外木場義郎の妻・宣子は登板日に寺へ|引退を決めた一言と娘2人

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外木場義郎さんの妻がどんな人物で、どのように夫を支えてきたのかを知りたくて、このページを開いた方は多いと思います。

結論から言うと、妻の名前は宣子さんで、夫の登板日になるたびにお寺へお参りしていた一般女性です。

そして1979年の現役引退も、妻のある一言が決め手になっていました。

娘2人は1973年と1976年に誕生し、現在は孫2人にも恵まれているそうです。

娘の一人は、共栄火災海上保険で中国支店長を務める坂倉誠さんと結婚しています。

この記事では南日本新聞の連載や中国新聞の報道といった公開情報だけをもとに、あなたが納得できる形で整理していきますね。

記事のポイント

①:妻の名前は宣子で登板日に寺へ参った

②:1979年の引退は妻の一言が決め手

③:娘は2人で1973年と1976年生まれ

④:娘の夫は共栄火災の支店長・坂倉誠

外木場義郎の妻・宣子の内助|夫婦で歩んだ15年

  • 妻・宣子について判明している情報
  • 登板日ごとに寺へ通った妻の祈願
  • 女房の力は大きかったという証言
  • 妻の一言で決めた1979年の引退
  • 右肩痛の3年間を支えた妻の存在
  • 馴れ初めと結婚時期の噂を検証

妻・宣子について判明している情報

 

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まずは、いちばん気になるところをはっきりさせておきますね。

結論から言うと、外木場義郎さんの妻は宣子さんという名前で、顔写真や経歴を公表していない一般女性です。

名前が世に出たのは、南日本新聞が組んだ連載「出水が生んだ剛腕 外木場義郎物語」の最終回でした。

ここでは公表されている範囲と伏せられている範囲の線引きを、あなた自身で判断できる形に整理していきます。

妻について分かっていることの一覧

下記の表は、新聞報道から確認できる妻・宣子さんの情報をまとめたものです。

項目 分かっていること 公表状況
名前 宣子 公表済み
顔写真 掲載された報道は確認できない 非公表
生年月日 明かされていない 非公表
出身地 明かされていない 非公表
職業 一般女性とみられる 非公表
結婚した時期 公表されていない 非公表
子供 娘2人(1973年・1976年誕生) 公表済み
孫 2人 公表済み
現在の住まい 広島市とみられる 夫の在住地のみ公表

名前だけが実名で出ていて、そのほかの個人情報はほぼ伏せられているという状態ですね。

プロ野球選手の配偶者といえば元アナウンサーや女優という例も目立ちますが、宣子さんはそうしたタイプではありません。

家庭から夫を支えることに徹した、昭和のプロ野球選手の妻らしい立ち位置だったと読み取れます。

一般女性として表に出てこなかった立場

外木場義郎さんが広島で投げていた1960年代から1970年代は、選手の家族が公の場に出る文化がほとんどありませんでした。

テレビ中継の主役はあくまでグラウンドで、選手の自宅や家族を取材する番組も今ほど多くはなかった時代です。

宣子さんの情報がほとんど残っていないのは、隠していたからではなく、そもそも配偶者を取材する習慣が薄かったからとも考えられます。

実際、外木場さん自身もインタビューで妻を語るときは「女房」という呼び方で通していて、具体的な素性には触れていません。

名前が出た南日本新聞の連載でも、宣子さんの行動と夫の感謝の言葉だけが紹介されるという形でした。

ここ、気になるポイントだと思うので、新しい情報が出てきたら今後もアップデートしていきますね。

夫・外木場義郎のプロフィール

妻の人物像を考えるうえで、夫である外木場義郎さんの輪郭も押さえておきましょう。

以下の表で、公式データとして残っている基本情報を整理してみます。

項目 内容
氏名 外木場義郎(そとこば よしろう)
生年月日 1945年6月1日
2026年10月11日現在の年齢 81歳
出身地 鹿児島県出水市
身長・体重 175cm・78kg
投打 右投右打
ポジション 投手
学歴 出水市立出水中学校・鹿児島県立出水高等学校
社会人野球 電電九州
プロ入り 1964年9月に広島カープへ入団
現役期間 1965年から1979年までの15年
通算成績 445試合131勝138敗3セーブ・防御率2.88
主な記録 完全試合1度を含むノーヒットノーラン3度
殿堂入り 2013年(競技者表彰エキスパート部門)
現在の住まい 広島市

