木佐貫洋の妻は幼なじみ・松本明子|5年9ヶ月の遠距離恋愛の末に結婚

木佐貫洋の妻は幼なじみ・松本明子|5年9ヶ月の遠距離恋愛の末に結婚

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木佐貫洋さんの妻について気になっている方は多いのではないでしょうか。

木佐貫さんの妻は、中学・高校の同級生だった幼なじみの松本明子さんです。

入籍したのは2005年3月のこと。東京と鹿児島という約1200キロもの距離を越えた遠距離恋愛を5年9ヶ月続けた末のゴールインで、多くのファンを感動させました。

2015年の引退セレモニーでは、2人の娘さんから花束を受け取るサプライズがあり、涙を誘う場面が話題になりました。

この記事では、木佐貫洋さんの妻・明子さんとの馴れ初めや結婚の経緯、家族の絆、そして引退後の現在まで詳しくご紹介します。

記事のポイント

①:妻・松本明子さんは幼なじみの同級生

②:5年9ヶ月の遠距離恋愛を経て2005年に入籍

③:2人の娘がいる幸せな家族の絆

④:引退後は巨人スカウトとして活躍中

木佐貫洋の妻・松本明子との馴れ初めと結婚の軌跡

  • 幼なじみの妻・松本明子のプロフィールと人物像
  • 木佐貫洋と妻の出会い|川内南中学からの友情
  • 5年9ヶ月の遠距離恋愛はどのように始まったのか
  • 携帯電話でのプロポーズと結婚を決意したきっかけ
  • 2005年の入籍と明子さんの東京生活スタート
  • 怪我を乗り越えた新婚生活と妻の支え

幼なじみの妻・松本明子のプロフィールと人物像

 

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木佐貫洋さんの妻・松本明子さんは、木佐貫さんと同じ鹿児島県薩摩川内市で生まれ育った幼なじみです。

木佐貫洋のプロフィール

項目 内容
本名 木佐貫 洋(きさぬき ひろし)
生年月日 1980年5月17日
2026年04月01日現在の年齢 45歳
出身地 鹿児島県薩摩川内市
身長 188cm
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
選手歴 読売ジャイアンツ(2003〜09)/ オリックス・バファローズ(2010〜12)/ 北海道日本ハムファイターズ(2013〜15)
通算成績 通算62勝・2003年新人王
スカウト・コーチ歴 読売ジャイアンツ スカウト(2016〜18 / 2021〜)・コーチ(2019〜20)

妻・松本明子さんの基本情報

項目 内容
氏名 松本 明子(まつもと あきこ)
出身地 鹿児島県薩摩川内市
木佐貫さんとの関係 幼なじみ・中学・高校の同級生
交際開始 1999年6月(木佐貫さん亜細亜大学1年時)
入籍 2005年3月
子供 娘2人

明子さんは生まれてから結婚するまでの間、一度も鹿児島を離れたことがなかったと伝えられています。

鹿児島県薩摩川内市は九州新幹線の停車駅もある地域で、地元のつながりが深い土地柄です。木佐貫さんと明子さんが同じ学校で育ったということは、小さな頃からお互いの顔を知っているような関係だったはずで、その親密さが長い遠距離恋愛を乗り越えられた大きな要因の一つと言えるかもしれません。

木佐貫さんは明子さんのことを「昔から全然変わってない」と笑いながら話すと報じられており、結婚後もそのままの自分でいられる関係性が続いているようです。

プロ野球選手の妻というと、芸能人やモデルなどの華やかな職業の方との結婚が話題になることも多いですが、木佐貫さんは地元の幼なじみを選びました。そこにも木佐貫さんの飾り気のない誠実な人柄が表れています。

ちなみに「松本明子」という名前を聞くと、同名のタレントさんを思い浮かべる方も多いかもしれませんが、木佐貫さんの妻・明子さんとは全くの別人です。同じ読みであることから検索時に混乱することもあるため、念のため記載しておきます。

二人の出会いから結婚に至るまでの物語は、純粋な愛情が長い時間をかけて実を結んだものでした。次のセクションから、その詳しい経緯を見ていきます。

木佐貫洋と妻の出会い|川内南中学からの友情

木佐貫洋さんと妻・明子さんの出会いは、地元・鹿児島県薩摩川内市の川内南中学校に遡ります。

同じ中学に通う同級生として知り合った二人は、高校も川内高校で同じ進路をたどり、長年にわたって友人関係を続けていました。

中学・高校の6年間を同じ学校で過ごしたという事実は、単なる「知人」レベルをはるかに超えた関係性を意味します。定期テストを一緒に乗り越え、部活動の話をし、地元の行事を共有する——そういった日常の積み重ねが、二人の絆を育ててきたのだと思います。

