藤本勝巳の再婚相手は佳代子夫人|島倉千代子と別れた本当の理由

※本サイトのコンテンツには、商品プロモーションが含まれています。

藤本勝巳さんの再婚について、相手がどんな人なのか、その後どんな人生を歩んだのかを知りたいと感じている方は多いです。

藤本勝巳さんは1960年に本塁打王と打点王の二冠を手にした阪神タイガースの四番打者で、昭和を代表する歌手・島倉千代子さんの元夫として知られています。

島倉千代子さんとの離婚からおよそ2年後、1970年11月に佳代子夫人と再婚し、その翌年には大阪でスナックを開いていますよ。

この記事では藤本勝巳さんの再婚相手や再婚後の歩み、そして最初の結婚が5年で終わった経緯まで、公開情報をもとに整理していきます。

記事のポイント

①:再婚相手は佳代子夫人で1970年11月

②:再婚翌年にスナック・ジャガーを開業

③:島倉千代子との離婚は6000万円の借金

④:再婚後の子供は公表情報が存在しない

藤本勝巳の再婚相手・佳代子夫人と現在

  • 【結論】再婚相手は佳代子夫人
  • スナック・ジャガー開業と再婚生活
  • 再婚後に子供はいるのか?
  • 現在の消息と年齢をめぐる情報
  • 広島大学の藤本勝巳は別人物

【結論】再婚相手は佳代子夫人

まず、藤本勝巳さんの再婚について、現在わかっている事実から順番に確認していきましょう。

藤本勝巳のプロフィールと経歴

結論から言うと、藤本勝巳さんは阪神タイガースで12年間プレーした元プロ野球選手で、本塁打王と打点王を同時に獲得した実力者です。

1937年8月8日に和歌山県日高郡みなべ町で生まれ、和歌山県立南部高等学校から1956年に大阪タイガース(のちの阪神タイガース)へ入団しました。

入団したときのポジションは投手で、与えられた背番号は53番でしたよ。

ところが入団後すぐに外野手へ転向し、そこから打者としての素質を一気に開花させていきます。

1958年には背番号が5番へ変わり、ここから球団の主軸として長く起用されるようになりました。

下記の表は藤本勝巳さんの基本情報をまとめたものです。

項目 内容
氏名 藤本勝巳(ふじもと かつみ)
生年月日 1937年8月8日
2026年10月21日現在の年齢 89歳
出身地 和歌山県日高郡みなべ町
身長・体重 175cm・77kg
投打 右投右打
ポジション 一塁手・外野手
出身校 和歌山県立南部高等学校
所属球団 大阪タイガース・阪神タイガース(1956〜1967年)
背番号 53(1956〜1957年)→5(1958〜1967年)
主なタイトル 本塁打王・打点王(1960年)
表彰 ベストナイン2回(1959年・1961年)
通算成績 1033試合・113本塁打・420打点・打率.254

登録名も入団から2年間は藤本克巳で、1958年から現在知られている藤本勝巳に変わっています。

派手な天才型ではなかったものの、阪神が球団史上初めてリーグ優勝した1962年の四番打者という事実は、やはり重みがありますよね。

再婚の時期と公表されている情報

藤本勝巳さんが再婚したのは1970年11月で、お相手は佳代子夫人と報じられています。

島倉千代子さんとの協議離婚が成立したのが1968年5月ですから、別れてからおよそ2年半後の再出発でした。

再婚の翌年にあたる1971年9月からは、夫妻でスナック「ジャガー」の経営を始めています。

この一連の流れは、近藤唯之さんの著書『背番号の消えた人生』(新潮文庫・1985年)に記録された内容がもとになっていますよ。

以下の表で藤本勝巳さんの結婚と再婚に関する時系列を整理してみます。

時期 出来事 備考
1962年10月25日 島倉千代子と婚約発表 東京・新橋の第一ホテル新館
1963年12月5日 島倉千代子と結婚 媒酌は藤本定義夫妻
1967年10月15日 現役最終出場 同年限りで引退
1968年1月 大阪・心斎橋にクラブ藤を開店 開業資金は妻が銀行から調達
1968年5月 島倉千代子と離婚 開店から約4か月後
1970年11月 佳代子夫人と再婚 離婚から約2年半後
1971年9月 スナック・ジャガーを開業 再婚の翌年