旧薩摩郡東郷町、現在の薩摩川内市で5人きょうだいの3番目として生まれた人です。

父親がバス会社の事務職だったため家族で転勤を繰り返し、現在のさつま町にある盈進小学校で遊びのソフトボールを始めました。

その後に出水市へ移り、出水中学校で野球部監督の上垣侃さんに誘われて本格的に野球をスタートさせています。

妻の宣子さんは、こうして鹿児島から広島へ出てきた一人の投手の人生を、生活の側から支えた存在だったわけですね。

妻の情報が語られるようになった経緯

では、長く表に出てこなかった妻の名前が、なぜ近年になって活字になったのでしょうか。

きっかけは、外木場さんの野球人生を本人の証言で振り返る大型連載が複数組まれたことです。

中国新聞は「生きて・広島東洋カープ元投手 外木場義郎さん」という全17回の連載を公開し、その第16回のタイトルは「引退 妻の言葉でコーチ専念」でした。

南日本新聞も2026年1月から「出水が生んだ剛腕 外木場義郎物語」を全8回で掲載し、最終回で初めて妻の名前と娘2人の誕生年を紹介しています。

80代に入った本人が自分の野球人生を振り返る段階になって、ようやく家族の存在が語られ始めたという流れですね。

つまり妻に関する確かな情報源は、週刊誌の推測記事ではなく本人取材に基づく新聞連載だけという状況になっています。

登板日ごとに寺へ通った妻の祈願

宣子さんの人柄がもっともはっきり表れているのが、このエピソードです。

南日本新聞の連載によると、宣子さんは夫の登板日になるたびに、活躍を願ってお寺にお参りしていたといいます。

一度や二度の願掛けではなく、登板のたびに足を運んでいたという点がすごいところですよね。

ここでは、その参拝がどれほどの回数になったのかを登板記録から逆算して、宣子さんが積み重ねた時間の重さを確認していきます。

登板日のたびにお寺へ向かった妻

外木場さんの現役時代、広島の本拠地は広島市民球場でした。

先発投手の登板日は中3日から中4日というローテーションで回ってきますし、ビジターで遠征していれば妻は広島で結果を待つしかありません。

テレビ中継が全試合あるわけでもなく、ラジオか翌日の新聞で結果を知るという時代です。

自分では何もしてやれない代わりに、せめて無事に投げ切ってほしいと願ってお寺へ向かっていたのだと考えると、胸に迫るものがあります。

夫が完全試合を達成した1968年9月14日の大洋戦も、3度目のノーヒットノーランを決めた1972年4月29日の巨人戦も、宣子さんはお参りを済ませてから結果を待っていたことになりますね。

登板数から見える参拝の積み重ね

では、宣子さんは何度お寺へ通ったことになるのでしょうか。

以下の表で、外木場さんが各年にどれだけマウンドに上がったのかを整理してみます。

年度 登板試合数 先発試合数 そのシーズンの勝敗
1968年 45試合 40試合 21勝14敗
1969年 43試合 39試合 11勝20敗
1970年 39試合 30試合 13勝14敗
1971年 37試合 21試合 9勝12敗
1972年 41試合 29試合 11勝15敗
1973年 44試合 31試合 12勝19敗
1974年 46試合 38試合 18勝16敗
1975年 41試合 40試合 20勝13敗
通算15年 445試合 318試合 131勝138敗

通算445試合登板という数字は、そのまま宣子さんが夫の勝利を願った回数の目安になります。

1974年には46試合、1968年には45試合と年間40試合を超える登板が当たり前だったので、月に3回から4回はお寺へ通う生活だったと推測できます。

先発318試合という内訳を見ると、「今日は夫が投げる日」という緊張感を15年にわたって味わい続けたことになりますね。

数字で並べてみると、この願掛けがどれだけ地道な習慣だったのかが伝わってきます。

祈らずにはいられなかった練習量

宣子さんがお寺に通ったのは、夫の投げ方が体に負担をかけるものだと分かっていたからでもあるはずです。

広島入団当初、投手コーチの藤村隆男さんは体力づくりを重視し、投球練習が終わってからも野手の練習が終わるまでひたすら走らせていました。

1968年に監督となった根本陸夫さんのもとでは、1日600球という投げ込みを課されて先発に抜てきされています。

食事中の会話を禁じられる精神修行まであり、たくあんを丸のみしたという逸話まで残っているほどの環境でした。

こうした猛練習を知る立場の妻にとって、夫の肩が無事であることは何よりの願いだったはずです。

外木場さんが「長年やっていたら大なり小なり結果は出る」と語れたのは、こうした地道な努力を家庭が黙って支えたからでもありますよね。

願いが実った1975年の球団初優勝

宣子さんの祈願が報われたと言える年が、はっきりあります。

1975年、外木場さんは新監督のジョー・ルーツさんから41試合の登板と最低20勝を求められ、実際に20勝を挙げました。

最多勝と最多奪三振、さらに沢村栄治賞まで獲得し、広島に球団創立以来初のリーグ優勝をもたらしています。

優勝パレードには30万人以上が集まったと伝えられ、広島の街全体が沸いた一年でした。

阪急との日本シリーズでも第1戦と第4戦に先発し、どちらも延長13回を投げ切って引き分けに持ち込んでいます。

登板のたびにお寺へ通い続けた妻にとって、この年のマウンドはいちばん誇らしい光景だったのではないでしょうか。

女房の力は大きかったという証言

外木場さんは自分の野球人生を振り返るとき、妻への感謝をはっきり言葉にしています。

南日本新聞の連載最終回で語られたのが、「女房の力は大きく精神的にも支えになった」という一言でした。

派手な表現を使う人ではないからこそ、この短い言葉の重みが伝わってきますよね。

ここでは本人の発言をそのまま確認しながら、どんな場面で妻の支えを感じていたのかを読み解いていきます。

本人が語った妻への感謝の言葉

連載の最終回で、外木場さんは娘2人の誕生と妻の苦労をまとめてこう振り返っています。

下の子は右肩を痛めた頃に生まれたから、抱っこをあまりできていない。女房は大変だったと思う。女房の力は大きく精神的にも支えになった

自分の記録や栄誉ではなく、まず妻の苦労に触れているところがこの人らしい部分です。

右肩を痛めた時期と下の娘の誕生が重なったという告白は、夫婦にとっていちばん苦しい時期の話でもあります。

華やかな優勝の記憶より、家庭に負担をかけた記憶の方が強く残っているという語り口ですね。

女房は大変だったという言葉の背景

「女房は大変だった」という表現には、当時の生活がそのまま映り込んでいます。

プロ野球選手の家庭はシーズン中の遠征が長く、父親が家にいない時間が圧倒的に多い環境です。

外木場さんは1968年から1976年までの9シーズンで8度の二桁勝利を記録した主力投手ですから、オフ以外はほぼ野球に取られていました。

その間、宣子さんは広島で生まれたばかりの娘2人を育てていたことになります。

しかも夫は右肩の故障を抱えて東京や大阪、福岡の病院まで回っていた時期でもありました。

育児と夫の治療という二つの不安を同時に抱えた数年間を、宣子さんはほぼ一人で支えていたわけですね。

寡黙な剛腕が妻に向けた評価

外木場さんは、記者相手に強気な返しをすることで知られた人でもあります。

プロ初勝利をノーヒットノーランで飾った1965年10月2日、記者から「こういう記録を達成した人は意外と短命」と言われ、「何ならもう一回やりましょうか」と返した逸話は球界で語り草になりました。

