー界で「隊長」のニックネームで知られています。

スキー専門メディアの記事でも、写真キャプションに「『隊長』こと父親の近藤 信さん」と明記されていました。

フリースキーの黎明期は、選手・コーチ・パーク設営者・イベント運営が明確に分かれていない時代でした。

そうした現場で仲間を引き連れ、山に上がり、ジャンプ台をつくり、滑って見せるという役回りを担っていたのが信さんだったのです。

誰かが先頭に立たなければ動かない世界で、その先頭に立ち続けた人だからこその呼び名なのでしょう。

いくつものフリースタイルパークをプロデュースしてきたという経歴も、この愛称の裏づけになっています。

愛称の由来について公式な説明が出ているわけではありません。

ただ、当時を知る関係者の証言や記事の書かれ方からは、現場を引っ張る立場にあったことが読み取れます。

スクールの主任、パークのプロデューサー、そして選手という3つの顔を同時に持っていたのが信さんでした。

その全部をまとめて表す言葉として、隊長という呼び名はしっくりくるものだったのでしょう。

肩書きではなく愛称で語られる指導者というのは、それだけ現場に近い存在だったという証拠でもあります。

キャプテンと紹介されるケースもある

一方で、ネット上の記事には「キャプテン」という愛称で紹介しているものも存在します。

下記の表は、愛称に関する情報を整理したものです。

呼び方 掲載媒体の性質 信頼度の目安
隊長 スキー専門メディア・本人取材記事 高い
キャプテン まとめ系ブログ 二次情報
まこちゃん 一部SNS上の呼称 確認できず