島倉千代子さんと結婚していた期間が約4年半でしたから、再婚までの空白のほうが長かったことになります。

再婚を報じた記述はいずれも時期と相手の名前だけで、挙式や披露宴についての情報は残っていません。

経緯が静かだったことも、藤本勝巳さんがこの時期すでに表舞台から離れていた事実を裏づけています。

こうして並べてみると、現役引退からわずか3年半のあいだに離婚と再婚、そして2度の開業が立て続けに起きていたことがわかります。

佳代子夫人の情報が少ない理由

気になるのは佳代子夫人がどんな人物なのか、という点ですよね。

残念ながら、佳代子夫人の生年月日や出身地、職業といった具体的な情報は公表されていません。

複数のメディアで確認できるのは「佳代子夫人と再婚した」という事実と、再婚の時期だけです。

これは佳代子夫人が芸能界やスポーツ界とは無関係の一般女性だったためと考えられます。

藤本勝巳さんが再婚した1970年は、すでに現役を引退して3年が経っていた時期でした。

プロ野球選手としての肩書きを失った元選手の私生活を、スポーツ紙が追いかける理由はもうなくなっていたわけですね。

加えて、前妻が島倉千代子さんという超一級の有名人だったことも影響しています。

佳代子という名前の表記についても、どの漢字が使われていたのかを確認できる一次資料は見つかりません。

当時のスポーツ紙は現役選手の動向を中心に扱っていたため、引退した選手の再婚は小さな扱いにとどまりました。

島倉千代子さんのように公の場で発言する立場でもなかったので、本人の口から語られる機会もなかったわけですね。

逆に言えば、佳代子夫人は騒がしい芸能報道から距離を置ける環境にいたということでもあります。

当時の報道関心は離婚で巨額の借金を背負った島倉千代子さん側に集まり、藤本勝巳さんのその後は「離婚した元夫」という枠の中でしか語られなくなったのです。

離婚から再婚までの2年半の動き

では、離婚から再婚までの2年半、藤本勝巳さんは何をしていたのでしょうか。

この期間について具体的に記録している資料は、ほとんど見つかりません。

わかっているのは、1968年1月に開いたクラブ「藤」の経営が行き詰まり、6000万円という巨額の負債を抱えていたという事実です。

1968年当時の6000万円は、現在の貨幣価値に換算すると数億円規模にのぼると指摘されています。

島倉千代子さんは離婚の手切れ金として合計8000万円を支払っており、その原資が負債の処理に充てられたとみられます。

つまり藤本勝巳さんは、受け取った手切れ金で負債を整理しながら、水商売の現場で再出発の足場を固めていた時期だったと考えられるわけです。

そして1970年11月に佳代子夫人と再婚し、翌年9月には新しい店を構えています。

離婚から約3年で生活を立て直した計算になりますから、立ち直りの早さは相当なものだったと言えそうです。

クラブ「藤」がいつ閉店したのかについても、はっきりした記録は残っていません。

ただ離婚が成立した1968年5月の時点で経営は行き詰まっていたとみられ、店が長く続いたとは考えにくい状況です。

この空白の期間に佳代子夫人と出会ったことになりますが、二人の馴れ初めも公表されていません。

この時期の歩みについて、少しイメージが湧きやすくなれば嬉しいです。

スナック・ジャガー開業と再婚生活

ここでは再婚後に藤本勝巳さんが始めたスナック「ジャガー」と、その後の暮らしぶりについて、確認できる情報だけを使って整理します。

1971年9月の開業までの流れ

結論から言うと、スナック「ジャガー」の開業は1971年9月で、再婚のちょうど10か月後でした。

この店については『背番号の消えた人生』に記載があり、藤本勝巳さんが経営していたことが確認できます。

店名の「ジャガー」は、クラブ「藤」が自身の姓から取った名前だったのに対し、まったく毛色の違うネーミングですよね。

最初の店が「藤本勝巳の店」という看板を前面に出した業態だったのに対し、2軒目は個人名から離れたところで勝負していることになります。

下記の表は2つの店を比べたものです。

項目 クラブ藤 スナック・ジャガー
開業時期 1968年1月 1971年9月
当時の配偶者 島倉千代子 佳代子夫人
場所 大阪市心斎橋 公表されていない
業態 クラブ スナック
店名の由来 自身の姓から 公表されていない
結末 6000万円の負債を抱え失敗 その後の経緯は不明

開業の規模も、クラブからスナックへと一段小さくなっています。

再婚から開業までの10か月は、物件探しや資金の準備に充てられたと考えるのが自然です。

一度目の失敗で負債を抱えた人が短期間で再び店を持てた点には、やはり妻の支えがあったはずですよね。

スナックという業態は、クラブに比べて必要な従業員も設備投資も小さく済みます。

最初の失敗を踏まえて、身の丈に合った商いへ切り替えたという見方ができそうですね。

なぜ再び水商売を選んだのか

一度6000万円もの負債を作った業種に、なぜもう一度挑んだのか。

ここは気になるポイントだと思います。

背景として、当時のプロ野球界には引退後のセカンドキャリアを支える制度がほとんど存在しなかったという事情があります。

コーチや解説者の席は限られていて、そこに入れなかった選手は自力で次の仕事を探すほかありませんでした。

藤本勝巳さんは1967年に30歳で引退しており、指導者として球団に残る道は選んでいません。

そうなると、現役時代の知名度をそのまま換金できる飲食業は、現実的な選択肢の一つだったわけです。

月刊タイガースの連載「本間勝交遊録」では、藤本勝巳さんについて「全くの無名選手から這い上がった人」と紹介されています。

藤本勝巳さんは1967年10月に現役を終えた直後、1968年1月にはもう最初の店を開いていました。

引退からわずか3か月での開業ですから、現役のうちから転身の準備を進めていた可能性が高いです。

当時の阪神には選手を球団スタッフとして吸収する仕組みが整っておらず、第二の人生は自己責任の時代でした。

現役時代に月給50万円という高給を得た経験も、商売で成功する手応えを信じさせたのかもしれません。

和歌山の無名校から努力だけで二冠王まで駆け上がった人ですから、一度の失敗で水商売そのものを諦める性格ではなかったのかもしれません。

再婚後の暮らしぶりが語られない背景

スナック「ジャガー」の開業以降、藤本勝巳さんの生活を具体的に伝えた記事はほぼ見当たりません。

夫婦仲や店の経営状況についても、公になっている情報はないと言っていい状況です。

これは藤本勝巳さんが意図的に表舞台から距離を置いた結果とも考えられます。

島倉千代子さんの借金問題が1970年代後半から社会的な話題になったことで、元夫という立場はむしろ重荷になっていたはずです。

1975年以降、島倉千代子さんは眼科医の守屋義人さんの事業失敗に巻き込まれ、総額16億円ともいわれる負債を背負います。

その報道のたびに「最初の借金は元夫が作ったもの」という文脈が繰り返されました。

Yahoo!知恵袋には2013年11月、島倉千代子さんの訃報を受けて「元阪神タイガースの藤本勝己氏は現在どこで何をされているのですか」という質問が投稿されています。

この質問には4万7000回を超える閲覧がありましたが、明確な答えは誰からも示されませんでした。

島倉千代子さんは借金の経緯を語る際も、元夫を名指しで責めるような発言をほとんどしていません。

そのため藤本勝巳さんの側から反論する必要もなく、沈黙が続いたという構図も見えてきます。

結果として、再婚後の夫婦の暮らしは記録に残らないまま時間が過ぎていったわけです。

ファンの間でも消息がつかめていなかったことが、ここからはっきりと読み取れますよね。

残された証言から見える人物像

再婚後の情報が乏しい一方で、現役時代の人物像を伝える証言はしっかり残っています。

月刊タイガースで藤本勝巳さんを紹介した本間勝さんは、2年後輩として合宿所で同じ時間を過ごした人物です。

本間勝さんによれば、藤本勝巳さんはシーズン中は1日500スイング、オフは1日1000スイングを欠かさない練習の虫でした。

夏場には上半身裸で合宿所の裏庭に出て、顔中に玉の汗を浮かべながら素振りを続けていたそうです。

その一方で、唯一こだわっていたのがおしゃれだったという話も紹介されています。

合宿所の若竹荘には2軒の洋服屋が出入りしていて、藤本勝巳さんのロッカーには入りきらないほどのスーツとジャケットが並んでいました。

本人は「とにかく田舎もんですから、せめてかっこうだけでもプロ野球選手らしくと思ってね」と語っていたといいます。

本間勝さんは球場へ向かう前、朝早く起きて甲子園浜までランニングをしていた時期があったと書いています。

その習慣も藤本勝巳さんのプロ魂に触れたことがきっかけだったそうですよ。

1957年に巨人戦で安打を放ち一塁へ出塁した際、川上哲治さんから声をかけられたエピソードも残っています。

藤本勝巳さんは直立不動で大声で「ハイッ!ありがとうございますッ!」と答え、以来「悔いのない人生」を座右の銘にしたといいます。

努力家で見栄えにも気を配る人という人物像は、引退後に接客業を選んだ流れとも自然につながって見えます。

再婚後に子供はいるのか?

