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ルカ・モドリッチさんの親について、父親や母親がどんな人物なのか気になっている方は多いですよね。
モドリッチさんは1985年9月9日、クロアチアのザダルで生まれた世界的サッカー選手です。
幼少期にクロアチア紛争を経験し、わずか6歳で最愛の祖父を失うという壮絶な過去を持ちながらも、父スティペさんと母ラドイカさんの懸命なサポートのもとで、バロンドールを受賞するほどの世界最高のミッドフィールダーへと成長しています。
この記事では、父スティペさん・母ラドイカさんの素顔から、難民生活7年間での家族の絆まで、モドリッチさんの親にまつわる全情報を徹底解説します。
記事のポイント
①:父スティペはニット工場出身の空軍整備士
②:母ラドイカは難民生活を支えた精神的支柱
③:祖父ルカは1991年にセルビア兵に銃殺
④:親戚にオーストラリア代表MFヴィドゥカ
モドリッチの親・父スティペと母ラドイカの素顔
- 父親のスティペ・モドリッチの職業と人物像
- 母親のラドイカ・ドプッジュ|家族の精神的支柱
- 妹ディオラとジャスミナ|3人兄弟の絆と戦時下の生活
- 親戚マーク・ヴィドゥカとの意外な血縁関係
- 親の教えが育てたモドリッチの人格と信念
父親のスティペ・モドリッチの職業と人物像
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ルカ・モドリッチさんの父親・スティペ・モドリッチさんは、もともとクロアチアのニット製品工場で働く労働者でした。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | スティペ・モドリッチ |
| 職業(内戦前) | ニット工場の労働者 |
| 職業(内戦中〜後) | 空軍の整備士 |
| 家族構成 | 妻ラドイカ、息子ルカ、娘ディオラ・ジャスミナ |
ニット工場労働者からの転身
スティペさんは内戦が始まる以前、クロアチアにあるニット製品の生産工場で真面目に働いていた人物です。
当時のクロアチアは旧ユーゴスラビアの一部であり、スティペさんは普通の労働者として日々の生活を送っていたと伝えられています。
海外メディアの報道によると、スティペさんは職場での仕事に誠実に取り組むタイプの人物で、息子ルカさんの誠実さや粘り強さはこの父親譲りだと評されています。
ここ、モドリッチさんのルーツとして見ると、父親の働き者の姿勢がプレースタイルの原点になっている部分があるかもしれませんよね。
内戦勃発と空軍整備士への転職
1991年、クロアチアが旧ユーゴスラビアから独立を宣言すると、クロアチア紛争が勃発しました。
スティペさんはこの内戦を受けて、クロアチア空軍の整備士として勤務することになります。
戦時下において、整備士という仕事は軍の作戦を支える重要な役割を担うものです。
スティペさんが一家の生活を守りながら軍の仕事に従事していたことは、当時の状況がいかに過酷であったかを物語っています。
平和な日常から一転、戦時体制の中で懸命に家族を守ろうとした父親の姿が、ルカさんの精神力の基盤を築いたと考えられています。
息子ルカをずっと信じ続けた父の言葉
スティペさんがモドリッチさんに与えた影響として最もよく知られているのが、「ずっと息子を信じ続けた」という姿勢です。
モドリッチさんは後に「父はいつも”自分を信じ続けてくれた”」と何度も語っています。
小さな体格・難民生活という逆境の中でも、スティペさんは息子の才能を疑わず、サッカーに打ち込むことを応援し続けました。
フットボールの世界でよく言われる「才能だけでは世界最高にはなれない」という言葉がありますが、スティペさんのような親の存在こそが才能を開花させる鍵になると言っても過言ではないでしょう。