同級生として過ごした6年間の背景

木佐貫さんは1980年5月17日生まれで、鹿児島県薩摩川内市の出身です。地元の中学・高校を経て、東京の亜細亜大学に進学しました。明子さんも同じ地域で育ち、二人は川内南中学と川内高校という同じ学校に通う同級生でした。

木佐貫さんが語った内容によれば、当初は「仲のよい友人同士」という関係だったとのこと。意識的に恋愛を意識していたというより、自然と仲が良くなっていった関係性がうかがえます。

ここで大切なのは、二人の関係が恋人として始まったわけではなく、長年の友人としての信頼関係が土台にあるという点です。相手のことをよく知っているからこそ、長い遠距離恋愛にも耐えられたと言えるかもしれません。

高校を卒業してそれぞれの道を歩み始めてから、木佐貫さんが明子さんへの気持ちを改めて意識するようになったようです。地元を離れて初めて、日常的に隣にいてくれた人の存在の大きさに気づく——これはとてもよくある話ですが、木佐貫さんの場合も似たような展開があったのかもしれません。

また、木佐貫さんは1999年に亜細亜大学に進学しています。亜細亜大学野球部は強豪として知られており、1浪などの事情がなければ木佐貫さんは入学当時18〜19歳の年齢です。大学進学後に明子さんに告白したというタイミングも、大学での新生活が始まり改めて地元の存在を大切に感じたからかもしれません。

二人が過ごした鹿児島の学校時代の思い出は、その後の長い遠距離恋愛を支える精神的な柱になっていたはずです。共通の故郷があり、共通の思い出がある——そういう関係は、物理的な距離があっても壊れにくいものですよね。

5年9ヶ月の遠距離恋愛はどのように始まったのか

木佐貫洋さんと明子さんの交際がスタートしたのは1999年6月、木佐貫さんが亜細亜大学に進学した直後のことです。

告白したのは木佐貫さんのほうで、明子さんは「1週間待って」と返答したと伝えられています。ヤキモキするような返事ですが(笑)、1週間後には無事OKが出て、二人の交際がスタートしました。

東京と鹿児島の距離は約1200キロ。飛行機で約2時間、新幹線と電車を乗り継げば数時間以上かかります。そんな遠距離での交際が始まったわけです。

遠距離恋愛の実態——年間1ヶ月未満しか会えない日々

二人が1年間で実際に会えた日数は、合計しても1ヶ月に満たなかったと報じられています。

大学在学中の木佐貫さんは野球漬けの日々を送っており、シーズン中はもちろん、オフシーズンも練習や寮生活で鹿児島に帰省できる機会は限られていました。明子さんも鹿児島で仕事に就いており、東京に頻繁に来ることはできませんでした。

それでも二人はおよそ5年9ヶ月もの間、この状況で交際を続けたのです。当時はスマートフォンはおろか、携帯電話のメール機能もまだ不便な時代。連絡手段は主に電話だったはずで、電話代もかかったでしょう。実際に木佐貫さんは入籍後に「もう寂しいことも、電話代がかかることもない」とコメントしており、そのやりとりがいかに大変だったかが伝わってきます。

大学卒業後、木佐貫さんは2003年に読売ジャイアンツにドラフト2位指名で入団し、さらに東京での生活が続きます。プロ入り後も遠距離恋愛は変わらず、1軍での活躍が求められるプロ1年目に新人王を獲得するという快挙を成し遂げながらも、明子さんへの気持ちを変えることなく交際を続けていました。

遠距離恋愛というのは、会えない時間が長いほど相手への信頼と愛情の深さが試されます。木佐貫さんと明子さんの場合、その試練をじっくりと乗り越えながら関係性を育ててきたことが、後の結婚生活の安定にもつながっているのだと思います。

携帯電話でのプロポーズと結婚を決意したきっかけ

木佐貫洋さんが結婚を決意したきっかけは、2004年10月のことに遡ります。

それまで読売ジャイアンツの寮で生活していた木佐貫さんは、この年の10月に寮を出て都内にマンションを借りました。門限のない自由な生活が始まったものの、それが長くは続かなかったといいます。