検索窓に藤本勝巳 再婚 子供と入れる方が多いように、再婚後の子供の有無は関心が高いテーマです。

ここでは公表されている情報と、噂として広まっている話を切り分けて整理します。

公表情報の有無を整理

結論から言うと、佳代子夫人との間に子供がいるかどうかは公表されていません。

再婚の事実と時期は複数の資料で確認できますが、子供に関する記述はどこにも見当たらない状況です。

以下の表で、噂として語られている内容と確認できる事実を対比してみます。

情報項目 ネット上の語られ方 確認できる事実
再婚の有無 再婚している 1970年11月に再婚
再婚相手 一般女性 佳代子夫人と報じられる
再婚後の子供 いるともいないとも言われる 公表情報なし
島倉千代子との子供 子供はいなかった 3度の妊娠がいずれも中絶
夫婦仲 詳細不明 公表情報なし

つまり「子供がいる」とも「いない」とも断定できないのが正確な状態です。

再婚について記した資料の多くは、近藤唯之さんの『背番号の消えた人生』を出典としています。

この本に書かれているのは再婚の時期とスナック経営の事実までで、家族構成には触れていません。

藤本勝巳さんが再婚した1970年は30代前半でしたから、子供を授かる可能性は十分にあった時期です。

それでも情報が出てこないのは、取材対象として追われなくなったことが最大の理由と考えられます。

断定を避けて事実と推測を分けて読むのが、この手の話題に向き合うときのいちばん安全な方法ですよ。

ネット記事の中には断定的に書いているものもありますが、裏付けとなる一次情報は示されていませんよ。

島倉千代子との間に授かった3人

一方で、最初の結婚については子供に関する記録がはっきり残っています。

島倉千代子さんは藤本勝巳さんとのあいだに3度妊娠しましたが、いずれも中絶を選んでいます。

内訳は結婚前に1度、結婚後に2度と伝えられています。

理由として挙げられているのは、看板歌手として休むことが許されない過密スケジュールと、夫の事業失敗による数千万円の借金返済でした。

当時の芸能界は出産すると芸の道が絶たれるとされた時代で、中絶そのものが珍しい選択ではなかったという指摘もあります。

島倉千代子さんの姉・幸子さんの息子である行雄さんは、女性セブン2013年11月28日号の取材に「千代子おばさんは本当は自分の子供が欲しかったんだと思うよ」と答えています。

行雄さんは幼いころ、人前で息子、息子と呼ばれるため、スタッフに止められたこともあったそうです。

日刊ゲンダイは1963年に結婚した藤本勝巳さんを最初の相手として取り上げ、協議離婚までに3人の子供を妊娠中絶したと記しています。

当時の島倉千代子さんは年間30曲以上の新曲を発表するほどの売れ方で、休む余地がほとんどありませんでした。

1955年に23曲、1956年に34曲、1957年に37曲という驚異的なペースで曲を出していた時期の延長線上にあった話です。

この話を読むと、子供を持てなかった痛みがどれほど深かったのかが伝わってきますよね。

忍と名付けられた水子地蔵

島倉千代子さんは後年、生まれてこなかった3人をまとめて「忍(しのぶ)」と名付けました。

そしてその名を刻んだ小さな水子地蔵を肌身離さず持ち歩いていたといいます。

地蔵に向かって「これからは母さん、いつも一緒よ」と語りかけ、自分自身を鼓舞していたという証言も残っています。

自宅の仏壇には位牌を3つ並べていた時期もあったそうです。

彫金の仕事をしていた行雄さんは、頼まれて忍という名前を彫った指輪を何本も作ったと明かしています。

東京・北品川の臨済宗東海寺大山墓地にある島倉千代子さんの墓碑には、千代子の名と並んで忍の名が刻まれていますよ。

島倉千代子さんは自分の気持ちに整理をつけるため、自宅の仏壇に位牌を3つ置いていたと姉の幸子さんが証言しています。

水子地蔵を持ち歩く習慣は、亡くなるまで続いたと伝えられていますよ。

墓があるのは東京・北品川の臨済宗東海寺大山墓地で、島倉千代子さんが生前に建てたものです。

生まれてこなかった子を名前で呼び続けた行為は、母になれなかった痛みの深さをそのまま表しています。

再婚後の子供の情報が出てこない藤本勝巳さんに対し、最初の結婚で授かった子供たちは島倉千代子さん側の記録として深く残された形になります。

子供の情報が出てこない構造的な理由

再婚後の子供について情報がない背景には、はっきりした理由があります。

藤本勝巳さんは1967年限りで現役を引退し、その後は球界に指導者として戻っていません。

選手名鑑や球団の記録に家族構成が載るのは現役選手やコーチが中心ですから、引退して3年後の再婚は記録の対象外だったわけです。

加えて佳代子夫人が一般女性だったため、取材対象として追われることもありませんでした。

藤本勝巳さんの名前が再び報道に出るのは、2013年11月に島倉千代子さんが亡くなったときでした。

そのときも各紙の記述は「元夫」という肩書きにとどまり、家族構成までは触れられていません。

つまり情報がないのは隠されているからではなく、報じる側に取材する動機がなかったからと考えるのが自然です。

藤本勝巳さんの名前が残っているのは、年度別打撃成績やタイトル受賞者の一覧といった記録資料が中心です。

選手名鑑に家族欄が設けられるのは現役選手が対象で、引退した人物は掲載の対象から外れます。

再婚後の生活を知るには本人や関係者への取材が必要ですが、それが行われた形跡は見つかっていないのです。

ここは気になるポイントだと思うので、新しい情報が出てきたら今後もアップデートしていきます。

現在の消息と年齢をめぐる情報

再婚後の藤本勝巳さんが今どうしているのか、信頼できる情報だけを使ってあなたが判断できる形に整理します。

現在の年齢と確認できる記録

藤本勝巳さんは1937年8月8日生まれですから、2026年10月21日現在の年齢は89歳になります。

生年月日については日本野球機構の個人年度別成績や球団発行誌の記録と一致しており、疑う余地はありません。

月刊タイガースの列伝でも「1937年8月8日、和歌山県出身」と明記されていますよ。

では、現在の居住地や職業はどうでしょうか。

結論から言うと、現在の所在や職業を伝える公的な記録は確認できません。

Wikipedia上の表記も生年月日のあとがハイフンのままで、死亡年月日の記載はない状態です。

つまり公の記録上は、訃報が確認されていないという扱いになっています。

下記の表は、藤本勝巳さんについて確認できる情報と確認できない情報を整理したものです。

項目 状況 根拠となる記録
生年月日 確定 NPB記録・月刊タイガース
通算成績 確定 年度別打撃成績
再婚の時期 確定 背番号の消えた人生
スナック経営 確定 背番号の消えた人生
現在の職業 不明 該当記録なし
訃報 確認できず 該当記録なし

日本野球機構の公式サイトには、個人年度別成績として藤本勝巳さんのページが残っています。

選手としての記録は半世紀以上たっても参照できる状態にあるわけですね。

記録が残っているのは1971年の開業までで、そこから先は空白になっているわけですね。

消息が途絶えた時期を検証

消息がたどれなくなった境目は、1971年9月のスナック開業です。

それ以降、藤本勝巳さん本人への取材記事や近況を伝える報道は確認できません。

名前が再び活字になったのは、1985年に刊行された近藤唯之さんの『背番号の消えた人生』でした。

ただしこの本も引退した選手たちの人生を描いた回顧録ですから、刊行時点の近況を取材したものではありません。

2012年4月には月刊タイガースの連載で33人目として取り上げられ、「十二年間、燃焼したね。二度の優勝を経験したし、天覧試合ではホームランを打てたし、幸せな野球人生だったね」という本人の言葉が紹介されています。