重心の低さを活かした急速な方向転換と柔軟なボールさばきは、プロ入り前から既に開花していたとされていますが、それを育んだ環境の根底には父親の「お前は特別だ」という確信があったと考えられます。
最初の給料で親への恩返し
モドリッチさんがプロサッカー選手として初めて給料を受け取った際、最初に行ったのが「両親への家のプレゼント」だったというエピソードは有名です。
難民生活を7年間続けた家族にとって、「自分たちの家」は単なる不動産以上の意味を持つものでした。
「その家が、新しい”故郷”になるように」という思いで購入したこのエピソードは、スティペさんが息子を信じ続けた日々への、これ以上ない形での恩返しだったと言えるでしょう。
この話を聞くと、スティペさんとルカさんの間にある深い絆が伝わってきますよね。
母親のラドイカ・ドプッジュ|家族の精神的支柱
モドリッチさんの母親・ラドイカ・ドプッジュさんは、「避難生活の精神的支柱」として海外メディアで何度も紹介されている人物です。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | ラドイカ・ドプッジュ |
| 旧姓 | ドプッジュ(Dopuđ) |
| 職業(内戦前) | ニット工場の労働者 |
| 役割 | 難民生活を支えた精神的支柱 |
父と同じくニット工場で働いていた
ラドイカさんは内戦が始まる以前、夫スティペさんと同じくニット工場で働く労働者でした。
クロアチアの一般的な家庭として、夫婦共働きで生計を立てていた当時の状況がうかがえます。
それが1991年の内戦勃発によって一変し、避難生活という過酷な状況に突入することになります。
工場での仕事を続けることが難しくなった状況で、ラドイカさんは家族の生活を守る役割に専念することになったとみられています。
避難生活の”支柱”として家族を守った
ラドイカさんが難民生活においていかに重要な存在であったかは、海外メディアの報道から伝わってきます。
夫が空軍整備士として勤務する中、ラドイカさんは子供たちの日常生活を守る役割を担いました。
難民シェルターとして使われていたホテル・コロヴァーレでの7年間、食事・教育・精神的サポートのすべてをラドイカさんが担っていたと伝えられています。
戦時下の避難生活では、物資の不足・安全の不安・先の見えない不安感が常につきまとっていました。
そんな状況の中でも家族がバラバラにならずに済んだのは、ラドイカさんの強さがあったからこそだと言われています。
モドリッチに与えた逆境を乗り越える力
「母の粘り強さがモドリッチの精神力の源」とは、複数の海外メディアが繰り返し伝えている言葉です。
戦争・難民生活・経済的困窮という三重苦の中でも、ラドイカさんは決して諦めない姿勢を子供たちに見せ続けました。
ルカさんが後にプロの世界で数々の困難を乗り越え、バロンドールを受賞するまでに成長できた背景には、この母親の生き様が刻み込まれていると考えられています。
「逆境に負けない」という精神は、ピッチの上でのモドリッチさんのプレースタイルにも色濃く反映されていますよね。
母子の絆を示す教育へのこだわり
難民生活の中でも、ラドイカさんは息子ルカさんの教育を怠りませんでした。
ホテルの反対側に住んでいた小学校の先生に難民シェルターへ来てもらうよう頼み、宿題を教えてもらえる環境を整えたのも、母親の配慮があったと伝えられています。
学業とサッカーの両立を支えたラドイカさんの姿勢は、「どんな状況でも子供の可能性を信じる」という親としての信念の表れだったと言えるでしょう。
この母親の「諦めない教育」がなければ、ルカさんが18歳でプロ契約を結ぶ基盤は生まれなかったかもしれません。
妹ディオラとジャスミナ|3人兄弟の絆と戦時下の生活
ルカ・モドリッチさんには、2人の妹がいます。
長女・ディオラ・モドリッチさんと次女・ジャスミナ・モドリッチさんで、モドリッチさんは3人兄弟の長男という立場です。