1人暮らしで気づいた「支え」の大切さ

一人暮らしで最初に実感したのは「食事の問題」でした。

寮生活では食事の準備が整っていましたが、一人で暮らすとなると食事の管理も自分でしなければなりません。木佐貫さんはこの点について「特に食事ですね。とても1人ではシーズンを乗り切れないと思いました」と率直に語っています。

プロ野球選手にとって食事管理は非常に重要です。体づくりやコンディション維持のために適切な栄養摂取が欠かせず、自炊でそれを完全にまかなうことは難しいこともあります。

もちろん、食事の問題だけが理由ではなかったはずです。5年9ヶ月という長い交際期間を経て、木佐貫さんの中に「明子さんとずっと一緒にいたい」という気持ちが固まっていたのだと思います。食事の話はきっかけの一つであり、その裏には明子さんへの深い愛情があったのでしょう。

そして2004年12月、木佐貫さんは東京から明子さんの携帯電話に連絡を取り、プロポーズしました。電話越しのプロポーズというのも木佐貫さんらしいというか、遠距離恋愛を続けてきた二人ならではの場面です。

明子さんはその場でOKを出したといいます。5年9ヶ月間、遠距離で待ち続けてきた明子さんにとっても、この瞬間はずっと待ち望んでいたものだったのかもしれません。即答のOKには、それだけの思いが詰まっていたのでしょう。

プロポーズからわずか3ヶ月足らずで入籍するという展開のスピード感にも、二人の間に積み重なってきた信頼と確信の深さが表れています。長く待ったからこそ、答えはシンプルだったのだと思います。

2005年の入籍と明子さんの東京生活スタート

プロポーズからほどなく、木佐貫洋さんと明子さんは2005年3月に入籍を果たしました。

この時点で交際期間は5年9ヶ月。中学・高校時代の友人期間を含めれば、二人は10年近くにわたって関係を築いてきたことになります。

明子さんが仕事を辞めて上京するまで

入籍に合わせて、明子さんは2月で鹿児島での仕事を辞め、東京に移り住む準備を整えていました。

生まれてから一度も鹿児島を離れたことがなかった明子さんにとって、東京での生活は完全に未知の世界です。土地勘もなく、知り合いもほとんどいない大都市への移住は、誰にとっても大きな決断です。

それでも明子さんは迷いなく上京を選びました。「昔から全然変わってない」と木佐貫さんが話せる相手と一緒であれば、新しい環境への不安も乗り越えられると感じていたのかもしれません。

二人は3月中に入籍を済ませ、今オフには地元・鹿児島での挙式と披露宴を行う予定を立てていました。入籍とは別に地元での式を計画していたというのは、鹿児島に残っている家族や友人たちへの思いがあったからでしょう。

5年9ヶ月もの長い遠距離恋愛を経てのゴールインは、当時のスポーツ紙でも大きく報じられ、多くのファンが祝福しました。木佐貫さんは当時「結婚して成績が悪くなったとは絶対に言われたくない」とも語っており、新婚生活のスタートと同時に、選手としての覚悟も新たにしていたことが伝わってきます。

長年の遠距離恋愛に終止符が打たれ、ようやく同じ屋根の下で生活を始めた二人。1200キロの距離がゼロになった瞬間は、どれほど嬉しかったことでしょう。ここ、想像するだけでこちらまで嬉しくなりますよね。

ただ、新婚生活のスタートは予期せぬ試練とともに幕を開けることになります。次のセクションで詳しく見ていきましょう。

怪我を乗り越えた新婚生活と妻の支え

入籍を目前にした2005年2月、木佐貫洋さんは宮崎での春季キャンプ中に思わぬ試練に直面します。

投球練習中に右足の内転筋を痛め、2軍での調整を余儀なくされました。シーズン前のキャンプでの故障は、選手として最も避けたい事態の一つです。

故障が重なった新婚直前の葛藤

木佐貫さんは「結婚して成績が悪くなったとは絶対に言われたくない」という強い気持ちでキャンプに臨んでいました。その気合が、自身の言葉によれば「けが」という最悪の形になって表れてしまったというのが何とも皮肉なことです。