この言葉は執筆者の本間勝さんが以前に聞いた話として書かれており、取材の時期は明らかにされていません。

とはいえ本人の肉声が残っている以上、少なくともある時期までは元気に過ごしていたことがうかがえますよね。

次に名前が出たのは2013年11月、島倉千代子さんの訃報に合わせた各紙の報道でした。

月刊タイガースの2012年5月号では同期入団の前岡勤也さんも取り上げられ、和歌山出身の2人を続けて紹介する形になっていました。

時事通信の写真特集でも、藤本勝巳さんは歴代本塁打王の一人として紹介されています。

日刊スポーツは2011年11月25日付のコラム「メモリー球譜」を復刻する形で、婚約会見の記事を再掲しています。

すでに死去という情報の扱い

ネット上には「すでに亡くなっている」という書き込みも見られます。

ただし、この情報には出典となる訃報記事や球団発表が一切付いていません。

プロ野球経験者が亡くなった場合、通常は球団のOB会や日本プロ野球名球会、スポーツ紙などが訃報を伝えます。

本塁打王と打点王の二冠を獲得した選手であれば、追悼記事が出ないことはまず考えにくいですよね。

Wikipediaの記述が生年月日のあとハイフンで止まっているのも、死亡が確認されていないことの裏付けになります。

したがって現時点では死去説は根拠のない噂止まりと判断するのが妥当です。

とはいえ高齢であることは事実ですから、情報が出てこない状態が続いているのも無理のない話だと思います。

プロ野球の記録を扱う媒体は、OBの訃報を比較的細かく拾う傾向があります。

1960年のセ・リーグ本塁打王であり打点王でもある選手ですから、亡くなっていれば記録として残らないはずがありません。

Weblio辞書に転載されているWikipediaの版は2026年9月28日更新のものですが、そこでも没年の記載はありませんでした。

根拠のない死去説が事実のように書かれるのは、情報が少ないテーマで起こりがちな現象ですよね。

いずれにしても、確認できない話を断定して書くのは避けるべきところですね。

大阪で飲食店という証言

消息に関する手がかりとして、ファンの証言が一つ残っています。

2013年11月、Yahoo!知恵袋に投稿された質問への回答で、和歌山県南部町の出身者として藤本勝巳さんを知る人が書き込んでいます。

その内容は「大阪で飲食店をしていると言う話は聞いたことがあります」というものでした。

この証言はスナック「ジャガー」の経営と内容が一致しています。

同じ回答者は「弱小打線の中がんばっていました」とも書き添えており、現役時代をリアルタイムで見ていた世代だとわかります。

もう一人の回答者は「元奥さんの島倉千代子さんの葬儀には出てほしいですね」と記していました。

この質問には10人が共感を示し、閲覧数は4万7324回に達しています。

結局のところ確実な答えは出ていませんが、大阪で飲食業を続けていたという線は現実的な推測と言えそうです。

証言した回答者は、藤本勝巳さんを和歌山県南部町出身の先輩として認識していました。

南部町は現在のみなべ町にあたる地域で、藤本勝巳さんの出身地と一致します。

同郷の人が語る情報という点で、まったくの的外れではない可能性があります。

ただし本人や家族からの発信ではないため、裏付けのある情報として扱うことはできません。

公式に発表された情報が出てきた場合は、改めて整理していきたいところですね。

広島大学の藤本勝巳は別人物

藤本勝巳と検索すると、関連キーワードに藤本 勝巳 広島 大学という組み合わせが出てきます。

ここは誤解しやすいポイントなので、はっきり切り分けておきましょう。

検索結果に混ざる同姓同名の研究者

結論から言うと、広島大学の藤本勝巳さんは元プロ野球選手とは全く別の人物です。

こちらの藤本勝巳さんは広島大学に所属する研究者で、博士(医学)の学位を持っています。

研究者情報データベースのresearchmapには、研究者番号40294566として登録されていますよ。

所属は歯学系の生体分子機能学分野で、職位は助教と記載されています。

主要な論文には「ヒトヒスタミンH1受容体遺伝子のクローニング」があり、大阪大学医学雑誌の46巻71から80ページに1994年4月1日付で掲載されました。

書籍としてはヒスタミンH1受容体の分子生物学に関する論考を、1992年にProus Science社から、2001年にはElsevier Science社から発表しています。

専門はヒスタミン受容体の分子生物学であり、野球とは何の関係もない領域です。

科学研究費助成事業のデータベースKAKENにも、同じ研究者番号で藤本勝巳さんの情報が登録されています。

J-GLOBAL IDは200901036146400631、researchmap会員IDは1000242275という形で管理されていますよ。

こうした識別番号が付くのは研究者だけですから、元プロ野球選手と結びつく余地はありません。

検索エンジンが両者を混ぜて表示してしまうため、同一人物だと勘違いする人が出てくるわけですね。

二人の経歴を並べて比べる

どこが違うのかを見比べると、混同の余地がないことがすぐにわかります。

以下の表で2人の基本情報を整理してみます。

項目 元阪神・藤本勝巳 広島大学・藤本勝巳
生年 1937年 公表されていない
出身地 和歌山県日高郡みなべ町 公表されていない
学歴 和歌山県立南部高等学校 博士(医学)
職業 元プロ野球選手 大学の研究者
所属 大阪・阪神タイガース 広島大学
専門分野 一塁手・外野手 ヒスタミン受容体の研究
主な実績 本塁打王・打点王 受容体遺伝子のクローニング

生年も出身地も職業も、重なる部分は一つもありません。

年齢を考えても、1937年生まれの元選手が大学で助教として現役研究者を務めているとは考えにくいですよね。

広島大学の生体分子機能学分野のメンバー一覧には、教授の宿南知佐さん、准教授の三浦重徳さんに続いて助教として藤本勝巳さんの名前が載っています。

研究室には大学院生も複数在籍しており、現役の研究者として活動している様子がうかがえます。

一方で元阪神の藤本勝巳さんは、1967年に現役を引退してから一度も球界や学術の場に名前が出ていません。

二つの経歴がどこかで交わる可能性は、現実的に考えてまずないと言えます。

島倉千代子さんとの結婚歴を研究者の経歴に結びつけた記述を見かけたら、それは誤情報だと判断して大丈夫です。

藤本勝己という表記ゆれ

もう一つ混乱を招いているのが、名前の表記ゆれです。

元阪神の藤本勝巳さんは、入団からの2年間は藤本克巳という登録名を使っていました。

1958年に藤本勝巳へ変更していますが、読みはどちらもふじもと かつみで変わりません。

さらに新聞や個人の書き込みでは、勝己という字を当てた藤本勝己という表記も混在しています。

Yahoo!知恵袋の質問タイトルも「元阪神タイガースの藤本勝己氏」という表記になっていましたよ。

興味深いのは、広島大学の研究者にも別表記として藤本勝己が登録されている点です。

克巳・勝巳・勝己という3通りの表記が入り混じることで、検索結果の混線がさらに広がっているわけですね。

なお阪神には藤本敦士さんという内野手も在籍していましたが、こちらは1977年10月4日生まれの兵庫県出身で、2000年ドラフト7位入団の別人です。

藤本敦士さんは2004年のアテネ五輪で銅メダルを獲得し、2015年から阪神のコーチを務めている人物なので、世代がまったく違います。

藤本勝巳が再婚する前|島倉千代子との結婚

  • 歌姫と四番打者を結んだ一本の電話
  • 婚約会見と藤本定義夫妻が媒酌の挙式
  • 四番打者から控えへ|成績の推移
  • クラブ藤の失敗と6000万円の借金
  • 手切れ金8000万円で成立した離婚