| 続柄 | 名前 | 備考 |
|---|---|---|
| 長男(本人) | ルカ・モドリッチ | MF、バロンドール2018受賞 |
| 長女(妹) | ディオラ・モドリッチ | 天性の優しさでルカを守り続けた |
| 次女(妹) | ジャスミナ・モドリッチ | スポーツに情熱を注いだ妹 |
長女ディオラ|”もう一人の母”として兄を守り続けた
長女のディオラさんは、ルカさんを「もう一人の母親」のように支え続けた存在として紹介されています。
戦時下の避難生活において、年齢の近い兄弟姉妹が互いに励まし合うことは子供の精神的安定に大きく影響します。
ディオラさんが持つ天性の優しさは、幼いルカさんにとって戦争の恐怖や不安を和らげる存在だったと伝えられています。
特に難民シェルターという見知らぬ環境でのストレスは、大人でも相当なものがあったはずです。
そんな中でディオラさんがルカさんのそばにいてくれたことは、後の強靱なメンタリティの形成に少なからず貢献していると考えられています。
次女ジャスミナ|最初のトレーニングパートナー
次女のジャスミナさんはスポーツへの情熱を持つ人物で、ルカさんの「最初のトレーニングパートナー」として紹介されることがあります。
難民キャンプのホテル駐車場でボールを蹴り始めた幼いルカさんのそばに、ジャスミナさんもいたとされています。
年齢が近い兄妹同士でスポーツを楽しんだ経験が、ルカさんのフットボールへの情熱に火をつけた可能性があります。
ジャスミナさん自身もスポーツに情熱を注いでいたため、兄のサッカーを否定するどころか積極的に関わろうとしていたとみられています。
戦時下での兄妹生活
3人兄妹が共に過ごした難民シェルターでの生活は、現代の日本人には想像しにくい過酷な環境でした。
ザダールの町はまだ紛争地域であり、薬きょうが降り注ぐことも珍しくなかったとされています。
学校ではサイレンが鳴るたびに机の下に潜り、鳴り終わると授業に戻るという日々が続きました。
それでも子供たちは次第にそんな状況にも慣れ、サイレンが鳴って隠れている時間に笑いながらおしゃべりをすることもあったと伝えられています。
兄妹3人が助け合い、親の愛情を受けながら生活したことが、後の人生の強さの礎になったと考えられています。
姉妹の支えがルカさんのサッカー界での成功につながっていったとも言われており、モドリッチ家の兄妹愛の深さが伝わってきますよね。
親戚マーク・ヴィドゥカとの意外な血縁関係
モドリッチさんには、意外な人物が親戚にいることが知られています。
それが、かつてオーストラリア代表のFWとして「重戦車ストライカー」と呼ばれたマーク・ヴィドゥカさんです。
マーク・ヴィドゥカとはどんな選手か
マーク・ヴィドゥカさんは、ミドルズブラやリーズ・ユナイテッドなどイングランドのクラブで活躍した元オーストラリア代表のストライカーです。
オーストラリア代表の歴史的なトップスコアラーとして長年活躍し、その強靱な体格と圧倒的な決定力から「重戦車」の愛称で親しまれていました。
2006年のドイツ・ワールドカップではオーストラリア代表の中心選手として活躍し、チームのグループリーグ突破に貢献した経歴も持っています。
オーストラリアで生まれ育ったヴィドゥカさんですが、その父親はクロアチア出身という背景を持っています。
小柄でテクニカルなモドリッチさんとは正反対の、フィジカルを前面に押し出したプレースタイルが印象的でした。
親戚関係の経緯|父ジョーのクロアチア移住
ヴィドゥカさんの父親・ジョーさんは、1960年代にクロアチアからオーストラリアへ移住した人物です。
このジョーさんが、モドリッチさんの父親スティペさんと従兄弟関係にあるとされています。
つまり、ルカ・モドリッチさんとマーク・ヴィドゥカさんは「ご両親同士が従兄弟」という遠い親戚関係にあることになります。