専門メディアが本人や家族への取材をもとに使っているのは「隊長」のほうです。

「キャプテン」表記は、隊長という日本語を英語に置き換えて紹介した結果と考えるのが自然でしょう。

意味としてはどちらも「先頭に立つ人」を指しており、大きく食い違う話ではありません。

ただ、フリースキーの現場で実際に飛び交ってきた呼び名は「隊長」だと押さえておくのが正確です。

愛称の表記ゆれは、ネット記事が増えるほど起きやすくなる現象です。

特に本人への直接取材を経ていない記事では、別の記事を参照する過程で表記が変わってしまうことがあります。

今回のケースでは意味が同じであるため、大きな誤解にはつながっていません。

とはいえ、父親について調べるときは専門メディアの記述を基準にするのが安全ですよ。

呼び名ひとつでも、出どころをたどると情報の性質が見えてくるのは面白いところです。

愛称が示す仲間内での立ち位置

愛称というのは、その人が集団の中でどう見られているかを映す鏡のようなものです。

「先生」でも「コーチ」でもなく「隊長」と呼ばれてきたという事実は、信さんが指導者である前に仲間だったことを示しています。

実際、フリースキーは規律よりも自由さを重んじるカルチャーから育ったスポーツです。

そこで上から教える立場に回らず、自分も滑りながら引っ張っていくスタイルを取ったからこそ、この呼び名が定着したのだと考えられます。

心音さんが「女の子っぽい滑りは絶対にしたくない」とスタイルにこだわり続けているのも、こうした父親の姿勢の影響かもしれませんね。

フリースキーは、スノーボードのカルチャーと近い場所で育ってきた競技です。

そのため指導の現場でも、上下関係よりも一緒に滑る関係が重視されてきました。

信さんが子どもたちや若い選手から慕われてきたのも、この距離感があったからでしょう。

白馬でフリースキーに関わる人にとって、隊長という呼び名は説明不要の固有名詞になっています。

指導者としての年数の長さが、そのまま信頼の厚さになっているということですね。

ここ、フリースキーという競技の性格がよく表れているポイントですよね。

娘の記事でも隊長表記が使われる理由

心音さんを紹介する記事の多くが、父親を「隊長」と併記して登場させています。

これは単なる豆知識としてではなく、心音さんの競技背景を説明するうえで欠かせない情報だからです。

白馬でフリースキーに関わる人なら、近藤信という名前より「隊長」で通じる場面のほうが多いとされます。

父親の知名度が競技コミュニティの中で確立されていたことは、心音さんにとって追い風でもあり、同時にプレッシャーでもあったはずです。

「あの隊長の娘」という見られ方の中で結果を出し続けてきたのだと考えると、その歩みの重みが伝わってきます。

心音さんを紹介する記事の多くが、父親の存在を最初のほうで取り上げています。

3歳からスキーを履き、父親の指導で世界へ出ていったという流れは、他の選手にはない物語性を持っています。

一方で、あの隊長の娘という見られ方が本人に重さを与えていた可能性もあります。

それでもジュニア時代から結果を出し続けてきたのは、実力で納得させてきたということでしょう。

親の看板がある環境で結果を残すのは、想像以上に難しいことだと思いますよ。

近藤信という名前の重みが、そのまま心音さんの歩みに重なっています。

モーグルからフリースキーへの転身

公式発表や各種インタビュー記事によると、近藤信さんのキャリアはモーグル競技から始まっています。

ここでは、父親がどのようにして競技を移し、フリースキーのパイオニアと呼ばれる立場になったのかを時系列で追っていきます。

モーグル選手としてのスタート

近藤信さんはまずモーグル競技の選手として競技生活を送りました。

モーグルはコブ斜面を滑り降りながらターンの正確さとエアの完成度、そしてスピードを競う種目です。

1992年のアルベールビル大会で正式種目となり、日本では1998年の長野大会で里谷多英さんが金メダルを獲得したことで一気に知名度が上がりました。

信さんが選手として取り組んでいたのは、まさに日本でモーグル熱が高まっていった時期と重なります。

この時期にエア技術とコブ斜面での対応力を徹底的に磨いたことが、のちのフリースキー転身の土台になりました。

モーグルは空中動作と着地の精度を突き詰める競技であり、その経験はスロープスタイルの指導に直結しています。

モーグルの選手は、コブの衝撃を吸収しながら正確にターンを刻む技術を求められます。

エアの完成度と着地の安定性を同時に磨く必要がある点は、のちのフリースキーにも直結する要素でした。

信さんがモーグル出身だったことは、指導者になってからの大きな武器になります。

空中でどう体を使い、どこで着地の準備をするかという感覚は、経験者にしか教えられないものです。

心音さんがエア技術で高く評価されてきた背景には、この指導があったと考えられます。

フリースタイルスキーとの出会い

1990年代後半から2000年代前半にかけて、スキー界には大きな地殻変動が起きました。

両端が反り上がったツインチップスキーの登場によって、後ろ向きに滑ったり回転したりする自由度が一気に広がったのです。

スノーボードのパークカルチャーと融合する形で生まれたのが、現在のフリースキーでした。

信さんはこの流れに早い段階から飛び込み、五輪種目に採用されるずっと前からフリースタイルスキーに取り組んできた人物です。

スロープスタイルが五輪種目になったのは2014年のソチ大会からなので、それより10年以上前の話になります。

先が見えない中で競技を続けるというのは、相当な覚悟が必要だったはずです。

ツインチップスキーの登場は、スキーの遊び方そのものを塗り替えました。

レールやボックスの上を滑るジブ、そして大きなジャンプ台でのエアが一気に広がっていきます。

信さんはこの新しい遊び方に早い段階で魅了され、国内でも数少ない実践者の一人になりました。

競技として認められる保証がない中で続けるのは、好きでなければできないことです。

いまの日本のフリースキー環境は、この世代の実践者がいたからこそ成立しています。

海外大会とスキームービーでの活躍

近藤信さんは国内にとどまらず、海外の大会にも出場してきました。

加えて当時のフリースキーシーンで重要だったのが、スキームービーへの出演です。

大会の中継が乏しかった時代、ライダーの滑りを世に伝える主要な手段は映像作品でした。

信さんは大きなジャンプとスタイルのある滑りで、そうした国内外のメディアに数多く登場しています。

下記の表は、父親のキャリアの流れを整理したものです。

時期 主な活動内容 備考
競技開始期 モーグル選手として活動 エア技術の基礎を構築
モーグル指導期 白馬でモーグルスクールを立ち上げ 白馬47で世界初の主任に就任
2000年前後 フリースキーの第一線で活動 ファーストジェネレーションの一人
現役引退後 コーチ・パークプロデュース 白馬を拠点に後進を指導
現在 Hakuba Freestyle Force 教室長 育成プログラムを主宰