故障が回復するまで入籍をずらすことも木佐貫さんの頭には浮かんだといいます。新婚生活を元気な状態でスタートさせたいという気持ちは当然のことでした。

しかしその時、明子さんはすでに2月で仕事を辞め、東京に上京する準備を完全に終えていました。鹿児島での仕事を辞め、地元を離れる覚悟を決めた明子さんのことを考えると、入籍を延期するという選択は木佐貫さんにはできなかったのです。

「苦しい時期からスタートすることにした」——これが木佐貫さんの出した答えでした。

怪我で苦しむ木佐貫さんを電話越しで励まし続けた明子さんのサポートは、精神的に大きな支えになったはずです。実際、スポーツ選手にとって怪我からの回復には精神力も重要であり、「支えてくれる人がいる」という安心感が回復を後押しすることは少なくありません。

苦しい状況でスタートした新婚生活だからこそ、二人の絆はより強く深まっていったのかもしれません。出発点が決して順調ではなかったことは、むしろ二人の夫婦としての歩みを象徴するエピソードとして多くの人の記憶に残っています。

木佐貫さんは怪我から回復した後、シーズンを戦い抜きます。結婚を経て心身ともに安定した生活基盤を得たことが、その後のキャリアにもプラスに作用したことは間違いないでしょう。妻の存在がいかに選手の精神的な支柱になるか——木佐貫さんと明子さんの物語はその典型例と言えます。

木佐貫洋の妻と家族の絆・2人の娘と引退後の現在

  • 木佐貫洋の2人の娘と家族の絆
  • 引退セレモニーが映した夫婦と娘たちの絆
  • 几帳面すぎる木佐貫洋の性格と人物像
  • 木佐貫洋の引退理由と現役最後のシーズン
  • 引退後の現在|巨人スカウトとしての活動

木佐貫洋の2人の娘と家族の絆

木佐貫洋の2人の娘と家族の絆

木佐貫洋さんと妻・明子さんの間には、2人の娘さんがいます。

娘さんたちの名前や正確な生年月日は公開されておらず、個人情報として厳重に守られています。

娘たちの年齢と家族の様子

2015年9月30日に行われた引退セレモニーの映像から、当時の娘さんたちの様子がうかがえます。映像の中では小学校の低学年から中学年程度に見えるとされており、それぞれの年齢には差があるようです。

現在(2026年)の年齢で考えると、長女は高校生から大学生、次女も中学生から高校生程度の年齢になっていると推測できます。もちろん、詳細は公表されていないため、あくまで目安となります。

プロ野球選手の家庭として注目を集めながらも、子供たちの情報を公開しないという選択は、木佐貫さんと明子さんが子供たちを一般人として育てたいという思いの表れでしょう。自分たちがどれだけ有名であっても、子供にはできるだけ普通の生活を送ってほしいという親心は、多くのアスリート家庭に共通するものです。

木佐貫さんは誠実で真面目な人物として知られており、家族に対しても同様の誠実さで向き合っていることが、さまざまなエピソードから見て取れます。

引退セレモニーで娘さんたちが見せた笑顔は、日常から木佐貫さんが良き父親であったことの何よりの証拠でした。テレビカメラの前でも怖がらず、むしろ嬉しそうに父親のもとに歩み寄る姿は、家庭内での温かい関係性を感じさせるものでした。

プロ野球のシーズン中は遠征や試合で家を留守にすることも多い職業の中で、明子さんが二人の娘さんを支えながら家庭を守ってきた様子も浮かんできます。木佐貫さんが現役生活を送られたのも、自宅に戻れば変わらぬ日常を待っていてくれる家族の存在が大きかったのではないでしょうか。

引退セレモニーが映した夫婦と娘たちの絆

2015年9月30日、北海道日本ハムファイターズの本拠地・札幌ドームで木佐貫洋さんの引退セレモニーが行われました。

このセレモニーで会場を感動させたのが、2人の娘さんが愛するパパに花束を手渡すサプライズです。

サプライズが生んだ感動の瞬間

引退セレモニーで家族からの花束贈呈は珍しくない演出ですが、木佐貫さんの場合は娘さんたちが自ら歩み寄って花束を渡すという形で行われ、会場に詰めかけたファンの涙を誘いました。

生え抜きの選手ではないにもかかわらず、札幌ドームのファンから生え抜きと変わらない大声援で送り出されたという事実は、木佐貫さんがいかに多くの人に愛されていたかを物語っています。

木佐貫さんは北海道日本ハムへの移籍1年目(2013年)に9勝を挙げ、ファンの心をつかみました。その後成績が振るわなくなっても、ファンからの愛情は変わりませんでした。