クロアチアに残ったスティペさん一家と、オーストラリアへ渡ったジョーさん一家は、それぞれが異なる環境で育ちながらも、同じ血を引く選手として世界の舞台で活躍したという事実があります。
ジョーさんが1960年代に移住を決断したことで、クロアチアとオーストラリアという全く異なる環境に育った2人の世界的フットボーラーが生まれた、とも言えるわけです。
2人が世界の舞台で示した同じ血の力
モドリッチさんが2018年のFIFAベストフットボールアウォーズを受賞した際に、この親戚関係が改めて大きく注目を集めました。
小柄なMFと重戦車ストライカーというあまりにも異なるプレースタイルの2人が、同じクロアチアの血を引くという事実はサッカーファンを驚かせました。
ヴィドゥカさんの父が移住を選び、モドリッチさんの父がクロアチアに残るという歴史の分岐点が、この2人の選手を生み出したとも言えます。
家族の選択が次世代の人生を大きく左右するという意味で、この親戚関係は非常に象徴的なエピソードだと言えるでしょう。
「クロアチアの血は世界どこにいても一流の選手を生む」という言葉がサッカー界では語られますが、この2人の活躍がその言葉を体現しているかもしれません。
親の教えが育てたモドリッチの人格と信念
ルカ・モドリッチさんが世界最高のミッドフィールダーへと成長した背景には、父スティペさんと母ラドイカさんが植えつけた価値観と信念があります。
父から受け継いだ努力と謙虚さ
スティペさんがモドリッチさんに伝えた価値観の中心は「努力と謙虚さ」です。
ニット工場で地道に働き、内戦時には空軍整備士として職責を果たした父親の姿は、「どんな状況でも誠実に努力する」というメッセージをルカさんに伝え続けていました。
モドリッチさんが40歳を超えてもエリートレベルでプレーを続けられる背景には、この「謙虚に努力し続ける姿勢」が根づいていると言われています。
スティペさんは決して「特別扱い」はせず、普通の父親として息子と向き合い続けたとも伝えられており、その普通さがモドリッチさんの地に足のついた人格を形成したとも言えます。
母から受け継いだ逆境を乗り越える力
母ラドイカさんが息子に刻んだ最大の教えは「逆境を乗り越える力」です。
7年間の難民生活という過酷な状況の中で、決して希望を失わなかった母親の姿は、ルカさんの精神的な軸を形成しました。
プロキャリアを通じて、モドリッチさんは体格の小ささ・偽証疑惑・クラブとのトラブルなど、数々の逆境に直面してきました。
それでも毎回立ち上がり、さらに強くなって戻ってきた背景には、難民生活を笑顔で乗り越えた母親の記憶があると考えられます。
「永遠に引きずりたくもないが、忘れたくもない」という言葉の意味
モドリッチさんは難民生活について「永遠に引きずりたくもないが、忘れたくもない」と語っています。
この言葉は、父親の努力・母親の強さ・祖父との別れという家族の歴史すべてへの敬意を込めた言葉だと理解できます。
過去を引きずらず、しかし忘れずに前に進むという姿勢は、まさに親から受け継いだ生き方そのものと言えるでしょう。
このような家族の歴史があったからこそ、モドリッチさんは「ピッチの上での平和の重みを訴える選手」として世界中から尊敬を集めているのだと思います。
モドリッチの親と家族が歩んだ戦争と難民生活の真実
- 祖父ルカ・モドリッチの存在と名前の由来
- 1991年の悲劇|祖父殺害がもたらした家族崩壊の危機
- 難民キャンプ7年間と親の献身
- 駐車場のサッカーと親が見守った才能の芽生え
- 親が与えた3つの力|努力・逆境・感謝の精神
- 世界最高のMFへ成長|今も続く家族との絆
祖父ルカ・モドリッチの存在と名前の由来
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ルカ・モドリッチさんに最も大きな影響を与えた人物の一人として、祖父のルカ・モドリッチさんを挙げなければなりません。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | ルカ・モドリッチ(孫と同名) |