選手としての実績を積んだあと、指導と普及に軸足を移していった流れがよく分かります。

映像の中で印象を残せるかどうかが、当時のライダーの評価軸でした。

信さんの滑りは、飛距離の大きさとスタイルの両立という点で特徴があったと伝えられています。

このスタイルという価値観こそ、のちに心音さんへ受け継がれたものでした。

第一人者と呼ばれる理由の整理

信さんが「第一人者」「パイオニア」と紹介されるのには、はっきりした理由があります。

ひとつめは、競技がまだ認知される前から実践者として滑り続けてきたこと。

ふたつめは、スクールやパークという「人が集まる場所」を自らつくってきたこと。

そしてみっつめが、次世代の選手を実際に世界レベルまで押し上げたことです。

この3つが揃っている指導者は、日本のフリースキー界でもごく限られています。

「娘が強い」という結果だけでなく、その前段にある土壌づくりまで含めて評価されている人物なんですね。

競技の黎明期を支えた人は多くても、その全部を長期間続けた人は限られます。

選手として滑り、スクールで教え、パークをつくり、育成プログラムを回す。

これを白馬という同じ場所で20年以上続けてきたのが近藤信さんです。

その結果として、五輪代表を2大会連続で送り出す家庭が生まれました。

加えて、地元の小中学生が競技に触れられる受け皿も整っていきます。

だからこそ各メディアが第一人者という表現を使い続けているのでしょう。

白馬という一つの村の中で、選手が育ち続ける仕組みが回っているのは簡単なことではありません。

娘の活躍だけでは説明できない厚みが、この人の経歴にはあります。

白馬47で世界初のスクール主任に

近藤信さんの経歴の中で、ひときわ目を引くのが指導者としての肩書きです。

ここでは父親が築いたスクールの実績と、それが娘の滑りにどうつながったのかを見ていきます。

世界初とされるモーグルスクールの主任就任

結論から言うと、近藤信さんは白馬47ウィンタースポーツパークで世界初のモーグルスクール主任に就任したと紹介されています。

モーグルはコブ斜面という特殊な地形を使うため、一般のスキースクールで体系的に教えるのが難しい競技でした。

その専門スクールを常設の形で立ち上げ、責任者を務めたというのは相当に先進的な取り組みです。

前述の通り、信さんはモーグル選手としてのキャリアを持っており、その知見をそのまま指導の現場に持ち込める立場にありました。

スクールという仕組みをつくったことで、白馬にはフリースタイル志向のスキーヤーが集まる流れが生まれます。

結果として、この場所が心音さんの練習環境そのものになっていくわけですね。

スクールという形で教える仕組みをつくると、競技人口は一気に増えます。

それまで独学に頼るしかなかったモーグルを、段階を追って学べるようにしたのがこの取り組みでした。

白馬47というフィールドを活かし、コブ斜面とパークの両方を使った指導が可能になります。

スクールに通う子どもたちの中から次の世代の選手が育つという循環も、ここから生まれました。

競技を広げるには、まず教える場所が必要だという発想ですね。

白馬47というフィールドの特殊性

白馬47ウィンタースポーツパークは、白馬五竜スキー場と隣接する形で運営されているエリアです。

国内でも早い時期からパークアイテムの設置に力を入れ、フリースタイル系スキーヤーやスノーボーダーの聖地として知られてきました。

レールやボックス、大小のジャンプ台が連続して配置されるレイアウトは、まさにスロープスタイルの練習に向いた構成です。

一方で、白馬エリアには世界基準のスペックを持つハーフパイプの練習場所がありませんでした。

そのため心音さんは必然的にHAKUBA47などの大きなパークをメインに練習することになります。

この環境こそが、心音さんがハーフパイプではなくスロープスタイルを主戦場とするようになった直接の理由です。

父親がつくった場所が、娘の競技選択まで決めていたと考えると、なかなかドラマチックですよね。

スロープスタイルは、距離1000m前後の斜面に設置されたアイテムを流して滑る競技です。

トップからボトムまでの全体の印象や流れのスムースさ、トリックの完成度が採点の対象になります。

だからこそ、連続したアイテムのあるパークで練習できるかどうかが決定的に効いてきます。

白馬という土地が心音さんのスタイルをつくったと言っても、大げさではありません。

スクール運営を夫婦二人で担った体制

スクールの運営は、信さん一人で抱えていたわけではありません。

妻である近藤聖子さんもともに白馬村でフリースタイルスキースクールを運営し、指導にあたってきました。

白馬村が公表した資料にも「信さんはこの種目の草分け的存在で、奥様とともに心音さんを指導されてきました」と記されています。

夫婦そろって競技経験者であり、かつ指導者でもあるという体制は、日本のスキー界でもかなり珍しい形です。

技術指導は信さん、コンディションや生活面の管理は聖子さんという役割分担が、自然に出来上がっていったのでしょう。

家庭がそのまま強化拠点になっていた、と言ってしまってもいいのかなと思います。

競技経験のある夫婦がそろって指導にあたる家庭は、全国を見てもごくわずかです。

技術と生活の両面を同じ基準で見られるため、選手にとっては迷いが少なくなります。

白馬村の公式資料でも、信さんはこの種目の草分け的存在と明記されています。

行政の資料にそう書かれるというのは、地域での評価が定まっている証拠でもあります。

スクールと家庭が地続きになっていたからこそ、圧倒的な練習量を確保できたのでしょう。

ここ、競技を続けるうえで意外と大きな差になる部分だと思います。

白馬から世界へ広がった影響

近藤信さんが白馬に根を下ろして指導を続けてきた影響は、心音さん一人にとどまりません。

信さんは白馬でフリースキーの育成プログラムを立ち上げ、地元の小中学生を継続的に指導してきました。

その子どもたちにとって、世界を転戦する心音さんはまさに手の届く目標です。

信さんは取材の中で、その育成プログラムの子どもたちについてこう語っていました。

「そこの小中学生の子供たちと心音はたくさん滑ってきたので、みんなが心音を目標にしてくれてたり、すごく応援してくれている。それも励みになっているんじゃないかな」

指導者が育てた子どもたちが、今度はトップ選手を支える側に回るという循環が生まれているわけです。

白馬というひとつの村の中で、こうしたサイクルが動いているのは素直にすごいことだと思います。

育成プログラムが始まったのは、2018年頃のことだとされています。

地元の小中学生が、世界を戦う選手と同じ斜面で滑れる環境はそう多くありません。

心音さんにとっても、応援してくれる子どもたちの存在は競技を続ける原動力になっていました。

教える側と教わる側が固定されない関係が、白馬の強さなのかもしれませんね。

この循環をつくったのが、父親である近藤信さんでした。

現在の職業はフリースキー教室長

ここでは、近藤信さんの現在の職業と活動内容について整理します。

「元選手」で止まらず、いまも競技の現場に立ち続けているのが信さんの特徴です。

Hakuba Freestyle Forceの教室長

結論から言うと、近藤信さんは現在「Hakuba Freestyle Force」の教室長を務めています。

白馬を拠点にフリースタイルスキーの指導を行う組織で、子どもから競技志向の選手まで幅広い層を受け入れている形です。

教室長という肩書きが示す通り、信さんはプログラム全体の設計と運営を担う立場にあります。

現役引退後もコーチとして活動を続け、白馬を中心に子どもたちや若い選手の指導を長年続けてきました。

単発のレッスンではなく、シーズンを通した育成に関わっているのがこの活動の特徴です。

指導歴は20年以上におよび、白馬のフリースキー人口を下支えしてきた存在と言えます。

教室では、初めてパークに入る子どもから大会を目指す選手まで幅広く受け入れています。

フリースキーは道具も技術も特殊なため、独学では危険が大きい競技です。

段階を踏んで安全に技を覚えられる場があること自体が、この地域の財産になっています。

信さんはシーズンを通してこのプログラムに関わり、子どもたちの成長を見続けてきました。

単発のレッスンでは届かない部分まで踏み込めるのが、常設の教室の強みですね。

フリースタイルパークのプロデュース業

もうひとつ、信さんの仕事として挙げられるのがパークのプロデュースです。

複数のフリースタイルパークを手がけ、フリースタイルスキーを広めるために全精力を傾けてきたと紹介されています。

パーク設計は、アイテムの配置・斜度・助走距離・着地の形状まで計算する専門的な仕事です。

設計を誤れば選手の大ケガに直結するため、競技経験者の目線が不可欠な領域でもあります。

滑る側と教える側の両方を知る信さんだからこそ、任されてきた役割なのでしょう。

競技人口を増やすには、まず滑れる場所を増やすしかない、という発想が根っこにあるのだと思います。

パークの設計は、アイテムの配置だけで完結する仕事ではありません。

斜度、助走距離、踏切の角度、着地面の形状まで含めて、一連の流れとして組み立てる必要があります。

雪の量や気温によって条件が変わるため、シーズン中も細かな調整が欠かせません。

滑る側の感覚を知っている人間が設計に入ることで、事故のリスクは大きく下がります。

信さんが各地のパークを任されてきたのは、この判断ができる数少ない存在だったからでしょう。

娘の専任コーチとして世界を転戦

近藤信さんは、心音さんの専任コーチとして二人三脚で世界を転戦してきました。

スロープスタイルのワールドカップは、スイス、オーストリア、アメリカ、フランスなど各地を巡るサーキットです。

標高3000m級の会場や気温マイナス20度という環境も珍しくなく、選手の体調管理は難易度が高くなります。

そこに競技を熟知したコーチが帯同することの意味は、想像以上に大きいはずです。

心音さん自身も、海外のトップ選手と同じ雪上で練習することがパフォーマンス向上の一番の方法だと語っていました。

その環境に飛び込む判断を早い段階から後押ししてきたのが、父親である信さんでした。

ワールドカップの転戦は、移動と時差と気候の変化との戦いでもあります。

心音さんは標高3000m級の会場や気温マイナス20度という環境にも身を置いてきました。

そうした場所に早く慣れることが、そのままパフォーマンスに直結します。

夏場はニュージーランドやヨーロッパの氷河で雪上トレーニングを行うのが通例でした。

一年を通して雪を追いかける生活を、父娘で長く続けてきたわけですね。

指導者としての評価と今後

信さんは「コーチとしての手腕もかなり素晴らしい」と評されてきた指導者です。

五輪代表を2人続けて輩出しうる家庭環境をつくったという点だけでも、その実力は分かります。

さらに信さんは、フリースキーをもっと大きなムーブメントにするため、今後もさまざまなプロジェクトを手がけていく考えを示しているとされます。

競技の普及と選手の育成は、どちらも短期間で成果の出るものではありません。

それを20年以上にわたって続けてきた蓄積が、いまの白馬のフリースキー環境をつくっています。

今後も白馬発の選手が世界に出ていくとすれば、その背景には必ずこの人の名前があるのだろうなと思います。

指導者の評価は、育てた選手の到達点で測られることが多いものです。

その基準で見れば、五輪代表と国際大会優勝者を同じ家庭から出しているのは十分すぎる実績でしょう。

ただ、信さんが取り組んできたのは自分の子どもの強化だけではありません。

白馬という地域にフリースキーの環境そのものを残してきた点が、より大きな仕事だったと言えます。

競技の普及も選手の育成も、短期間で成果の出るものではありませんよね。

3歳から続いた父娘二人三脚の指導

心音さんが初めてスキーを履いたのは3歳の頃でした。

ここでは、父娘の指導がどのように始まり、どんな日常だったのかを具体的に追っていきます。

3歳で初めてスキーを履いた日

心音さんがスキーを履いたのは3歳のときでした。

ただ、雪山との関わりはそれよりもっと前から始まっています。

スキーを履く以前から、父親の背中におんぶされた状態で、すでに一緒に飛んだりしていたというのです。

いくらなんでも早すぎる気もしますが、これが白馬のスキー一家の日常でした。

白馬村のスキー場の麓に住んでいたため、物心がついた頃にはフリースタイルスキーが生活の一部だったと心音さんは振り返っています。

スキーを「習い事」として始めたのではなく、「そこにあるもの」として受け取った点が、のちの上達速度に効いていたのだと思います。

白馬村は、生活のすぐ隣に雪山があるという環境です。

朝起きて窓を開ければ白馬連峰が見え、スキー場までは歩いて行ける距離でした。

そうした土地で両親がともに競技経験者となれば、子どもが雪の上に立つ時期は自然と早くなります。

心音さんがスキーを履いたのは3歳、雪山に連れ出されたのはそれ以前でした。

習い事として始めたのではなく、そこにあるものとして受け取った点が上達の速さにつながっています。

操り人形みたいだったキッズ時代

小さな子どもが初めてスキーを覚える際には、板の先端をつなぐプラスチック製のアタッチメントがよく使われます。

信さんはこれをキッズスキーに取り付け、心音さんの腰にストラップを結んで後ろから操作していました。

当時の様子を、信さんはこう振り返っています。

「後ろからストラップを引くとキュッキュと左右にターンして、操り人形みたいでおもしろかったですね。ある時は、ちょっと動きが妙だなって思って見たら、なんと寝てました!(笑)寝ながら滑ってるんですよ」