その言葉どおり1968年に完全試合、1972年に3度目のノーヒットノーランを達成しているのですから、気性の強さは本物です。

そんな人物が妻について「力は大きい」と評したのですから、社交辞令ではないと受け取っていいでしょう。

マウンドで一歩も引かなかった剛腕を精神面から支えていたのが宣子さんだった、という図式が見えてきます。

殿堂入り会見でも家族に向いた視線

2013年1月、外木場さんは競技者表彰のエキスパート部門で野球殿堂入りを果たしました。

得票率76.3%にあたる29票を集めての選出で、広島の投手としては大野豊さんと同時の表彰でした。

このとき本人は「信じられない気持ちだった。感無量。ファンや同僚、関わったみんなのおかげでやってこられた」と語っています。

同年5月には出水市民栄誉賞の第1号にも選ばれ、地元からの評価も形になりました。

どの場面でも自分の手柄を強調せず、周囲への感謝を先に並べるのがこの人の話し方です。

その「関わったみんな」のいちばん近くに宣子さんがいたことは、言うまでもありませんよね。

妻の一言で決めた1979年の引退

1979年、外木場義郎さんは15年間着続けた広島のユニホームを脱ぎました。

この決断の決め手になったのが、「カープで終わるのもいいんじゃないか」という妻・宣子さんの言葉でした。

中国新聞の連載では第16回のタイトルが「引退 妻の言葉でコーチ専念」となっており、妻の一言が人生の転機だったことがはっきり示されています。

ここでは、他球団からの誘いを断ってまで広島に残った経緯を、信頼できる報道をもとに順番にたどっていきますね。

西武・根本陸夫からの現役続行の誘い

1979年のオフ、外木場さんに声をかけたのは当時西武ライオンズの監督だった根本陸夫さんです。

根本さんは1968年に広島の監督として外木場さんを先発の柱に抜てきした人物で、本人が「一番の恩師」と呼ぶ存在でした。

1967年オフにトレードの噂が出たとき、直接真意を問いに行った外木場さんに「来季も一軍でやってもらう」と言い切ったのもこの根本さんです。

本人は後年「あの人が監督として広島に来なかったら、自分はどうなっていたことか」とまで語っています。

その恩師からやれるだけやってみないかと声をかけられ、現役を続ける道が目の前に開けた瞬間でした。

肩が万全でなくとも、恩師のもとでもう少し投げたいという気持ちは当然あったわけですね。

カープで終わるのもいいという妻の言葉

迷う夫に対して、宣子さんが口にしたのが「カープで終わるのもいいんじゃないか」という一言でした。

この言葉で外木場さんは現役引退を決め、広島に残る道を選びます。

右肩は1976年に損傷しており、手術をしても打撃投手並みのボールしか投げられなくなると全国の医師から診断されていた状態でした。

医師たちの見立ては「投げすぎかな」「もう限界が来ているよね」と、どこへ行っても同じだったといいます。

体の状態をいちばん近くで見ていた妻だからこそ、ここで区切るという選択を示せたと考えられます。

結果としてこの判断は、15年間を広島一筋で過ごした投手というきれいな形を残すことになりました。

引退前後の流れを時系列で整理

下記の表は、右肩の故障から引退、そしてコーチ就任までの流れをまとめたものです。

時期 出来事 補足
1975年 20勝で球団初優勝に貢献 最多勝・最多奪三振・沢村賞
1976年開幕前 12球団トーナメントで右肩を損傷 霧雨の中での登板が原因
1976年 痛みを抱えながら10勝 25試合登板
1977年 6試合登板1勝2敗 防御率5.57
1978年 14試合登板1勝3敗 防御率5.87
1979年10月14日 最終登板 この年は1試合のみ
1979年オフ 根本陸夫から現役続行の誘い 当時は西武の監督
1979年オフ 妻の言葉を受けて引退を決断 現役15年目での決断
1980年 広島の二軍投手コーチに就任 背番号73