| 出身 | ザタン・オブロヴァキ村(クロアチア) |
| 職業 | 道路管理の公務員 |
| 没年 | 1991年(セルビア系部隊に銃殺) |
| 孫との関係 | 名前の由来・最大の影響者 |
祖父は道路管理の公務員だった
祖父ルカさんは、クロアチアのザタン・オブロヴァキという村で道路管理の公務員として働いていました。
ヴェルビト山脈とダルメチア海岸に近い地域で、日々の仕事に従事していた普通の公務員だったとされています。
また、副業として羊や山羊の世話もしていたとされており、クロアチアの農村地帯ならではの生活様式が伝わってきます。
勤勉で真面目な人物だったと伝えられており、その誠実さは孫のルカさんにも引き継がれているとも言われています。
名前が受け継がれた深い意味
ルカ・モドリッチという名前は、祖父から受け継いだものです。
クロアチア文化では、祖父や父親の名前を次世代に受け継ぐ習慣があります。
モドリッチさんが「ルカ」という名前を持つのは、祖父への敬意と家族の絆を象徴する、深い意味を持つ命名だったわけです。
祖父が1991年に命を落とした後も、その名前はルカさんの中に生き続け、世界最高のプレーヤーとして名を刻む形で祖父の名前が世界中に広まることになりました。
「ルカ」という名前が世界中のサッカーファンに知られているという事実は、祖父への最大の贈り物とも言えるでしょう。
祖父がモドリッチに残したもの
モドリッチさんが小学3年生のとき、精神的に影響を与えた出来事について書くという授業がありました。
そこでモドリッチさんが選んだテーマは「祖父の死」でした。
6歳で祖父を失ったショックがいかに深いものであったか、この選択から伝わってきます。
祖父の存在は、モドリッチさんにとって単なる家族以上の「人生の指針」となる存在であり続けているとも考えられます。
世界的な成功を収めた今もなお、祖父への思いを語るモドリッチさんの言葉には、幼い日に刻まれた記憶の深さが滲み出ています。
1991年の悲劇|祖父殺害がもたらした家族崩壊の危機
1991年12月18日の朝、モドリッチさんの家族を一変させる悲劇が起きました。
この出来事は後に新聞記事にも記録され、国際司法裁判所でも事実が認定されています。
1991年12月18日の朝に何が起きたか
その日の午前9時頃、セルビア系部隊(オグロヴァッツ・チェトニック)がヴェルビト山脈に向かって行進していました。
行進する中で、羊や山羊の世話をしていた一人の男性と鉢合わせることになります。
その男性が、モドリッチさんの祖父・ルカ・モドリッチさんでした。
当時、モドリッチさんの祖父が暮らしていたヤセニッツェという町はセルビア軍に占領されており、一般市民が外を歩くだけで命の危険にさらされる状況でした。
セルビア部隊による銃殺の経緯
セルビア部隊の兵士たちは車を止め、祖父ルカさんに近づきました。
「誰だ貴様は!ここで何をしている?ここはセルビアの占領下だぞ!」と怒鳴り、突き飛ばしたとされています。
怯えた祖父が数歩歩み寄った瞬間、銃声が鳴り響き、祖父は崩れ落ちました。
セルビア部隊はその日だけで6人以上の老人の命を奪ったと記録されています。
この凄惨な事件は、後にクロアチアの新聞『サダルスキ・リスト』紙の記者イヴィカ・マリジャチッチさんが1995年の春に報じることで世に知られることになりました。
「真犯人は断罪されなかった」という現実
国際司法裁判所でもセルビア当局がこの犯罪に関与していたことが明らかにされましたが、それ以上の調査は行わないよう命令が下されたとされています。
祖父を撃った真犯人は結局、断罪されることなく国外へ逃げたとみられ、追跡もできなかったと伝えられています。