歌姫と四番打者を結んだ一本の電話

再婚の前提になるのが、島倉千代子さんとの最初の結婚です。

ここでは二人が出会った経緯を、報道された内容に沿ってたどっていきます。

テレビを見た藤本勝巳の行動力

二人のきっかけは、藤本勝巳さんの驚くほど大胆な行動でした。

テレビに映った島倉千代子さんの姿にひと目で惹かれた藤本勝巳さんは、新聞記者から島倉千代子さんの自宅の電話番号を聞き出します。

そして本人に直接電話をかけ、デートに誘ったというのが交際の出発点です。

この経緯は『背番号の消えた人生』の198から199ページに記録されています。

当時はまだ無名に近い若手選手が、日本中が知る大スターの自宅に電話をかけたことになりますよね。

婚約会見で藤本勝巳さん本人は、かけた電話を「一ファン」としてのものだったと説明していました。

いくら勢いがあったとはいえ、なかなかできる行動ではないと思います。

島倉千代子さんは1955年のデビューから驚異的なペースでヒットを飛ばし、テレビでも毎週のように姿を見せていました。

そんな相手に一人の若手選手が電話をかけるという行動は、常識では考えにくい話です。

しかも電話番号を新聞記者から入手したという点に、当時の芸能とスポーツの距離の近さがにじんでいますよね。

今であれば個人情報の扱いとして到底許されない方法ですが、昭和30年代にはこうした人のつながりが生きていたわけです。

この一本の電話がなければ、昭和を代表する歌姫と四番打者の結婚は存在しなかったわけです。

出会いの年は1956年か1959年か

気になるのは、その電話がいつかけられたのかという点です。

ここには情報の食い違いがあります。

1962年10月の婚約会見を報じた日刊スポーツは、知り合ったきっかけを「6年前」と記しており、逆算すると1956年ごろになります。

1956年は藤本勝巳さんが大阪タイガースに入団した年ですから、プロ1年目で電話をかけたという計算です。

一方で、後年のウェブ記事の多くは出会いを1959年と書いています。

1959年は藤本勝巳さんが四番に定着し、打率.278と24本塁打でベストナインに選ばれた年でした。

どちらが正しいのかを決める決定的な資料はありませんが、婚約会見当日の報道である6年前のほうが信頼性は高いと考えられます。

1956年の藤本勝巳さんは出場2試合という扱いで、球界ではまだ名前も知られていませんでした。

一ファンとして電話をかけたという本人の説明も、無名だった1956年のほうが自然に響きます。

一方の島倉千代子さんは1956年には年間34曲を発表する売れっ子で、すでに国民的な知名度を得ていました。

無名の若手が大スターに電話をかけ、そこから6年がかりで婚約まで進んだと考えると、物語としても筋が通りますよね。

後発の記事は、藤本勝巳さんが有名になった年と出会いの年を混同した可能性がありますね。

目のけがとプロポーズの7月

交際が結婚へ動いたきっかけは、島倉千代子さんを襲った事故でした。

1961年、公演中にファンが投げたテープの芯が目に当たり、島倉千代子さんは失明寸前の重傷を負います。

治療にあたったのは守屋眼科の医師・守屋義人さんで、幸いにも視力は回復しました。

藤本勝巳さんがプロポーズしたのは、まさにこの目のけがを負った7月でした。

島倉千代子さんは婚約会見で「片目が見えなくなるかも知れないと言われていたので…。うれしかった」と当時の気持ちを明かしています。

人生で最も不安だった時期に差し出された手だったからこそ、心に深く響いたのでしょう。

藤本勝巳さんのほうは「千代子さんのすべてが気に入った。彼女の歌ではデビュー曲の『この世の花』が好き」と語りました。

事故が起きたのは公演中で、客席から投げ込まれたテープの芯が両目に当たったと伝えられています。

当時の島倉千代子さんは紅白の紅組トリを務めるほどの立場で、失明は歌手生命そのものを脅かす事態でした。

その不安のただ中でプロポーズを受けたのですから、心が動くのは当然だったと思います。

翌1962年には後援会事務所に爆発物が送りつけられる草加次郎事件も起き、島倉千代子さんの周囲はさらに騒がしくなっていきます。

島倉千代子のプロフィール

ここで相手となった島倉千代子さんについても整理しておきましょう。

下記の表は島倉千代子さんの基本情報をまとめたものです。

項目 内容
氏名 島倉千代子(しまくら ちよこ)
生年月日 1938年3月30日
没年月日 2013年11月8日
出身地 東京都品川区北品川
学歴 日本音楽高等学校卒業
愛称 お千代さん
デビュー 1955年3月・この世の花
代表曲 東京だョおっ母さん・人生いろいろ
紅白出場 通算35回
家族 二男四女の四女