1976年の10勝から1977年の1勝へという落ち込みを見ると、肩の状態がどれほど深刻だったかが数字で分かります。

広島が初めて日本一に輝いた1979年にユニホームを脱いだという巡り合わせも、記憶に残る引き際でした。

本人は「故障で辞めることになったのは残念だった」と悔しさも口にしています。

引退の決断が開いた指導者としての道

妻の一言で現役にこだわらない道を選んだ結果、外木場さんは40年近い指導者人生を歩むことになりました。

1980年から1990年まで広島の二軍投手コーチを務め、1991年からは土井正三さんに請われてオリックス・ブルーウェーブへ移ります。

1994年から1995年はカープアカデミーのコーチ、1996年から1999年までは再び広島の二軍投手コーチでした。

一度も一軍のコーチは経験せず、一貫して若手を育てる現場に立ち続けたという経歴です。

選手より早くグラウンドへ行き「体調は」「故障していないか」と確認を心がけたというのは、自分が故障で引退した経験があるからですよね。

妻の言葉が、ひとりの剛腕を育成者に変えたと言ってもおかしくない展開でした。

右肩痛の3年間を支えた妻の存在

外木場さんの野球人生でいちばん苦しかった時期は、間違いなく1976年から1979年の3年間です。

この時期、妻の宣子さんは生まれたばかりの下の娘を抱えながら、病院を回る夫を見守っていたことになります。

ここでは、家庭に何が起きていたのかを当時の経緯から具体的に追いかけていきます。

派手な美談ではなく生活の記録として読めるよう、公開されている事実だけを並べていきますね。

12球団トーナメントで壊れた右肩

1976年、後楽園球場が人工芝になった記念としてシーズン開幕前に12球団トーナメント戦が開催されました。

外木場さんは気温の低い時期に投げられないと首脳陣に登板回避を訴えましたが、受け入れられませんでした。

そして霧雨の中で投球を続けた結果、右肩の肩板を損傷してしまいます。

前年に20勝を挙げて沢村賞まで取った投手が、公式戦でもない大会で肩を壊したという経緯は、今の感覚だと納得しづらい話ですよね。

それでも1976年はごまかしながら投げて10勝を挙げており、エースとしての責任感だけで乗り切っていた状態でした。

東京・大阪・福岡・広島の病院を回った日々

肩の痛みが引かないと分かってから、外木場さんは治療法を探して全国を回りました。

東京、大阪、福岡、広島と、いいと思う病院に片っ端から足を運んだと振り返っています。

ところが医師から返ってくる答えは、どこへ行っても「投げすぎかな」「もう限界が来ているよね」と同じでした。

手術という選択肢も検討しましたが、仮に踏み切っても打撃投手並みのボールしか投げられなくなると診断され、断念しています。

遠方への通院が続けば、家を空ける時間はさらに増えます。

夫が各地の病院を巡っていた間、宣子さんは幼い娘2人と留守を守り続けていたという構図ですね。

成績の落ち込みが物語る苦しさ

以下の表で、肩を痛めた前後の成績の変化を確認してみます。

年度 登板 勝敗 投球回 防御率
1975年 41試合 20勝13敗 287.0回 2.95
1976年 25試合 10勝5敗 144.1回 3.94
1977年 6試合 1勝2敗 21.1回 5.57
1978年 14試合 1勝3敗 23.1回 5.87
1979年 1試合 0勝0敗 1.0回 0.00

1975年の287回から1977年の21.1回へという急落は、肩の限界がそのまま数字になったものです。

前年まで年間300回近く投げていた投手が、わずか2年でここまで登板できなくなるのは残酷な話ですよね。

この時期の外木場さんは「もう少しプレーしたい気持ちはあったが、肩が言うことを聞かなかった」と語っています。

家庭では焦りや苛立ちも出たはずで、それを受け止めていたのが宣子さんだったと考えられます。

下の娘の誕生と重なった最悪のタイミング

肩を壊した1976年は、下の娘が生まれた年でもありました。

本人の言葉で言えば「下の子は右肩を痛めた頃に生まれたから、抱っこをあまりできていない」という時期です。

新しい命を迎える喜びと、投手としての将来が崩れる不安が同時に押し寄せた一年だったわけですね。

生まれたばかりの次女と幼い長女を抱えながら、夫の治療にも気を配る生活は想像以上に重かったはずです。

それでも宣子さんは、夫が自分で区切りをつけられるところまで待ち続けました。

そして3年の猶予を経て、最後に「カープで終わるのもいいんじゃないか」という言葉を手渡したことになります。

この順番を知ると、あの一言の意味がまったく違って見えてきますよね。

馴れ初めと結婚時期の噂を検証

ここまで読んで、二人がどこで出会ったのか気になった方もいると思います。

結論から言うと、馴れ初めや結婚した年月は公表されておらず、信頼できる情報は確認できません。

ネット上には断片的な記述も見かけますが、出どころのはっきりしない内容は切り分けておくべきですよね。

ここでは噂と事実を対比表で整理して、どこまでが確かな情報なのかをあなたが判断できる形にしていきます。

噂と確認できる事実の対比

下記の表は、妻に関して語られている内容と、報道で裏付けが取れる事実を並べたものです。

語られている内容 事実関係 確認できる情報源
妻の名前は宣子 事実 南日本新聞の連載最終回
登板日に寺へ参っていた 事実 南日本新聞の連載最終回
引退は妻の言葉が決め手 事実 中国新聞の連載第16回
結婚した年月が判明している 裏付けなし 公表報道は確認できない
馴れ初めが公開されている 裏付けなし 公表報道は確認できない
妻は芸能関係者だった 裏付けなし 一般女性とみられる
離婚や再婚があった 裏付けなし そうした報道は一切ない