当時6歳だったモドリッチさんにとって、「愛する祖父が殺されたにもかかわらず、誰も罰せられない」という理不尽な現実を目の当たりにすることになったわけです。
モドリッチさんが後に平和への強い思いを語り続ける背景には、この幼少期の体験が深く刻まれていることは間違いありません。
6歳の少年に与えた心理的影響
祖父が殺された当時、モドリッチさんはまだ6歳でした。
片田舎で最愛の祖父と過ごす生活は突如として終わりを告げ、家族は難民として故郷を後にすることになります。
地雷に囲まれた家には戻ることができず、3世代にわたって守られてきた家が廃屋となって残されました。
廃屋の門にはクロアチア国旗が刺さり、「ありがとう。我らがキャプテン、ルカ」というメッセージが記されていると伝えられています。
この体験がモドリッチさんの人格形成に与えた影響は計り知れないものがあり、それが逆に「サッカーを通じて生きることの意味を見出す」という強さの源泉になったとも言えます。
難民キャンプ7年間と親の献身
祖父を失ったモドリッチ家は、ザダールの難民キャンプへと移り住むことになりました。
その場所が、現在4つ星ホテルとして知られるホテル・コロヴァーレです。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 施設名 | ホテル・コロヴァーレ |
| 所在地 | ザダール(クロアチア) |
| 当時の役割 | 難民シェルター |
| 滞在期間 | 7年間(モドリッチ家は最後の退去者) |
| 現在 | 4つ星リゾートホテル |
ホテル・コロヴァーレという難民シェルター
ホテル・コロヴァーレは、紛争中には難民シェルターとして使われていた施設です。
アドリア海を背後に望む絶好のロケーションを持つこのホテルには、帰る故郷を失った多くの家族が溢れていました。
モドリッチ家はここに7年間住み続け、最後の家族としてそのシェルターを出たとされています。
現在では高級リゾートとして知られるこの場所が、かつて戦争難民の避難場所だったという事実は、クロアチアの複雑な歴史を物語っています。
難民生活でも続けた家族の絆
7年間の避難生活の中でも、スティペさんとラドイカさんは子供たちを守るために全力を尽くしました。
食料・衣服・安全という基本的な生活を維持しながら、3人の子供たちの教育も途絶えさせなかったことが伝えられています。
ホテルの反対側に住む小学校の先生に来てもらい、宿題を教えてもらう環境を整えたのも、そうした親の献身の表れです。
子供が難民キャンプの中でも「普通の子供生活」に近いものを送れるよう尽力した両親の姿が、3人の子供たちの精神的な安定につながったと考えられます。
戦争と隣り合わせの日常
ザダールはまだ紛争地域であり、日常的に危険と隣り合わせの生活が続いていました。
薬きょうが絶え間なく降り注ぐ状況で、学校のサイレンが鳴るたびに机の下に潜り込む日々です。
それでも子供たちは次第にそんな状況にも慣れ、サイレンが鳴って隠れている時間に笑いながらおしゃべりをすることもあったと伝えられています。
子供の適応力と親の献身があったからこそ、あの過酷な状況を乗り越えることができたのだと思います。
最終的にモドリッチさんが18歳でプロ契約を結ぶまで、この難民生活は続きました。
駐車場のサッカーと親が見守った才能の芽生え
モドリッチさんがサッカーを覚えたのは、難民生活を送っていたホテル・コロヴァーレの駐車場です。
グラウンドでも公園でもない、コンクリートの駐車場というのが「小さな巨人」の原点という事実は、多くの人の心を打ちます。
コンクリートの駐車場で磨かれた技術
ホテル・コロヴァーレには広大な駐車場があり、若き日のモドリッチさんはそこでフットボールに打ち込んでいました。
コンクリートの上でボールを蹴ることは、技術的には芝生よりもはるかに高い精度を要求します。