滑りながら寝てしまう3歳児というのは、なかなか強烈なエピソードですよね。

この時期の指導は、技術を教え込むのではなく、雪の上にいる時間を当たり前にすることに重点が置かれていました。

結果として心音さんは、小学生のうちにミスティという3Dトリックを自分のスタイルで完璧にメイクするまでになります。

この時期の練習には、技術を教え込むという発想がほとんどありません。

まずは雪の上にいる時間を確保し、滑ることを楽しいと感じさせるのが最優先でした。

結果として心音さんは、小学生のうちにミスティという3Dトリックを自分のスタイルで完成させています。

スワン参加後に栄養学まで学んだ父

親子の関係が大きく変わったのは、心音さんが小学5年生のときでした。

長野県が主催する選手育成プログラム「SWANプロジェクト」に合格し、親子で参加を始めたのです。

ここから毎週スワンに通う生活が始まり、心音さんは熱心にフィジカルトレーニングに取り組みました。

一方で信さんが取り組んだのが、アスリートの栄養学を徹底的に学ぶことでした。

父親が学んだ知識をもとに、実際に料理をつくって栄養を管理したのは母親の聖子さんです。

アスリートの体づくりに栄養の専門知識が欠かせないことを、この段階で家族全員が理解していたわけですね。

指導者としての引き出しを増やすために親のほうが勉強し直すという姿勢は、なかなかできることではありません。

子どもが本気になった瞬間に、親のほうが学び直すというのは簡単な決断ではありません。

信さんはスキーの指導者としてはすでに一流でしたが、栄養の分野は専門外でした。

それでも一から学び、家庭の食事に落とし込むところまでやり切っています。

競技力は雪上の練習だけで決まるものではない、という理解が家族に共有されていたわけです。

このあたりの徹底ぶりが、いかにも近藤家らしいところだと思います。

土日は必ず山に上がるという家族のルール

スワンプロジェクトへの参加と並行して、近藤家には明確な習慣がありました。

土日は毎週、必ず親子で山に上がるというものです。

信さんが仕事で行けないときは、母親の聖子さんが代わりにコーチを務めました。

小学校高学年になると出場できる大会も増えてきたため、表彰台を目指して親子で練習を重ねていきます。

トレーニングは冬だけにとどまらず、一年中続けられました。

その積み重ねがあったからこそ、心音さんはジュニア時代から常に表彰台に立つ選手へと成長していったのです。

華やかな五輪代表という肩書きの裏に、こうした地味な反復があったことは覚えておきたいところですね。

中学2年時にはFISジュニアの大会にデビューし、全国中学生大会でも入賞を記録しています。

小学5年からのわずか数年で、地元の有望選手から国内トップクラスへと駆け上がりました。

積み重ねた量が、そのまま結果になって表れた形ですね。

近藤心音の父親が育てた家族|母親と妹の今

  • 母親・近藤聖子は元モーグル選手
  • 妹・近藤叶音も同じ競技で世界へ
  • 近藤心音のプロフィールと戦績
  • SWANプロジェクトが変えた進路
  • 2大会連続の負傷棄権と父の支え
  • 引退と告発|家族が守りたいもの

母親・近藤聖子は元モーグル選手

ここでは、父親とともに心音さんを支えてきた母親について整理します。

近藤家がスキー一家と呼ばれる理由は、父親だけにあるわけではありません。

母親・近藤聖子のプロフィール

心音さんの母親は、近藤聖子(こんどう・きよこ)さんです。

下記の表は、母親に関する公開情報をまとめたものです。

項目 内容
名前 近藤 聖子(こんどう きよこ)
2026年10月02日現在の年齢 約52歳
競技歴 元モーグル選手
指導歴 モーグルコーチ/スクール指導
活動拠点 長野県白馬村
主な役割 栄養管理・遠征サポート・代役コーチ
出身地 公表されていない
職業 フリースタイルスキースクール運営