見ていただくと分かるように、確定しているのは名前と行動、そして引退に関わる発言の3点だけです。

離婚や再婚といったネガティブな話は一切出ておらず、現在も夫婦で広島に暮らしているとみられます。

曖昧な情報に振り回されず、確かな部分だけを押さえておけば十分ですよね。

娘の誕生年から逆算できること

結婚の時期が非公表でも、娘の誕生年からある程度の推測はできます。

上の娘が生まれたのは1973年で、外木場さんはプロ9年目のシーズンを戦っていました。

1973年は44試合に登板して12勝19敗、249回を投げた年です。

一般的に第一子の誕生前には数年の結婚生活があるものですから、1960年代後半から1970年代前半に結婚した可能性が高いと考えられます。

ちょうど1968年に21勝を挙げて最優秀防御率を獲得し、一気にエースへ駆け上がった時期と重なるというわけですね。

ただしこれは誕生年からの推測にすぎないので、断定はできません。

妻の出身地や職業は非公表のまま

宣子さんの出身地についても、公表された情報はありません。

外木場さんは鹿児島県出水市で育ち、電電九州を経て1964年9月に広島へ入団しています。

このため鹿児島時代からの縁か、広島へ出てからの出会いかという二つの可能性が考えられますが、どちらも裏付けはありません。

職業についても語られておらず、専業で家庭を守っていたとみるのが自然な状況です。

選手の配偶者が取材対象になりにくかった時代背景もあり、情報が残っていないのは不思議ではありません。

確かな情報だけを拾う向き合い方

有名人の配偶者を調べると、推測が事実のように広がっているケースが本当に多いですよね。

外木場さんの場合も、同姓の別人物の情報や、他球団の投手の家族の話が混ざって語られる余地があります。

だからこそ本人取材に基づく新聞連載という情報源の価値が高いわけです。

南日本新聞の全8回の連載と中国新聞の全17回の連載、この二つが妻について語られた数少ない一次情報になります。

気になる人も多いはずなので、新しい情報が出てきたら更新していきますね。

外木場義郎の妻と娘2人|家族と現在の姿

  • 娘2人は1973年と1976年に誕生
  • 抱っこできなかった下の娘への思い
  • 娘の夫・坂倉誠は保険会社の支店長
  • 孫2人に恵まれた外木場家の現在
  • 広島市在住|育成塾での現在の指導
  • 通算131勝を支えた家族の15年

娘2人は1973年と1976年に誕生

 

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外木場さんと宣子さんの間には、娘が2人います。

南日本新聞の連載によると、娘2人が誕生したのは1973年と1976年でした。

どちらも外木場さんが広島のエースとして最前線にいた時期に生まれた子供たちですね。

ここでは家族構成を表で整理しながら、娘たちが生まれた年に父親が何をしていたのかを合わせて見ていきます。

外木場家の家族構成

以下の表で、公表されている範囲の家族構成を整理してみます。

続柄 人物 備考
本人 外木場義郎 1945年6月1日生まれ・81歳
妻 宣子 登板日ごとに寺へ参っていた
長女 名前は非公表 1973年誕生・53歳
次女 名前は非公表 1976年誕生・50歳
娘の夫 坂倉誠 共栄火災海上保険の中国支店長
孫 2人 性別や名前は非公表