デビュー曲の『この世の花』は半年で200万枚、1957年の『東京だョおっ母さん』は150万枚という驚異的な売り上げを記録しました。

1960年には美空ひばりさんを抑えて紅白の紅組トリを務めており、婚約当時は文字どおり日本の歌謡界の頂点にいた人です。

島倉千代子さんは7歳のころ、疎開先の長野で井戸へ水汲みに行った帰りに転び、割れた瓶で左腕に大けがを負いました。

血管を4本切り47針を縫う重傷で、医師からは切断するしかないと言われたほどでした。

母・ナカさんが女の子だから腕を残してほしいと必死に訴え、切断は免れたものの左手の握力は失われています。

この傷をきっかけに内向的になった娘のために、母が歌を聞かせたことが歌手への道につながりました。

そんな大スターと四番打者の組み合わせですから、世間が騒がないわけがありませんよね。

婚約会見と藤本定義夫妻が媒酌の挙式

1962年10月25日、運命の日が訪れます。

ここでは婚約から挙式までの経緯について、当時の報道をもとにあなたが流れを追える形で整理します。

報道陣100人が集まった婚約会見

婚約会見の舞台は、東京・新橋の第一ホテル新館でした。

会見時間は約30分で、報道陣は約100人も集まる盛況ぶりだったと日刊スポーツが伝えています。

あまりの人数に、写真撮影と記者会見が別々に行われたほどでした。

黒の背広を着た藤本勝巳さんと、晴れ着姿の島倉千代子さんが寄り添うように腰を下ろしたと記録されています。

この日の藤本勝巳さんは、チームを初のリーグ優勝へ導いた四番打者という最高の肩書きを持っていました。

1962年の阪神は球団史上初めてセントラル・リーグを制し、東映フライヤーズとの日本シリーズでは藤本勝巳さんが全7戦に四番として出場しています。

シリーズでは33打数11安打2本塁打6打点と結果を残しました。

婚約の日付は1962年10月25日で、その年の日本シリーズが終わった直後のタイミングでした。

東映フライヤーズとのシリーズで阪神は敗退しましたが、藤本勝巳さんは全7戦で四番を務めています。

優勝の余韻が残るなかでの婚約発表でしたから、阪神ファンにとっても忘れがたい秋になったはずです。

会見の様子は、晴れ着の島倉千代子さんと背広の藤本勝巳さんが並んで座る構図で記録に残されています。

人気絶頂の歌手と優勝チームの四番打者という組み合わせは、昭和のビッグカップルそのものだったわけです。

父の死と家族の猛反対

華やかな会見の裏では、家族との激しい対立が起きていました。

婚約の翌1963年、島倉千代子さんの父・壽雄さんが他界します。

警察官だった父の喪が明けていないにもかかわらず、島倉千代子さんは年内に結婚すると言って聞かなかったと伝えられています。

結婚に強く反対していたのは母・ナカさんでした。

島倉家は越前一乗谷城主・朝倉義景の末裔とされる家柄で、二男四女の四女として育った娘の相手には慎重だったのでしょう。

結局は母が折れる形で結婚が認められ、持参金1000万円を持たせてもらったと報じられています。

この反対を押し切った結婚が、のちに島倉千代子さんが実家に戻れなくなる原因にもなりました。

父・壽雄さんは警察官として働いていた人で、島倉千代子さんにとっては大きな心の支えでした。

1961年の失明の危機、1962年の草加次郎事件と続いた不幸のあとに父を失ったことになります。

相次ぐ不幸の中で結婚を急いだ理由は、支えてくれる存在を求めたからだと考えられています。

家族の反対を押し切ってまで結婚を選んだ背景には、そうした心細さがあったのでしょうね。

離婚後に実家を訪ねた島倉千代子さんは、「反対を押し切って結婚したから」という理由で門前払いされてしまいます。

媒酌は藤本定義監督夫妻

結婚式が行われたのは1963年12月5日でした。

媒酌人を務めたのは、当時の阪神監督だった藤本定義さんとその夫人です。

藤本定義さんは6球団で29年という長いキャリアを持つ名監督で、1962年の初優勝を指揮した人物でした。

選手の結婚式で監督夫妻が媒酌を引き受けるのは、球団が祝福していた証でもありますよね。

藤本定義さんは藤本勝巳さんの打撃について「一見して不器用に見えるが実は身体は軟らかく、バッティングがナイーブ」と評していました。

不器用に見えて実は繊細という評価は、選手としての特徴をよく表した言葉だと思います。

結婚当時、島倉千代子さんは歌手活動をいったんセーブして大阪へ移り住み、主婦業に専念しようとしました。

藤本定義さんは阪神の監督として1962年と1964年の2度のリーグ優勝を指揮した人物です。

選手の人柄を的確に言い当てる人で、藤本勝巳さんについても不器用さの奥にある柔らかさを見抜いていました。

結婚した1963年の藤本勝巳さんは61試合の出場にとどまり、打率.217と成績を落としています。

人生の節目と成績の下降がちょうど重なってしまったことも、のちの展開に影を落としました。

人気絶頂の歌姫が家庭に入るという決断は、当時のファンにとって相当な衝撃だったはずです。

西宮の豪邸で始まった6人暮らし

新生活の舞台になったのは、兵庫県西宮市に構えた豪邸でした。

この家で暮らしていたのは夫婦2人だけではありません。

同居していたのは藤本勝巳さんの母と妹、そして島倉千代子さんの付き人と運転手を合わせた6人でした。

つまり新婚家庭に夫の家族と妻の仕事関係者が同時に入るという構成だったわけです。

この同居形態は、のちに嫁姑問題が生まれる土壌にもなりました。

一方で、当時を間近で見ていた球団関係者の見方は違っていました。

2年後輩の本間勝さんは月刊タイガースの連載で、「我々、仲睦まじい結婚生活を目の当たりにしている」と記しています。

兵庫県西宮市は阪神の本拠地である甲子園球場のある街で、選手が住まいを構える定番の土地でした。

通勤の便を考えれば自然な選択ですが、島倉千代子さんにとっては東京の仕事場から離れる決断になります。

歌手として全国を回る立場で大阪に生活の拠点を移したのですから、負担は相当大きかったはずです。

付き人と運転手が同居していたのは、そうした移動の多さを支える必要があったからでしょう。

夫の家族と自分のスタッフが同じ屋根の下にいる環境は、気の休まる時間が少なかったと想像できます。

家の中の実情と、周囲から見えていた姿にはかなりの落差があったのかもしれませんね。

四番打者から控えへ|成績の推移

結婚と離婚の背景を理解するには、藤本勝巳さんの成績の推移を押さえておく必要があります。

ここでは現役12年間の軌跡を、数字と証言の両面から見ていきます。

天覧試合で放った逆転2ラン

藤本勝巳さんの名前を球史に刻んだのは、1959年6月25日の一打でした。

後楽園球場で行われた巨人戦は、天皇・皇后両陛下が観戦した史上初の天覧試合です。

6回表、藤本勝巳さんは巨人のエース・藤田元司さんから試合をひっくり返す逆転2点本塁打を放ちます。

ところがその後同点に追いつかれ、9回裏に長嶋茂雄さんがサヨナラ本塁打を打ったため、ヒーローの座は長嶋さんのものになりました。

本人は後年、「十二年間、燃焼したね。二度の優勝を経験したし、天覧試合ではホームランを打てたし、幸せな野球人生だったね」と振り返っています。

同じ1959年の7月25日には、広島戦で大石清さんから顔面に死球を受けて入院しました。

この年はファン投票でオールスターゲームに選ばれていたのですが、入院のため出場できていません。

天覧試合は1959年6月25日に行われた巨人対阪神戦で、プロ野球史に残る一戦として語り継がれています。

この年の藤本勝巳さんは四番に定着し、打率.278と24本塁打で81打点を挙げました。

リーグ9位の打率を残して、一塁手部門で初めてベストナインに選ばれたシーズンでもあります。

栄光と不運が同じシーズンに詰まっていたことになりますね。

1960年の二冠王までの軌跡

翌1960年、藤本勝巳さんはキャリアの頂点を迎えます。

開幕から右翼手として起用されながら打撃は好調を維持し、シーズン後半には一塁手へ戻りました。

そして前年の本塁打王だった中日の森徹さんや巨人の長嶋茂雄さんを抑え、22本塁打と76打点で二冠を獲得します。

以下の表は現役後半の成績の推移を整理したものです。

年度 試合 本塁打 打点 打率
1959年 127 24 81 .278
1960年 119 22 76 二冠王
1961年 108 8 41 .300
1962年 121 15 57 .256
1963年 61 5 15 .217
1964年 83 7 34 .282
1965年 110 5 29 .224
1966年 66 1 9 .210
1967年 51 2 5 .200