セレモニーの中で娘さんたちの名前は紹介されませんでしたが、あの映像を見れば二人の娘さんがどれほどパパのことが大好きかは一目瞭然でした。小さな体で精一杯花束を差し出す姿は、何十枚の写真よりも雄弁に木佐貫家の家族の絆を伝えていました。

妻・明子さんも長年、木佐貫さんの選手生活を支え続けてきました。結婚直後の怪我から始まり、チームを移籍するたびに生活環境が変わる中で、常に夫と子供たちを支えてきた明子さんの姿は、このセレモニーの感動を底から支えるものでした。

引退というのは選手にとって「終わり」ではなく、新しいステージへの「出発」でもあります。木佐貫さんがあれほど温かく見送られたのは、ユニフォームを着ている時も脱いだ後も、一貫して誠実に生きてきた人柄があったからこそです。

妻と娘たちとともに新たな道を歩み出した木佐貫さんの引退は、プロ野球史に残る美しいセレモニーのひとつとして語り継がれています。

几帳面すぎる木佐貫洋の性格と人物像

 

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木佐貫洋さんは、「真面目すぎる」「几帳面すぎる」野球選手として多くのメディアで紹介されてきました。

幼なじみの明子さんと真剣な交際を5年9ヶ月続け、地元の同級生と結婚するというストーリー自体が、木佐貫さんの誠実な人柄を象徴しています。

日記を書き続けたルーティン

木佐貫さんが日記をつけるようになったきっかけは、リハビリ中に同僚の小久保裕紀さんから「苦しい時の記録を残しておけ」とアドバイスされたことでした。

以来、登板した試合で気づいたことを毎回書き記すようになったといいます。これだけでも相当な継続力ですが、さらに特筆すべきは日記の書き方でした。

文字と文字の間を一定の間隔を空けて書くという、並外れた几帳面さがテレビで公開されたことがあり、視聴者を驚かせました。もともとは大雑把な性格だったそうですが、亜細亜大学に入学してから変わったとのことでした。

自腹で4000枚のサイン入りカードを配布

木佐貫さんの几帳面エピソードとして特に有名なのが、サイン入りベースボールカードの話です。

サインができない時に備えて、自分の直筆サイン入りのベースボールカードを常に持ち歩いていました。しかもただ持ち歩くだけでなく、カードに通し番号を記入して小袋に入れるという徹底ぶり。多い時には年間で約4000枚を配布したことがあり、その費用は自腹で賄っていたといいます。

プロ野球選手として自分のカードが球団から支給されることもありますが、それが足りなくなれば自分でお金を出して購入して用意するというのは、なかなかできることではありません。カープファンにも1枚1枚丁寧に手渡ししていたという目撃情報もあり、相手がどのチームのファンであっても誠実に対応する姿勢が印象的です。

ベテランになっても謙虚かつ丁寧な対応を崩さなかった木佐貫さんは、球団関係者やメディア関係者からも高い評価を受けていました。

こうした几帳面で誠実な性格は、プロ野球選手としてのキャリアにも好影響を与えていました。登板データを細かく記録し分析することは、投手としての成長に直結するからです。2003年に新人王を獲得した際の活躍も、こうした真面目な取り組みの積み重ねがあってのことだったと言えます。

幼なじみと純粋な遠距離恋愛を続け、地元の同級生と結婚するという選択肢も、木佐貫さんの誠実な性格と完全に一致しています。タレントや女子アナではなく幼なじみを選んだというエピソードは、木佐貫さんの人柄を端的に表しています。

木佐貫洋の引退理由と現役最後のシーズン

木佐貫洋さんが現役を引退したのは2015年のことで、北海道日本ハムファイターズでの3年目となるシーズンを終えてのことでした。

引退を決めた理由について、木佐貫さんは肉体的な故障ではなく「力の限界」という言葉を使っています。ここでの「力の限界」とは、1軍で通用するだけの実力の限界を意味しています。

2015年の成績と引退を決断するまで

最後の年となった2015年シーズン、木佐貫さんはイースタン・リーグ(2軍公式戦)で16試合に登板し、0勝6敗という成績でした。

1軍のマウンドに立つ機会は引退試合を除いてなく、チームからも来季の構想外であることが漏れ伝わってきていました。

自身の年齢が36歳であることも踏まえ、木佐貫さんは13年間のプロ野球人生に終止符を打つ決断を下しました。

日本ハムに移籍した1年目(2013年)は9勝を挙げ、復活の狼煙を上げていました。しかし2年目(2014年)はインフルエンザの影響もあって1勝3敗、3年目は2軍でも結果が出せず、1軍復帰の道は険しいものになっていました。