バウンドが不規則で、バランスを崩しやすいコンクリート面でのプレーが、モドリッチさんの抜群のボールコントロールを鍛えたとも考えられています。
体育教師がモドリッチさんについて「たとえコンクリートのピッチでスライディングを仕掛けても、ケガ一つ負わないだろう」と豪語していたというエピソードも、この環境での鍛錬を示しています。
体育教師が衝撃を受けた少年の才能
モドリッチさんの才能を最初に見出したのは、学校の体育教師だったと伝えられています。
初めてモドリッチさんのプレーを見た体育教師は衝撃を受け、それから年上の選手に混ぜてプレーさせ、ゴールキーパーもやらせたとされています。
どんなポジション・どんな役割を与えても、ルカさんはずば抜けた存在感を発揮していました。
バスケットボールやハンドボールでも群を抜いており、後にクロアチア代表でゴールキーパーを務めたダニエル・スバシッチさんと2on2のバスケをしていたというエピソードも残っています。
ハイデュク・スプリトに断られた経験
才能が明らかだったにもかかわらず、モドリッチさんはクロアチアの名門クラブ・ハイデュク・スプリトへの入団を「小さすぎる」という理由で断られています。
しかしモドリッチさん本人も、周囲の人間も、体格のことは気にも留めなかったとされています。
重心の低さが急速な方向転換と柔軟な捻りを可能にするというモドリッチさんの特性は、この時期から既に開花していたわけです。
「大きさではなく質だ」という確信を親も共有しており、そのサポートがモドリッチさんの自信を守り続けました。
親が見守った才能の開花
難民生活というあらゆる意味で制約の多い状況の中で、スティペさんとラドイカさんは息子のサッカーへの情熱を応援し続けました。
ディナモ・ザグレブに入団した後も、午前3時に帰宅するような過酷な生活をモドリッチさんが送っていたのは、この頃の「諦めない精神」を親から受け継いでいたからとも言えます。
ガールフレンドが毎晩ステーキを用意して待っていたというエピソードとともに、家族の支えがあったからこそのキャリア構築だったことが伝わってきます。
駐車場という最も基本的な環境から世界最高へという物語は、親の支えなしには語れないものです。
親が与えた3つの力|努力・逆境・感謝の精神
ルカ・モドリッチさんが世界最高のMFとして認められる背景には、両親と祖父から受け継いだ3つの力があると言われています。
父から受け継いだ努力と謙虚さ
スティペさんがモドリッチさんに植えつけた最大の価値観は「努力と謙虚さ」です。
前述の通り、スティペさんはニット工場で地道に働き、内戦時には国のために整備士として職責を果たしました。
①ニット工場で地道に働いた姿
②内戦時には国のために整備士として職責を果たした姿
③息子を特別扱いせず、普通の父として接し続けた姿
これら3つの姿が、モドリッチさんの「謙虚に努力する」というプレースタイルの根底にあります。
40歳を超えてもACミランでエリートレベルのプレーを続けられるのは、この「地道な努力」の積み重ねの結果と言えるでしょう。
母から受け継いだ逆境を乗り越える力
前述の通り、ラドイカさんからモドリッチさんに伝わったのは「逆境を乗り越える精神力」です。
7年間の難民生活を笑顔で乗り越えたラドイカさんの姿は、ルカさんの精神的な軸を形成しました。
プロキャリアを通じて直面してきた数々の逆境——ローンでのボスニアリーグ、偽証疑惑、クラブとのトラブル——を乗り越えてきた強さの源泉は、母親の生き様にあります。
「才能に年齢は関係ない」と言われるモドリッチさんの粘り強さは、まさにラドイカさんから受け継いだものと考えられます。
祖父から受け継いだ感謝と生きる意味
祖父ルカさんの存在は、モドリッチさんに「生きることの意味と感謝」を教えました。
6歳で祖父を失い、難民生活を送り、数多くの困難を乗り越えてきた経験は、フットボールをプレーできること自体への感謝の気持ちを育みました。