娘2人の名前や顔写真は公表されておらず、一般人として生活しているとみられます。

年齢だけは誕生年から計算でき、上の娘が53歳、下の娘が50歳という計算になります。

3つ違いの姉妹で、どちらも広島で育った可能性が高いですね。

上の娘が生まれた1973年の外木場義郎

上の娘が誕生した1973年は、外木場さんがプロ入りして9年目の年でした。

この年は44試合に登板して31試合に先発、12勝19敗で防御率2.64という内容でした。

防御率2.64という数字は立派ですが、打線の援護に恵まれず負け星が先行したシーズンです。

前年の1972年4月29日には巨人戦で3度目のノーヒットノーランを達成しており、球界で名前がいちばん知られていた時期でもあります。

エースとして年間249回を投げながら、家庭では初めての子供を迎えたという忙しい一年だったわけですね。

この頃から宣子さんの生活は、夫の勝敗と育児の両方に神経を使うものへ変わっていきました。

下の娘が生まれた1976年の状況

下の娘が生まれた1976年は、夫婦にとって試練の年でした。

開幕前の12球団トーナメントで右肩の肩板を損傷し、投手人生の下り坂が始まった年と重なります。

外木場さんは痛みを抱えながら25試合に登板して10勝5敗を記録しましたが、投球回は144.1回まで減りました。

前年の287回から半分近くに落ち込んだわけですから、本人の焦りは相当なものだったはずです。

新しい命を迎えた喜びと、肩の限界が見えてきた不安が同じ年に訪れたという巡り合わせですね。

この年の記憶が、後年の「女房は大変だったと思う」という言葉につながっています。

孫2人を含めた家族の広がり

娘2人が成長して家庭を持ち、外木場さんは孫2人にも恵まれました。

南日本新聞の連載では「孫2人にも恵まれた」と紹介されており、家族が三世代になっていることが分かります。

孫の名前や年齢、性別については公表されていません。

野球を続けているのかどうかも明かされていませんが、祖父が殿堂入り投手という家庭ですから話題にはなりそうですよね。

宣子さんにとっては、登板日に祈願していた日々から孫を迎える日々へと、生活がすっかり変わったことになります。

家族の広がりについて、少しイメージが湧きやすくなれば嬉しいです。

抱っこできなかった下の娘への思い

外木場さんが家族について語るとき、必ず出てくるのが下の娘への後悔です。

「下の子は右肩を痛めた頃に生まれたから、抱っこをあまりできていない」という一言には、父親としての心残りがそのまま出ています。

栄光の記録を並べるより先にこの話が出てくるところが、この人の誠実さですよね。

ここでは、なぜそうした状況になったのかを当時の環境から具体的に見ていきます。

父親として残った心残り

1976年に生まれた下の娘は、父親がもっとも苦しんでいた時期の赤ちゃんでした。

外木場さんは肩の治療法を探して東京や大阪、福岡の病院を回り、家にいる時間がさらに削られていきます。

シーズン中は遠征があり、オフには治療のための移動が入るという生活です。

赤ちゃんを抱っこできる期間はあっという間に過ぎてしまいますから、気づいたときには時間が戻らないという状況だったはずです。

80代になった今もこの件を口にするということは、半世紀近く心に残り続けている後悔だと分かりますね。

1976年という年の過酷さ

当時の投手の酷使ぶりを数字で見ると、家庭に時間を割けなかった事情が見えてきます。

外木場さんは1968年に302.1回、1969年に304.1回、1974年に310.1回を投げています。

1974年には21完投、1968年には19完投を記録しており、先発したらほぼ投げ切るという役割でした。

1975年の日本シリーズでは第1戦と第4戦でそれぞれ延長13回を投げ切り、200球完投まで経験しています。

シーズン300回を投げる投手が家庭で過ごせる時間は、現代のプロ野球選手よりはるかに短かったわけですね。

それでも家庭が崩れずに回っていたのは、宣子さんが一人で回していたからという結論になります。

当時のプロ野球選手の家庭事情

1970年代のプロ野球は、家族のケアという考え方がまだ一般的ではありませんでした。

根本陸夫監督時代の広島は1日600球の投げ込みを課し、食事中の会話を禁じる精神修行まで取り入れていた球団です。

キャンプでは朝から砂浜を走らされるという猛練習が当たり前で、選手の体も生活も野球に捧げるのが常識でした。

そんな環境で父親業まで求められるのは、現実的に無理があったと言えますよね。

外木場さんの後悔は個人の怠慢ではなく、時代の構造によるものだったと受け取るのが公平でしょう。

だからこそ妻への「大変だったと思う」という言葉に実感がこもっています。

現在に続く家族への視線

引退後の外木場さんは、若手選手の体調管理を何より重視する指導者になりました。

選手より早くグラウンドに行き「体調は」「故障していないか」と確認を心がけていたのは有名な話です。

投げ込みの量も選手と話し合って決めていたといいますから、自分の経験を次の世代に生かした形ですね。

家庭に負担をかけた悔いが、選手の体を守る姿勢につながっていると見ることもできます。

現在は孫2人にも恵まれ、ようやく家族と穏やかな時間を過ごせる立場になりました。

抱っこできなかった時間を、孫との時間で埋め合わせているのかもしれませんね。

娘の夫・坂倉誠は保険会社の支店長

娘2人のうち一人の結婚相手については、名前と職業が報道で明らかになっています。

その人物が共栄火災海上保険の中国支店長を務める坂倉誠さんです。

中国新聞のインタビュー連載「こんにちは支店長です」に登場した際、見出しに「妻の父は元カープの外木場義郎さん」と記されていました。

ここでは義理の息子にあたる人物の情報を整理しながら、外木場家の現在のつながりを確認していきます。

坂倉誠という人物の基本情報

下記の表は、報道から確認できる坂倉誠さんの情報をまとめたものです。

項目 内容
氏名 坂倉誠
勤務先 共栄火災海上保険
役職 中国支店長
就任時期 4月に中国支店長へ就任
年代 報道時点で50代
統括範囲 中国5県10カ所の営業拠点
担当業務 自動車・旅行・労災事故などの保険販売
外木場義郎との関係 妻の父が外木場義郎