2022年の北京五輪当時の報道では、年齢は47歳と紹介されていました。

そこから逆算すると、2026年10月02日現在は約52歳ということになります。

現役時代はモーグル選手として滑り、引退後はコーチを務めていたという経歴の持ち主です。

聖子さんの出身地や詳しい経歴については、公式に発表されていません。

メディアへの登場も限られており、表に出るタイプの人物ではないようです。

それでも白馬村の公式資料に名前が残っているのは、指導者としての立場があったからでしょう。

夫婦でスクールを運営してきたという事実が、その実力を物語っています。

ロープを持って教えた幼少期の指導

聖子さんの指導で語り継がれているのが、幼い心音さんへの教え方です。

幼い頃の心音さんの腰にロープをつなぎ、それを母親の聖子さんが持ってスキーを指導していたと伝えられています。

父親がストラップで後ろから操作していたという話と並ぶ、近藤家らしいエピソードですね。

転ばせないためではなく、自分で滑る感覚を早く覚えさせるための方法だったのでしょう。

競技経験者である母親だからこそできた、理にかなった手法だと言えます。

両親そろって雪上で子どもを見られる家庭というのは、日本全体を見てもかなり限られています。

小さな子どもにスキーを教えるとき、最も難しいのは恐怖心との付き合い方です。

転ばせないように支えすぎると、自分でバランスを取る感覚がいつまでも育ちません。

ロープを使った指導は、支えながらも子ども自身に滑らせるという絶妙な距離感を保つ方法でした。

父親はストラップで後ろから操作し、母親はロープで方向を導くという分担になっていました。

役割の分け方まで含めて、かなり計算された指導だったのかなと思います。

両親そろって雪上で子どもを見られる家庭というのは、日本全体を見てもかなり限られています。

近藤家の指導は、この幼少期の関わり方からすでに他と違っていたと言えそうです。

栄養管理という裏方の仕事

聖子さんの役割で最も大きかったのが、食事と栄養の管理でした。

SWANプロジェクトへの参加を機に、信さんがアスリートの栄養学を徹底的に学びます。

その知識を実践した料理をつくり、日々の栄養を管理したのが聖子さんでした。

アスリートの体づくりに栄養の専門知識は欠かせないという考え方を、近藤家は小学生の段階から実行していたわけです。

海外遠征が増えれば、食事環境は不安定になります。

遠征中のコンディション維持を支えたのも、こうした家庭での土台づくりがあったからでしょう。

成長期のアスリートにとって、食事は練習と同じくらい重要な要素です。

必要な量を必要なタイミングで取れているかどうかで、回復の速さがまるで変わってきます。

聖子さんは信さんが学んだ栄養学の知識を、日々の献立という形に翻訳する役割を担いました。

海外遠征が増えれば食事環境は不安定になり、体重の管理も一気に難しくなります。

表に出ない仕事ほど、実は結果を左右するものですよね。

遠征先でも体をつくれる選手に育ったのは、家庭での土台づくりがあったからでしょう。

食事の管理は毎日続けなければ意味がなく、根気のいる仕事でもあります。

代役コーチも務めたサポート体制

聖子さんは、裏方に徹していただけの人ではありません。

信さんが仕事で山に行けないときは、代わりに聖子さんがコーチとして指導にあたりました。

土日は毎週必ず山に上がるという家族のルールが守られてきたのは、この二枚看板があったからです。

一方で、聖子さん自身が表舞台で語る機会は多くありません。

白馬村の公式資料に「奥様とともに心音さんを指導されてきました」と記されている程度で、露出は控えめです。

それでも競技生活の土台を支え続けた存在であることは、各種の記録からはっきり読み取れます。

信さんはスクールやパークの仕事を抱えており、常に山へ同行できるわけではありませんでした。

そこで代わりにコーチを務めたのが、元モーグル選手である聖子さんです。

どちらかが欠けても練習が止まらない体制は、継続性という点で非常に強いものになります。

小学校高学年から中学にかけての伸び盛りの時期を、この体制で支え切ったことになります。

近藤家の強さは、才能よりもこの仕組みにあったのかもしれません。

聖子さん自身が表舞台で多くを語る機会は、いまもほとんどありません。

それでも競技生活の土台を支え続けた存在であることは、各種の記録からはっきり読み取れます。

妹・近藤叶音も同じ競技で世界へ

近藤家には、もう一人フリースタイルスキーの選手がいます。

ここでは妹・近藤叶音さんの歩みと実績を整理します。

妹・近藤叶音のプロフィール

心音さんの妹は、近藤叶音(こんどう・かのん)さんです。

2009年5月8日生まれで、2026年10月02日現在は17歳になります。

2025年春からはN高等学校で学びながら、競技に打ち込む生活を送っています。

姉と同じくスロープスタイルとビッグエアを主戦場とする選手です。

姉との年齢差はおよそ6歳で、心音さんが本格的に競技を始めた頃にはまだ幼児でした。

そのため叶音さんにとって、姉の練習や大会について行くことが日常そのものだったといいます。

叶音という名前は、姉の心音という名前と並べたときにひとつの対になっています。

2025年春からはN高等学校に在籍し、競技と学業を両立させる生活を送ってきました。

通信制やオンライン中心の高校を選ぶのは、姉の心音さんと同じ道でもあります。

遠征と学業を両立させるには、現実的にこの選択肢しかないという事情がありますね。

競技の環境という意味では、姉が切り開いた道をそのまま使える立場にあります。

姉と同じくスロープスタイルとビッグエアを主戦場とする選手です。

物心がついた頃には姉の大会や練習場について行っていた、と本人も振り返っています。

競技を始めたきっかけは姉の背中

叶音さんが競技を始めたきっかけは、はっきりしています。

海外の大きなジャンプ台を飛ぶ姉の姿を見て、自分も同じ競技をやりたいと思ったことでした。

「物心がついた頃には姉の大会や練習場について行っていました」とも語られています。

父も母も元選手で、姉は日本代表という環境ですから、競技が身近にあるどころの話ではありません。

信さんは2021年の取材で、心音さんの将来についてこんな話をしていました。

「心音には同じくこの競技をやっている叶音(かのん)という12歳の妹がいるんですが、次は叶音と一緒にオリンピックに出たいってことも考えているみたいですよ」

姉妹そろって五輪の舞台に立つという構想は、当時から家族の中で共有されていたようです。

身近に目標がいるというのは、競技を続けるうえで大きな意味を持ちます。

叶音さんの場合、その目標が同じ家に住む姉だったわけです。

父と母が指導者で姉が日本代表という環境は、恵まれていると同時にプレッシャーも小さくありません。

それでも自分からやりたいと言って始めたという経緯が、いまの粘り強さにつながっているのでしょう。

競技の厳しさを共有できる存在が身近にいることは、精神面でも大きな支えになります。

叶音の主な戦績

以下の表で、叶音さんのこれまでの成績を整理してみます。

年 大会名 種目 成績
2023年 FIS全日本選手権 スロープスタイル 2位
2023年 FIS全日本選手権 ビッグエア 3位
2024年 FIS全日本選手権 スロープスタイル 3位
2024年 FIS全日本選手権 ビッグエア 3位
2024年 FIS南米選手権 コンチネンタルカップ スロープスタイル 優勝
2025年 第9回アジア冬季競技大会(ハルビン) スロープスタイル 5位入賞

10代半ばで全日本選手権の表彰台に複数回上がっているのは、相当な実力です。

南米選手権のコンチネンタルカップでは優勝を果たしており、国際大会でも結果を残しています。

アジア冬季競技大会での5位入賞も、年齢を考えれば十分に評価できる成績ですね。

南米選手権のコンチネンタルカップは、シーズンオフの南半球で行われる国際大会です。

日本のシーズンとは逆の時期に実戦経験を積める点で、若い選手には重要な舞台になります。

ここで優勝しているという事実は、叶音さんの実力が国内だけのものではないことを示しています。

全日本選手権では2種目とも継続して表彰台に上がっており、安定感も評価できるところです。

姉妹で世界を目指す近藤家の現在地

叶音さんはまだ10代であり、キャリアはこれからが本番です。

姉と同じ父親の指導を受け、同じ白馬のパークで育ってきたという強みがあります。

一方で、姉が歩んだ道をそのままなぞる必要がないのも事実です。

姉の経験から学べることが多いぶん、遠回りを避けられる立場にいるとも言えます。

近藤家から姉妹で世界に挑む姿が見られる日は、そう遠くないのかもしれません。

叶音さんの今後の歩みについては、新しい情報があればまた追いかけていきたいところです。

姉の心音さんが競技から退いたいま、近藤家の現役選手は叶音さん一人になりました。

その分だけ注目も集まりやすく、置かれた環境は以前とは違うものになっています。

次の冬季五輪を目標に据えるとすれば、ちょうど年齢的にも充実する時期と重なります。

姉が果たせなかった五輪の舞台で滑るという目標を、妹が引き継ぐ形になるのかもしれません。

家族の物語としては、ここからが第2章という見方もできますね。

ここ、フリースキーを追いかけている人ほど気になるところだと思います。

姉の経験から学べることが多いぶん、遠回りを避けられる立場にいるとも言えます。

叶音さんの今後については、新しい情報が出てきた段階で追いかけていきたいところです。

近藤心音のプロフィールと戦績

ここでは、父親に育てられた心音さん本人のプロフィールと競技実績を整理します。

父親の話と合わせて読むことで、家族の歩みがより立体的に見えてくるはずです。

近藤心音の基本プロフィール

下記の表は、心音さんの基本情報をまとめたものです。

項目 内容
名前 近藤 心音(こんどう ここね)
生年月日 2003年2月19日
2026年10月02日現在の年齢 23歳
出身地 長野県北安曇郡白馬村
身長 157cm
所属 オリエンタルバイオ
競技 フリースタイルスキー(スロープスタイル/ビッグエア)
最終学歴 NHK学園高等学校(通信制)卒業
主な実績 北京2022・ミラノコルティナ2026 五輪代表
Instagram @cocone_kondo