「永遠に引きずりたくもないが、忘れたくもない」という言葉は、祖父への感謝と記憶を胸に前進するという誓いそのものです。
祖父の死という最も辛い記憶が、逆に「今日プレーできる喜び」を誰よりも深く感じさせる原動力になっているのかもしれません。
この3つの力——努力・逆境への強さ・感謝——こそが、難民生活を経た少年を世界最高のフットボーラーへと押し上げた真の原動力だと言えるでしょう。
世界最高のMFへ成長|今も続く家族との絆
難民生活から世界最高のフットボーラーへ——モドリッチさんの成長の物語は、まさに親との絆なしには語れないものです。
最初の給料で親に家をプレゼント
プロサッカー選手として手にした初めての給与で、モドリッチさんが最初に行ったのは「両親への家のプレゼント」でした。
廃屋となった生まれ故郷の家に戻ることができず、7年間難民生活を送った家族にとって、「自分たちの家」は何より大切なものでした。
「その家が、新しい”故郷”になるように」という思いで購入したというこのエピソードは、モドリッチさんと親の絆の深さを象徴しています。
息子がプロになることを信じ続けたスティペさんとラドイカさんへの、これ以上ない形での恩返しだったと言えます。
バロンドール受賞と家族への感謝
2018年、モドリッチさんはバロンドールを受賞しました。
これは21年間続いたメッシ・ロナウドの二強時代に終止符を打つ歴史的な出来事でした。
受賞スピーチや各種インタビューで、モドリッチさんは家族への感謝を繰り返し述べています。
難民シェルターの駐車場でボールを蹴り始めた少年が世界最高の賞を受け取る——その舞台裏には、父スティペさんと母ラドイカさんの無数の献身がありました。
ACミランへの移籍と新たな物語
レアル・マドリードを退団後、モドリッチさんはイタリアのACミランへ入団しました。
39歳(当時)での移籍は世界中を驚かせましたが、モドリッチさんは「才能に年齢は関係ない」ことを証明し続けています。
「ミランが大好きで、子供の頃からイタリアのサッカーに親しんできた」というモドリッチさんの言葉は、子供時代に難民シェルターのホテルで世界のサッカーを夢見ていた少年の面影を感じさせます。
ACミランとの契約延長が報じられる中、40歳を超えてもなおエリートレベルで活躍するモドリッチさんの姿は、「どんな逆境でも諦めない」という親から受け継いだ信念の体現そのものです。
今も続く家族との絆が、これからもモドリッチさんのフットボール人生を支え続けることでしょう。
モドリッチの親と家族|戦争を生き抜いた家族の総まとめ
- ルカ・モドリッチさんは1985年9月9日、クロアチア・ザダルで生まれた
- 父親はスティペ・モドリッチ、ニット工場から内戦後に空軍整備士へ転職
- 母親はラドイカ・ドプッジュ、難民生活7年間を支えた精神的支柱
- 妹はディオラとジャスミナの2人、モドリッチは3人兄弟の長男
- 祖父もルカ・モドリッチという同名で、孫の名前の由来となった
- 祖父は1991年12月18日、セルビア系部隊に銃殺された
- 当時6歳だったモドリッチさんは祖父の死がきっかけで難民生活を余儀なくされた
- ホテル・コロヴァーレという難民シェルターに7年間住み続けた
- サッカーはホテルの駐車場で覚えたストリートフットボールが出発点
- 親戚には元オーストラリア代表FWマーク・ヴィドゥカがいる
- ヴィドゥカの父ジョーは1960年代にクロアチアからオーストラリアへ移住したスティペの従兄弟
- プロ最初の給料で両親への家をプレゼントした逸話がある
- 2018年バロンドールを受賞し、21年間続いた二強時代を終わらせた
- レアル・マドリード退団後はACミランへ移籍し40歳超でも現役を続行中
- 父の努力・母の強さ・祖父の記憶がモドリッチの精神力と信念の源泉となっている
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