坂倉さんは個人や事業者向けに幅広い保険商品を扱う立場で、中国地方の営業網をまとめる責任者です。

中国5県にある10カ所の営業拠点を統括するという役職は、保険業界でも相当な重責になります。

就任時のコメントでは「地域に密着し、ニーズに合った商品を提供したい」と意気込みを語っていました。

共栄火災海上保険という会社の立ち位置

坂倉さんが勤める共栄火災海上保険は、損害保険を扱う全国規模の企業です。

自動車保険や旅行保険、労災事故に関する保険など、個人と法人の両方を顧客に持つ業態になります。

中国支店は広島を拠点に鳥取・島根・岡山・山口を含む5県をカバーしており、地域経済と密接に関わる組織です。

その支店長を任されるということは、長年の実績が認められた結果ですよね。

野球界とはまったく違う業界で結果を出している人物が、外木場家の娘婿になっているという構図です。

娘2人とも一般の家庭を築いているとみられ、芸能やスポーツの世界とは距離を置いた暮らしぶりがうかがえます。

妻の父は外木場義郎という見出しの意味

ここで注目したいのが、中国新聞が付けた見出しの付け方です。

企業の支店長を紹介する連載記事でありながら、見出しの冒頭に「妻の父は元カープの外木場義郎さん」と置かれていました。

これは広島という土地で外木場さんの名前がどれほど通っているかを示す、分かりやすい証拠です。

引退から40年以上たっても、広島では「カープのエース」として記憶され続けているわけですね。

坂倉さん本人も、義父の名前を隠さずインタビューで語っていることになります。

家族として誇りに思っている関係性が、見出しから伝わってきます。

義父としての外木場義郎

外木場さんが娘婿とどう接しているかについては、具体的な発言は公表されていません。

ただ、娘婿が取材で義父の名前を明かしているという事実から、良好な関係だと推測できます。

現役時代は記者に強気な返しをする気性の持ち主でしたが、引退後の指導者としての評判は温かいものでした。

川口和久さんのような若手を鍛え上げながらも、体調を気遣うことを忘れなかった人柄です。

家庭でも同じように、必要なことだけを静かに伝えるタイプの義父なのかもしれませんね。

妻の宣子さんが築いた家庭の雰囲気も、そこに大きく関わっているはずです。

孫2人に恵まれた外木場家の現在

現在の外木場家は、夫婦と娘2人、そして孫2人という三世代の家族です。

前述の通り、孫2人の名前や年齢は公表されていません。

公表されていない部分を無理に埋めず、分かっている事実から家族の姿を描いていきますね。

ここでは殿堂入りや地元からの表彰といった節目に、家族がどう関わってきたのかを整理します。

孫について分かっていること

孫の存在が語られたのは、南日本新聞の連載最終回です。

妻の宣子さんと娘2人の話に続けて「孫2人にも恵まれた」と紹介されていました。

人数が2人ということ以外、性別も年齢も名前も明かされていません。

娘2人が1973年と1976年生まれですから、孫たちはすでに成人している可能性が高いと考えられます。

一般家庭として静かに暮らしている家族の情報を、本人が必要以上に語らない姿勢も一貫していますね。

家族で迎えた2013年の野球殿堂入り

外木場家にとって最大の晴れ舞台は、2013年1月の野球殿堂入りでした。

競技者表彰のエキスパート部門で、得票率76.3%にあたる29票を集めての選出です。

完全試合1度を含むノーヒットノーラン3度という史上唯一の記録が、改めて評価された結果でした。

本人は「信じられない気持ちだった。感無量」と語り、周囲への感謝を繰り返しています。

登板日ごとにお寺へ通っていた宣子さんにとって、この表彰はどんな記録よりうれしい知らせだったのではないでしょうか。

引退から34年を経て、夫婦で積み上げてきた野球人生が公式に認められた瞬間だったわけですね。

出水市民栄誉賞第1号という地元の評価

殿堂入りと同じ2013年の5月、外木場さんは出水市民栄誉賞の第1号を受けました。

以下の表で、受賞歴を時系列に整理してみます。

年 表彰・タイトル 内容
1968年 最優秀防御率 防御率1.94
1975年 最多勝利・最多奪三振 20勝・193奪三振
1975年 沢村栄治賞 最優秀投手・ベストナインも受賞
1975年 日本シリーズ優秀選手賞 阪急との日本シリーズ
1975年5月 月間MVP 優勝シーズンの好投
2013年1月 野球殿堂入り 得票率76.3%・29票
2013年5月 出水市民栄誉賞 第1号としての受賞

受賞時には「私の野球人生は出水から始まり、いい指導者、仲間に恵まれた。感謝しかない」と述べています。

地元の第1号という位置づけは、鹿児島県出水市にとっても特別な意味を持つ表彰ですよね。

鹿児島と広島という二つの故郷

外木場さんの人生には、生まれ育った鹿児島と野球人生を過ごした広島という二つの土地があります。

現在の住まいは広島市で、現役時代からの生活の場をそのまま続けている形です。

家族も広島を拠点にしており、娘婿の坂倉誠さんが働く中国支店も広島が本拠になります。

一方で地元の出水市とのつながりも切れておらず、母校訪問や野球教室で足を運び続けています。

姶良市で開かれた野球教室には幼稚園児から中学3年まで214人が参加し、西村徳文さんら元プロ9人とともに指導にあたりました。

二つの故郷を行き来する生活を、家族が支えているという形ですね。

広島市在住|育成塾での現在の指導

2026年10月11日現在、外木場義郎さんは81歳になりました。

それでも広島県内のNPO法人ポラーノが運営する「外木場義郎バッテリー育成塾」で、月2回の指導を続けています。

妻の宣子さんと暮らしながら、今も野球の現場に立ち続けているというのがすごいところですよね。

ここでは現在の活動を具体的に整理して、どんな日々を送っているのかを確認していきます。

広島市での現在の暮らし

外木場さんの住まいは広島市で、公式のプロフィールにも広島市在住と記載されています。

1964年9月に広島へ入団してから60年以上、生活の拠点を変えずに過ごしてきたことになります。

現役15年、コーチとして広島で計15年、オリックスで3年、カープアカデミーで2年という経歴です。

その後も2000年から2005年まで中国放送の解説者を務め、広島のファンにとってはおなじみの声でした。

2015年から2023年まではNHKラジオ第一の「おはよう中国」でプロ野球情報を担当し、電話出演を続けていたほどです。

妻の宣子さんも、この広島での暮らしをずっと共にしてきたことになります。

外木場義郎バッテリー育成塾での指導

現在の活動の中心は、自分の名前を冠した育成塾です。

以下の表で、引退後の指導歴と現在の活動を整理してみます。

期間 所属・活動 役割
1980年から1990年 広島東洋カープ 二軍投手コーチ
1991年から1993年 オリックス・ブルーウェーブ 二軍投手コーチ
1994年から1995年 カープアカデミー コーチ
1996年から1999年 広島東洋カープ 二軍投手コーチ
2000年から2005年 中国放送 野球解説者
2006年から プロ育成野球専門学院 後進の指導
2015年から2023年 NHKラジオ第一 プロ野球情報を担当
現在 外木場義郎バッテリー育成塾 理事として月2回指導