2003年2月19日生まれなので、2026年10月02日現在は23歳です。

身長157cmと決して大柄ではありませんが、空中動作の多いこの競技では小柄さが不利になるとは限りません。

所属先は2021年に入社したオリエンタルバイオで、同社は選手活動をスポンサードしてきました。

FISコードは2534176、全日本スキー連盟の競技者番号は05001526と登録されていました。

公式サイトはkokonekondo.comで、インスタグラムは@cocone_kondoというアカウントです。

2021年にオリエンタルバイオへ入社し、企業所属のアスリートとして活動してきました。

競技優先で選んだ学歴の道

心音さんの学歴は、競技と両立するための選択の連続でした。

白馬村立白馬中学校を卒業後、地元の長野県白馬高等学校へ進学します。

しかしワールドカップデビュー後はケガやリハビリ、国内外への遠征が増え、出席日数の確保が難しくなったため通信制のNHK学園高等学校へ転校しました。

最終学歴はこのNHK学園高等学校卒業となり、大学には進学していません。

高校卒業後はプロのアスリートとして競技一本に絞った生活を選びました。

10代のうちに「普通の高校生活」より「世界の頂点」を取ったという決断は、なかなか真似できるものではありませんよね。

小学校は白馬村立白馬小学校、中学校は白馬村立白馬中学校に通ったとされています。

中学2年時にはすでにFISジュニアの大会へ出ており、当時から国内トップ級の実力でした。

高校進学の時点では地元の白馬高校を選びましたが、遠征の増加で通学が現実的でなくなります。

通信制への転校は、学業を諦めるのではなく両立の形を変えるための判断でした。

大学へは進学せず、高校卒業と同時にプロのアスリートとしての道に絞っています。

主な戦績の年表

以下の表で、心音さんの主な戦績を時系列に整理します。

年 大会名 種目 成績
2018年 ジュニア世界選手権(ニュージーランド) スロープスタイル 3位
2020年 FIS Oze Tokura スロープスタイル 優勝
2020年 FIS Oze Tokura ビッグエア 優勝
2021年 FIS Oze Tokura スロープスタイル 優勝
2021年 ワールドカップ(スイス大会) スロープスタイル 予選2位・決勝7位
2021年 世界選手権(アメリカ/初出場) スロープスタイル 9位
2021年 世界選手権(アメリカ) ビッグエア 15位
2022年 北京冬季オリンピック 両種目 負傷により欠場
2026年 ミラノ・コルティナ五輪 スロープスタイル 負傷により棄権