1961年には打率.300でリーグ3位に入り、2度目のベストナインに選ばれています。

ところが結婚した1963年を境に、出場試合数と本塁打が一気に落ち込んでいるのがわかりますよね。

セントラル・リーグの本塁打王の歴代一覧を見ると、1960年の欄だけが藤本勝巳の名前になっています。

前後を固めているのは1958年と1961年の長嶋茂雄さん、そして1962年から13年続く王貞治さんです。

この二人の間に名前を刻んだという事実だけでも、1960年の成績がいかに際立っていたかが伝わりますよね。

給料の面では、入団時の月2万円から一時は月給50万円の高給取りになっていたと記録されています。

靴のサイズ24センチと足の故障

成績が落ちた原因は、意外なところにありました。

本間勝さんの証言によると、藤本勝巳さんは大きな上半身に対して足が非常に小さく、靴のサイズは24センチしかありませんでした。

重い上半身を小さな足で支えきれず、毎年のように足のけがに泣かされていたそうです。

そこで藤本勝巳さんが選んだ対策が、体重を落として足の負担を軽くすることでした。

理にかなった判断だったのですが、結果は裏目に出ます。

体重を落としたことで打球が飛ばなくなってしまったのです。

飛距離が落ちた分を力で補おうとしてフォームが崩れ、考えるほどに形が乱れていく悪循環に陥りました。

身長175cmで体重77kgという体格に対して、24センチの足はかなり小さい部類に入ります。

筋骨隆々の上半身を支えるには土台が足りず、毎年のように足を痛める結果になってしまいました。

体重を落とす判断そのものは、故障を減らすという目的では理にかなった選択でした。

減量で体は左右に動きやすくなったものの、持ち味だったホームランは極端に減ってしまいました。

努力で積み上げてきた打撃だったからこそ、土台が変わったときの影響も大きかったのでしょうね。

1957年には右ひじの骨折を抱えながら61試合に出場した経験もあり、故障との付き合いは現役を通じて続いていました。

遠井吾郎との定位置争いと引退

フォームが崩れていった時期に頭角を現したのが、遠井吾郎さんでした。

本間勝さんは「安定感では遠井氏のほうが一枚上」と率直に書いています。

1963年8月には故障もあって欠場し、一塁手のレギュラーを遠井さんに明け渡すことになります。

1964年は遠井さんとの併用で2度目のリーグ優勝を経験しましたが、南海ホークスとの日本シリーズでは代打3試合のみの起用でした。

1966年以降は出場機会がさらに減り、1967年10月15日の最終戦で一塁手として五番に入ったのが最後の先発となります。

そして同年限りで、30歳という若さで現役を引退しました。

通算12年で1033試合に出場し、113本塁打と420打点、打率.254という数字を残しています。

遠井吾郎さんは仏のゴローちゃんと呼ばれ、多くの人から慕われた選手でした。

バットコントロールに優れ、安定感という点では藤本勝巳さんを上回っていたと評価されています。

1960年に一塁手を遠井さんへ任せて右翼に回った時期もあり、二人の関係は長く続いていました。

二冠王を獲った選手が数年でレギュラーを失うという展開は、勝負の世界の厳しさそのものですよね。

初打席が三球三振から始まった野球人生で5年連続の規定打席到達を果たしたのですから、努力の量は相当なものだったはずです。

クラブ藤の失敗と6000万円の借金

離婚の直接の引き金になったのが、引退後に始めた事業の失敗でした。

ここでは6000万円という負債がどう生まれたのかを順を追って確認します。

1968年1月の開店と開業資金の出所

引退から3か月後の1968年1月、藤本勝巳さんは大阪市心斎橋にクラブ「藤」を開店します。

店の場所については道頓堀と記す資料もあり、大阪のミナミ界隈という点では一致しています。

問題だったのは開業資金の出どころでした。

結論から言うと、開業資金は島倉千代子さんが銀行から借りて工面したものでした。

夫から資金を求められた島倉千代子さんが、自ら銀行へ足を運んで借り入れたと伝えられています。

つまり店の名義は夫でも、金銭的なリスクは最初から妻が負う構造だったわけです。

これが後に夫婦の借金問題の出発点となってしまいました。

店名の「藤」は藤本勝巳さんの姓から取ったもので、看板にそのまま知名度を使う作りでした。

引退した四番打者が店に立つという話題性は、開業当初の集客にはプラスに働いたはずです。

ただ接客業の経営は、話題性だけで続けられるものではありません。

仕入れや人件費の管理、客筋の維持といった地道な実務が求められる仕事です。

現役時代に一日1000スイングを続けた努力家でも、経営の勘所は別の能力だったということでしょうね。

野球一筋で生きてきた人がいきなり水商売の経営に乗り出すのは、やはり無理があったという指摘も出ています。

6000万円まで膨らんだ負債

クラブ「藤」の経営は思うように回りませんでした。

最終的に負債は6000万円まで膨らんだと報じられています。

この金額は現在の貨幣価値に換算すると数億円規模にのぼるとされています。

島倉千代子さんは返済のために歌手活動を再開せざるを得なくなりました。

家庭に入るために活動をセーブしたはずの歌姫が、夫の負債のために舞台へ戻る形になったわけですね。

丹波新聞のコラムは、島倉千代子さんが背負った負債の1度目を「別居していた元タイガースの藤本勝巳が水商売に手を出して作った借金」と記しています。

この時点ですでに夫婦が別居状態にあったことも読み取れます。

記録に残る数字では、1957年ごろの大卒サラリーマンの給料は月1万円ほどでした。

その水準から考えると、6000万円がいかに途方もない額だったのかが見えてきますよね。

島倉千代子さんは返済のため、本来なら断るような地方のキャバレーやクラブの営業も引き受けるようになります。

家庭に入るために歌をセーブした人が、夫の負債のために再び舞台へ戻る流れになったわけです。

スター歌手が営業の現場へ下りていく姿は、当時の関係者にも衝撃だったと伝えられています。

クラブの開店からわずか4か月後に離婚が成立したという事実が、経営の行き詰まりの速さを物語っていますよね。

結婚早々に解約された預金

実は金銭をめぐるすれ違いは、結婚直後から始まっていました。

結婚して早々、島倉千代子さんは預金を解約することになります。

その使途は藤本勝巳さんがもともと抱えていた背広屋への借金の返済だったと伝えられています。

月刊タイガースの記述によれば、藤本勝巳さんは合宿所のロッカーに入りきらないほど洋服を買い込む人でした。

おしゃれへのこだわりが、そのまま洋服屋への未払いにつながっていたことになります。

結婚の祝儀的な意味合いではなく、いきなり夫の負債処理から新生活が始まったわけです。

この一件が、島倉千代子さんの気持ちを早い段階で冷ましてしまいました。

島倉千代子さんは1958年に港区高輪へ一戸建てを購入できるほどの収入を得ていました。

デビューから数年で家を持てる歌手が、結婚と同時に預金を失うことになったわけです。

さらに結婚に際しては、母から持参金1000万円を持たせてもらっていました。

手元の資金が次々と夫側の支払いに回っていく状況は、信頼を保つのが難しい展開ですよね。

金銭感覚の違いが、結婚生活の最初の一歩でつまずきを生んだと言えそうです。

結果として、クラブ開業の資金を頼まれたときにはもう修復が難しい状態になっていたのです。

姑との同居と冷えていった夫婦仲

金銭問題に加えて、家庭内にもう一つの火種がありました。

西宮の家には藤本勝巳さんの母と妹が同居していましたが、島倉千代子さんは姑からのいじめに遭ったと報じられています。