育成塾では中学生の投手を中心に教えており、この活動を15年以上続けています。

本人は「子どもたちは希望を持って入ってくるので、期待に応えられるよう教えている。プロに行ける選手を育てたい」と語っていました。

80代に入ってなお月2回のペースで中学生に向き合うという情熱は、現役時代の継続は力なりという信念そのものですね。

母校・出水中学校への訪問

2025年12月、外木場さんは久しぶりに母校の出水中学校へ足を運びました。

巨人戦で無安打無得点を達成したときのグラブを手に、校舎前に立つ写真が報道されています。

この中学校は野球部監督の上垣侃さんに誘われ、野球を本格的に始めた原点の場所です。

最初は野手でしたが、強肩を買われて1年の終わり頃に投手へ転向し、このときカーブを覚えました。

グラウンドで白球を追った青春時代を振り返り「鹿児島から優秀なプロ野球選手が出てほしい。特に出水から出るのを見たいね」と語っています。

家族に見送られながら故郷へ向かう旅も、今の外木場さんの大切な時間になっているはずです。

野球は人生そのものという言葉

現在の外木場さんの心境を、いちばんよく表している言葉があります。

それが「野球は人生そのもの。体力が続く限りやりたい」という一言です。

大好きな野球に長く携われるとは思っていなかったとも語っていて、今の立場を素直に喜んでいる様子が伝わります。

現役時代は「継続は力なり」を胸に、日本一の投手を目指して努力を重ねた人でした。

そして「野球は自分の力だけでは勝てない。やはりチームワークだ」とも言い切っています。

この言葉のチームには、球場で戦った仲間だけでなく家庭を守った宣子さんも含まれているように思えますよね。

通算131勝を支えた家族の15年

最後に、宣子さんが支えた15年がどれほどの記録になったのかを数字で確認しておきます。

通算445試合で131勝138敗3セーブ、1678奪三振、防御率2.88というのが外木場義郎さんの到達点でした。

登板日ごとにお寺へ通った妻の祈願が、この数字の裏側にあると考えると見方が変わります。

ここでは記録の全体像と、引退後に受け継がれたものまで合わせて整理していきますね。

通算成績の全体像

下記の表は、現役15年間の主要な通算数字をまとめたものです。

項目 通算記録 補足
現役年数 15年 1965年から1979年
登板試合 445試合 先発318試合
勝敗 131勝138敗 勝率.487
完投・完封 118完投27完封 無四球試合11度
投球回 2419.1回 年間300回超が3度
奪三振 1678奪三振 1975年は193奪三振
防御率 2.88 1968年は1.94
オールスター 6回出場 1968年から1970年ほか

118完投という数字は、先発したら最後まで投げるのが当たり前だった時代を物語っています。

2419.1回という投球回は、現在のプロ野球ではまず到達できない水準の酷使でした。

その蓄積が右肩の故障につながり、30代半ばでの引退を招いたとも言えますよね。

史上唯一となった3度のノーヒットノーラン

外木場さんの名前が球史に刻まれた理由は、やはりこの記録です。

以下の表で、3度の無安打無得点試合を整理してみます。

達成日 対戦相手 内容
1965年10月2日 阪神タイガース プロ初勝利と同時の達成
1968年9月14日 大洋ホエールズ 史上10人目の完全試合・16奪三振
1972年4月29日 読売ジャイアンツ 史上2人目の3度目達成

1965年の初勝利は憧れの村山実さんと投げ合った甲子園での試合で、与えた四球はわずか1個でした。

1968年の完全試合では当時のリーグタイ記録となる16奪三振を記録し、この試合を球場で観戦していたのが後に広島の捕手となる達川光男さんです。

完全試合1度を含む3度のノーヒットノーランという組み合わせは、長いプロ野球史で外木場義郎さんただ一人という偉業ですね。

コーチとして育てた川口和久

宣子さんの言葉で選んだ指導者人生は、はっきりした成果を残しました。

その代表例が、広島と巨人で通算139勝を挙げた左腕の川口和久さんです。

入団時の川口さんは線が細く、本人が「地獄」と嘆くほど徹底的に鍛えられました。

外木場さんは「それがいずれ成功する。練習はうそをつかない。彼の活躍はうれしかった」と振り返っています。

オリックス時代にも若手を育て、一軍のコーチには一度も就かず二軍で選手を育て続けました。

自分の131勝に加えて、弟子の139勝まで球史に残したという見方もできますよね。

家族とともに歩んだ野球人生

外木場さんが野球人生でいちばんうれしかったのは、一軍での初勝利だったといいます。

その次がリーグ優勝、そして日本シリーズまで仲間と頑張れたことだと語っています。

記録ではなく、仲間と積み上げた時間を先に挙げるところがこの人らしい部分です。

そして家族については、妻の支えと娘2人の誕生、孫2人に恵まれたことを並べて語りました。

登板日のお寺参りから、引退を促した一言、そして孫を迎える現在までが一本の線でつながっています。

妻・宣子さんの存在を知ると、通算131勝という数字の見え方が変わってきますよね。

外木場義郎の妻と家族の総まとめ

  • 外木場義郎の妻は宣子で顔写真は非公表の一般女性である
  • 妻の宣子は夫の登板日のたびに寺で活躍を祈願していた
  • 妻の名前が判明したのは南日本新聞の全8回連載の最終回
  • 本人は女房の力は大きかったと妻への感謝を語っている
  • 1979年の現役引退は妻の一言が決め手となっている
  • 西武監督だった恩師の根本陸夫から現役続行を誘われた
  • 妻からカープで終わるのもいいんじゃないかと言われた
  • 中国新聞の連載第16回の表題は妻の言葉でコーチ専念
  • 娘は2人で1973年と1976年にそれぞれ誕生した
  • 下の娘は右肩を痛めた1976年に生まれた次女である
  • 抱っこをあまりできなかったと父親として悔いを語った
  • 娘の夫は共栄火災海上保険の中国支店長・坂倉誠である
  • 娘婿の坂倉誠は中国5県10カ所の営業拠点を統括する
  • 孫は2人に恵まれており名前や年齢は公表されていない
  • 現在は広島市在住で育成塾での指導を月2回続けている

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