ジュニア時代から国内外で結果を残し、2021年には世界選手権とワールドカップの両方でトップ10入りを果たしています。

ワールドカップランキングではスロープスタイルで最高8位を記録しました。

2018年のジュニア世界選手権で3位に入ったのは、15歳のときのことでした。

2023年以降も全日本選手権でスロープスタイルとビッグエアを連覇するなど、国内では圧倒的な存在でした。

国内大会と国際大会の両方で結果を残し続けてきた選手だったと言えます。

157cmという体格が生んだスタイル

身長157cmという数字は、2022年北京五輪当時の地元紙の紹介に記載されていたものです。

心音さんは自身のスタイルについて、はっきりした考えを持っていました。

「パっと見て女の子とわかる女子っぽい滑りは絶対にしたくない」と、周囲に話し続けていたといいます。

実際のライディングは力強く、それでいてしなやかで、独特のアウトラインを持つものでした。

最初に覚えた3Dトリックはミスティで、小学生の段階ですでに自分のスタイルで完璧にメイクしていたとされます。

さらに、世界の女子ではまだ誰も成功していないスイッチとレギュラーからのダブルトリックを2つ持っていたとも伝えられていました。

この「スタイルへのこだわり」こそ、父親から受け継いだ最も大きな財産なのかもしれません。

スロープスタイルは、タイムではなく採点で順位が決まる競技です。

技の難易度、着地の綺麗さ、独創性、全体の完成度などが評価の基準になります。

フィギュアスケートに近い性格を持ち、流れの美しさが点数を左右する種目でもあります。

心音さんはこの流れの部分が際立って上手い選手だと評価されてきました。

身長157cmという体格を弱点ではなく、しなやかさという武器に変えていたわけですね。

SWANプロジェクトが変えた進路

小学5年生のとき、心音さんの競技人生を決定づける転機が訪れます。

ここでは、家族の歩みを大きく変えたSWANプロジェクトについて整理します。

SWANプロジェクトとは何か

SWANプロジェクトは、長野県が主催する冬季競技の選手育成・応援プログラムです。

主催はSWANプロジェクト実行委員会で、長野県、長野県教育委員会、長野県スポーツ協会などが名を連ねています。

未来の冬季オリンピックメダリストを見出し、育成することを目的として運営されてきました。

選考会を経て選抜された子どもたちが、継続的にトレーニングを積む仕組みになっています。

ミラノ・コルティナ2026大会には、このSWANから3人の選手が日本代表として出場しました。

モーグルの冨髙日向子さん、リュージュの小林誠也さん、そしてスロープスタイル・ビッグエアの近藤心音さんです。

SWANでは、冬季競技で自分の可能性に挑戦したいという子どもを広く募集しています。

選考会を経て選ばれた子どもたちは、期別に分かれて継続的なトレーニングを積んでいきます。

長野県から全国、そして世界で活躍するアスリートを育てるという明確な目的が掲げられた事業です。

単発のイベントではなく、何年も伴走する仕組みになっているのが特徴でしょう。

地方自治体がここまで本格的な育成事業を続けている例は、そう多くありません。

5期生として選抜された小学5年生

心音さんがSWANプロジェクトに応募したのは、小学5年生のときでした。

選抜テストに合格し、SWAN5期生として親子で参加を開始します。

長野県の公式資料にも、近藤心音さんはSWAN5期生として掲載されています。

同じ5期生にはリュージュの小林誠也さんがおり、後に同じ五輪の舞台へ進むことになりました。

地域の育成プログラムから複数の五輪代表が生まれているという点で、SWANの成果は明確です。

心音さんの場合は、ここでの経験がそのまま進路を決めることになりました。

SWANの選考では、特定の競技の技術ではなく運動能力の伸びしろが見られます。

合格後は親子で参加する形となり、家族ぐるみでの取り組みが本格的に始まりました。

同じ5期生にはリュージュの小林誠也さんがおり、のちに同じ五輪の舞台へ進んでいます。

ひとつの期から複数の五輪代表が出ているという点で、SWANの成果は明確です。

地域の育成事業が世界につながった好例と言えますね。

長野県の公式資料にも、近藤心音さんはSWAN5期生として掲載されています。

地域の育成事業から複数の五輪代表が生まれているという事実は、もっと知られてよい話だと思います。

オリンピックに出たいと宣言した日

SWANプロジェクトでは、何年後の自分はこうなっていたいという目標を明確にし、子どもたちに発表させていました。

そこで心音さんが宣言したのが、「オリンピックに出たい!」という言葉でした。

この瞬間から、スキーのイメージが変わり、スイッチがアスリートモードに入ったと本人は振り返っています。

小学5年生の宣言としては、かなり具体的で重たい目標です。

そしてこの宣言は、のちに2度の五輪代表という形で現実のものになりました。

言葉にして周囲に伝えるという行為が、どれだけ人を動かすかを示す好例だと思います。

小学5年生が人前で五輪を口にするというのは、それなりに勇気がいることです。

心音さん自身も、この瞬間からスキーのイメージが変わったと振り返っています。

遊びの延長だったスキーが、明確な目標を持つアスリートの競技へと切り替わりました。

周囲の大人も、その宣言を本気として扱ったことが大きかったのだと思います。

言葉にして周囲に伝えるという行為が、どれだけ人を動かすかを示す好例ですよね。

この宣言をきっかけに、スイッチがアスリートモードに入ったと本人は表現しています。

そしてこの言葉は、のちに2度の五輪代表という形で現実のものになりました。

親子で通い続けた日々

SWAN参加後、近藤家の生活は大きく変わりました。

毎週親子でスワンに通い、心音さんは熱心にフィジカルトレーニングに取り組みます。

信さんはアスリートの栄養学を徹底的に学び、聖子さんがそれを実践した料理で体づくりを支えました。

前述の通り、土日は毎週必ず親子で山に上がるという習慣も、この時期に定着しています。

小学校高学年になると出場できる大会も増え、表彰台を目指して練習を重ねる日々が続きました。

そして中学2年時にはFISジュニアデビューを果たし、全国中学生大会でも入賞を記録します。

家族全員が同じ目標に向かって動いていた5年間が、世界レベルの土台をつくったわけですね。

SWANへの参加は、週末の予定を数年単位で拘束することを意味します。

それでも近藤家は毎週通い続け、そこにスキー場での練習を上乗せしていました。

心音さんはフィジカルトレーニングに取り組み、体の土台づくりを進めていきます。

父が学び、母が食事で支え、子が練習するという分担が完成したのがこの時期でした。

家族全員が同じ目標に向かって動いていた数年間が、世界レベルの土台をつくっています。

2大会連続の負傷棄権と父の支え

2月5日、公式練習での転倒が2度、心音さんの五輪を奪いました。

ここでは、2大会にわたる負傷の経緯と、その間の家族の動きを整理します。

2018年平昌と2019年の大ケガ

心音さんにとって最初の五輪の壁は、ケガではなく年齢でした。

2018年の平昌大会に向けて技術的には出場圏内に届いていたにもかかわらず、出場可能年齢の14歳に2か月足りず五輪切符を逃しています。

この悔しさをバネに、同年8月のジュニア世界選手権ニュージーランド大会でスロープスタイル3位に入りました。

ところが翌2019年、ワールドカップのイタリア大会でジャンプを大きく飛び過ぎて転倒します。

診断は左膝前十字靭帯の断裂という重いものでした。

手術後は約1年間のリハビリとトレーニングに取り組み、2020年にワールドカップの舞台へ戻っています。

五輪には競技ごとに出場可能な年齢が定められています。

技術的には届いていたのに、生まれた月が2か月遅かったというだけで出場できませんでした。

本人にとっては、どうしようもない理由で夢が遠のいた経験だったはずです。

この悔しさが、翌シーズン以降の急激な伸びにつながっていきました。

そして2019年の大ケガからも、約1年のリハビリを経て復帰を果たしています。

手術後は約1年間のリハビリとトレーニングに取り組み、2020年にワールドカップの舞台へ戻っています。

復帰したシーズンにはFIS尾瀬戸倉大会で2種目優勝を果たし、完全に力を取り戻しました。

北京五輪の悲劇と代理の表敬訪問

2022年、心音さんは北京冬季五輪の日本代表に選出されました。

その直前の1月25日、白馬村長への表敬訪問が行われています。

ただし新型コロナウイルス感染症への対策のため、本人は姿を見せず、指導者でもある父・近藤信さんが代理で出席しました。

村長は心音さんの活躍に期待し、コロナ禍の影響を受けるスキー業界を盛り上げるためにも頑張ってきてほしいと激励の言葉を送っています。

しかし現地入り後の2月5日、公式練習中の転倒で右膝の前十字靱帯と半月板を損傷してしまいます。

ビッグエア、スロープスタイルともに欠場となり、初の五輪は競技に立つことなく終わりました。

北京大会の出場基準はワールドカップ8位以内で、心音さんは2021年のスイス大会ですでに満たしていました。

フリースキー種目で出場基準を満たしていた日本人女子選手は当時唯一の存在だったとされます。

それだけに、村を挙げての期待は相当なものでした。

白馬村は応援サイトを開設し、オンラインでの応援も計画していたほどです。

その矢先の負傷だっただけに、地元の落胆も大きかったはずです。

ミラノ・コルティナでの再びの負傷

2026年、心音さんはミラノ・コルティナ五輪の代表に選ばれ、リベンジの舞台に立ちます。

ところが2月5日、スロープスタイルの公式練習中に再び転倒し、救急車で搬送されました。

担当コーチは、ジャンプ台から飛び出した後にバランスを崩して転倒したと説明しています。

診断は左膝前十字靱帯と内側側副靭帯の損傷、そして半月板の骨挫傷でした。

通常なら歩くことができない状態であったことも、本人が会場で明らかにしています。

それでも心音さんは翌日の公式練習に参加し、最後まで出場の可能性を探りました。

下記の表は、2度の五輪での負傷を整理したものです。

大会 発生日 負傷部位 結果
北京2022 2月5日 右膝前十字靱帯・半月板損傷 2種目とも欠場
ミラノコルティナ2026 2月5日 左膝前十字靱帯・内側側副靭帯損傷、半月板骨挫傷 スロープスタイル棄権

心音さんは、医師から出場は不可能だろうと告げられた後も最後まで粘っています。

「確実に出場は不可能だろうということでしたが、どこまで取り組めるのかは私の気持ち次第」と語っていました。

大会では他の選手にも転倒や板が外れるアクシデントが相次ぎ、雪質の影響を指摘する声も出ています。

最後まで表に出ると決めた理由

2026年2月7日、スロープスタイル予選の棄権が発表されました。

心音さんは当日、スタート地点まで足を運んだうえでメディアの前に立っています。

そのとき語った言葉が印象的でした。

「やっぱり北京のことがあって今回だったので、欠場っていう選択を絶対に自分でしたくなかったです」

さらに「最後まであきらめず、最後まで心折れずにやりきることができたので、そこに関して申し訳ないっていう気持ちではなく、よく頑張ったって言ってもらいたいな」とも述べています。