仕事で全国を飛び回る歌手が、家では嫁として振る舞わなければならない状況だったわけです。

複数の報道によると、島倉千代子さんは結婚して1週間ほどで夫への愛情が冷めていたとされています。

婚約会見でラブラブぶりをアピールしてからわずか1年あまりでの変化でした。

人気絶頂の歌姫が家庭に入るという決断そのものに、無理があったという見方もできます。

結婚生活は1963年12月から1968年5月までの約4年半で終わりました。

離婚後に語られた内容を見るかぎり、結婚生活の実感はかなり早い段階で失われていたようです。

それでも結婚を続けた期間が4年半に及んだのは、世間の目や周囲の立場があったからでしょう。

1963年の結婚から数年の島倉千代子さんは、新曲のヒットが遠のく時期にも入っていました。

作詞家のなかにし礼さんは、離婚で暗いイメージがつきかけた島倉千代子さんのために『愛のさざなみ』を書いたと語っています。

報道では「わずか5年」と表現されることが多いのですが、実質的にはそれよりさらに短い期間だったことになりますね。

手切れ金8000万円で成立した離婚

最後に、藤本勝巳さんが再婚へ進む直前の離婚交渉について整理します。

ここは報道の中でも特に生々しい部分なので、確認できる情報に絞って見ていきましょう。

銀行頭取が貸した4000万円

離婚への動きは、思いがけない人物の申し出から始まりました。

クラブの開業資金を借りに行った銀行の頭取が、実は島倉千代子さんのファンだったのです。

その頭取は「このお金で藤本さんと縁を切るように」と言い添えて、4000万円を貸してくれたと伝えられています。

島倉千代子さんはこの4000万円と引き換えに、藤本勝巳さんへ離婚を要求しました。

通常の金融取引ではまずあり得ない話ですが、当時の島倉千代子さんの置かれた状況を周囲が見過ごせなかったということでしょう。

人気歌手としての信用がどれほど大きかったのかも、この一件から伝わってきます。

ただし、この申し出で話がまとまることはありませんでした。

開業資金を借りに行った時点で、島倉千代子さんは夫への信頼をすでに失っていました。

そうした事情が、窓口を越えて頭取の耳にまで届いていたということになります。

銀行側から縁を切るよう勧められるほどの状況だったと考えると、相当深刻な話ですよね。

当時の島倉千代子さんは返済能力のある稼ぎ頭でしたから、貸す側のリスクは小さかったという事情もあります。

この一件は、島倉千代子さんがどれほど多くの人に支えられていたかを示す話でもあります。

離婚交渉はここから泥沼に入っていきます。

判を押さなかった元夫と追加要求

藤本勝巳さんは離婚届に判を押しませんでした。

それどころか、ストーカー行為を繰り返したと複数の媒体が報じています。

そのうえで藤本勝巳さんが突きつけたのは、もう4000万円を出してほしいという追加要求でした。

どうしても別れたかった島倉千代子さんは、この要求を受け入れます。

そして再び同じ頭取から4000万円を借り、合計8000万円という大金を支払うことになりました。

丹波新聞のコラムは、この決着を「返済を手切れ金にして決着をつけた」と表現しています。

6000万円の負債に加えて8000万円の手切れ金ですから、島倉千代子さんが背負った総額は想像を超える金額でした。

離婚届に判を押さないという対応は、話し合いの出口を閉ざす行為でした。

当時の報道を読むかぎり、藤本勝巳さんの側には関係を続けたい意思があったようにも見えます。

ただ結果として要求したのは追加の4000万円でしたから、金銭が目的だったと受け取られるのも無理はありません。

島倉千代子さんにとっては、別れるために稼ぎ続けなければならない状況が生まれてしまいました。

人気と信用が、そのまま返済義務に変わっていく構図だったわけです。

この負担が、のちの借金人生の土台になってしまったわけですね。

1968年5月の協議離婚成立

こうして1968年5月、ようやく協議離婚が成立します。

クラブ「藤」の開店からわずか4か月後、婚約会見からは5年7か月後のことでした。

離婚後、島倉千代子さんは実家に戻ろうとしましたが門前払いされてしまいます。

行き場を失った島倉千代子さんは、自分だけの戸籍を新たに作って一人で生きていく道を選びました。

この時点で実弟の島倉征夫さんとの関係も悪化しており、以後約40年にわたって絶縁状態が続いたと報じられています。

一方の藤本勝巳さんは、ここから2年半後に佳代子夫人と再婚して新しい生活を始めました。

同じ別れを経て、二人の人生は正反対の方向へ分かれていったことになります。

結婚生活の期間は1963年12月から1968年5月までの約4年半でした。

日刊ゲンダイは6年後の協議離婚と記し、別の媒体は5年と書くなど、年数の表現には幅があります。

これは婚約からの年数と入籍からの年数が混在しているためと考えられます。

いずれにしても、藤本勝巳さんにとっては30代前半でのやり直しになりました。

離婚した1968年、島倉千代子さんは『愛のさざなみ』で第10回日本レコード大賞特別賞を受賞し、歌手として復活の足がかりをつかんでいます。

離婚後に島倉千代子が歩んだ道

離婚後の島倉千代子さんの人生も、簡単には語れないものでした。

1975年には失明の危機を救ってくれた眼科医・守屋義人さんに実印を預け、知らないうちに複数の保証人にされてしまいます。

守屋義人さんが不動産事業に失敗して蒸発したことで、島倉千代子さんは4億3000万円という負債を背負うことになりました。

利息を含めた借金は最終的に15億円を超えたとも、16億円に達したとも報じられています。

その過程で占術家の細木数子さんと出会い、一時はマネージメントを任せる関係にもなりました。

キャバレー回りや地方興行をこなしながら、島倉千代子さんは1990年に借金を完済しています。

1987年に発表した『人生いろいろ』は130万枚の大ヒットとなり、見事に再ブレイクを果たしました。

そして2013年11月8日、75歳で東京共済病院にて亡くなっています。

1977年から始まった返済人生は足かけ7年ほど続き、写真集の発売まで行うほどの覚悟で臨んでいます。

美空ひばりさんからは「実印は貸すな」と注意を受けたという話も残っていますよ。

どれほど裏切られても相手を悪く言わない姿勢は、生涯を通じて変わりませんでした。

亡くなる3日前に自宅で『からたちの小径』を録音したという逸話は、歌にすべてを捧げた人生の最後を象徴する話として語り継がれていますよ。

藤本勝巳の再婚と野球人生の総まとめ

  • 元阪神の藤本勝巳は1970年11月に佳代子夫人と再婚
  • 再婚相手の佳代子夫人は素性が公表されていない一般女性
  • 再婚の翌年1971年9月にスナックジャガーを開業した
  • 再婚後の子供の有無については一切公表情報が存在しない
  • 島倉千代子との間の3度の妊娠はいずれも中絶に終わった
  • 生まれなかった3人は忍と名付けられ墓碑に刻まれている
  • 藤本勝巳は1937年8月8日に和歌山県みなべ町で誕生
  • 1956年に投手として大阪タイガースに入団し打者へ転向
  • 1960年に22本塁打76打点で本塁打王と打点王の二冠
  • ベストナインは1959年と1961年の2度受賞している
  • 島倉千代子との婚約会見は1962年10月25日に開かれた
  • 結婚は1963年12月5日で媒酌は藤本定義監督夫妻だった
  • クラブ藤の失敗で6000万円の借金を抱え離婚に至った
  • 離婚は手切れ金8000万円を払い1968年5月に成立
  • 広島大学に在籍する藤本勝巳は同姓同名の別人物である

▶️他のアスリートの恋愛・結婚・再婚を知りたい|カテゴリー・記事一覧