不甲斐ない成績に終わったことを木佐貫さんは申し訳なさそうにしていたと伝えられています。しかし札幌ドームでの引退セレモニーでは、生え抜きの選手と変わらない大声援で送り出されました。その光景は、木佐貫さんが選手としてだけでなく人として多くのファンに愛されていたことを如実に示していました。

入団当初から通算で62勝を挙げ、2003年には新人王に輝いた木佐貫さん。その後も右ひざや右肩の故障と戦いながら、巨人・オリックス・日本ハムと渡り歩き、13年間のプロ野球生活を全うしました。

引退後の現在|巨人スカウトとしての活動

2015年のシーズン終了後に現役引退を表明した木佐貫洋さんは、古巣・読売ジャイアンツにスカウトとして転身しました。

ジャイアンツでのスカウト活動は2016年からスタートし、頭が良く常識人として知られる木佐貫さんは野球界以外でも通用すると評されていましたが、やはり野球という舞台に戻ってきました。

コーチ就任と再度のスカウトへの転身

スカウトとして活動していた木佐貫さんは、球団の事情もあって2019年から2020年の2年間はファーム(2軍)の投手コーチに就任します。

コーチとしては大江竜聖投手など若い投手への指導にあたり、「無我夢中で突っ走れ」という言葉で若手を鼓舞する姿が話題になりました。

2020年オフには再び編成部(スカウト)に配置替えとなり、スカウト業務に戻っています。

現在の担当エリアとスカウト活動

現在は主に関東・東海地区のチームを担当しており、ジャイアンツが採用している「完全担当制」(対象選手を1人のスカウトが担当する制度)に基づいて多忙な日々を送っています。

注目していた選手として修徳高校(東京都)でエースとして活躍する床枝魁斗投手を高く評価していたことが報じられています。高校生のドラフトは重複すると抽選になるため、目当ての選手を指名できるかどうかは運も絡みます。

ジャイアンツのスカウト陣にはメジャーで活躍した柏田貴史さんや「金太郎」の愛称で親しまれた水野雄仁さんらも在籍しており、木佐貫さんもその一員として次世代の巨人を担う選手の発掘に取り組んでいます。

引退後もスカウトとしてファンにサービスする機会があるときは、現役時代と変わらない神対応で知られており、スカウトになってからも多くのファンに愛される姿が報告されています。プロ野球選手としての実績と人柄が、スカウトとしての信頼感にもつながっているのでしょう。

妻・明子さんと2人の娘さんに支えられながら、第2のキャリアをしっかりと歩んでいる木佐貫洋さん。今後のスカウト活動での活躍も楽しみです。

木佐貫洋の妻・松本明子と家族の歩みの総まとめ総括

  • 木佐貫洋さんの妻は松本明子さん、鹿児島県薩摩川内市出身の幼なじみ
  • 川内南中学・川内高校の同級生として長年の友人関係にあった
  • 交際開始は1999年6月、木佐貫さんが亜細亜大学に進学した年の告白がきっかけ
  • 明子さんは「1週間待って」と答えた後、1週間後に正式にOKを出した
  • 東京と鹿児島という約1200キロの遠距離恋愛を5年9ヶ月続けた
  • 1年間で実際に会えた日数は1ヶ月にも満たなかったという長距離の日々
  • 2004年12月、携帯電話でのプロポーズに明子さんはその場でOKを出した
  • 2005年3月に入籍、明子さんは仕事を辞めて東京に移住した
  • 結婚直前に木佐貫さんが右足内転筋を負傷、苦難のスタートとなった
  • 二人の間には娘2人が生まれ、名前・年齢は非公表
  • 2015年9月30日の引退セレモニーで娘2人がパパに花束を手渡し感動を呼んだ
  • 几帳面な性格で日記をつけ、年間約4000枚のサインカードを自腹で配った
  • 引退は2015年、通算62勝・2003年新人王の実績を残した
  • 引退理由は肉体的な問題ではなく「力の限界」(1軍で通用する力の不足)
  • 引退後は読売ジャイアンツのスカウトとして関東・東海地区を担当中

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