「逃げることもできたけど、ちゃんと皆さんにお伝えできる場があるなら、最後まで表に出るべきと思った」という発言も残しました。

3歳から父娘で積み上げてきた時間が、こうした場面での強さになって表れたのだろうと思います。

棄権の発表後、心音さんのSNSには誹謗中傷のメッセージが届くことになります。

本人はその事実を公表したうえで、自分の生き様も競技のことも知らない人からの言葉は許せないと綴りました。

ジャンプ台から飛び出した後にバランスを崩しての転倒であり、責められる要因はいっさいありません。

直前の負傷による欠場は、他の競技を見ても決してまれなできごとではないんですよね。

引退と告発|家族が守りたいもの

2026年、心音さんは大きな決断を下します。

ここでは、現役引退とその後の告発について、報道された内容を事実ベースで整理します。

2026年6月の現役引退

心音さんは2026年6月に現役引退を発表しました。

2大会連続で現地入り後に負傷し、いずれも競技に立てないまま終わるという経験を重ねての決断です。

膝の前十字靱帯を2度断裂しているという事実だけを見ても、競技継続の負担は相当なものでした。

3歳でスキーを履き、小学5年生で五輪を宣言し、2度の代表入りを果たした競技生活が一区切りを迎えたことになります。

ただ、後の報道では引退を決断した理由は負傷だけではなかったとも伝えられました。

その背景が明らかになったのは、引退から2か月後のことです。

心音さんは2018年の平昌を年齢で逃し、2度の五輪はいずれも現地で負傷しています。

五輪という舞台に3度手が届きかけ、3度とも滑れないまま終わったことになります。

膝の前十字靱帯を2度断裂しているという事実だけを見ても、競技継続の負担は相当なものでした。

引退の報せを受けて、白馬のフリースキー関係者からも惜しむ声が上がりました。

結果という物差しだけでは語り切れないキャリアだったと思います。

3歳でスキーを履いてから、およそ20年におよぶ競技生活の区切りとなりました。

ただ、後の報道では引退の理由が負傷だけではなかったことも明らかになっていきます。

8月24日のSNS投稿

2026年8月24日、心音さんは自身のインスタグラムに長文を投稿しました。

そこで告発されていたのは、選手や関係者から受けたという嫌がらせやパワーハラスメントの問題です。

投稿には「こんなチームじゃなければここまで修復不可能なほどに深く深く傷つくことはなかっただろうと思います」と綴られていました。

さらに「助けて欲しくてSOSを出し続けていました」「オリンピック前の海外遠征中(約10日間)で4kg痩せました」という記述もあったと報じられています。

下記の表は、報じられている一連の経緯を時系列で整理したものです。

時期 出来事
2026年2月5日 ミラノ・コルティナ五輪の公式練習で負傷
2026年2月7日 スロープスタイル予選の棄権を発表
2026年2月 SNSに誹謗中傷のメッセージが届いたことを公表
2026年6月 現役引退を発表
2026年8月24日 インスタグラムでいじめ・パワハラを告発
2026年8月26日 週刊誌報道で内容が広く拡散

告発の真偽も含め、スキー界の体制が問われる事態となりました。

投稿は瞬く間に拡散され、スキー界の体制そのものが問われる事態に発展しました。

心音さんは法的手段も辞さない姿勢を示しており、弁護士への相談も進めているとされています。

妹への影響と連盟の対応

この告発で心音さんが強く訴えていたのが、妹への配慮でした。

報道によれば、告発文に添えられた文章には「何より許せないのは、私の妹にも同じ事をしようとしていること」という内容があったとされます。

現役選手である叶音さんにも、同様の行為が及んでいることを示唆する記述でした。

一方、全日本スキー連盟は2017年5月にハラスメントやコンプライアンス違反に関する通報相談窓口を設置しています。

今回の告発については窓口に問い合わせはなかったとして、「窓口などを利用して問題が出てきた場合には、対応していく」との見解を示しました。

現時点で事実関係の詳細が公式に確定した発表はなく、今後の推移を見守る必要があります。

告発の内容が内容だけに、もう少し慎重になるべきだったのではという意見も出ています。

一方で、競技の連盟そのものに不信感を抱いている状況では、これが最後の手段だったという見方もあります。

叶音さんは現役選手であり、今後の競技環境に影響が出る可能性は否定できません。

告発の投稿には、妹を守るために弁護士の準備を進めているという趣旨の記述もあったと報じられました。

父親が築いた土壌といまの課題

父・近藤信さんは、競技の黎明期からフリースキーの場をつくり続けてきた人物です。

白馬でスクールを立ち上げ、パークをプロデュースし、育成プログラムで子どもたちを指導してきました。

その土壌があったからこそ、心音さんと叶音さんという2人の選手が育ったのは間違いありません。

一方で、競技が大きくなるにつれてチーム内の人間関係や組織としての体制が問われる場面も出てきました。

心音さんは告発の投稿で「変わって欲しいです、切実に」と日本スキー界全体への思いを綴っています。

ここ、簡単に結論の出る話ではありませんよね。

新しい情報が出てきた場合には、今後もアップデートしていきたいと思います。

競技が小さかった頃は、関わる人の顔がすべて見える世界でした。

それが五輪種目となり代表チームが編成される規模になると、組織としての運用が問われてきます。

近藤家が長年向き合ってきたのは、前者の世界の作法だったのかもしれません。

信さんが白馬で築いた土壌と、代表チームという組織の課題は分けて捉える必要があります。

それでも、家族が競技の現場に立ち続けてきたことの意味は変わりません。

近藤心音の父親・近藤信に関する総まとめ

  • 近藤心音の父親は近藤信で日本フリースキーの第一人者
  • 父親の近藤信は1966年3月19日生まれの岩手県出身
  • 近藤信は岩手県北上市出身で長野県白馬村に移り住んだ
  • フリースキー界では隊長という愛称で長く親しまれている
  • 一部のネット媒体ではキャプテンの愛称でも紹介される
  • モーグル選手を経てフリースタイルスキーに転向している
  • 白馬47で世界初とされるモーグルスクール主任を務めた
  • 2000年前後の日本のフリースキーシーンを牽引した
  • 現在は白馬を拠点にフリースキー教室の教室長を務める
  • 心音を3歳から指導し世界まで導いた専任コーチである
  • 母親の近藤聖子も元モーグル選手で指導経験を持つ人物
  • 妹の近藤叶音も同じフリースタイルスキーの選手である
  • 心音は小学5年でSWANプロジェクト5期生に選ばれた
  • 北京とミラノの2大会とも直前の負傷で出場できなかった
  • 心音は2026年6月に現役引退を発表し競技生活を終えた

▶️他のアスリートの家族・兄弟・姉妹・子供を知りたい|カテゴリー・記事一覧